41resJpvQaL



1: 日本@名無史さん 2014/08/11(月) 13:56:38.72
尊氏なんて全然たいしたことないのに同レベルの新田に任せたから南朝は衰退した
正成に全権委任すれば余裕で南朝勝っていたよ








2: 日本@名無史さん 2014/08/11(月) 14:02:16.07
尊氏って一旦九州まで落ち延びて、そこで再起を果たすんだよな。
優柔不断な面があるし、戦国の世を長引かせたコトもあるけど、何か人を引きつけるものがあったんじゃないの?

戦国の世を終わらせる人は信長にせよ家康にせよ、冷徹な面が強いけど、たまーにこういう人がいても良いかも。

6: 日本@名無史さん 2014/08/11(月) 15:36:05.33
楠は足利軍との和睦を進言したぐらいだから、まともな武力行使では勝てないと判断してたんでしょう。

9: 日本@名無史さん 2014/08/11(月) 20:29:25.47
>>6
後醍醐を叡山に落とし、尊氏を京都に引っ張り込みそれを南朝軍で囲めば勝てていたものを、坊門清忠が反対してせっかくのチャンスを潰した。

11: 日本@名無史さん 2014/08/11(月) 21:25:32.90
>>9
それは和睦が認められなかったので、どうしても戦うんならと次善の策として進言したもの。
正成は自軍が劣勢な時は勝つことよりも、負けないことを優先するという点で終始一貫してる。


10: 日本@名無史さん 2014/08/11(月) 20:39:25.80
勢力が小さく身分も低い正成では大軍の采配は無理だと思うの。

12: 日本@名無史さん 2014/08/11(月) 21:52:12.75
>>10
演出かも知れんが太平記では正成の兵だけがいつも少ない。
赤松や名和はそれなりに率いていた。足利や新田は直のこと。

23: 日本@名無史さん 2014/11/08(土) 10:40:50.41
>>10
河内の悪党というのはもう古い認識だよ。御内人の被官、兵衛尉の官職、荘園の下司職を持つなどアウトサイダーの要素を薄い。天王寺で六波羅の正規軍と正面から戦っているように大軍の司令官を務めてもいる。
ただこの時の指揮はあまり振るっているとは言えなかったが。

26: 日本@名無史さん 2014/12/06(土) 18:37:22.01
>>1
誰がやっても無理
陸でいくら強くても瀬戸内の水軍を味方にした足利方には対抗出来ない

30: 日本@名無史さん 2014/12/08(月) 19:03:08.26
正成はゲリラの達人だが大軍を動かす器量がなかった。

31: 日本@名無史さん 2014/12/08(月) 19:27:07.62
実際、楠木正成が大軍を率いて名采配をふるったなんてことはないからな
だから大役は鎌倉を落とした実績のある新田や京で足利軍を蹴散らした北畠に任せるしかない

32: 日本@名無史さん 2014/12/08(月) 22:49:14.57
無いのは器量じゃなくて格式

33: 日本@名無史さん 2014/12/08(月) 23:15:35.46
軍が大きくなれば自分の直属の部下を分けて部隊のリーダーや連絡役に据えなきゃいけなくなる
そうなった時にもともとの規模が小さいと、自分の意のままに動いてくれる人材が限られていて大軍を手足のように動かすことができなくなる

34: 日本@名無史さん 2014/12/09(火) 12:02:51.60
そもそも根本的な話 預けるべき大軍の兵士がみんな離反しちまったらな

42: 日本@名無史さん 2015/05/09(土) 11:31:58.02
尊氏直義の内乱に南朝が付け込んでいたら、勝てたかもなぁ。
合戦では難しいだろう。
幕府も有力武士連合でグダグダだが、南朝も公家がニワカ政治将校みたいな事を始めて武士の足を引っ張るし・・・

45: 日本@名無史さん 2015/05/30(土) 18:19:47.63
>>42
正平の統一の時に和平推進派が楠木正儀だけどね。
北畠親房が足利の内輪もめにつけこもうとして和平をチャラにしたから、楠木正儀は激怒して南朝を見限り北朝についた。

46: 日本@名無史さん 2015/05/31(日) 23:50:38.18
>>45
まず、南朝だろうと北朝だろうと分裂状態で妥協する方が双方のイデオロギー的におかしいんだよなぁ・・・
多分、鞍替えする為の言い訳にすぎないと思うよ。
負け組と運命を共にするなんて冗談じゃないしね。

47: 日本@名無史さん 2015/06/01(月) 21:50:51.57
でも幕府側の諸将は楠木に痛めつけられてきた恨みで歓迎しなかったというオチ。
もともと幕府側の将にしてみれば、なんでずっと忠誠誓ってたオレらより、昨日まで敵対してた奴の方が優遇されるんだっていう気持ちだっただろう。

52: 日本@名無史さん 2015/06/04(木) 19:28:34.54
楠木って建武以降何の戦功も立ててないのに豊島河原で勲功を挙げた新田ディスるとか根性腐ってるという印象しかない。

たぶん最後も新田ディスったら新田シンパの公卿たちにオメー何言ってんのと言い返され、引くに引けなくなって新田と協議もせずに適当な布陣引いてふてくされ自爆したんだろう

てか新田が総大将権限の行使を遠慮してたのが悪い。

53: 日本@名無史さん 2015/06/04(木) 20:19:16.05
そういう新田も、この後は北畠との連携は取れずに散々じゃないすか・・・
基本、大軍を率いた勝ち戦しか出来無い奴だよ。新田義貞は。
ゲリラ戦も出来んし作戦勝ちにも持ち込めない。
ゴリ押ししか出来ん猪武者だよ。
それでも大事な南朝方の武将ではあったがな。

54: 日本@名無史さん 2015/06/04(木) 21:05:07.43
>>53
うむ。
では新田よりも大軍の足利相手に戦いぬいた実績をどう説明するんだ?

58: 日本@名無史さん 2015/06/05(金) 04:25:19.21
>>54
あれは戦い抜いたというより、正成が何らかの事情で新田の指揮下に入るのを拒み、双方が独立して戦った結果ああなったと考えるのが妥当かと。
湊川は下手したら新田義貞まで討死しかねないとんでもない戦況だった。
新田だってやっと京まで逃したんだよ。太平記でも新田さんは大将なのに前線出たがって困るわ的な批判のほうが多いし。

56: 日本@名無史さん 2015/06/05(金) 04:14:29.87
>>53
楠木さんの場合、新田と不成績の質が違うのは、建武親政後に「一回も」勝ててないことなんだよ。
文字通り戦功ゼロ。要するに河内のお仲間がついてこなかった。最後もごく少数の身内だけで戦って戦死。

やっかみがあったんじゃないの?
何だかんだ言って新田は宮方では最大の軍事力なんだし、義貞の個人的武勇については敵味方とも認める所だし。

57: 日本@名無史さん 2015/06/05(金) 04:18:03.44
楠木も一応、鎌倉幕府軍との戦いの最後のほうでは平野部の決戦に出てるけど、幕府軍に対して有利とはとても言えないような戦況だったしな。
総大将の資質は大軍の統率者になれるかどうかという要素から見たら、足利尊氏がずば抜けてるのは言うまでもないが、それにしても新田と比べたら力量は劣ると言わざるを得ない。

新田は少数の手勢を率いての強襲を何度もやってる戦闘レベルでは高い能力を持った将軍だからな。
腐っても東国御家人はレベルが違うよ。

60: 日本@名無史さん 2015/06/05(金) 21:09:53.07
>>57
個人の武勇や戦術能力というのは、前線の指揮官がやる事だよ。
新田は前線の指揮官では無い、という事は武将じゃないんだ。
事実上の征夷大将軍なんだ。
将軍は前線に出張るんじゃなく戦略を決めないとアカン。
それが前線に出張って猪武者だなんて迷惑だろう。
公家も足引っ張ったが、義貞も大分足引っ張ったと思うぞ。
それに、味方との連携をしたがらないという最大の欠点もあるし。

62: 日本@名無史さん 2015/06/05(金) 21:44:30.28
>>60
それは太平記の作者に批判されてる所だけど、楠木の場合はそれ以前に、河内の仲間が楠木についてかなかったから兵数が集まってない。問題外。
平地での大軍の指揮経験もない。宮方が尊氏を九州に追い落とした後で新田を褒賞したのは妥当だよ
他に大将軍たりうる人物もいないし、新田は大軍の指揮経験や幕僚も揃えている

新田の敗因っておおかた宮方の不人気や劣勢に起因する所が大きいから、楠木と大差ないのに、その新田を讒言したら公卿から顰蹙を買うのは当然。

あと北畠顕家との合流の遅れについては、故意のサボタージュじゃないでしょ。
単純に戦線を拡大してた越前と美濃の合流がそれほど簡単ではないだけで。

64: 日本@名無史さん 2015/06/05(金) 21:55:37.47
>>62
楠木はそもそも単なる地侍だろう。
あくまでゲリラの指揮官みたいなものだ。
しかし、だからと言って新田義貞も会戦は得意か?と言ったら必ずしもそうではないというのが問題なんだ。
基本的にチャンスを逃すから。
北畠と合流できるチャンスもあったのに悉く逃すしね。
もうここまで行くと南朝方の期待とは裏腹に、腹に一物があったのでは無いかなって位にね。

66: 日本@名無史さん 2015/06/06(土) 04:39:45.53
>>64
千早赤坂と、その包囲が解けたあとの平野部への進出の時は大将も一応やってる。
ただ、大軍の統率の経験は乏しいし、野戦での幕府軍との戦果もはかばかしくない。
楠木は得宗被官だったし、有力な豪族だったから動員力はそれなりにあったと思う。
その楠木がなぜ建武親政以降に戦果を全くと言っていいほど残せてないかと言えば、要するに兵力が集まらなかったから。

新田義貞は箱根竹の下や尊氏との京の攻防戦で負けてるけど、箱根竹の下については尊氏出馬で官軍に佐々木道誉らの寝返りが発生したこと(義貞は佐々木の参戦に消極的だった)
京の攻防戦については早期奪回のためにかなり無理を強いられたという宮方の事情が大きい。
これは正成にも言えることだけどね。

そして北畠顕家との合流ができなかったのは、新田勢は当時越前で戦線を拡大中で、合流要請に簡単に応じられるほど余裕がなかったというのが最大原因でしょ。

もしかしたら、顕家諌奏に見られるような超保守的で武士を敵視するような顕家と関係が良くなかったかも知れないし、奥州勢に参加してる北条時行との遺恨を意識したかも知れないけど、それが直接的な原因ではないと思う。
手元に義貞や正成の研究書がないので申し訳ないけど、確か今それで纏まってる気がする。

65: 日本@名無史さん 2015/06/05(金) 22:00:48.62
あんまり語られないけど楠木が布陣した湊川は源平の時に義経が攻撃した一の谷とほぼ同じ場所でしょ。
つまり神戸の西の玄関口だ。平家が義経を防ごうとしたように要害でもある。
ここを守らないと神戸が足利の手に落ちてしまう以上、陸路の玄関を抑えるのは当然では。

67: 日本@名無史さん 2015/06/06(土) 04:58:17.23
>>65
新田スレか、足利新田スレで前に議論してたけど、正成が布陣した会下山は戦場の西に位置する小山、総大将義貞の布陣したのが和田岬
つまり正成の布陣した場所は水軍を持ってる足利が正面衝突を避けて回り込むと、新田勢は東に向くから、簡単に分断されてしまう。
もちろん新田勢はそれを阻止すべく脇屋・大館が備えてたけど、定禅は上陸地点を変えてあっさり陽動に成功。

足利軍は最初から新田勢を東に引っ張りだし、会下山の楠木勢をまず孤立させ殲滅、その勢いを駆って新田勢を殲滅という分断撃破を考えてて、迎撃は最初から水軍力を持ってる足利勢のほうが有利。だから、基本的には退路を確保し、兵力を温存して引き上げるしかない。
正成が新田勢の援護で分断を防げると信じてたとしたら甘いし、新田義貞自身が遅くまで戦ってたことを考えたら、相当なバクチ作戦になるのは事前に覚悟してたんじゃなかろうかね。

正成が会下山に布陣した時に手勢がしつこく強襲を繰り返してるのはそのためじゃない?
新田もそれは理解してるから、あえて総大将権限を行使して布陣を変えさせることをしなかった。

本当に梅松論にあるように、正成が義貞を合戦直前に讒言したのかって結構疑問が多い(他の史料では確認されてない)が、両将が無理を承知で戦わざるを得ない状況だったとは言える。

68: 日本@名無史さん 2015/06/06(土) 05:18:01.51
新田軍は西宮まで後退したあと、生田まで戻ってきてるから、会下山を包囲した上陸軍の背後を攻めようとはしてるんだが、その頃には楠木勢は兵が逃亡して壊滅。
生田の森を防壁的に使った新田軍は楠木勢の残兵を収容しつつ、一連の合戦中最大の戦闘が勃発してるから、楠木の布陣って陸路の足利軍の足止めどころか、早期殲滅で兵力の無駄な損耗になってしまうのだよね。
おそらく新田勢としても生田あたりで退路を確保しつつ戦う気で、兵力差を補うため楠木の兵力も欲しかったんじゃなかろうか。

このあたりは、出陣直前に、何らかの問題で公卿たちと対立した正成自身のメンツの問題も絡んでる気がする。
義貞でさえなかなか引き揚げなかったくらいだから。

74: 日本@名無史さん 2015/06/07(日) 13:55:26.22
実際はどうだったのか
太平記では楠木は讒言を行わず叡山遷幸を提言して却下され、現地で新田を励ましつつ布陣し執拗な突撃を繰り返してる

だけど陸路の足利軍を足止めしつつ生田まで兵を収容しつつ引いて合流するつもりが(主力の新田勢は最初から生田を想定戦場にしてた節があるから)、重囲に陥って失敗したんじゃないかね
千早赤坂でも正成は緒戦段階で幕府軍に押し込まれた経験をフィードバックして長期戦戦ってるが、今回はその暇もなかったというあたりじゃないのか

98: 日本@名無史さん 2019/06/12(水) 09:41:50.57
楠木の作戦は、要は戦わずに京都を放棄して足利軍を京都市街へ引き入れる
後醍醐天皇を比叡山へ移し、京都近郊を後醍醐軍が展開して、京都市街を包囲封鎖する

こんな作戦、うまくいくわけがない
泥縄式に包囲網作っても、足利軍の兵力は後醍醐軍と比べても圧倒的に多い
しかも近江の佐々木、播磨の赤松が足利の強固な味方だし、丹波には足利の直轄領
あっという間に京都包囲網は突破されて終わり 逆に比叡山こそ包囲されるのがオチ

99: 日本@名無史さん 2019/06/12(水) 10:08:53.94
後に足利は南朝や反乱大名に京都を攻め込まれると、京都をいったん放棄して近江か美濃へ退却し、味方の大軍を集めて京都を奪還するという作戦を成功させた

ある意味楠木の作戦を足利が実行して成功するとは皮肉だが、足利が成功したのは京都を捨てても敵を上回る大軍を集められるとわかってるから
建武政権の場合は敵の足利と比べても兵が集まらんし、京都を放棄したら、もっと兵の集まりが悪くなる

引用元: ・楠木正成に大軍を預けていたら余裕で圧勝だったな



太平記(全6冊セット) (岩波文庫)
兵藤裕己
岩波書店
売り上げランキング: 264,550