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1: 日本@名無史さん 2011/12/12(月) 19:15:30.30
語れ








4: 日本@名無史さん 2011/12/12(月) 23:56:58.57
足利基氏は何の病気で早世したの?

5: 日本@名無史さん 2011/12/13(火) 00:24:07.52
尊氏 背中の腫れ物
義詮 結核
基氏 結核

13: 日本@名無史さん 2012/01/12(木) 23:06:25.47
で、なんで南朝が正当なの?

意味が良く分からないんだけど…

14: 日本@名無史さん 2012/01/18(水) 19:57:07.16
>>13
表向き南北朝合一まで三種の神器は南朝にあり
後亀山天皇が後小松天皇に返還しているからな
水戸学あたりで南朝正統論が出た

16: 日本@名無史さん 2012/01/19(木) 19:37:24.29
後醍醐→光厳→後醍醐(重)→光明→崇光→後村上→長慶→後村上→後小松
が正当とか大学の講師が昔言ってたがどう?

17: 日本@名無史さん 2012/01/19(木) 19:55:04.97
>>16
後村上が長慶の前と後に2回出てきてるが、
長慶即位前に後村上は死んでるぞ?

18: 日本@名無史さん 2012/01/19(木) 20:58:49.83
後醍醐→光厳→後醍醐(重)→光明→崇光→後村上→長慶→後亀山→後小松

おそらくこうだろう。後醍醐が吉野に持っていった神器が本物かどうかが焦点。
それが偽物なら、北朝が本物を持ってたことになるが、正平一統でその神器も後村上が回収してるから、以降は南朝が正統だ、ということではないかと思う。

20: 日本@名無史さん 2012/02/22(水) 01:09:10.06
>>16-18
おおよそそれでいいと思うけど後醍醐は実際問題として重祚してないよ。

21: 日本@名無史さん 2012/02/22(水) 10:56:27.01
>>20
重祚してないというのは後醍醐側の主張
後醍醐は隠岐にいる間三種の神器を奪われ正当な手続きのもと都で光厳天皇が即位
しかし、入京した後醍醐は三種の神器を奪い返し光厳の即位を否定(院号だけを授与)
隠岐にいる間もずっと天皇は後醍醐だったとして重祚を否定した
もっとも三種の神器は後醍醐→光厳→後醍醐と渡っていてこれに従えば重祚ということになる

22: 20 2012/02/25(土) 00:01:10.18
>>21
後醍醐側の主張だっていうけどさ、光厳在位期間を除きその前後は後醍醐が作った形式がリアルタイムでの現実じゃん。最後の1行は単なる事実じゃなくて「解釈」(~に従えば~となる)。
重祚というからには践祚の儀を執行しなければならないのに後醍醐は重祚じゃないという形式をとり年号も最初から継続させた。

念のためにいっておくけど、これは「俺が」光厳の在位を認めないってことではないよ。
光厳の在位は、これはこれとして厳然たる事実、消せないと思ってるよ。
即位の手続きも正当だし、おそらく保持していた神器も本物だろうね。

ただ、だからって後醍醐を重祚扱いにするのは事実に背いた北朝側の後付け(後醍醐が吉野遷幸した後で)の解釈だってこと。

23: 日本@名無史さん 2012/02/27(月) 19:43:43.45
>>22
「三種の神器」という基準で考えれば後醍醐の重祚だといえるということ。
北朝側はこの主張だ。

で、後醍醐は重祚ではないというのは南朝方の意見であり、こちらが正しいというのはおたくの個人的意見でしかない。定説であるはずもないということ。

25: 日本@名無史さん 2012/02/28(火) 03:26:14.86
>>23
定説じゃなくて事実だっつの。
北朝側の歴史書でも後醍醐を重祚とするものとそうでないものがある、
つまり見解は定まってない。北朝の主張は~~だ、なんて言えないね。

26: 日本@名無史さん 2012/02/28(火) 09:54:36.89
>>25
北朝の歴史書で光厳天皇の在位を否定したものなんてあるの?
隠岐に行っている間も後醍醐が天皇であり続けたって?
まずはその史料を挙げてから。

27: 日本@名無史さん 2012/03/03(土) 03:49:34.98
>>26
違う、違う、光厳天皇の在位を否定してはいないっていってるでしょうが。
隠岐にいってる間は後醍醐は天皇ではなかったけど、だからって重祚でもない。
重祚ってのは「践祚の儀」を二度することなんだよ厳密には。

同じ北朝を正統とする歴史書であっても後醍醐天皇を重祚として二代に数えるものと重祚ではなく一代と数えるものとがある。
『続神皇正統記』は重祚したとみなし二代と数えるのに対し、『本朝皇胤紹運録』は重祚したとは認めず光厳天皇在位期間の前後を通じて後醍醐天皇を一代と数えている。
後醍醐天皇は実際に重祚してないのだからこれは本朝皇胤紹運録が正しい。
このことは光厳天皇の在位を否定するものではなく本朝皇胤紹運録は北朝を正統としている歴史書。

28: 日本@名無史さん 2012/03/03(土) 04:06:32.02
重祚したとする『続神皇正統記』は北畠親房の『神皇正統記』に反論・抗弁するための書であるから、勢い理屈に走ったにすぎない。

『本朝皇胤紹運録』は重祚とはせず、後醍醐天皇の治世年数は「前と後」で分けて数えているがこれは客観的事実に即したものでなんら矛盾ではない。

代数の入っていない年代記として『皇代記』や『皇年代略記』があるがこれらもまた「後醍醐-光厳-後醍醐-光明」という順番で並べているが重祚したとはいってない。事実してないのだから当然。

29: 日本@名無史さん 2012/03/03(土) 21:53:23.77
『神明鏡』『人王百代具名記』は「重祚」としてるよ

30: 日本@名無史さん 2012/03/05(月) 23:54:27.72
後醍醐天皇は歴史的「事実」として「重祚していない」。

重祚したというのは、概念上、そういう扱いにしてるってだけ。
これは歴史の捏造の一種。

33: 日本@名無史さん 2012/10/10(水) 11:29:06.77
>>28>>30
三種の神器が後醍醐→光厳→後醍醐と渡っている

後醍醐が「三種の神器などなくても隠岐時代の天皇は私だ!光厳は三種の神器を持っていても天皇ではない!」と言ってるから天皇号を変えなかったというだけ(通常重祚すれば天皇号が変わる)

34: 日本@名無史さん 2012/10/10(水) 14:28:15.44
後醍醐天皇が「重祚ではない」と強弁しただけで、実態としては重祚だよな。
後醍醐帝が隠岐に流されていた間は光厳帝が天皇として職務を行って、その状態で政治が動いていたってのが実態だ。

それでも、後醍醐帝が樹立した政権が勝ち残って光厳帝の系譜が敗北・消滅したならば、後醍醐帝による強弁が公式化してもいいんだが、現実には後醍醐帝は敗北して光厳帝の系譜が生き残った。

となると、光厳系による公式の立場こそが正式採用されるべきであって、勝ち残ったはずの光厳系による主張を廃棄するなんて正気の沙汰じゃない。少なくとも「当時の建前」「当時の公式記録」として、光厳系の主張の方を優先的に採用しなければ、イデオロギー汚染された歴史認識に成り下がってしまうだろ。

37: 日本@名無史さん 2012/10/14(日) 08:48:16.03
太平記の現代語訳がほとんどないのは残念だ

39: 日本@名無史さん 2012/10/14(日) 17:42:00.34
太平記は面白いが、中国の故事がうざいな。現代語訳だけでなく中身の整理が必要だろ。
でないとなかなか手を出そうという読者は現れない。

40: 日本@名無史さん 2012/10/14(日) 18:45:14.84
諸本で人名に出入りが多い
やはり整理は必要だ

52: 日本@名無史さん 2013/03/15(金) 21:34:41.53
今一度大河を

53: 日本@名無史さん 2013/03/15(金) 23:34:50.23
>>52
こんどは後醍醐天皇を主人公にして、貴台の怪物っぽい雰囲気をうまく作って欲しいもんだよなあ。

尊氏は、たしかに勝利者側だけど、主人公としてはイマイチ面白くない人物像だから難しかったんだろう、大滑りしたよなあ。

聖人君子的な要素を持ち合わせない後醍醐天皇の方がよほど主人公向きだ。

55: 日本@名無史さん 2013/04/02(火) 06:39:21.05
北朝と南朝はどちらも正統

56: 日本@名無史さん 2013/04/02(火) 20:32:52.17
敗れて消滅し、それを継承する者がいなくなった時点で正統性が失われる。

三国時代の例なら、魏から禅譲された西晋が存在するからこそ、漢から禅譲を受けた魏が正統とされた

東晋から禅譲を受ける形で続いたであろう南朝は北朝により征服され消滅したわけで、放伐により消えた形だから、こちらの北朝系である隋唐は晋や魏を正統と認定する必然性はなかったが、とりあえず蜀を正統とするわけでもなく、魏晋正統説を踏襲したんじゃなかったかな。

帯するに、日本の南北朝に関しては、北朝側が南朝の正統性を否定し、正統は自分たち北朝側だと主張したから、幕府は南朝と北朝の両方を正統と見なしたけど、幕府が消えて北朝だけが残った時点で南朝の正統性は完全に消え去った。

ただ---
明治維新で倒幕を主導した人たちの多くが南朝正統説を信じていて、南北合一以前の北朝を正統と考えていなかった上、それを明治天皇に公認させて今に至っているだけ。

60: 日本@名無史さん 2013/10/07(月) 10:13:28.03
鎌倉末期に間に幕府が入って仲裁しなかったら実力でさっさと
ケリが付いてたってだけじゃねえの?

61: 日本@名無史さん 2013/10/07(月) 12:16:28.95
>>60
北条時宗が朝廷を二分させてお互い争わせ双方とも共倒れで権力を失わせようとして
あえて両統迭立を指示したと言われているね

結局そのおかげで朝廷二分には成功したものの肝心の鎌倉幕府が滅んだんだが

62: 日本@名無史さん 2013/10/07(月) 16:22:02.21
幕府は朝廷内の揉め事に深入りしない方針で、勝手にしろ状態だぞ
まあ、元軍の侵攻が起こりうる時期には敗者に復活の余地を残す方針があったかもしれんけど。

幕府が強く干渉したのって、承久の再現を恐れた一件だけだったろ

64: 日本@名無史さん 2013/10/07(月) 19:21:40.27
>>62
いや、後嵯峨上皇が没したとき、鎌倉幕府はその妃・大宮院に後深草上皇と亀山天皇のどちらを治天の君にすべきか聞いた。
大宮院は後嵯峨の遺志が亀山にあったことを告げ、すでに亀山の皇子が皇太子になっていたため、朝廷の意思に従えば亀山の系統(大覚寺統)で統一されるはずだった。

しかし、亀山と不仲だった西園寺実兼(亀山妃だった妹が亀山に寵愛されず不仲になったという)が関東申次の立場を利用して北条時宗に後深草皇子の立太子を提案し、これに北条時宗が乗ったことが両統迭立の始まり。
西園寺実兼は西園寺家興隆のため、時宗は朝廷二分のため、両者の利害が一致した。

66: 日本@名無史さん 2013/10/07(月) 21:28:08.35
>>64
朝廷二分のためっていうか単に後深草に同情しただけじゃ?
むろん御公儀の御政道に私情は禁物だが五摂家のトップにたらしこまれたら田舎っぺの時宗なんか「やっぱそうだよな」と簡単に納得するだろ

67: 日本@名無史さん 2013/10/07(月) 21:34:31.46
>>66
五摂家はこの当時鎌倉幕府に対する発言権はない
この時代、関東申次を世襲し天皇の外戚として力を持っていたのは公家の西園寺家
時宗に皇位継承の相談をしたのは西園寺家当主の実兼

時宗は後深草と面識ないし別に同情する必要もないんだがなあ
時宗自身、庶兄の時輔を殺して得宗の地位を安泰にしているし
後深草の皇子を立太子させれば朝廷が二分することなどわかってたはず

92: 日本@名無史さん 2013/10/08(火) 21:17:25.86
高氏(尊氏)はハーメルンの笛吹だな。

鎌倉で冷遇→離反して皆が後を追って鎌倉を潰す
建武の新政で冷遇→離反して皆が後を追って潰す

93: 日本@名無史さん 2013/10/08(火) 21:56:55.86
1度裏切った男は2度裏切る

114: 日本@名無史さん 2013/12/07(土) 16:25:01.87
尊氏が悪者扱いされ始めたのも明治末頃かららしいが。

115: 日本@名無史さん 2013/12/07(土) 16:45:17.82
明治の末に南北朝の正閏問題が持ち上がって、明治天皇の勅裁で南朝を吉野朝と呼び換えてこれを正統と定めたわけだな。ここから尊氏の評価が悪化した。
昭和ファシズム時期の建武朝600年を機会に尊氏バッシングがあって悪者の代名詞に使う流行りが起きたらしいな。

明治も今も皇室は北朝だろ。矛盾しまくりな世界。

116: 日本@名無史さん 2013/12/07(土) 17:05:21.18
昭和戦後に書かれた日本通史にはこういう話は当たり前に書かれてる。

元はと言えば家永三郎の『太平洋戦争』読んだら、戦時中の小学生の思い出話に、日本神話のことを歴史として教えられたから「先生、そんなの嘘だっぺ?」と子供らしい正直な感想をぶつけたら、教師に「貴様は足利尊氏か!」と怒鳴られてゲンコツを食ったという今にしてみたら笑い話みたいな逸話があった。
この話を俺が単に面白がって持ち出したのは90年代終わり頃で、そんな戦前のいかれた風景はまだ遠い世界だった。

117: 日本@名無史さん 2013/12/07(土) 17:19:55.09
既に幕末には木像の首が獄門にされたりしてるが。

123: 日本@名無史さん 2013/12/08(日) 15:06:49.70
>>117
明治維新で耶蘇解禁になって徳川期には暴君扱いだった信長が忠君として持ち上げられ始めた時期だからな。

それでも維新以前の世界観というのは急激に何もかも変わるものでもない。

124: 日本@名無史さん 2013/12/08(日) 15:53:08.41
>>123
明治維新の中心的な立場を占めていた志士たちの大半は、国学系の新興思想を奉じていた
その関係で、志士たちの頭の中では「尊氏=逆賊」だったんだ

庶民はそういう人が多数派になったわけではないが、志士たちの間に限っては、尊氏逆俗説が主流だった

まあ、幕末に限って言うなら、尊氏の木造を徳川幕府に見立てたとみなす余地もあるが。

民間まで尊氏逆俗説が普及したのは明治以後の教育の結果だろ
本格的に広まったのはたぶん大正期

118: 日本@名無史さん 2013/12/07(土) 18:20:24.81
既に江戸初期の「太平記秘伝理尽鈔」では尊氏は無能な俗物扱いだからな

121: 日本@名無史さん 2013/12/08(日) 14:27:52.44
>>118
日蓮宗の書いたものかよ…

土着御家人で地道だが兄弟揃って御歳暮嫌いで実直な高潔漢だろ。
尊氏は戦場では穏やかな自信に満ちた笑みを絶やすことがなかった。
夢窓国師と弟直義の禅問答集「夢中問答」は併せて読みたい。

122: 日本@名無史さん 2013/12/08(日) 14:38:17.41
直義は最初に朝廷一の儒学者を幕府に取り立ててるな。
家康もこの例に倣ったのか知らん。

128: 日本@名無史さん 2013/12/08(日) 18:13:39.78
林羅山を中核にした徳川初期の儒学導入と足利一門の取り立ては同時進行だな。

信長→秀吉→家康という継承関係ばかり注目されて、家康が室町幕府を体制の雛型としたという観点は言われないな。

131: 日本@名無史さん 2013/12/08(日) 20:28:11.83
江戸城作った太田道灌も室町幕府の武蔵守護だな。

132: 日本@名無史さん 2013/12/08(日) 23:11:50.25
>>131
守護? 守護代だろ
武蔵の守護は上杉じゃんか

133: 日本@名無史さん 2013/12/08(日) 23:20:39.71
そうそう、守護代理。家康の成功は室町体制を継承したことにあったのでは?

135: 日本@名無史さん 2013/12/14(土) 15:17:52.81
後醍醐の失敗は、対外侵略を国内統一の手段にしなかったことだな。

136: 日本@名無史さん 2013/12/14(土) 20:34:38.78
>>135
皇統が実子に継がれたから満足、満足。てな感じだろう

137: 日本@名無史さん 2013/12/15(日) 22:47:55.63
後醍醐帝て建武の元号つかうあたり
光武帝の治世に憧れてたんだろうけど
結果的は王莽みたいになっちゃたな

138: 日本@名無史さん 2013/12/16(月) 00:22:05.97
神武にも天武にも被せてあるんではないか?

しかし、朝廷の繁栄の礎となったのは上宮太子にございます。
(-人-)

139: 日本@名無史さん 2013/12/16(月) 01:48:20.71
>>137
王莽よりは、どっちかって言うと劉備のほうが少し近い気がする

140: 日本@名無史さん 2013/12/19(木) 02:44:01.95
劉備ならむしろ尊氏の方だろう

141: 日本@名無史さん 2013/12/19(木) 17:33:34.59
出自血統の面で言えば、
後醍醐>尊氏>劉備 なんだよなあ。どっちになぞらえても、劉備よりは高貴の生まれ。

成果という面で言うなら、

尊氏>劉備>後醍醐 と言った方がいいんじゃないかな
劉備と後醍醐は逆か

尊氏は帝位に就いたわけじゃないけど(幕府の長であって、人臣たる征夷大将軍にすぎない)
それなりの期間にわたって安定する政権を打ち立てた。
後醍醐も政権は取ったけど、自分の一代の間すら保持しきれなかった。
劉備は帝位には就いたけど、天下を統一できなかったし、二代目のなかばで早くも消滅した

期間は短くとも数代にわたって存続できた点を重く見たら劉備より後醍醐の業績(出世度じゃなく、残した遺産の規模)の方が勝るとも言えるな

142: 日本@名無史さん 2013/12/29(日) 18:49:09.45
残した遺産は債務超過だったけどな

145: 日本@名無史さん 2014/05/08(木) 19:31:30.68
この時代はピクニック気分で戦争してるよな
補給線なんてマジで考えてなさそう
北畠顕家なんて奥州から上洛して畿内で転戦してて草
しかも万単位の兵で

146: 日本@名無史さん 2014/05/10(土) 10:59:06.38
>>145
顕家はかなり短期間で奥州から京にまで進撃しているから補給が苦しいのは無理もない話だが、それ以上に問題化したのは守護による乱坊、横領など戦争を理由にした組織的な行為が幕府内部の権力抗争につながった点で特異と言えるだろう。

153: 日本@名無史さん 2014/11/17(月) 03:04:58.87
>>146
南朝だけで幾つ
【幕府】があったのやら

154: 日本@名無史さん 2014/11/19(水) 01:57:44.64
奥州は南朝支持が多かったのは何故?

155: 日本@名無史さん 2014/11/19(水) 02:20:41.55
そうでもないはず

北畠顕家が滞在した短期間を除けば、さほど差はない
顕家が西上したあと、こんどは幕府がわの斯波氏が勢力を伸ばしただろ
斯波氏の子孫は出羽の最上氏と陸奥の大崎氏。

もう少し経つと、こんどは鎌倉公方家の分かれの稲村公方・篠川公方が東北で勢力を伸ばし始めたことや、この両公方家が滅んだ後、戦国時代には伊達氏などと争って大崎氏は滅亡してしまったが、それまではけっこう強い勢力だったしな。

156: 日本@名無史さん 2014/11/21(金) 02:07:44.21
鎌倉の奥州探題葛西氏といい
室町柵の上大崎氏といい
広すぎて守護がいない陸奥の国

158: 日本@名無史さん 2014/11/21(金) 14:01:19.08
>>156
出羽や陸奥の探題って他の地方だと守護を束ねる地方統率機関だよな
鎮西探題あらため九州探題と中国探題ってさ。

陸奥に関しては、室町時代末頃に伊達種宗だったか、陸奥守護職就任の例はある。
戦国時代ゆえの例外措置で間違いないな

引用元: ・南北朝時代を語れ



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