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1: 人間七七四年 2009/09/17(木) 13:18:42 ID:m29zloPe

関ヶ原に散った仁将、大谷吉継について語るスレです。



関連記事
【敦賀城主】大谷吉継  【刑部少輔】







273: 人間七七四年 2010/03/06(土) 18:52:28 ID:u/1YtcNi
茶会の逸話の出所は何なんだろうか?
江戸期の史料では見たことないんだよなぁ。
福本日南が『英雄論』や『豊太閤』で秀吉と吉継の逸話として書いているから、元が存在するはずなんだけれども…。

274: 人間七七四年 2010/03/06(土) 18:59:42 ID:tlEGd54O
>>273
自分もそれ以上遡れないわ
というかこの逸話、いわゆる逸話集的な物には一切載ってないんだよな
講談本にも無かったし近年の小説くらいでしか見ない

福本日南も他の逸話とかは出典書いてたりするのにこれについては書いてない
なんかの随筆とか当時の雑誌とかにのった小説とかそういうのの創作ネタのような気がする

275: 人間七七四年 2010/03/06(土) 19:03:07 ID:tlEGd54O
ああ、あと「英雄論」でも書かれているけど
そもそもは「史記」の呉起の逸話を下敷きにした話だし
元は秀吉を持ち上げるための逸話として呉起のネタを拝借して作られた逸話と思われる

276: 人間七七四年 2010/03/06(土) 19:59:38 ID:C3pthBD+
ライ病者の膿をウンヌンって話しは光明皇后の昔からあるしな
仏教説話にもあったような気もする

279: 人間七七四年 2010/03/06(土) 23:24:45 ID:BWWGXHbA
名将言行録と聞いたことがあるんだが、自分が持ってるのはニュートンプレス版で大谷の項がないんだよなぁ
原本の方にはあるんだろうか

281: 人間七七四年 2010/03/07(日) 00:30:33 ID:fVE+Dw5s
>>279
名将言行録には載ってないよ  

282: 人間七七四年 2010/03/09(火) 14:41:24 ID:PD5IsPJx
ところで、文禄三年に草津に吉継が湯治に行ったということなんですが
書状で「草津の湯は目に効いた」という類の内容を誰かに送っている、ということですが
誰宛の書状かわかる人はいませんか?

283: 人間七七四年 2010/03/09(火) 15:04:28 ID:p2lgi25X
>>282
草津の件は文禄3年10月1日付けの直江兼続宛です
ちなみに「草津の湯は目に効いた」とは書いてないです
湯治は満足いったという事と、眼病については
「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」とあり、目を悪くしていた事が伺えます

285: 人間七七四年 2010/03/09(火) 23:12:33 ID:tKUDnsNL
>>283
よかったらその手紙が何に載ってるか教えてくれないだろうか?
今個人的に吉継関係文書類のデータベースを作ってるんだけど、東大の大日本古文書のテキスト検索で出てこなかったんだよね

改めてまとめてると毛利と吉川広家宛の秀吉朱印状に出てくることが多いな
家が残ってるからそれだけ多いのかもしれないけど、毛利・吉川は吉継の担当だったのかね

286: 人間七七四年 2010/03/09(火) 23:47:33 ID:1n9w4H4p
>>285
自分が確認したのは木村徳衛の「直江兼続伝」
他に「温泉草津史料」第一巻所収との情報あり、こちらは未確認

毛利は輝元上洛の際にも接待勤めてるしね

287: 人間七七四年 2010/03/09(火) 23:47:48 ID:eiunHTOj
>>285
>>283ではないが、『温泉草津資料』の1巻に載ってる。

『大谷刑部のすべて』の発給文書にも、去年の歴史読本の吉継特集号に載っていた大谷吉継文書目録にもこの書状入ってないね。
(実は『大谷刑部のすべて』の関係史跡事典の方で紹介されているのだが)

297: 人間七七四年 2010/03/18(木) 18:45:47 ID:lvAS6Eb9
刑部の生年が1565年とすると真田に嫁いだ竹林院が娘なのか怪しい所だな
当時の婚期の早さを考えるとまったく有り得ないって話じゃないが

まぁ、秀吉子飼いの小姓衆では兄貴分的イメージがあるので心情的には1559年説を支持したいが

298: 人間七七四年 2010/03/19(金) 13:37:36 ID:bPwiQgG6
>>297
竹林院が嫁いだとされる文禄3年には吉継30歳
10歳くらいで嫁いだなら、幸昌を産んだとされる頃には16歳
もう少し早く生まれてた可能性ももちろんあるし、あと1~2歳若くても産める年齢ではある
特に問題はないと思う

206: 人間七七四年 2009/11/07(土) 07:17:30 ID:rDF9M0Fr
大谷氏の家紋って「対い蝶」と「違い鷹の羽」のどっちが正しいの?
「葵三代」や「天地人」とかの大河ドラマじゃ、後者として扱われてたように思うんだけど?

211: 人間七七四年 2009/11/08(日) 01:21:35 ID:QGsqYgsA
>>206
複数の家紋を有していたのは珍しい事じゃないから、両方使っていてもおかしくない
どっちも伝わってるには何かしら記録あっての事だろうね

302: 人間七七四年 2010/03/22(月) 01:35:04 ID:3zureqpW
>>211に複数の家紋を有していたのは珍しいことじゃないとありましたが、そうなんですか?

うちは母方の先祖が大谷吉継だという話ですが、家紋は違い鷹の羽です。
Wikipediaを見たら違い鷹の羽から対い蝶に代えたとあったので、母の実家に伝わってる家紋はなんで違い鷹の羽なんだろうと思っていました。

304: 人間七七四年 2010/03/23(火) 11:35:56 ID:EtR4ICbw
>>302
複数所有は珍しくないどころか普通

でも元々大谷吉継の家紋と言われている紋は、信憑性ある記録があるわけじゃなく後に描かれた屏風絵に有るからとか、その程度の物ではっきりしてません
それに家紋は自分でいくらでも変えられるものなので、家紋が同じだから、違うからだけで家系がわかるものでもないです
御子孫だと伝わるなら家紋以外にも何か所以があっての事だと思うので、家紋だけを気にする事はないかと

あとwikiにある違い鷹の羽から対蝶に変えた、という記述は以前このスレでとある吉継の子孫の方の家ではそう伝わっている、という話しがあったのでその所為だと思われます
このスレで出た内容がよくwikiに反映されてるので出典のように書かれている「古今武家盛衰記」にそんな記述は無いです

303: 人間七七四年 2010/03/22(月) 23:56:45 ID:gR5K6hfx
ちょっとした名のある家なら家紋を複数持ってる事は全然めずらしくないよ
でも一つの服やら家具やらに同時に沢山使う事はさほどないので>>302の家も、違い鷹の羽を表紋として使っていて、裏紋だった対い蝶がいつの間にか廃れてしまったとかそういう事もあったのかもしれない
実際どうだかは知らんけど

316: 人間七七四年 2010/03/29(月) 00:19:06 ID:5c3dJaUS
天正10年6月「刑部少輔との」宛書状は結局何なんだろうな?

もし本当に天正10年6月であれば、他の書状との比較から、そもそも天正10年6月というのが誤読か、吉継以外の刑部少輔宛としか考えられない。

まぁ、一番引っかかるのは書状に日付無しで年月しか書かれてないことだが…。

317: 人間七七四年 2010/03/29(月) 02:24:00 ID:ySLekSGi
>>316
年月しか書いてないのもわりと有るよ

日付が正しければ吉継以外の人物宛だろうね
でもそれだと宛名の敬称がひらがなの「との」なのと
位置からしてだいぶ目下の相手への書き方なのが気になる
この頃の秀吉にそんな扱い出来る刑部少輔って?

例えこの当時すでに吉継が刑部少輔だったとしても、天正11年の紀之介書状では使われていないのもおかしい

やっぱり日付が間違ってるか、この書状自体の信憑性が……という事では

318: 人間七七四年 2010/03/29(月) 22:27:56 ID:5c3dJaUS
脇差は褒美なのかお礼なのか分からないけど、そんな内容の書状で年月しかないのにちょっと違和感を感じたもので。

秀吉の花押があれば、それから何か分からないかなぁ?
花押の変遷なんかがあれば年代比定できるだろうし、まず花押で真偽が分かるかもしれない。

319: 人間七七四年 2010/03/30(火) 00:02:05 ID:WEVxxBqK
>>318
それが花押が無い。署名は「秀吉」だけ
「歴史研究」に載ってたのは原本じゃなくてコピーだし
すごく印刷が悪い(原本の状態が悪い?)ので見えないだけかもしれないけど

当時の秀吉書状でそういう署名の例がないわけじゃないのでなんとも

328: 人間七七四年 2010/05/27(木) 15:00:28 ID:ixHrYdLy
わかる人がいたら教えて欲しいんだけど、兼見卿記に出てくる北政所付き女房の「東殿」と「ひかし殿」は同一人物と考えていいんだろうか?

昨日、天理図書館報に載ってる兼見卿記を読んでたら、「ひかし殿息女」って記述があったんだけど、(文禄四年で25歳、太閤か北政所に仕えていたらしい)吉継母の東殿とこの「ひかし殿」が同一人物なんだとしたら、吉継の妹にあたる。
だけど、外岡先生の論文では華頂要略の記述が見つかるまでは、吉継妹の存在は認識されていなかったと書いてあった。
兼見卿記は吉継の病気の関係でよく引用されるから、知られてないのもおかしな話だと思って、やっぱり別人なんだろうかとか、一人で考えてるとわけがわからなくなったんだよね。

なんかわかりにくい説明になってすまん・・・

329: 人間七七四年 2010/05/27(木) 18:34:32 ID:rR8EflHE
>>328
同一人物の可能性高いね
秀次の侍女にも「東殿」はいるけど(連座して処刑されてる)
吉継研究は進んでないから、見落とされているだけかもしれない
だいたい「妹」なら下間系図の記述もあるが、特に取り上げられてる事も無いし

実は華頂要略にある妹「コヤ」だが、秀吉の発給文書で北政所宛の物の中に宛名が北政所の侍女の「こや」の物が数通あるんだ
なのでひょっとしたら華頂要略にある妹・コヤは、この北政所の侍女・こやと同一人物の可能性があるのでは?と考えてた

自分も気になるので良かったら兼見卿記のどこにある記述なのか詳しく教えて頂けないだろうか?

330: 人間七七四年 2010/05/27(木) 19:03:28 ID:ixHrYdLy
>>329
おお、ありがとう!
北政所侍女に「こや」がいるのか。
じゃあやっぱり同一人物っぽいなぁ。

「ひかし殿息女」の記述は天理図書館報ビブリアNo122のP73~74あたり。
文禄四年1月28日と2月1日の記述。
以下その部分抜粋

1/28
戌刻自大坂北政所被仰下了、ひかし殿文、当月廿五日太閤入御倉御道具盗取之、
未入御耳、此段御機嫌無別義、御祈祷之義、可抽懇丹之旨懇ニ承了、
予方へ之ひかし殿文也、然共与奪侍従之間、申聞侍従、御返事等調之、
又ひかし殿息女廿五才、御倉之御番也、今度御糾明不苦之様、祈念之義承了

2/1
ひかし殿息女廿五才、守調之、
ひかし殿より以飛脚文到来云、今度御倉ウセ物事、不及御糾明出之、
太閤御機嫌能、政所殿御祝着也、恩祈念之奇特ニ思召也、可存心安之由承了、
尤目出存也、安堵仕之由、御返事申訖、

332: 人間七七四年 2010/05/27(木) 22:09:23 ID:rR8EflHE
>>330
ありがとう、抜粋までしてもらってすまない
倉の番人か~

これは倉に泥棒入って失せ物があったけど、無事解決して良かった的な内容かな
わざわざ飛脚で結果を知らせてるあたり、かなり心配されてたっぽいね

文禄四年で25歳だと、吉継とは7歳、もしくは13歳も離れてる事になるのか

350: 2010/09/23(木) 04:13:00 ID:MAYSH71I
大阪の蔵を空けてかき集めた浪人集3万、5万を大谷はんに預けたら関ヶ原でも勝機はあった

この策を考えられなかった西軍は愚か

356: 人間七七四年 2010/09/29(水) 02:58:43 ID:nKIwtuV+
そんな烏合の衆を万単位で押し付けられたら吉継ブチ切れると思うわ

351: 人間七七四年 2010/09/23(木) 04:55:45 ID:SNT74Qdc
ぶっちゃけ、大谷さん嫌われていたのでは…
三成ほどではないにしろ。

353: 人間七七四年 2010/09/23(木) 15:17:42 ID:NVM9r0u/
三成以上に嫌われてたらお家騒動の仲裁頼まれたり和解の窓口になったり西軍に寝返ったことが衝撃になったりしないと思うぞ

伊達政宗には嫌われてたかもしれんが、あれは奉行衆とは全方位型で仲悪いから基準にならんがw
そういや川角太閤記では前田利長とはかなり親密な様子で書かれてたな
家康暗殺の嫌疑をかけられた時に和解のために奔走してるようだった
あれは前田家肝いりみたいなもんだからこの辺は信憑性あるかもねぇ

354: 人間七七四年 2010/09/23(木) 19:50:49 ID:moqAzlo1
>家康暗殺の嫌疑の際
この辺大谷が和解の為に尽力した件は「村井長時筆記」「象賢紀略」などにも記載あるみたいだね
そういやこの辺はまだ読んで無いや

さらに上杉征伐の際、家康の出陣命令について、利長は大谷に相談して家康の言うままに出陣をするよう決めたようなので、利長への窓口役もこなしてたんだろうね
まぁその後すぐに大谷は西軍ついちゃったからまた「西軍に味方してくれ」って書状出してるんで利長は気を悪くしたんじゃないかとか言われてるがw

ちなみにお家騒動の仲裁の件は最近出た「豊臣記の宇喜多氏と宇喜多秀家」がすごく詳しくておすすめ
宇喜多家の領国支配の体制を巡っての対立から起った騒動と結論されてるんだが
豊臣政権に依存し、その政策を支持し推し進める秀家サイドと対立して騒動起こした家臣サイドが、頼った所が豊臣奉行の大谷っていうのが、当時のポジション的にもいろいろと興味深い

355: 人間七七四年 2010/09/23(木) 22:02:26 ID:rsg8Yw1l
>>354
豊臣奉行といっても、あの頃はだいぶ家康にくっついてた頃だから恐らく「大老筆頭の徳川方」として頼られたのだと思う
一緒に事に当たってるのは榊原康政だし

このとき家康に怒られて手を引いた、ってのも
実際泥沼化していて二進も三進もいかなくなっていた頃だから、上から理不尽な怒られ方をしたから、という体裁を取ったようにも見えるんだよな
その後家康と距離を置いてるかといえばそうでもないところからみて

364: 人間七七四年 2010/11/24(水) 11:34:58 ID:xeMkItiR
質問があります。
石田三成襲撃に大谷が絡んでるそうですが、何故そうなったのでしょうか?

365: 人間七七四年 2010/11/25(木) 00:54:48 ID:CvqPwIZr
>>364
普通に豊臣奉行として自然な関与の仕方だと思ったが。

大谷の七将襲撃事件についての関与は、毛利元康宛毛利輝元書状『厚狭毛利家文書』に書かれているが

これによると三成は毛利、上杉に協力を仰いで襲撃側
(この書で輝元は「内府かた」と書いてる)と徹底抗戦する構えで、それについて大谷は輝元に対して、大阪城をすでに「内府かた」に押さえられてるなど既に戦うには不利な状況の為
「毛利が戦を引き受け三成に加担するのは無益である」と諌めつつも
「下屋敷に下がらず家康と対峙するように」
「人数合わせをするのがいい」と言っており、
軍事闘争は断念しつつも、和解交渉を有利にするために兵力を集めて表向き対抗の姿勢を崩さないのが良いだろうと言う事を言って来ている。

この時三成と一緒に五奉行の増田、玄以、(おそらく長束も)伏見城に籠っていた様でとくに増田は三成と同等なくらいターゲットにされてた模様。

つまり七将の襲撃は三成を筆頭に豊臣奉行全体も絡んでいた事件で、同じく豊臣奉行の大谷が奉行衆の為の行動をとっていてもおかしくは無い。

366: 人間七七四年 2010/11/25(木) 11:01:49 ID:wYRHK2+X
>>365
「関ヶ原前夜」の記述からだよな?
その辺は書状原文の解釈でちょっとニュアンス変わると思う
少なくともソースになってるこの書状では、大谷が奉行方かどうかははっきりしないんだよな
むしろ内府方として交渉に当たっていたと取れなくもない
「下屋敷に下がらずに家康と対峙」「人数合わせをして」云々も、ちょっとニュアンス的にこれで正しいのかわからん
というより、この部分が大谷の発言だったかどうかも曖昧だなぁ
この著者は「大谷が奉行方で軍事行動を起こそうとした」という前提で書いてるからこの解釈なんだろうけど
その前提を裏付けるものが提示されてないので、それまでとそれ以降の大谷の徳川寄りの行動を見ると
むしろ徳川方として和解の交渉役だったと見る方が自然な気はする
それ以前に大谷の積極的な関与が裏付けられたら疑問もなくなるが、今は裏付けがないのでこじつけ感はあるかな
あと前田玄以は確かこの時の伏見在番だったので、むしろ巻き込まれたと見ることもできる

367: 人間七七四年 2010/11/26(金) 00:05:21 ID:g4vAs7Py
>>366
「大刑少より申さる事に、下やしき罷り下るの由然るべからず候、内府向い面に成り候様に候との事候
(中略)
ただ引き取りて加担無益にて候、辻合わせ計り然るべく候との内意候」

↑だから、輝元が嘘書いてないなら大谷が言って来た事なんだと思うよ。解釈の違いがあるのはともかく。

確かにあの本は「大谷が奉行方で軍事行動を起こそうとした」前提で書かれているが、自分はそうは思ってない。
やっぱり前後の大谷の行動としては、一貫して徳川との軍事対立は避けようとしてる動きしかしていないからね。
上記の輝元への言でも戦う意思はなさそうだ。

ただその奉行衆や他大老たちと徳川方との軍事対立を避けようとする動きが、イコール徳川の為の行動としか取れないわけでも無いと思う。
秀吉死後ずーっと徳川の為に行動していると見たとすると、やっぱり関ヶ原直前の西軍加担があまりに唐突すぎると思う。
この辺の西軍入りについても諸説あるけど、あまりに唐突に見えるからなのは確か。

で、逆にあくまで豊臣奉行衆側としての考えで、徳川との軍事対立を避けようとしてたとも取れるんではと思った。
五奉行から外れているからか、この頃の大谷は奉行衆として数えないような扱いされがちだが直前の文禄3年頃までは三成、増田と並んで中枢に居た、後の五奉行達と変わらない位置にいた奉行であって、豊臣の人間として秀頼を立てての豊臣政権を守りたい気持ちは、他子飼い衆らと同じくだろうし
経歴、境遇からして同じくして来た三成ら奉行衆との方が、考え方も身の置き所も近かったと思った方が自然じゃないかな?

豊臣奉行衆と徳川以外の大老の力がちゃんと機能していれば、少なくとも徳川の政権乗っ取りが容易には至らないだろうとは考えられるしそういう方面からの考えなら、軍事対立で徳川以外の奉行大老らの力が削がれる事になるのは避けたいと考えてもおかしくないと思う。
まぁ徳川方との親交もあったようなので、徳川びいきな一面からも戦いは避けたいみたいな風にも思えるが。

ただやはり全て徳川の為と言う訳ではなく、派閥としてはやはり大谷も三成ら奉行衆派の一味だったんじゃないかなぁと、三成みたいに徳川絶対排除!みたいな意思は無いだろうが。

そういう一考から「関ヶ原前夜」の解釈も一理ありかと、なので七将襲撃の時のこの動きも徳川方に依頼されての使者だったとしても、大谷はあくまで「豊臣奉行としての関与」だと思った。

ただこの考えにもちょっと利家VS家康の時の状況が引っかかってるんで、まだなんとも。
この辺はまだ詳しくは未調査。

あと留守居役の玄以(+長束)が巻き込まれただけ、ってのは同意。

378: 人間七七四年 2011/02/18(金) 23:20:44 ID:ZBiznP6Y
大谷吉継はそもそも「フラフラしている」と評されるほど資料が残っていないというか、まとめられていない
今残されている資料をまとめて俯瞰すると、「どちらかというと徳川寄りの中立」と読むのが一番しっくり来る
個人的には、増田長盛と似たような立場だったと思ってるけどね

とはいえ石田派のはずの小西行長も息子に家康の養女を嫁に貰う予定だったから、そもそもその当時徳川と石田の対立自体がどこまで深かったものか再考の余地があるかもしれんと思う

379: 人間七七四年 2011/03/24(木) 09:58:00.92 ID:rknZfaAT
最近大谷さんのことを調べるようになったのですが、幼名は慶松ですよね?
読み方はけいしょう、よしまつなど書かれていたのですがどれが正しいのでしょうか?

380: 人間七七四年 2011/03/25(金) 00:16:02.26 ID:b/Jgw3tZ
慶松・桂松と両方説があるけど桂松の方が幾分通りがいいと思う
というか、吉継の幼名は逸話でしか出てきてないので本当のところは不明
なので「これが正しい」というのはないよ
「よしまつ」でも「けいまつ」でも「けいしょう」でも好きに読めばいいんじゃないかな

ところで名前といえば、「平馬」って通称は武功夜話から?他に出典あるんだろうか
自官ならまだしも、通称を数年で変えるってあるのかね

381: 人間七七四年 2011/03/25(金) 00:43:44.37 ID:xAeMe9IA
桂松は一柳家記にでてくる表記、慶松は草刈重継文書とか根来焼討太田責細記に登場する。
ちなみにどちらも「よしまつ」と読めるし、幼名は訓読みするのが一般的なので普通なら「よしまつ」かな。

草刈重継文書にでてくる「大谷慶松」が吉継の事かどうかは今イチはっきりしない所。
↑の慶松は例の秀吉の織田時代、中国攻めの時に草苅氏に寝返り要求した時の使者を務めた人間の名前ね。
時期的に使者やるには若すぎるっていう点さえなければ吉継でもおかしくないんだが。

一柳家記は後の記録だから、「慶松」が吉継なら字間違ってるのはこっちじゃないかと思う。

「平馬」は多分、古今武家盛衰記から。武功夜話よろしくこっちも内容は怪しいから当てにならない。
平馬は東百官の一つで江戸時代にはポピュラーな通称だが、流行り出したのは天正末期頃から。
吉継の生きてる同時代の史料にはいっさい出てこないし、吉継が使うにしては時期が合わないから信憑性は正直無いと思ってる。

引用元: ・【敦賀城主】大谷吉継 2【刑部少輔】



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