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1: 人間七七四年 2012/02/05(日) 12:52:42.50 ID:oKqgKgk7
【摂津】
西国街道に沿う地域~争いに度々巻き込まれていた地域
主な有力者は『池田氏』『伊丹氏』『三宅氏』後期は『和田氏』『高山氏』『荒木氏』『中川氏』etc

【河内】
戦国期、戦国大名化した畠山義就、南と北で分裂した畠山氏とそれに付随してのし上がろうとする国人達
主な有力者は『畠山氏総州家』『畠山氏尾洲家』『遊佐氏』『木沢氏』『安見氏』

【和泉】
~堺~商人の街~世界と繋がる貿易港 
一国を商人達が仕切り、国自体が自由都市と成っていた特殊地域
主な有力者『和泉細川氏』『松浦氏』 【今井家】【津田家】【千家】

【大和】
エリート坊主の古の地、生駒山脈に囲まれた事により、摂河泉とは意識が遅れたか!?
松永久秀が侵入するまで独自の地から戦国大名は排出せず
主な有力者『松永氏』『筒井氏』『柳生氏』『古市氏』『越智氏』

【山城】
公家と京童が住む街、色々な宗派の寺社が犇めき合い見動きが取りずらい、攻め安く守りにくい
川向うは京都ではない、西の岡に住む国人連合
主な有力者『足利氏』『細川京兆家』『物集氏』『長岡氏』『一条氏』『九条氏』『山科氏』etc

戦国期の五畿内とその周辺【丹波・山科・播磨】を絡めてもおk









5: 人間七七四年 2012/02/05(日) 14:28:45.09 ID:M2Nl+1Os
戦国時代開始前夜ネタから1つ!

赤松政則は洞松院と婚儀する必要があったのか?
洞松院っていろんな意味で凄いんだろ?

細川政元にしたら同盟よりも姉が嫁ぐことの方が難題のような気がするよ。

6: 人間七七四年 2012/02/05(日) 14:50:31.13 ID:WQK+ZO0p
>>5
容姿の事で云うのなら所詮噂でしか無いし、播磨で継続している山名との対立、摂津で赤松分郡が京兆家領に取り囲まれている事などを考えても、赤松家が京兆家との結びつきを強くする方が良いと考えるのは当然のこと。
そもそも赤松は伝統的に親京兆家だし。

7: 人間七七四年 2012/02/05(日) 14:55:07.20 ID:M2Nl+1Os
>>6
まあ当時の写真があるわけではないからわからんけどね。
普通に同盟だけでいいじゃんと思っただけ。

8: 人間七七四年 2012/02/05(日) 15:17:46.01 ID:WQK+ZO0p
明応の政変で将軍義材と畠山政長が籠もった河内正覚寺城の記録にある
「百余りもの櫓が建てられ、その内一番高い櫓は公方御座所であった」(大乗院寺社雑事記)

この「一番高い櫓は公方御座所であった」ってコレ、明らかに天守、もしくは天守の原型だと思うのだがどうだろうか?

9: 人間七七四年 2012/02/05(日) 20:40:28.27 ID:oKqgKgk7
>>8
伊丹城だけが最初だとは思ってなかったけどその記録は知らなかったなぁ。
天守閣の起源というか、それに近いモノが畿内にどれだけあったのかは興味深いね
多分まだありそうな予感。

城下町の概念は大和越智氏の寺内町が初めで→そこから畠山義就の発想で誉田城城下町だっけ

複数あるとすると畿内の人間達がどこからそういった発想を得たのかが問題になってくるな。


10: 人間七七四年 2012/02/06(月) 02:15:53.96 ID:lYfFqGXk
>>8
天守の事で云うのなら所詮噂でしか無いし、櫓は全て天守かもしれないという発想は危険。
それなら2階櫓は全て天守になりかねない。
公方御座所と書いてあるなら精々金閣レベルと考えておくべき。

14: 人間七七四年 2012/02/17(金) 23:01:33.98 ID:kaxF43qW
戦国大名的政策でもやはり先進的だったのに、畿内で地這えの戦国大名が結局生まれなかったのはやはり寺社や民間の力の強さ故なんだろうか?

15: 人間七七四年 2012/02/18(土) 12:36:38.03 ID:KdAT2M0B
>>14
国人の実力が『ほぼ』平均化してたから目立ってないだけだと思う
摂津池田氏とかは半分戦国大名と言っても遜色ない規模と活躍。
勿論寺社や民間も結束力はあったと思う。

その隣に伊丹氏やら三宅氏やら茨木氏などが鬩ぎ合ってたから結果的に池田氏も有力国人レベルの扱いになってる。信長が指名した事で摂津三守護の池田・伊丹・和田だけど池田氏は摂津の国人の中でも頭一つ以上抜けてる。
後の荒木村重や池田勝正・池田知正の後継争いとか池田氏のバックグラウンドの広さは凄い。

畿内で戦国大名が生まれてない地は『和泉』と微妙だけど『大和』もかな
筒井を戦国大名とみなす事もできるけど誰もが思うだろうけど、筒井=寺社=引継、の印象が強い
松永久秀が大和史上初の戦国大名かと言われればそれも難しい<外部の人間だし
確かに筒井以外での外勢力だけど久秀は恐らく大和の人間じゃない…。
それに松永は大和を全部支配できてない、大和が統括されるのは羽柴秀長が来てからかな。

河内は時代が下るけど、畠山義就が結果的な戦国大名化してる。
南河内の遊佐長教も戦国大名化してる。

和泉かな、実質的に戦国大名が誰もいない所は(名前すら挙がらない、統治した奴なら沢山いるが)

畿内に有力者や戦国大名がいなかったってのは信長の戦記物視点で見る人が多いからじゃないかなと思う

27: 人間七七四年 2013/07/11(木) NY:AN:NY.AN ID:rPMN2iz0
>>14-15
>国人の実力が『ほぼ』平均化してたから

京兆家は、突出した家臣や内衆を作らない様にしていた。
畿内国人の実力が『ほぼ』平均化したのは、それが京兆家の方針だったと言う面もある。

32: 人間七七四年 2015/01/18(日) 12:19:01.39 ID:4PwYphru
>>15
和泉と言えば、沼間、松浦、寺田、真鍋氏。
真鍋氏、沼間氏は、和田竜の村上海賊の娘にでてくる真鍋七五三兵衛、沼間義晴が今後注目度が上がりそう。

松浦氏は、和泉守護細川氏の守護代なのだけど、大きな謎がある。
松浦盛ー松浦守ー松浦万満までの系譜は誰もが認めるところ、その後の松浦孫五郎と松浦孫八郎の内争の勝者がわからない。
松浦孫五郎=松浦虎
松浦孫八郎=松浦万満
であるところまでは納得できるけれど、最後の城主松浦光が松浦孫八郎という説は疑問が残る。

33: 人間七七四年 2015/01/18(日) 12:22:52.83 ID:4PwYphru
松浦孫八郎=松浦万満は、十河一存の実子で親三好派、対する松浦孫五郎は当然、反三好派で親畠山派なのだけど、最後の城主松浦光は、元亀年間において親畠山派=新織田派であり、孫五郎の係累もしくは孫五郎本人の可能性がある。

しかも松浦光は十河某と共闘して三好義継と戦っており、むしろ、十河某=松浦孫八郎であったほうがいいような。

松浦光は寺田安太夫に下克上され家を乗っ取られる。寺田安太夫は後に松浦氏を名乗るのだから親族だったのだろうか?
どちらにせよ、松浦光の出自の確定情報が早く欲しいと思う。

34: 人間七七四年 2015/01/18(日) 13:05:20.92 ID:3blcTsHU
松浦孫八郎=松浦万満は十河一存の実子で三好義継の実の兄弟だから
松永方についていた義継に調略されて松永方、ひいては信長側についたとしてもそう不思議な事じゃないと思うけど
正確にはよくわからんが

35: 人間七七四年 2015/01/19(月) 22:43:54.11 ID:kfSUC9pH
なぜ実の兄を裏切ったのか。地理的な問題?

36: 人間七七四年 2015/01/19(月) 23:16:42.07 ID:84qD7eIV
その辺はよくわからんな
でも松浦肥前守は十河存保が織田に通じさせる仲介もやってたようだし
十河一存の実子の万満である可能性が濃厚そう

37: 人間七七四年 2015/01/19(月) 23:31:36.91 ID:84qD7eIV
って、ああ。虎と万満が和解するなり虎が万満を服属させたって説なのか
教興寺の戦いの後は永禄の変の後に不穏になったぐらいで三好統治で安定に向かってたらしい摂河泉で虎が万満を従えて上になるってかなりきつそうに思えるが

38: 人間七七四年 2015/01/19(月) 23:53:54.17 ID:kfSUC9pH
>>36
十河存保とは確定してないでしょ。十河一行なんかも畿内に居るし。
松肥(虎)が十河某(万松)を織田に通じさせる仲介をやったっていう可能性もある。

39: 人間七七四年 2015/01/20(火) 01:19:13.43 ID:1ITVsH0V
岸和田市年表だと
1566年(永禄9) 2月 松浦孫八郎、和泉国衆ら、畠山高政軍に加わり家原(堺市)で三好三人衆軍と合戦し、敗れて岸和田城に篭る。「九条家文書」
1566年(永禄9) 8月 松浦肥前守虎が極楽寺(極楽寺町)に禁制を下す。
ってなんてんだな。 孫八郎=虎でなく孫八郎=万満ならば、万満は義継久秀畠山側についてたという事だが
そして2月から8月の間に岸和田城主が万満から虎に変わったのか?禁制出したからといって虎が岸和田城主になっていたとは限らんかもしれんが
というか2月時点で孫八郎と義継が組んで畠山ともラインが繋がっていたのなら孫八郎の対抗馬の旗印としての松浦虎の立場も無くなってそうなものだが
松浦虎は孫八郎=万満が義継側についたのを見て畠山から三人衆側に鞍替えして岸和田城を攻め落としたとか?
この年表だけ見ると孫八郎=虎だとすんなりいきそうだけど
うん、わからんw

42: 人間七七四年 2015/01/21(水) 00:07:01.85 ID:CQsx4FBP
>>39
家原城の説明と一致する。

家原城は松永方の和泉国の侍たち(和泉衆)がたてこもっていました。
永禄9年(1566)2月松永方は城を出て上之芝(現在の上野芝)で戦い、三好三人衆の軍勢に敗れ、岸和田城へ逃れました。

だからどうだって言われると何もないのだけど、同年2月と9月の出来事であることはそれぞれ間違いなさそう。

43: 人間七七四年 2015/01/21(水) 00:20:48.48 ID:CQsx4FBP
孫五郎=虎(根来寺と同盟)vs孫八郎=万満(十河系)はどの本見ても同じ事言ってて
なんかしらないけど確定。

孫八郎が畠山に属し2月に岸和田城に逃げ込んで、8月には虎が禁制をだしている。
孫八郎はその後、文献に出てこない。
城に逃げ込んだ時点で従属したか殺されたか。
虎も文献から消える。

そして松浦光が登場。

44: 人間七七四年 2015/01/21(水) 00:23:27.37 ID:CQsx4FBP
永禄10年の孫五郎見つけたけど、わかりにくい。

飯盛城址(大阪府全志より)

翌四月教興寺の一戰に敗けて、高政は紀州に遁れ遊佐・安見は石山に落ち、三好氏全盛を極めたりしが、同七年七月廿四日長慶は當城に逝去せしも、病中と稱して喪を秘し、同九年六月二十四日に至りて葬儀を行ひしといふ。
長慶の死後は其の子三好義永此に居りしも、同八年七月迎へられて高屋城に入り、三人衆の随一たる三好政康當城に居れり。

同十年十月三人衆の奈良大佛殿に本陣して、三好義次・松永久秀に破られし折、杉山彦十郎・松浦孫五郎の三人衆の味方となりしを安藝守に案内せざりしとて、安藝守怒りて三好義次に味方しければ、三人衆は討手を彦十郎に添へて當城内なる安藝守の私宅を攻め、安藝守防ぎかねて同月十五日堺に退き、再び三人衆方へ歸参せり。
然るに當城に籠れる三好政康は、同十一年九月織田信長の足利義昭を扶けて攝州に入るに及び、同月二十九日城を開けて四國に落ち去りしが、城の破却せられしは、同十三年信長の高屋城を攻め落とし、當國に於ける諸城を破却せしときならん。
 

45: 人間七七四年 2015/01/21(水) 00:55:43.21 ID:7vd5PlYE
元々は 孫八郎:三好側 孫五郎:畠山側 だったのが三好家の内紛以降では
孫八郎:畠山側 孫五郎:三好(三人衆)側 に入れ替わってるのかな
それぞれが畠山側、三好側に鞍替えしたタイミングは
孫八郎は三好が分裂した時に松永側について結果畠山とも組む事になった
孫五郎は教興寺の戦い後に三好が岸和田城取り戻した頃に降伏して三好の支配下に取り込まれて三好側になっていたか
孫八郎-松永-畠山の同盟ができた時に反孫八郎の立場から三人衆側に鞍替えしたかってところか?

46: 人間七七四年 2015/01/25(日) 05:19:16.07 ID:wTYTNOWl
>>45
永禄10年に「孫五郎→虎」が三好三人衆側だったとすると、松永-畠山方の「孫八郎」が織田-畠山方の「光」と同一人物である説の方が、確かにすっきりする感じですね。
それから、永禄9年8月の「虎」の禁制は、岸和田城主の「孫八郎」との合戦のおりに出しただけで、城主の交代も無かったのかも。

16: 人間七七四年 2012/02/19(日) 09:10:46.44 ID:le1kyomc
畿内は寺社勢力が強すぎて、武家が一国を完全に掌握できていない気がする。
四天王寺や根来寺、三井寺とかなにげに強力。

17: 人間七七四年 2012/02/19(日) 09:32:31.16 ID:RQPh2vj2
六角あたりは強力な戦国大名と言えるが、あれですら近江半国だからな。

18: 人間七七四年 2012/02/19(日) 11:10:16.53 ID:IWzxfXH3
六角は定頼の強固な体制の時期と比べると義賢の頃はどうしてこうなった・・・
信長にやられるにしても戦国大名六角氏としての消滅の仕方がものっそしょぼい。


19: 人間七七四年 2012/02/19(日) 18:41:51.52 ID:le1kyomc
>>18
一応、伝統の甲賀持久戦を展開したけど、いつのまにか駆逐されていたね。

20: 人間七七四年 2012/02/19(日) 21:09:26.83 ID:jXjzNsMC
義昭の扱いを巡り
観音寺騒動が起こり
六角自体が分裂したからだろ。

21: 人間七七四年 2012/02/21(火) 08:13:02.40 ID:f62Sw86L
観音寺騒動って義昭の扱いをめぐって起こったの?

22: 人間七七四年 2012/02/28(火) 06:12:39.45 ID:IZsJbzSO
>>21
略年表
 永禄6年に観音寺騒動
 永禄8年に将軍義輝弑逆
 永禄11年に義昭将軍就任

観音寺騒動の時点で義昭は一条院覚慶と名乗っている
よって>>20の認識は間違っている

25: 人間七七四年 2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN ID:NOHZJ/Cg
>>21 
三好政権に服従する義賢が騒動で家臣暗殺をして家中は一時的に統制されたかに見えたが、 義輝が暗殺されるや畠山や奉公衆や反義賢の六角家臣による義昭の近江脱出が図られ、 永禄9年4月になると義昭を左馬頭に任官させ、一方、三好が働きかけている左馬頭義栄の将軍任命拒否を出させるなど朝廷工作を成功させた上で、反義賢家臣や畠山や若狭武田や信長や徳川や北畠を率いて義昭が8月に上洛戦開始することになる。 
しかし土壇場で信長が義昭が和睦斡旋した斎藤を奇襲する背反をした挙句に大敗し、 この上洛戦自体が崩壊し、三好の後援を受けている義賢の威勢が増し義昭は近江にいられなくなり朝倉を頼り逃げた。 そして信長の裏切りから脈なしと見た朝廷が三好が押す義栄を将軍にしてしまった。
このように義昭問題によりさらに混迷したものの、 反義賢重臣たちは奉公衆と協力し、 
織田と浅井の婚姻を成立させるなど上洛戦を成功させる手を打ち、 中央政界でも朝廷工作をして反三好+義賢+近衛の勢力と結託し、 ついに永禄10年に当主権限を制限する六角氏式目に 同意せざるを得なくなるまで義賢らを追い詰められた。 
これが可能になったのは再度、義昭上洛戦をする為であり、 斎藤と義賢を凋落させることに成功。 これにより義昭は再度、近江に戻ってくる。 
今回は奉公衆の他に大和衆や松永久秀も三好軍を引き付ける為に義昭上洛戦を前に挙兵させるなど辣腕を振るう。 しかしこの近江の反義賢勢力や浅井らを統合指揮して高いレベルの朝廷工作もやってのけるだけの高い家格の持主が誰なのかわかんないんだよね。 
京極は浅井の操り人形に過ぎず六角系家臣は操れないし。

26: 人間七七四年 2013/07/07(日) NY:AN:NY.AN ID:EmSm/GZ3
六角氏で有能な人って蒲生さんしか解らないわ

31: 人間七七四年 2014/10/05(日) 13:00:15.92 ID:B8Id5op+
>>26
後藤さんや遠藤さんも有能
というか六角家臣団は結構有能だよ

40: 人間七七四年 2015/01/20(火) 23:53:32.69 ID:mYylHRiB
三好長直-長房-房一の地味な生き残り戦略ぅ~

41: 人間七七四年 2015/01/21(水) 00:00:32.24 ID:lRIjIcv2
三好房一は、東軍に味方したのに、東軍従軍中に西軍に領地を押さえられたから減封って酷くね?
河内なんて場所柄、西軍に奪われてもしょうがないし、むしろ二股かけてなかったという忠義の証しだろうに

引用元: ・【摂津・河内・和泉】 畿   内 【山城・大和】



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