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1: 世界@名無史さん 2007/10/30(火) 23:20:38 0
王侯貴族から平民まで、あらゆる階層の人々の暮らしを語りましょう。







3: 世界@名無史さん 2007/10/31(水) 06:29:04 0
大改造までのパリと言う街の酷さを調べれば調べるほど、なんと言われようとナポレオン三世の偉大さがよくわかる。

パリ改造は、第二帝政時の19世紀、セーヌ県知事のジョルジュ・オスマンが取り組んだフランス最大の都市整備事業である。

19世紀半ば頃までのパリは生活環境・都市衛生は極めて劣悪だった。暗く、風通しが悪く、非常に不衛生で、病気や疫病が蔓延する街だった。

オスマンは1853年から1870年まで17年にわたってセーヌ県知事を務めたわけだが、ナポレオン3世の構想に沿って大規模な都市改造を企てた。改造では、パリの衛生状態を良くすること、またそのために光と風を入れることも目的として掲げられた。その目的のために、幅員の広い大通りを設置するとともに、道路網の整備を行なった。また街区の内側に中庭を設けて緑化を行い、開放的で衛生的な街を整備した。


4: 世界@名無史さん 2007/10/31(水) 11:54:11 0
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1858年のパリ


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工事中のパリの下水道


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その他

5: 世界@名無史さん 2007/10/31(水) 12:30:26 0
ttp://www5b.biglobe.ne.jp/~kabusk/dentoh53.htm
※リンク切れ
オスマン化以前の、狭くてじめじめしたパリの裏通りの写真

路地は下水溝であると同時にゴミ捨て場として用いられ、年中じめじめしていた。家の窓と穴倉の入り口はこの悪臭ふんぷんたる通路に面しており、その奥には共用トイレとして用いられる肥溜めがあった。
パリの場合、農村からの人口流入が激しく、彼らの滞留するスラムは肺結核やくる病、コレラやチフスの巣窟であった。とりわけ有名なのが1832年のコレラ大流行である。

6: 世界@名無史さん 2007/10/31(水) 20:19:29 0
ラ・ブリュイエール(1645-1696)が描いた当時のフランス農民の生活

野原に、粗野な、ある種の動物がちらばっているのが見える。オスもあり、メスもある。黒く、青白く、日に焼けている。地べたにくっつき、うちかちがたい辛抱強さで、土地をひっくり返し、動かす。彼らは音節のある声のようなものを出し、立ち上がると、人間の顔を示す。じっさい、彼らは人間なのだ。
彼らは夜は巣の中にすっこみ、黒パンと水と草の根っこで生きている。彼らは、他の人間の、生きるために種をまき、耕し、穫り入れする苦労を省いてやるのだ。だから、彼ら自身がまいたパンに事欠かないようになる資格はある。

7: 世界@名無史さん 2007/10/31(水) 22:54:39 0
アンシャン・レジーム下のフランスでは、北フランスでも瓦葺きの百姓家は4分の1以下、ふつうの農家は草で屋根を葺き、家の中は今と馬小屋と脱穀場の3つにすぎず、農民のある者は、そこが暖かいというので、馬小屋で冬を過ごす者もあった。
窓にガラスを嵌めるのは、まったくの贅沢とされていた。彼らは靴や靴下はもちろん、木靴すら履いていないことが多かった。
小麦は地代として納入し、自分たちはライ麦、大麦、カラス麦などを食べ、肉は日曜日と祭りの日以外には無かった。そして彼らの平均寿命は25歳をこえなかったと報告されている。

8: 世界@名無史さん 2007/10/31(水) 23:18:08 0
南フランスは、さらにひどかったんでしょうね。

10: 世界@名無史さん 2007/10/31(水) 23:52:09 0
>>8
冬の寒さだけは北フランスよりましだっただろうけどね。

ちなみにブイヤベースはもともとマルセイユの漁師が売れない魚を大鍋で煮たもの。
北フランスの食べ物は牛肉・バター・穀物・ジャガイモが多いのに対し、南フランスは羊肉・野菜・果物・ニンニク・ハーブ・海産物・ワインなどを使用し、イタリアやスペインと共通する部分もある。

9: 世界@名無史さん 2007/10/31(水) 23:48:25 0
ロシアの農奴も、お婆さんに声をかけたら20代だったって話が残ってるもんね

11: 世界@名無史さん 2007/11/01(木) 01:08:41 0
>>9
no title

ロシアの農奴の写真

25: 世界@名無史さん 2007/11/13(火) 00:16:30 0
>>11
それは農奴じゃなくて舟曳き

12: 世界@名無史さん 2007/11/01(木) 03:14:15 0
「西洋近代をつくった男と女」によれば、中央フランスの小さな半農村的な町で、識字能力は、男性の35%、女性で27%で意外と高い。

16: 世界@名無史さん 2007/11/01(木) 17:20:28 0
>>12
18世紀オーストリアの場合、英仏はおろか、他のドイツ領邦よりも識字率が低かったらしいね。
教育の重点が長い間カトリック的精神修養におかれた結果なんだけど。
文字を解する知識階層はほぼ教会関係者に限定されていた。

344: 世界@名無史さん 2008/01/24(木) 06:09:53 0
>>16
オーストリアの場合は宗教より他民族国家であったことが問題だよ
毎回13の言語で法令を出して
戦争になれば13の言語で布告を出したり
教育も13の言語でおこなってたわけだろ?
今思えば支離滅裂な国だったと思う。
スペックは高かったが

13: 世界@名無史さん 2007/11/01(木) 06:05:30 0
イギリスでは17世紀後半に「コーヒー・ハウス」が大流行する。コーヒー・ハウスは、もともとその名のとおりコーヒーを提供したが、間もなく茶やチョコレートも供するようになった。当時のチョコレートはまだ固体ではなかったので、ココアのことである。そもそもコーヒーハウスは、クロムウェルによる革命政権時代に、反体制派、つまり王党派インテリの集合場所として成立したものだった。

コーヒーや紅茶一杯で談論風発、自由な議論のできる場所として、コーヒー・ハウスは劇的に成長し、繁栄したのである。17世紀末のロンドンには、数千軒のコーヒー・ハウスが営業していたとさえいわれている。これだけ多数の、多様な人々が自由に出入りしたため、コーヒーハウスは、まさに当時の情報センターとなり、近代市民文化、例えば文学や新聞、ジャーナリズム、今日にまで続く「王立協会」などの科学者集団、株や国債の取引などの銀行業、いまも世界一の保険組合であるロイズなどの保険業や、トーリとホイッグという最初の二大政党組織などが、そこをゆりかごとして生み出された。

ピューリタン革命から名誉革命にまでいたる激動の時期には、どんな階層の人も無礼講で会話を楽しむという階層縦断的な性格を持ったコーヒー・ハウスが繁栄したのである。

関連記事
【世界史】コーヒーハウス  



14: 世界@名無史さん 2007/11/01(木) 06:13:14 0
フランスでカフェが初めてできたのは1654年だが、やがてコーヒーが流行し、カフェが増える。ここでは新聞が読め、いろいろな噂話を聞き込むことができ、トランプ遊びやチェスがやれた。
カフェのなかでは「プロコープ」という店が有名で、大勢の文士が出入りした。
ダントンは弁護士見習い中に夕食後、カフェで仲間とドミノの勝負に興じた。

ただし、これは都市部だけの話で、農民たちはまだ砂糖・チョコレート・ジャガイモなどをほとんど口にすることがなかった。ジャガイモは、アメリカから輸入されていたが、毒があるなどという迷信が広がって、それが食料飢饉の解決を妨げた。

15: 世界@名無史さん 2007/11/01(木) 06:48:38 0
18世紀末のドイツでは読書人口が増加し、各地で読書協会がつくられていった。
読書協会は全国で270にも及んだ。それらは一冊の書物を皆で回し読みしたり、書物の感想を述べ合ったりするところであった。
自由と平等の原則のもとで社会の身分や序列に関わりなく、性別も問うことなく集まった人々の集団であった。
ほかには農業技術改良協会、音楽協会、歴史協会などがあり、格式やしきたりと無縁で仲間と洗練された楽しみを享受することができた。

18: 世界@名無史さん 2007/11/06(火) 12:11:00 0
18世紀・19世紀のロンドンの水はとても汚かった。
なぜかというと、18世紀のロンドンでは、下水設備と、井戸水や圧水による上水設備が入り混じっていたので、人口過密地区に住み、公共上水道を頼りにしている貧しい人々はいろいろなものに汚染された水を飲むことになった。そして、その水が人々の健康を害したことは言うまでもない。
水は、ロンドンの通りから流れてくる、馬の汚物や窓から投げ捨てられる排泄物、肉屋が通りに投げ捨てる臓物、150もの屠殺場で殺された何十頭もの牛・羊・豚の臓器や血によって汚されていた。こういったものは、通りの真ん中にあるどぶに流され、テムズ川に運ばれた。また、上水道の管は楡の木で出来ていて、各世帯に設置された貯水槽は普通鉛製だった。また、楡の管は通常4年で交換しなければいけない所を20年使っていた。この、次第に腐っていく楡の管と鉛もまた、人々の健康に影響を与えていただろう。

21: 世界@名無史さん 2007/11/07(水) 14:17:23 0
ヨーロッパでは、砂糖と茶はもともと薬局で薬として売られていた。
コーヒーハウスが普及してから現代のように砂糖入り紅茶が飲まれるようになった。
それでも18世紀にはまだ、庶民にはなかなか手が届かないステイタス・シンボルだった。

26: 世界@名無史さん 2007/11/21(水) 21:34:48 0
近世ヨーロッパの農村では、よそ者や兵隊くずれに対する恐怖・警戒心、ふだん経済関係もあり通婚圏内でもありながら、隣りあった聖堂区の村民同士のいわれない差別感や不和、こうしたことから若者たちはしばしば激昂して、集団で流血の惨事を引き起こし殺人にまでいたった。
若者の無軌道は大目にみられていたどころか面白がられていた気配があるが、若者だけでなく大人もまた、猟の獲物の分配問題や放牧権や隣家が与えた損害の回復という理由で、しばしば暴力に訴えた。

34: 世界@名無史さん 2007/11/26(月) 08:02:08 0
>>26の続き

狭く暗い自分の家を出て、居酒屋で一杯引っ掛けるのは、悪くない気晴らしであり、ここは村の外からやってくる旅人の話を聞き、仲間と情報を交換し、日常事務を互いに処理するところでもあって、繰り返し人と人との絆を結び直す場所なのである。
しかし一方で、油断のならない場所でもあって、濃密な付き合いの空間でもあるから、色恋沙汰や家族内の秘め事を暴かれたり、性的タブーを口にするなど共同体内の規範が犯されたという理由で、人々は激昂し相手を殺してしまうのであった。
この時代は地方の貴族や聖職者たちも決して例外ではなく、家同士の宿怨や傷つけられた名誉のために相手を襲った。いずれにしても裁判所に訴えることは重んじられず、自らの手で問題を解決しようとしたのであった。
暴力はごくありふれたことであったし、当時の医術や衛生の観念からして、ちょっとした傷が致命傷になるのであった。

27: 世界@名無史さん 2007/11/25(日) 08:17:15 0
>>26
シチリア島での抗争と似たようなことを
ヨーロッパ中でしていたわけだ

28: 世界@名無史さん 2007/11/25(日) 18:54:31 0
所詮前近代だからな

30: 世界@名無史さん 2007/11/25(日) 20:12:06 0
近世ヨーロッパの農村では、出土した人骨などから、泥まじりの食物をとっていたことがわかっている。
都市では、コロンブス以来、梅毒の流行のため公共浴場がすたれたといわれていて、湯浴みの習慣はむしろ少なくなっており、一般に垢まみれ、南京虫・ノミ・シラミなどの寄生虫だらけであった。

35: 世界@名無史さん 2007/11/26(月) 08:33:24 0
世紀末ヨーロッパ

ttp://www.art.shizuoka-city.or.jp/program/200505hermitage/photo/11.jpg
化粧石鹸のポスター
ジュール・シェレという画家が描いたポスター。肌を美しくすべすべにするという触れ込みで、個々人の衛生に非常に敏感になり始めていたこの時代の社会を反映している。


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ベル・エポックの街頭美術 街頭ポスターに登場した殺菌牛乳
「バンジヤンヌの殺菌牛乳」 
19世紀末のバリの街頭を彩ったポスター。猫を好んで題材にした社会主義者で画家のスタンラン。その彼の傑作のひとつがこの殺菌牛乳の宜伝ポスター。
当時、牛乳から伝染する恐ろしい病気のひとつに結核があった。しかし、結核歯は細菌学の租バスツールが1864年に考案した「低温殺菌」で殺菌できることが分かり、牛乳の殺菌に実用化されるようになった。この絵の少女はスタンランの愛娘コレツト、そして可愛がっていた猫三匹。殺菌牛乳なら安心、という絵である。

37: 世界@名無史さん 2007/12/09(日) 21:07:05 0
1895年、フランスのリュミエール兄弟は、自分たちが開発したシネマトグラフという動く画像を、史上初めて一般の観客に公開した。
活動写真機は、すでにエジソンが発明していたが、これは一人で見る覗きからくりのような装置でしかなかった。リュミエール兄弟は、動く画像を映写できる装置を開発したのである。
リュミエールの公開映画会は、驚嘆の声をあげさせたが、しかし映画が、新しい表現メディアとしておもしろい可能性をもっていることを見抜いたのは、ジョルジュ・メリエスであった。彼は、現実の情景を記録したリュミエールとは違って、スタジオでセットを組んで撮影する方式を考案した。劇映画の誕生である。

38: 世界@名無史さん 2007/12/22(土) 03:47:26 0
リュミエール兄弟って単語を見るとパリは燃えているかが頭の中で流れ始める

41: 世界@名無史さん 2007/12/24(月) 10:57:55 0
1900年の万博で映画が重要な出し物になると、その後は、当時の一流の俳優を起用するなど、劇映画の製作は本格化した。新しい芸術として認知されると同時に、庶民をもひきつけた映画は、新しい産業、映画産業を誕生させたのであった。
旧来からの劇場も、映画にくわれてしまったわけではなかった。19世紀には著作の翻訳が各国で相互に進められ、鉄道による移動や情報伝達の簡便化もあって、演劇や各種の舞台公演、音楽も、各地で共有されるようになっていた。
ヴェルディのオペラは、本拠地のイタリアだけでなく、またワーグナーは本拠地バイロイトだけでなく、各地で公演され、感激を引き起こした。

120: 世界@名無史さん 2008/01/21(月) 04:33:46 0

Panoramic_view_of_London_in_1751_by_T._Bowles

結構栄えている
産業革命前のロンドン

121: 世界@名無史さん 2008/01/21(月) 04:36:29 0
OldLondonBridge


すごすぎ
産業革命後のロンドン 
1890年代

691: 世界@名無史さん 2008/12/19(金) 06:52:35 0
【国際】ドイツ:イノシシ猟の当たり年に、47万7500頭が捕獲 「第二次世界大戦後で最高記録級」と猟師団体

★ イノシシ猟の当たり年に、47万7500頭と ドイツ
ドイツの猟師団体は19日、昨年4月から今年3月までの間に捕獲したイノシシは約47万7500頭と、第二次世界大戦後で最高記録級になったと報告した。前年同期比で66%増。AP通信が報じた。
天気に恵まれてイノシシの出産が高まり、農作物の生産拡大が大量のエサにつながった
ためなどとしている。
一方で、都市部に出没するなど従来なかった現象も出てきた。民家の庭や花壇が荒らされる弊害も生まれている。ベルリン市は、市内に生息するイノシシは2005年の7000頭から1万頭に増えたと推測している。
http://www.cnn.co.jp/business/CNN200811200025.html

市内に森があるのか

692: 世界@名無史さん 2008/12/19(金) 08:32:09 0
そりゃまあ行政区域としての「市」内には森ぐらいあるだろう。

695: 世界@名無史さん 2008/12/21(日) 01:56:23 0
>>692
行政区域としての市内などと大上段に構えなくとも、ベルリン都心にほど近いティーアガルテンは有名じゃないか。大統領官邸ベルヴュー宮殿はこの森の外れにある。

696: 世界@名無史さん 2008/12/21(日) 13:02:01 0
ヨーロッパでもイノシシ食べるんだっけ?
まあ、当然、食べるよな・・・
でもイノシシ料理って聞いたことないな

697: 世界@名無史さん 2008/12/21(日) 13:10:07 0
>>696
ヨーロッパの肉屋には普通にイノシシの肉も並んでる。
他にも鹿、羊、ヤギ、などなど。

699: 世界@名無史さん 2008/12/21(日) 14:48:22 0
>>697
やっぱりそうだわね。
煮込みとかにするのかな。

698: 世界@名無史さん 2008/12/21(日) 13:22:59 0
日本だと舶来品おいてるようなとこでもないと
牛・豚・鶏(さがって馬・羊)以外の肉って肉屋に普通に並んではいないよね

699: 世界@名無史さん 2008/12/21(日) 14:48:22 0
>>698
うちの近所(京都)のスーパー3軒でみると、鴨はほぼ常時置いてるかな。
ラムがその次ぐらいか。
イノシシは一回だけ見たことがあるな。

あと、日本では今でも自宅でニワトリを締めた経験がある人が時々いるけどヨーロッパではいつごろまで獲ってきた禽獣を自宅でばらしてたんだろう?

700: 世界@名無史さん 2008/12/21(日) 14:53:59 0
ヨーロッパの肉屋は、日本で基本的な牛豚鶏の他に、羊、山羊、猪、鹿、鴨、鵞鳥、家鴨あたりがおいてあるのが普通らしいね。

702: 世界@名無史さん 2008/12/22(月) 03:10:27 0
近世ヨーロッパと肉食について。

豆のスープと固いパン、みたいな食生活だった庶民にまで肉食が広まったのは近世に入ってからだよね。

703: 世界@名無史さん 2008/12/22(月) 07:09:06 0
>>702
麦類の収量が足りない時代には豚肉は冬場を乗り切る重要な食品だったという。
肉が食べられて嬉しいというより、それしか食うものがないという状況だったとは思うが。
人口の増加に伴って肉が口に入らなくなったという。

706: 世界@名無史さん 2009/01/29(木) 11:58:43 0
>>702
実は中世の頃のほうが一般庶民は肉にありつけた
一般庶民の食生活から肉が消えたのは18、19世紀
急激な人口増加で食生活が貧しくなった

708: 世界@名無史さん 2009/01/31(土) 22:44:25 O
19世紀は北イタリアよりアルゼンチンの方がジニ係数低いぐらいだったからね
今じゃ考えられない

709: 世界@名無史さん 2009/02/05(木) 22:46:06 0
けど中国は人口増加でいつものサイクル通り社会崩壊したからな
それに比べればヨーロッパの人口増加によるダメージは大したことない
植民地に人口流出したからね

引用元: ・近世~近代ヨーロッパの暮らし



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