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1: 日本@名無史さん 2012/06/24(日) 14:00:46.25
当時の日本最大の国難であった元寇に対応した北条時宗と鎌倉幕府について語ろう!!








6: 日本@名無史さん 2012/06/24(日) 19:16:37.23
日本史上では類を見ない国難
モンゴルからすれば口減らしの為の辺境戦

8: 日本@名無史さん 2012/06/24(日) 19:34:32.95
>>6
単なる口減らしだったという根拠は?

9: 日本@名無史さん 2012/06/24(日) 21:47:06.08
>>6
なんで口減らしなら大成功したはずなのにフビライさんは怒って三度目を計画してるんでしょうかね?しかも予算の関係で断念せざるを得なくなってるし。

37: 日本@名無史さん 2012/06/29(金) 02:57:10.45
>>8,9
モンゴルが本腰を入れて攻め込む際にはモンゴル皇族か彼らの部下の歴戦のベテランの将軍を送り込む
南宋攻略が大ハーンを初め皇族のオンパレードなのは当然として、アイン・ジャールートのキトブカ、ホラズム攻撃及び追撃のジェベやスブタイ
アッバース朝攻略のフレグ・郭侃、南方遠征のトガン、などなど

逆に他の戦争の片手間の服属要求と侵攻を繰り返していた高麗には大した指揮官や本格的な侵攻軍ではなく、結果として征服に数十年かかっている
日本も同様で、1度目はまず南宋攻略が最優先でこの時は南宋周辺の東アジア諸国に片っ端から南宋包囲網の為の服属要求を出してる状況、2度目も同様で、このときは征服した南宋の統治に加え、西方のカイドゥの乱などの対応が最優先
送り込まれたモンゴル人指揮官忻都もこの日本遠征以外には特に軍功や戦歴もわからない人間

そのため両方とも主力も準備も高麗及び南宋兵(2度目)、特に高麗は兵力供出に加え船建造に膨大な負担がかかり、一度親モンゴルの国王が追い出されている
さらに南宋兵を厄介払いしようとしていたのは、彼らに農機具など移住に必要な用具も持たせていたことからも明らか
宋はもともと兵の社会的地位がかなり低かったのもあり、兵士の質はお世辞にも良いとはいえず、ただでさえ滅ぼした国の兵士ということもあって消え去ってくれるのは大賛成
ただしフビライの構想としては日本を服属させ、これら社会不安の兵士を移住させることであったので、日本服属に失敗して怒ること自体は不思議ではない
しかし遠征の指揮官忻都は、文永の役失敗後も失脚や罰せられず再び日本遠征を主張して指揮官に任じられている
一方の南方遠征で同じく現地の抵抗に遭い失敗した息子トゴンは、兵を多く失わせたとして怒りをかって失脚しているにも関わらずだ

よって遠征そのものがモンゴルが本腰になっての征服事業とはとても思えない、むしろ南宋包囲(1度目)や高麗の忠誠心の確認あるいは疲弊など裏に隠れる主目的が見え隠れする

39: 日本@名無史さん 2012/06/29(金) 06:39:55.14
>>37
まず、モンゴルは対日戦に超本腰入れてたから、高麗国王に娘を嫁入りさせてモンゴルの皇族の地位に引き上げてるんだわ。
つまり元寇は立派にモンゴルの皇族による戦争なの。
あとね、元寇には世界各地の戦場で軍功上げた名将が大量参加してる。
参加した将軍の顔ぶれ見ただけでも、フビライがどれだけ日本戦を重視してたかわかるね。
それから、南宋兵は武器なら大量に持っていたけど、農機具なんて持ってないし。

41: 日本@名無史さん 2012/06/29(金) 16:44:58.19
>>39
杉山正明氏によれば弘安の役のモンゴル側の兵の多くを占めていた江南兵は多くが武装していなかった
宋を滅ぼして得た軍のうち、精鋭部隊は当時最もフビライが注力していた対中央アジア(カイドゥ)に送られ次点が東南アジア(陳朝やパガン朝)である
日本に送ったのは南宋兵の中でも弱兵かつろくに武器も持たせていなかった

勿論フビライとしては日本を服属させたかったというのもあるが、南宋兵の口減らしと言うのも大きな目的だった
これは杉山氏の中国史やクビライの挑戦からの要約な

おまけにモンゴルの皇女娶ったから皇族扱いというのもかなり無理があるな
あくまで関係を持つのが目的であって、高麗側(高麗に限らず公主を下賜された属国)、モンゴル皇族として本国に参画できたわけでもない

44: 日本@名無史さん 2012/06/29(金) 17:36:22.16
>>41

>杉山正明氏によれば弘安の役のモンゴル側の兵の多くを占めていた江南兵は多くが武装していなかった

農耕具を積んでいたと聞いたことはあるが、武装していなかったとは?根拠は何?

>宋を滅ぼして得た軍のうち、精鋭部隊は当時最もフビライが注力していた対中央アジア(カイドゥ)に送られ次点が東南アジア(陳朝やパガン朝)である
>日本に送ったのは南宋兵の中でも弱兵かつろくに武器も持たせていなかった

あれ?弘安の役の南宋兵って主に志願兵じゃなかったっけ?
しかもこの「南宋軍」の中には万単位の漢人の他ナンギャダイ配下のモンゴル人・ウイグル人も含まれてるわけだが
あと南宋兵の中からわざわざ使えない人材を選抜して日本に送った、などと書いてある文献があるなら是非教えてくれ

>一度目に壊滅状態に陥ったにも関わらず、指揮官の顔ぶれは変わっていないし、総大将忻都も勿論罰も受けず更迭されてもいない

えーと、もしかして文永の役も棄民だったとか言い出すつもりか?

45: 日本@名無史さん 2012/06/29(金) 18:03:18.17
>>44
農機具を積み込んでいたのは八幡愚童訓にもある話

>弘安の役の南宋兵って主に志願兵じゃなかったっけ?

そもそもの宋兵が徴募制だったのに?おかしな話だな
弘安の役なんて遠征軍14万のうち江南兵は10万人、残りも高麗軍と元軍(この元軍もモンゴル人以外の民族も混ざっている)の混合で、実際のところモンゴル人の割合はかなり低い

逃亡兵が罰せられるのは当たり前、作戦失敗した指揮官が罰せられないのはおかしいな?いいからベトナム遠征軍の例と比べてみよう

49: 日本@名無史さん 2012/06/29(金) 19:23:35.27
>>45
>>農機具を積み込んでいたのは八幡愚童訓にもある話
ひょっとして「農耕具を積んでいた=武器を持っていなかった」ていう理屈?意味がわからん

>>逃亡兵が罰せられるのは当たり前、作戦失敗した指揮官が罰せられないのはおかしいな?

え?文永の役は棄民説が成り立たないからともかく、弘安の役の敗戦を知ったクビライは激怒して阿塔海を除くすべての将校を解任してるんですが・・・阿塔海には再戦の命を下してるし

>>弘安の役なんて遠征軍14万のうち江南兵は10万人

その十万人の中には一万人の漢軍やモンゴル人・ウイグル人の部隊も含まれるわけだが
あと弘安の役の南宋兵が役立たずの在庫処分品みたいに思ってるみたいだが、この南宋兵は新附軍、つまり南宋滅亡後に降伏した兵の中からクビライの親衛軍に選抜された精鋭だぞ (志願制云々は俺の思い違いだったみたいなので、それは謝る)

「通説ではモンゴル人の将官の下江南より徴発された兵員が従事したと言われている江南軍の実態が、南人である范文虎の指揮の下江南平定に従軍した漢軍と選抜された新附軍の混成部隊であった(中略)新附軍に選抜された兵は精鋭であり、諸路に分属した兵も十分に兵役に適すると判断された兵である以上、江南軍に属した新附軍も十分な戦力として配属されたと考える方が自然であろう」

堤一昭氏は「弘安の役の江南軍について」でこう指摘してる
つまり「日本に送ったのは南宋兵の中でも弱兵」どころか、選抜された精鋭だったということ

51: 日本@名無史さん 2012/06/29(金) 20:27:04.80
文永の元軍指揮官らが失脚せず、弘安でも引き続き遠征軍を率いたのは貴重な渡海作戦の経験者だから、ということで説明できるんじゃないかな
そもそも忻都が司令官に抜擢されたのも三別抄討伐で渡海作戦の経験があったからだろうし(洪茶丘も金方慶も三別抄討伐に参加してるしな)

57: 日本@名無史さん 2012/06/30(土) 03:55:46.56
まず、農機具を積み込んでいたのは八幡愚童訓にしかない話なんだわ。
元軍の装備について日本の神社関係者の記述にどれほどの信憑性があるかって問題があるな。
それに八幡愚童訓だって元軍が武器を持ってなかったなんて書いてないし。
で、元史には日本遠征軍に武器を供与してる記述があるし、鷹島沖に沈んでる元船の遺構からも武器類が多数発見されてる。
つまり江南兵の多くが武装していなかったなんて事実な無いんだよ。

あと元史読めば分かるけど、南宋征服後真っ先に編成されたのが日本遠征軍だし。
南宋の精鋭軍といえばモンゴル軍相手に5年間も抵抗した襄陽守備隊か、最後まで戦い抜いた張世傑の水軍だけど両方とも日本遠征軍に組み込まれてる。その上、江南軍にだってモンゴル兵がかなり参加してたんだぜ。
だって蒙古軍副都万戸のナンギャダイが参加してるじゃん。

つまり、南宋征服後真っ先に精鋭軍によって編成されたのが日本遠征軍なんだよ。

11: 日本@名無史さん 2012/06/24(日) 22:25:51.57
時宗と安達泰盛の関係ってどうなんだろう?
弘安徳政(時宗死後の安達主導の幕政改革)は時宗の遺志だという説もあるが、時宗の政策は得宗専制の強化だから全然違うと思うんだが
安達 泰盛(あだち やすもり)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。鎌倉幕府第8代執権・北条時宗を外戚として支え、幕府の重職を歴任する。元寇・御家人の零細化・北条氏による得宗専制体制など、御家人制度の根幹が変質していく中で、その立て直しを図り、時宗死後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行うが、内管領・平頼綱との対立により、霜月騒動で一族と共に滅ぼされた。

13: 日本@名無史さん 2012/06/24(日) 22:55:35.47
>>11
霜月騒動は安達さんに恩賞貰えなかったからって理由で得宗家側についた御家人も割といるみたいね。
霜月騒動(しもつきそうどう)とは、鎌倉時代後期の弘安8年11月17日(1285年12月14日)に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。8代執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件である。

15: 日本@名無史さん 2012/06/24(日) 23:58:13.05
二月騒動で得宗被官5人が斬首にされた経緯もわからん
政村は時輔討伐の幕命に署名済で、安達泰盛は名越が受け継いでいた肥後守護になっている

18: 日本@名無史さん 2012/06/25(月) 21:37:31.03
鎌倉時代の歴史は出来事がわかっても、その背景がわからんことが多い
二月騒動でも宗尊親王の出家とのつながりがどこまであるのかがわからない
一時得宗家に逮捕された公家の中御門実隆もどうなったかわからない

20: 日本@名無史さん 2012/06/26(火) 01:34:09.60
時宗は朝廷不信になって後深草と亀山の兄弟で争わせて朝廷を内輪もめに持ちこんで討幕の余裕をなくそうとしたのかも

22: 日本@名無史さん 2012/06/26(火) 18:51:06.89
時宗に追随して出家した主な評定衆の御家人

安達泰盛
佐々木氏信
宇都宮景綱

23: 日本@名無史さん 2012/06/26(火) 18:52:46.50
おっと忘れてたぜ
名越公時(名越時章の子)

35: 日本@名無史さん 2012/06/28(木) 23:15:10.21
北条一族を得宗家のもとに一枚岩にしたのは時宗の功績
蒙古襲来のときに一族内部で主導権争いの余裕はない

32: 日本@名無史さん 2012/06/28(木) 01:30:06.02
日蓮聖人が予言していた。

33: 日本@名無史さん 2012/06/28(木) 02:29:47.07
あんなの予言でも何でもないでしょ
当時はモンゴルが高麗や南宋を荒らし廻っていてすぐ隣の日本だって現実的にいつ攻め込まれてもおかしくない状況だったわけで

61: 日本@名無史さん 2012/06/30(土) 14:45:41.90
日蓮聖人が蒙古調伏で拝んだから
蒙古退散できた。

70: 日本@名無史さん 2012/06/30(土) 23:32:16.16
>>61
>日蓮聖人が蒙古調伏で拝んだから蒙古退散できた

元寇の折、日蓮が蒙古調伏した記録があんのか?
日蓮遺文から示してみろよ。
こいつ、有史以来の国難の時も何にもしてないだろが。

72: 日本@名無史さん 2012/07/01(日) 00:10:02.18
一応蒙古調伏旗曼荼羅という本尊が日蓮宗寺院にある。

日蓮遺文等は日興らが保存収集するまで散乱状態だったようなので伝説はともかく記録の有無は分らない。

86: 【大吉】 ! 2012/07/01(日) 12:34:14.14
>>72
蒙古調伏旗曼荼羅って最教寺にある江戸時代作と言われる旗曼荼羅のことですか?

81: 日本@名無史さん 2012/07/01(日) 11:34:31.85
大河ドラマでは謝国明が大陸の情報を時宗に教えていたが、実際にはどうやって大陸の情報を集めていたんだろう?
弘安の役に関しては襲撃時期を予測して当たっていたから

82: 日本@名無史さん 2012/07/01(日) 11:49:11.68
鎌倉幕府って半島からも情報得ていたよ。
三別抄とも密接に交流してるし。
あと、文永の役直前に南宋と同盟も結んでる。
鎌倉幕府も実はいろいろやってたんだよ。

84: 日本@名無史さん 2012/07/01(日) 12:17:15.75
>>82
またまたご冗談を

85: 日本@名無史さん 2012/07/01(日) 12:31:58.51
>>84
当時の日本側の史料って朝廷の残した記録が中心じゃん。
でも、元寇の時って鎌倉幕府が朝廷無視して独自に外交展開してたから日本側には記録が残ってなくても元や高麗には記録が残ってることって結構あるん。
例えば1272年に大都まで使節団派遣したこととかね。
鎌倉幕府が三別抄とも密接に交流してたり、南宋と同盟結んでたりしたことは、元側の対日交渉担当だった趙良弼関連の史料に記録されてること。

87: 日本@名無史さん 2012/07/01(日) 14:10:05.86
幕府が1272年に大都に使節団
どの史料で、あるいはだれが何年のどの論文で言ってるか詳しくどうぞ

89: 日本@名無史さん 2012/07/01(日) 16:40:49.39
>>87
元史にも高麗史にも書いてあるよ

元史 巻七 世祖 至元九年
二月庚寅朔,奉使日本趙良弼遣書狀官張鐸同日本二十六人,至京師求見。

高麗史 巻二十七 元宗三
元宗十三年、丁丑、趙良弼還自日本、遣書状官張鐸、率日本使十二人如元 
102: 日本@名無史さん 2012/07/03(火) 14:09:43.58
高麗史によれば日本人26人は大宰府の発案だな。
「京都に人を送って国書を催促しているが、遠いからなかなか大変だ。その前に(国書のない)使節を蒙古へ送ってはどうか」
と大宰府の役人が言ったと言う。

26人は大都まで行ったが、フビライは疑って、会わなかった。

恐らく大宰府は国書については時間稼ぎすると同時に、蒙古の事情を偵察できたら儲けもの、と考えたのだろう。

正式の使節でない、あるいはひょっとすると大宰府の独走だから日本側の記録には残らなかったのだろう。

91: 日本@名無史さん 2012/07/01(日) 19:28:33.59
12名は水先案内人だろ
幕府の使節は大げさだよ

93: 日本@名無史さん 2012/07/01(日) 21:15:47.07
>>91
何で水先案内人が大都に行くんだよ?

92: 日本@名無史さん 2012/07/01(日) 19:29:13.57
ただ時宗の指示なら偵察の意図はあったかもな

98: 日本@名無史さん 2012/07/02(月) 08:16:09.16
趙良弼が連れていった日本人は何したんだろ?幕府や朝廷の記録にもない

99: 日本@名無史さん 2012/07/02(月) 08:32:05.16
>>98
クビライに謁見申し込んだんだよ。
でもクビライも軍事偵察目的を警戒してるから拒否られて、適当に歓待されて帰ってきた。

103: 日本@名無史さん 2012/07/03(火) 16:28:50.82
大宰府の独走?少弐資元がそこまでするかな?

104: 日本@名無史さん 2012/07/03(火) 17:36:35.56
朝廷抜きに外交やろうとすれば日本から派遣されるのは正式な使節以外ってことになる。
幕府と南宋との外交は瓊林という禅僧がやっていた。
趙良弼が日本に最後通牒を突き付けてる最中に帰国し、南宋との同盟成立を報告。
それを受けて幕府は最終的に元の要求拒否を決定した。

ソースは元朝名臣事略「野斎李公撰墓碑」

137: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 03:05:27.49
>>104
南宋との同盟(実効性はともかく)を受けて幕府が断交を宣言した状況が確認されるとなると、文永の役の把握が全く変わってしまうね。文永の役後の高麗遠征論もそれで説明できる。
二月騒動を対モンゴル戦争準備で説明できるかも知れない

105: 日本@名無史さん 2012/07/03(火) 17:47:29.34
弘安の役の時、博多辺りに石塁築いているけどもし元の軍船が鹿児島とかに上陸されたらかなりやばかったよね?

106: 日本@名無史さん 2012/07/03(火) 17:52:49.44
鹿児島から太宰府まで遠いがな
道知らんし

107: 日本@名無史さん 2012/07/03(火) 17:58:48.88
九州に上陸した元軍なんて幕府軍から見ればまな板の上の鯉みたいなもんだろ

111: 日本@名無史さん 2012/07/04(水) 12:37:52.35
元軍は九州に上陸しようと思えば伊万里湾から簡単に上陸できた
何日も伊万里湾に停泊していたわけだし、対岸付近に日本軍もいなかったし
でも全く九州に上陸試みた形跡無いわけで、「上陸したらヤバい、海上にいた方が安全」という認識だったとしか考えられない

「たとえ順風を得て海岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。彼の兵は四集し、わが師に後援はない」

上陸できてもその後の勝算は皆無という国をどうやって征服するん?

113: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 04:17:34.02
勝海舟だっけ? 誰か忘れたが九州の武士に防衛させておいて、本人は鎌倉で悠々としてたのだから大したものだ、てなこといってたの
かなり余力があった、という見方をされていたな

117: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 14:22:13.97
>>113
時宗は出陣しなかったというけどさ、近代戦争でも首相や陸相や参謀本部総長は前線へ出陣しないよ
出陣万能論者は、昭和天皇が沖縄へ親征しなかった理由でも考えとけばよい

120: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 16:42:36.68
>>117
自分でなくて勝がそういってたという話でさ
余裕綽々だった、みたいな

114: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 05:48:12.45
元軍の爆弾(てっぱう)は絵巻なんかでも描かれているが石弓機(かいかい砲)はどうなの?

115: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 10:38:31.74
>>114
投石器って基本的に城攻めで使うもので野戦には不向きなんだよね
てつはうは重すぎて投げれないし、恐らく使用法は導火線に火をつけて置いて逃げるみたいな感じ

118: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 15:05:28.27
日本軍「やあ、やあ、我こそは~」
元軍「ジャン!ジャン!ドドドドド!」 

文永の役は当初こんな感じでカルチャーショックで押され捲くりだったろうね?

119: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 15:10:35.55
>>118
まったく逆だよ
元軍は赤坂まで進軍したところで日本軍に蹴散らされ、そのまま押され捲りで逃げ帰っちゃった

121: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 19:13:54.70
>>118
九州の武士はそれまでも異賊警護をしてるから、そんなバカなことはしない

122: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 19:28:56.84
そもそも関東の武士もそんなバカなことはしない

124: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 22:00:43.44
かつて刀伊の入港とかあったし、悠長に名乗る程武士も馬鹿じゃない
そもそも異人に名乗る奴なんて居るか?

125: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 22:25:20.30
そもそも時代が近い承久の乱や宝治合戦で名乗りを上げるなどの律儀に戦ったような記録はどこにもない。

128: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 00:32:34.04
そういえばこの頃の武士はまだ野蛮だったな

男衾三郎曰く
「我が家の前を通る乞食や修験者は捕まえて切ってしまえ。屋敷に生首の絶える事があってはなるまいぞ」

133: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 01:39:43.72
日本が元に対して警戒態勢を取り出したのはいつ頃でしょうか?

wikiで修禅寺の項目に

>建長年間(1249年 - 1255年)に元の密偵と疑われていた蘭渓道隆が避難のために来住し、それに伴って臨済宗に改宗された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA

ってあるけど、このソース、原史料は何なんだろう?

134: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 01:50:30.70
本格的に警戒令を出したのは1271年だろ

138: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 03:07:36.82
>>134
正嘉年間にも九州御家人に軍令を布告してるようだけどね、まだモンケの時代

139: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 04:12:10.66
軍令を出す前はどうだったのでしょうか?
建長年間(1249~55)に密偵の取締をしたり、また

>北条時頼の廻国伝説が信濃に多いところから、蒙古襲来を予想した時頼がひそかに
牧場の視察に出かけたのではないかと推定する郷土史家もある。

との説もあるところから、かなり長い年月をかけて対蒙古の準備をしていたとは考えられませんか?

140: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 10:40:56.61
土地台帳である大田文の調査命令、寺社本所領の非御家人への動員、異国警固番役や長門探題の設置は時宗政権からだよ

154: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 23:52:01.61
>>140
異国警固番役も正嘉年間に軍令出てる

「新御式目」 
一、警固詰番事、
為諸人煩労基之由、有其聞、仍同前、

正嘉三年二月九日

156: 日本@名無史さん 2012/07/07(土) 00:18:26.45
>>154
その頃から倭寇が始まって高麗軍との武力衝突がしばしばあった
それは高麗の報復を恐れての警戒軍令だよ

157: 日本@名無史さん 2012/07/07(土) 00:31:16.74
>>156
その頃の高麗はモンゴルの侵略で虫の息だよ
鎌倉幕府が恐れるような状態じゃない
当時鎌倉幕府が日本への攻撃を恐れるような存在はモンゴルだけしかない

引用元: ・北条時宗と元寇について考えよう



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