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16: 世界@名無史さん 2006/08/31(木) 19:35:46 0
清は前半の6人は名君ぞろいだが、後半の6人は微妙な面子ばっかりだな。

17: 世界@名無史さん 2006/08/31(木) 20:01:27 0
なぜ清帝国は、漢字を廃止して満州文字に統一しなかったのですか?

18: 世界@名無史さん 2006/08/31(木) 20:03:29 0
国民の90%が漢民族なのに、そんな反感買う政策出来る訳が無い。
それに乾隆期では満州族でさえ満州語読めない階層が大半だったんだぞ。

19: 世界@名無史さん 2006/09/06(水) 19:52:30 0
辛亥革命直後の中国で弁髪を切った人は、どんなヘアスタイルにしたんだろう。
いったん全部剃って坊主にしたのかな。

中華民国発足直後の記念写真なんかで、みんな洋髪洋服で写ってるのがあるが、ずっと海外にいた孫文はともかく、国内にいた連中は頭をどうしたんだろう。

20: 世界@名無史さん 2006/09/06(水) 21:39:22 0
「末代皇帝」というドラマの中での辛亥革命直後の民国の軍人の髪型だが、ほどいた弁髪を肩の上あたりで切って、オカッパみたいな髪型にしていた。

21: 世界@名無史さん 2006/09/06(水) 21:41:05 0
補足すると、オカッパというより「落ち武者」みたいな頭の上に軍帽をかぶってた。

22: 世界@名無史さん 2006/09/10(日) 14:19:23 0
ウィキにこんな記載があった。

墓は北京郊外の八宝山墓地に埋葬されたが、後年、溥儀は生前「皇帝であったことを誇りに思っていた」と李淑賢夫人の証言が明らかになると改革開放の時代の空気と相俟って、1995年皇帝として改葬することになった。
現在の墓所は北京郊外の易県にある、清朝の歴代皇帝の陵墓のある、清西陵の近くの「華龍皇園」に新たに「献陵」という陵墓が作られた。

それに関連して2004年に「愍皇帝」の謚号と「恭宗」の廟号が贈られた。
ただし、これらは公式に認められたものではなく愛新覚羅家の遺族などの関係者から承認されているものではない。改葬に関しても愛新覚羅家の遺族からの反対も受けている。
また、これらの事は中国の一般市民にはほとんど知られていない。

23: 世界@名無史さん 2006/09/10(日) 16:39:55 0
>>22
溥儀の改葬については、80年代後半以降の清朝ブームに目をつけた霊園業者が墓地販売の客寄せパンダとして利用したという話を聞いた。
おそらく「恭宗」とかいう廟号も、その霊園業者が勝手に命名したのではないか?

24: 世界@名無史さん 2006/09/11(月) 00:19:33 0
溥儀の弟妹たちはせっかく公民墓に入っているのに、よけいなことするなと反対したらしいね。
嫁さんの李淑賢が霊園業者とやったのか。

26: 世界@名無史さん 2006/09/11(月) 16:01:37 0
今でも一族の世代ごとに字を統一する習慣を守っているかな。
たくさん決めてあったはずだけど、それも使い切っちゃったら誰が統一名前字を決めるんだ?

27: 世界@名無史さん 2006/09/11(月) 19:57:30 0
永・綿・エキ・載・溥・イク・恒・啓だったかな。

もう「恒」や「啓」の世代になってるだろう。

31: 世界@名無史さん 2006/09/11(月) 20:34:52 0
仮に帝政復古しても大多数の漢民族が支持しないでしょ。

33: 世界@名無史さん 2006/09/14(木) 19:23:29 0
実際、支持されなかったから張勲の復辟は失敗に終わった。
軍閥の権力闘争に嫌気がさしてても、今さら清王朝に復活してほしいなどと思う者は少数の頑迷な遺臣くらいで、現実的な政治家や軍人はほとんどが支持しなかった。

35: 世界@名無史さん 2006/09/24(日) 13:27:19 0
科挙で選抜された官僚は復辟支持だったのでは?

36: 世界@名無史さん 2006/09/24(日) 17:55:02 0
溥儀の父、摂政王が親貴内閣を組織し、満州貴族で政権を独占しようとした時点で、科挙官僚やその母体である漢人地主の大多数は清朝を見限った。

37: 世界@名無史さん 2006/09/24(日) 19:30:41 0
1860年代以降、曾国藩とか李鴻章といった漢人官僚が勢力を伸ばし、清朝の実権を握るようになった。こうした官僚は漢人地主である読書人階層の出身で、科挙は漢人地主が官僚となり政治権力を握るための手段だったが、1905年に廃止された。

科挙廃止後は、これら漢人地主は地方議会の前身となる諮議局の議員などになることで政治的影響力を維持し、立憲制移行や国会開設を要求していたが、溥儀の父摂政王は皇族や満州貴族で内閣メンバーを固め、かえって漢人地主の政治参加の途を閉ざすような政策をとった。

これでは科挙官僚や読書人からの支持は期待できない。

38: 世界@名無史さん 2006/09/24(日) 20:15:59 0
満人貴族は、中華システムへの背信行為を行ったことで自らの首を〆たのだな

39: 世界@名無史さん 2006/09/24(日) 22:32:49 0
清の政治が安定したのは、漢民族に対する懐柔策と弾圧策を上手に使い分けたからで、懐柔策の基本が科挙による人材登用や伝統文化の尊重だったからなあ。

科挙の廃止と近代教育への移行は時代の要請だからやむをえないにせよ、それに乗じて漢民族の政治参加の機会を狭めるようなことをしたら、ただでさえガタガタだった体制もひっくり返ってもしょうがない。

41: 世界@名無史さん 2006/09/25(月) 01:38:25 0
もう弁髪してる中国人は一人も存在しませんかー?

42: 世界@名無史さん 2006/09/26(火) 18:25:38 0
著名人で、もっとも遅くまで弁髪してたのは王国維あたりか。
清の廷臣でも、溥儀自身が弁髪を切ったあとはほとんど断髪してるはず。

49: 世界@名無史さん 2006/10/01(日) 17:16:13 0
ネルチンスク条約当時、清の軍事力はロシアを凌駕してたのか?

52: 世界@名無史さん 2006/10/02(月) 10:09:23 0
>>49
極東で戦ってたのはシベリアを荒らしまわっていたコサックです。
ピョートル大帝が大北方戦争に投入したような軍隊とはわけが違う。

50: 世界@名無史さん 2006/10/02(月) 05:40:37 0
あのロシア軍が満州人ごときになんで負けたんだろう。

54: 世界@名無史さん 2006/10/03(火) 09:14:38 0
>>50
コピペだが、シベリアのロシア軍はこんな感じ

157 :世界@名無史さん :2006/03/11(土) 14:40:48 0
シベリア、ヴェルホレンスク要塞の官吏からミハイル帝へ宛てた嘆願書より:

「閣下、どうか閣下の僕(しもべ)をお許し下さい。要塞には守備兵が二百名必要です。さらに、彼らのためにカービン銃200挺、甲冑200領、そして歩兵用にマスケット銃300挺をモスクワの帝室武器庫から送ってください。
と申しますのは、閣下、沢山のブリヤートたちが甲冑に身を固めて要塞を攻めてきます。対する閣下の僕である私どもは、装備に乏しく、鎧もありません。また、私どもの貧弱な銃では、彼らの鎧に弾がはじき返されます・・・」

クラスノヤルスク城砦建設が1628年。この前後頃に書かれたのでしょうか。

55: 世界@名無史さん 2006/10/05(木) 18:17:24 0
>沢山のブリヤートたちが甲冑に身を固めて要塞を攻めてきます。

ブリヤートって、そんなに強かったのか?
清の支配下にも入ってない、辺境のはぐれモンゴル人ってイメージなんだけど。

56: 世界@名無史さん 2006/10/05(木) 18:47:44 0
バイカル湖周辺のブリヤート・モンゴル人は国家を形成しなかったの?
また、外モンゴルのハルハや清王朝と全く交渉がなかったのだろうか?

キリスト教徒で白人のロシアより仏教徒で北方騎馬民族の清王朝に親近感を感じなかったのだろうか?

57: 世界@名無史さん 2006/10/06(金) 00:29:37 0
ブリヤートもチベット仏教信じてるからダライラマには親近感をもっている。
たまにダライラマが中国通り過ぎてモンゴル、ロシア地域の信者に会いに行く。

59: 世界@名無史さん 2006/10/07(土) 06:57:56 0
そういう状況なのにブリヤートが清の支配下に入らず、ロシアの支配下に入ったのは不思議だ。
なんで清はキャフタ条約でブリヤート地域をロシア領と認めたのだろう?

60: 世界@名無史さん 2006/10/07(土) 07:39:22 0
あんなトナカイの肉食ってるような連中、まともなモンゴル人が仲間にするはずもない

61: 世界@名無史さん 2006/10/07(土) 09:01:41 0
羊の肉とトナカイの肉に差別はあったんですかね?
昔のトゥヴァの住民の写真とか見るとひどく貧しげですが・・・

女真族が豚を飼い魚を食べているのをモンゴルが馬鹿にしていたというのは聞いたことがある。

63: 世界@名無史さん 2006/10/07(土) 19:04:45 0
ネルチンスクのとき、清軍が北上してブリヤートもヤクートも征服すればよかったのに。
もしかして征服にも値しない辺境の蛮族と思われてたの?

乾隆帝もジュンガル討伐のついでに、カザフもブリヤートも併合すればよかったのに。

65: 世界@名無史さん 2006/10/07(土) 22:26:56 0
北方民族のくせにモンゴル草原より北には食指が動かなかったのか?>清

74: 世界@名無史さん 2006/10/09(月) 10:37:02 0
上の方で、なんで清がヤクートやブリヤートを征服しなかったのかという疑問があったが、寒冷で貧しい満州から肥沃で温暖な中国本土を征服した満州族が、わざわざ自分の故郷より気候のきびしい酷寒の土地を征服する意味などない。

何を好きこのんで永久凍土のヤクートなど征服する必要があるのだ。

81: 世界@名無史さん 2006/10/11(水) 15:51:02 0
支那の歴代皇朝の領土って曖昧だよね。すくなくとも今のような西洋的な国境区分では分からないよね。
実相としては支那から搾取されているようで実は儲けている植民地(朝貢国)といった感じじゃない?支那皇帝に朝貢したら10倍返しでしょ?いいなあ。

82: 世界@名無史さん 2006/10/11(水) 18:09:17 0
朝貢国というのは、中国と正式の外交関係をもっている国という意味で、植民地ではない。シャムやビルマは清の朝貢国だが、別に清から支配されてたわけではない。

カザフの遊牧民とかウズベク系の3ハン国やアフガニスタンなども清に朝貢してたはずだが、こういった国々は最近の教科書では朝貢国にすら含まれていない。

83: 世界@名無史さん 2006/10/14(土) 09:09:22 0
琉球はもちろん、対馬藩も清を頂点する冊封体制に包摂されてるね。

84: 世界@名無史さん 2006/10/14(土) 10:06:44 0
対馬の宗氏は清からみたら陪臣だな。

【天朝】大清皇帝
【直臣】朝鮮国王(清から冊封された朝貢国)
【陪臣】対馬宗氏(朝鮮から官職を与えられ臣従)

85: 世界@名無史さん 2006/10/14(土) 12:01:00 0
マカオのポルトガル人やイギリス東インド会社との交易も朝貢扱いだった。
長崎なんかも清から見れば属国の一海港だったんだろうな。

90: 世界@名無史さん 2006/10/21(土) 11:00:27 0
清朝復辟運動の一つ「明光帝国」に詳しい人いますか?

92: 世界@名無史さん 2006/10/21(土) 14:26:54 0
>>90
満洲事変の勃発後に大陸浪人と中国人の一部が四民維持会という団体を立ち上げて恭親王を会長に担いで独立運動をやった。恭親王もその気になって清朝の陵墓を祭ったりしたが、軍は溥儀の擁立に決していたため、恭親王の活動は中止させられた。
これを聞いた溥儀は、恭親王が自分を差し置いて皇帝になろうとしているのではないかとの懸念を抱き、結果的に溥儀の満洲行きを後押ししたともいえる。
恭親王は、野心はなかったと溥儀のもとに弁明しに行っている。

143: 世界@名無史さん 2006/11/12(日) 09:25:44 0
昨日、NHKの番組で、麗江の豪族の「木府」というのが紹介されたいた。
13世紀から18世紀にかけて、木氏は麗江の支配者として君臨していたそうだが、18世紀までということは改土帰流で土司の世襲的地位を奪われたということか?

145: 世界@名無史さん 2006/11/14(火) 15:38:42 0
麗江の領主は、チベットの史書には「ジャン王」として登場。
最盛期にはチベットの東南部(カム地方の南部)まで掌握したが、17世紀半ば、広大な属領をグシ・ハン王朝に没収され、さらに自分自身もグシハン王朝に隷属。
雍正年間(18世紀)に、清朝がグシ・ハン一族のチベット諸侯への支配権を召し上げたとき、麗江の領主はカム地方南部への支配権を主張したが、取り合ってもらえず、麗江だけの小領主のまま清に服属した。

147: 世界@名無史さん 2006/11/14(火) 22:36:43 0
土司制度って面白いよね。

土司(どし)は、中国王朝が、中国に隣接する諸民族の支配者たちに授ける特定タイプの官職に対する総称。

中国の歴代王朝は、近隣の諸国・諸民族との間で冊封・朝貢という君臣関係に擬した外交関係を築き、その際、中国との交際を求める諸国・諸民族の勢力の大小に応じて、王号や州・県の知事職、軍事指揮官の称号を与えた。土司は、それらの諸民族の首長のうち、軍事指揮官の称号をうけたものに対する総称。


148: 世界@名無史さん 2006/11/15(水) 17:10:26 0
結局、土司というのは18世紀に消滅?
それとも地元の名士みたいな形で清の流官とは別に、民国期まで存続したのだろうか?

149: 世界@名無史さん 2006/11/15(水) 18:46:21 0
有名なシーサンパンナでぐぐってみた。

内政は従前のまま、歴代の王が清朝、中華民国より土司の称号を受けて名目上中国に属するという状態が継続した。1956年、中国人民政府のもとで行われた社会改造により、従来の国家組織が解体され、王国は滅亡、タイ族の自治州が設定されることとなる。

174: 世界@名無史さん 2007/01/18(木) 20:17:01 0
1757年に乾隆帝が貿易港を広州一港に限定したという話は高校の世界史で必ず出てくるが、不思議なことに限定以前に開かれていた、その他の港はどこを探しても書いていない。

清は明ほど厳格な海禁策を取っていなかったということは、いちいち特定できなほど、中国沿岸のどの港でも外国貿易が行われていたと考えてよいのだろうか?
それとも、南京条約で開港された上海、寧波、福州、廈門が開かれていたのだろうか?

175: 世界@名無史さん 2007/01/19(金) 19:58:47 0
確かに広州以外の貿易港ってマカオくらいしか思いつかない。

176: 世界@名無史さん 2007/01/20(土) 12:46:24 0
>限定以前に開かれていた、その他の港はどこを探しても書いていない。
なぜか世界史関係の本やネットで検索しても、どこにも書いてないんだよな。

>いちいち特定できなほど、中国沿岸のどの港でも外国貿易が行われていたと考えてよいのだろうか?

本当にそうなのか?

177: 世界@名無史さん 2007/01/20(土) 22:55:28 0
清代の福州が琉球船の窓口で琉球館の所在地だったことは知ってるが、西洋船が広州やマカオ以外に来てたという話は聞いたことないな。

180: 世界@名無史さん 2007/02/25(日) 16:32:20 0
18世紀に広州以外の貿易港ってホントになかったの?(マカオ除く)

182: 世界@名無史さん 2007/03/01(木) 21:25:48 0
広州一港に限定なんて言っても、本当はもともと広州にしか外国船は来てなかったんだろ。

183: 世界@名無史さん 2007/03/04(日) 11:34:36 0
なかなか広州限定以前の貿易港について明快な回答のできる識者が現れないな。

190: !疑問に答えます! 2007/03/12(月) 15:02:34 0
>1757年に乾隆帝が貿易港を広州一港に限定したという話は高校の世界史で必ず出てくるが、不思議なことに限定以前に開かれていた、その他の港はどこを探しても書いていない。

広州・漳州・ニンポー・雲台山(江蘇の連雲港)プラスにマカオの5つです。

191: !疑問に答えます! 2007/03/12(月) 15:03:48 0
↑出典は
『図説中国文明史 第十巻』 創元社でした

192: 世界@名無史さん 2007/03/12(月) 18:05:53 0
ありがたや!

でも、ニンポーとかマカオとか有名な港なのに、なんで広州限定以前の外国貿易の港としてちゃんと整理して世界史教科書に書かないんだろう。
唐突に「広州一港に限定」なんて書かれても、その前はどこが開港してたのか書いてないと、初心者や高校生には全然わからないんだが・・・(ニンポーとかマカオとか想像はつくけど)

194: 世界@名無史さん 2007/03/13(火) 19:13:25 0
列強が中国の植民地化を諦めたのは義和団の乱以降?

195: 世界@名無しさん 2007/03/13(火) 20:19:50 0
「ミッチェル報告書」ってものをよく読みな。アロー戦争の頃からとっくにあきらめていたよ。

199: 世界@名無史さん 2007/03/13(火) 22:28:19 0
中国の植民地化を諦めた時期

フランス→アロー号事件
イギリス→義和団事件
ロシア→日露戦争
日本→太平洋戦争

引用元: ・大清帝国



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