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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/31(木) 13:30:57 ID:6GlfmSQN
徳川二代将軍について揉めてください。








485: 人間七七四年 2010/11/04(木) 23:45:48 ID:6UvAhj7w
徳川の二代目なのにこの影の薄さ
それがもうただ者じゃない

486: 人間七七四年 2010/11/04(木) 23:50:33 ID:caCqpYU1
地味なところが秀忠の最大の魅力じゃないか

490: 人間七七四年 2010/11/05(金) 06:47:39 ID:83npyKFY
鎌倉幕府も室町幕府も、2代目将軍は影薄いし。
そういうポジションなんだよ。

491: 人間七七四年 2010/11/05(金) 08:50:05 ID:xNF++LGM
鎌倉幕府は三代目も知名度低いだろ

二代目が地味に頑張ってくれると三代目のころには全盛期で派手に目立てるんだろう

497: 人間七七四年 2010/11/07(日) 08:12:40 ID:sjdEtuuo
地味だ地味だと言われつつも大河で実質主人公だったり、主人公の旦那だったり、少ないながらも主人公の小説を出してもらったりして なんだかんだで恵まれてる

贅沢言ってはいけないな

505: 人間七七四年 2011/03/03(木) 09:11:03.49 ID:R/zYLytV
調べれば調べるほど自分の中の秀忠さんのイメージが巷に流布しているものとは逆方向に向かっていくんだが
どうすればいいんだろう

奥さんに尻に敷かれていたというのもたいした根拠のない話なんだな

506: 人間七七四年 2011/03/05(土) 09:39:15.67 ID:aYy50DCW
年上且つ庶子を認知、対面したのが死後ってところからきたイメージが一人歩きしてるが、政治的に有利なのを計算してにも見えるんだよなあ
そもそも大奥の制度も整ってない時代の将軍だから、脇腹の扱いもそれ以降や正室や嫡男に苦い思いした初代とは違って当然かと
あと一応家光の前にも男児はいて異母兄は間違いなさそうだが詳しくはわからなかった

508: 人間七七四年 2011/03/05(土) 19:51:35.49 ID:W14STMQF
>>506
家光の異母兄の長丸は前後に生まれたとされる勝姫との妊娠期間の兼ね合いや江と秀忠が一緒にいられた期間を考えると妾の子なのは明らか

だから秀忠が嫉妬深い正室に尻に敷かれて側室も妾も置けなかった・・・・とかいう話が広まる意味がわからん

514: 人間七七四年 2011/03/19(土) 19:06:45.47 ID:IB08wq5g
>>508
>家光の異母兄の長丸は前後に生まれたとされる勝姫との妊娠期間の兼ね合いや江と秀忠が一緒にいられた期間を考えると妾の子なのは明らか

勝姫が慶長五年生まれで、妾腹の長丸はその翌年の慶長六年生まれだと信じていたが、説によっては逆もあり得る?!
最近では、勝姫の生年は慶長六年説の方が有力なようだが・・・・・

516: 人間七七四年 2011/03/26(土) 19:47:14.14 ID:xrMtrdTX
>>514
ご存知かもしれないが長丸は慶長六年十二月生まれとよく言われるけど公家さんとか鹿苑寺門主とかの日記の慶長六年九月あたりに「秀忠の息子が死んだらしく家康が悲しんでいた」という記述があるらしい

だから自分は長丸は慶長六年ではなく、慶長五年十二月生まれなのかもしれんと思い始めた

517: 人間七七四年 2011/03/28(月) 11:31:18.74 ID:LKevKjvI
>>516
長丸については、幕府公式の記録に「慶長七年にお灸が元で死亡、享年二歳」とあるので
それが正しいならば、長丸は慶長六年生まれということになる。
慶長七年に数え年2歳で亡くなったのに、慶長五年生まれはおかしい
幕府関係者が将軍の息子の没年を誤って記すとは思えないが・・・・
幕府側の記録より、京都のお公家さんの日記の方が正しいってことあるのかな? 

518: 人間七七四年 2011/03/28(月) 13:56:08.38 ID:jKxPvT1h
お久家さんの日記はいわゆる一次史料だろ
「長丸が灸で死んだ享年二歳」と書かれている「幕府祚胤伝」は江戸末期に書かれた史料じゃない?

自分は後世の幕府の記録なんかより同時代の久家の日記のほうが信用できると思うけど
一人しか書いてないなら記述ミスの可能性もあるけど同じことを二人が書いてるわけだし

それに「幕府祚胤伝」の作者が参考にした史料「源流綜貫」に長丸は慶長五年十二月だと書かれていたらしい
それなのにわざわざ慶長六年生まれの勝姫の誕生年と入れ替えたそうだ
たぶん二人とも江の子ということにするため

(「源流綜貫」にしたがって)慶長五年十二月生まれで(久家の日記にしたがって)慶長六年九月死亡享年数え二歳という可能性もあると思う

520: 人間七七四年 2011/03/31(木) 07:44:39.49 ID:cbhZhNtH
>>518
>たぶん二人とも江の子ということにするため

妾腹の子なら妾腹の子と堂々と書き残して良さそうなもんだけどね
この時代、庶長子なんて別に珍しくも何ともないし
げんに伊達政宗の長男は妾腹じゃないか
いくら早世したとはいえ、秀忠の長男だけ本当は妾腹なのに正妻腹だということにする理由がわからん

531: 人間七七四年 2011/04/03(日) 17:44:05.01 ID:EpL/V7yw
>>520
「正室の子であるという箔をつける必要があったので、もしかしたら江の子とされる七人の中に何人が妾の子が混ざっているかもしれん」
と主張する人と

「豊臣の養女である江の子であることは徳川家にとって都合があまり良くないから、江以外が生母ならハッキリと正室の子じゃないと記載するはずなので、公式記録で江の子とされる七人は間違いなく江の子だろう」と主張する人
がいたんだが

自分は後者のほうが納得できるなあと思っている

533: 人間七七四年 2011/04/03(日) 20:05:51.66 ID:u8LyWmNt
>>531
しかも当時は正室の養子になれば側室腹としても相応の扱いになるし、ましてそれを隠す必要もないからな
一般的にイメージされてる江戸時代の将軍の婚姻に関する事柄や大奥は家光からなのに、秀忠にその杓子定規を持ってくることが誤解の元な気がする

522: 人間七七四年 2011/04/01(金) 06:29:47.17 ID:QzKT1CeH
正妻にはばかってか、保科正之ともずっと対面していなかったというのが一般にいわれている秀忠だし。
別に不自然ではないな。

523: 人間七七四年 2011/04/01(金) 08:09:00.44 ID:jbbKviNR
よく言われる慶長六年十二月生まれだと関ヶ原の戦後処理で伏見にいた秀忠が江戸に戻ってきたのがその年の四月の終わりなので長丸の母親は正室じゃないと思う

慶長五年生まれでも勝姫の妊娠期間との兼ね合いを考えると正室の子じゃない
(正室の子じゃないのは勝姫という可能性もあるかもしれんが)
江戸時代の史料なんかにも
長丸の生母は家女とか御台所の子は七人 と書かれてるし

>>522
保科正之ファンに怒られるかもしれんが
・・・正室に憚ってとよく言われるけど正室が死んだ後も秀忠は親子の名乗りをしなかったんだよね
よく言われる対面は「親子の」ではなく「大御所と大名の子息の」対面だし
それを考えたら正之の扱いは正室のわがままが原因じゃなくて秀忠の意志のように感じる

527: 人間七七四年 2011/04/02(土) 07:28:16.39 ID:RamhLeKc
>>522
>(正室の子じゃないのは勝姫という可能性もあるかもしれんが)

勝姫は普通に正室の子じゃね。正室の子かどうか怪しまれているのは初姫なんだが・・・
仮に長丸が正室の子で慶長六年十二月生まれだとすると、どう考えても翌年の慶長七年七月に初姫を生むのは無理がある
「於通」という名の女性が初姫の生母ではないかという説を唱える研究者も少数派だがいる

528: 人間七七四年 2011/04/02(土) 12:39:03.77 ID:fUHiPp2n
>>527
初姫は身重のお江の方が千姫の婚礼に着いった先の上方で生まれたという話があるから
慶長八年生まれ説もある
ちなみに徳川実紀は慶長八年を採用している

もし初がそのお通の方という女性の子なら
「自分以外の産んだ子を認めない嫉妬深い御台所」という恐妻伝説が消えることになるわな

お江は初姫を姉の家に嫁がせたり晩年の手紙に「初姫に会えるのが嬉しい」みたいなこと書いていたりして初姫を大事にしてるから

532: 人間七七四年 2011/04/03(日) 19:45:49.23 ID:f/gK+H+2
少なくとも家光は絶対に江の実子だと思う。
そもそも、「竹千代」は徳川家の嫡出の第一男子に名付けられる幼名だろ
早世した長男は庶子ゆえに「長丸」だったんじゃね。

534: 人間七七四年 2011/04/03(日) 23:33:56.09 ID:EpL/V7yw
>>532
江が死んだ後に浅井長政に中納言追贈されてるんだよね
家光が執請したらしい

それに家光の小性に浅井関係者がいるんだっけ

そういう話を聞くとやっぱり家光はお江の方の子なんだなと思う

春日局がどうのこうの言う番組や本では無理矢理、家光と明智を結び付けようとしていて
お江の実家浅井との関係は無視されるから
誤解してる人がたくさんいるな

536: 人間七七四年 2011/04/04(月) 07:06:22.88 ID:G+oJOkNr
>>534
>江が死んだ後に浅井長政に中納言追贈されてるんだよね
家光が執請したらしい

その話を聞いて何だかホッとした。
家光は父方の祖父・家康を崇拝するあまり、母方の浅井氏を軽んじているという印象が強かったから・・・
ちゃんと母方の祖父・浅井長政のことも気にかけてたんだね。

509: 人間七七四年 2011/03/07(月) 00:00:33.01 ID:byAcwyVJ
家康の忠実な後継者のようなイメージがあったが、追っていってみると、どうも家康とは考え方が大分違うように感じる。 
側室関係もその一環かなと

510: 人間七七四年 2011/03/07(月) 00:44:40.32 ID:uYlyw+lL
真面目だけが取り柄の気弱な将軍、とか言う人もいるが秀忠は意外と自分の主張を全面的に押し出してくるような強気な逸話が多い気がするな 

なのに奥さんと息子の乳母が登場する逸話の時だけは別人格のように気弱なのは違和感がある 

まあ所詮逸話なんてそんなもんか 
嘘か本当かわからないようなものだし

511: 人間七七四年 2011/03/07(月) 21:21:29.33 ID:GeYwDM30
>>510 
福島正則の改易にしても、幕閣ですら及び腰だったのを断行したのは秀忠だしね。 
軍事的な才覚は乏しいにしても、将軍として世の中を治める、政治家としてはかなり果断に富む人とみていいと思う。

541: 人間七七四年 2011/04/07(木) 18:44:44.92 ID:+xzofLjU
家光は「家康の孫」「信長の姪孫」という、血筋だけはご立派な苦労知らずの三代目。

544: 人間七七四年 2011/04/08(金) 07:26:58.13 ID:wgtzh9uF
「余は生まれながらの将軍である!」ってry

浅井と織田の血を引いてるからって驕るなよって感じw

545: 人間七七四年 2011/04/08(金) 13:30:06.36 ID:jkU8iLpk
織田で思い出したけど、
養源院の和子が建てた江の供養塔の説明書き、
「浅井豊臣徳川御所の平穏を祈って」って書かれてるんだけど
織田が含まれなくて豊臣が含まれてるのは意外だなあと思った
和子は「自分や母は織田より豊臣との繋がりが深い」と思ってたのかね

まあ所詮説明書きなんで鵜呑みにできんけど

546: 人間七七四年 2011/04/10(日) 00:14:14.84 ID:eJNZJ7yo
>>545
秀吉の養女だからだろ

547: 人間七七四年 2011/04/11(月) 20:24:05.65 ID:5KNnQEJQ
>>546
江が秀吉の養女だからというより、和子の異父姉・完子が豊臣の血を引く女だからじゃね?

548: 人間七七四年 2011/04/14(木) 01:09:21.40 ID:eDlpqc4B
>>545
養源院はもともと茶々が父の浅井長政の追善の為に秀吉に頼んで作ってもらったものじゃなかったっけ
あと大坂の陣の一年後に、養源院でお江が施主として大坂戦没者供養の為に仏事が営まれたとあるし

浅井から豊臣一族の新たな供養の場となってその後に徳川の菩提所にもなるから、浅井豊臣徳川ってなるのかなと思う

565: 人間七七四年 2011/04/19(火) 05:42:16.54 ID:S17V1gPu
遺体に銃創痕があったと聞くけど、いつどこで?なのかな?記録にはないよね。

568: 人間七七四年 2011/04/19(火) 10:32:29.00 ID:mSE1tyRi
>>565
大坂の陣辺りかなぁと思った 秀忠の所は大野治長軍が突撃してきたんだっけ?

569: 人間七七四年 2011/04/19(火) 12:27:49.85 ID:A5w8dA5N
>>568
大野治房?じゃなかったっけ?

秀忠が大将のくせに槍持って前線に出ようとした逸話ってその時だよね

秀忠って真面目な人格者っぽい逸話の中にこういう直情的な逸話が混ざってるのが面白いというかやっぱり家康の息子だなと思う
初姫死亡の時の激怒話とか忠長の鴨話とか
まあ所詮逸話だから本当にあった話かは微妙だと思うけど

570: 人間七七四年 2011/04/19(火) 16:08:33.80 ID:S17V1gPu
地味なイメージが定着してるけど、案外熱い人だったのかも、なんて妄想してしまいますね。
鼓が趣味で花を生けるのも好きだったと、何かで読みました。雨が上がったら会いに行くのお手紙もなんとなく心惹かれます。

弟の忠吉さんは病弱だったんでしょうか。若死にが残念です。

571: 人間七七四年 2011/04/19(火) 17:35:12.14 ID:mSE1tyRi
ああ、治房の方だった
秀忠は真面目なイメージだけど、自分のポリシーを貫く熱い所もあるよね
そういう所好きなんだけど

>>570
雨が上がったら会いに行くって手紙は初めて聞きました 誰宛なんでしょうか
もっとこういう手紙系の本増やしてほしい『戦国武将の手紙を読む』も面白かったのに

同母弟の忠吉は病弱どころか、岳父の井伊直政と同じくらいの特攻野郎ですw
関ヶ原で受けた傷が原因で若くして亡くなったそうですよ
病弱なのは、異母弟の信吉ですね 生来病弱で21歳で亡くなったそうです
ちなみに関ヶ原では江戸城留守居役を務めてました

572: 人間七七四年 2011/04/19(火) 18:29:07.40 ID:A5w8dA5N
>>571
雨があがったら会いに行くよ~
の手紙は宛先不明だよ
ただその前にお返事ありがとね、みたいなことが書かれているから

秀忠と気軽に会える&連絡がとれる&江戸城の近くに住んでる人だと思う
かな文字だから女性宛てかもしれんということだけどプライベートな手紙だから男性の可能性もあるそうです

書かれた年代も不明だから
誰宛か特定できないみたい

自分は(養女を含めた)娘のうちのだれかと予想する

573: 人間七七四年 2011/04/19(火) 20:30:12.72 ID:mSE1tyRi
>>572
ありがとうございます
そんなフランクな間柄なら、近くの仲の良い大名とかでしょうかね
懇意にしていた大名はいっぱいいたらしいけど
仲の良い大名は、丹羽長秀とか細川忠興とかは仲が良かったと思うんですが
意外な人と交友関係にあったりするし、そういう交流関係一覧みたいなのがあれば面白そう

590: 人間七七四年 2011/04/25(月) 17:33:48.63 ID:W1P5FXeC
秀忠さんて、忠長くんが段取りしなかったら、お江さんの死後でも、保科正之さんに会わないつもりだったのかなあ?
お静さんは側室として遇されてないんだよね?

591: 人間七七四年 2011/04/25(月) 18:19:16.11 ID:eKUsXipa
>>590
えとその対面というのは親子としての対面、ということだよね

秀忠と保科正之は一度も親子としての対面はしていないよ
家臣と大御所としての対面が一部の会津藩の二次史料(会津松平家譜や保科なんとか?忘れた)に載ってるだけ
その史料にすら「親子の名乗りはついになかった」と書かれているくらいだから間違いないかと

秀忠は静さんを江が死んだあとも側室として扱わず、保科正之も実子として披露しなかった
側室なら遺産分配されるはずなのに静には分配されず、正之は銀500枚しかもらってないし
秀忠といろいろあったといわれる真田でさえ銀1000枚もらってるのに

593: 人間七七四年 2011/04/25(月) 21:49:30.29 ID:W1P5FXeC
>>591
ありがとうございました。
お江さんに遠慮していたんなら、死後でも認知してもよかっただろうに。なんでだろ?
そこまでの気持ちはなかった…ってことかなあ。

595: 人間七七四年 2011/04/26(火) 00:34:02.37 ID:DT46habF
>>593
お江が死んだ後も態度の変化がなかったんだもんな・・・

597: 人間七七四年 2011/04/26(火) 00:46:42.81 ID:xVJ5Tlf+
>>595
やっぱり思うよね 本当なのか怪しいって
ただ、秀忠の乳母の侍女だったっけ? だからそんなに下な身分でもなかったのかな
秀康は、本当に家康の子かどうか疑わしいから、世継ぎになれなかった てのが可能性高いしな

599: 人間七七四年 2011/04/26(火) 07:11:23.06 ID:DT46habF
>>597
自分は本気で疑っているわけじゃなくて
お江とその子供達や結城秀康お万の方は「出生の秘密」がどうこうと囁かれるのに保科正之のことは誰もそういうことを言わないのは不公平だなあと思っただけなんだ

あと静が城を出されたのだって
「身分以外の部分でも側室にふさわしくねーな」と判断された可能性だってないわけじゃない

静は当然のことながら史料が少なくて性格なんてまったくわからないのに「名君保科正之のお母上の素行や性格に問題があるわけがなかろう」という変なフィルターがかかっていると思う

こう考えると歴史上の人物のイメージって曖昧で不確かなものだよなあ・・・・

601: 人間七七四年 2011/04/26(火) 07:54:41.18 ID:T4KbQMpD
>「名君保科正之のお母上の素行や性格に問題があるわけがなかろう」という変なフィルターがかかっていると思う
>こう考えると歴史上の人物のイメージって曖昧で不確かなものだよなあ・・・・

同じように、お江は(徳川の敵だった)淀の妹だから…フィルターはあるかも。
だから嫉妬深いとか、国松偏愛とか。

627: 人間七七四年 2011/05/04(水) 23:47:17.94 ID:GbrBLP/L
家光にとって忠長という存在は、子供の頃の体験から憎むべき存在だったのかな?
それとも将軍後継候補1号という立ち位置が、忠長を消すべき対象にしたのかな?
実際のところは、どうだったのだろう?

628: 人間七七四年 2011/05/05(木) 00:15:39.89 ID:PsBnqV5x
55万石の駿河大納言と呼ばれ、巷では将軍が二人いる とまで言われるくらい家光との権力の差が近接していたらしいから、どっちかというと後者かな?

個人的に、家光と忠長はそんなに仲は悪くなかったと思っている
忠長の切腹も、家光の指図ではなく、家臣たちによるものだと言われているし
(その決断が下される時期、家光は寝込んでいたのでとてもそんな判断は下せなかったらしい)
家光が欝状態になったのも、自分が直接指示した訳ではないが
やはり実の兄弟が切腹し死んでしまったという事実によるものだ 
という説もあるくらい

630: 人間七七四年 2011/05/05(木) 00:50:39.47 ID:7ArH70HL
>>628
秀忠が忠長に蟄居を命じた理由はどう考えますか?

一般的には忠長の問題行動が原因だと言われるけど

632: 人間七七四年 2011/05/05(木) 01:00:11.39 ID:PsBnqV5x
>>630
逸話になるけど、水に移った月に手を入れたら、その月が二つに割れて
「今、天下が二つに割れようとしている それを防ぐのは自分次第だ」と涙を流した
というのがあるんだけど
そういう風に天下安定の為に心を鬼にした ということかなあと 綺麗事すぎるとは思うけど

忠長の問題行動も、実際はちゃんとした理由からくる行動であり特に常軌を逸した悪逆非道なものではなかったんじゃなかったっけ?
後世に伝えられる問題行動と言われるものは、結構そういうことも多いし

633: 人間七七四年 2011/05/05(木) 09:07:09.48 ID:UhImkr1y
アイツばっかりと思う長男の軽い僻みと、主従の立場を忘れ兄弟なんだからという次男の甘え。
歳の近い兄弟のいる家なら比較的ありがちなこと。
ただ、これが将軍家の中で、しかも幕府創成期からの各大名の統制の形が出来てようやく落ち着こうかという時期だったから、あんな結末になったんじゃないかな。
どうってことのない兄弟ケンカに、周囲の権力や思惑が絡むとややこしくなる見本。
「誰も知らなかった江」にあった家光の過剰な被害者意識はあるような気がするなあ。忠長はなんで兄貴があんなに自分を疎ましく思うのか、わからなかったかもな。
いずれにしても、あれほど後継ぎの男子を欲していた秀忠と江は、兄弟の事の顛末をさぞかしあの世で嘆いただろうね。どの子も、幸せとは言い難いしなあ。
保科正之って、立派な政治家だと思うけど、女性問題では失敗してるんだね。初めて知ったよ。それはそれ、これはこれってことか。

637: 人間七七四年 2011/05/05(木) 23:39:06.36 ID:lqf0iqmI
>>633
忠長は家光の了解をとらずに領内でお江の霊屋を建立して増上寺での仏事への参加を差し控えるよう命じられている。このあたり、兄弟なんだからという忠長の考えの甘さがあると思う。
家光の場合、他の同母姉妹とは結構親密なんだけど(とくに千姫あたりとは)。

634: 人間七七四年 2011/05/05(木) 19:01:20.41 ID:PsBnqV5x
秀忠も忠長がいずれ危機に陥ると考え、あえて蟄居させて権力を削いだのかなあとも思った
そうすればもう、表面的には家光の驚異では無くなるし
しかし家光派からすれば、存在時代が許されないと思われたんだろうか…

もうあんな状況なら、あの世で親子揃って幸せにの方がマシだったのかなあ… しかしそれではあまりにも悲しい

635: 人間七七四年 2011/05/05(木) 22:09:54.13 ID:7ArH70HL
家光はともかく秀忠は忠長を切腹させるつもりは無かったと思うな
切腹させるつもりなら自分が生きている間に切腹を命じると思うし
自分が蟄居させたのに殺す役目だけ家光に押し付けるようなことを秀忠はしないような気がする


話は変わるけど一年くらい前のなんでも鑑定団で秀忠が7才の時に書いたお習字?みたいなのが出てたな
放送後の歴史サイトとか見ても全く話題になってなくて切ない気持ちになったのを思い出す

636: 人間七七四年 2011/05/05(木) 22:24:21.74 ID:PsBnqV5x
>>635
見たことなくてググってみて感動した
長丸七歳ってのが可愛く見えたが、あれを七歳で書いたのも凄いな

682: 人間七七四年 2011/05/20(金) 23:43:44.94 ID:MKiRc1+Z
>>636
「今も御文庫に伝えし王義之が聖教序は常に御臨本なされし御品なり」(台徳院殿御実紀)

とあるように秀忠は習字にいそしんでいたらしい


引用元: ・【凡将か?】徳川秀忠を本音で語れ!【名将か?】