51TZF06Y0VL



1: 人間七七四年 2007/06/08(金) 17:33:55 ID:P1ntm8y4
なかったので立てた
鎧かっこよすぎ。
種類とかいろいろ教えてくれ。








295: 人間七七四年 2009/02/22(日) 10:58:51 ID:YmYrZyzr
当世具足は数kgのもの~45kgと重さに幅がある
足軽具足なんかは10kgいかないものが多いし
家康の大黒頭巾兜羊歯具足は40kg以上ある
15~25kgが平均だろうね

雅観甲冑 徳川家康 大黒頭巾兜 羊歯具足写 着用可能 甲冑師による企画・作成 代引不可


296: 人間七七四年 2009/02/23(月) 05:34:02 ID:3v+vlO0D
>>295
家康の具足は着用しても儀礼用だったんではないかと…40㌔㌘とか歩けないよw
昔井伊直政の具足が60㌔㌘あると本見たときは吹いた

西洋甲冑は全身に締まるように着るから重くてもまだましと聞くが、日本の甲冑は上半身が重すぎて肩が凝りそうだわ
何より雨の日なんぞコケやすそうだ

297: 人間七七四年 2009/02/23(月) 14:17:51 ID:sZIhWmjq
家康自身は「鎧なんて軽けりゃ軽いほど良い」って言ってたな。
実践では動きやすいものを着ていたのでしょうな。

299: 人間七七四年 2009/02/25(水) 00:47:25 ID:IvpiRasO
当世具足はそんなに重くない。60キロ、40キロは伝説の類で、正式にデータとして発表されているもので最も重いのは、井伊直政(直孝との説もあり、たぶんこちらが正解)所用の桶側胴具足の27,3キロ。
これは例外的で、15キロを越えるものは重い部類に属する。ヨーロッパでは上半身だけの半甲冑でも20キロを越えるのが普通だから、日本は軽装といえる。
現代の兵士は完全武装で40キロを越える装備を身に着けて戦うから、戦国時代の武将は肉体的負担は軽かった。

300: 人間七七四年 2009/02/25(水) 11:09:33 ID:ky5iMWcF
>>299
けど昔は大名重臣クラス以外は全兵具足着て歩いて戦場まで向かってたんだろ?
武器や兵糧もとなると現代戦の兵と比べても対して変わらないのではなかろうか…。
まぁだからといって機動戦でも14、5㌔㌘の防弾チョッキなんぞ着込んで戦いたくないが…

302: 人間七七四年 2009/02/25(水) 12:14:56 ID:rybYYnRO
>けど昔は大名重臣クラス以外は全兵具足着て歩いて戦場まで向かってたんだろ?

そんなことないぞ。大抵は戦場までは普通の旅装束で、現地で具足に変える。
ずっと鎧を着けたままだと、戦場に到着しても疲れ果てて役に立たなくなる。

食事なんかも、なるべく炊き立ての白米を支給して、現場についたら3日分くらいの糒と塩や味噌を支給するという形。

301: 人間七七四年 2009/02/25(水) 11:54:25 ID:Gv4fBWpS
>>299
16世紀全身プレートアーマーの主流になったフリューテッドアーマーは20kg前後だけどね。胸甲部分を除くと厚さが1mmもない。
ただ、これは長大なランスや剣、下の鎖帷子の着込みを除いた重量であり、プラス10~15kgはあるだろう。
たとえば中国宋代の歩人甲は槍手で32~35kgの甲冑を身に着けていたが、武器を含め全備重量は50kg前後となった。

顔やすねの装甲を省略し、胴体に重点防御をするようになったキュイラスアーマーは防弾胸甲の重さもありもうちょっと重い。

303: 人間七七四年 2009/02/25(水) 13:00:08 ID:aUMxjmxh
ヨーロッパの甲冑の重量 グリニッジ甲冑 1590年頃 イギリス 32,3キロ  重騎兵用甲冑 1600年頃 北イタリア 21,6キロ(膝から下は無し)
オーストリアで16世紀初めに作られたマシクミリアン式甲冑では、表面に畝をつけることで軽量化を実現し、20キロほどになった。以上三浦權利氏の「西洋甲冑武器事典」(柏書房)より。
足軽は最初から着たまま。それ以上の武士は、小者と呼ばれる従者に鎧櫃を背負わせていく。小者は刀を差すが通常の衣服の非戦闘員で戦いには参加しない。

306: 人間七七四年 2009/02/26(木) 12:22:44 ID:9hA9tOY/
当世具足の重量 
羊歯具足 久能山東照宮蔵 18,9キロ
金陀美具足 同 11,7キロ 
以上「久能山東照宮博物館100選」 同館発行より。
この本にはこれらの甲冑のその他のデータも出ている。注目すべきは羊歯具足と金陀美具足のサイズの違い。
羊歯 胴高36,5 臑当高33,5  金陀美 同高 39,0 臑当高37,5
羊歯は伊予札 金陀美は鉄板打ち出しの仏胴(上部に足掻きあり)と手法が違うため、修理法などによっては多少に誤差は生じるが、この違いはそれが原因ではない。
臑当ては臑だけではなく膝部分までを護るいわゆる大立上げで、脚の長さをそのまま反映はしていないが、やはり形の違いから生まれる誤差ではない。
金陀美具足の着用者のほうが明らかに大柄である。この具足は、家康の若い時代のものではありえない。

307: 人間七七四年 2009/02/26(木) 21:21:21 ID:lCJy7Jbf
羊歯具足は展示用で、実際に着用してないんじゃねえの?
あるいは影武者w用かな?

309: 人間七七四年 2009/02/28(土) 02:14:22 ID:V3KdgpXi
羊歯具足の冑。あれは家康が大黒天を夢で見て作らせた、ということになっているが、本当にそうなんだろうか。あの頭の形、ヨーロッパ人が被っている帽子に見える。
エラスムス、中世の哲学者で肖像画も残っているが、確かあんな帽子を被っていたような気がする。三浦按針が乗ってきたリーフデ号は、旧名エラスムス号だ。
家康は幕府を開いたことで、保守的なイメージがあるが、南蛮甲冑を愛用したことでも分かるように、ヨーロッパ文化を受け入れている。
あの兜は南蛮帽兜ではないのか。それを理解しなかった鎖国時代の人が、後になって大黒天と言いだしたのではないか。

310: 人間七七四年 2009/02/28(土) 10:33:31 ID:5+hSN3SM
>>309
するどいとこ突いてますね。
家康の甲冑(羊歯具足、金陀美具足、熊毛水牛具足)は江戸時代、神君家康と崇めた徳川将軍家が後世に作ったものと推測したほうが説明がつく事が多い。
ただ、大黒天兜の頭は張子だと思うので南蛮帽兜は考えにくいと思う。

311: 人間七七四年 2009/02/28(土) 14:50:47 ID:UFvts2EI
南蛮帽といっても、文字通り南蛮、この場合はヨーロッパの帽子をかたどった、という意味。たぶん鉄の鉢の上に軽い木で形を作り漆をかけている。
この羊歯具足は、関ヶ原の戦いの直前に、奈良の甲冑師岩井与左衛門が作成した。18,9キロとかなり重いが、実際に戦場を走りまわるわけではないから、それほど問題にはならない。
家康自身が着用したものと考えるべきではないか。すくなくとも家康関係の様々な物が失われるような災害は、起きていない。(豊臣家にとっての大坂城炎上のような)家康の使用した甲冑そのものが残っていたとしても何の不思議もない。

313: 人間七七四年 2009/02/28(土) 23:28:19 ID:7Le9sEy1
>>311
江戸城ないし駿府城の出火はそれに該当しないの?

315: 人間七七四年 2009/03/03(火) 13:19:45 ID:iUPRuqfa
>>313
羊歯具足は家康の死までは常に傍にあり、死後は久能山東照宮に収められた。
1647年に家光により江戸城内に移され、以後は紅葉山文庫に秘蔵されていた。江戸城は明暦の大火をはじめ、何度も火災に遭っているが、無事潜り抜けたらしい。少なくとも家光以後の技術ではこの具足は作れない。(歴代将軍がレプリカを作っているが、遠く及ばない)もともと鎧櫃に入れて保管するものだから、火事から避難させるのは容易だったのだろう。

312: 人間七七四年 2009/02/28(土) 20:03:45 ID:D9i2jVbc
エラスムスってこの人か
確かにこの帽子はちょっと似ているな


no title

314: 人間七七四年 2009/03/03(火) 13:10:09 ID:iUPRuqfa
>>312
写真感謝 
ホルベインさすが名手。もちろん家康が見たのは、リーフデ号の船尾飾りとして付いていたエラスムス像の方(のち栃木県佐野市竜江院蔵)。リーフデ号は1600年3月の大分に漂着後、堺経由で相模へ回航された。
家康はどこかで間違いなくこの像を見ている。今回改めて「御甲冑師岩井与左衛門由緒書」を見たら、家康が御霊夢を見て、岩井にこの冑を作らせたとはあるが、それが大黒天とは一言も書かれていない。
この像に強い印象を持った家康が、それを夢に見たとしても不思議ではなかろう。羊歯具足の冑がエラスムスの被っている帽子を写したものとしても全く問題がない。
確かにこの冑には全周に鍔がつくなど、エラスムスの帽子とは異なる点もあるが、それを言い出せば大黒天の頭巾にも鍔はない。鍔なしでは冑のデザインとしてうまくまとまらないので、岩井がそのように処理したのだろう。
リーフデ号は商船であったが、銃500丁、銃弾5000発、火薬5000ポンドを積んでいたという。関ヶ原直前の緊迫した情勢の中で、これらの大量の武器は、家康にとって天の恵みにも思えたのではないか。
エラスムスが誰かは知らなかっただろうが、この像を幸運をもたらした神としてあがめ、それにあやかろうとしたのではないか。

341: 人間七七四年 2009/03/16(月) 21:40:40 ID:PK6qJvBT
平均的な具足って、今の価値で、どれくらいしたの?
100万(子供が私立に入学した感覚)くらい?
それとも300万(奮発して良い車を買った)くらいの感覚?

347: 人間七七四年 2009/03/17(火) 03:48:54 ID:SPib2bmF
>>341
ちゃんとしたものは一戸建ての住宅を建てるくらいの感覚。

戦車相当は騎馬武者。
武具一式と馬(と代馬)、従者数人とその分の装備でそのくらい

348: 人間七七四年 2009/03/17(火) 08:41:12 ID:zTva/fu8
甲冑の価格を、現代の車の価格と同じくらいと考えればよいのではないか。
足軽用        大衆車クラス
一般武士用      ミニバンクラス
侍大将用       国産高級車クラス
総大将用       ベンツ、BMWクラス
信長、秀吉、家康など ロールス、マイバッハクラス

353: 人間七七四年 2009/03/19(木) 11:51:16 ID:B8zoLLDF
そんだけ高価で、討ち死にしたりしたらちゃんと装備品一式は遺族の元に戻ったのだろうか・・・

356: 人間七七四年 2009/03/19(木) 15:45:15 ID:iOZNURTE
>>353
まず戦で討たれたら兜は戻ってこないと思われる。
首実検の際に倒した敵の将士が本人であることの確認に兜が有力な証拠になるので首級とともに持ち去られることが多い。後日首は送り返されることもあったようだが、兜は家宝として討っ手の子孫に代々伝えられていく。
たとえば長久手の戦いで死んだ森長可の具足の胴は、森家ゆかりの赤穂大石神社にあるが、兜は別の個人が所有している。

366: ホットパンツ 2009/03/21(土) 19:55:04 ID:RYk7byy+
当世具足って安土・桃山時代のは結構貧弱だよな!
顔全体を覆うめんぽうも肩を覆う大袖もない!
関が原から大阪冬の陣にかけてそれらがあらわれたようだ!

368: 人間七七四年 2009/03/21(土) 23:59:40 ID:kxRXALp+
>>366
面頬や半頬はその頃からよくあるね
大袖が省略されたのは白兵戦の機会の減少が理由だろうか

370: 人間七七四年 2009/03/22(日) 08:57:17 ID:uhPzgz8U
大袖は、室町中期ぐらいまでは高級な鎧には必ず付いたが、16世紀末、陣羽織が流行りだしてからは使われることが少なくなった。
とはいうものの、飛来する矢を避けるためには極めて有効な防備だったと思う。足軽等が使わなかったのは、それ自体高価であるのと分不相応と思われたからだろう。
それなりに重量があるので、動きが制限されるということもあったかもしてない。

371: ホットパンツ 2009/03/22(日) 12:12:01 ID:R7Q6NGAa
当世具足って信長、秀吉の時代には面頬や大袖(小袖か)があるように大河ドラマをみていると誤解してしまうけど、実際は家康の時代(1600年~1614年)ころにそれらができたんであって、1500年代には存在しなかった。


373: 人間七七四年 2009/03/24(火) 16:45:51 ID:Gz7sy8pZ
>>371
その説ではスペインに残ってる秀吉が送った具足はどう説明する??

374: 人間七七四年 2009/03/25(水) 09:40:36 ID:YoJZKP4V
>>373
どんな具足なんですか?二枚胴のやつ?

375: 人間七七四年 2009/03/26(木) 18:41:30 ID:AWsCZbb6
マドリードの王宮武器庫に日本甲冑が3領所蔵されている。
仁王胴具足・本小札色々威丸胴・伊予札色々威腹巻。
腹巻は伝わった時代が違うようだが、他の2領は秀吉がフェリペ2世に贈ったものという。
当時の記録とも甲冑の描写と符合するので間違いないだろう。
19世紀の末に武器庫が火事になった際に損傷し、残欠が整理されて現在に至る。
で、その丸胴具足は大袖を備えているが、全体の性格は実用より儀礼性が高いものだ。
同時期に作られた贈り物や儀礼用の本小札丸胴(ロンドン塔にある、徳川秀忠がジェームス1世に贈ったものなど)にも同様に大袖が付随していることからも、文禄・慶長期には、大袖は実戦から遠ざかっていたと見ることができるのではないか。
このときの戦場ではより動きやすい壷袖・蝶番袖や袖なし籠手のみが多かったかもしれない。

甲冑の詳細は土井輝生の『武具甲冑紀行』の1巻をどうぞ。

378: 人間七七四年 2009/03/26(木) 23:00:19 ID:fJ5DLa3G
大袖の方がセレブでハイソっていう意識はあったと思う
江戸時代になるとまた増えてくるし

422: 人間七七四年 2009/05/18(月) 01:33:40 ID:ZLpPlGJL
いきなりだけども
三十二間筋兜とか六十四間筋兜や星兜とかってあるけれど
これは兜の何かの単位なの?
それと甲冑詳細わかるサイトあったら教えて欲しいです~

423: 人間七七四年 2009/05/18(月) 14:03:18 ID:bssJ+kyH
>>422
文字通りその兜の「筋」である、矧板の数。
32個を組み合わせれば三十二間筋兜。
64個組み合わせれば六十四間筋兜。

星兜はこういうこと
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E5%85%9C

434: 人間七七四年 2009/08/09(日) 17:02:31 ID:wry8fKWQ
最近では趣味用に紙で自作なんて試みも多く見受けられるけど、かつての足軽の紙鎧はどうやって固くしたのだろう?

435: 人間七七四年 2009/08/09(日) 17:16:17 ID:Bv11rRot
型にはめて、圧縮して、漆を塗りたくって固定。

471: 人間七七四年 2009/10/16(金) 05:59:24 ID:UzeneYlk
兜と今のヘルメットだとどちらが丈夫??
ふと気になって…

472: 人間七七四年 2009/10/16(金) 10:46:13 ID:zlX0ARCF
兜のほうが丈夫だったらまだ兜使ってるはずだろ・・・

少なくとも耐弾性については現在のケプラー製ヘルメットの方が上かと
でも防刃性は兜のほうが高いかもね

473: 人間七七四年 2009/10/21(水) 16:43:02 ID:3dqYnGwM
戊申戦争のころには爆風よけに兜使ってたらしい

474: 人間七七四年 2009/10/22(木) 01:42:57 ID:vJVe2Yzv
兜は重くてかぶり続けるのも大変だったらしい。
なので、状況に応じて、「軽いけど防御性は低い兜」と、「重いけど防御性の高い兜」を
使い分けていたようだ。

478: 人間七七四年 2009/10/24(土) 17:20:00 ID:LZumDZXh
>>474
飾り兜なんか漆+木材+和紙で作ってるの多いもんな

475: 人間七七四年 2009/10/22(木) 02:27:35 ID:GwomN1GX
>>474
最近最上記念館で公開された、延沢光昌の当世具足は兜が6kg、鎧も含めると46kgだそうだ
・・・歩けるのか?

476: 人間七七四年 2009/10/23(金) 18:48:45 ID:spgo4Kdc
>>475
鎧台に飾るときに肩の紐に物凄い負担がかかりそう

504: 人間七七四年 2010/01/04(月) 20:55:13 ID:Df6tYjjw
二枚胴具足とかってプレートメイルとかとはどう違うの?
プレートメイルは30kgぐらいあったみたいだけど
>>475の当世具足は40kgぐらいあるんだよな
日本の鎧の軽さに外国の人が驚いた、みたいな話があるけど
何と何を比べたんだろう

505: 人間七七四年 2010/01/04(月) 21:44:18 ID:Mfv7nyk/
当世具足で>>475の例はレアケースだとおもわれ。大鎧並の重さだよ・・・。
標準的な甲冑―日根野頭形・桶側胴に小具足諸々―なら15~20kgだし、その辺と比べたのでは?
あと日本の甲冑は、発祥が騎射を前提にしたものだったから、関節部が隙間だらけなんで軽かったのかもしれない。

508: 人間七七四年 2010/01/06(水) 16:46:01 ID:Vd2xmze+
>>505
なるほど、戦国中期以降の甲冑は結構軽いんだな
確かに関節部分も鎖帷子で覆われてる西洋甲冑に比べると日本のは局所的な部分だけだもんな。
しかし大鎧ってそんなに重かったんだ・・・

485: 人間七七四年 2009/11/17(火) 01:05:44 ID:RXFXBDHu
直江兼続の新研究という本の甲冑に関する考察がよかった。

現在の愛の甲冑は、この数十年の間に兜以外は違うものに取り替えられていたという衝撃的な展開。数十年前の写真も載せていて、現在との違いは歴然。面は今のほうが正しいとのことだが驚いた。

486: 人間七七四年 2009/11/17(火) 10:51:08 ID:01ddWvS9
>現在の愛の甲冑は、この数十年の間に兜以外は違うものに取り替えられていた


(;゚Д゚)(゚Д゚;(゚Д゚;)ナ、ナンダッテー!!

487: 人間七七四年 2009/11/19(木) 13:54:24 ID:jBRwc6PU
巷に伝わる甲冑は時代、時代に改造や装飾をされ原型を留めてるのは少ない
要は暴走族の改造バイクみたいなものだ

528: 人間七七四年 2010/01/30(土) 02:16:50 ID:F23TfKCg
今でこそ甲冑は美術品だけど、
むかし戦場で本当に殺し合いをしてた武者たちは、戦から帰ってくればその甲冑は土埃や返り血まみれだったであろう。組み討ちして首を取ったりした日には、胸元から上、返り血を浴びて真っ赤になっていたであろう。

それをどうクリーニング・メンテナンスしてたんだろうね。
金属そのものが露出してる鎧なら拭けばキレイになりそうだけど、糸で装飾された小札で構成された鎧など、汚れが染み込んだら落とす方法あったんだろうか?

530: 人間七七四年 2010/01/30(土) 20:53:43 ID:z5iAJKl3
>>528
心得のある武士は多少のほころびならばその場でもつくろえるように備えてました。
だから返り血のクリーニングなんて朝飯前。ほとんどの甲冑は防水の漆塗りだから水洗いOKです。
平和な時代 腰の物の日常の手入れを自分でやったように戦国時代に自分の命を守る商売道具のメンテを自分でやるのは当たり前のことです。

531: 人間七七四年 2010/02/02(火) 16:23:27 ID:JsZOqLWj
細川忠興の山鳥の天衝がついた甲冑。
あれ、下散の一番下には赤いビロードが貼ってあるが、最初からそうだったのではなく、あの部分がどこかに当たって音がするのを嫌った忠興自身が、戦場で自らあの布を貼り付けたとのこと。

538: 月孔雀 2010/02/27(土) 07:59:17 ID:zIuDmYy0
上杉家の甲冑が、一番すごいと思う。
南蛮渡来の真似したって・・・信長さんは、、、

南蛮かぶれ・・・

539: 人間七七四年 2010/02/27(土) 09:00:15 ID:3oSf7OXM
>>538
ドラマの中では信長は南蛮胴ばかり着ているが、その歴史的な証拠は何もない
たまに信長着用の伝来がついた具足があるが全部後世のでっち上げ
南蛮甲冑を使ったことが明らかにわかるのは徳川家康

541: 人間七七四年 2010/02/27(土) 17:48:08 ID:58VtAMO1
本物の甲冑はヨーロッパでも注文生産で高価。東洋へやって来る宣教師ごときが手土産に持ってくることなどとてもできない。
フェリペ二世が秀吉に確か2領贈っているから、これが確認できるもっとも古いもの。
ただし、当時の南蛮船は商船であっても海賊や敵との遭遇に備えて甲冑を備品として積んでいたから、これが流出して日本の武士に渡った可能性はある。
つまりヨーロッパの船が日本に来るようになって以後は、南蛮甲冑が使われた可能性はある。
家康のそれも1600年春に漂着したリーフデ号に積まれていたもの。このリーフデ号は火薬や銃器の搭載量は異常で、もともとそれらを販売することを目的としていた可能性もある。

542: 人間七七四年 2010/02/27(土) 20:34:56 ID:3oSf7OXM
ついでに西洋鎧といえば、全身をプレートで覆うものが想像されやすいが日本に入ってきたものはハーフアーマーと呼ばれる形式が主だったのではなかろうかと思う
ルネサンス以降のヨーロッパでは火器が発展したので、甲冑は頭や胴など急所の防御に特化する代わりに下半身の装甲を捨てざるを得ず、文字通りの半甲冑が普及していった
その他に船上のような狭い場所だとフルアーマーでは小回りが利かないという理由もあっただろう

543: 人間七七四年 2010/02/27(土) 21:44:15 ID:N/JFW6Gj
脚部は、長さ、形など個人差が大きいから基本的にオーダーでないと具合が悪い。それに対して上半身はある程度融通が利くから、備品として備える場合はサイズが二三種類もあればなんとかなった。
兜は顔面を覆う装置がないのが普通だが、視界が狭まることによる不利を避けるため。ただし下半身に防備がないことに問題はあり、マゼランもその欠点を突かれて死んだ。

545: 539 2010/02/28(日) 11:26:28 ID:EIBiFX1L
建勲神社の胴丸は小札こそ古物だが、江戸時代に総体が仕立てられたものとの説がある
胴丸をほぼ同時期に作られた上杉神社の金小札色々威(信長から謙信に贈られた)と見比べると細部が江戸期の復古調ぽく見えるし、兜のしころも他の室町桃山期のと比べてみると時代が若く見える(どちらも個人的な感想だが)柏原藩が先祖をたたえるために作らせたのではないかと思っている
ttp://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kin/item07.html

信長所用の伝がつく兜は岐阜市立歴史博物館や総見院、遊就館などにあるが、南蛮兜といっても作風からは雑賀鉢にしか見受けられない
ttp://mariya.no-blog.jp/blog/2010/01/26_8d05.html
鎖国時代のなかで、海外交易が盛んだった時代と信長のイメージの結びつきが
強くなっていった結果、一見エキゾチックな雑賀の兜を信長の南蛮好きに重ねる向きがあったのかしら
また、信雄が本能寺の焼け跡から見つけた父の遺品と伝わる兜が総見院にある
ttp://www.geocities.jp/hm17212/shiseki/bukouyawa/bukouyawa.html
簡素なトッパイ兜だが角元の大きさから巨大な脇立が付いていただろうことを考えるとさもありなん

546: 539 2010/02/28(日) 11:36:48 ID:EIBiFX1L
追記
上でぐちゃぐちゃと書いたが、じゃあ信長は実際どんな甲冑を着ていたのかということに対して、俺は従来の胴丸・腹巻か当世具足になりかけの丸胴とか呼ばれるものの類だったと思う
後者の場合は、利家の金伊予札具足や、秀吉が政宗に贈った銀伊予札胴具足に近い、伊予札製のものを想像していただけるとよい

なんにせよ信長の甲冑についてはこれといった強力な証拠が今のところないというのが俺の感慨

547: 人間七七四年 2010/02/28(日) 22:29:13 ID:TgoAFWIq
信長公記の中に一か所信長の甲冑のことに触れた個所があり、そこには「金唐革」の甲冑を着たとある。
「きんからかわ」とは型押しで模様をつけ、金や様々な色で彩色した革のことで、この時代ヨーロッパからもたらされた。
現在金唐革の甲冑と称するものもあるが、写真では雅楽の衣装に使う甲冑で、信長とは関係がなさそうだ。(穴八幡宮蔵)
信長のそれがどんなものだったかは分らないが、信長が特別な甲冑を身に付けたことは確かだ。
実際金唐革を貼り付けたものだったのか、金唐革のように見える甲冑だったのか。後者ならば南蛮甲冑であった可能性もあるのだが。

549: 人間七七四年 2010/03/23(火) 17:03:49 ID:Rd08WxlQ
>>547
上杉家に伝わった甲冑群の中に織田信長から贈られたものが多いと私は見ている
特に革製金箔置烏帽子型兜外装や唐草透彫烏帽子形兜外装とその頭形兜は信長の用いた無の字も装飾されている事から、日本中央で造られて信長が越後へ送ったと思う

552: 人間七七四年 2010/03/24(水) 06:02:25 ID:qV3VLzw1
当世具足の膝の部分ってどうなってるの?
六角形の組み合わせで亀の甲羅みたいになってるけど

553: 人間七七四年 2010/03/24(水) 09:34:21 ID:DAFjcpZD
>>552
そこは脛当ての膝を守る部分で、立挙(たてあげ)という名前がある
南北朝頃から立挙を脛当てに設けることが行われてきたが室町期を通じて脛部分と同じ革や鉄の板で作ることが多かった
当世具足が出始めた時から立挙の部分を亀甲鉄という小さい六角形の鉄板を布地に仕込んで作る仕立てが主流になる
亀甲鉄を他に使う機会が多いのは胴の肩上に付く小鰭部分

573: 人間七七四年 2010/04/20(火) 19:39:00 ID:pLAM/h1u
明治28年

鎌倉武士
no title

南北朝武士
no title

no title

室町武士
no title



明治だけに今の材質で作ったものではないぶんリアルかも

574: 人間七七四年 2010/04/20(火) 19:41:18 ID:pLAM/h1u
足軽
no title

旗持ち
no title

中間
no title

武士と盾
no title

僧兵
no title


自分的には鎌倉武士の大鎧が一番カッコいい

575: 人間七七四年 2010/04/20(火) 19:50:17 ID:6sbcbYQW
自分は僧兵が良いな

576: 人間七七四年 2010/04/21(水) 13:58:32 ID:v72p7yaI
明治期に撮られた戦国の鎧があれば見たかった
武将クラスの派手なやつ

578: 人間七七四年 2010/04/22(木) 00:34:16 ID:7fQed6t7
鎧を現代人が着るのは大変そうだ

580: 人間七七四年 2010/04/22(木) 12:33:44 ID:0yRSMTGB
かっこええ・・・
no title

581: 人間七七四年 2010/04/22(木) 19:49:54 ID:74sJXOs/
大袖良いなぁ

引用元: ・当世具足★★★鎧について語ろう★★★大鎧



武具甲冑紀行〈1〉
武具甲冑紀行〈1〉
posted with amazlet at 19.08.20
土井 輝生
同信社
売り上げランキング: 1,427,932