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1: 日本@名無史さん 2006/01/17(火) 22:41:05
徳川幕府第12代将軍について大いに語り合いましょう。






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徳川 家慶
(とくがわ いえよし)は、江戸幕府の第12代征夷大将軍(在職:1837年 - 1853年)。

天保8年(1837年)に45歳で将軍職を譲られたが、家斉が大御所として強大な発言権を保持していた。天保12年(1841年)、 家斉の死後、家慶は四男・家定を将軍継嗣に決定した。また老中首座の水野忠邦を重用し、家斉派を粛清して天保の改革を行わせた。また家慶政権期には言論統制も行なわれ、高野長英や渡辺崋山などの開明的な蘭学者を弾圧した(蛮社の獄)。

嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカのマシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ(黒船来航)、幕閣がその対策に追われる中、6月22日に薨去。享年61。




2: 日本@名無史さん 2006/01/17(火) 23:00:40
ペリーが来航したとき彼が健康だったら幕府があれほどあっさり滅びることはなかっただろう

8: 日本@名無史さん 2006/01/22(日) 00:04:51
改革を水野越前守に委任したのに上地令で孤立した水野を守ってやれなかった男。後任の阿部伊勢守は家慶のそんな性格を知っていたからあまり大胆な改革を短兵急にすすめられなかった

9: 日本@名無史さん 2006/01/22(日) 00:23:32
大人しくて真面目な人って印象だが、女好きなのは父親譲りだな。

17: 日本@名無史さん 2006/02/11(土) 17:38:16
家慶は老中首座の阿部備中守を大老にして全権を委託すべきであった

20: 日本@名無史さん 2006/03/05(日) 09:03:48
徳川慶喜(後の15代将軍)を見いだし、一橋家に入れて実の息子より可愛がった。

22: 日本@名無史さん 2006/03/05(日) 19:37:19
>>20
なにせ実の息子がアレだったから

27: 日本@名無史さん 2006/05/05(金) 01:58:12
つくってもつくっても死んじまう
んでのこったのがよりによって家定かよ。

29: 日本@名無史さん 2006/05/05(金) 06:05:45
>>27
一説には大奥の化粧の白粉に鉛が入ってて中毒で子供は虚弱体質に。
同じ時期の水戸家では14人くらい産まれてかなり成人してる筈

32: 日本@名無史さん 2006/05/08(月) 21:30:07
男子でもう一人成長した慶昌のほうが家定よりはるかにマシだったようだが、13歳で死んじゃった。

39: 日本@名無史さん 2006/07/01(土) 15:58:48
つーか、家斉の息子の中でマシなのは松平斉民(15男、家斉の息子には珍しく誠実で、津山藩主を経て明治維新後に徳川家達の後見人となり徳川家の様々な事を決済した)とギリギリ許せて蜂須賀斉裕(徳島藩主)くらい。

あとはほぼヘタレ。

41: 日本@名無史さん 2006/07/02(日) 00:59:50
確か参勤交代の途中に尾張領内で切り捨て御免をやって尾張徳川家から怒られちゃった殿様も家斉の息子だったような。

松平 斉宣(まつだいら なりこと)は、播磨明石藩第8代藩主。

斉宣が参勤交代で尾張藩領(当時の藩主は斉宣の異母兄にあたる斉荘)を通過中、3歳の幼児が行列を横切った。斉宣の家臣たちはこの幼児を捕らえて宿泊先の本陣へ連行した。村民たちは斉宣の許へ押し寄せて助命を乞うたが許されずこの幼児は処刑された。この処置に激怒した尾張藩は、御三家筆頭の面子にかけて今後は明石藩主の尾張領内通行を認めないと通告するに至った。このため以降明石藩は尾張領内においては行列を立てず、藩士たちは脇差し一本のみ帯び、農民や町人に変装して通行したという。

上記は同時代の肥前平戸藩主・松浦静山が随筆『甲子夜話』で記すところによるものだが、尾張、明石両藩、街道沿いの地域の歴史記録や公文書でこの事件に関するものが現在に至るまで発見されていないことに注意が必要である。


42: 日本@名無史さん 2006/07/02(日) 20:32:25
>>41 
しかもその時の尾張藩主も家斉の子供だったような

48: 日本@名無史さん 2006/10/26(木) 10:26:40
>>42
切り捨てを詰問されたときに俺は将軍の子だと居直ったら、尾張家家臣に尾張殿は兄上で母の身分も上で格が違うといわれ大恥かいたとか。

46: 日本@名無史さん 2006/09/13(水) 15:15:17
幕末に日蓮宗が勢力を伸ばしたのは、徳川家斉と徳川家慶が日蓮宗にやたら肩入れしたからだってのはあんまり知られていないのね。。。

51: 日本@名無史さん 2006/12/04(月) 18:39:45
>>46
日蓮宗をプッシュしたのは家斉。家慶は浄土宗をプッシュした。
大御所時代だったこともあって家斉・家慶親子の仲はかなり悪かったそうな。

52: 日本@名無史さん 2006/12/18(月) 12:51:40
家慶って16男11女もいたのに成人したのが家定だけって、どんだけ不運なんだよ

53: 日本@名無史さん 2006/12/18(月) 12:58:15
子供たくさんいたのに何でよりによって家定を世継にしたんだろ
平治なら飾りな将軍でも良いけどさ、もっと他にましなの選べよ。

55: 日本@名無史さん 2006/12/18(月) 18:01:20
>>53
子供はたくさんいたけど、成人したのが家定しかいなかったから。
家定の兄弟姉妹で十代まで生き延びたのは男一人、女一人。あとは乳幼児で夭折。

57: 日本@名無史さん 2006/12/19(火) 18:41:36
しかし家定はわざわざ改名までさせられてるあたり
周りはよっぽど世継ぎが欲しかったんだろうな

58: 日本@名無史さん 2006/12/20(水) 01:04:04
改名の経緯おしえて

59: 日本@名無史さん 2006/12/20(水) 09:58:59
元々、名前は「家祥」だったんだけど歴代の徳川将軍で、漢字に偏のつく人たち(家綱、綱吉、家継、家治)みんな、後継者がいなかったからこれは縁起が悪いと。

87: 日本@名無史さん 2007/03/12(月) 18:07:28
>>59
一橋豊千代が西の丸入りする際、偏無しの文字を選んで家斉にしたらしい。

過去にそのような例があったんだったら最初から家定にしろよw

71: 日本@名無史さん 2007/01/23(火) 03:20:23
家慶と家重の絵描いた奴、よく殺されなかったよな

375px-Tokugawa_Ieyoshi



375px-Tokugawa_Ieshige


77: 日本@名無史さん 2007/01/25(木) 22:14:45
>>71
笑った。確かにそうだ。

73: 日本@名無史さん 2007/01/23(火) 20:23:11
肖像画の家定は普通の二枚目で、シャクレの父親よりいい男に描かれている。
歴代の肖像画の中でも一番、イケメンだ。
800px-Tokugawa_Iesada

75: 日本@名無史さん 2007/01/24(水) 07:44:45
徳川14代までの肖像画(宗家伝来の一番、ポピュラーな絵)をならべて見たら、普通に家定はイイ男に見えるが。

家重はひょっとこ、家治はごつい顔、家斉はオデコ、家慶はシャクレ、家茂は下ぶくれ。
ハンサムなのは家光、家綱、家定くらいだろう。

76: 日本@名無史さん 2007/01/25(木) 01:46:26
家宣も秀麗な容貌だ

80: 日本@名無史さん 2007/02/08(木) 18:46:27
戦後まもない増上寺徳川家墓地改葬の時に東大の鈴木教授が遺骨を調査したが秀忠、家宣、家継、家重、家茂の中で最も顔相が秀麗なのは家重だったと述べている。

81: 日本@名無史さん 2007/02/08(木) 19:47:08
あの有名な肖像画が「ひょっとこ」フェイスなのは、顔面神経痛か何かのせいかな。
いずれにせよ、本来の秀麗な容姿をあそこまでゆがめてしまっているのはカワイソス。

82: 日本@名無史さん 2007/03/02(金) 00:45:53
怒られなかったのかな。>描いた人。

85: 日本@名無史さん 2007/03/06(火) 14:47:36
>>82
今みたいに、イケメンの基準みたいなものがこの将軍さまにはなかったのかも。
当時の良い男といったらまず思いつくのが歌舞伎役者で、まさか将軍が、下世話な役者絵をご覧になることは恐らくなさそう。
で、比べるものがなければ、そっくりに描けば怒られなかったのでわ?
こんな推測で桶?

86: 日本@名無史さん 2007/03/06(火) 19:47:19
そういえば、ゴヤの「カルロス4世の家族」も国王夫妻をリアルに描いてて、これで怒られなかったのかと思うのだが、描かれた国王夫妻はいたって満足だったとか。
肖像画が自分そっくりに描かれてるのがうれしかったらしい。

91: 日本@名無史さん 2007/03/12(月) 19:40:03
家慶もぺリー来航を期に上地令を再度強行しようとしたが、その直前に死んじゃったのであぼーん。

92: 日本@名無史さん 2007/03/12(月) 21:03:20
家慶の末っ子長吉郎もペリー来航の直後くらいに親父と前後して亡くなってるが、この子が生き延びてたら将軍継嗣問題はおきなかった?

93: 日本@名無史さん 2007/03/13(火) 11:18:14
勝海舟は慶昌の遊び相手で江戸城に召し出された。
慶昌の一橋家相続後は一橋家の家臣になるはずだった。
しかし慶昌が死んだのでその可能性はは費えた。

慶昌が死ななかった場合の海舟
①一橋家の家臣となる。
②家定に嗣子がないので慶昌が家定の養子となる。
③家定の死で慶昌が14代将軍となる。
④海舟は幕府重臣として重きをなすようになる。
⑤大老になる。

みたいな感じか

107: 日本@名無史さん 2007/03/19(月) 07:46:32
慶昌と長吉郎が生き延びてればな・・・

108: 日本@名無史さん 2007/03/19(月) 16:14:29
慶昌が生き延びていて最も得するのは勝海舟
長吉郎が生き延びていて最も得するのは水野忠央
長吉郎の母が忠央の妹お琴だから
長吉郎には同母兄田鶴若がいるがその誕生に忠央はさぞ喜んだそうな

109: 日本@名無史さん 2007/03/20(火) 18:39:27
慶昌が心身ともに健康な男子として存命であれば、慶喜の出る幕はないと思うが、今度は家定派と慶昌派の間に暗闘がおこったのではないだろうか?

かつて文武に優れた田安宗武が退けられ、凡庸な家重が9代将軍になったように、ちっとやそっとのことでは兄を廃嫡して弟を擁立することは難しいと思う。

112: 日本@名無史さん 2007/03/23(金) 21:14:31
家慶の子供14男13女がほとんど1才前後に死んだって異常じゃない?
いくら死亡率が高かったからって死にすぎでしょ!

113: 日本@名無史さん 2007/03/24(土) 01:20:12
>>112 
それでも諦めず死んだ年(60歳)にも子供をつくっている。
家斉譲りの性豪だ

118: 日本@名無史さん 2007/04/26(木) 19:24:54
家慶も(家斉も)特別色好みってわけじゃなかったんじゃないのかな。
江戸後期は、大奥と将軍の関係もシステム化され、長期間将軍に在職してたり、長生きしたら、それだけ大奥の女性と接する機会が多くなるわけで、健康な肉体で正常な生殖機能をもってたら、必然的に子供も増えるだろう。

言い方は悪いが、将軍こそ「子供を産ませる機械」になってたんじゃないのか?

130: よしき 2007/04/30(月) 12:42:39
彼の身長は江戸幕府歴代将軍の仲でも低く、154センチだったらしい。

132: 日本@名無史さん 2007/04/30(月) 20:35:54
>>130
伊達政宗の身長もそんなまんじゃないの?
吉宗は180センチくらいあったらしいね。

137: 日本@名無史さん 2007/05/05(土) 18:01:50
>>130
徳川綱吉は130cm以下だったという話があるぞ。
154cmだと、当時は普通くらいだろう。

152: 日本@名無史さん 2007/05/10(木) 18:19:29
増上寺の墓から遺体を出して調査した時、家茂は157㌢だったらしいね。
他の将軍はどうだったのかな?

153: よしき 2007/05/10(木) 21:10:15
ちなみに息子の徳川家定は、位牌の高さから身長が149センチだった。
遺体が見つかってないのではっきりとした身長は不明だが、彼も将軍の中ではかなり小柄だったと思われる。

155: よしき 2007/05/12(土) 16:19:02
家宣160㌢ 家重156㌢ 家慶154㌢です。
後は秀忠が158㌢で、家継が135㌢です。

156: 日本@名無史さん 2007/05/12(土) 17:54:42
>>155 
家継の棺には遺骨は入っていなかったんじゃなかったっけ?
遺髪はあったようだが

157: よしき 2007/05/12(土) 18:09:07
位牌と身長は近いので、大体あっていると思います。

161: 日本@名無史さん 2007/05/13(日) 16:00:13
その位牌を根拠に身長を論ずるのはやめたほうがいい。
「近い」というけど、実際にデータを比べたら、そんなに近いというほどではない。
むしろ、こじつけっぽく感じた。

だから寛永寺の綱吉の墓が暴かれて極度の低身長が実証されない限り、綱吉=小人説は興味本位の与太でしかない。

160: 日本@名無史さん 2007/05/13(日) 15:53:49
徳川家慶は江戸幕府の崩壊を悟っていた。
病弱な家定を慶喜までの繋ぎとし、将来の日本近代化を考えていた。

163: 日本@名無史さん 2007/05/13(日) 20:09:16
>>160 
確かに家慶は家定がアホだから慶喜を後継ぎにしようとしたくらいだから、徳川家の事を心配していたんだろう。
でも「そうせい様」になっちゃったのは何で?

164: よしき 2007/05/14(月) 16:08:38
父親の徳川家斉が50年も将軍をやっておりました。
もしかしたら家慶は、家斉のせいで政治としての「やる気」をうしなってしまったのかもしれません。
なぜなら、家慶が将軍になったのは45歳。
当時としてはかなりの高齢で、平均年齢が50歳だからです。

165: 日本@名無史さん 2007/05/14(月) 16:15:09
>164
そうですね・・・
家斉は引退してからも長生きして、大御所時代なんて呼ばれたんでしたっけ?
大御所になってからも家慶の弟妹の数だけはどんどん増えていき・・・

167: 日本@名無史さん 2007/05/15(火) 00:16:53
>>165 
たしか家斉の最後の子供は1820年代が最後じゃなかった?

168: 日本@名無史さん 2007/05/15(火) 13:50:03
>>167 
家斉の子は長女が1789年、二十七女が1827年生まれ。

172: 日本@名無史さん 2007/05/17(木) 19:25:53
家斉の最初の子って、十代後半のときの子か。
色好みのように言われてる家斉も50代後半以降は、女色を絶ったようだな。

173: 日本@名無史さん 2007/05/17(木) 21:20:27
>>172 
家慶は、十四男である長吉郎が生まれたのは1852年で還暦を迎えた頃だから家斉よりがんばったな

176: 日本@名無史さん 2007/05/18(金) 10:20:49
家慶の末子長吉郎は親父が亡くなった直後に夭折した。
家定サイドの謀略に匂いが・・・

199: 日本@名無史さん 2007/05/25(金) 23:39:33
長男 竹千代(1813~14)
十四男 長吉郎(1852~53)
家慶は趣味に生きたと聞いたがもしや!

203: 日本@名無史さん 2007/05/30(水) 19:51:30
長吉郎が生き延びてれば、家茂も慶喜も出る幕はなかった。
幕府の寿命も延びたかもしれない。

引用元: ・徳川家慶について語る



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