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1: 日本@名無史さん 05/02/06 14:59:26
日産コンツェルンを一代で築き上げ、満州重工業の総裁として日本史の教科書にも登場するわりにはいまいちその人生が知られていない鮎川義介さんについて語りましょう。







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鮎川 義介(あゆかわ よしすけ 、 1880年(明治13年)11月6日 – 1967年(昭和42年)2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者。満州重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長、参議院議員などを歴任した。



2: 日本@名無史さん 05/02/06 15:15:01
山口県出身だね。

系列としては元老の伊藤博文、山縣有朋、井上馨たちに連なってる。

3: 日本@名無史さん 05/02/06 22:18:17
最終学歴:東京帝国大学卒業

6: 日本@名無史さん 05/02/07 13:30:40
井上馨の後押しを受けてた財界人としては渋沢栄一、藤田伝三郎、中上川彦次郎、益田孝などがいるけど、鮎川義介はそのカテゴリーに入れられる最後の一人だよな。

14: 日本@名無史さん 05/02/09 09:36:11
日立金属(戸畑鋳物)の創業者

15: 日本@名無史さん 05/02/09 12:23:28
日産自動車の創業者

16: 日本@名無史さん 05/02/09 23:46:56
久原房之助の伝記が日経ビジネスに連載されてた。

久原と鮎川は義理の兄弟で、久原には妾が何人もいて子供も十人以上いたらしい。

17: 日本@名無史さん 05/02/10 13:17:54
西園寺公望とも親戚

鮎川の娘が公望の孫と結婚した

33: 日本@名無史さん 05/02/16 05:10:18
満州時代はかなり汚いことをやってた

38: 日本@名無史さん 05/02/18 10:34:40
>>33
山口時代のほうがよっぽど汚いことをやってた
(栗泥棒など)

34: 日本@名無史さん 05/02/16 10:41:16
かなり汚いことってどんなこと?

35: 日本@名無史さん 05/02/17 09:29:05
鮎川義介はニキ三スケの一人として東条英機や松岡洋右と同じグループに入れられてるから、それでなんとなく悪いイメージを持たれてるだけじゃねえの。

36: 日本@名無史さん 05/02/18 09:19:56
ニキ三スケ

東条英機、星野直樹、鮎川義介、松岡洋右、岸信介

40: 日本@名無史さん 05/02/19 13:48:42
杉田かおるに繋がる家系図を描いてくれ。

41: 日本@名無史さん 05/02/19 23:34:46
鮎川義介
 ↓
鮎川弥一
 ↓
鮎川純太 + 杉田かおる

42: 日本@名無史さん 05/02/20 08:05:13
杉田かおるの義理の祖父なんだよなあ・・・
時代は本当に分からない。

43: 日本@名無史さん 05/02/20 22:35:22
戦後には中小企業政治連盟の総裁もやってるね。

44: 日本@名無史さん 05/02/21 00:52:22
戦後日本経済の、大企業と中小企業の二重構造を確立した張本人。

48: 日本@名無史さん 05/02/22 04:08:07
ドイツが勝つから勝ち馬に乗れといってた連中のひとりだな。

49: 日本@名無史さん 05/02/22 21:47:43
松岡洋右は陸軍の圧力に耐えられずに三国同盟推進派になったとなんかの本で読んだ憶えがあるが、鮎川義介の外交についての考え方は聞いたことがないなあ。

学生時代に満州国に関する本をたくさん読んだけど、鮎川義介は満州にアメリカの資本を入れようとして結局は失敗したらしい。
>>48の言うとおりだとしたら、アメリカに断られたんでその反動でドイツ寄りになったのかも知れないね。

51: 日本@名無史さん 05/02/24 01:47:44
>>49
木戸日記から引用。
ニキ三スケは伊達じゃないということか。満州へのこだわりもさすがというかんじだ。

昭和15年5月13日
(略)
八時より伊藤男邸を訪問、最近欧州より帰朝の鮎川義介氏より彼の地の事情を聴く。
近衛公と二人なり。
鮎川氏の意見は独乙の勝利を前提とし、我国生産力拡充の計画の行詰り打開の策として右の計画を此処二ヶ年許り延期し、欧州戦争の終るや独の重工業を満州に移し一挙に完成するを可とすと云ふにあり。
氏の意見によれば、若し此の手配を為さざれば、大戦終息の暁には余剰工業は蘇聯か支那に売らるべしと云ふにあり。
而して右の方針を実行するに就きては蘇聯と親善関係を結ぶは勿論なりと云ふにあり。
極めて示唆に富みたる意見なるも、充分研究の要ありと思考す。
十二時過迄意見を交換す。

52: 日本@名無史さん 05/02/24 10:08:17
ドイツが勝った場合には、ドイツの余剰生産力を分けてもらおうということか。

満州重工業の総裁として満州の発展のためにそういう構想を立てるのは当然かも知れないが、独ソ戦を全く予想してないとこは松岡と一緒だな。

54: 日本@名無史さん 05/02/25 20:23:17
戦後は岸信介内閣の顧問もやってるね

56: 日本@名無史さん 05/03/01 00:20:24
鮎川義介という人は妾を一人も持たなかったと何かで読んだことがある。

女遊びなど時間の無駄遣いと考えていたらしい。

57: 日本@名無史さん 05/03/01 10:01:13
結婚も、見合い結婚だったそうだ。

当時は結婚相手を親や親族が勝手に決めるのが当たり前の時代だったろうから、当然といえば当然だが。

60: 日本@名無史さん 05/03/03 08:55:49
鮎川さんの子孫のほうは結婚のときに少し騒がれたくらいで、あとは平穏なもんだな。

やはり大財閥を子孫にそのまま継がせるのはいろいろと問題が起きやすいんだろう。

61: 日本@名無史さん 05/03/04 09:02:51
鮎川さんの息子さんも、かつて選挙違反かなにかで捕まったことがあるんじゃなかったかな

62: 日本@名無史さん 05/03/04 23:26:07
次男の金次郎氏は逮捕されたわけではない。

1959年の参議院選挙で、鮎川金次郎氏の陣営から多数の違反者を出したために、鮎川義介氏と金次郎氏が責任をとる形で議員を辞職しただけだよ。

63: 日本@名無史さん 05/03/05 12:52:14
ふーん。戦後もいろいろと苦労してるんだね。

50: 日本@名無史さん 05/02/23 14:33:36
東大を出たのに、あえて鋳物工場の現場で働いて鋳物の勉強をしたらしい。
たいした根性だ。

53: 日本@名無史さん 05/02/25 09:42:39
>>50
鋳物造りの現場は灼熱地獄。

144: 日本@名無史さん 2005/03/28(月) 08:45:41
鮎川義介が自動車事業に乗り出したのは、ゴーハムというアメリカ人技術者からの進言があったからだと聞いたことがある。

145: 日本@名無史さん 2005/03/29(火) 03:52:27
>>144
「日本で航空エンジンの設計・製造を始めようと一家で来日したアメリカ人が困窮して困っている」と、ある代議士から鮎川に相談があり、後日、鮎川本人が場末の自動車工場に
ゴーハムを訪ねてゆき、戸畑鋳物で雇用することに決めた。

大東亜戦争直前に夫婦は日本に帰化し、息子二人は帰国して技術者や情報部配属となるが、鮎川は息子に両親は自分が責任を負うと約束する。
事実、戦時中も変わりなく接し、体格の良い西洋人のために食料を多めに廻してやりゴーハムも航空エンジンの製造加工機械の改良で軍からの感謝状をもらうなど、存分に働いた。

ゴーハムとの繋がりは、義理に篤く意気に感じる鮎川の一面を表していると思います。

146: 日本@名無史さん 2005/03/29(火) 08:34:14
ゴーハムは日本に帰化したんだよな。
それで合波武という日本名になった。

147: 日本@名無史さん 2005/03/30(水) 10:21:39
デビッド・ハルバースタムの『覇者の驕り』でも、ゴーハム氏は相当に優秀な技術者だったと書かれてた。

精密機械の開発から工場での大量生産・品質管理など、あらゆる技術に精通していたらしい。

148: 日本@名無史さん 慶長410/04/01(金) 23:05:32
横浜工場のレイアウトとか決めた人だっけか

159: 日本@名無史さん 2005/04/16(土) 18:55:35
鮎川義介氏は戸畑鋳物で日本初の可鍛鋳鉄を製造したり、当時としては珍しかった電気炉を導入するなど革新的なことをやってる一方で、日本古来のたたら製法を残すために尽力するなど伝統を大切にする一面も持ちあわせていますね。

160: 日本@名無史さん 2005/04/17(日) 08:05:04
鮎川義介が鋳物事業に興味を持ったのは、芝浦製作所(いまの東芝)で職工として働いてたときに、鋳物の製造現場にまわされたからだそうだ。

当時の鋳物の現場は欧米に比べて著しく前時代的であり、そこに事業を興すチャンスを感じ取ったのだろう。

180: 日本@名無史さん 2005/04/29(金) 07:30:26
ずっとギスケだとおもってたけど、高校時代の日本史用語集みてたら、ヨシスケって載ってた。

201: 日本@名無史さん 2005/05/12(木) 19:52:34
>>180
お国の長州ではギスケと呼ばれていたらしい。

203: 日本@名無史さん 2005/05/16(月) 08:39:53
>>201
日産自動車の社員たちも「あゆかわぎすけ」だと思っていたそうだ。
70周年記念のスピーチの準備でゴーンが調べさせたら、本当は「あいかわよしすけ」だと判明したらしい。

183: 日本@名無史さん 2005/05/01(日) 10:50:31
満州重工業の総裁だったころは、毎週のように日本と満州を往復してたそうだ。
日本国内の旧日産系企業と満州国内の旧満鉄系企業の両方のトップに立っていたんだから、超多忙な毎日だったのだろう。

188: 日本@名無史さん 2005/05/02(月) 10:02:24
日立の創業者・小平波平とも関係があるんだよな

189: 日本@名無史さん 2005/05/03(火) 08:45:27
日産も日立も、久原房之助の久原鉱業が原点。

久原鉱業の日立鉱山で、電気設備の修理などをやっていた小平波平(おだいら・なみへい)が自前で電気機器を作り、それを久原の支援を得て事業化したのが日立製作所。

日産は、久原鉱業が経営難に陥った際に、久原の義兄である鮎川義介が経営を引き受け、久原鉱業をつくりかえて持ち株会社日本産業とした。そのとき、久原鉱業が持っていた膨大な事業と鮎川自身がやっていた戸畑鋳物などを日本産業の子会社として日産コンツェルンがつくられた。

引用元: ・【日産】鮎川義介について語るスレ【コンツェルン】



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