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1: 日本@名無史さん 2010/10/10(日) 16:25:09
色々と語って下さい
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119: 日本@名無史さん 2010/11/11(木) 06:25:23
質問!

当時、大名が将軍に対して「直答」することはタブーとされ、老中などが「お取り合い」で大名たちの言葉を老中たちが代わって将軍に進言していたようです。ただし、非公式では直答はあったと思慮されますが。

では、公式の場では、御三家でもお取り合いがなされていたのでしょうか。

少なくとも、大和郡山藩柳沢15万石の某藩主が、参勤交代での在所下がりの際の将軍挨拶時には、お取り合いで会話されたと残っているので・・・

120: 日本@名無史さん 2010/11/11(木) 10:14:42
並び大名であれば、最初は「申次(御側御用取次)に申し上げまする 」
という言い方をして、将軍に直に話すことはしない筈。仮にそれをやると、陪席してる目付から、あとで大目玉を喰らうであろう

しかし、大廊下の御三家らはいきなり話し掛けても大丈夫であろう

121: 日本@名無史さん 2010/11/11(木) 18:19:57
将軍と直に会話できるのは、老中・若年寄などの幕閣大名や御三家・御三卿などの一門大名を除けば、側衆や小姓みたいな側近や大奥の年寄や高級女中くらいか。

124: 日本@名無史さん 2010/11/12(金) 21:00:04
綱吉の時代に若年寄とかに抜擢されたのに、仮病がバレて改易っていう大名が複数いるけど何で?

125: 日本@名無史さん 2010/11/12(金) 21:31:20
綱吉は気分屋だからいきなりキレル。
喜多見さんも山内さんも被害者

128: 日本@名無史さん 2010/11/15(月) 17:06:42
柳沢はなんで吉保以降、役職ついてないの

129: 日本@名無史さん 2010/11/15(月) 17:23:24
大和郡山15万石と石高が大きくなりすぎた。
松平姓をもらったり、国主(国持)になって格が高くなりすぎた。

基本的に老中になるのは5~10万石くらいの譜代大名で城主。
柳沢は綱吉に優遇されすぎて、親藩なみの格と石高をもらったので、下手な役職につけなくなってしまった。

130: 日本@名無史さん 2010/11/15(月) 18:30:49
彦根の井伊家は大老にしかならない。
姫路の酒井家はたまに大老、老中になることは滅多にない。
白河の松平定信が老中になったのは特例みたいなもの。
松山の松平定昭が老中上座になったのは大政奉還前後の1か月だけ。

15万石越えの譜代は、井伊や酒井の大老以外は、基本、役職につかない。

131: 日本@名無史さん 2010/11/15(月) 19:34:21
そもそも柳沢は何で減封されなかったの?
間部、加納、大岡、田沼、といった寵臣達に比べて余りにも大藩じゃん

132: 日本@名無史さん 2010/11/15(月) 19:47:25
>>131
吉保の引き際も良かったし、二代目の出来も良かった。
おまけに分家も二家成立存続して、めでたしめでたし。

とはいえ、甲斐時代には天領の預かり地もあり、郡山への移封は実質減封ではあったらしい。

133: 日本@名無史さん 2010/11/15(月) 22:02:19
間部詮房も5万石だから、加納久通、有馬氏倫、大岡忠相・忠光と比べたら、けっこうもらってる方。
しかも、上州高崎から越後村上に追いやられたとはいえ、表向きの石高はそのまま。
5万石から1万石に大幅減封された田沼意次より、はるかに恵まれている。

134: 日本@名無史さん 2010/11/15(月) 22:12:55
間部はその後不毛の地鯖江に飛ばされたよね。
要衝の岩槻にずっといた大岡忠光が勝ち組か

135: 日本@名無史さん 2010/11/15(月) 22:42:12
大岡忠相もある意味寵臣じゃね?

136: 日本@名無史さん 2010/11/15(月) 22:49:46
20年も要職の町奉行に在職した上、大名に取り立てられたのだから、十分寵臣だな。

137: 日本@名無史さん 2010/11/15(月) 23:16:33
安定した以降の時代に大名に取り立てられると言うことは、その分誰かが取りつぶされているの?
それとも幕府の直轄領を分け与えているの?

138: 日本@名無史さん 2010/11/16(火) 00:08:56
綱吉の後は、ほとんど改易(除封)はない。
せいぜい無嗣絶家くらいだが、それも本家に領地を返すケースが多い。

家宣以降の寵臣の加増は、幕府の直轄領を分与しているのだろう。

139: 日本@名無史さん 2010/11/16(火) 00:18:47
俺の地元の武州六浦藩は飛び地の方が多かったらしいな。
それらをまとめて、やっと石高1万石になったみたい。
それ以前は大名はいなかったからやっぱり幕府直轄領をもらったのでは。

140: 日本@名無史さん 2010/11/16(火) 00:39:40
飛び地が多いのが一般的だよ。
城付地一円知行なんて外様か譜代の大大名の一部だけ。

141: 大目付筆頭・土岐丹波守頼旨 2010/11/16(火) 08:38:00
下総佐倉の堀田大蔵大輔の場合、11万石中、万石は山形、②万石は上方、5万石は、佐倉周辺つきでした

142: 日本@名無史さん 2010/11/16(火) 17:19:17
吉宗の近臣は万石クラスまでなった人が「数人」だけどいたけど、母方の家は5000石クラスで収まったんだよな
紀州家臣から直参なだけでも「御の字」て事なんだろうか

143: 日本@名無史さん 2010/11/16(火) 18:46:06
遠慮があったんじゃね?
初めて余所から入った将軍だし、吉宗擁立に当たっては天英院の尽力もあったから。

146: 日本@名無史さん 2010/11/16(火) 21:50:28
紀伊から連れてきた吉宗近臣となると、加納、有馬、田沼くらいしか思い付かない
あとは旗本だと、大屋、巨勢、岩本くらいか

166: 日本@名無史さん 2010/11/20(土) 07:21:51
>>146
加納有馬と並び称されながら早死にして大名になり損ねた小笠原がいる。

144: 日本@名無史さん 2010/11/16(火) 19:47:49
金沢支藩の七日市藩は何であんな所にあるの?

145: 日本@名無史さん 2010/11/16(火) 20:00:57
七日市藩は加賀前田家の分家ではあっても、支藩ではないから。

前田利家の5男利孝は、父利家の死後、人質として義母まつとともに江戸に送られたが、大坂の陣では徳川方として参戦して武功を挙げた。
その功績から、元和2年(1616年)、上州七日市に1万石の所領を与えられた。

七日市藩は幕府から直接与えられた封土であって、加賀藩から分知されたものではない。

147: 日本@名無史さん 2010/11/16(火) 21:54:36
天皇の封土はどこだったのでしょうか。まさか蔵米取りですか?

148: 日本@名無史さん 2010/11/16(火) 22:13:26
東照神君は、慶長六年に禁裏御料を壱萬石と定め、のち台徳院殿様は元和九年に更に壱萬石を差し上げ、常憲院殿様は寳永弐年、更に壱萬石を差し上げ、幕末まで参萬石の土地で推移する。
何処にその土地があったかは不明。ただ、藏米支給ではない
幕末に、禁裏御守衛総督、参与の豚一は、禁裏御料山城壱國廿参萬石にしようとし、閣老板倉伊賀守、少老永井玄蕃頭の内諾も得たが、その前に幕府は崩壊した

149: 日本@名無史さん 2010/11/16(火) 22:29:35
近世の禁裏御料の一部として例をあげると、山城国宇治郡山科郷、愛宕郡高野村(高野郷)、同岩倉村(北岩倉郷)、 丹波国桑田郡山国郷などがある。

168: 日本@名無史さん 2010/11/20(土) 19:46:48
江戸後期になると、新規の取り立て大名は大幅に少なくなる。
大藩での新田分知(○○新田藩)や大身旗本(多くは大名の分家)の高直しを除くと、
ほとんど見られなくなる。
江戸前期には見られた外戚(鷹司、増山、本荘など)の取り立てすらなくなった。

そんな中で、自己の才覚や能力で一旗本から大名に取り立てられるというのは、いくら将軍の信任が厚かったとはいえ、並大抵のことではなかったろう。

とくに幕末の多事多難な時期に旗本から大名に取り立てられた本郷泰固と平岡道弘は、知名度も低く、ほとんど話題になることもないが、なかなかの人物だったのでは?

169: 日本@名無史さん 2010/11/20(土) 19:53:33
本郷と平岡の二人は、諸侯として存続できず華族になれなかった点でも共通している。
本郷は安政の大獄で減封の憂き目にあい、わずか2年で大名の地位を失った。
(明治維新のわずか10年前である)
平岡は若年寄をつとめていたが、幕府瓦解に際して譜代大名の中でただ一人封土を返上、
徳川家達に従って駿府に移住し、静岡藩家老(のち大参事)となった。

170: 日本@名無史さん 2010/11/20(土) 22:35:33
旗本から若年寄になった跡部信濃守こそ諸項に列すべき逸材だった

171: 日本@名無史さん 2010/11/20(土) 23:12:55
跡部良弼は老中水野忠邦の実弟ということを鼻にかけた尊大傲慢な人物で、若い頃はいろいろトラブルをおこしてた、相当な勘違い野郎だったんだけどな。

でも、兄貴が失脚したあとも、ほぼ切れ目なしに大目付や町奉行などを歴任し、旗本最高位の留守居にまで出世したのは保身の才に長けていたからか。

もっとも、最後に若年寄に昇進できたのは、江戸城明け渡しの直前のことで、その頃には譜代大名出身の若年寄が全員お役御免になってたからなんだけどね。

172: 日本@名無史さん 2010/11/21(日) 07:35:43
淡路・稲田家にも少しは同情するなぁ
代々徳島・筆頭家老だけど、差配で「美味しい」所は藩が持って行って淡路海防等の仕置は稲田任せ
陪臣連中は徳島家臣と決定的な差別(麻木色の足袋)
幕末、本藩連中にさきがけ勤王に勤しんだにもかかわらず
これも「おしいいところ」は持って行かれて、結局独立果たせぬまま「家老・陪臣」のまま終わる
(その後の顛末は映画・北の零年につづく)

淡路島が何故「徳島県」でないのか?て理由のひとつなんだわな~

176: 日本@名無史さん 2010/11/22(月) 08:27:06
鳥取藩の新田藩二家は所領に陣屋を構えてなかったんだろうか。本によっては陣屋跡なんて写真を載せているところもあるけど、地元の人に聞くと否定的なんだよな。

179: 日本@名無史さん 2010/11/23(火) 08:47:37
○○新田藩というのは、本藩の新田開発で生じた年貢収入を分与されてるだけで、実際には独自の統治機構とか居所を持ってないことが多い。
名目上は、本藩から十数か村とか分知されてるようだが、管理は本藩が行ってて、藩主は江戸定府だったり、本藩の城下に屋敷を構えているのが普通。

明治維新で、名目上の所領の名に藩名を改め、現地に陣屋を構えたようだ。

180: 日本@名無史さん 2010/11/23(火) 11:18:57
若桜藩(鳥取西館新田藩)

鳥取藩主池田綱清が1700年に弟の清定に新田1万5000石を分知したのが始まりで、藩庁は鳥取に置かれた。
なお、江戸屋敷が鉄砲州にあったことから、鉄砲州家ともいわれる。
2代定賢は1720年、5000石の加増を受けて2万石となった。
ただし、鳥取藩から蔵米で支給を受けていたため、実際に領地は無かった。
そのため独立性は薄く、鳥取藩から派遣された御付人による政務が行なわれていた。

1868年、10代徳定は若桜に若桜陣屋を置いたため、若桜藩と呼ばれるようになった。
1870年、鳥取藩に帰属した。

181: 日本@名無史さん 2010/11/23(火) 11:23:07
鹿奴藩(鳥取東館新田藩)

1685年に鳥取藩主池田光仲が新田2万5000石を次男の仲澄に分知したのが始まりで、藩庁は江戸時代を通して鳥取に置かれた。
1868年になってから鹿奴陣屋を藩庁としため、鹿奴藩と呼ばれるようになった。

仲澄時代の晩年である1702年、5000石を加増されて3万石となるが、これは本家の鳥取藩から蔵米を支給される形である。
藩政の機構は無きに等しく、本家から派遣された役人が実際の藩行政を行なっていた。
鹿奴藩は本家が断絶した際に備えるために設置された形式上の藩であった。
実際、鳥取藩の3代吉泰と10代慶行は鹿奴藩主家からの養子藩主である。

藩政で見るべきところはほとんど無い。1869年にみずから廃藩し、鳥取藩に吸収された。

184: 日本@名無史さん 2010/11/30(火) 07:36:33
>>179-181
レス㌧

>明治維新で、名目上の所領の名に藩名を改め、現地に陣屋を構えたようだ。

これについて鳥取在住の郷土史家に問い合わせたら否定されたんだよな。陣屋跡写真ってのを載せた本まであるから頻繁に問い合わせがあるらしいけど、その写真の場所も含めて詳しく調べても伝承や記録が見つからないんだと。
岡山藩の鴨方藩は陣屋絵図が残ってるし、生坂藩も寺を仮陣屋にしたという話が残ってて、地元自治体史にも記述があるんだけどね。

182: 日本@名無史さん 2010/11/28(日) 21:46:24
最大の陪臣は、つまり石高の割に大名になりそこなったのは、加賀前田家の本多5万石?

189: 日本@名無史さん 2010/12/01(水) 00:57:05
>>182
それだけ持ってたのに士族にされちゃったわけ!?

…金禄公債は、下手な大名より沢山貰えたのかな?

199: 日本@名無史さん 2010/12/01(水) 21:32:50
>>182
陪臣で最大だったのは本多ではなく長州藩の吉川6万石。。
後に朝廷により大名に取り立てられるから陪臣扱いされないことも多いけど、江戸期を通じて大名格の陪臣として扱われていた。

190: 日本@名無史さん 2010/12/01(水) 01:27:44
本多家は男爵になってるけどな。

192: 日本@名無史さん 2010/12/01(水) 07:47:59
尾張の万石家老のうち志水はなんで男爵にならなかったんだろう。返上でもしたんだろうか

198: 日本@名無史さん 2010/12/01(水) 17:41:59
>>192
あらら、不思議だね
幕末・明治の当主て名古屋市長になった人だよね?

197: 日本@名無史さん 2010/12/01(水) 15:27:03
1万石の大名でも、城持ちなら城の維持、江戸藩邸の維持、家臣への扶持、参勤交代、
出費が半端ない。

201: 日本@名無史さん 2010/12/02(木) 02:56:37
1万石の大名が江戸藩邸の維持、参勤交代、城の維持、藩士の給料に割ける金はどれぐらいか。

202: 日本@名無史さん 2010/12/02(木) 07:13:35
家臣の知行禄米は収入の半分程度になるように設定する。残りで藩の運営と藩主家の生活全てをまかなう。

203: 日本@名無史さん 2010/12/02(木) 07:15:10
城の維持や参勤交代は家臣に命じて費用を一部負担させるけどね。

204: 日本@名無史さん 2010/12/02(木) 14:53:50
1万石=1万両?
500石もあれば家老クラスだな。

205: 日本@名無史さん 2010/12/02(木) 16:29:03
島津でも長良川治水の平田靱負は家老だが石高は500石そこそこ。
島津は家老出せる家柄は100家以上有るから家老でも石高はピンキリ。

208: 日本@名無史さん 2010/12/02(木) 23:48:08
>>205
そこまで大勢いると、個人の能力も相当問われるな。薩摩が雄藩になれた一因かも。

209: 日本@名無史さん 2010/12/02(木) 23:49:33
陪臣でも万石持ってれば男爵にはなれたんですか?

210: 日本@名無史さん 2010/12/03(金) 00:23:05
万石以上は普通に男爵。
あと公家だと、地下の最高位の家柄も男爵。

212: 日本@名無史さん 2010/12/04(土) 00:52:00
一万石以上あって華族になれなかった家ってみんな、何か事情があるのかな?

213: 日本@名無史さん 2010/12/04(土) 01:11:29
実高が足りなかったんじゃ?
山野辺、志水に加えて、加賀の横山蔵人家とか、いくつかあるよね。

215: 日本@名無史さん 2010/12/06(月) 22:31:14
爵位を貰えなかった大身旗本は、みんな落ちぶれたの?

216: 日本@名無史さん 2010/12/08(水) 09:34:04
江戸の話でもないし、大名の話でもないし、処置なし。
爵位をもらっても落ちぶれた大名がたくさんいる。

217: 日本@名無史さん 2010/12/08(水) 10:38:50
>>216
維新後、旧幕時代に比べ雲泥に、落ちぶれた家って、紀伊徳川、蜂須賀、他にある?

218: [―{}@{}@{}-] 日本@名無史さん 2010/12/09(木) 16:24:17
蜂須賀なんか昭和の時代までやりたい放題だったし、落ちぶれた内には全然入らないだろ。

219: 日本@名無史さん 2010/12/10(金) 14:59:10
大名は参勤交代があるから旅行できるし、上、中、下と江戸藩邸もあって退屈しなさそう。国許では自由に行動できたろう。

将軍は行く場所がない。
退屈だ。

220: 日本@名無史さん 2010/12/12(日) 16:13:13
>>219
費用が自腹で行く場所が決まった旅行なんて楽しいもんかw

222: 日本@名無史さん 2010/12/12(日) 21:53:10
>>219
将軍もその気があれば日光へ行けるし、浜離宮など江戸城周辺に遊びにいけるぞ。天皇への挨拶と称して京にも行こうと思えば行けただろう。
それよりも在位中は御所から原則出れない天皇の方が不憫だ。

223: 日本@名無史さん 2010/12/13(月) 08:43:32
実際のところ、日光や京へ行った将軍の方が圧倒的に少ないって。

225: 日本@名無史さん 2010/12/14(火) 00:20:08
参勤交代なんて隔年の強制定期的な長期出張だろ。しかも高額な費用が自腹で。
道中通過する各藩の為に土産みたいなもん用意し、大名行列の為だけに人を臨時雇用までして、またそれだけの人数の宿泊費用…。かなりの浪費だな。
現代で例えるなら、隔年でニューヨーク自腹長期出張。
直通の飛行機に搭乗せず、辿りつくまでに色んな空港に立ち寄り、その地域の支店の同僚に挨拶と高級品の土産を渡す。
しかも出張の時に大人数のあまり意味の無い臨時バイトを雇い、団体で出張。臨時バイトの宿泊費用も全部用意。
そんな感じでないかい?
俺なら全然楽しくない…。

226: 日本@名無史さん 2010/12/14(火) 08:57:55
大名の本拠地は江戸なんだよ。
嫡子は江戸藩邸で生まれて江戸で育つ。
藩主になって初めて国入り。
自分の領国を管理するのは当然だろ。
隠居後も江戸にとどまる大名多数。

例えが的外れ。

227: 日本@名無史さん 2010/12/18(土) 20:38:12
定府大名はずっと江戸の藩邸にいて、領地へ赴かなかったというのは本当でしょうか?
領内で何かが起きても、全部領地に派遣している家臣たちに対応させて、藩主は一切知らぬ存ぜぬだったのでしょうか?
たまには領地へ視察に行ったりしなかったのでしょうか?
本当に自分の領地についてやる気なし?
武士はともかく、領内の町人や農民はどう思っていたのでしょう?
「うちの殿様、実はいないんだぜ」とか言ってなかったでしょうか?

実は私の出身地が播磨の三草藩の領内で、陣屋跡へも行ったのですが、
定府大名だったと知って、子供心に軽いショックを受けました。
だって、殿様がいなかったなんて・・・

228: 日本@名無史さん 2010/12/18(土) 20:56:13
>>227
定府大名も色々ある。
水戸みたいなのは近いからたまに帰ることもある。
支藩の藩主は実態として藩が存在しないこともある。→御三卿みたいなもん。
この場合の譜代の定府大名は基本的に領国は国家老任せ。
何か問題があれば江戸から使者を送って指示する。
農民は藩主がいなくても関係ないし。

引用元: ・江戸時代の大名



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