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1: 世界@名無史さん 2010/09/12(日) 21:18:15 0
一千年に及ぶ繁栄・衰退を誇ったビザンツ帝国史について語るスレ 







135: 世界@名無史さん 2010/12/29(水) 05:10:03 0
ニケーア勢はギリシャとアナトリアの敵対勢力を一掃してから旧首都の奪還を目指すべきだったと後世の日本に生きる自分が好き勝手な事を言ってみる。
まあ当時の当事者たちがそんな回りくどい事する可能性は低いよなあ。
ヴェネツィアはどんどん内部留保を増やしまくり
例のアレも明殲滅の足場固めをするべく食指を…(こっちは兵糧の無償提供とかでうまく対応出来そうだが)
帝国の再興

1204年4月13日、第4回十字軍はヴェネツィアの助言の元にコンスタンティノポリスを陥落させてラテン帝国を建国。東ローマ側は旧帝国領の各地に亡命政権を建てて抵抗することとなった。

1261年7月に東ローマの亡命政権ニカイア帝国は、たまたま守備兵が不在だったのを突いて、コンスタンティノープルを攻撃、奪回した。これによって東ローマ帝国は再興されたが、国力は以前に比べて格段に弱くなっており、帝都の大半は荒れるに任された。人口も4万~7万人に減少し、貿易もヴェネツィアやジェノヴァといったイタリアの都市に握られてしまい、都に富をもたらすことはなかった。

136: 世界@名無史さん 2010/12/29(水) 22:27:46 0
>ニケーア勢はギリシャとアナトリアの敵対勢力を一掃してから旧首都の奪還を目指すべきだった

あれだけアナトリア側の防備が手薄になってバルカン側も傭兵団なんぞに荒らされまくったところをみると
少なくともヴァタヅェスやミカエル8世の頃のニカイアの国力・軍事力では無理そう。

137: 世界@名無史さん 2010/12/29(水) 23:13:40 O
そもそもあの帝都奪還自体が偶然に近いものだけど、その後の内紛さえなければなあ

139: オツガイ ◆EAbyJft1LY 2010/12/30(木) 06:51:16 0
>>137
部下の一部がたまたまコンスタンティノープルが手薄に、なってるのを知って、勝手に帝都奪還しちゃったんだっけ?
確かに、偶然に近いのは否めないなぁ。

140: 世界@名無史さん 2011/01/02(日) 23:49:21 O
>>139
そんなあっさり奪還できるのでは、オスマントルコにもあっさり陥とされるわけだ。

149: 世界@名無史さん 2011/01/25(火) 22:26:54 0
東西ローマ帝国という概念が形成されたのはいつのことですか?
また、世界史の教科書などではカール大帝が西ローマ皇帝として戴冠したと説明されたりしますが、もしその時点で東西帝国という概念がなかったのであれば、彼の戴冠は東のエイレーネーを皇帝と認めずに全ローマ帝国の支配者になるということなのか、それともエイレーネーと相互に承認しあって帝国西部の統治者となるという意味だったのか、
どちらが正しいのでしょうか。

153: オツガイ ◆EAbyJft1LY 2011/01/26(水) 18:22:22 0
>>149
カール大帝の戴冠は明らかにそういう意志があったと思う。ビザンツ帝国への対抗意識が、西ローマ皇帝としての戴冠に繋がった。ビザンツ側は基本的にローマ帝国は自分たちだけだと、思ってたからそういう意味では「東」ローマ帝国という概念は持ってなかったのかな。
西欧側も、ビザンツ帝国をローマ帝国とは認めてなかったし、そういう意味ではどちらも認識は同じで、ローマ帝国は世界でただ1つだと思ってたんじゃないの?そもそもテオドシウス1世の時の、東西分割だってテトラルキアの延長線上っていうイメージだったと思うし。

154: 世界@名無史さん 2011/01/26(水) 20:33:36 0
フリードリッヒ1世バルバロッサが十字軍を率いてビザンツ領内を通過しようとしたとき
皇帝の称号の使用をめぐってもめたらしい。

155: オツガイ ◆EAbyJft1LY 2011/01/26(水) 21:19:28 0
>>154
ビザンツ帝国は基本的に他国のローマ皇帝位を認めてないからねぇ。
神聖ローマ帝国に対してもそれは同じだし。十字軍の時代でも変わらないか。

156: 世界@名無史さん 2011/01/26(水) 21:26:44 0
ビザンツはカール大帝のことはフランク人の皇帝って呼んだけど、神聖ローマ皇帝のことは何と呼んでたんだろう。
ゲルマン人の皇帝?

157: オツガイ ◆EAbyJft1LY 2011/01/26(水) 21:31:08 0
>>156
ビザンツ側が神聖ローマの事を何と呼んでたかは分からないなぁ。
神聖ローマはビザンツ皇帝のことを「ギリシャ人の皇帝」と呼んでたみたいだけど

158: 世界@名無史さん 2011/01/26(水) 22:54:35 0
カール1世に引き続いて「フランク人の皇帝」だろうな
ムスリム側もルームのさらに北西にいた連中を総称して「フランク(フィランジュ)」と呼んどる

159: オツガイ ◆EAbyJft1LY 2011/01/27(木) 05:56:33 0
>>158
やはり当時のビザンツ人やムスリムは西欧のことをまとめてフランクと呼んでたのかな?

164: 世界@名無史さん 2011/01/27(木) 17:35:50 0
東ローマでは、ルーシもクマンもみな「スキタイ」と呼んでいたが
これは中の人が変わったことを知らなかったのではなく、古典にならってそう記したまで
アッバース朝やセルジューク朝をもわざわざ「ペルシア」と呼んでおり、現代でさえギリシャ人はフランス共和国のことを「ガリア」と呼ぶぐらいだ

167: オツガイ ◆EAbyJft1LY 2011/01/27(木) 20:15:46 0
>>164
ビザンツ帝国のこういう古典や伝統に無理にでも、こだわる姿勢は面白いよね。
文学や美術において、個性より伝統が重視されてたから現代の芸術家に、とっては生きにくい世界なのかも知れないけど。

173: 世界@名無史さん 2011/02/01(火) 22:17:05 O
イサウリア人とか、トラキア人とか、皇帝まで出してたのにどうなっちゃったの?

174: オツガイ ◆EAbyJft1LY 2011/02/01(火) 23:12:07 0
>>173
トラキア人はブルガリア人辺りに、イサウリア人はトルコ人辺りに同化したんじゃないの?
それと、イサウリア朝は厳密にはイサウリアの出身じゃないらしいね。

175: 世界@名無史さん 2011/02/02(水) 01:00:37 0
ちなみにゼノン帝の死後、イサウリア戦争によりイサウリア人は政権中央における勢力としては排除された

180: 世界@名無史さん 2011/02/09(水) 21:18:08 O
カタクラフトとかクリバノフォロスとかの重騎兵って役に立ったの?
ヴァリャーギ親衛隊は北欧の歴史でも名高いけど、その割に北欧には正教は伝播しなかったよね。

181: 世界@名無史さん 2011/02/10(木) 11:22:13 0
>>180
誰だっけな、カタフラクトと神の加護以外いらないと言ってた皇帝がいたよ。
重装備で槍も弓矢も通らず、騎乗しているから歩兵より早く動け、見晴らしも良いというメリットがあったからね。
西欧の騎士みたいに馬の上で戦うことに拘っていなかったから、馬を使いにくい地形では歩兵として戦うという、柔軟性もあったし。
まあ、今で言う機甲部隊だったんでしょ。マンツィケルトで全滅したのが惜しまれる。

北欧は接しているフランク王国が布教頑張ったからでしょ。

223: 保守 2011/06/08(水) 13:40:19.62 0
no title


224: 世界@名無史さん 2011/06/09(木) 07:14:03.56 0
>>223

世界史の地図に小さくてもビザンツがないと淋しいから。

225: 世界@名無史さん 2011/06/09(木) 08:20:45.96 0
コンスタンティノープルの驚異的な防御力とか?
245: 世界@名無史さん 2011/06/27(月) 14:55:37.69 0
なぜブラケルナエ地区の城壁だけ他の区域みたいに三重壁にしなかったんだろう

246: 世界@名無史さん 2011/06/29(水) 12:09:21.09 P
>>245 
元々あそこも三重だったけどブラケルナエ宮殿作ったときに改築したってのが定説

247: 世界@名無史さん 2011/07/04(月) 22:50:22.98 0
何だかんだでテオドシウスの城壁は古代ローマの余力が成し得た技だよ。

248: 世界@名無史さん 2011/07/05(火) 12:46:03.49 O
マヌイル1世「三重城壁もボロくなったから、全部黄金で造り直そうぜ」

227: 世界@名無史さん 2011/06/11(土) 17:15:54.31 0
1.わが国は最後の審判まで続く、地上の神の国、永遠のローマ帝国という強力なイデオロギー
2.古代ギリシャ・ローマから受け継いだ多くの遺産
3.歴史の要所要所で柔軟に体制を変革した(それを行える優秀な人材もいた)
4.東西交易の要所という恵まれた立地(但し東西南北から敵が攻めてくる)
5.世界屈指の難攻不落要塞であるコンスタンティノープル

243: 世界@名無史さん 2011/06/26(日) 23:19:20.23 P
>>227
それにしてもテオドシウス城壁チート杉だろ。
正直建てようと思えば建てれるレベルの壁だと思うんだけどなんであんなに特別視されるんかね?

228: 世界@名無史さん 2011/06/14(火) 00:36:32.22 0
>1.わが国は最後の審判まで続く、地上の神の国、永遠のローマ帝国という強力なイデオロギー

小アジアをトルコ人に取られた後はなんかもう
「栄えた国もやがていつか衰退し滅びる。ローマも例外ではない」
とかほとんど異教的なことまで書くビザンツ人もいたそうだ。

229: 世界@名無史さん 2011/06/15(水) 01:43:37.38 0
>>228
異教的どころか「我々はロマイオイではなくヘレネスである」「古代ギリシャの神々を復活すべきである」
とか言っちゃうプレトンもいたし

231: 世界@名無史さん 2011/06/16(木) 00:36:31.60 0
プレトンって、あの時代にしちゃ変わった人だよね。
ザラスシュトラ(ゾロアスター)をあんま知らんくせにやたら持ち上げて、彼こそプラトンに先行してプラトン主義哲学を説いた先覚者である、とかね。
祖国が滅亡に至る状況下、あらゆるものを相対化したい気分だったんかのぅ。

232: 世界@名無史さん 2011/06/17(金) 03:22:08.68 0
ローマを称しながら末期の末期にはオスマンに隷属していた有様を見ては、ちょっと古代史と古代哲学にに知識ある人ならああいう批判もしたくなったかもしれない


249: 世界@名無史さん 2011/07/06(水) 20:45:29.56 0
オスマン帝国征服後コンスタンチノープルでの戦闘ってあったっけ?
WWIでも空襲とかなかった覚えがあるのだが。

250: 世界@名無史さん 2011/07/10(日) 22:12:40.82 0
ない、強いて言えばトルコ革命で諸国に制圧されたのをケマルが追っ払ったくらい。
ビザンツが滅亡して宗教圏の境界ラインが大幅に西側に移動しちゃったからな。争いが起きようが無い。

ラテン帝国が長らく続いた方がキリスト教都市としてのコンスタンティノープルは残ったかもしれんな。

252: 世界@名無史さん 2011/07/19(火) 18:45:57.56 0
「タキトゥス以降のローマの歴史よりももっと馬鹿げた歴史がある.それはビザンチン史で,美辞麗句と奇跡ばかりを寄せ集めたくだらぬものだ.」

ヴォルテール


ヴォルテールというと神聖ローマ帝国に対するあの言葉ばかりが有名だが、ビザンツも嫌いだったんだなw
まああの時代の西欧人としては一般的な評価だけど

254: 世界@名無史さん 2011/07/20(水) 21:37:33.34 0
>>252
偉そうなヴォルテールだが、上から説教しても社会は変わらんし救えないな。
失敗もあったがマヌエル8世やエンヴィルの方が余程ましだ。

255: 世界@名無史さん 2011/07/21(木) 16:48:27.91 O
アダム=スミスも『国富論』でビザンツ叩いてたな。
ラテン人の知識階層はどうしてどいつもこいつも…;

256: 世界@名無史さん 2011/07/21(木) 23:41:50.64 0
>>255
パレオロゴス以降の事大主義と機会主義に満ちたマキャベリズムそのものの外交と資料不足でそういう認識になっていたんだろうな。

260: 世界@名無史さん 2011/07/25(月) 03:05:52.84 0
ニケタス・コニアテスによると、アレクシオス3世は皇帝にしては気弱で優しい男で、兄を盲目にして帝位簒奪したことも悔やんでいたと言う
また、第四回十字軍のとき自軍がラテン軍より兵も多く士気高く、そのまま戦えば勝てたはずだが、初めから逃げるつもりだったのでロクに兵を城壁から出撃させなかったとある(当然ラテン人は神の加護があるだとか、ギリシャ人は臆病風にふかれてると考えた)

…ますますダメ皇帝だなこいつ
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アレクシオス3世アンゲロス
(1156年 - 1211年)は、東ローマ帝国アンゲロス王朝の第2代皇帝(在位:1195年 - 1203年)。初代皇帝・イサキオス2世アンゲロスの弟である。

兄イサキオスと同じくコムネノス王朝の遠縁に当たることから、兄と同じようにコムネノス王朝の第5代皇帝・アンドロニコス1世に暗殺されかけたことがある。このため、アンティオキアに逃亡した。ところがここでイスラム側の攻撃を受けて捕虜となってしまう。しかし兄がアンドロニコスを倒して皇帝になると、莫大な身代金を条件にして解放された。

その後は帝国の宰相・元帥に任じられて兄の治世を補佐したが、次第に兄と対立し、1195年にはクーデターを起こして兄を幽閉して廃位し、自らがアンゲロス王朝の第2代皇帝として即位した。アレクシオス3世は兄以上に無能な皇帝で、それに暴君・暗愚を加えてもいい人物だった。1203年7月、兄の息子で神聖ローマ帝国に亡命していたアレクシオス4世が、第4回十字軍を味方に引き込んで首都コンスタンティノポリスに侵攻してくると、皇位を奪われて追放された。


261: 世界@名無史さん 2011/07/25(月) 12:46:36.79 O
優しい奴が兄貴の目をくり抜くかよ…。
それとも、ニキタスさん流の皮肉なんだろうか。

264: 世界@名無史さん 2011/07/25(月) 23:19:33.41 0
>>261
どう見ても、心優しいっていう額面通りに取るんじゃなくて皇帝にはふさわしくない人物という意味だろそこは。

とか思ったけど側近粛清しまくりの某スターリンが子供好きな気さくなおじさんっての思い出した。

262: 世界@名無史さん 2011/07/25(月) 19:41:02.43 0
「一次・二次史料で見かけた不気味な話」スレより

440 :世界@名無史さん:2011/01/08(土) 02:20:56 0
ビザンツ帝国の史家ニケタス・コニアテスによると、12世紀末のコンスタンティノープルにバシラキオスという狂人がいた。その男は未来を占えるという評判があり、人々は長蛇の列をなして彼のところへやってきたという。
コニアテスに言わせれば「その男の予言は当ったためしがなく、その言葉遣いは間違いだらけで、支離滅裂で、秘密めかしていた」。
そしてそんな馬鹿げた行いに引きつけられるのは田舎者や無知な者だけだったと記している。

だがその評判は皇帝の耳にも届いたらしく、バシラキオスは宮殿に召し出され、当時のイサキオス2世によって未来を占うよういわれた。
バシラキオスはまったく場所をわきまえない様子で、奇声をあげてそこら中を走り回り、壁にかかっていた皇帝の肖像画の両目に穴を開けイサキオス2世の頭から被り物をひったくった。

その後クーデターが起き、イサキオス2世は帝冠を奪われ、両目を潰された。

263: 世界@名無史さん 2011/07/25(月) 22:11:52.59 0
面白いな
イサキオスはもともと占いの類が好きだったようだ
とくに盲目にされながらも、息子に助けられた後は、ラテン人によって不穏な空気を漂わせる都や息子の台頭などで心がすっかり弱ってしまい、宮殿に引きこもって怪しい占い師たちを招いていたという
イサキオスはその怪しげな話を信じて、目をこすれば盲目にされた目が見えるようになると目をこすりまくったり、自分の通風が治ったのは、自分は神に選ばれた男なのだと公言したりと、衰弱・混乱ぶりがめてとれる
そして最後には息子が反乱で殺されてしまうと、心労がたたって病となり死んでしまう

265: 世界@名無史さん 2011/07/25(月) 23:31:10.96 0
最近ウィキペディアに追加されてるアレクシオス3世のメダル風の絵は何なんだ?
当時の帝国にあのクオリティのメダルを作る技術は無いはずだが。

266: 世界@名無史さん 2011/07/26(火) 00:04:03.23 0
16世紀の本の挿絵だろ
そもそも名前がラテン語になってるし当時のコインのわけないだろ

267: 世界@名無史さん 2011/07/26(火) 12:18:44.41 0
あれでも西欧じゃコインになる程の人物なわけか・・・。

269: 世界@名無史さん 2011/07/28(木) 00:59:16.72 O
アレクシオス3世って帝都落とされた後にモレアで十字軍国家に抵抗したり
その後はルームセルジュークで甥のテオドロス帝の邪魔したり
やってることがもはやアニメかゲームの域だな

282: 世界@名無史さん 2011/09/15(木) 01:41:07.85 0
エジンバラ公の祖母のギリシャ王妃オリガ大公女(ロシア)が東ローマ皇帝アレクシオス3世アンゲロス(在位:1195年 - 1203年)と皇后エウフロシネ・ドゥーカイナ・カマテラの子孫にあたるという事はチャールズ皇太子やウィリアム王子も東ローマ帝国の皇帝の末裔って事なので興味が湧き、ビザンチィンに関する主に井上浩一著の本を読みました。
アレクシオス3世はアンゲロス家、コムニノス家、ドゥーカス家の血を引いてるんですね。
孫のマリア・ラスカリナからヨーロッパの王侯貴族に血が引き継がれたようですね。

19世紀になってもギリシャ国民は、王室を戴くのなら約500年も前に滅んだ東ローマ帝国の皇帝の子孫を国王あるいは王妃に望んだのでしょうね。

それからスペインのソフィア王妃もオリガ王妃の子孫ですね。

284: 世界@名無史さん 2011/09/18(日) 12:36:19.69 0
>>282
オリガはエウフロシュネの母系直系子孫。
マリア・ラスカリナが多産だったことと、嫁ぎ先のハンガリー・アルパート朝が東欧の名門だったのが拡散し続けた理由かね
オリガの旦那もどんどんたどると、結局アレクシオス3世・エウフロシュネにたどり着く。

あと、シュタウフェン家のフィリップ・フォン・シュヴァーベンに嫁いだエイレーネ(イサキオス2世の娘)も、現在の欧州諸王室のご先祖様なはず。
フィリップとの間の娘達がボヘミア王・ブラバント公・カスティーリャ王に嫁いで、またバンバン子供をこさえたためそこら中に広まってる。
ブラバント公家が地味に英仏王室や独伊の名門諸侯と通婚していたから、子孫の広がりがとんでもないものになってしまった。

もっとも、結婚相手からしたらアンゲロスよりシュタウフェンの血統の方が意味があったんだろうが

285: 世界@名無史さん 2011/09/23(金) 18:28:18.68 O
ヴァシリオス二世もそれくらい多産だったらなぁ…。
黄金のマケドニア朝が永遠に続いただろうに。

286: 世界@名無史さん 2011/09/23(金) 23:55:42.19 0
ビザンツ帝国の場合、あまり兄弟親類が多くなると目潰し大会がヒートアップするだけのような気がする

287: 世界@名無史さん 2011/09/24(土) 00:25:22.48 0
>>286
跡を継いだら兄弟親類をバッサリというのはオスマンにも引き継がれたな。

288: 世界@名無史さん 2011/09/28(水) 21:51:48.75 0
盲目で修道院で余生を送る元皇帝たち・・・

289: 世界@名無史さん 2011/09/29(木) 23:46:03.86 0
中世
修道院で監禁されたローマ皇族がひっそりと暮らす

近代
上記修道院を改装したモスクで監禁されたオスマン皇族がひっそりと暮らす

現代
上記モスクに来た観光客ががやがやとローマ皇族やオスマン皇族の監禁部屋を見学
入場料やお布施を考えるといい遺産なのかもねw

270: 世界@名無史さん 2011/07/28(木) 01:45:36.27 O
ビザンツ時代って王政~共和政ローマの話ってどれだけ伝わってたの?
教会合同でローマに行った使節が手紙でユリウス・カエサルに言及してたけど
キンキナトゥスやグラックス兄弟やマリウス、スッラの話ってビザンツ時代人がどこまで知ってたのかな

271: 世界@名無史さん 2011/07/28(木) 02:02:14.44 P
認識はしてるけど語るに及ばない恥ずべき時代
皇帝の歴史教科書は、アレクサンドロス→ロムルス→カエサル、アウグストゥス の順

293: 世界@名無史さん 2011/10/27(木) 23:16:17.97 0
帝国にとって最も危険な敵はオスマンで確定として、2番手はどこだろうね
ルーム・セルジューク、ヴェネツィア、ノルマン、ブルガリア、セルビア、ハンガリー付近が有力候補と見るが

294: 世界@名無史さん 2011/10/27(木) 23:32:39.75 0
>>293
ラテン帝国を間接的に作ったヴェネツィアが最有力
領土を蚕食しまくって皇帝を宣言していたセルビアが次点
マンジケルトのルーム・セルジュークは3番手か4番手
その次は、アヴァール・ササン朝・正統カリフ・ウマイヤ朝などのコンスタンティノープルに殴りこみをかけたグループがノミネートされ、大穴でパライオロゴス朝・アンゲロス朝

295: オツガイ ◆EAbyJft1LY 2011/10/27(木) 23:39:36.41 0
>>294
>領土を蚕食しまくって皇帝を宣言していたセルビアが次点

これはセルビアじゃなくてブルガリアじゃないの。
セルビアも後期になると、
ビザンツ帝国にとってわりと危険な存在だったけど、それ以外の時期なら、圧倒的にブルガリアでしょ。皇帝を名乗ってた期間もブルガリアのほうが、圧倒的に長かったと思うし。
まぁ、どっちも最盛期が微妙にずれてるから、どっちがビザンツ帝国にとって危険かどうかは時期によって違うんだけど。

296: 世界@名無史さん 2011/10/28(金) 00:01:52.57 0
>>295
シメオン1世のコンスタンティノープルにおける戴冠を失念していた
その意味で第一ブルガリア帝国を挙げなかったのは俺の誤り
入れるとしたら、ヴェネツィアとセルビアの間かな
最終的にシメオン1世はビザンツに打ち破られてしまうが

でも第二ブルガリア帝国は帝国にとって危険かと言われると
「ラテン帝国にとって」という但し書きがついたり、対象が微妙にずれる

297: オツガイ ◆EAbyJft1LY 2011/10/28(金) 00:13:03.11 0
>>296
確かに第2次ブルガリア帝国の最盛期はラテン帝国の時代だから、ビザンツ帝国にとって危険だったかと訊かれると微妙かも知れない。
第1次ブルガリア帝国の最盛期ならビザンツ帝国を脅かしてたけど。

340: 世界@名無史さん 2011/11/25(金) 14:26:19.14 0
>>293
ビザンツのライバルは、何の史観を中心にするかで着目する相手が違うでしょうね。
正教史観ならトルコだが、ユダヤ陰謀史観なら元々ビザンツ領だったベネチアがなんでビザンツと対立する事になったのかが一番気になる。
いや、陰謀史観なしの世界史でもそこは一番重要な方でしょうね。
キリスト教東西分裂以来のバチカンとビザンツとベネチアの関係の変化が現在までの西洋史の基調を成すと思います。
逆に遊牧民や民族移動中心史観だと全てのビザンツ周辺民族が対象となるだろう。
トルコ系(セルジューク、オスマン、ハザール、ブルガール)、
スラブ系(セルビア、ウクライナ、ロシア)、ゲルマン系(ランゴバルド、バンダル、フランク、ノルマン)、アラブ人、クルド人、アルメニア人、ロマ等々。
結局、ローマ帝国滅亡後に地中海の全沿岸を再統一した国家はアラブ、トルコ、ナチス・ドイツ、米ソ含めて現在までない。

引用元: ・【栄光の】トレビゾンド帝国総合スレ【東ローマ】



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