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1: 日本@名無史さん 2007/12/30(日) 23:13:18
幕末以前の、日本の皇后・国母・女院について、語るためのスレッドです。 







2: KNA 2007/12/30(日) 23:58:30
仲恭天皇皇女の和徳門院の墓所はどこにあるのでしょうか?ご存知ならお教え下さい。

3: 日本@名無史さん 2007/12/31(月) 00:38:30
>>2
資料類を調べても不明だし、「和徳門院 墓所」でググっても、検索されたのはこのスレの前スレただ1つだけ。
墓所不詳なんでしょうな。

7: 日本@名無史さん 2007/12/31(月) 13:15:20
仲恭天皇の陵墓自体がはっきりしていないので、娘もむずかしいのでは?

9: 日本@名無史さん 2007/12/31(月) 15:57:45
>>7
仲恭天皇の陵墓、九条陵は確定しています。
現在の京都市南区にあります。
仲恭天皇は帝位を去った後、母方の九条殿に住んで九条廃帝と呼ばれましたが仲恭天皇の陵墓九条陵は仲恭天皇の叔父九条道家建立になる東福寺のすぐ東の山上にあります。
すぐ近くには、九条家から出た皇嘉門院藤原聖子(崇徳中宮)の墓、月輪南陵があります。

10: 日本@名無史さん 2007/12/31(月) 17:36:11
仲恭天皇って、廃帝になったあと叔父の屋敷の九条殿に住んでいてなくなったときもこのあたりの九条殿領地内の寺に葬られたっていうだけで、九条陵であるという確証はないらしい。
明治政府が墓所がわからないから屋敷跡らしいところに盛り土をして陵をもうけただけ。
ちかくの東山本町陵参考地も有力らしいよ。

11: KNA 2007/12/31(月) 18:55:05
仲恭天皇は↑の方の見解が有力なようですね。この天皇の子供の和徳門院は西鴻臚館の右京七条一坊三町四町のうち四町を所有していたとのことですが(拾芥抄・西京図から読める)この和徳門院のことを調べたいのです。特に墓所・子供の有無などです。
アプローチ方法を教えて頂けたら幸甚です。

6: 日本@名無史さん 2007/12/31(月) 08:34:53
上東門院彰子と陽明門院禎子は時代は違うが、どちらが結局権力を持ったのだろうか。
形でいえば彰子のほうに見えるが。
藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) - 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。



禎子内親王(ていし ないしんのう、長和2年7月6日(1013年8月15日) - 寛治8年1月16日(1094年2月3日))は、第67代三条天皇の第3皇女で、第69代後朱雀天皇の皇后、女院。


8: 日本@名無史さん 2007/12/31(月) 15:49:42
>>6
彰子だと思われる。
道長に排斥された三条天皇皇女である陽明門院は、有力な兄弟を持たず、息子の後三条天皇は気質が強く、母陽明門院の願いでも容易に聞き入れなかったとある。
天皇と臣下筆頭関白である弟頼通、教通との調整役を果たした彰子と異なり、有力な外戚を持たない禎子の権力はそれほどでもなかった。
だからこそ、母の意向すら聞き入れないという後三条親政が実現したのであるが。

13: 日本@名無史さん 2008/01/01(火) 09:59:54
>>8
レスありがとうございます。陽明門院は同母兄弟は一人もいないので、後ろ見がいなかったので大変だったと思います。母も母方祖父も早くに他界していますし。
初めて知ったのですが後三条天皇は陽明門院の言うことを聴かなかったのですね。
父帝とは距離をおかれていたので、母と息子の結びつきがとても強いと思っていました。

14: 日本@名無史さん 2008/01/01(火) 16:22:12
庭田朝子って女院号あるの?
庭田 朝子(にわた あさこ、永享9年(1437年) - 延徳4年7月20日(1492年8月13日))は後土御門天皇の典侍、贈皇太后。元は「近衛局」と称して足利将軍家に仕えていたが、当時親王であった後土御門天皇に召されて寵愛を受け、後に後柏原天皇を儲けた。

15: 日本@名無史さん 2008/01/02(水) 20:30:04
庭田朝子は、「後史愚抄」などに「蒼玉門院」と見える。
ところが、院号宣下の年月日、勅が下ったという史料が欠如。
相当の文献を集めて編集された「後史愚抄」の信憑性は高いが、院号宣下に関わる史料の不足により女院として数えられないことも多い。

18: 日本@名無史さん 2008/01/03(木) 16:09:06
>>15
「後史愚抄」って「続史愚抄」とは違うの?

17: 日本@名無史さん 2008/01/02(水) 22:53:37
>>15
朝子の父である贈内大臣庭田長賢に「号蒼玉院」とあるが、それと混同した可能性は? 

22: 日本@名無史さん 2008/01/10(木) 08:53:23
>>17
出家して法名がある大臣の場合、伝統的に死後贈名はないんじゃなかったっけ?
庭田長賢は生前、出家しているんだよね。法名は、祐紹。
逆に、娘の朝子の院号が父親のものと混同された可能性は?
朝子が院号を受けなかったと言うことよりも、出家大臣である長賢が贈名を受けたことのほうが考えづらいけど。
また、「蒼玉院」が長賢の贈名ではなく、長賢が所有する建物に由来して呼ばれた生前の通称であった場合、女院号もまた女院御所に由来してつけられることが多いため、父から娘へ邸が伝領された場合、庭田父娘がいずれも生前「蒼玉院」と呼ばれる場合もある。
いずれにしても、長賢の称と、朝子が女院号を受けたかどうかは別問題。
史書も父親の通称と、娘が女院であるかどうかを混同することは無いはず。

23: 日本@名無史さん 2008/01/11(金) 09:27:59
>>22
いや、長賢は生前は権大納言。
寛正3年8月21日権大納言、同28日出家。
文明19年1月18日薨去。贈内大臣、号蒼玉院。

詳しいことは知らないが、死後大臣を贈られた場合は贈名はあるんじゃないか?
後花園天皇外祖父である右少将庭田経有も、生前出家して法名明尭、死後贈左大臣従一位号宝勝院とある。

それと、気になるのが蒼玉門院の「門院」の部分。蒼玉門というのは実際にあったのか?
あったのなら門院号が宣下された可能性も高いが、もしそういう門がなかったのならやはり父長賢の蒼玉院と混同された可能性が高いと思う。
従来、門院号はすべて大内裏の門から取っているし、院号の場合は東三条院のように建物名の「殿」を「院」に変えるか高陽院のように建物名をそのまま院号にしている。
「東三条門院」や「高陽門院」とはなっていない。
朝子の女院号が「蒼玉院」ならまだ分かるが、「蒼玉門院」というのは不可解。
これはあくまでも蒼玉門が無かった場合の話ではあるが。

24: 日本@名無史さん 2008/01/11(金) 14:17:06
>>23
すまん、庭田経有の贈名の史料が見つからなかったが、何だろう?
同時代(室町時代)の例では、生前大臣に上った人が出家、法名を受けた場合、死後、贈名はされない(摂関家などを調査)。
同時代の贈大臣の例をあまりみつけられなかったのだが、平安時代などは贈大臣が贈名を受けることは無かった(藤原済時など)。

蒼玉門を調査したところ、大内裏、内裏、朝堂院、豊楽院には該当なし。
もっとも、この三つに該当しない女院号にはほかにも吉徳門院(万里小路栄子・正親町天皇生母)がある。
こちらは父万里小路賢房に死後大臣は贈られず、贈名もない。
何と混同したのだろう・・・?

25: 日本@名無史さん 2008/01/11(金) 18:04:38
>>24
史料ではないが「系図纂要」に庭田経有の贈大臣について書いてある。
文安元年5月6日贈左大臣従一位、号宝勝院。
(同年4月に娘幸子が准三后になったのと関係していると推測)
系図纂要が何にもとづいて書かれたのかは、今は手元にないため確認できず。
室町期の贈大臣は、日野流や勧修寺流の名家にも見られるが、出家→没→贈大臣→贈名というパターンは、確かに庭田経有にしかない。
したがって宝勝院が贈名ならかなり特殊なケースではある。

それから、吉徳門院も蒼玉門院と同じく院号宣下の日が不明?
史料が欠如しているということなのか。
こちらは法名か何かと混同した可能性があるのでは。
吉徳門院の法名は伝わっていないようだが。
何にしても、同時代の他の女院には院号宣下に関わる史料があるのに、蒼玉門院(と吉徳門院)だけは無いというのも不思議な話なので、それはやはり院号宣下自体がなかったということではないかと。

27: 日本@名無史さん 2008/01/13(日) 17:21:25
>>25
吉徳門院は生前出家していないため、法名はない。
女院の法名といえば、如観とか、清浄智とか、清浄妙、理知覚とか。
吉徳という法名は考えずらい。
そもそも出家してないが。

16: 日本@名無史さん 2008/01/02(水) 21:09:50
女院宣下後に三后宣下のあった女性は誰かいましたっけ?
南北朝のごちゃごちゃ期にいたようないなかったような・・・。

21: 日本@名無史さん 2008/01/07(月) 07:33:28
>>16
ざっと、南北朝期を調べたけど該当者無しですね。
准三后と女院が同時に宣下された人は何人か居たけど。
個人的には、女院より軽い准三后に後からってのはちょっと無いんじゃないかなぁって思う。

34: 日本@名無史さん 2008/02/19(火) 17:37:03
園光子を語れ

35: 日本@名無史さん 2008/02/19(火) 17:56:28
園光子(1602~1656)
参議園基任女。はじめの名は継子。後水尾天皇に出仕、京極局と呼ばれる。
徳川和子が入内して以来、徳川秀忠の意向により後水尾天皇には局衆(側室)が認められなかったが、寛永6年11月8日、女帝の明正天皇が践そ、寛永9年正月24日、大御所徳川秀忠もなくなると、男子がみな育たなかった東福門院(徳川和子)の許しにより局衆が認められる。
継子は4歳年上の後水尾上皇に召され、寛永10年3月12日、32歳のとき素鵞宮を産む。
以降、寛永11年閏7月11日、守證法親王(青蓮院門跡・天台座主)、寛永14年9月25日、滋宮(大聖寺門跡)、寛永16年2月8日、谷宮(霊鑑寺開祖)、寛永18年6月28日、桂宮(夭折)を産む。
寛永19年12月15日、素鵞宮が親王宣下を受け、紹仁(つぐひと)親王と称したため、生母の名継子(つぐこ)と読みが重なるという理由で光子と改名。
寛永20年10月3日、紹仁親王が践そ、後光明天皇となる。
承応3年9月20日、後光明天皇が22歳で早世。
同10月5日、後水尾上皇の院宣により准三宮となり、院号宣下。壬生院と称する。
同6日、後光明天皇に準じて出家。明暦2年2月11日、55歳で没する。

36: 日本@名無史さん 2008/02/19(火) 20:49:20
>>35
30代初産で5人出産ってすご!

40: 日本@名無史さん 2008/02/20(水) 12:44:09
>>36
後水尾天皇の愛妾であった櫛笥隆子(逢春門院)も、28歳で八重宮(宝鏡寺門跡)を産んだあと、
寛永10年(30歳)皇子(夭折)
寛永11年(31歳)光子内親王(林丘寺開祖)
寛永14年(34歳)良仁親王(後西天皇)
寛永16年(36歳)性眞法親王(大覚寺門跡)
寛永17年(37歳)摩佐宮(夭折)
寛永18年(38歳)柏宮(宝鏡寺門跡)
30代で6人出産している。

41: 日本@名無史さん 2008/02/20(水) 14:27:57
>>40
櫛笥さんって40代でも出産していなかった?

42: 日本@名無史さん 2008/02/20(水) 14:37:06
>>41
すまん。不用意に30代で切ってしまっていた。
櫛笥隆子は40代でも出産している。
40のレスの続き。

寛永20年(40歳)穏仁親王(八条宮を継ぐ)
正保4年(44歳)道寛法親王

合計五男四女。

38: 日本@名無史さん 2008/02/20(水) 04:28:04
和子は何かで病気になりお褥辞退をしたと読んだ

39: 日本@名無史さん 2008/02/20(水) 12:23:20
>>38
徳川和子は14歳で入内、17歳で第一子の興子内親王(明正天皇)を産んで以来、28歳までの11年間に二男五女の七人の子を出産している。現在でも出産は苦しいが、当時の出産の危険性は今以上だった。
おそらく父徳川秀忠存命中は孫を天皇にしたい父の意向により和子が子供を産むのをやめることは許されなかっただろうが、父の死後は辞退したとも考えられる。
和子はその代わり、側室が産んだ後光明天皇、後西天皇、霊元天皇を養子にしている。
徳川和子は72歳まで生きているし、このとき病に伏せっていたという記録もない。

44: 日本@名無史さん 2008/02/20(水) 17:15:05
"下品な皇室批判の為、削除"

47: 日本@名無史さん 2008/02/29(金) 04:49:30
幕末以前の、皇后・国母・女院を語るためのスレで現代の皇室批判かぁ。

同じ批判なら、臣下出で初の皇后になった、安宿媛の批判とかしない?
光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。皇族以外から立后する先例を開いた。


49: 日本@名無史さん 2008/02/29(金) 20:08:14
安宿媛って皇后になってからも藤原と名乗ってなかった?

50: 日本@名無史さん 2008/02/29(金) 21:03:57
>>49
そうだよ。光明皇后に限らず臣下出身の皇后はみんなそう。
皇后はある意味天皇と同列ではあるけど、明治以降の皇室制度とは違って、皇族出身の皇后以外の臣下出身の皇后は、みな皇族には含まれない。
臣下出身の親王妃が位を貰う時でも、藤原~子とかの名で貰う。

52: 日本@名無史さん 2008/03/01(土) 09:19:06
>>49
夫婦同姓、つまり嫁入りすると姓が変わる、というのは明治時代に始まった戸籍法から。
つまり、それ以前は嫁入りしても婿入りしても姓は変わらなかったんだね。
源氏物語で、源氏に嫁いだ女三宮が、父朱雀院の願いもあり、二品から一品に昇進するという話がある。
女三宮が源氏に嫁いでも臣下にならず、内親王のままであり、親王としての叙爵を受けることもできたことが分かる。

53: 日本@名無史さん 2008/03/01(土) 17:32:38
>>49
藤三女(藤原氏の三女)って、ずっと署名してたもんね。

女性として、今の戸籍法は、自分の生まれとか育ちを否定(そこまで強い意味じゃないけど)されるみたいでちょっと不快。
だから、結婚した時に、私が戸籍筆頭者になりました。


話は変わるけど、嫁いでも、姓が変わらないけどやっぱり、養女になったら、姓は変わるんだね。
(原女)子女王→藤原(原女)子
みたいに。
猶子は、姓は変わらないのに。

養女と猶子の違いが、遺産の贈与に関わる事にしか違いが分からない。

詳しい方、違いを教えてください。

55: 日本@名無史さん 2008/03/03(月) 06:25:29
>>53
署名は藤三女じゃなくて、藤三娘(とうさんじょう)でしょ。
改姓し正式養子女になると、実親の喪に服する事ができないと言いますね。

54: 日本@名無史さん 2008/03/01(土) 17:45:37
平安時代までは養子と猶子の区別が明確ではなかったともされるけどね。

養子は養親の実の子同様の扱いを受けること。
家督を継ぐ、遺産を継ぐ、養親を扶養し、末代まで養親を代々供養する、などの義務を負った。家督を継ぐことから姓も養親のものを名乗った。

猶子はこれより緩く、疑似的な親子関係。
養子のように実親との関係を断ち切るものではなく、戸籍も実親のところに入れられることが多い。親を早くに亡くした子供を親戚筋のものが猶子として官位の昇進や婚姻を助けたりするときに用いられた方法。

摂関政治上、多くの娘を持つことを余儀なくされた摂関家では、養女をとる場合も多かったが、養女と実親の関係を維持したままでは不都合があったのだろうね。
敦康親王を実父とする嫄子女王は藤原と改姓しているし、源顕房を実父とする賢子も藤原と改姓している。

70: 日本@名無史さん 2008/03/11(火) 23:18:51
皇族って離婚出来たっけ?

73: 日本@名無史さん 2008/03/12(水) 14:40:16
>>70
できる

皇室典範
第十四条 皇族以外の女子で親王妃又は王妃となつた者が、その夫を失つたときは、その意思により、皇族の身分を離れることができる。
3 第一項の者は、離婚したときは、皇族の身分を離れる。

71: 日本@名無史さん 2008/03/12(水) 02:26:44
昔はともかく今は出来るんじゃない?

三条天皇の女御の藤原綏子とかさ、添臥で入内(?)してたのにいつのまにか寵愛は藤原済時の娘に取られて、その後に密通事件起こして懐妊?したっぽいのに、離婚しなかったよね。

昔は出来ないものなのかな?

里第にちっ居してるだけで、身分の剥奪は無い物なの?

72: 日本@名無史さん 2008/03/12(水) 08:52:51
妃の身分を失ったり、事実上の離婚だった例はあるけどね。

高津内親王(嵯峨天皇妃)
夫の生前、妃の身分をはく奪(理由は明らかでないが、密通?)

藤原高子(清和天皇女御)
夫の没後、僧との密通発覚で皇太后剥奪

紀竈門娘 ・石川刀子娘 (いずれも文武天皇嬪)
夫の没後、不貞を働いたという理由で嬪をはく奪

藤原綏子は東宮妃時代のことで妃としての称号は受けておらず、女官としての尚侍の身分のままだった。
仮に現役の天皇妃で女御などであったら称号をはく奪されたかは別問題だけどね

74: 日本@名無史さん 2008/03/13(木) 21:24:33
スレチだが高津内親王の息子は池沼?だったらしい
異母兄弟の結婚なので無理もないが

75: 日本@名無史さん 2008/03/14(金) 01:36:49
高津内親王の妃はく奪って、橘嘉智子の立場強化対策?
それなりの身分で、皇子が居たのってこの二人だし。
後ろ盾はしっかりしているけど、身分の軽い橘家の娘だから、内親王は邪魔だった?

そもそも、橘嘉智子なんて、皇后になれる身分ではないはずだから。
>>72の紀竈門娘・石川刀子娘のはく奪も藤原宮子の立場の強化対策な感じがする。

>>74の意見はなんか聞いた事あったけど、真偽不明?
桓武天皇の自身の子供同士をくっつける作戦は体の弱い子供が多くて実質失敗だったのはなんかの資料で読んだような気がする。

76: 日本@名無史さん 2008/03/14(金) 08:23:02
>>75
橘氏は橘奈良麻呂の乱で失脚して以来、はっきりいって落ち目。
嵯峨天皇にはほかにも夫人たちが大勢いて、たとえ高津内親王が失脚しても必ずしも嘉智子が正妃の最有力候補というわけではなかった。

薬子の変の勝利で、一手に政権を掌握した嵯峨天皇の意向だろうね。
橘嘉智子は有名な美人で、モデルにしたという仏像も残り、嘉智子の立后は嵯峨天皇の寵愛の賜物だったと思われる。

>>74はなんともいえん。
聖徳太子の両親だって異母兄妹。
巷で言われるほど近親婚というのは影響が出ないらしい。
この例に限らず、天皇家も藤原氏も同族婚ばかり。
それでまともな人も多い。

77: 日本@名無史さん 2008/03/15(土) 11:59:13
>>79
待賢門院は崇徳、後白河両天皇と上西門院らを生んだけど体に障害の有った子供も2人生んでるよね。確か"萎え宮"とか呼ばれてた、起き上がる事の出来ない子供。

鳥羽天皇とは従兄弟同士だけど、こういう子供も出来ちゃう。

確率論よりもタイミングなんだろうな。
別の板で、ある叔父姪の内縁婚で、生まれた子供はみんな美形+秀才なんだって。

82: 日本@名無史さん 2008/03/15(土) 20:14:31
>>77
その「萎宮」は次男だけど体験門淫は「盲宮」なる三男も産んだらしい
ちなみに次男と三男は年子
あと長女か次女かどっちかわすれたけど夭折した娘がいるはず

83: 日本@名無史さん 2008/03/15(土) 21:33:02
>>82
体験門淫wエロいよ!

夭折したのは長女の禧子内親王だね。
デキレースの卜定で次女の統子内親王(上西門院)の後に斎院になるも、翌年夭折しちゃった人。

ちなみに、結構前半期は華々しい印象の待賢門院も
1124通仁親王(萎宮)誕生
1125君仁親王(盲宮)誕生
1129通仁親王(萎宮)夭折
1133禧子内親王夭折
と連続して自身子に不幸が訪れてる。
こう見ると、なんとなく高慢ちきな印象の待賢門院に同情するよ。

86: 日本@名無史さん 2008/03/17(月) 08:05:52
>>83
子供の夭折はこの時代珍しいことではない。
待賢門院から鳥羽上皇の寵愛を奪った美福門院も、所生の叡子内親王が14歳で、近衛天皇が17歳で早世している。
また、待賢門院腹の禧子内親王は鳥羽上皇が鐘愛した皇女で、内親王が不予になると度々鳥羽上皇は皇女のもとへ自ら行幸している。
待賢門院の子は崇徳天皇、後白河天皇、上西門院、覚性法親王が成長、待賢門院の血は現代の天皇家にまでつながっている。

87: 日本@名無史さん 2008/03/17(月) 18:59:14
>>86
ただの夭折じゃないよ。
障害を持った子供が立て続けに生まれて、そのうち1人が魚味始の儀が終わっった頃に死んじゃって、娘は病で斎院を退下、そしたら今度は、別の娘が齋院になるも、1年で死んじゃった。

待賢門院以外の子供で「障害者だった」記録に残ってる子供っている?

88: 日本@名無史さん 2008/03/17(月) 19:36:07
盲目だったことがわかっているのは
桃園天皇皇子伏見宮貞行親王
精神異常は冷泉天皇だの後朱雀皇女禖子内親王だのいるけどね
皇族の夭折は多いが死因や状態は必ずしも記録に残っていないものも多い
待賢門院の2人の皇子は親摂関反後白河な勢力によって記録されたようだけどもね
娘のほうは障害はなかった。

>娘は病で斎院を 退下、そしたら今度は、別の娘が齋院になるも、1年で死んじゃった。

これは何か勘違いをしているよね?
待賢門院の娘は禧子内親王と統子内親王(上西門院)の2人だけ。
このうち上西門院は後白河法皇に重んじられて64歳まで生きた。
禧子内親王は10歳で賀茂斎院になり、在任中に12歳で没した。

89: 83=87 2008/03/18(火) 01:13:53
>>88
書き方おかしかったか?
先に上西門院が齋院になってて、病気になってしまった。

>そしたら今度は、別の娘が齋院になるも、1年で死んじゃった

卜定で長女の禧子内親王が決まったけど、1年余りで亡くなりましたとさって意味だったんだけど。
分かりにくかっらたすんまそん。

やっぱり、記録の残る皇族といえどもマイナス記録はあんまし残らないのか?
精神がおかしくなるのは、後天的な事もあるから一概には言えないけど、身体は割と先天的なトコが大きいからちょっと気になった。

精神異常じゃないかもしれないけど、具平親王の三女も凄いよね。
酒の力で斎宮自ら託宣ってw
斎宮とか、齋院って圧迫されてて心も体もおかしくなるのか?

105: 日本@名無史さん 2008/05/21(水) 21:39:45
KYでごめん

二条天皇の中宮高松院が僧侶と密通した話ってほんとかな??
しゅ子内親王

姝子内親王(しゅし/よしこないしんのう、永治元年11月8日(1141年12月7日) - 安元2年6月13日(1176年7月20日))は、二条天皇の中宮、女院。女院号は高松院(たかまついん)。

『玉葉』建久2年(1191年)4月24日条は、仁和寺において海恵(法印大僧都・澄憲の真弟子)が守覚法親王より灌頂を授けられた記事であるが、その中に「御室御弟子、高松院御腹、澄憲令生之子也。雖密事人皆知之」という記述がある。


106: 日本@名無史さん 2008/05/22(木) 07:51:04
当時の日記に載ってる記事だよね。
玉葉だっけ?

108: 日本@名無史さん 2008/05/23(金) 19:01:39
>>106
『玉葉』建久2年(1191年)4月24日条ですね。澄憲(藤原信西の子)の
真弟子(実子)である海恵が、守覚法親王より灌頂を授けられた記事の中の
「高松院御腹、澄憲令生之子也。雖密事人皆知之」

それにしても、高松院は姉の八条院に比べると影が薄いですね。個別研究も角田文衛氏の「高松女院」(『王朝の明暗』所収)の他に見当たらない。 

109: 日本@名無史さん 2008/05/24(土) 19:00:43
八条院高倉も高松院の隠し子説がありますね。
突然出家したり中々面白そうな人だ。

112: 日本@名無史さん 2008/05/27(火) 16:43:06
女院で密通の噂があるのって、高松院・月花門院・建礼門院・承明門院・神仙門院ぐらいしか知らないけど、他にいるかな?

124: 日本@名無史さん 2008/07/14(月) 22:40:46
>>112
密通した女院
現在一次史料で確認ができるのはその中では高松院(玉葉)。
待賢門院は鳥羽天皇との結婚前に密通していたことが「殿暦」で確認できる。
(相手は後白河院ではなく別の男)。

月花門院の史料は「とはずがたり」だけど、こちらは一次資料の扱いはされてはいない模様。

神仙門院(後堀河天皇皇女)は後嵯峨院との密通の末皇女を産んだが子供はこっそり後嵯峨に引き取られ、「増鏡」によれば別の男性との子供を産んだ際没したとある。

承明門院は「愚管抄」に通親が母が死んだあと寵愛したとある
まあ慈円は通親と争った兼実の同母弟だから醜聞も書きたくなるわけか建礼門院の密通はデマでしょう。

128: 日本@名無史さん 2008/08/13(水) 04:10:59
>>124
「玉葉」は信用できても、「愚管抄」は信用できないの?
後白河は息子でしょ、と、とりあえず突っ込む。

引用元: ・▲▼皇后・国母・女院を語る▼▲Part2



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