516FKmuGu8L



1: 世界@名無史さん 2005/06/26(日) 12:27:19 0
明建国以降、世界史板にもあまり話題に登らない「北走以後」のモンゴル世界について近代前夜まで様々に語ってみましょう。
諸ハーン乱立、明との戦い、清への服属、北から迫るロシア・・・


関連記事
【北元から】その後のモンゴルを語ろう【革命まで】 









6: 世界@名無史さん 2005/06/26(日) 14:33:45 0
北元っていつまで存在したの?

8: 世界@名無史さん 2005/06/26(日) 15:39:53 0
モンゴルの諸部族が大清太宗皇帝ホンタイジをハーンに推戴するまで、かも。

12: 世界@名無史さん 2005/06/26(日) 23:04:41 0
土木の変の時は北京包囲にまで追い詰めて、結構勢いを戻したんだけどなあ。

英宗(涙) <嗚呼!太祖陛下、助けてくださりませぇぇぇぇ!

13: 世界@名無史さん 2005/06/26(日) 23:07:46 0
ただ、英宗はモンゴル側に丁重な扱いをされていたというね。

15: 世界@名無史さん 2005/06/26(日) 23:25:34 0
>>12-13
土木の変で正統帝を追いつめたのはオイラトのエセン。
大元ハーンを簒奪してはいるが、チンギス統ではないので厳密には北元とは別扱いした方がいい。

16: 世界@名無史さん 2005/06/26(日) 23:55:58 0
「北元」という呼称は、クビライの血統が断絶した1388年までにしといてよ。

17: 世界@名無史さん 2005/06/27(月) 00:24:43 0
ダヤン・ハーンっていうのは「大元可汗」なんだからそうもいかない。

18: 世界@名無史さん 2005/06/27(月) 00:26:09 0
クビライの血統はダヤン・ハーンを経てリンダン・ハーンまで続いているが。

19: 世界@名無史さん 2005/06/27(月) 03:30:45 0
でもってリンダン・ハーンの子エジェイがホンタイジに降伏したのが1635年、
ホンタイジが満州族、漢族、モンゴル族の三族から推戴される形で大清の皇帝に即位し、モンゴルをハーンとして服属させることになったのが1636年。

20: 世界@名無史さん 2005/06/27(月) 20:40:23 0
>>19
これでモンゴル全勢力が清朝に屈服したわけではない。
この時清朝支配下に入ったのは、今のいわゆる内蒙古諸部だけ。

ハルハ諸部やオイラト諸部が清朝支配下に入ったのは、

ハルハ諸部-1691年
青海ホシュート部-1723年
ジュンガル部-1755年
帰還トルグート部-1771年

191: 世界@名無史さん 2006/08/22(火) 01:37:14 0
チンギスの代にモンゴルに降ったトメト部は、元代以降はどうなったんでしょうか。
故地に引き続き住んでブリヤートに同化したのかな。

196: 世界@名無史さん 2006/08/31(木) 15:37:00 0
『元朝秘史』だと、トマト部族の首長はダイドクル・ソコスという人物だったが、チンギス・ハンが、母のホエルンに養育されたフウシン部族のボロクル・ノヤンをトマト征服のために派遣した時、彼は既に死んでいて、トマト部族はダイドクルの妻ボトクイ・タルクンという女性が統べていたらしい。

ボロクルはトマトとの戦いで捕殺されてしまい、怒ったチンギスは自ら出陣する勢いだったが、ボオルチュ、ムカリらに制止されドルベン氏族のドルベイ・ドクシンが派遣された。
トマトの民は勝利に酔ってまさに宴席で泥酔していたところをドルベイはことごとくこれを捕縛し、その部衆を諸将に分配してしまったらしい。先年オイラト部族のクドカ・ベキが帰順し、モンゴル高原の西北方面の鎮撫を任されていたが、ともに派遣されていたらしいバアリン部族のコルチ・ノヤンは一旦帰順したはずの部衆に捕まってしまい、二人揃ってボトクイのもとに捕縛されていた。
トマトの制圧が完了すると、ボロクルの親族には100人のトマトの民が与えられ、コルチ・ノヤンはチンギスが派遣時に約束としていたトマトの30人の娘を娶り、クドカ・ベキにはトマトの女酋ボトクイ・タルクンが与えられたという。

というわけで、トマトの民はその後資料には現れなくなり、その部衆の大半もおそらくオイラト部族の勢力に吸収されてしまったようだ。

202: 世界@名無史さん 2006/09/26(火) 13:18:58 0
草原騎馬民族の軍事的優位が失われたのは、いつ頃ですか??
明朝には常に脅威だったモンゴルが、清朝期には無力化。

清が、初期には明の火砲に苦しんだというから、逆に、火砲でモンゴルを制したんですか??
1680年代のモンゴル・ロシア衝突では、武器の差でモンゴルが完敗したというし。
康煕帝のモンゴル遠征とかは、基本的に火器メインなの??

203: 世界@名無史さん 2006/09/26(火) 13:33:11 0
明末期の武将戚継光は大量の火器を投入してアルタン・ハーンのモンゴル軍と戦っていたけど、弓騎兵が主力の敵にたいして機動性が低すぎたせいか撃退するのが精一杯で、モンゴル本土を攻撃することはできなかった。

204: 世界@名無史さん 2006/09/26(火) 17:00:10 0
>>203
砲とかだと、軽装騎兵に対抗するの難しそうですね。
拠点防衛にはいいけど。
もっとも、明期モンゴルは、手薄なところを狙っての辺境侵攻はできても、昔みたいに征服はできなかったら、意外と、防衛戦での火器の威力大きかったのかな。

小銃とかが普及すると、遊牧民弓騎兵は圧倒的不利になるのかな。

1652年代の清朝・ロシア衝突で小銃で武装したロシア側が圧勝してるから、この辺が転換期か。

208: 世界@名無史さん 2006/09/27(水) 11:08:18 0
>>204
清への援軍を率いた朝鮮人将校の手記なんか読んだ限りでは、満州に侵攻したコサックも圧倒的優位を誇っていた訳でもないようだけど。

同時期にクリミア・タタール国へ侵攻したロシア軍はある程度近代化されていたがタタール側の焦土戦術に悩まされて撤退している。

205: 世界@名無史さん 2006/09/27(水) 00:29:37 0
オスマントルコは
1473年バシュケントの戦い
1514年チャルディラーンの戦い
で火器を用いて遊牧系騎兵を撃破してるんだけどなあ

明がモンゴルや女真に対して同じように出来なかったのは何故。

209: 世界@名無史さん 2006/09/27(水) 20:39:30 0
>>205
チャルディラーンの戦いによってサファヴィー朝軍は半壊状態に陥ったが、結局シャー・イスマーイールもその後形勢をいち早く立て直している。オスマン朝との戦闘の経験のあった将帥から敵オスマン軍の主力であるイェニチェリ軍団は銃火器を装備して強力であるため夜襲すべしとの進言があった。それにもかかわらず、会戦に打って出て、半ばまで押しまくっていたが、最後の土壇場で主要な将軍の何人かが戦死したせいでサファヴィー朝側は敗退してしまった。

以後はサファヴィー朝軍は銃火器を警戒して、会戦をなるべく回避し、焦土作戦やゲリラ戦などで歩兵部隊が主体であるイェニチェリ軍団をその都度疲弊させている。
オスマン朝によるアゼルバイジャン以西への遠征が何度か敢行されたが、その数が多い割に戦果は捗々しく無い。一応、サファヴィー朝の内訌によるキジルバシ諸侯が寝返ったせいでバグダード周辺を獲得したが、それ以外にその後は決定的な勝利を得られず、遠征を行っては無為に消耗して敗走することも多かったようだ。

確かに銃火器は騎馬軍団にも威力を発揮したが、機動力の差を利用してサファヴィー朝の騎馬部隊によって兵站が延び切ったところを劫略されることも常で、遠征をしては散々な目にあっており、銃火器のおかげで騎馬部隊に対して圧倒的優位になったとか、連戦連勝とかいうにはおよそ程遠いのが現実だったようだ。

211: 世界@名無史さん 2006/09/29(金) 12:52:06 0
そういや、モンゴルって、清朝から唯一独立を果たしたって、スゴイね。
独立してなかったら、今頃、チベットやウイグルみたいになってたか。

212: 世界@名無史さん 2006/09/29(金) 13:55:45 0
外蒙古は必要なかったから独立できただけで内蒙古はチベットやウイグルみたいになってるぞ

213: 世界@名無史さん 2006/09/29(金) 14:27:13 0
外蒙古はソ連の忠実な衛星国だったし。

214: 世界@名無史さん 2006/09/30(土) 12:56:58 0
衛星国だろうが独立を保てただけましって見方もあるけどな
トゥヴァみたいに最終的にソ連に併合されるよりはいいだろうよ

217: 世界@名無史さん 2006/10/02(月) 13:30:48 0
清朝は中国かぶれになってからモンゴル族をないがしろにしてきたからな

218: 世界@名無史さん 2006/10/05(木) 18:32:50 0
蒙古連合自治政府の樹立にはそういう鬱積も下地にあったんだろうか。

蒙古聯合自治政府は、1939年に内蒙古(南モンゴル)に樹立された自治政府。1945年8月9日のソ連対日参戦と日本の敗戦によって崩壊。


219: 世界@名無史さん 2006/10/05(木) 18:49:17 0
清でも民国でも蒙古の王侯が特権階級として保護されていたが。

223: 世界@名無史さん 2006/10/06(金) 17:29:33 0
>>219
それ分断して支配せよを実行しただけ
特権階級には利権を与えモンゴルの庶民は搾取の対照だ罠
( `ハ´) は質の悪い緑茶をボッタクリ価格で
モンゴル人に売りつけて遊牧民の自給自足生活を破壊しているよ

225: 世界@名無史さん 2006/10/07(土) 17:43:43 0
>>223
それは結果論でしょ。
清朝体制に取り込まれたモンゴル王侯が、奢侈に流れ、覇気を失うのは仕方ないこと。
漢人のモンゴリア流入も、清朝後期~末期まで、清朝は必死に制限してたし。

230: 世界@名無史さん 2006/10/07(土) 20:17:17 0
>>223
緑茶みたいな嗜好品をボッタクリで売るのは搾取なの?
じゃあ、イギリスとかも清に搾取されてたと解釈するの?
そもそも、前近代の国家が庶民から金をとるのを搾取の対象と言ってたら、搾取していない国家など無いのでは?

232: 世界@名無史さん 2006/10/07(土) 21:17:32 0
>>230
モンゴル人の食生活は極度に肉食に偏っているため保健成分としてのビタミンCを欠いておりスキタイや匈奴以来馬乳酒を大量に飲むことによってその欠乏をかろうじて防いできた

ところが売買城交易によって茶が手に入りやすくなると生命の保持上飲用が欠かせなくなった、このため、自給自足が建前の遊牧経済が、大きく崩れた

草原の記 新潮文庫 司馬遼太郎著

231: 世界@名無史さん 2006/10/07(土) 21:11:07 0
モンゴル(王侯)が清に従属したのは、自業自得の面があるね。
収入あがるからと、農耕拡大したり、清から下賜金もらって、のうのうとしてたり。
もともと、清は、チンギス・カンの後裔から、皇帝の地位を譲られたから、モンゴル王侯としても、隷属してる意識なかったのかも。

235: 世界@名無史さん 2006/10/08(日) 02:05:40 0
フビライ王統の最後となった北元の地保奴(ティボヌ)は、明軍に捕らえられ連行された後、琉球へ島流しに処されて客死している。
しかし当時の琉球って明から見てどういう位置付けだったんだろう。
明領でもなかったろうに。

236: 世界@名無史さん 2006/10/08(日) 02:11:48 0
>>235
藍玉の北伐軍がティボヌら八万人のモンゴル人捕虜を連れ帰ったのが1388年。
沖縄本島はまだ群雄割拠の三山時代。
正統を名乗る各豪族が明へ競って遣使・朝貢していたから、その線だろうか?

237: 世界@名無史さん 2006/10/08(日) 02:16:21 0
>>235
その琉球は台湾との説を聞いたがどうなのか?

238: 世界@名無史さん 2006/10/08(日) 02:37:15 0
元軍が琉球に侵攻したという記録も、恐らくは台湾らしいから>>237が実際のところなのかもな。

酷熱瘴癘の南国の島はモンゴル人にとっちゃ地獄だったろうな・・・

239: 世界@名無史さん 2006/10/08(日) 08:40:14 0
大琉球=沖縄
小琉球=台湾

240: 世界@名無史さん 2006/10/08(日) 09:38:01 0
フビライの血筋の梁王は明軍に投降した後済州島に流されてる。

241: 世界@名無史さん 2006/10/08(日) 11:07:05 0
済州島は名馬の産地だったこともあってか、元の直轄地だった時期があったっけな。

242: 世界@名無史さん 2006/10/08(日) 12:48:18 0
>>241
明の洪武帝が済州島の馬を朝貢するよう末期の高麗に求めていたが
済州島の「牧胡」は「フビライ・ハーンから預かった馬をどうして明に引き渡さねばならないのか」と抵抗。結局高麗軍が上陸してきて全滅した。

245: 世界@名無史さん 2006/10/08(日) 19:16:01 0
モンゴル王侯の子孫って、いま何してるの?
やっぱり地域の名士みたいな感じ?

247: ty270410 2006/10/08(日) 21:23:26 0
>>245
数年前だたと思いますが,オルドス地方のモンゴル王侯の子孫の女性が文化大革命の中で大変な苦労をした話が本になって刊行されていました.
(書名など今は忘れてしまいました.思い出したら書き込みます.)

多分,今では特権などはなく,普通の生活をしているのだろうと思います.

248: 世界@名無史さん 2006/10/08(日) 21:28:15 0
>>247
この方のことと思われ。波乱万丈とはまさにこの人。

「チンギス・ハーンの末裔 ~現代中国に生きた女性スチンカンル~」
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794206089

草始社刊

250: 世界@名無史さん 2006/10/09(月) 10:29:05 0
>>248
解説には父の死後没落して牧童同然になり、父の元従者と結婚したとあるが、その人が結婚したのは1944年で、その当時はまだ内モンゴルには王侯が健在で、徳王の蒙古連合自治政府とかがあった時代だよね。

そんな状況でも没落して牧童同然になる王侯の家があったの?

256: 世界@名無史さん 2006/10/12(木) 14:17:59 0
モンゴルの民衆は漢人とつるんでいたモンゴル貴族を憎んでなんかいなかったんですね

257: 世界@名無史さん 2006/10/12(木) 14:29:47 0
http://www.nansenhokubasha.com/book/tusin94.html

モンゴルの民衆と漢人が仲良く共存していたことは当時の資料からも明白です

267: 世界@名無史さん 2006/10/15(日) 13:31:07 0
>>257
リンク先で、「漢人農民の不法な耕地を平らにならして元通りの草原にもどしてしまえ」との判決にモンゴル人が喝采してるな。
しかし、せっかく借りた土地を開墾したのに何の恩賞(農地とか)も与えないばかりか、農地を潰して草原にしろなんて言う地主は、農民にとっては気違いだろう。
日本で農地開墾してこんなこと言われたら一揆が起きますよ。
ことほど左様に道理が違うんだなあ。

268: 世界@名無史さん 2006/10/15(日) 13:37:53 0
牧草地として畜産に使え、という意味では。
草原の薄い表土と痩せた地味では、数年収穫した後は不毛の土地になってしまうしね。
もっとも、漢人は遊牧民への報復として意図的に開墾していたので、それへの抵抗だったのかも。

285: 世界@名無史さん 2006/11/04(土) 15:28:07 0
明はモンゴルを民族浄化したの?

288: 世界@名無史さん 2006/11/08(水) 20:10:25 0
>>285
モンゴル貴族の娘は売春婦にして元貴族の売春婦が産んだ娘も売春婦にされていた
ソースは陳瞬臣の「中国の歴史」

モンゴル人同士の結婚が禁止しされたので漢民族と結婚するしかなった時期もあったという書き込みを昔どこかのスレで見た
こっちの情報はソースがなくてスマン
明関連スレに行けば詳しい人がいるかも知れん

286: 世界@名無史さん 2006/11/04(土) 15:35:27 0
徳王の自治政権に参加せず、国民政府側にとどまった王侯もいたようだが、なぜこういう差が出たのだろう?

287: 世界@名無史さん 2006/11/04(土) 15:51:30 0
バルガの王侯だって徳王の自治政権に参加せず、満洲国側にとどまってたんだから、いいんじゃん?

297: 世界@名無史さん 2006/12/06(水) 19:14:19 0
>>286-287
日中戦争~終戦の時期において、内モンゴル王侯の身の振り方としては、こういうことか。

満州寄りの地域・・・満州国に参加
真ん中あたりの地域・・・徳王の自治政権に参加
新彊寄りの地域・・・国民政府に残留

304: 世界@名無史さん 2007/02/26(月) 02:03:43 0
>>297
ハーン国復活の好機だったのにな。
今後は望みなしか・・・

310: 世界@名無史さん 2007/03/31(土) 21:37:04 0
昨日、TVでモンゴル料理店を紹介してたが、モンゴルでは宴の席で男が馬乳酒が飲めなかったら、喧嘩になるか、そいつは一人前の男として認められないらしい。
しかし50度超えてる酒なんだけどね・・・

311: 世界@名無史さん 2007/04/01(日) 09:32:06 0
>>310
ポール・アンダースンのタイムパトロールものでモンゴル帝国の兵士に現代のウイスキーを飲ませたらその頃そんな度数の高い酒はなかったのですぐ酔いつぶれたって描写があったけど。

313: 世界@名無史さん 2007/04/06(金) 14:59:22 0
馬乳酒(アイラグ)はアルコール度数は極めて低いよ。
馬乳酒を蒸留したアルヒは度数高い。

>>310 >>312が言ってるのはアルヒのこと。
>>311が言ってるのはアイラグのこと。
それぞれ別の酒のことを言ってる(ゴッチャにしてる)ので話がすれ違ってる。

モンゴル帝国時代にもアルヒはすでにあったと思うよ>311

314: 世界@名無史さん 2007/04/13(金) 05:57:51 0
大元朝後期の料理書『飲膳正要』(天暦三(1330)年三月三日に文宗トク・テムルに献呈)の第三巻「酒」に「阿剌吉酒」というものが載っている。

「アラキ」と読むらしいが、これは現代モンゴル語で言うところのアルヒのこと。本文の説明でも「上等の酒を蒸留して」作るとあるので間違いない。もとはアラビア語で「汗がにじみでること」を意味する「アラク('araq)」という単語だが、元々は化学などで蒸留物の事を指していたようだ。
それが葡萄やナツメヤシ、米などを原料とした蒸留酒一般を指すようになり、モンゴル帝国時代前後からテュルク・モンゴル系の遊牧民の間でも愛飲されるようになったらしい。

プラノ・カルピニのジョヴァンニ修道士やルブルクのギヨーム修道士など13世紀中頃にモンゴル宮廷を訪れた西欧人の旅行記にモンゴル人たちが「黒コスモス酒」なるものを王族や貴族たちが大量に飲用していることを記録している。
コスモス酒つまり馬乳酒(クミス)が白濁しているのに対して透き通っているから「黒」と呼んだようなので、多分今のアルヒみたいな蒸留酒のことらしい。>「黒コスモス酒」

で、修道士たちが言うには、彼らモンゴル人は水で割らない濃いめのぶどう酒や「黒コスモス酒」などを毎日浴びるように飲んでいるので酔っぱらってばっかりだと酷評している。ワインはウイグルや中央アジアで良質な葡萄から醸造された物で、現地のウイグル系のキリスト教徒などが宮廷に献上していたらしい。(トルファンあたりで宮廷へのワインに関する文書が出土していたはず)

仮にウイスキーを当時のモンゴル人に出しても、すぐに酔いつぶれはするだろうけどそれは酒が入るといつも通りのことなので、「その頃そんな度数の高い酒はなかったので」ということは無いと思う。

ちなみにトルコではラクという蒸留酒があるが、これは「アラク」の語頭の「ア」が脱落したもの。
ウイスキーは概ね市販のものはアルコール度数40%前後までだが、トルコのラクでは45~50%、レバノンやシリアで現在でも飲まれているアラクは中には上質のもので60%くらいと、ウイスキーと遜色なかったりする。(勿論これらもウイスキー同様水で割られて飲まれるようだ)

315: 世界@名無史さん 2007/04/13(金) 08:51:03 0
ラキってアルヒと同じ語源なんだ・・・

不思議と思い及ばなかった

316: 世界@名無史さん 2007/05/03(木) 12:43:31 0
江戸時代の日本ではアラキ酒(阿刺吉酒)の名で知られていたね。
ちなみにアラクの語源はアラビア語'araq「汗」からだそうな。
蒸留を端的に表現した語なのだろうが、言い得て妙。

引用元: ・【北元から】その後のモンゴルを語ろう【革命まで】



興亡の世界史 モンゴル帝国と長いその後 (講談社学術文庫)
講談社 (2016-04-22)
売り上げランキング: 60,354