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1: 世界@名無史さん 02/02/12 06:08
お前らぁ!!
アッバース朝について教えて頂けたら幸いです。






アッバース朝は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1517年)。イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。

アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。

アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。




12: マンスール 02/02/13 10:14
ウマイヤ朝のカリフは正妻のアラブ人が産んだのから選ばれてるのに対してアッバース朝は奴隷の子からカリフが選ばれてるのはなぜですかね?

13: 世界@名無史さん 02/02/13 15:49
>>12
思い付きだけど、アッバース朝期に奴隷の子でも正式に認知すれば嫡出子と変わらないっていうコンセンサンスができたんでは?

19: 世界@名無史さん 02/02/14 09:58
イスラム圏の奴隷は出世して最高官まで登る。
日本人の奴隷の概念とはかなり違うみたいね。

20: 世界@名無史さん 02/02/14 10:41
西欧圏の奴隷も同じでしょう。
日本人の奴隷の概念とはかなり違う。
中世農奴を農民と言い換える歴史家が多いけど実際のところ農奴でしょう。

21: 世界@名無史さん 02/02/14 11:03
アターベク、て言うんだっけ?
後継ぎが子供だった場合、有能な奴隷に摂政役みたいなことやらせるんだよな。
場合によっては母親と結婚させて、権威付け&後ろ盾もさせる・・・だったような。
アタベクはテュルク語で「父なる君侯」を意味する。幼い君主の後見人・摂政であり養父となる有力者のこと。

テュルク系の政権の王族男子は死亡率が高く(戦闘での戦死のほか、暗殺や処刑など部下や王族同士による裏切りも多かった)、しばしば未成年の王子らが残された。彼らを守るため有能な武将(アミール)らが後見人として指名され、ふつう王子の母親と結婚して養父となり、王子に代わり執政し軍の指揮をとる。これがアタベクと呼ばれるものである。彼らの中には奴隷(マムルーク)や奴隷の息子の身分からそのまま軍の指揮官に上り詰めたものも多かった。

22: 世界@名無史さん 02/02/14 12:03
そんなのもう奴隷じゃないよな。
なにか良い言葉無いものか。

25: 世界@名無史さん 02/02/15 10:25
>>22
「マムルーク」って呼べばいいんでないの?

マムルークは奴隷といっても解放奴隷。
軍人としての養育が終わった時点で解放手続きが取られたらしい。

マムルークは、10世紀から19世紀初頭にかけてトルコとアラビア半島を中心とするイスラム世界に存在した奴隷身分出身の軍人を指す。言葉通りの奴隷ではなく、その社会的位置付けは時代と共に大きく変遷しており、総括的に言えば軍人徒弟に近い存在である。

幼少期から戦闘訓練を積んだ彼らはエリート軍人と見なされて高い地位に就く事もあり、栄達した者はマムルークの親方となって新たな少年奴隷ないし徒弟を召し抱えた。


24: 世界@名無史さん 02/02/14 12:31
十字軍侵攻時のスルタンたちは、ほとんどアターベクとなって権威付けをしている。
ファーティマ朝の宰相だって、奴隷上がりが大多数なんじゃない?

50: 世界@名無史さん 02/07/27 18:21
スルタン=カリフ制ってのもナゾだよね。

51: 世界@名無史さん 02/07/28 01:25
>>50
ただの皇帝教皇主義のパクリ。

52: 世界@名無史さん 02/07/28 04:33
ただの、なのかなあ。
皇帝教皇主義なのはわかるが近代とオスマン帝国とイスラムってテーマにからんでいろいろありそうな気がする。

56: 世界@名無史さん 02/07/28 16:15
アッバース朝は、なんかもともと、カリフが御輿色強かったように感じる。
最初のころはヘゲモニーを持ったカリフも出てたように、なってるけど。

アッバース家を担いだのは、血統上の正当性を持たせたかったんでしょ。
なんか当のアッバースのおっさんも、しょぼい人間だったらしいし。

58: 世界@名無史さん 02/08/28 00:53
>>56
血統上の正当性を持たせるんならアッバース家の連中より適当なのがいくらでもいるしやはり当人たちが有能であったのではないかと

57: 世界@名無史さん 02/07/30 04:53
預言者の叔父のアッバース?
そのアッバース自体は大した人物ではないけど、アッバース朝を興すアッバース家の連中(アッバースから4代後)、イブラーヒーム、アブー・アルアッバース、アブー・ジャアファル、の手腕はなかなかではないですか?

60: 世界史@名無史さん 02/08/28 01:47
オスマン朝に脅されてカリフの位をあげちゃった

61: 世界@名無史さん 02/08/28 03:01
アッバース朝自体は9世紀から落ち目。
オスマーン朝にカリフ位を譲った事実はないとされてるのでは?

63: 世界@名無史さん 02/08/29 01:25

(オスマン朝は・・・)16世紀のエジプト征服の際に、当時のアッバース家ハリーファからその職位を譲り受けたという伝説を流布するようになった。
「イスラーム辞典」

65: 世界@名無史さん 02/09/12 19:26
セルジュークが落ち目になって、カリフが実権を回復した時のこと教えてくれ。

71: 世界@名無史さん 02/12/01 12:08
>>65
セルジューク朝が分裂したのでカリフのナーシルはその勢力を排除しようとしてセルジュークの属国から台頭したホラズム・シャー朝のテキシュに援助を要請。
遊牧部族の勢力を引き入れて強大な軍事力を得ていたテキシュはレイの近郊でたいした兵力もなかったイラク・セルジューク朝のトゥグリル3世に圧勝して殺害する。
ナーシルはこれでアッバース朝の権力を回復できると思ったところテキシュはセルジューク朝の後釜に座ってカリフを意のままにしようとしていた。
テキシュが死んで息子のアラー・アッディーン・ムハンマドがホラズム・シャーになると完全に両者は衝突しムハンマドはバグダードに向けて出兵する事態になる。
ゴール朝を滅ぼして東方の最強勢力となったムハンマドの力を持ってすればバグダードがホラズム・シャーの支配下に入るのは間近と思われた。ところがチンギス・ハンの遠征によってホラズムはあっけなく崩壊。
ナーシルがモンゴルを唆してホラズム・シャーへの遠征を行わせたという話もあるがこれはどうだろうな。

76: 世界@名無史さん 02/12/27 11:54
アッバース朝初期のイラン系勢力の話でもする?
これはワズィールの影響力の話にもなるかな?
それから中央集権がどの程度まで実現されたのか、とか。

某先生によると、イラン東部からは結局一度もバグダードへの献納がなかった、とか。
まあ、教科書的には、イラク近辺に限られていた、ちゅうことなんだろうけど。

79: 世界@名無史さん 03/01/13 16:09
>>76
アッバース朝の初期は地図で見るかぎり物凄い大帝国だけどそのうちアッバース朝の実効支配が及んでたのはどのくらいなのか知りたいね。

ホラーサーンからマグレブまでのあの広大な領域を全て実効支配してたとはとても信じられない。
Abbasid_Caliphate_most_extant
アッバース朝の最大版図(深緑はまもなく離反し、緑が850年以降の領土として留まる)


80: 世界@名無史さん 03/01/13 22:05
アッバース朝成立後100年くらいして各地に世襲アミールが台頭してことが特記されるってことは
当然それ以前は全域の総督の任命権をバグダードが握ってたんでは、と思ってたよ。実態はどうなんだろう。

81: 世界@名無史さん 03/01/25 13:45
http://lion.zero.ad.jp/hybrid/sekaisi6.html

・アター制------地租を俸給(アター)として支給
             →アミール(指揮官)をおく


まあ、世の中のあらゆる制度は、最盛期にしか正しく機能しないのではないかと思える。

89: 世界@名無史さん 03/01/31 15:42
アラブ人はよくアッバース朝の繁栄を自慢するけど、ファーティマ・メルニーシーの『イスラームと民主主義―近代性への怖れ』(ラトクリフ川政祥子翻訳 平凡社選書)によると、アッバース朝時代のイスラームは理性を重視する「ムウタジラ派的イスラーム」で、イスラーム法の解釈の門を閉ざして以降の硬直化したイスラームとは異なる、と主張してました。
確かに近現代ではムスリムに向かって「お前はムウタジラ派だ」というのは非難の言葉ですが(ムハンマド・アブドゥフもよく言われた)、アッバース朝時代のイスラームが「ムウタジラ派的」だったという著者の主張の裏付けとなる資料(史料とは言わない。アラビア語ほとんど読めないから)は、あるんでしょうか?
ムゥタズィラ学派とは、イスラム教の神学の学派である。9世紀初頭から10世紀にかけてのイスラーム世界で大きな影響力を持ち、分散して少数派となった後も思想の一部はシーア派に継承された。

ムゥタズィラ学派はカラーム(議論、思弁)を取り入れた最初の神学者の一派であり、イスラーム史上初めて体系的な神学論を構築した初期のムゥタズィラ学派はタウヒードを合理的な思惟で擁護した。この学派に属する人間はイスラーム世界における神、人間、世界の関係を人間の視点から理性による説明を試みた。理性による説明は行為の分析を介した人間の自由意志の確認が前提となっており、ムゥタズィラ学派は「行為の創造者」という自立した立場から神の合理的解釈を行った。


90: 世界@名無史さん 03/01/31 19:03
>>89
故・嶋田襄平先生は事典のムータジラ派の項にこのように書いていらっしゃいましたけども。

8世紀中ごろから10世紀中ごろまで栄えたイスラム神学の先駆的一派。(中略)アッバース朝カリフ、マームーンが827年に「創造されたコーラン説」を公認するに及び、ムータジラ派はアッバース朝宮廷で支配的勢力となった。(以下略)
(『新イスラム事典』p.481)

91: 世界@名無史さん 03/01/31 20:52
マームーンは更に異端審問をおこなってムータジラ派の論理をウラマーに強制しました。
しかしマームーン以後はムータジラ派は排斥されたかと思われます。

ムータジラ派に関しては、たしか近年(戦後といった程度の意味)に史料がみつかったため、最近の概説書には記述されているのではないでしょうか。
井筒俊彦の『イスラーム思想史』(中公文庫)などに詳しく書かれていた筈。

93: 89 03/02/01 01:20
>>91
嗚呼、『イスラーム思想史』第一部五「ムアタズィラ派の合理主義」ですね。
読み直してみます。
しかしなぜ、この「合理主義」が、ガザーリー以降の「正統主義」に飲み込まれてしまったのでしょうか?
家産制君主国家の存在の正統性の確認に利用されたのでしょうか?
メルニーシーが望むように、ムウタジラ派の遺産を、現在のムスリム達が生かす道(シャリーア)はあるのでしょうか?(よけいなお世話?)

95: 世界@名無史さん 03/02/01 21:37
>>93
>しかしなぜ、この「合理主義」が、ガザーリー以降の「正統主義」に飲み込まれてしまったのでしょうか?

「創造されたコーラン」説が端的に示すように、合理主義的な思弁哲学はアッラーの唯一性・絶対性に抵触しかねないから、という事になるのでしょうかねぇ。

103: 世界@名無史さん 03/02/03 06:41
>>91
聞いた話によれば、ムゥタズィラ派の合理主義を突き詰めると、合理性だけではコーランに記載されてる「神の絶対自由性」を否定することになってしまうそうな。

ガザーリーの転向もそこら辺に原因してるとかどうとか。
ガザーリー以降は「神の合理性」と「神の自由性」を両立させる論が正統神学で唱えられてるそうですが・・・・・
105: 世界@名無史さん 03/02/05 02:23
ムウタズィラ派は、いかにも「知識人の宗教」って感じがする。合理性一辺倒だからね。アッラーの人格性がどっかにすっ飛んでいる。 
イスラームが大衆化する過程で、一般民衆にとって「そうであってほしい」アッラー 
像に吸収されてしまったのではないかな。

107: 世界@名無史さん 03/02/05 02:49
ハミルトン・ギブによれば、イスラーム正統派にとってムゥタズィラ派教義は、イスラームに対するギリシア思弁哲学の挑戦として受け止められたのではないかとされていますね。(『イスラーム文明史』みすず書房) 

>>105 
アッラーを非人格的な教理上の機関とし、ムスリムの求める人格的な支配者の役割をカリフが担おうという意図が、ムゥタズィラ派公認にあったのではないでしょうか。 
つまり、アッラーを世俗世界から遠ざける事により、地上におけるカリフの権威を相対的に増大させようというもの。更には旧来の正統派学者たちに対し、思弁哲学というイスラームの外側の方法論を用いてカリフ側が彼らを掣肘し、政治的なフリーハンドを獲得しようとした動きだと考えられる。 
そしてムウタズィラ派の排斥は、そうしたカリフ権増大の動きに対するイスラーム正統派学者たちの勝利だといえる。 
すなわち一連のムゥタズィラ派の事件は、イスラームの大衆化云々というよりも、カリフ(=世俗的権威)と学者(=宗教的権威)との相克によるものではないだろうか。

108: 105 03/02/05 03:23
>>107 
大変に興味深いレス感謝です。それでは、なぜ、「大衆化」という要因ではなくして、カリフの御用学者に対する「正統派」学者の勝利が可能だったのでしょうか?カリフの権威の没落にともなうイスラーム神学の自立は、被征服民族に対するイスラーム布教の成功にともなって可能になったのでは? 
『イスラム世界の人びと』(東洋経済)第1巻「総論」の三木亘氏の論文、「世界史の中のイスラーム世界」によると、アッバース朝期においてはムスリムは少数派だったそうです。その後「大衆化」して、イスラーム神学もそれにともなって変質したのではないでしょうか?(アッバース時代を理想化しすぎ?) 
ハミルトン・ギブ『イスラーム文明史』読んでみます。

109: 107 03/02/05 06:44
>>108 
ムゥタズィラ派の思弁的論法に対して、正統派は預言者や教友たちの伝承を収拾する事で対応しました。 (前掲書中の論文「イスラームの歴史的一考察」,>>107の発言も同論文から) 
これは換言するなら、アッラーの非人格化に伴う間隙を埋めるのに、カリフではなく預言者を持ち出したともいえます。 

この当時、一般のムスリムや他教徒の世論が政治にどれほど影響したのかは不明ですが、軍人や官僚、在野の学者や血統による貴人など、政治に影響力を有する一定の有力者集団が存在したであろう事は充分に推測されます。 
そしてムゥタズィラ派の件は、まさしくそうしたサークルにおける問題であり、カリフ権の増大に関して直接の利害が生じる集団の中での論争であったがゆえに、問題の結末はカリフ権を掣肘する方向へと向かっていったのではないでしょうか。 
その結果として宗教権威は世俗権威から切り離され、預言者の伝承の権威が確立し、それらを操る正統派学者によるイスラーム神学は政治の束縛から自由になります。 
こうしてイスラームの教義は自律化し、ここに至ってイスラームの大衆化が始まるのではないかと思います。 
以上から、まずイスラーム共同体内部での変質があり、その後に大衆化がおこったと考える次第です。 

それと、アッバース朝支配領域でムスリム人口が増えた最大の理由は、アラブ・ムスリム-改宗者間における税制上の差別がなくなったから、ではないのでしょうか。

96: 世界@名無史さん 03/02/02 11:34
もし、フラグが来なかったら、そのあとどうなっていたのか?
やはり、天皇のような存在となって民族主義高揚時は現人神のような存在となっていたのか?

97: 世界@名無史さん 03/02/02 14:32
違う誰かが同じ事をやるだけかと。
カリフが形骸化した時点で、アッバース家カリフの存在意義は政治的には死んでいたわけで。

98: 世界@名無史さん 03/02/02 15:02
>>97
それだとフラグの後もマムルーク朝にカリフが迎えられたのもセリム一世の禅譲伝説もスルタン=マフムードの衣の話も説明できなくないか?

誰かがセリム一世と同じ事をやるだけというならわかるが。

101: 世界@名無史さん 03/02/03 04:09
>>96
オスマン帝国のスルタン=カリフがそれにあたるんじゃない?結局共和制選んだけど。

でも民族主義って、イスラム帝国そのものが他民族を宗教で統合して共存していこうって考えで出来たのでは?


167: 世界@名無史さん 03/11/24 18:05
モンゴル軍はバグダットで80万人大虐殺したんだよね

168: 世界@名無史さん 03/11/24 18:33
バグダッドの栄光の時代はこのとき終わった。
後は、ペルシャのタブリーズやイスファハーンに負けっぱなし。

169: 世界@名無史さん 03/11/24 21:58
『ジャーミゥ・ッタワーリーフ』によるとフレグ・ハンがバグダードを征服したとき、フレグ・ハンはカリフ・ムスタアスィムの邸宅に秘匿されてあった金で満たされた水槽を没収した
その実体は最高純度の金貨でその量は100ミスカール(約4.5t)であった。

170: 世界@名無史さん 03/11/24 22:13
>>169
訂正。1ミスカールは4.5g前後なので100ミスカール=約450g
なお、フレグはムスタアスィム自身に2千着の衣服、1万ディーナール、財宝・宝石のの類も接収している。

196: 世界@名無史さん 04/03/21 11:13
アッバース朝はモンゴルに滅ぼされたんだよね? 
バグダッドは80万人大虐殺の悲劇!

197: 世界@名無史さん 04/03/21 17:30
>>196 
『集史』を見る限り「大規模な殺戮と略奪が」行われたという記述はみられるが、水攻めで1万2千人、投降したもの3千人以外の実数はあまり詳しく書かれていない。 

状況的に再三の降服勧告にも応じなかったための報復とみられるが、80万という数字は確認できない。 
この「バグダードの犠牲が80万人」という数字は時折見掛けるが、アラブ側のものかティムール朝時代の資料が情報の典拠となっているのだろうか?

198: 世界@名無史さん 04/03/22 18:10
当時のバグダートの人口って幾らぐらいだったんだろうね?

199: 世界@名無史さん 04/03/29 11:18
100万人だったのは唐代だったっけな。

201: 世界@名無史さん 04/05/04 18:51
イスラム史の中心的王朝だったのに滅びちゃったんだねえ。 
西洋史で言えば、ローマ教皇がモンゴル人によって滅ぼされてしまったようなものか。

172: 世界@名無史さん 03/11/27 12:39

「後アッバーズ朝」ってきいたことがありますか?

177: ty270410 03/11/29 00:26
>>172
後アッパス朝は,アッパス朝が滅びた後,最後のカリフの一族がカイロに逃れて再興したカリフ家です.
歴代のカリフはエジプトのスルタンの保護を受けていたと読んだことがあります.
オスマン朝のスルタンがエジプトを統合した時にカリフ権をスルタンに譲り,終焉しました.
それ以後,オスマン朝のスルタン・カリフ制が成立しました.

記憶に頼って書いています.どなたか補訂してください.

178: 世界@名無史さん 03/11/29 00:47
>>177
「後アッバース朝」なる表現を見かけたことはないんですが。
バイバルスがカイロに擁立したアッバース家のカリフは厳しい監視の下に置かれてほとんどマムルーク支配の正統性をアピールするための道具のような存在で、政治的実権を握ることはなく、バグダードのアッバース朝とはまったく違うお飾りのような状態だったので。「カイロのアッバース朝カリフ」などの呼び方はすることがあると思いますが。

「後ウマイヤ朝」という表現も日本でしか言わない言い方で、史料では「コルドバ(クルトゥバ)のウマイヤ朝」、「アンダルスのウマイヤ朝」という名で呼ばれていたとか。

>オスマン朝のスルタンがエジプトを統合した時にカリフ権をスルタンに譲り,終焉しました. それ以後,オスマン朝のスルタン・カリフ制が成立しました.

このあたりのオスマン朝のスルタン・カリフ制の成立の経緯についても、16世紀当時の記録にはオスマン朝のスルタンがカリフを名乗ったという記述がないためこの説は疑問視されているようですが。



引用元: ・アッバース朝