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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 18:02:51 ID:ub76meZ00
明代の対後期倭寇戦の英雄に関するスレ。

世宗の御世(1521-66)、朱紈、胡宗憲、兪大猷、戚継光らが戦った逸話を語りましょう。
ついでに後期倭寇の王直、徐海らについても語りましょう。








3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 19:02:32 ID:bdxpJPI30
朱紈伝のはじめに、後期倭寇の頭目として李光頭、許棟というのがでてくるね。
当時の海禁政策に反対する明の勢家が護持し、これらと婚姻するものまであったとの事だけど。

4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 20:25:59 ID:YQVNH2u30
まあ、朱紈は対後期倭寇戦の第一線で活躍しつつ、後期倭寇根絶の為に海防や監視を厳しくしたのに、密貿易の利益をえていた卿紳・豪商により弾劾をうけて降格。最後に服毒自殺する事になるからな。

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 20:53:24 ID:YQVNH2u30
朱紈のせいで、李光頭や許棟の部酉だった王直が、後期倭寇の一首領になるわけだが……。

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 21:10:50 ID:bkhY+nqw0
ここで、鄭若曽の『籌海図編』の「寇踪分合始末図譜」にのった、後期倭寇の頭目掲載。

一)金子老、李光頭 二)許棟 三)王直 四)陳思盻、鄭文俊、林碧川、沈南山
五)蕭顕 六)鄭宗興、何亜八、徐銓、方武 七)徐海 八)陳東 九)葉明
十)洪沢珍 十一)厳山老 十二)許西池 十三)蕭雪峰、張璉 十四)謝老

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 21:46:06 ID:hD4SNMZR0
なら自分は当時の記録である都督万表の『海寇議』より、王直の勢力を示すものを掲載しとく。

五峰(王直の号)は、部する所の船多きを以て、乃ち毛海峰(王直の養子)・徐碧渓・徐元亮らをしてこれを分領せしめ、因って往来の海上に四散劫掠し、蕃船の出入には関(舟山列島の定海関)も盤阻する無く、而して興販の徒は蘇州・杭州に紛錯して公然として忌む無し。
沿海の人民は、或いは時鮮のものを餽り、或いは酒米を餽り、或いは子女を献じ、絡繹して絶たず。
辺衛の官より紅袍・玉帯を献ずる者あり。把総張四維の如きは、柴徳美との交り厚きによって五峰と往来し、もとより熟近なれば、則ち拝伏即頭して、甘んじて臣僕となり、その送貨をなせり。

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 21:52:22 ID:hkDNn4DM0
王直やりたいほうだいだな!

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 22:52:44 ID:niDppKRH0
王直の五峰という号は、本拠を日本の松浦五島においていた事にちなんで名づけられたそうだね。
そして王直は自らを微王と号して、三十六島の倭人を指揮し、その勢力をおおいに海上にふるったらしい。

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 23:14:18 ID:+GZ/k92n0
海寇に話がいきすぎなので、王直を捕らえた胡宗憲のほうに話をふろう。
甘い言葉で投降をすすめて、やってきたら逮捕・投獄という酷い事をしたわけだが。

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 23:20:08 ID:4w36KRfd0
その胡宗憲も権力者の厳嵩にとりいって栄進をきわめた後に弾劾・罷免され、獄死するわけだが

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/27(金) 00:51:05 ID:ZROXmLce0
そして後期倭寇の残党は、福建・広東の沿海地に鉾先を転じると。

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/27(金) 01:08:45 ID:CEQ59cza0
その頃の頭目というと、許老(許朝光、許西池)・謝老(謝策)・洪迪珍(洪沢珍)・厳山老・張璉・蕭雪峰・林国顕・呉平・林道乾・曽一本・林鳳などだね
洪迪珍はかつて王直の余党であり、王直の死後に残党と共にそちらへ行ったみたいだけど

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/27(金) 01:16:09 ID:21t02Gpj0
そして、その時歴史が動いた!
1563~64年に名将兪大猷、戚継光らが、海寇を福建の平海衛に撃破!!
以後、海寇の勢いは衰える事になる。

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/27(金) 02:09:28 ID:Tr9CU0m30
しかし、中国人の密貿易は依然として続けられ、また海禁政策に対する批判もたかまった。
そうして、1567年。海禁政策は廃止されたのである……。

- 完 -

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/28(土) 10:36:48 ID:BavDBui30
月空和尚、倭寇を撃退す
西暦1551年(明嘉靖30年)、月空和尚を首領とする少林僧兵100余人は、中国南方沿岸部に出没しては猛威を振るっていた倭寇を撃退するために出撃し、数度の戦闘で倭寇に壊滅的な打撃を与えた。
しかし度重なる激戦で、月空をはじめとする僧兵らも最後には全員戦死、寺に帰ることはなかった。少林寺の西にある搭林(歴代高僧の墓碑)には、月空和尚のための搭が今でも残っている。

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/29(日) 12:43:51 ID:26deI4230
殺生しまくるお坊さんたちw

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/03(金) 17:12:55 ID:7g7v4Trx0
袁崇煥は、勿体無かったな。
あれが居座っている限り女真族は、関を抜けなかっただろう。
袁 崇煥(えん すうかん、万暦12年4月28日(1584年6月6日) - 崇禎3年8月16日(1630年9月22日))は、明末の武将。その優れた軍略で遼東・遼西(現在の遼寧省南部)で後金の軍隊にたびたび勝利し、三国時代の名軍師諸葛孔明になぞらえてたたえられた。兵に対しても思いやり深い人物だったという。しかし、身内の明王朝内部に疑われて処刑された。

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/03(金) 23:44:45 ID:OIBoELB20
袁崇煥、北方で頑張ったけど、実は南方広東の出身なんだよね。

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/11(土) 21:45:39 ID:RHkm29VM0
戚継光は倭寇対峙以外にも、モンゴル方面でも活躍したりして、器用な武将だな。
戚 継光(せき けいこう、嘉靖7年10月1日(西暦で1528年11月12日) - 万暦15年12月8日(西暦で1588年1月2日)は、中国の明代の武将である。倭寇及びモンゴルと戦ってともに戦果を挙げたことからその名を知られる。字は元敬。諡は武毅。竜行剣という剣法の開祖とも伝えられる。

歴戦の勇将ながら大変な恐妻家であったとされ、軍律に背いた息子を処刑したことに怒った夫人から生涯妾を持たない事を誓わされた。その後誓いを破り2人の妾と密通し、それぞれ隠し子を1人ずつもうけたが夫人に露見してしまう。
激怒した夫人から妾と子供を殺すよう迫られた戚継光は、1日だけ猶予をもらい部下であった夫人の弟を呼びだし「妾たちを許し、子供を養子として引き取るよう明日までに姉を説得しろ。さもなくば、お前もお前の姉も、お前の一族も全員殺したうえ自分は官職を辞し世捨て人になる」と脅した。弟は泣きながら夫人を説得したため、夫人は仕方なく隠し子を引き取り、母親である妾2人には杖罰五十を加え追放するに止めた。

これを聞いた世間の人々は、戚継光の深謀を称えると共に、彼の恐妻家ぶりを笑った。


39: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/28(水) 23:53:59 ID:VrroZAlQ0
33 :<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん :2007/02/27(火) 16:34:34 ID:wC/s1QVm
明の時代に活躍した武将に戚継光という人物がいました。
戚継光は指揮官として非常に優秀で、各地で戦い、大きな功績を上げていましたが、大の恐妻家で、家では妻に頭が上がりませんでした。

ある時、戚継光は部下の兵士たちを集めて、こう言いました。
「世の中で女房ほど恐ろしい者はいない。女房を恐れない男こそ真の勇者である」

そして、こう指示しました。
「女房が怖い者は私の側へ来い」
すると、兵士たちは次から次へと戚継光の方へ走り寄っていきました。

そんな中、1人だけその場に立ったまま、動こうとしない兵士がいました。

その兵士に向かって、戚継光は本当に感心した面持ちで言いました。
「お前こそは、真の勇者だ。女房が怖くないとは全く見上げたものだ」

すると、その兵士はもごもごとした口調で答えました。
「すみません、将軍のお話がよく聞こえなかったんです。話が聞こえない時は、その場でじっとして動くな、と女房に言われているものでして」

40: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/04(日) 02:01:23 ID:m+WLZ/K20
戚継光は夫婦喧嘩のために軍隊が出動する騒ぎになったとか何かで読んだが
誰か詳しい人がいたら教えてください。

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/12(月) 12:28:00 ID:ZNNluy890
夫婦喧嘩で軍隊出動の件は知らないけど、戚継光夫人の王氏は、自ら軍勢を率いて倭寇と戦ったこともある、相当な女傑だったらしいね。

25: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/17(金) 13:42:30 ID:Ih508dKX0
明代の英雄

建国前後の創業期の英雄
靖難の変前後から永楽年間の英雄
中葉期の英雄
末期から滅亡後にかけての抗清戦に身を投じた英雄

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/28(土) 09:47:45 ID:wSm6AfN70
倭寇との戦闘の記録を読んでもどれが真倭でどれが偽倭なのかよく分からない。

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/04(月) 13:05:06 ID:dC0XunPP0
前期倭寇の方はそれなりに日本人が多かったのかな?

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/23(土) 06:32:43 ID:+F7or5MU0
>>28
後期倭寇の10の内3人が日本人である。これは非常に少ない。

という趣旨の記述が明史日本伝にも認められるから
少なくとも前期倭寇構成員の半数以上は日本人だったんじゃないかな?

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 23:57:11 ID:CIdK8T8W0
確か元寇の復讐で始めたんだっけ? 倭寇活動を

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 09:39:11 ID:CIHZPdyb0
松浦党最強伝説・・・

31: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 11:18:23 ID:PnKMZmIa0
日本人で、中国人風の名前を名乗った者もいただろうね。

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/24(日) 14:08:04 ID:Q6O7nQuv0
少なくとも最初に発生した倭寇の主力は日本人だったんだろうね。

松浦党あたりが中核だったのかな?

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/28(日) 01:32:38 ID:x1RbvUlz0
倭寇とは「日本の海賊」というように呼ばれているが、倭寇の構成は、日本人よりも現地人の方が多かった。
朝鮮王朝実録の『世宗実録』二十八(1446年)十月壬戌条によれば、「然其間倭人不過一二而本国民仮著倭服成党作乱」とあり、真倭は一割、二割にすぎず、残りは我が国の民であるとする記述があり、前期倭寇も後には高麗末期の高麗人による反乱が、多数、倭寇として加わっていたと記されている。
同様に『明史』でも、日本人の倭寇は10人の内3人であった(「大抵真倭十之三」)と記されている。
『高麗史』では「倭寇」を真似るものとして禾尺・才人、すなわち穢多の存在を伝えているが、実際には新羅後期に跳梁した張宝高(弓福)や、女真界に根をはり謀反で高麗王朝を倒した李成桂一家のような私豪族も、同様の海賊行為を行っていただろうといわれる。
峻厳な身分社会の閉塞感の中、たんなる抑圧の発散だけでなく、自作の混乱に乗じて立身出世を謀るものも多かったろう。

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/02(金) 23:56:35 ID:IZtifpwf0
倭寇の航海能力ってどんなものだろう。

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/17(土) 21:09:13 ID:rVE4gBJs0
そんなに大きな船じゃないけど、明の沿岸へはわりと自由に行き来していたんだろう。
船は大きいから航海能力が優れているとは限らない。

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/18(日) 17:43:07 ID:q+I1BGu30
倭寇鎮圧のために投入された苗族やチワン族は倭寇以上にとんでもない代物だったらしいな

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/29(木) 15:25:54 ID:bup2r0A20
倭寇の脅威ってのもかなり誇張されているからねえ。
小説だと、将軍の命を受けて派遣された武士とかが出てきて、まるで日本の正規軍みたいだw

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/29(木) 19:30:46 ID:2sOPwm6L0
そんな小説もあるんだw

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/01(日) 23:31:02 ID:u0s7QLxJ0
>>44
中国の武侠小説じゃ、明代の倭寇はモンゴルの遊牧民と並んで、格好の外敵だからね。

45: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/30(金) 03:36:16 ID:f4V5r5jR0
管領の細川の許可をえた貿易船が大内のとかち合って寧波で暴れたってのがなかったかな?

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/01(日) 23:31:02 ID:u0s7QLxJ0
>>45
寧波事件だねえ。
あの程度で暴れられてしまった明軍もかなり情けないけど。

47: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/02(月) 13:51:48 ID:pOaBx5nj0
1523(嘉靖2)年5月の寧波争貢事件か。正確には倭寇の話ではなく、遣明船貿易の話だね。
細川氏が新興の堺商人とむすび、博多・門司の商人と結ぶ大内氏と対立した事が背景にあるんだが、国内での対立関係をそのまま外国に持ち込み、多くの中国人をも巻き込む大争乱となったので、遣明船貿易にたいする規制措置が強化されることになる。

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/02(月) 17:07:29 ID:BFY1CJKP0
向こうの人が倭寇扱いしても無理からぬ挿話だな

76: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/11(月) 13:38:11 ID:dQJob7070
割り込みスマソ。ちょっと参考文献あげとくね。

>>1-15、47、49 参考文献:中国近世史-明代史- 佐久間重男 法政大学通信教育部

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/18(金) 21:17:26 ID:3gWhZThV0
大内氏が独占して、莫大な利益を上げる勘合貿易に対して、尼子氏は海賊と手を組んで非正規の貿易の形で割り込もうとした、って展開だったかな?

54: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/23(水) 23:57:03 ID:Izw1qIy70
勘合貿易の拠点となった博多は、当時の全国で、京都に次ぎ、堺を上回って人口第2位の都市だったみたいだからね。

その代わり大名同士の争奪戦も激しく、何度も焼かれたみたいだけど。

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/27(日) 19:44:36 ID:in+HSxMh0
日本じゃ火縄銃が全盛だったけど、こっちじゃどんな戦い方だったの?

56: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/31(木) 20:59:38 ID:E0acTzMA0
北方辺境だとこんなのとか

黄仁宇『万暦十五年』より

「敵を迎え撃つ時は、騎兵が前方で敵軍を阻み、戦車が戦闘隊形をつくるに十分な時間を稼ぐ。そして敵軍が接近してくると、騎兵は戦車隊の中へ退却する。敵の騎兵が百騎以下の場合、この混成旅団はがんとして交戦しない。大軍の敵騎兵が襲撃してきて、火器の射程の中およそ二百五十尺以内に入った時に初めて、仏朗機・鳥銃・「火箭」などの一斉射撃を加える」
「火器がその威力を発揮したあとは、歩兵が戦車の後ろから跳び出し、肉弾戦の波状攻撃を加える。その際、ラッパの音で歩調が合うよう指揮をとる。敵の攻勢が挫かれ、その隊形が乱れ始めると、騎兵も全員、戦車の後ろから出撃する。この騎兵は、事実上むしろ馬上の歩兵とも言うべく、地上の歩兵と同様、鴛鴦陣の隊形をとり、さまざまな武器を手に戦う。隊伍を組んで突撃し烈しく迅速に相手を圧倒するモンゴルの騎兵戦法を、戚継光は真似しなかった」

57: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/01(金) 18:04:08 ID:Og72aSZM0
戦車ってそのころでも存在してたのか
なんか春秋戦国なイメージがあるんだが

60: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/02(土) 00:22:50 ID:hsxZFuK80
日本の戦国時代のように鉄砲によって戦術が革命的に変わったのって中国じゃいつ頃の戦いなんだろう
中国の鉄砲は精度が低かったらしいが

61: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/02(土) 02:05:39 ID:LVD4Easa0
>>60
弩の軍事使用の長い伝統があったからあまり革命的には変わらなかったかも

65: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/03(火) 21:12:04 ID:hL68PXbX0
日本に、種子島へ鉄砲を伝えたのも倭寇の一部みたいなものだったようだしな。

66: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/08/01(水) 22:52:33 ID:UqOxNWRz0
王直ね

67: 名無的発言者 2007/08/26(日) 12:43:33 ID:WA9aOkRw0

王直は倭寇の親分だった。なんで中国人が倭寇の親分だったのかと言うと16世紀当時倭寇の大部分が中国人だったからだ。では何で倭寇の大部分が中国人だったのかと言うと当時の中国を治めていた明が【海禁】つまり海外貿易禁止令を出したからだ。これにより海外貿易業者は自動的に犯罪者になってしまった。
これは福建省や広東省のような農業生産額が低く貿易しなければ生きていけないような省にとっては死活問題だった。やむなく彼らは官憲の眼を逃れて密貿易をするか、又は武装して官憲に抵抗した。これが後期倭寇である。当然貿易業者の王直も倭寇ということになるが彼は別に和服を着ていたわけでも日本式の家に住んでいたわけでもない。九州の平戸に中国式の大邸宅を建て日常も中国語を使っていた。

68: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/24(月) 08:24:42 ID:c9oRKVOf0
倭寇って沿岸部の官憲とはかなり馴れ合っていたと思う。

73: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/09(日) 23:58:37 ID:ewBiEKHN0
鄭和が南海に遠征した時も、パレンバンの陳祖義とか、かなり華僑がいたようだね。

74: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/08(金) 10:04:08 ID:V03vGzlh0
やはり朱元璋の海禁と関係が?

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/08(金) 21:44:00 ID:UEoy0e2m0
陳祖義は広東出身で、洪武年間に罪を犯して一家で海外逃亡した口らしい。

ただ、朱元璋は、天下統一の過程での敵対勢力はかなり弾圧しているから、それで海外へ弾き出された連中も多いだろうね。

77: しらべもの 2008/08/19(火) 10:23:04 ID:wdq5zSAE0
今、戚継光の生涯や思想を調べようとしているのですが、日本語で書かれた書籍が全く見当たりません。何とかしたいのですが、どなたか日本語の参考文献を教えていただけませんでしょうか。

78: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/02/15(日) 01:33:25 ID:SKSD7mZ80
>>77
半年以上たってからのレスであれだが
黄仁宇「万暦十五年」の「孤独な将軍戚継光」という章が邦語ではいちばん詳しいかと。

引用元: ・【対決!】明代英雄伝【後期倭寇】



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