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1: 人間七七四年 2008/05/26(月) 08:24:10 ID:w9ga6aHd
平将門を祖と称する名家。
戦国期の伊達氏相手の抗争や、関ヶ原後の改易と所領安堵と、小身ながらしぶとく生き残った相馬氏一族、家臣や逸話を語りましょう。

武家家伝_相馬氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/souma_k.html
武家家伝_下総相馬氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/soma_sim.html








2: 人間七七四年 2008/05/26(月) 08:38:21 ID:w9ga6aHd
顕胤-盛胤-義胤-利胤(三胤)と名将揃い。かなりマイナーだがw

22: 人間七七四年 2008/05/27(火) 10:53:18 ID:w9KfnQQx
>>2
その前の高胤と盛胤も評価してくれ・・・

4: 人間七七四年 2008/05/26(月) 08:53:01 ID:4gGBQht/
夏祭りの騎馬武者行列イベント。

行列の先頭は相馬の殿様の子孫がつとめるとか。


それにしても相馬の騎馬隊の強さはガチ。


7: 人間七七四年 2008/05/26(月) 16:09:13 ID:EhqNBZSf
天文の乱以降、伊達家に振り回された印象が強いな。
まあ、血筋上仕方ないこととはいえな。嫁もらっているからな。
最後は滅ぼされるか降伏してまた伊達関係者になるかの選択肢だったのだが・・・

30: 人間七七四年 2008/05/27(火) 20:52:58 ID:lIdzbZaN
>>14
海運の運用については江戸中期かららしい。
ただ、文禄の役の直後に義胤は沿岸に城を造ろうとしていた。
建設途中で焼失してしまったけど。海に目は付けていたと思う。

31: 人間七七四年 2008/05/27(火) 21:16:30 ID:OeWbcPMJ
>>30
勉強になります。

江戸期には小規模ながらやったりしてたんですかね?
堺は無理としても、常陸や江戸辺りまでとか……。
江戸時代は太平洋側の海運は奮わなかったと聞いてますが。

46: 人間七七四年 2008/05/28(水) 12:22:14 ID:0GacaaiF
>>31
基本的には仙台藩と同じく江戸に米、味噌、塩などを取引していたらしい。
後は焼き物で相馬駒焼き(現在有名な相馬大堀焼ではない方)とか。

10: 人間七七四年 2008/05/26(月) 16:42:57 ID:AstcgFeo
相馬は盛胤が伊達に圧迫を加えた名将だし初陣の政宗も包囲されて片倉が政宗の身代わりになって脱出させてるね。
義胤は政宗と和睦してからは伊達寄りの姿勢で二本松城で苦戦してた政宗に助け舟を出してあげたり人取橋では佐竹のすぐ横に布陣しながら動きが鈍く佐竹が相馬は伊達に遠慮してるので裏切るかも知れないと疑っていて牽制された格好になってあげた
なのに三春に見舞いに行った際に伊達に騙し討ちで銃撃され首脳陣が崩壊し弱体化。
これ以来、相馬に良いとこなしで衰退し関ヶ原では西軍だとされて改易された。
この際に政宗が相馬の地を恩賞に欲しがっていた。

秋田へ行く佐竹に誘われた義胤は家中で秋田行きを相談したが利胤が先祖に申し訳ないと泣いて拒否し再興運動を願い出る。
幸い、弁護材料はある。1月に伊達と相馬で上杉を攻めて大敗した時の死亡者リストをもって利胤が江戸へ旅立ち、徳川首脳陣と面談できるツテを求めて苦労して駆け回り
ついに本多正信を紹介されるとこまでコギつけて泣いて嘆願し安堵になった。
伊達を恨む相馬家では死に望み義胤などは墓を伊達勢力圏を睨むように埋葬させたと言う。

14: 人間七七四年 2008/05/27(火) 00:51:22 ID:OeWbcPMJ
>>10
佐竹には色々と良くしてもらったみたいで、江戸時代には養子を貰ってるね。

11: 人間七七四年 2008/05/26(月) 19:03:16 ID:FaJuXvdd
相馬は強兵なんだけど、富国策がいまひとつ弱かった印象がある。
田舎大名の限界かもしれないが、経済に関しては伊達には及ばない。

12: 人間七七四年 2008/05/26(月) 21:58:31 ID:h07csk7T
そもそも領土の規模が違う伊達と経済力を比べるのはどうかな。
相馬は金山を所有していたらしいね。石田三成に金山の課金について相談した事を示す書状が残っている。
馬の産地だったし、飢饉も天明の大飢饉以外は餓死者は出なかったというからさほど貧困ではなかったのかな。

14: 人間七七四年 2008/05/27(火) 00:51:22 ID:OeWbcPMJ
>>11-12
交易とかしてなかったのかな?

30: 人間七七四年 2008/05/27(火) 20:52:58 ID:lIdzbZaN
>>14
海運の運用については江戸中期かららしい。
ただ、文禄の役の直後に義胤は沿岸に城を造ろうとしていた。
建設途中で焼失してしまったけど。海に目は付けていたと思う。

31: 人間七七四年 2008/05/27(火) 21:16:30 ID:OeWbcPMJ
>>30
勉強になります。

江戸期には小規模ながらやったりしてたんですかね?
堺は無理としても、常陸や江戸辺りまでとか……。
江戸時代は太平洋側の海運は奮わなかったと聞いてますが。

46: 人間七七四年 2008/05/28(水) 12:22:14 ID:0GacaaiF
>>31
基本的には仙台藩と同じく江戸に米、味噌、塩などを取引していたらしい。
後は焼き物で相馬駒焼き(現在有名な相馬大堀焼ではない方)とか。

46: 人間七七四年 2008/05/28(水) 12:22:14 ID:0GacaaiF
>>31
基本的には仙台藩と同じく江戸に米、味噌、塩などを取引していたらしい。
後は焼き物で相馬駒焼き(現在有名な相馬大堀焼ではない方)とか。

38: 人間七七四年 2008/05/28(水) 01:45:01 ID:0uNj6jBI
地元の人がいたら聞きたいが、知名度とか評判はどんな感じだい?
相馬と言えば、この殿様みたいな人物名が挙がったりするかい?

44: 人間七七四年 2008/05/28(水) 08:53:49 ID:bUDoSliw
>>38
元地元民だが殿様への親しみはあるとは思うよ。
ただ特定の殿様の知名度が高いって話は聞かないなあ…

46: 人間七七四年 2008/05/28(水) 12:22:14 ID:0GacaaiF
>>38
藩祖義胤、初代藩主利胤、三代目藩主忠胤がよく取り上げられているよ。
義胤は伊達政宗と戦った、という点で箔があるし、地元研究も進んでいる。
あとは奥州に下向した6代目重胤、相馬事件で有名になってしまった最後の藩主誠胤。
自分は個人的に12代目高胤~14代目顕胤が好きなんだけど
御壇を見に行ったら手入れがしてなくてちょっと悲惨なことになっていた。
ただし一般市民レベルでは現当主含め「相馬の殿様」という一括りになっているね。

40: 人間七七四年 2008/05/28(水) 04:19:20 ID:IDfDm2Xh
相馬は強かったね。
伊達の和睦してからは政宗に協力的だったのに田村の三春で幹部達が不意に銃殺されまくりだもんな。
ひでー謀略だよ。しかも関ヶ原の恩賞に相馬領欲しさに西軍側だと陥れて悪魔か!
そりゃー義胤も遺言で伊達のある北側に向けて立ったまま埋葬しろと言うわな。

42: 人間七七四年 2008/05/28(水) 07:51:14 ID:2tY2TkqQ
>>40
相馬は戦闘(陸戦のみ)には強いんだが、謀略とか外交に弱いイメージがある。

48: 人間七七四年 2008/05/29(木) 23:56:34 ID:Hba7l511
友人が、相馬氏が好んで使っていた騎馬の突撃体型って、総大将を先頭にしてたって言うんだけど本当ですか?

49: 人間七七四年 2008/05/30(金) 10:42:38 ID:7dW6tPBX
相馬義胤が鋒矢の陣(←型)の先端で敵陣に突っ込むので大将を守ろうとして兵の士気が異様に上がった、というのは聞いたことがある。
盛胤・輝宗が対陣していたとき、まだ若かった義胤がたった7騎で敵陣に突っ込んだこともあるね。
顕胤、盛胤はそういうことはしなかったみたいだから単純に義胤の性格と、政宗との戦い方の相性だったのかもしれない。

61: 人間七七四年@全板トナメ開催中 2008/06/07(土) 15:06:23 ID:wtuLUWg9
地元人が記念カキコ
そういえば、相馬氏の子孫て人が相馬高校で古典の教員をやってたな
よく相馬藩の話をしてたっけ

63: 人間七七四年@全板トナメ開催中 2008/06/08(日) 00:02:15 ID:9W2nUQRE
地元人、多いなw

家臣と同じ名字の人も結構るんじゃない?
・泉田
・藤橋
・小池
・青田
・木幡
・江井
・水谷

64: 人間七七四年 2008/06/09(月) 07:14:49 ID:KYDeYbcR
家臣といえば、ほぼ全員が胤の字を貰ってるね。
謀反を起こした佐藤氏ぐらいかな、貰ってないのは?

65: 人間七七四年 2008/06/09(月) 22:46:27 ID:kZZgLSOt
佐藤は相馬と同じくらい古い名門だし

67: 人間七七四年 2008/06/17(火) 11:59:47 ID:GNdCW9bF
現地で生馬追を見られる人がいたら、感想をこのスレに投下してくれ。

68: 人間七七四年 2008/06/20(金) 23:28:00 ID:6WkY+fsC
二年前に見た

祭り二日目のメイン 
神旗争奪戦

火薬で上空に打ち上げられた旗を300騎で奪い合う
見た目は思ったより地味だったが、甲冑を着て馬を操る技術は大したもんだと思う
旗を取った武者が総大将がいる坂上の陣まで馬で一気に駆け上がる姿は勇壮

甲冑競馬
甲冑を付け旗指物を差し、5~8騎くらいで全速力でトラックを回る
馬は競馬用のサラブレット
もちろんヘルメットなど付けない
落馬骨折当たり前
個人的には一番の見所だった

71: 68 2008/06/25(水) 08:58:35 ID:LuhpasSJ
もともとは野生化(放し飼い?)している馬を追い立てて捕らえる軍事演習だったそうです
相馬氏が東北に移ってきた時からやっているとかいないとか(地元民談
少なくとも江戸時代初期には行事として確立されていたみたいです

72: 人間七七四年 2008/06/25(水) 12:32:05 ID:q0xEY8UK
14代目顕胤の時代にはもう野馬追の記述が文献に残っているね。
今の競馬や神旗争奪戦は明治以降放牧していた馬を軍馬として徴収されてから馬の数をあまり使わなくてもいいように考案されたらしい。

78: 人間七七四年 2008/06/30(月) 12:24:24 ID:9dkcs5vs
相馬は野戦志向だから、戦国時代の居城は簡素なつくりだったんだろうか?

79: 人間七七四年 2008/06/30(月) 16:36:46 ID:pUKYbbrD
簡素というか規模は小さい。
基本的に川を天然の外堀とした小丘陵に必ず建てられていて石垣が少なく土塁がメインなのが相馬氏の城の特徴。防御力を補うために周りに数多くの出城と舘が建てられた。
でも相馬氏の居城が落ちたのは南北朝時代ただ一度きりでそれ以外は本拠地に攻め込まれたことは一度もないからまさしく「攻撃は最大の防御」的な、出撃を前提とした城だったんじゃないかな。
ちなみに関ヶ原後に改修された居城、相馬中村城は北側(仙台)に向けて防御に特化したつくりだったらしいね。

80: 人間七七四年 2008/06/30(月) 17:10:48 ID:DEO8T8+y
>石垣が少なく土塁がメインなのが相馬氏の城の特徴。

城の石垣にカネかけるよりは騎馬軍団の維持費にカネかけたほうがベターという合理的な判断なんだろうな。


91: 人間七七四年 2008/07/02(水) 10:35:22 ID:cn8paTV2
相馬って鎌倉あたりからずっとあそこにいるんだろ?
そんな例島津ぐらいじゃないの?
大抵は滅んだり生き残っててても転封されてるし

92: 人間七七四年 2008/07/02(水) 10:43:23 ID:c6oNmh11
日向の伊東もそうではなかったか?

あとは対馬の宗か。

93: 人間七七四年 2008/07/02(水) 11:29:36 ID:ZXyxs4yc
鎌倉時代から本領が変わらなかったのは相馬、島津、伊東、南部の四家だけ。
相馬は特に判図がほぼ600年の間変わらなかったからか領民との繋がりが密接で、本多忠朝(本多忠勝次男)に
「相馬に(石高や兵力で)適わぬところはないが、民との絆は羨ましく思う、これは先祖伝来のものだ」
と利胤が褒められた逸話があるね。

94: 人間七七四年 2008/07/02(水) 15:11:47 ID:aQReYhmH
>>93
いい話だな。
佐竹が1万石くれるって言っても、出羽に移らないわけだ。

95: 人間七七四年 2008/07/02(水) 18:42:48 ID:9xMeYvov
相馬は小勢力だったから相馬として全うできたんであって
大勢力だったらそんなの相馬じゃないやい

96: 人間七七四年 2008/07/02(水) 18:47:37 ID:lRCOxT6B
小勢力ではあったが騎馬隊が精強無比だったから
武家として一目置かれていたんだと思う。

97: 人間七七四年 2008/07/02(水) 22:28:22 ID:VNc5MXgS
あのな、勘違いするなよ。相馬が生き残れたのは領民のおかげだ。
在郷給人といい、領民が農業やりながら侍やってたから、相馬が生き残れたんだ。
天明の大飢饉の災害の後、藩を建て直したのも、北陸から移民してきた領民のおかげなんだよ。
だから相馬藩は、他の藩とは違い、武士の数が多かったんだよ。

131: 人間七七四年 2008/10/05(日) 13:03:08 ID:8xBGSKzj
戦国期の相馬と佐竹ってどんな関係だったの?

132: 人間七七四年 2008/10/05(日) 14:07:51 ID:xrqsbh+i
対伊達で共闘したことがあったはず。

133: 人間七七四年 2008/10/05(日) 23:30:44 ID:viWLb1YX
両家とも岩城家が隣国だったから、挟み撃ちする話でもしてたかな?

134: 人間七七四年 2008/10/06(月) 08:40:29 ID:xznw2G1m
相馬と佐竹はどっちも古くからの家だから、それなりの音信はあっただろうね。

伊達も古いけど。

135: 人間七七四年 2008/10/06(月) 15:03:10 ID:q5gLBh2O
>>134
佐竹も最後は相馬に乗っ取られたけどな。

173: 人間七七四年 2008/11/19(水) 19:06:43 ID:32VZn37/
>>135
徳川後期の相馬宗家は佐竹家(鬼義重)の男系子孫
佐竹から養子が入り、後に相馬から佐竹に養子が行った

175: 人間七七四年 2008/12/02(火) 11:22:20 ID:sdaMBEFQ
>>173
幕末の佐竹義堯という方ですね、相馬から養子に入ったのは

136: 人間七七四年 2008/10/06(月) 15:27:26 ID:luehQA5t
永禄5年に佐竹が相馬に攻め込まれてる。

137: 人間七七四年 2008/10/06(月) 15:37:26 ID:0bfLPwGw
佐竹には小規模な水軍があったようだな

http://www7a.biglobe.ne.jp/~ao36/ibaraki_kuji.htm

相馬は水軍なしだったっけ?

140: 人間七七四年 2008/10/07(火) 12:40:27 ID:wUt+izyh
>>137
水軍有ったら、文禄・慶長の役で朝鮮に行かされてそうだ。

そういや、相馬は朝鮮出兵は何してたんだろ?

141: 人間七七四年 2008/10/07(火) 15:16:04 ID:najBjWpE
朝鮮出兵の時は佐竹と一緒に名護屋に在陣していたはず。
渡海はせず佐竹、岩城と一緒にどんちゃん騒ぎしていたらしい。

142: 人間七七四年 2008/10/07(火) 18:22:14 ID:n/pcM6Gx
佐竹は渡海したのではなかったか?


143: 人間七七四年 2008/10/07(火) 19:46:15 ID:najBjWpE
佐竹は本隊は渡海してなかったんじゃなかったっけ?
佐竹家臣大和田重清日記には、相馬義胤が陣中で体調を崩したとき佐竹義宣が見舞いに来たり、義重が朝風呂に招待したりした事が書いてあるね。

147: 人間七七四年 2008/10/08(水) 21:18:53 ID:ZLGdFJJP
北海道から松前氏もわざわざ九州名護屋までやってきたが渡海することもなく、むなしく帰っていたそうな。

148: 奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2008/10/08(水) 21:21:29 ID:YteheQnO
北海道や秋田辺りは、名護屋に行くより直接行ったほうが早そうだな。

188: 人間七七四年 2008/12/26(金) 04:44:05 ID:qQsDNhNI
家臣で有名所はどんな人がいるの? 逸話とかあったら教えて。

189: 人間七七四年 2008/12/26(金) 18:01:11 ID:n91CKFq4
水谷胤重【みずたに・たねしげ 1538(天文7)~1606(慶長11)】
式部。相馬氏の重臣。父は胤氏。天文十一年(1542)父が伊達氏との合戦に討死し、叔父胤清に養育された。長じて天正年中、度々合戦に従う。
慶長五年、伊達政宗がわずかな手兵で相馬を通り仙台に帰る時、相馬で一泊したいと申し出、この隙に襲撃するべきとの家中の意見に対し、「仇敵でも、このように頼ってきている者を討つのは武士ではない」と発言したという。
相馬義胤はこの意見を容れ、政宗は一夜を無事に過ごし仙台に帰った。
この出来事のために相馬氏は改易されたあと、伊達氏のとりなしを得て本領を回復できたのだという。

ttp://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/souma.html

最後の文章の伊達氏のとりなしの真偽はわからんが、この前文を見る限り、水谷氏自体は真の武将であることが理解できる。

190: 人間七七四年 2008/12/26(金) 19:52:17 ID:gcjlkzoE
>>189
伊達家のとりなしは新井白石の妄想。
史実の政宗は相馬領を貰えると思っていたが、三胤が月夜畑の戦いで上杉に敗北した犠牲者名簿を幕府に提出しての安堵運動をしたために相馬安堵となり政宗はガッカリしてる。

198: 人間七七四年 2008/12/31(水) 01:55:29 ID:7qkEFFww
>>189
水谷氏は結城家中の水谷と関係あるのかな?

200: 人間七七四年 2009/01/07(水) 03:27:22 ID:6E2KQ0Hx
>>198
ない、はず

800: 人間七七四年 2011/10/30(日) 02:13:28.11 ID:KXpKUEhy
>>198
この地方に住んでた者として、水谷(みずがい)の「谷」について物申すことがある。
「みずがい」は「みずがや」が訛ったものじゃないかなと。
つまり本来は「みずがや」かもしれない。「や」はやっぱり「谷」の意。
みずがや→水ヶ谷→水の谷。

小高城のあった南相馬市には他にも耳谷(みみがい)大谷(おおがい)という地名が残っている。でも、金谷は「かなや」。「かながい」とは読まなかったり。

鎌倉時代、結城氏は東北の南部にも豪勢を誇っていた。
相馬地方も神社の設立に結城氏の影響力があった記録が残っている。
相馬家臣の水谷氏の祖先と結城家臣の水谷氏の祖先にまったく関係がないとは言い切れないかもね。

209: 人間七七四年 2009/03/03(火) 18:14:59 ID:TDHn/raj
1788年に幕府巡検使として奥羽を回った古川古松軒が東遊雑記で、相馬藩の武威に感動し60万石の伊達の武風には大したことねーな。
何も感じなかったし。
だけど6万石の相馬の武風に感じるとこがあった。
石高は関係ないもんだなぁって書いてる。

218: 人間七七四年 2009/03/15(日) 19:24:56 ID:PbPIAUKe
ご先祖様が相馬藩の藩士だったらしいのですが、我が家はお正月に注連縄飾りを外します。なんでも注連縄に兜が引っかかって合戦に負けたという言い伝えがあって縁起が悪いということで。
相馬の流れを汲んだ家系で同じような家訓をお持ちの方はいらっしゃいませんか。

219: 人間七七四年 2009/03/16(月) 00:43:11 ID:nmNRwELq
>>218
むしろ同じ風習の家があれば、相馬家家中の末裔である証拠かも。

引用元: ・【陸奥】相馬氏を語る【下総】



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