51wrzSaCAQL



1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/04(火) 20:08:42 ID:92tE0V9x
一時は天下人とまで言われた三好氏を語るスレです。








2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/04(火) 21:35:33 ID:igXsOXiU
一族がそこそこ優秀だから、あそこまで行けたんだろうね。
家臣が優秀な織田氏と比較すると面白いかも。

3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/04(火) 21:46:15 ID:UaExLThu
織田との違いはやっぱり一族に依存しすぎたところかな?
とはいえ松永兄弟は例外だが。

4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/04(火) 23:59:56 ID:rV911KYu
長慶四兄弟の最盛期なら信長といえど手は出せないだろうね。
久秀が信長に寝返りそうだけど。

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/06(木) 13:17:43 ID:HPo1UOz5
三好って一応家として残っていたの?

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/06(木) 15:35:27 ID:KojK1AQ9
>>12
長慶の叔父康長かな、比較的残っているのは
この人秀次を養子にしてるが、晩年どうなったか不明

一方、十河存保の方は子の存英が流浪の後、大坂の陣でさよなら

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/06(木) 16:43:32 ID:CYJIaV5e
>>12
政勝の流れは徳川幕府下で旗本として残ってる

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/06(木) 16:49:21 ID:KojK1AQ9
ごめんなさい、その通りです

政勝→河内国讃良・河内・錦部のうち二千二十石ですね

16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/06(木) 20:21:01 ID:55S2EG9B
政勝は三好宗家からすると異端だからなあ。他の人で残った人っていたの?

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/06(木) 20:55:47 ID:JLSuW/Ck
河内に二千三百石拝領している三好房一というのもいるけど、どういう人物かはよくわからんな。

政勝以降の旗本三好って、同じく旗本の真田や小笠原との婚姻関係があったりして系図を見ていて意外に面白い。

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/07(金) 00:57:36 ID:wTnXiHq0
>>18
三好房一の家系は、三好康長の家臣。
三好康長とともに織田家に降り、三好康長-三好秀次(豊臣秀次)と代替わりして
秀次が切腹・廃絶になった後、秀吉の直臣旗本となった。
その後、家康の関ヶ原直前の東下に随伴し、家康の時代も引き続き旗本として存続した。

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/07(金) 15:31:36 ID:4/7hER/w
房一は朝鮮の役、関ヶ原で活躍しているみたいだね


24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/09(日) 14:27:49 ID:G26lHRGI
長慶の評価ってなんでこんなにも低いんだろうな。
伊達や北条と同クラスでも何ら不思議はなさそうだが。

そのうち「何故三好長慶は人気がないのか?」
ってスレが立ちそう。

25: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/10(月) 13:11:59 ID:PO1TbmLd
三英雄の次でもいいくらいだ。

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/10(月) 23:46:34 ID:qsRzjOSv
>>24
最後がかっこ悪いからじゃね?

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/10(月) 13:17:20 ID:PO1TbmLd
■ 三好長慶FAQ ■

@三好長慶って誰?
三好元長の嫡男。1522年生まれ。政治や連歌に秀でたことで知られます。
父の戦死により、10歳で家督を相続。11歳の時合戦の調停をしたのが、最初の業績です。
1539年、幕府御料所河内17ヶ所を要求して許されず、晴元打倒の兵を挙げた。
その後、摂津国江口に政長を敗死させて晴元政権を倒し、将軍父子を追放して畿内を制して入京する。
1551年、幕臣の進士賢光によって、重傷を負わされるという長慶暗殺未遂事件が発生。
賢光はその場で切腹した。
その後六角義賢の調停で義輝と和睦が成立し、長慶は御供衆となり、晴元が出家し、細川の家督は氏綱が継ぎ、将軍が入京する。
しかし再び不和となり、洛中の霊山城で義輝・晴元と戦って勝ち、更に摂津国 芥川城を陥して本拠とし、独自に畿内を支配する体制(三好政権)を築いた。
後版図を拡大し,山城・摂津・丹波・和泉・淡路・阿波・讃岐及び播磨・伊予の一部を細川氏綱・松永久秀・同長頼・三好義賢(実休)・同(安宅)冬康・十河一存ら一族諸将を配して治めた。
1558年に義輝と交戦し、やがて講和して京都を明け渡した。
しかしその後、弟義賢の戦死、十河一存の病死、嫡男三好義興の病死と不幸が相次ぐ。また松永久秀の讒言によって弟安宅冬康を殺してしまう。
そして、自身も43歳の若さで病死する。(毒殺説あり)

@長慶が死んでから三好家はどうなったの?
長慶の甥で養子になっていた、三好義継が13歳で家督を相続。
しかし、三好三人衆と松永久秀の対立や信長の侵攻により1570年、三好宗家は滅亡。阿波に三好長治がいましたが、細川真之によって殺害されました。

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/10(月) 15:27:41 ID:WyUk/f9Y
派手な勃興の割に、地味だねえ

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/10(月) 15:57:29 ID:z438m1Hw
之長、元長の苦難の上に、長慶の成功がある
長慶が急に出てきたわけではない

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/10(月) 21:29:45 ID:BKDfU8Q/
>>28
親父殿あぼん+所領もあぼんしているんですが。

若かりし頃の長逸の懐に抱かれながら、幼い長慶兄弟は阿波へ落ちたんだろうなあ。

31: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/10(月) 21:33:17 ID:hsZNh6SG
阿波の本領は変わらずあったし
守護の持隆は三好に友好的

ゼロではないよ

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/10(月) 23:35:02 ID:1yMZVDZh
戦国大名の後継者としての戦国大名デビューじゃない以上ゼロといっても過言じゃないでしょ。
一部の例外を除いて、ある程度の所領がないと戦国大名にはなれないし。
それに長慶がゼロじゃないなら北条や島津はかなりの数になる。

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/13(木) 00:09:27 ID:i7zBlcn9
三好三人衆と美濃三人衆ってどっちが強いかな?

54: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/13(木) 10:15:24 ID:ETosxN5M
計略やらせりゃ三好三人衆
合戦やらせりゃ美濃三人衆

57: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/13(木) 15:39:39 ID:AHjEoA4W
長逸、政康、友通は一時的にせよ、義栄を擁してたから
早々に敗れるし、二度と浮かび上がらなかったけどね

58: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/13(木) 18:39:30 ID:TyfDpMFq
片田舎の武将の仲良しクラブと比較される三好三人衆(つД`)

64: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/14(金) 02:31:01 ID:3oksyIlb
三好三人衆の動員数や政治力は、(西)美濃三人衆よりはるかに上。
比べるのが変。

67: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2006/07/14(金) 21:34:36 ID:RUILMdTW
三好三人衆も、ひとりヤケにどうでもいいのが混じってるし。

71: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/17(月) 03:10:30 ID:th8t3KkK
岩成の出身は阿波なの?あんまり聞かない名前だよね

篠原が上洛した話は聞いたことあるけど合戦の話は聞かないなあー強いの?
岩成 友通(いわなり ともみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。三好氏の家臣で、三好三人衆の1人。三好長慶の奉行人として頭角を現し、三好政権の中枢を占めるに至った。三好政権における出世頭ともいえる人物である。

72: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/17(月) 12:02:22 ID:IPPJeD+l
>>71
阿波から二万の大軍を率いて堺に上陸して、久秀をびびらせたという話ならあるけど。 

73: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/17(月) 13:57:21 ID:aqaZob6i
Wikipediaの長房の項に悪評の強い人物とあるが
長房が悪評強いなら戦国武将は全員悪評じゃないか?
篠原 長房(しのはら ながふさ)は、戦国時代の武将。三好氏の家臣で阿波国麻植郡上桜城主。篠原長政の子。

三好長慶の弟・三好実休の重臣であり、実休討死の後は遺児・三好長治を補佐して阿波において三好家中をまとめた。三好氏の分国法である新加制式の編纂にあたるなど、能吏として知られる一方で、阿波・讃岐両国の軍勢を率いてしばしば畿内へ出兵した。

74: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/17(月) 19:08:55 ID:IPPJeD+l
>>73
正直、酷い話だと思った。
四国で行政に励み、長慶の死後久秀の専横が目立つと、これを抑えるために渡海して、暴政を敷く長治を何度も諌めて、最後には讒言で殺された悲運と忠義一筋の武将なのに、そりゃネーヨ。

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/17(月) 19:24:34 ID:N+qCds66
>>73
それが正しいのかどうかは知らんが「悪評が強い」のは別におかしくないと思うが?
世間的に悪い評価が多い、て話であって小早川秀秋が本当に裏切ったかどうかは別としても嫌われてるのと同じような話だろ?

76: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/17(月) 22:17:40 ID:o3wCFCAj
篠原長房に悪評があること自体知らなかった訳だが

77: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/18(火) 14:59:00 ID:m7hwnA5l
義賢に仕えた際も最初は義賢のことを快く思っていなかったとも聞くし長房は真面目な武将というイメージしか浮かばない

話は変わるが三好家自体は一般的には悪評が強いけどよく考えれば父親の仇討ちをしたに過ぎない
俺から見れば足利義輝と細川晴元のが悪評イメージは遥かに上だなぁ

82: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/18(火) 21:17:29 ID:mNqdw0Hv
>>77
ずいぶん勝手な言い草だな。仇とっただけならなんで政権を握り続けたんだ?
将軍にでも返せばいいじゃん。まさか将軍に政権担当能力がないなんて言わないよね?
そんな言い訳は通じないよ。

下克上しといてきれい事も何もないじゃん。豊臣家を潰した家康みたいに堂々としていればいいんだよ。誰にも遠慮する必要はない。
実力で晴元も義輝も越えたのだから評判なんて気にするのは野暮だろう。

83: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/18(火) 21:31:52 ID:GBXflpo6
>>82
義輝は長慶と晴元が争ったときに晴元についたわけだが。
そんな奴に簡単に政権を返したらその後どうなるかどうなるかは予想つくと思うが。

実際晴元が出家した後は京都を幕府に返したわけだし、晴元に見切りをつけるのが遅すぎた義輝も義輝だろ。

88: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/19(水) 20:41:56 ID:629u2Lyc
>>83
それだけ晴元が見込みがあったって事か、もしくは三好では晴元以上にないがしろにすると思ったんだろう。ちょっと三好の都合のいいように考えすぎじゃない?

123: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/23(日) 00:03:59 ID:nDra/8oQ
信憑性には多少問題があるけど、「平島記」の記述を信ずる限り義輝暗殺は三好家主導。松永氏の当主久通はそれに従っただけ。

124: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2006/07/23(日) 00:35:34 ID:A3lZEOAM
三好家、というのは誰を指すのかが問題だ。

125: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/23(日) 00:45:42 ID:nDra/8oQ
動いてるのは三人衆の長逸。ただし、長治も義輝を親の敵として憎んでるようで、そういう意味では長治かも。
「此上は三好一家中として代を乱し(将軍を替えて)、尊公を一度天下に居(据え)、御会稽をあらはし(恨みを晴らし)」
と書かれてる。

127: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/23(日) 01:03:52 ID:nDra/8oQ
「平島記」を引用した方が早いかな。長いから要点だけね。

「永禄六癸亥年秋、三好日向守周防国へ下て義冬へ申けるは、
(中略)
さて高政・喜三両陣は将軍の御はからいにて御座候、実休儀は尤悪逆の者にて候間、御にくしみ有も理にて候、別儀もなき我々を御にくしみ有事以外候、然上は我々行末とても不可然候、彼是時節到来仕候、此上は三好一家中として代を乱し、尊公を一度天下に居、御会稽をあらはし、我々一家も身安穏置申度候、
(中略)
実休男長治阿波国ニ居候へば、曾て幼少ニ御座候、其上父実休も尊公御事は粗略にも不奉存候、又彦次郎も今将軍を親の敵と存候故、尊公へ少も別儀は無之儀ニ候、早や思召立候得と、其為 一家中より某御迎ニ下レ候と、色々理をつくして申ける故、義冬満足有之・・・」

以上。事実かどうかはさておき、理由は一応納得できる。
ただ、今谷明氏の「戦国三好一族」ではこれに触れられてないんだよね・・・

136: PcSmAP03 2006/08/03(木) 01:08:23 ID:djGRg9l+
四国の大名というイメージが無いですね。
畿内での勢力が凄かったんで。

137: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/03(木) 07:06:22 ID:d1ek7Oy2
>>136
四国を取っても経済的なメリットは無いけど、畿内にはそれがありますからな。

138: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/03(木) 14:50:56 ID:ZZeon/Lu
所領は阿波と讃岐

畿内は堺からの収入が主でしょ

139: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/06(日) 19:39:47 ID:GQhiWH7c
なんで十河は跡継ぎがいたにもかかわらず改易されたのかわからん

144: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/07(月) 15:07:39 ID:FggHl6Cy
生駒親正ひどいな
千松丸は哀れ

生駒 親正(いこま ちかまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。

親正は讃岐国の前国主であり戸次川の戦いで討ち死にした十河存保の嫡男・千松丸を預かって養育していた。天正15年(1587年)に親正が秀吉の前に千松丸を同行し参上した際、「存保ほどのものの子にわずか3千石」との秀吉の発言により、にわかに元の2万石で復活かと十河家の遺臣らは取沙汰していた。しかし、千松丸は15歳で元服を迎える年に病死した。そのため、秀吉の前で千松丸とともに舞を披露した親正の甥・大塚采女ら生駒側による毒殺ではないかと噂された。これは一説には、生駒家に敵対するものが、生駒家を貶めるために行った謀略との説もある。


145: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/08(火) 14:58:57 ID:GlL63NCG
長宗我部ヲタはやたら存保を目の仇にするけど改易されたのが生駒の所為だというのを知らないからなんだろうな。

146: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/08(火) 17:47:20 ID:HkMZLUTr
それだけじゃなく、長宗我部側の軍記だと存保は戸次川で仙石の指揮を支持していることになっているからね。
信親の仇みたいに思われているフシもあるんだろうな。
三好側の軍記だと存保も元親と一緒に反対している事になっているのだけど。

147: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/08(火) 21:17:57 ID:Gcf/5DBw
でも戦後一時的にでも千松丸が十河を継いで生駒が後見人になったってわけじゃないんでしょ?

存保が死んですぐ改易ってことはやっぱり>>146みたいなのが秀吉の耳に入ったのかも・・

そんで生駒が旧三好勢が家再興を考え出すと面倒だから千松丸を暗殺

149: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/08(火) 23:14:26 ID:V/B+Uuuu
>>147
改易されたのは確か千松丸が暗殺された後だったと思うけど。

俺は存保ほどの武将が仙石の意見に賛同したとは思わないが(とはいっても一緒に反対したとも思えない)
仮に賛同してたとしても三好と豊臣の関係は織田政権時代からだし
長宗我部との因縁も考えるとそのぐらいで改易になるとは思えないんだよな。

150: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/09(水) 03:09:44 ID:13puMtTU
だよな
十河はもはや秀次の一門といってもいいわけで存英の存在もあるし改易はないよ
信長横死で四国攻めは中止
援軍として送られた仙石はあっさり敗退してまた延期
結局大坂に逃げる羽目になってやっと長宗我部討伐できたと思ったら九州でまた仙石がry
しかも改易
散々な扱われ方をされて
それでも最後は大坂方につく十河勢(´・ω・`)

152: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/09(水) 11:27:03 ID:GeWVXUIP
>>150
秀吉の強い意向かもね。
軍事的/商業的に瀬戸内海の掌握を重視してたようだから。
伊予でも西園寺公広が戸田勝隆に謀殺されてるし、病死と言われてきた河野通直も死因に不審ありという話があったりもする。

十河自体には水軍や瀬戸内との強いゆかりはないと思うんだけど阿波三好系の血と言うのが邪魔だったのかな。
四国征伐の時点ではずっと織田、豊臣方だったから潰せないだろうし。

158: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/16(水) 14:17:41 ID:vfkCscDO
大西元武って武将はやはり三好家の家臣なのかな?
どうして徳島じゃなくて愛媛なのかも気になるね。

159: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/16(水) 15:24:04 ID:ikvzIPD7
大西氏が細川氏の家臣だったのは間違いないだろうけれど三好氏の家臣と言えるような活動をしていたかどうかは知らない。
山間部の国人なので比較的独立性は高いだろうし、従属関係よりも同盟関係にあったとしてもおかしくはないかも。

元々伊予の東二郡は細川氏が分郡守護として支配を確立していた。
そのため阿波と伊予の国境にいた大西氏は伊予の宇摩郡あたりには影響力を持っていた、ということはある。
本拠地の白地で抵抗して滅ぼされた後に落ち武者が来てそれを祭ったとかそういう謂れがあるのでは?

160: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/17(木) 16:04:42 ID:/ztd8l/G
大西系図によると、元武の母は細川勝元の妹となっているそうだ
子?の頼武の母は、三好長慶の妹と
本当なら相当の名門だ

けど、阿波志によれば、大西頼武の子頼包は長宗我部に従うとあり、系図の頼武は討死、子の頼晴は長宗我部元親に攻められ討死と矛盾

それから長宗我部に攻められ、伊予に落ちた説もあるみたい

161: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/19(土) 11:57:49 ID:jqLF8V6P
>>160
妹何人居るんだ?
利休の妻くらいしか知らない。

162: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/19(土) 21:22:40 ID:aNoCMvZE
>>161
一般論で言えば親族衆や有力家臣の娘を養女にして嫁がせる例はいくらでもあるので妹は無限にいるとも言える。

349: 人間七七四年 2007/03/26(月) 19:28:01 ID:3EbQxblz
>>161
持ってる本では妹は5人って書いてある
芥川孫十郎室
有持道慶室
一宮成助室
大西頼武室
海部宗寿室

利休の妻は長慶の義妹ってなってるけど
ちょっと微妙な本だから信憑性は不明w

168: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/24(木) 01:44:20 ID:83bgWxoF
よく長慶が「ちょうけい」
って読まれるんだがなんでだろう?

信長公記を「しんちょうこうき」って読むのは半世紀以上も後のことだし



169: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/24(木) 06:51:48 ID:iIdr6lUy
>>168
かつて高貴な身分の方の名前は音読みで呼ばれていました。
多分、それかと。

170: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/24(木) 09:28:40 ID:CVq/b1me
長慶天皇の影響?

172: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/24(木) 15:36:42 ID:F2YBw/H/
>>170
江戸期→大正まで、即位したorいやしてないでもめてたほどの方だから戦国期に知名度はないでしょ

173: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/24(木) 17:09:01 ID:9+BBhxyn
>>172
戦国期に既に「ちょうけい」読みされてたの?

江戸期にはしっかり「ちょうけい」って書かれちゃってるね。

178: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/25(金) 08:03:03 ID:LxK57JJa
>>173
あの頃は、人名を音読みすることは多々あった。
漢文・漢詩も普通に通用していた時代だからね。
正しい読みを知りつつやっている場合のほかに、読みを知らずにやっていることもある。
また、手紙などに自らが親しみを込めて自分の名を音読みして署名したり、主君が親しい家臣を音読みで呼ぶこともあった。

171: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/24(木) 13:42:37 ID:8An1lEcU
ぶっちゃけ単に語呂がいいからだと思う。

179: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/25(金) 10:36:53 ID:gC+YxcWA
まぁ、中国っぽく読む事が、貴人の証なのよね。
おそらく、中国人=貴人みたいな一種のコンプレックスみたいなものだったんだろうね。
今じゃそんなものは全然無いが。

例えば、明治の伊藤博文も年配の方(80才90才ぐらいかな)なら「はくぶん」って読むよ。

ただ、なぜ戦国期の人間で長慶だけが、音読みで残ったのかはまったくわからん。

182: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/26(土) 14:43:51 ID:MS85cFmB
政長の人物評って、みなさんどうなの?

183: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/26(土) 20:10:07 ID:G0g3vicS
長慶派からすれば仇だから、悪い奴ってことでしょう。讒言で元長を追い詰めた。

実際には茶人でもあったし、そんなに横暴ではなかったのかも。

184: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/27(日) 05:15:03 ID:c5AvRxc4
>>183
>実際には茶人でもあったし、そんなに横暴ではなかったのかも。

松永久秀も織田信長も茶人ですよ・・・

187: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/28(月) 15:20:08 ID:m1Tzt+JD
細川晴元からみれば、政長ー政勝親子は、頼れる存在だろうけど、長慶から見れば、親の仇+宿敵だなあ

188: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/28(月) 16:17:27 ID:uhIaAmI2
「細川両家記」によれば、政長が江口の戦いで討たれたとき「天罰自滅と世上に申候也」とある。やっぱり良くは思われてなかったんじゃないかな。
死に様も無様な部類に入るし。

189: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/28(月) 16:26:55 ID:7QqsVhkV
両家記の筆者が三好側の人間だから、必然的に政長の記述は辛口になってしまいがちな気がする

引用元: ・【畿内】三好氏総合スレ【四国】



三好一族と阿波の城館 (図説 日本の城郭シリーズ)
重見高博 石井伸夫
戎光祥出版
売り上げランキング: 268,580