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1: 日本@名無史さん 2013/11/17(日) 16:21:54.57
日本の天皇というのは独特なもので、いわゆる万世一系ですが、長い歴史のあいだには、いつそのまま亡びても不思議はないほどの危機を何度も経験しています。
天皇の地位が力で奪えるものであったなら、藤原氏、源頼朝、北条泰時、織田信長、豊臣秀吉、その他日本史の上にあらわれた実力者たちが、いつでも天皇に代わることができたでしょう。しかし実際には二千年近くのあいだ一度もそんなことは起こらなかった。
これは日本の不思議であり、日本史の不思議です。ヨーロッパだったら王を倒した者はそのまま王になる。そのため近世のはじめまでは血腥い戦争の連続だった。
日本ではむしろ相争う権力者の両方が天皇をかつごうとする。
なぜか?
それを実際の歴史に即して考えてゆくのがこのスレのねらいです。








94: 日本@名無史さん 2013/11/23(土) 12:25:36.41
武家政治の時代は幕府が権力で朝廷が権威だから、天皇家としては政治に責任を持たなくていいし、ある意味では気楽な時代だ。ところが天皇の中には幕府から政治権力を奪おうとして無理をした人がいる。後鳥羽上皇と後醍醐天皇だ。
後鳥羽上皇は頼朝が幕府を開いて三代目の実朝で源氏が断絶したときに、これを機に執権の北条義時を討とうとして逆に敗れて隠岐島に流された。しかしこの後鳥羽以上にすさまじい権力欲を持った天皇が後醍醐天皇だな。これも幕府を討とうとして逆に笠置山で敗れ隠岐島に流される。
ところが後鳥羽院は隠岐島では和歌を詠んだり、のんびり風雅を楽しんでいたが、後醍醐天皇は、隠岐からさかんに綸旨を出して、諸国の武士に協力を要請した。
そしてやがて隠岐島を脱出し、尊氏が六波羅探題を倒すのに乗じて京都にもどり、建武の親政をはじめる。
ところがこの親政はむしろ武士の所領をとりあげてしまうので、不満を持った武士たちは尊氏をいただいて京都に攻めのぼる。後醍醐天皇は吉野に逃れ、南北朝の争乱がここからはじまるわけだが、その最中、亡くなるときに天皇はわざわざ自分の遺体を北面にして葬るように遺勅する。
天皇は南面して葬られるのが普通なのに、朕は京都の天をにらんで死ぬといって、片手に剣、片手に法華経を持って亡くなったというんだから、かなりはげしい意志の持主で、ちょっと日本人離れした怨念の人という感じがする。

95: 日本@名無史さん 2013/11/23(土) 15:28:12.63
当時は大覚寺統と持明院統が交互に天皇を出す時期で、皇太子になってもなかなか天皇になれず、即位したのが32歳、当時としては例がない。
その間に政治への関心が高まっていたんだろ。

101: 日本@名無史さん 2013/11/24(日) 12:40:27.25
>>95
大覚寺統と持明院統の対立は、たんなる天皇の対立ではなく、公家社会の対立でもあったからな。
大雑把にいうと、上級貴族は持明院統、下級貴族は大覚寺統を支持したようだ。
それについては「徒然草」におもしろい話が載っている。
あるとき、腰のまがった眉のまっ白な西大寺の静然上人が参内するのをみて、西園寺実衡が「なんと尊いお姿だろう」と感嘆したところ、側にいた日野資朝が「年をとっただけで尊いなら、老いさらばえたむく犬も尊いだろう」とうそぶいて、彼のもとにその犬をおくったという。
西園寺のような上級貴族と資朝のような下級貴族の伝統や先例に対する感覚のちがいをよくあらわしているエピソードだと思う。
資朝や俊基が目指したのは古臭い伝統の破壊、いまの言葉でいえば反体制運動だな。

107: 日本@名無史さん 2013/11/26(火) 10:46:22.43
>>101
大覚寺統と持明院統の争いは天皇家及び西園寺家と洞院家(洞院家は西園寺家の傍流)の争いが発端
下級貴族と上流貴族に分かれて対立していたわけではない
実際に南朝と北朝に兄弟が分かれて仕えた例も多数

96: 日本@名無史さん 2013/11/23(土) 17:44:47.71
父親が後宇多天皇だから、4代も間があって天皇になるわけだ。
その間相当な不満が鬱積していたこともあるだろうな。
政治好きの背後には、宋学の影響があると思われる。

97: 日本@名無史さん 2013/11/23(土) 20:04:30.25
宋学のなかには大義名分の思想があって、これは王道を尊び覇道を卑しむという考え方だ。
つまり、幕府を倒し、王政を復活させようという後醍醐天皇にとって、うってつけの思想だった。

98: 日本@名無史さん 2013/11/23(土) 20:27:20.72
しかし、どうなんだろ。
後醍醐天皇のやり方をみると、宋学という筋道の立った思想のほかに、密教的というか呪術的な影響がみられるよな。
吉野へ逃れたときに活躍する山伏とか、真言立川流などという邪教など、後醍醐天皇のまわりには、なにかドロドロしたものがあるように感じてならないんだが。

100: 日本@名無史さん 2013/11/24(日) 10:37:45.13
>>98
まあ、あのころの人の宗教生活は、天台・真言を信じながら、禅僧に近づき、同時に念仏を唱える。
天皇はすべての宗派に公平・平等であるべきだとされていたからな。
よくいえば八宗兼学、悪くいえば雑信仰だ。

103: 日本@名無史さん 2013/11/25(月) 13:31:23.45
後醍醐天皇の政治スローガンは、一口に王政復古、天皇親政といわれるけど、実際、建武中興でやったことは、土地をすべて天皇家のものにしようとするようなムチャクチャなことが多く、いったいどんな政治構想があったのか疑問だな。
もちろん、初期の段階で関所を廃止し経済活動を活発にしようとしたり、米の価格を抑制する政策を推し進めたりするんだけど。

105: 日本@名無史さん 2013/11/25(月) 18:45:24.37
>>103
初期の段階は、宇多・醍醐・村上天皇の延喜・天暦の治、いわゆる摂関政治以前の天皇制にもどそうという理想は持っていた。ただし、延喜・天暦の治を理想の時代とするのは後世の虚像だけどね。実際は平将門の乱があったり、非常に乱れていた。
後醍醐というおくり名はあきらかに醍醐天皇を意識している。しかし、ふつうおくり名は亡くなってからつけるんだが、後醍醐というのは生前からの自称だ。
そこに延喜・天暦を再現したいという情熱はうかがえるけど、現実はもはや古代天皇制に戻れるような時代ではない。後醍醐天皇はこういう歴史の現実が見えなかった。
建武中興の失敗の原因はこれにつきると思うな。

108: 日本@名無史さん 2013/11/26(火) 12:18:37.09
>>105
むかしあったある型を理想化して、それを再現するというかたちで革新のスローガンを掲げる。
これはひとつのパターンだね。
相手側の尊氏も鎌倉幕府初期の北条義時・泰時の時代を理想の政治体制とし、そこへもどすといっている。
明治維新だって、王政復古だからな。
意志を決定するときいつも不安で、一種の理想形をつくって、それのアナロジイで自分の意志を決める。
まったくの新しい原理じゃダメなんだな。
この傾向は政治ばかりではなく、仏教の場合も同じだな。
法然や親鸞、戦闘的な日蓮さえ「本文に曰く」といい、権威を過去の経典に求めている。
法華経や涅槃経にこう書いてある、といわないとみんなを納得させることができない。
独創じゃダメなんだ。
こういう本文主義は現在まで続いているよ。

112: 日本@名無史さん 2013/12/01(日) 10:59:43.49
>>108
本文主義の総元締のようなものは天皇制だろ。
その天皇制が最大の危機をむかえるのは、南北朝時代だと思う。
いつの時代でも、権力者はたとえ天皇の実質的な力を弱めてもつねになんらかの位置に据えていた。
秀吉にしても、家康にしても天皇を圧迫はしたけれど、権威の象徴と見做していたことに変りがなかったように思う。
ところが、尊氏がいちばん信頼もし、いわば足利家の番頭である高師直は
「天皇なんて所領ばかり取って無駄な存在だ、あんなものは木か金でこしらえておけばいい」といったという。
「太平記」の作者は「あさましきかぎり」と憤慨してるけど、もっと大胆不敵なヤツがでて来る。
美濃の守護土岐頼遠は、街頭で光厳上皇の行列に出あい、「院の車ぞ。下馬せよ」と注意されると、「なに、インの行列、イヌの行列だと」といって、上皇の車をかこんで矢を射かけたという。
古い権威なんぞ屁とも思っていない新しい人種が、この時代に登場したということだろうな。

113: 日本@名無史さん 2013/12/01(日) 11:45:21.31
天皇制否定にまで行きつかざるを得ないものを思想として持っていたのが、後醍醐天皇の臣、資朝だ。
なにしろ伝統や先例の権威を否定し、これを嘲笑する反体制の思想家だからな。
しかしそれにもかかわらず、天皇制が存続したのはなぜかといえば、まあ、簡単にいえば尊氏が廃止しなかったからだよ。
古い権威を一顧だにもしなかった高師直や土岐頼遠が出て来たが、その反面、地方の武士の間には綸旨や令旨がたいへんな権威をもって通用したこともこのころの現実だよ。
だからこそ、尊氏にしても新田義貞にしても、兵を挙げようとしたものはすべて大塔宮の令旨をもらった。
そうしないと、兵を動かせないんだ。
とくに尊氏はその効用についてよく知っていたので、いったん敗れて九州へ逃げるときでも、ちゃんと光厳上皇から院宣をもらうことを忘れなかった。
だいたい、この時代の大多数の武士の考えは保守的で、本当に革命を考えていたとは思えない。

114: 日本@名無史さん 2013/12/01(日) 13:17:35.60
武士の側自体に貴種崇拝の思想があるからね。
力や才覚があるから尊敬されるのではなく、家柄が良いということで重んじられる。
源氏や平氏が地方に下って武家の棟梁になれたのも、貴種崇拝の考えがあったればこそでしょ。
足利氏も一流の源氏出身だから天下に覇を唱えることができた。

115: 日本@名無史さん 2013/12/01(日) 20:48:09.71
源氏も平氏もとどのつまりは、天皇の血筋につながる。
貴種崇拝は天皇制思想だともいえるな。

118: 日本@名無史さん 2013/12/02(月) 11:01:44.36
後醍醐天皇の頭の中には、はじめは宋学の大義名分論があったけれど、新政開始後は現実の問題処理に追われて、イデオロギーがどうのとはいってられなくなった。
南朝についた武士も北朝についた武士も、最大の関心は自分の所領を一寸でも伸ばすことだ。そのために鎌倉幕府を倒したわけだからな。なにも後醍醐天皇の大義名分論に共鳴したわけじゃない。天皇に現実が見えないというのはそのことなんで、そこに天皇の悲劇がある。
だから、戦いが終われば、当然、恩賞を要求する。ところが後醍醐天皇の恩賞の与え方は、武士の本当の欲求にさっぱり応えなかった。せっかく、記録所や雑訴決断所などの新政を運営する役所もつくったのに、そこに働く人材もいなかったし。
なんだかないないづくしみたいだが、それが天皇親政の実体なんだよな。

119: 日本@名無史さん 2013/12/02(月) 19:49:24.66
明徳3年(1392)、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に神器を返し、この結果、およそ60年にわたって対立していた南朝と北朝は合体する。
めでたし、めでたし。

126: 日本@名無史さん 2013/12/05(木) 16:50:28.11
>>119
こんとき統一されたって
教科書ではめでたしめでたしになってるけど、残った旧南朝系はそのままどうなってったの?
一部はそのまま後南朝たててきえてしまったけど、統合した人たちもその後は二度と系統的に表舞台にですに終わってるから消えちゃったの?
忘れた頃にしんせき降下させられて仏門おくりになったん?

125: 日本@名無史さん 2013/12/05(木) 13:56:42.88
>>119
朝廷の中も、いろいろ割れていたし、後小松天皇の立場も微妙だった。
事実、奥吉野には南朝が残るし、その影響はずっと後の応仁の乱(1467~77)まで尾を引き、小倉宮が南朝の後胤だと称して動きまわる。
終戦後になっても熊沢天皇なんていうのも出たしw

121: 日本@名無史さん 2013/12/03(火) 23:54:10.54
南北朝合体を実現させたのは、もちろん義満の力だろうけど、こう抗争が長びくと情勢も大いに変わってきたよな。
楠木正儀は北朝側に走るし、南北両朝とも内部対立がはじまった。

122: 日本@名無史さん 2013/12/05(木) 06:37:09.98
>>121
一世代でおわらんかったもんだから子の代でみてるとたすき掛けおきてるんだよね
北朝なのに南朝にはしってしまったり
それぞれの内輪揉めから南朝から北朝にいっちゃったとかが内情かな?

127: 日本@名無史さん 2013/12/05(木) 19:02:59.09
義満は後小松のお父さんの後円融天皇と同じ年だな。
そうすると、二人の関係は、もちろん天皇と臣下だけども、感情の上では親子のような気持ちだったかもしれん。だから、義満は自分は天皇の上位という意識がでて来て、出家した後はまるで法皇のようにふるまっている。
たとえば北山殿の行幸の場でも、ふつう法皇がすわる上座にすわって、列席の貴族をおどろかしている。なくなってからは、太政天皇(譲位した天皇のこと)という号を朝廷からおくられ鹿苑天皇とよばれている。それに、孫の義嗣の元服は親王のそれに准じて内裏で行った。
このとき義満の正室日野康子は准母(天皇の母がわり)の称号を受け、もうこうなると、義満は天皇とちっとも変らない。後小松天皇としても、それを横目でみて内心、面白くなかったろうな。
もっとも、そんなことはおくびにも出さなかったろうけど。

128: 日本@名無史さん 2013/12/05(木) 22:32:59.64
>>127
足利義満と後円融天皇は同い年の従兄弟。
足利義満の母紀良子は後円融天皇の母紀仲子(広橋兼綱の養女になったので広橋仲子とも)の異母姉だ。
このように義満と後円融天皇は血縁が近いだけではなく、たびたび後円融天皇は義満の皇位簒奪に脅えていた。
次第に妄想も激しくなり、後円融天皇は後小松天皇の母である三条厳子を足利義満と密通したと疑って怒りのあまり刀の鞘で殴打、驚いた厳子は里へ逃げ帰ったという実話まである。
鞘殴打事件は後小松天皇が生まれた6年後のことだが、足利義満は後小松天皇母との密通を疑われたことまであるという点で後小松天皇とも浅からぬ関係がある(後円融天皇の妄想が事実でかつもっと早い時期から密通があったとしたら義満は後小松天皇の実父の可能性もなきにしもあらず…)。

129: 日本@名無史さん 2013/12/06(金) 00:09:04.60
義満の行動パターンをみていると、武士であると同時に、公家化して行く、この二つの行動様式を巧みに一身に兼ね備えている。武家の棟梁でありながら、公家の伝統に結びつくことに、一種の活路を見出すという感覚があったようだ。
小さいとき、父の義詮をなくし、わずか10歳で将軍になって以来、複雑きわまりない権力争いにまきこまれながら、そういう感覚を身につけたんだろうな。
同じ3代将軍でも家光よりはるかに条件が悪い。

131: 日本@名無史さん 2013/12/06(金) 11:47:16.03
義満以後の将軍は義満の中の武士の部分と公家の部分を分業するような形で受け継いでいく。
つまり、非常に武士的に振舞おうとする将軍と、すっかり貴族化した将軍という具合にハッキリ二つのタイプに分けられる。
たとえば、義満の息子・義持は関東武士的な性格を濃く残している。
偏見から世阿弥を迫害したり、対外貿易をやめたり、なんだか親父がやったことにいちいち反対する。
朝廷から義満に太政天皇の号を贈られると辞退しちゃう。
古い武家の棟梁といったおもむきがある。
義満に可愛がられた義嗣が長生きしていれば、教養の点でも趣味の点でも、義満の持っていた公家的側面を引きつぐはずだったと思う。
そのつぎの義教は武断派だね。
あまり、守護大名に強権を振ったせいで、赤松満祐に暗殺されてしまう。
その後の義政は徹底して公家化して行く。その両方の原型が義満の中にあるわけで、公武合体を一身に体現していた義満だが、
その政策もまた、公と武のバランスが巧みにとれていると思う。
政治の実の部分もうまい人だが、虚の部分というか、情報戦略が大へんわかった人のような気がする。
北小路室町に花の御所をつくったり、そのあと丹後の天橋立や厳島に豪奢な行列をつくって遊覧の旅をする。
それが文化育成にもつながった。
たんに文化育成ではなく、政治に利用することも計算に入れている。

133: 日本@名無史さん 2013/12/06(金) 13:55:36.15
安土桃山時代には、伝統的権威の頂点に立った人が3人いると思う。
まず、足利15代将軍義昭、これはおちぶれたとはいえ室町幕府の総帥だ。
つづいて本願寺の教主顕如、これは蓮如以来、大政治集団となった浄土真宗の指揮者で全国の一向一揆の精神的支柱だ。
つづいて、正親町天皇。
以上3人だが、戦乱の時代が過ぎてそのうち誰が生き残ったかというと、正親町天皇なんだよな。
あとの2人は信長と争って結局ほろびてしまう。
正親町天皇は実力の世界に一切タッチしないで、純粋に非政治的な立場を通したから生き残ったんだろうな。

141: 日本@名無史さん 2013/12/06(金) 19:50:38.79
力の強い順、あるいは金のある順でいったら、顕如、義昭、正親町天皇の順になるだろうな。
信長からのやられ方もこの順にひどいな。
顕如をリーダーと仰ぐ本願寺門徒は数万人焼き殺されたというし、本拠である石山本願寺は海上封鎖されて兵糧攻めにあって落城した。力に抗するに力をもってした悲劇だな。
義昭の方は最初は信長のお蔭で将軍になったが、たんなる精神的権威としての立場がつらぬけず、妙な政治的画策をして、信長を裏切ったので、結局追放されてしまう。義昭は見通しの悪さで亡びたという印象だ。
正親町天皇となるとこれはもう、自分を信長に利用させるだけで、それで安泰だった。
何しろ正親町天皇は貧窮して、践祚してからもお金がないために3年ほど即位できなかったからな。
御所の塀がくずれたまま直せないので、三条の橋の上から中の灯りが見えたというほどの暮らしをしていたのだが、自分の利用価値を正しく認識していたので、あわてずさわがず、戦乱の世に処したのが成功したわけだ。
さすがに権威の総元締めはかしこい。
義昭や顕如にはまだまだ伝統の知恵が足りなかったな。
しかし信長という人も偉い人だったね。
当時天下を取るにはいくつかの方法があったと思う。
一つは北条早雲のように、関東に武家政権をうちたてて鎌倉幕府を踏襲しようとするもの。
もう一つは、まず自分の領国を固め、生産を高め、武力を蓄えた上で次々に隣国を攻めていくやり方。
いろんな天下争奪のプランがある中で、最初から京都に目を向けていた信長が結局は天下をとった。
これは偶然じゃないと思う。

149: 日本@名無史さん 2013/12/12(木) 11:47:18.14
>>141
正親町天皇が貧窮したのは、足利幕府の力が弱まったので、幕府の武力で守られているはずの朝廷に、各地の御料地からの上りが、大名に横領されてこなくなったからだよ。
だから、当時は幕府再興をうたう大名が入洛するのを朝廷も歓迎した。
大名の側としても、そういう大義名分のもとに自分の武力を京にしめすことの有利さを知っていた。これはみんな同じで、武田にしても上杉にしても、最終的には、そこに眼をつけていた。しかし結果的に信長が成功したということだ。
戦国大名は武力さえあれば天下を取れたというのはウソで、将軍家とか天皇家とかの伝統的権威を復興させるという、大義名分がなければ一般の武士が納得しなかった。

159: 日本@名無史さん 2013/12/22(日) 20:51:00.03
>>149
関白とか征夷大将軍とかいう位も、結局、天皇につながっているから権威になる。
この時代、正親町天皇にしろ後陽成天皇にしろ、生身の天皇は蔭の人だったからな。
ところが、この天皇が賜わる位をめぐって、政権の交替がつぎつぎとおこなわれた。
天皇というものの面白さがそこにある。

160: 日本@名無史さん 2013/12/24(火) 22:11:36.17
豊臣秀吉は後陽成天皇を(少なくとも表面上は)尊重していましたが、関白政庁として御所を遥かに凌ぐ豪華絢爛な聚楽第を御所の近所に建てました
この辺の精神的、権勢的駆け引きはどういうものなんでしょうかね?

164: 日本@名無史さん 2013/12/26(木) 00:05:04.64
豊臣秀吉の治世になっていきなり公家や太政官の数が飛躍的に増えたわけじゃないですよね
豪華絢爛な関白政庁の聚楽第に出仕する公家、太政官はそれまで何処にいた人ですか?
新しい関白政庁の聚楽第ができたことによって、取り壊された古い政庁があったわけですか?

173: 日本@名無史さん 2014/01/01(水) 09:44:16.04
江戸時代に入ると、鎖国して政治の中心も京都を離れるわけだが、それだからかどうかは知らんが、徳川幕府の政治は陰険になるな。
さりげなく規則をつくっておいて、その規則に相手がはまって自滅するのを待つ。
真正面から力ずくで相手を倒す、あるいは失脚させる攻撃型ではなく、相手のミスを誘い、有無をいわせないところでぎりぎり締めつける。
後水尾天皇が憤慨のあまり、一時は退位を考えたという紫衣事件なんかその典型だろうな。

175: 日本@名無史さん 2014/01/01(水) 10:56:50.83
>>173
後水尾天皇擁立を実現したのは他ならぬ家康なんだよな。

178: 日本@名無史さん 2014/01/02(木) 16:24:07.27
>>173
禁中並公家諸法度17カ条で、天皇と公家たちをがんじがらめにしばり、これで、朝廷は幕府に絶対抵抗できないようにされてしまった。それとは別に後水尾天皇がやめた直接の原因は、春日局謁見事件だろ。
まあ、それにしても退位して上皇になって仙洞御所でじつに文化的で自由な生活を楽しんだようだからいんじゃね。

179: 日本@名無史さん 2014/01/02(木) 16:43:07.72
>>178
むしろ、近年の説だとむしろ紫衣事件がきっかけで統制が強化された訳で、家康存命中はまだ豊臣対策で手が回らなかった。

引用元: ・天皇の日本史



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