51RrWyaq+cL



1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/02(金) 21:13:01 ID:lMNW1vBJ0
晋の正卿
先しん、先且居、趙盾、げきけつ、荀林父、士会、げき克、欒書、韓けつ、知おう、荀えん、士匂、趙武、韓起・・・






(しん、紀元前11世紀 - 紀元前376年)は、現在の中国山西省に西周代、春秋時代にわたって存在した国家である。

春秋末期、晋は事実上、范氏・智氏・中行氏・趙氏・韓氏・魏氏の5氏6家系(中行氏と智氏は、元々同じ荀氏。また、韓氏のみ公族)の当主によって動かされるようになった。この6家系は他の有力大夫を排除して、六卿を世襲するようになっていた。さらに出公のときに范氏、中行氏の領地を智、趙、韓、魏氏が分割しようとしたため、出公は怒り、斉や魯と同盟して四氏を討とうとしたが失敗し、斉へ亡命しようとしてその途中で亡くなったために(紀元前457年)、晋室は全く力を失った。

四氏のうち智氏が最も強大で、当主の智瑶は韓氏・魏氏を引き連れて、趙氏を滅ぼそうとした。趙氏の当主趙無恤は、韓氏の韓虎・魏氏の魏駒に「智氏は強欲なので私が滅ぼされた後は貴方達の番だ」と寝返りを促し、これに成功する。紀元前453年、三家に攻められた智氏は滅亡し、晋の領土を趙、韓、魏の三者が分け合い、それぞれ独立した(晋陽の戦い)。

しかし晋は曲沃と絳の2都市を中心とするわずかな領土(魏に取り囲まれる形だった)を守りながら哀公以下5代に渡って存続した。紀元前403年、周の威烈王によって趙、韓、魏の三氏が諸侯に列せられたため、晋の公室と三家はこの時点で名目上の君臣関係ですらなくなった。紀元前376年、晋は韓魏の連合軍に攻められ陥落。この時晋は難攻不落で攻撃軍はかなり手間取ったという。最後の君主・静公は城を出て庶民となり、晋は滅亡した。なお、趙、魏、韓の三国を三晋と呼ぶ。





6: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/03(土) 00:10:12 ID:cVdMXS3Q0
知・趙・魏・韓・范・中行

欒氏や郤氏、胥氏や羊舌氏などはスレ違いかな。

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/03(土) 00:41:22 ID:5X+gS4j20
春秋末期は晋の六卿といえばその六氏のことかもしれないが、それまでは単に晋の大臣(大臣は三軍の主将と副将を兼ねるから定員六人)、という言葉通りの意味であろうから別に問題ないのでは。

8: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/03(土) 00:42:20 ID:cVdMXS3Q0
三軍三行ね。

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/03(土) 01:14:55 ID:ueHAK0yM0
范、中行氏は斉に行った後存続してたの?

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/03(土) 07:25:29 ID:UEya5y+MO
存続してなければ范増や中行説の名はのこらんよね。

11: 名無しさん@お腹いっぱい 2007/02/03(土) 07:52:14 ID:uL2d2HSD0
あと、范雎もね。
范雎自身は魏の出身だけど、范氏の族人の中には、晋の後身である魏に戻ってきたのもいそうだし、范雎の性格や行動を見てると、士会から士鞅までのそれと結構似通っている部分が多い。

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/03(土) 22:08:45 ID:iHtmDKiF0
范増ってそうだったのか、正直知らんかった、サンクス

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/04(日) 00:49:22 ID:zzI2Diy4O
そうだったのか…って根拠はないぞ
氏が同じ以外

14: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/04(日) 00:51:18 ID:d3Kv5nyf0
当時の氏の由来は出身地が多いから、あながち根拠がないわけではないんじゃないかな。

19: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/05(月) 21:46:42 ID:o2h7tkyc0
【趙氏略系】
┌    夙(共孟?)─            ──    穿(    )──    旃(    )
└成子衰(子餘)─┬宣子盾(趙孟)──荘子朔(趙孟)──文子武(趙孟)
                ├    同(原叔)
                ├    括(屏季)
                └  嬰斉(樓嬰)

20: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/05(月) 22:11:30 ID:o2h7tkyc0 BE:204249986-2BP(4)
【荀氏略系】
荀逝敖┬桓子林父(中行伯)─宣子庚(中行伯)─献子偃(中行伯)─穆子呉(中行伯)─文子寅(中行伯)
      └荘子首(知季)───武子罃(知伯)──荘子朔(知伯)──悼子盈(知伯)──文子躒(知伯)

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/06(火) 01:03:52 ID:CtMyVhH20
魏氏って春秋の頃ってあまり目立たないよね

24: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/06(火) 20:54:55 ID:/oKA+bnH0
>>21
魏武子は大夫扱いで一等低い感じのスタートだもんな。

22: 18 2007/02/06(火) 04:58:21 ID:aBtKXf6D0
荀林父と荀偃の間は荀庚ですか?
荀騅って誰だろう。

23: 名無しさん@お腹いっぱい 2007/02/06(火) 20:46:28 ID:Qm9SdMZK0
>>22
荀庚(中行庚)は荀林父の息子ですから、間違い無いです。
荀騅は多分、荀林父の弟で知首の兄でしょうか。

24: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/06(火) 20:54:55 ID:/oKA+bnH0
>>23
荀驩と荀騅は同一人物なのかもしれんね。

25: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/07(水) 00:31:57 ID:yz9jZmTH0 BE:102124883-2BP(4)
畢萬─芒季─武子犨(仲州)─悼子顆(    )┬荘子絳(    )┬献子舒(子荼)─簡子取─襄子曼多─桓子駒
                                     │            └令狐文子頡──魏  戊
                                     └廚武子錡(呂季)─宣子相(呂仲)

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 18:47:56 ID:u61h4oVCO
魏悼子と魏荘子は兄弟だったとおも。

28: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/08(木) 20:54:11 ID:pnBR9zjn0
とりあえず作ってみた。

【晋】
靖侯宜臼┬釐侯司徒─献侯籍──穆侯費生─桓叔成師┬荘伯鮮──武公称─┬献公詭諸
        │                                      │                  └羊舌文…【羊舌氏】
        │                                      └韓武子萬─求伯───定伯簡…【韓氏】
        └欒叔───欒賓─共子成(共叔)─貞子枝──欒盾───武子書──桓子黶…【欒氏】

32: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/13(火) 19:53:47 ID:vJYiKSVB0
胥臣・・・野人となっていた郤缼を文公に推挙した。
胥甲・・・霊公に近すぎて趙盾に疎まれ追放される。
胥克・・・病により郤缼に卿の位を降ろされる。
胥童・・・厲公の寵臣であり三郤を滅ぼし、欒書・中行偃に殺される。
胥午・・・敗れる事が分かって欒盈に協力し共に滅びる。
胥臣の家系図はどうなってるだろう。


33: 名無しさん@お腹いっぱい 2007/02/13(火) 20:26:22 ID:66OxE9ic0
>>32
胥甲から胥童までは一本系図でつながってるが、胥臣から胥甲、胥童から胥午のつながりが分からん。
沙中の回廊では、胥甲は胥臣の息子だと書いてるが、胥甲は胥臣の族人の可能性もあるかも。

34: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/13(火) 21:08:23 ID:kZ+3B8/F0
胥甲は胥臣と同じ下軍の佐から登場するので親子と思っていいんじゃないだろうか。
一応まとめておこうか。

【胥氏】
┌司空季子臣─胥甲─胥克─胥童
└胥嬰

胥午と胥梁帯についてはわからない。

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/19(月) 02:31:49 ID:K7e75BJY0
巫臣
 ∥――娘 
夏姫  ∥
   叔向


36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/19(月) 09:47:56 ID:Qg8DViw9O
>>35
楊食我はその夫婦の子なんですか?

37: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/19(月) 21:02:12 ID:Yx8TGU4T0 BE:344671799-2BP(4)
【羊舌氏】>>28参照
羊舌産?─羊舌文─羊舌突─羊舌職┬羊舌赤(伯華)─子容
                                ├羊舌?(叔向)─楊食我(伯石)
                                ├羊舌鮒
                                ├羊舌虎(叔虎)
                                └      (季夙)

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/21(水) 07:21:15 ID:tGhYkvou0
楊食我が殺された理由がよく分からないけど、夏姫の孫?だから
つぃてない人なのかな?


39: 名無しさん@お腹いっぱい 2007/02/21(水) 13:02:50 ID:A5o4IN9f0
>>38
厲公の時の胥童みたく、六卿の勢力を削ごうとして、士鞅や知櫟の逆鱗に触れたのでは?

40: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/21(水) 20:53:49 ID:nVwnSODu0
山狗のような声とかね。

42: 29 2007/02/22(木) 08:47:47 ID:YFuilRnm0
やっと沙中の回廊を読んだけど魏顆・魏絳・魏錡が兄弟になってます。
又、史記魏世家だと魏顆―魏絳ですね。

>>40
楊食我=山狗のような声ですか?史記だけ見ると六卿の方が悪くみえるので。

43: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/22(木) 21:45:24 ID:i9x98rNJ0
>>42
左伝の楊食我が生まれたときの話ね。
祖母(伯華・叔向の母)に羊舌氏を滅ぼす子だと云われて面会を拒まれたと言う。

41: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/22(木) 00:42:45 ID:i9x98rNJ0
指摘されるまで申公巫臣と夏姫の娘だというのに気付いてなかった。
叔向は文弱な大夫だと思って侮ってると、結構な実力者でもあったんだな。

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/25(日) 21:54:34 ID:FAUTw4Fc0
頃公の十二年時は趙鞅・韓起・魏舒・中行寅・士鞅・知櫟 が六卿か
このころは晋室の事や正卿になるより、領地を増やす事のみ考えてるみたい。 

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/26(月) 21:35:33 ID:KW84X0GF0
文公が太子を除く公子を晋国外に出したのが晋室弱体の原因か

47: 名無しさん@お腹いっぱい 2007/02/26(月) 21:48:14 ID:/rFhd8Jz0
いや、やっぱり献公が驪姫に惑わされて、申生を自害に追い込んだのが、晋室弱体の遠因だろ。
驪姫(りき、? - 紀元前651年)は、晋の献公の寵姫。異民族の驪戎の娘であったが、献公が見初めて驪姫の妹と共に後宮入りして寵愛された。

献公との間に生まれた自分の息子の奚斉を太子として立てようとして献公を操り、驪姫以外との女性の間に生まれた申生ら他の公子達を策略を使い次々と抹殺していった。この際、のちに晋を継ぐ重耳と夷吾の兄弟が晋から逃亡することになった。これは驪姫の乱と呼ばれ、政治的混乱を引き起こし、このため晋の国力は一時期大いに低下した。


48: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/26(月) 22:02:50 ID:u+jZGQuH0
公族・余子・公行の三族を定めたところで決定づいたと考える。

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/28(水) 16:25:16 ID:mBLYU8PyO
三族のいきさつは分かるが
家臣の子弟が公族になって本当の公の親族はどうなったかわからない。
理屈がわけわかめ。

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/28(水) 21:47:58 ID:Nv2GDesa0
晋には驪姫の乱以後、公族の官がなく晋にひとりの公子もいない
卿の嫡子を公族の官に任命し田土を与える事にした。
成公が自分を推してくれた卿への礼のつもりか又は自分の子から他の国のような公族を復活させる為か卿の家が肥大化する基になった。
趙盾より、成公の方がそのつもりがなくても晋室弱体化の原因ですね

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/02(金) 20:36:30 ID:8DPUp8tf0
先且居等が死んだ後、士穀が趙盾や狐射姑を差し置いて正卿になる予定が先克の邪魔でなれなかったという話は、もし士穀が正卿になってたらと思うな。

54: 名無しさん@お腹いっぱい 2007/03/02(金) 21:41:16 ID:dszOr4KE0
>>53
もし士穀が正卿だったら、襄公亡き後は秦にいた公子雍が順当に晋侯になって、襄公の息子の夷皋(霊公)は、ひねくれた人生を送らずに命永らえれたかも。
ただ、そうなると、黒臀(成公)は晋侯になれなかったけどね。
そして、弟の士会も秦に亡命する事もなくなるし。

66: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/10(土) 06:27:25 ID:IRlOtLxQ0
このように思うがどうだろう。

名宰相
一位 韓厥
二位 士会
三位 趙盾

悪い宰相
一位 欒書
二位 趙鞅
三位 趙盾
67: 名無しさん@お腹いっぱい 2007/03/10(土) 07:37:29 ID:NqMj1tFe0
>>66
いや、こんなんでは?

名宰相
一位 韓厥
二位 士会
三位 趙武
次点 知オウ

悪い宰相
一位 士カイ
二位 趙盾
三位 荀林父
次点 中行偃

71: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/15(木) 21:43:30 ID:aD/0kbL+O
知氏はどの辺りから力をつけてきたの?
士会の頃は名前も出てこないのに

72: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/15(木) 23:34:06 ID:phS3pqcT0
士会のころに荀林父って人がいたと思うが、その子孫の分家。本家は中行氏だったかな。
そのころは士氏も范氏っていう名前になってる。

んで、中行氏と范氏が、趙氏を滅ぼそうとしたときに、知氏の当主が晋の宰相だったが、趙氏の味方をして、中行・范氏を倒し、その領土を分け取りにしたあたりで、晋国内では一番強くなったのかな。

73: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/16(金) 07:36:29 ID:DJVeAh99O
趙氏って三度滅亡の危機をよく乗り切ったよな

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/18(日) 22:25:44 ID:YzY6mJq60
>>73
趙朔と趙憮恤の話と趙盾の失脚時か趙鞅の中行・范氏との戦いですね。
事件名が分からないのでややこしいけど、孟夏の太陽2冊目(1冊目は紛失)買ってしまった。

77: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/25(日) 23:28:10 ID:vCmkN7vG0
中行・范氏との戦い開始が前四九七年で、中行寅・范吉射の斉への逃亡が前四九〇年、知瑶が韓・魏・趙氏と共同で中行・范氏の領地を分割して所領にしたのが前四五八年らしいのだが、それまで中行・范氏の残党が残っていたのか?
又はそれまで知瑶の暴走を抑える人物がいたのだろうか。

78: 名無しさん@お腹いっぱい 2007/03/26(月) 21:09:05 ID:Mm1A+W9K0
>>77
知瑶の祖父の知櫟や趙鞅達が、名目上は中行・范氏の領地のままで、晋公を差し置いて実質的に支配してたんじゃね?
知櫟は知瑶以上に強欲だけど、かなりの慎重居士でもあるから、趙鞅達と示し合わせて、事を荒立てないように名より実をとる方策を取ったのかも。
で、知櫟の死後は、趙鞅が紀元前463年に死去するまで知瑶を抑えてたと。

79: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/27(火) 06:23:32 ID:ZkLQI1ss0
なるほど趙鞅が長い間、実力者の位置にいたみたいですね。

80: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/29(木) 06:55:33 ID:XJ90bqJr0
知氏も知櫟の父、知盈が亡くなった時に卿から降ろされそうになった事があったが、(実際に士魴や魏相の後は卿になれなかったので)一大夫のままなら、これほど力を持てなかったと思われ。
平公が独断で寵臣を卿に任じたら、厲公の二の舞になるか又は、六卿の力を削ぐ最後のチャンスだったか。

81: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 15:16:42 ID:4A+4/k9S0
知首・知罃の遺徳は残っていたからだろうが、何で料理人があんなに偉そうなんだろう。

82: 名無しさん@お腹いっぱい 2007/03/30(金) 21:19:35 ID:LDN5Ulgx0
>>81
料理人って誰?

83: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/31(土) 05:09:23 ID:mjFArEQC0
晋の知盈が亡くなった時、葬儀も行わぬ内に平公は酒宴を催した、その席で料理人の屠蒯は楽師に酒を飲ませ
「汝は国君の耳にして、聰(鋭敏な聴力)を司るのが役目、股肱が毀損したのは忌み日にまさる痛心時。しかるに汝がこれを国君に申し上げず音楽を奏したのは聰ともうせぬ。」更に寵臣に酒を飲ませ
「汝は国君の目にして、明を司るのが役目。しかるに国君の容は卿佐の喪にふさわしい物でないのに、汝がそれを目に止めぬのは明とは申せぬ」
こんどは自分で酒を飲んで
「味は気を流通させ、気は志を充実させる。志によって言が決まり、言によって命令が出る。臣は味を司る のが役目。この二人が役目を果たさぬのに国君が処罰命令を出さなかったのは臣の責任でございます」
平公は納得して酒宴をやめさせた。これまで平公は知氏を廃して自分の寵臣を立てようとしていたが、この件で考えを改め知櫟を下軍の佐に任命して、申しわけにした。

84: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/31(土) 23:53:52 ID:DTPxzBB/0
魏絳は悼公の寵臣といえるかな、当時の宰相の韓厥・知罃・中行偃との関係は良好みたいだが。
魏 絳(ぎ こう、生没年不詳)は、中国春秋時代の晋の武将、政治家。姓は姫、氏は魏、諱は絳、諡は荘。魏犨の長男の魏悼子の子。悼公、平公に仕えた。

魏絳は魏犨の孫で、嫡流とは遠い立場にあったが、紀元前573年に悼公が即位した時、その勇敢さを買われ、中軍司馬に抜擢される。 戎狄が晋との講和を申し出た際には、魏絳がそれを取りまとめ、その事で晋は再び諸侯の覇としての名を上げた。その後も魏絳は、悼公の側近として大活躍を続け、その功績で悼公から安邑(山西省夏県)を下賜され、そこを魏氏の中心と定め、その発展の礎を築く。


悼公(とうこう、紀元前587年 - 紀元前558年)は、中国春秋時代の晋の君主(在位:紀元前573年 - 紀元前558年)。

欒書と荀偃(中行偃)によって厲公が殺されると、晋に迎えられて君主となった。 文公の治世を理想とし、韓厥や智罃を正卿に、魏絳を中軍司馬に、羊舌肸(叔向)を世子の彪(後の平公)の傅とするなど、賢者を任用し内治を整え、諸侯と会盟し狄と和を結ぶなど、鄢陵の戦い以来、晋に傾いていた覇権を磐石なものにしたが、29歳で死去した。



85: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/04(水) 21:41:21 ID:+uUQ11R/0
魏絳と韓厥は出世の仕方が似ている。

87: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/06(金) 17:52:17 ID:0f3ZglTPO
宰相にあたる正卿でも本当に実権があった人はかなり限られてるね

88: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/06(金) 22:11:25 ID:5GCckdyD0
>>87
実権のないというと誰だろう?
とりあえず、中行偃<范カイかな。

90: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/04/06(金) 23:57:28 ID:VQduNSci0
基盤の弱い正卿だと先軫が浮かぶかな。
兵権のない士爲や荀息が正卿に準えられないのが残念。

93: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/07(土) 20:29:04 ID:jWAm+6C50
>>90
献公が上軍の将・申生が下軍の将というように公族が兵権を独占してたのですかね?

94: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/10(火) 14:23:23 ID:aSQPaq8TO
申生ら三公子が追放されたときに兵権が卿大夫に移ってしまったのではないかな
献公が桓荘族を滅ぼしてしまったから、親族に三公子のあとの受け皿がなかったわけだし
※ 申生、重耳、夷吾


95: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/04/11(水) 23:18:50 ID:i5HyHift0
晋の悼公即位時に任命されてる人たち。(春秋左氏伝より))

【太傳】士握濁
【司空】右行辛
【卿】魏相・士魴・魏頡・趙武
【公族大夫】荀家・荀会・欒黶・韓無忌
【公車御】弁糾
【公車右】荀賓
【中軍尉】祁奚
【中軍副尉】羊舌職
【中軍司馬】魏絳
【中軍候奄】張老
【上軍尉】鐸遏寇
【上軍司馬】籍偃
【公御者】程鄭

96: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 03:33:23 ID:DE/mVCEc0
予想ですが、名君悼公即位時の卿は韓厥・知罃・中行偃・范カイ・魏相・士魴・魏頡・趙武の順番で4軍でしょうか、魏頡は魏絳の兄で魏本家の当主という感じですかね、いきなり2卿の魏氏はまだ魏絳の活躍前なのに

97: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 04:16:19 ID:DE/mVCEc0
BC573の2月に悼公即位してその時点では、欒書・韓厥・知罃・中行偃・魏相・范カイ・士魴 ・魏頡という感じか、そして11月前後に韓厥が正卿になって12月に魏相没後に趙武が卿になる方が正しいかな。
魏絳は魏犨の末の子という話もありますか。

98: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/12(木) 22:39:47 ID:cGf1GFHI0
悼公即位時点では中軍の将、欒書・佐、中行偃・上軍の将、韓厥・佐、范カイ・下軍の将、魏相・佐,知罃・新軍の将、士魴・佐、魏頡。が、つじつまあう感じかな、
公族の官と公族大夫は別物みたいだが、四軍だから四人の公族大夫となるかと考えるのだがどうだろう、
太傳=晋公の教育係で実権はありそうだが、特に権力があり大夫の中で上位とかあるのだろうか?
中軍候奄の張老=張孟に、中軍尉の祁奚、上軍司馬の籍偃、このあたりの大夫は存在感が大きいですね。

100: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/04/12(木) 22:58:29 ID:qJJ6Q4Eo0
>>98
太傳と司空は名誉的ポジションだと思う。
士握濁は范氏の本家だから上位に祀り上げられたのだろうし
右行辛はこの頃の晋公室では最長老じゃなかったかな。

99: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/04/12(木) 22:53:34 ID:qJJ6Q4Eo0
公族大夫に荀家・荀会・欒黶・韓無忌が並んでいる。
ということは欒黶・韓無忌(荀家・荀会の系譜は不明)の父にあたる
欒書・韓厥が卿、あるいはそれに相当する地位なのはほぼ間違いないだろうね。

101: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/14(土) 16:40:17 ID:NfYTdQ2E0
魏絳は魏相・魏頡の後をうけて魏氏の当主になったものだと思うが、傍流にいた者が急に当主となる事に、一族内から不満がでるという話は公族ではよくあるが、大夫の一族間の勢力争いというのは、あまり聞かないな。趙朔 の時に趙同・趙活が、それぞれ当主としての根拠を持っていた事により不満を持っていたぐらいか。


102: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/04/14(土) 21:54:54 ID:7istsok70
趙括は初めて公族大夫になったうえ、文公の外孫だもんな。
趙朔が成公の婿なだけに対抗心があったのだろうか。

時代が下って邯鄲午は本家の趙氏に反乱していたり、知氏と中行氏が揉めてたりするのは同族争い。
叔向が叔魚を見捨てたりするのも同様かな。

引用元: ・】【春秋時代】晋の六卿について語ろう



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