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1: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:19:32 0
イドリースィーが学び、イブン・ルシュドが思索し、イブン・ハズムが恋愛を語った豊穣なアル=アンダルス。政治史・軍事史はもちろん、社会史や文化史でもネタは沢山あるぞ。
711年のウマイヤ朝軍上陸から1492年グラナダ陥落、1614年のモリスコ追放完了まで、存分に語れ! 


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アル=アンダルス史~イスラム統治下のイベリア 









2: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:20:05 0
邦語文献一覧
・アンダルス史関連
W.M.ワット『イスラーム・スペイン史』岩波書店、1976(※絶版)
余部福三『アラブとしてのスペイン』第三書館、1992
D.W.ローマックス『レコンキスタ』刀水書房、1996
安達かおり『イスラム・スペインとモサラベ』彩流社、1997
Ch-E.デュフルク『イスラーム治下のヨーロッパ』藤原書店、1997
R.フレッチャー『エル・シッド』 法政大学出版局、1997
K.B.ウルフ『コルドバの殉教者たち』刀水書房、1998
近藤仁之『スペイン・ユダヤ民族史』刀水書房、2004

・通史
立石博高編『新版世界各国史 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000
立石・関・中川・中塚編『スペインの歴史』昭和堂、1998
3: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:20:34 0
180 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/05/04(水) 18:40:24 0 
スペインの中世考古学で興味深い分野は農村部の灌漑システムの発掘だろう。 
古代ローマ末期の都市の衰退から、イスラムの統治、レコンキスタを経て領主支配の封建社会、と社会制度がかわるにしたがって灌漑システムの運用の仕方も変遷し、それが雄弁にシステムのデザインにも変化をもたらす。 
さらに各時代での新たな技術・東方からの目新しい作物の導入が加わり、小規模エリア内でのエコ・システムの人工的な変革(もともと半砂漠気候の南スペインに亜熱帯の極小気候帯を作り出す)を行い、地域経済・社会に大きな変化をもたらした。

4: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:21:17 0
258 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/05/25(水) 19:46:46 0 
アル・アンダルスでは灌漑農耕が盛んであり、レコンキスタ後の史料を見る限りでも、元々灌漑地であった土地がどんどん乾地農耕である小麦畑へと姿を変えていっている。イスラム教国が北部キリスト教国から小麦をかなり輸入していたデータもある。つまりアル・アンダルスでは相対的に小麦の耕作面積は小さかったのかな。 

部族的なつながりのある農業共同体の社会であるアル・アンダルスでは、農民たちが政策的に、富の蓄えが出来ない灌漑耕作物(野菜とか果実とかね)を意図的に集約して作り、余剰生産の多くは都市市場への売買を目的とし、封建領主の出現を防いでいた、という説もあるけど・・・。 

じゃあ、アル・アンダルスの食生活はどうだったの?かなりバラエティに富んだ、バランスの取れた食生活だったみたいだけど、主食は何?知ってる人、教えて。 

↑こういう情報って、本屋で買える本には出てこないよな? 
どこで入手するの? 

12: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 03:14:06 0
>>3 
日本では手に入らないかも。現地では盛んに研究されてるよ。 
M.Barcelo、P.Guichard、A.Bazzana、A.Malpica、T.F.Glick、L.Bolens 
あたりが詳しいかも。 

大都市には政府高官や貴族のレクレーション・耕作地であるAlmuniaが点在し、集約的な耕作方法で東方からイベリア半島に持ち込まれた目新しい作物の実験的な栽培が行われ、その地の気候に順応させてから普及させた。

72: 世界@名無史さん 2005/06/11(土) 13:04:34 0
>>4 
亀レスだが、デュフルク『イスラーム治下のヨーロッパ』によると、主食は 

「細かく刻んだ肉と豆類で適度に味付けされた、小麦粉かセモリナの濃いスープと一種のポリッジ(麦粉を牛乳・水で煮詰めた粥)が基本的食べ物であったようだ。(中略)しかし下層の民はソラマメ、エンドウあるいはヒラマメのスープを主食としている。また野菜と薬草の入ったバーミセリ(極細にしたスパゲティ様の麺類)入りポタージュも愛好された。(中略)小麦か大麦のパンが常用されたが、アル・アンダルスではマグレブから小麦をかなり輸入していた」 

とある。ただし、上記はシチリアとアンダルス双方のことを述べているし、そもそもデュフルクは出典をめったに明らかにしない人なので、慎重に読む必要があるが。 
副食は肉(生・乾燥肉双方)、魚(塩漬けアンチョビー等)、野菜(生食も盛んだった)、フルーツ(生食・ジャム・ドライフルーツ・ジュース等)など、やっぱりヴァラエティに富んでいたらしい。貧乏人はマメ類と黍ばっかりだったらしいが。

5: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:32:58 0
灌漑といえば、バレンシア周辺の大耕地(ウェルタ)。今でも稲作してるよね。パエーリャはもともとバレンシアが本場。 
16~17世紀初頭のモリスコ追放までは、イスラム教徒たちが農業を支えていた。追放のせいでバレンシアでは人口が3割も減ったらしい。

22: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 23:40:55 0
>>5 
バレンシアの灌漑はその起源をイスラムに求めるのか、それともローマ時代にまで遡るのか、いまだ論争しているんではなかったか? 
確かローマ時代の灌漑のローテーションを記した板だったかが発掘されたはず。 
ただし、起源を探るその論争自体、不毛なものだ、と揶揄する意見もあるのだが。 

7: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:40:08 0
後ウマイヤ朝時代に、アル・アンダルスにサトウキビが持ち込まれた。

289: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2005/09/11(日) 09:43:42 0
アルハンブラ宮殿は何度見ても壮麗だなあ。
現役だった当時はもっと絢爛だったことだろうよ。

しかしレコンキスタ後もよく破壊されずに今日まで残されたもんだ。
Vista_de_la_Alhambra

290: 世界@名無史さん 2005/09/14(水) 00:34:19 0
イベリアは西ゴート王国時代にワインのための葡萄園が多かったがイスラム教徒の征服者たちはワインから収入を得ると非難されると思って放ったらかしにしといたとか。
で、レコンキスタまでは農民が領主もいないまま勝手にやってたと・・・

295: 世界@名無史さん 2005/09/27(火) 18:01:18 0
>>290
マラガでは葡萄の生産はかなり大規模に行われてて、特に干ブドウは内外に名を馳せていて、遠く近東まで輸出されていた、ってきくよ。大部分は干ブドウ用だが、近隣の消費者用に果物としてのブドウ、また一部にはワイン生産用にも耕作されてたらしいね。
ワインは建前としてはキリスト教諸国への輸出用とはいうものの、もちろんアル・アンダルスでも消費されてたって。

297: 世界@名無史さん 2005/09/28(水) 22:07:55 0
「ムハンマドが禁止したのはワインだけ」と無茶な解釈をする人もいる。

304: 世界@名無史さん 2005/10/21(金) 12:20:59 0
>>297
キリスト教徒との差別化を図るためワイン禁止。
砂漠気候のところでアルコール飲むと脱水症状がより悪化し死んでしまうからというのが現実問題。

豚は寄生虫があるので、生焼けー昔は燃料そうそう使えなかったーのを食べれない。

306: 世界@名無史さん 2005/10/27(木) 15:28:23 0
>>304
あと酒販売してるユダヤを儲けさせないために説もあるよね。
じつは初めは「控えめに」だったのが最後は禁止になる

298: 世界@名無史さん 2005/09/28(水) 22:34:26 0
イブン・ハズムも酒宴の席を詩ってるよね。

301: 世界@名無史さん 2005/10/19(水) 02:20:58 0
スラヴ人の宦官。
サカーリバ男奴隷は全部キン抜き。
バレンシアの町でキン抜き。

302: 世界@名無史さん 2005/10/19(水) 10:55:28 0
サカーリバ全員が去勢奴隷というわけでもナイだろう。
サカーリバとは、スラヴ人、特に中世アラブ世界や中東や北アフリカやシチリアやアンダルスにおいてスラヴ人奴隷と傭兵を意味する言葉であった。

317: 世界@名無史さん 2005/12/07(水) 01:46:48 0
>>308
「サカーリバ」ということばは、奴隷というよりも「東欧の、主にスラブ系の、主に非キリスト教徒の人々」ぐらいの意味に取った方がいいんじゃないかな。
「主に」をつけたのは、バルト系や一部テュルク系も場合によってはそう呼ばれたから。イブン・ファドラーンは、ヴォルガ・ブルガール人たちをサカーリバと呼んでる。
まあアンダルスでは、非キリスト教系東欧人はほぼ例外なく奴隷か奴隷の末裔だろうから、サカーリバ=奴隷という解釈で問題ないかもしれないけどね。

303: 世界@名無史さん 2005/10/20(木) 20:13:12 0
侍従マンスールについて詳しく

326: Aamir1 2005/12/15(木) 23:20:40 0
>>303
アル・マンスールことアブー・アーミル・ムハンマド・イブン・アブドゥッラー・イブン・アビー・アーミルの伝記

938年アルヘシラスに生まれる。アラブの古い家柄の出身で、祖父はイシュビリーヤ(セビーリャ)のカーディーを務めている。
コルドバで法学を学び、ワズィール(宰相)であるアル・ムスハフィーの推薦でハカム2世の后スブフの財産管理人に取り立てられる。以後スブフの寵愛を受けて重職を歴任。

973年にガーリブ将軍のモロッコ遠征に参加、将軍と親交を結びつつ軍事を習得。

976年ハカム2世が死去すると、すぐさまスブフの子ヒシャームをカリフに擁立(2世)、その功でワズィールに就任。まもなくガーリブの婿となって接近し、ハージブ(侍従。アンダルスでは宰相より上位)に就いたアル・ムスハフィーを失脚させ、978年自らハージブに就任。コルドバ郊外に宮殿アッ・マディーナトッ・ザーヒラを建設、政府機能を全て移動させてカリフを政治から隔離。

981年にはガーリブを敗死させ、独裁体制を構築。このとき、al mansur bi-llah(アッラーにより勝利を授けられた者)というラカブを名乗る。996年には、反ムハンマドの動きを見せた母后スブフ一派を粛清。

327: Aamir2 2005/12/15(木) 23:21:18 0
ムハンマドはガーリブとの対決の前からベルベル傭兵を呼び寄せており、またサカーリバやキリスト教徒傭兵を用いて陣容を充実させた。この兵力により、981年にガーリブの援兵であるナバーラ及びカスティーリャ兵を破ったのをはじめ、985年バルセロナを劫掠、988年レオン・サモラ占領、1000年にも北部キリスト教勢力の連合軍を破るなど、「生涯57の戦いに勝利した」と形容されている。

中でも997年のガリシアに向けて行われた遠征において、西欧最大のキリスト教巡礼地であるサンティアゴ・デ・コンポステラと聖ヤコブ教会を徹底的に破壊・略奪したことはカソリック世界に大きな衝撃を与えた。彼の代にイベリア北部のキリスト教徒は大きく消耗し、ナバーラ王サンチョなどは娘をムハンマドに娶わせ、自らアッ・マディーナトッ・ザーヒラに出向いて臣礼を取るまでして勢力の維持を願った。
1002年、カスティーリャ遠征の帰りに病を得、メディナセーリで死去。

328: Aamir3 2005/12/15(木) 23:21:47 0
彼の統治は法の厳格な遵守と公正さに留意したものであり、独裁ではあったがカリフに取って代わる意志はなかったとされている。またコーランを筆写したり、ハカム2世の図書館から非イスラーム的な書物を選び出して焼却するなど、自らイスラームの守護者をもって任じた。
彼の死後、次子のアブドゥルマリクが1008年まで、三子のシャンジュール(サンチョの孫の意。母はナバーラ王女)が1009年までハージブとして君臨した。
しかし、子のないヒシャーム2世に対してシャンジュールが自分自身を後継者として指名させたことから反アーミル家感情が爆発し、市民のベルベル傭兵への反感とあいまって反乱が勃発。シャンジュールはベルベル傭兵にも見放され、反乱軍に殺害される。以後、カリフがめまぐるしく変わる動乱を経て、1031年には後ウマイヤ朝が滅び、アンダルスはターイファ諸国が乱立する混迷の時代に突入する。

318: 世界@名無史さん 2005/12/07(水) 02:34:25 0
アンダルス出身者には、ファドラーンに負けない旅行記の執筆者がいる。

イブン・ジュバイル Abu 'l-Husayn Muhammad ibn Ahmad ibn Jubayr
1145-1217。バランスィーヤ(バレンシア)生まれ。マッカ巡礼の帰りにシリアや十字軍統治下のパレスティナ、ノルマン朝シチリアを訪問、美文調の旅行記を残している。
旅行記は、関西大学東西学術研究所が翻訳を出版している(が高い)。

アル・ガルナーティー Abu Hamid al-Andalusi al-Garnati
1080-1170。ガルナータ(グラナダ)生まれ。中東各地をはじめ、ルーシ・ヴォルガブルガール・フワーリズムなどユーラシア内陸に足跡を残した。

320: 世界@名無史さん 2005/12/10(土) 09:44:16 0
ガルナティの旅行記は誰か訳してくれんかねえ
ネットでちょっと検索したところ、ハンガリーでゲーザ2世配下のムスリム兵にイスラム法学を講義したり、ロシアのリャザンで毛皮交易の様子を見聞したりしてたらしい。面白そうなんだが

325: 世界@名無史さん 2005/12/15(木) 21:35:04 0
旅行記といえば、15世紀のドイツ(オーストリア?)人医師、Hieronymus Munzer(Jeronimo Munzer)のグラナダ王国征服直後(1494年)の描写が興味深いね。

355: 世界@名無史さん 2006/04/20(木) 00:13:14 0
>>352
かなり昔に読んだんで、詳細までは覚えてないけど、グラナダ王国のモリスコ達の生活習慣、服装などが細かく描写されてた。

357: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/05/04(木) 19:53:39 0
当時って普通にイベリア半島の人間と侵入してきたイスラム教徒との混血ってあったの?

358: 世界@名無史さん 2006/05/04(木) 20:18:42 0
キリスト教徒がムスリマの嫁を貰うことはめったになかったろうが、ムスリムがキリスト教徒の嫁や妾を持つことは当たり前にあった。
また、イスラムに改宗したイベリア半島人がアラブ人やベルベル人と通婚するのも普通にあった。混血しまくりでしょ。

360: 世界@名無史さん 2006/05/05(金) 00:55:14 0
>>358
ムスリマは夫が改宗しない限り結婚できない
ムスリムは異教徒が嫁でも結婚できるし、その子はムスリムとして育てられるという風にきいたが、理解としてはこれであってる?

361: 世界@名無史さん 2006/05/05(金) 01:51:47 0
>>360
イスラム法学的にはそれでおk。
でもイベリアでは、キリスト教徒と結婚する女性が改宗してキリスト教徒になってしまう例(ナバーラ王室に嫁いだカスィー家出身女性など)もまれにあった。

362: 世界@名無史さん 2006/05/05(金) 11:41:27 0
>>361
加えてレコンキスタ進展以降は普通の庶民もイスラムからキリスト教に改宗したり、結婚の際相手をイスラムに改宗させるのではなく自分達がキリスト教に改宗したりしている。
結局イスラム法学の建前はともかく、実際は両勢力のパワーバランスで決まった。
イスラムが弱ければ如何に法学者が喚こうと自主的および結婚に伴うクリスチャンへの改宗は増加していった。

359: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/05/05(金) 00:41:11 0
てことは今のスペイン、ポルトガルの人々にはかなりアラブ人、ベルベル人の影響があるってこと?ポルトガル人の2,5%には黒人の影響があるらしいよ
あと東欧の人々にも北アフリカ系の影響があるらしい。

369: 世界@名無史さん 2006/07/30(日) 20:05:29 O
中公新書「西ゴート王国の遺産」鈴木 康久 著を読んでいます。

法律などがメインですが、ローマ・カルタゴの植民からレコンキスタまでの歴史も簡単に通して紹介されています。

私は割と分かりやすい記述だと思うのですが、このスレ的な評価はどんな感じでしょうか?

372: カラジチ ◆mWYugocC.c 2006/08/18(金) 13:22:45 0
>>369
名前が全部スペイン語で統一されてるのが読みにくい……
ディオクレシアーノ帝って誰やねんっ!

373: 世界@名無史さん 2006/08/18(金) 19:33:35 O
>スペイン語
だよなw
俺としては、オノリオ帝とかアンニバルとかにツボった。

375: 世界@名無史さん 2006/09/05(火) 02:54:31 0
アンニバル=ハンニバル、は分かったが、オノリオ帝は一体?

376: 世界@名無史さん 2006/09/05(火) 03:28:52 0
ホノリウス?
とおもって読み返したらやっぱりホノリウスだった。
こーいう現地表記みたいな感じの本は面白いといえば面白いんだけどね…

378: 世界@名無史さん 2006/09/13(水) 06:43:25 0
HISPALIS
CAESAR AUGUSTA
TOLETUM
CARTAGO NOVA/CARTHAGO NOVA

379: 世界@名無史さん 2006/10/09(月) 18:24:33 0
イスラム王朝下でも、古来の地名を音写しただけだったんだな。
征服王朝だから、アラビア語で全く新しく無関係な地名を付けることもありえたろうにね。

381: 世界@名無史さん 2006/10/10(火) 01:38:59 0
>>379
そういえばファティマの奇跡で有名なポルトガルのファティマは純然たるイスラム起源(ムハンマドの娘ファーティマに由来)ですな。
イスラム的な名前を持つ村に聖母マリアが現われて予言し、カトリックの聖地になったってのが面白いけど。

382: 世界@名無史さん 2006/10/10(火) 11:05:02 0
>>381
ていうか、聖母マリア信仰も、エジプトの女神イシス信仰を、キリスト教に置き換えたものだが

383: 世界@名無史さん 2006/10/10(火) 17:31:27 0
ついでに言えばマリア(マルヤム)は、イスラームでも聖女の扱いをされているね。

384: 世界@名無史さん 2006/10/11(水) 05:35:23 O
分岐してから独自に発展し、大きな差異が生じているが、基本的に
イスラム教⊃キリスト教⊃ユダヤ教
だろ?

385: 世界@名無史さん 2006/10/11(水) 13:45:43 0
むしろケルトの大地母神が変化したものでは>マリア信仰。

北西ヨーロッパだけじゃなくて、スペインでも北のほうはそれがあると思う。

386: 世界@名無史さん 2006/11/04(土) 15:56:16 0
>>385
土着信仰を各地で吸収しているからな
迫害一辺倒じゃキリスト教の定着は無理だったろうから

380: 世界@名無史さん 2006/10/10(火) 01:18:29 0
10世紀に、ムスリム統治下のスペインから派遣されたイブラーヒーム・イブン・ヤークーブという使節が、シュレースヴィヒで聞いた歌声について、
「犬の吠え声に似ているが、もっと獣じみた実に恐ろしい音声」
と形容している。

中東の人間にとっては、ヨーロッパの音楽は非常に異様な感じに聞こえたらすぃ。

391: Ryuju ◆RlujhF6VrA 2006/11/07(火) 10:05:12 0
>>380
イスラム教では管楽器が好ましくないものとされてるらしいね。
ハディースの方に一箇所だけそういう記述があるそうで。

405: 世界@名無史さん 2007/04/01(日) 08:19:34 0
現存する最北のイスラム建築はどこの何という建物なんだろう?
サラゴーサのアルハフェーリア宮殿あたりかな? 
406: 世界@名無史さん 2007/04/02(月) 21:32:23 0
ナバーラのトゥデラはムデハル建築で有名だが、ムスリムが建てたことが明確な建物は残っているかどうか・・・
エブロ川流域は随分後までムスリムが根付いていたよな


引用元: ・アル=アンダルス史~イスラム統治下のイベリア