5123Ju314zL


1: 世界@名無史さん 2019/05/02(木) 20:50:27.95 0
中国史、モンゴル史に詳しい方もどうぞお立ち寄りください 


関連記事
高麗時代を語ろう 








206: 世界@名無史さん 2019/05/16(木) 19:15:44.79 0
ヴェトナムの君主もそうだったけど、高麗の君主は対内的には「皇帝・天子」を名乗ってたんだよな
高麗の君主を指す美称の一つには「海東天子」というものもあったんだったか

209: 世界@名無史さん 2019/05/16(木) 19:25:43.67 0
高麗の君主が「陛下」でなくなったのは、モンゴルに侵略されたから
モンゴルと縁が切れたはずの李朝は、なぜ「殿下」のままだったのか。 

213: 世界@名無史さん 2019/05/16(木) 19:47:48.50 0
>>209
明清帝国の五百年で、すっかり属国根性を刷り込まれた
とはいっても、明の時代は事実上の独立国
本当の意味で中国に「従属」するようになったのは、なんといっても清の時代

214: 世界@名無史さん 2019/05/16(木) 19:51:12.57 0

https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_
item_detail&item_id=11051&item_no=1&page_id=13&block_id=49


高麗では、建国後からしばらくの間、「詔」「制」「勅」など、本来、皇帝のみが使用しうる語を国王の命令語として用いていた。しかし、一〇世紀後半、高麗が宋の冊封をうけると宋に対する「事大」の礼を正すため、国王の命令語を、中国の礼制において諸侯が用いる語である「教」へと改めた。
その後、夷狄視していた契丹(遼)によって強引に藩属をせまられると、藩属によって失墜した国王の権威を回復するため、高麗はふたたび皇帝の礼制を用いるようになった。
高麗は元に対する僭擬を避けるため、一二七五年(忠烈王元)頃までに、王命の語「聖旨」を「宣旨」、王位継承者の称号「太子」を「世子」と自主的に改めた。また、官府・官職制度を大幅に再編し、それらの名称のうち、元と同一のものを改称した。しかし、一二七六年(忠烈王二)、高麗に駐屯して内政に干渉を加えていた元の達ダルガチ魯花赤(監督官)が、高麗国内で用いられていた王に関わる称号が元の皇帝に対して僭擬であると難詰する事態が生じた。
これをうけて、高麗では、王命「宣旨」を「王旨」、王の自称「朕」を「孤」、恩赦の語「赦」を「宥」、臣下から王への言上「奏」を「呈」と改称することを余儀なくされた。

この後、高麗末期(一四世紀後半)にいたると、中国で紅巾軍の反乱がおこり元の支配が大きく動揺し、それにともなって元の高麗への影響力も弱化しはじめた。この時期、高麗は元の覇権からの離脱をはかり、官府・官職の名称や礼制の一部を事元前のものへと復帰させている。しかし、こうした高麗のあらたな体制は、国内外で政変があいついだために安定せず、旧制へもどされた官府・官職の名称や礼制も再変更を繰り返した。

217: 世界@名無史さん 2019/05/16(木) 20:18:56.77 0
やはり、中国が分裂しているときのほうが、近隣諸国には幸せな時代

219: 世界@名無史さん 2019/05/16(木) 20:40:00.78 0
韓国の時代劇
吹き替え版では、家臣が王に「王様!」と呼びかけている。
原文では「チョナ」(殿下)。
でも吹き替え版で「デンカ」などと言えば、なぜ陛下ではなく殿下なのか、視聴者に説明しなくてはいけない。
それが韓国さんのコンプレックスを刺激してはいけない。
だから「王様!」で通している。

ところで、高麗時代が舞台の時代劇が日本で放送されたことはあるのかな
そこでは堂々と「陛下!」と言っているのかな

241: 世界@名無史さん 2019/05/17(金) 03:46:32.84 0
例えば、第6代景宗の時代から第8代顕宗の時代までを扱った「千秋太后」(2009年作品)だと、高麗君主とは対内的な皇帝なのか対外的な国王なのかという葛藤がかなりストレートに扱われていて
君主自身が称する一人称が朕なのか寡人なのかが君主各々の政治的理念に応じて時代ごとに揺れ動いたり敬称が陛下なのか殿下なのかについて重臣らの間で論争が起こる場面もあったりする

いずれにせよ、史実上、中期までの高麗の君主は対内的には皇帝や天子を称していた

281: 世界@名無史さん 2019/05/18(土) 10:09:23.29 0
朝鮮半島に封建制が根付かなかったのは何故?
武臣政権下では有りそうな感じがするが

武臣政権(武人政権とも書く)は、朝鮮半島における高麗王朝の統治下、1170年(明宗元年)から1270年(元宗11年)の100年間にわたり、国王や文臣ではなく武臣が朝廷の政治を掌握していた時代、およびその政権形態を指す。

283: 世界@名無史さん 2019/05/18(土) 11:16:15.99 0
>>281
高麗も、日本や西欧と同じような中世の封建社会へと順調に進んでいた
モンゴル帝国による征服が、国家体制を根本から変革した
モンゴルが去った後に残った明清帝国や朝鮮王国は、かつてないほど中央集権的で専制的な国家だった

282: 世界@名無史さん 2019/05/18(土) 10:49:32.95 0
高麗末期だと中央から兵員を返せと言われてるのに返さなくて自分の私兵にしたり
山川を基準に区画して勝手に土地を横領したり
充分封建制と言えると思うけどね

284: 世界@名無史さん 2019/05/18(土) 11:49:16.08 0
李氏朝鮮が中央集権的な体裁を取り始めた頃は世祖あたりで
それまでは大臣が家の子郎党を率いて宮中の警護にあたったり
平安時代末期の日本のような様相を呈していた

285: 世界@名無史さん 2019/05/18(土) 11:51:17.48 0
>>284
そうか、それなら、朝鮮王国の中央集権体制は、明に見習ったものと見るべきか?

153: 世界@名無史さん 2019/05/15(水) 22:42:00.44 0
せっかくだから、ネタを提供しとこう

数年前、カイカイ通信(有名な韓国専門の海外反応サイト)に、こんな記事があった

韓国人「高麗人はどのような暮らしをしていたのだろうか?」

http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/33415686.html

高麗は文献が乏しく、当時の事情を知るには宋の資料が頼り古代の倭国を知るのに、魏志倭人伝が頼りなのと事情が似ている

154: 世界@名無史さん 2019/05/15(水) 22:43:42.90 0
1. 韓国人(スレ主)

少し長いので、忙しい人は赤文字だけを読んでくれ
ここに記したのは、すべて中国の歴史の記録にある内容だ
画像は高麗時代の絵があまりないので、内容と合いそうなものを適当に貼り付けた

高麗は人口密度が高かった。高麗図経の記述された210万戸が正しければ、12世紀初めの高麗の人口は、既に1000万人ほどだった。人口密度に換算すると60人/k㎡であり、当時の宋の43人/k㎡より多かった。

●高麗の使者・郭元は言った。高麗の気候は中国と似ているが、寒い日が少なく、暑い日が少し長い方。(宋史)
●高麗は、土地自体は広くないが、人口は非常に多い。(高麗図経)

156: 世界@名無史さん 2019/05/15(水) 22:47:27.47 0
風習

室内では履き物を脱ぎ、人々は家柄を重視した。

●床の上にはござを敷き、室内では必ず靴を脱ぐ。(宋史)
●高麗の風俗は中国とは別の、野蛮な風俗が残っている。(朱子語類)
●高麗の人々は、家柄を重視する。(宋史)
●高麗は礼儀を備えているが、風俗は汚らしく無情て乱雑。冠婚葬祭を適切に行うことを知らず、唐の制度を大まかに模倣したものである。(高麗図経)
●民家の道具はほとんどが銅で作られている。(宋史)
●井戸は通常、河川の近くにあり、主にハムジバク(水などをくむときに使う木をくり抜いた容器)で水をくむ。ハムジバクの形は船の外観と似ている。(高麗図経)
●家には長い竿を立てることは、占い師であることを区別するための風習であったが、最近では、高麗の人々は悪霊を追い払うために一般庶民たちも家に長い竿を立てている。(高麗図経)

254: 世界@名無史さん 2019/05/17(金) 13:18:05.84 0
>>154
高麗図経の210万戸をちょっと見てみたけど、見つけられなかった。
どの辺に載っているんだろう。

287: 254 2019/05/18(土) 14:25:45.40 0
高麗図経は見つけられなかったが、あれこれ調べて、宋史の高麗伝に似たのを見つけた。
「男女二百十萬口,兵、民、僧各居其一。」とあった。

291: 世界@名無史さん 2019/05/18(土) 18:43:09.72 0

292: 世界@名無史さん 2019/05/18(土) 19:11:20.99 0
てことは、「高麗の人口1千万人」という話は、「戸数が210万戸」と見てたってことかな?

本当は人口210万人だったとすれば、たいしたことないな
いくら千年前の中世とはいえ、取るに足らない小国だ

294: 世界@名無史さん 2019/05/18(土) 19:27:12.60 0
元の総人口7千万人のうち
漢人が1千万で南人が6千万人

鎌倉時代の日本は6百万人

300: 世界@名無史さん 2019/05/18(土) 21:42:48.24 0
高麗の人口が210万のわけがなかろう
契丹が10万の大軍で入寇してきた時、高麗の将軍はその倍の20万の兵力でこれを撃退している
人口200万で20万の兵力を動員する事は物理的に不可能だ
かなりの人口を持った国であったのは確実

304: 世界@名無史さん 2019/05/18(土) 23:39:17.88 0
>>300
高麗と契丹の双方に言えることだけど、これって前線の実戦向けの兵力だけじゃなくて兵站線を支える後方支援ももちろん加味してあるんだよね?

307: 世界@名無史さん 2019/05/19(日) 20:16:44.09 0
>>300
下に載せた、これなんかを見ると、中央軍で4万5000、総勢でも14万と推定されているから、高麗史が盛ってると思うけど・・・。
(Wik「契丹の高麗侵攻」を見ると、約30万VS約40万というのもあるね。)

>高麗・朝鮮時代の僧軍と花郎道精神について - 国際日本研究専攻 - 筑波大学
>japan.tsukuba.ac.jp/research/JIAJS_Vol7_PRINT_04_Nishinaka.pdf

305: 世界@名無史さん 2019/05/18(土) 23:50:26.41 0
明が派遣した朝鮮救援軍も実際に日本軍と戦闘したのは10万程度だけど総数だと40万だからな
まぁ当時の輸送手段を考えると戦闘員の倍は輜重人員がいるわな

306: 世界@名無史さん 2019/05/18(土) 23:50:29.57 0
元ネタは高麗史姜邯贊伝の
「契丹蕭遜寧來侵兵號十萬時邯贊爲西北面行營都統使王仍命爲上元帥大將軍姜民瞻副之內史舍人朴從儉兵部郞中柳參爲判官帥兵二十萬八千三百屯寧州至興化鎭…」
だろうなまあ史書のを額面通りに捉える方がアレだと思うが

401: 世界@名無史さん 2019/05/26(日) 18:07:48.58 0
なかなか新羅や高麗の社会制度を論じた本やら論文ってのはなさそうだな
日本だと、上でも紹介されてたように、平安時代に社会構造がガラリと変わった話があったが

402: 世界@名無史さん 2019/05/26(日) 18:19:56.85 0
>>401
記録が無いんだよ

貴族の日記が山ほど残ってる平安時代とは比べるべくもない
たまたま訪れた中国人の記録から想像を広げるしかない、邪馬台国レベル

404: 世界@名無史さん 2019/05/26(日) 18:24:46.57 0
>>401
なんか、新羅末の動乱とか高麗の成立が日本の社会変動とほぼ同時期というのや、高麗で日本の武士の台頭と同時期に武人政権が成立しているのを見ると、朝鮮半島でも日本と同様の事が起きているんじゃないかな、という気がしてしょうがないんだけどね。
なかなか統一新羅と高麗の社会の中身の違いを論じたいい書籍に出会えない。

一般人向けの世界史総説の比較的新しいのというと中央公論社の「世界の歴史」の1990年代版のシリーズがあるけど、それでも朝鮮半島統一前の三国時代(伽耶連合を入れると正確には四国時代か)と李氏朝鮮はかなり詳細に扱っているんだけど、統一新羅時代と高麗時代はほぼすっ飛ばされている。

406: 世界@名無史さん 2019/05/26(日) 19:41:54.21 0
>>404
統一新羅史なら浜田耕策の「新羅国史の研究」でほぼ完成された感があるな
モンゴル以前の高麗の官僚制なら周藤吉之の「高麗朝官僚制の研究」がダントツで詳しい
朝鮮史ですっぽり抜けているといえばむしろ後三国時代なんだよな

407: 世界@名無史さん 2019/05/26(日) 20:39:58.64 0
>>406
そうだな、そういう面はある

当時の人々が残した直接の記録、一次史料が豊富なのが日本の特徴

当時の記録は乏しいけど、その代わり、国家が編纂した歴史書が充実しているのが中国・朝鮮の特徴

406: 世界@名無史さん 2019/05/26(日) 19:41:54.21 0
>>401
いくらもであるよ
とりあえずネットで見られるものでこのスレの住人が興味もちそうなやつだけでも
武官と文官―高麗王朝における均衡状態の模索
http://doi.org/10.15055/00002806

高麗・朝鮮時代の僧軍と花郎道精神について
http://japan.tsukuba.ac.jp/research/JIAJS_Vol7_PRINT_04_Nishinaka.pdf

高麗における軍令權の構造とその變質
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66795/1/jic070_291.pdf

高麗時代の「叛逆伝」研究IV
http://kiyou.lib.aichi-gakuin.ac.jp/pdf/kiyou_01F/01__37F/01__37_17.pdf

高麗の国家体制と公文書
https://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=81862

高麗事元期における官品構造の變革
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66901/1/jic079_063.pdf

高麗末に於ける立省問題について
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33298/1/14(1)_P123-167.pdf

高麗は宋を模範としていただけであって例えば「高麗の国家体制と公文書」を見ればわかる通り何時だれが何の役職についたかまで復元できる
ここらへん文章に残す慣習がなかった日本の武士政権とは対照的
伊藤正敏が指摘する通り中世の日本の古記録のほとんどは公家や寺社が残したもので
織田政権ですら具体的な税制や官制度についは同時代記録がほとんど残っていない

524: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 13:03:41.12 0
高麗国王も李氏朝鮮国王もあまり肖像画が残っていないな。日本だと天皇も将軍も肖像画がかなり残っているのに。

525: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 14:33:47.45 0
>>524
肖像画とは特定の人物の外観を描いた絵のことをいう。偉大な人物に倣い、あるいはこれを讃え、追悼する目的で描かれた。
記録によると、三国時代(紀元前1世紀~7世紀)から描かれたことが確認されるが、わが国で本格的に肖像画が描かれたのは高麗時代(918~1392)からである。

現在、残っている肖像画はほとんど朝鮮時代(1392~1910)に描かれたものであり、王、聖賢、国に功績のある臣下、両班、女性、僧侶などの肖像画が伝わっている。

(国立中央博物館)

526: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 14:36:22.31 0
書物・絵画・建築、どれをとっても新羅時代のものはほとんどない。残っているのは石仏くらいだ。

高麗だと、少しはある。

でもやっぱり、朝鮮半島で本格的な文化史を語れるようになるのは、朝鮮王朝から。

528: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 14:51:25.17 0
高麗の太祖は建国直後から高句麗の昔の領土を取り戻すための熱望から北進政策を推進した、高句麗を継承するという意味で国号を高麗ときめ高句麗の首都であった平壌を西京といい重要視して北進政策の基地とした。

太祖は各地方の規模の大きい豪族勢力を中央貴族として迎え、小さい規模の豪族は地方の統治を担当するようにした。

高麗の王権が安定して中央集権的体制を確立するようになったのは第4代光宗のときである。
光宗は後三国時代の混乱期に豪族らが不法につれていた奴婢を調査して元来の身分である平民に回復した。
また、光宗は中国の科挙制度を取り入れ有能な人材を選抜して官吏に登用した。
このような改革は豪族の基盤を崩すためのもので、結果的には王権が大きく強化された。

国家統治体制は成宗のときになって確立された。成宗は豪族が管理していた地方に中央官吏を送って直接治めるようにする一方、地方の豪族は郷吏(地方官吏)に編入させて統制した。

529: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 14:52:15.81 0
高麗は自らを皇帝の国だと考えた。これは高句麗の世界観を継承したもので、高麗が中国の支配を受けない自主国という自負心の現れである。
首都を皇帝の都邑という意味の皇都と呼び、王族や功臣たちに公爵、侯爵、伯爵などの爵位を与え、彼らを諸王と呼んだ。
高麗が独自の年号を使い、国王が円丘壇で天に祭りをささげた事も高麗が皇帝国であったことをあらわしている。
王室で使用する用語も中国の皇帝と対等であった。

ただ高麗が蒙古の侵略に屈服して元の干渉を受けていた時には各種の制度や王室用語そして廟号(王名)も諸侯国のものにさげなければならなかった。

530: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 14:59:02.15 0
高麗は、いにしえの高句麗を模範とし、自主独立の帝国を目指していたようだ
目指していただけでなく、実際に契丹の侵攻を撃退した
このため、明清への服属を抜きにして語れない朝鮮時代とは異なり、高麗を「我が国の栄光の時代」と見る朝鮮人も少なくない

531: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 15:34:50.38 0
10世紀の前半は、中国が五代十国の分裂時代

このとき、高麗とベトナムが、中華王朝からの歴史的な独立を実現した

532: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 15:42:01.60 0
とはいっても、唐も8世紀からは弱体化しており、新羅の服属は形式的なものにすぎなかったが

533: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 16:35:08.68 0
ベトナムは独立したけど高麗は違うだろ。
ベトナムは独自の暦を制定してるけど、高麗は中国が混乱し過ぎて宗主国を決められない
みたいな例外的時期以外を除いて、普通に中国の暦使ってるじゃん。

534: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 16:51:31.68 0
独立してたから
宋史や遼史でも日本と同じ東夷カテゴリーに分類されてるわけだが

535: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 16:58:57.53 0
別に正朔を奉じてても伝は立つだろ
天子

皇帝の支配は、空間(領土)の支配と時間(暦と年号)に及び、皇帝以外の者の支配は許されなかった。前漢の武帝は、太陰暦と太陽暦を合体した太初暦を制定。皇帝の下した暦を用いるのが、皇帝の主権を認めた証拠となり、これを「正朔を奉ずる」と言った。

536: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 18:23:01.47 0
宋史だと「列伝第二百四十六外国三」が高麗伝で丸まる一巻使って記述されてる
一方日本は「列伝第二百五十外国七」に流求、定安、渤海、党項と並んで併記されていて単独の伝が立てられてない

遼史だと列伝第四十五二国外記、金史は列伝第七十三外国下といづれも高麗が「外国」として扱われている
ちなみに両史には日本は伝すらたてられていない

539: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 18:51:12.51 0
>>536
それは日本が高麗と違って本当の意味で独立国だからだろ

537: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 18:24:15.43 0
正朔を奉ずるというのは致命傷ですわな。あれは毎年貰いに行くもので、そうしないと国内で暦を頒布できないわけだから。

「高麗が契丹を撃退した」なる神話は、かなり悪質だと思う。
結局、高麗は契丹に詫びを入れて朝貢隷属国になることで手打ちとなった。
撃退したわけでも何でもない。
ただ、試合が終わってからズルズルと工作を仕掛けるという、新羅とそっくりの悪癖をやってるけどな。

高麗は契丹に隷属した、という事実を認めないと、その先の李朝の異常な慕明事大主義も理解できないことになる。
隣に北宋があって中原が漢族政権なのに、高麗は北方への契丹への隷属を呑まざるを得なかった。
この、「北アジア勢にイヤイヤ隷属する」という高麗の経験が、李朝の異常な明崇拝の事大主義、そして三田渡碑への伏線になる(結局同じことをのむ羽目になる)

542: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 19:46:44.72 0
>>537
>ただ、試合が終わってからズルズルと工作を仕掛けるという、新羅とそっくりの悪癖をやってるけどな。

そもそも新羅の場合助けに来てもらった後で百済領と高句麗領の一部を分捕っておいて何故か 「唐の侵略を跳ね返した」ことになってるからなぁ

543: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 19:47:03.28 0
高麗が、国境付近で契丹軍を撃退した件は、韓国では「亀州大捷」と呼ばれて有名だ。
この高麗の圧勝により、契丹軍は「十万の兵のうち、遼に帰れたのは数千人」というほどの壊滅的な打撃を受けたとされている。

でも、ここが不思議なところなのだが、それほどの大敗を喫したばかりの契丹は、すぐに次の侵攻の準備を始め、それに対して高麗は、戦わずして全面降伏した。

この件に限らず、半島の歴史には謎が多い。

544: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 19:52:13.04 0
>「高麗が契丹を撃退した」なる神話は、かなり悪質だと思う。

相手側史料の「遼史」にも高麗に勝てずに軍を撤退させました
敵の策略にハマって滅茶苦茶人死んだので帰ります
とちゃんと書かれてるのにそれは無理あるやろ

蕭合卓等攻高麗興化軍不克,還師。(開泰六年九月乙)
蕭排押等與高麗戰於茶、陀二河,遼軍失利,天雲、右皮室二軍沒溺者衆,(開泰七年十二月丁酉)

海という防波堤がある日本と違って地続きで直で攻め込んでくる騎馬民族の大軍を相手するのはしんどすぎたのと軍馬の購入を女真族に依存しているという懐事情があって結局は冊封されたけど高麗遠征自体は遼の負けだよ

引用元: ・高麗時代史専用スレ



モンゴル覇権下の高麗―帝国秩序と王国の対応―
森平 雅彦
名古屋大学出版会
売り上げランキング: 722,142