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1: 世界@名無史さん 2005/07/10(日) 00:12:31 0
春秋戦国時代についてどんなテーマでも良いので、皆さんの知識や思いをぶちまけて下さい。 


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春秋戦国検討委員会 








303: 世界@名無史さん 2005/12/03(土) 00:20:45 0
趙は名将を沢山輩出している割には秦に押されまくりだな。

304: 世界@名無史さん 2005/12/03(土) 13:25:24 0
>>303
孝成王、悼襄王、幽王(遷)と無能な君主が三代も続いて、秦の宣伝やら佞臣の讒言で有能な将を更迭だの処刑だのしていれば秦に圧迫されるのも当然でしょう。

305: 世界@名無史さん 2005/12/04(日) 02:52:58 O
武霊王と恵文王は名君だったのになぁ・・・・

306: 世界@名無史さん 2005/12/04(日) 07:46:22 0
武霊王は歴史を変えてるから特にな

307: 世界@名無史さん 2005/12/04(日) 21:09:00 0
武霊王は息子に餓死させられたし、その息子恵文王は長平の大敗の責任の一端を背負ってるし、あまりいいイメージがない。

308: 世界@名無史さん 2005/12/04(日) 22:14:46 0
恵文王の責任って詐欺紛いの手で秦に割譲するはずだった土地をやらなかったこと?
あんなの、張儀のやったことに比べれば・・・・
所詮は勝てば官軍だよ。

309: 世界@名無史さん 2005/12/05(月) 09:20:10 0
武霊王はともかく、恵文王って何か歴史に名を残すすごい事したっけ?

311: 世界@名無史さん 2005/12/05(月) 11:31:27 0
基本的に藺相如、廉頗、趙奢におんぶにだっこ。だけど暗君ってわけじゃない。

312: 世界@名無史さん 2005/12/05(月) 15:12:44 0
桓公が名君扱いなら名君に入れても問題ないんじゃないかなーくらいかな

313: 世界@名無史さん 2005/12/05(月) 16:18:59 0
桓公は管仲のせいで評価に割を食ってるが自身も結構名君だぞ

314: 世界@名無史さん 2005/12/05(月) 16:28:04 0
藺相如があと5年健康だったら長平はなかったんだよなぁ。

315: 世界@名無史さん 2005/12/05(月) 16:39:21 0
藺相如が生きていても、流言ですぐに失脚させられてしまいそうだ
李牧が本当に優れた人物かみてみたかった。

316: 世界@名無史さん 2005/12/05(月) 16:56:54 0
長平で廉頗が更迭されたのって、藺相如が病に倒れてからじゃなかったっけ?
なので、暗君の評判高い孝成王も、藺相如が病に倒れるまでは趙はそれほど変なことしとらんかったのでは?

321: 世界@名無史さん 2005/12/05(月) 23:11:28 0
>>316
孝成王って李牧の扱いはものすごく丁重だったと思うが。

322: 世界@名無史さん 2005/12/06(火) 01:41:30 0
丁重というか、史料に登場する時点でいきなり北辺を統轄する地位にいて、独断で官吏を任命でき、幕府を開いて租税の裁量も自由という、大権を有していて少々疑問。
それまでに何か特別な武勲をあげてでもいる様でもなさそうなので尚更。

孝成王の時代は中原とは殆ど無縁で、たしかに信用されていたのか中央との軋轢などもない感じ。

というか孫の幽王が無能すぎますって。

317: 世界@名無史さん 2005/12/05(月) 17:05:04 0
平原君みたいな無能が実力者だったのも痛いところか。これが信陵君だったら…

318: 世界@名無史さん 2005/12/05(月) 20:50:48 O
平原君無能か?
十分有能だと思うが

320: 世界@名無史さん 2005/12/05(月) 20:56:43 0
>>318
長平の直接の原因は平原君の助言

327: 世界@名無史さん 2005/12/06(火) 20:50:57 0
>>320
平原君ってどうしても比較対象が信陵君になっちゃうから無能に見えるけど、それなりに有能でしょ。

長平の後、包囲された邯鄲を救うために楚に行って援軍を引き出したり、信陵君に「姉を見殺しにするのか」って何度も文を出して援軍を引き出したり、自身も兵3000人を率いて秦軍に攻撃を仕掛けて30里ほど撤退させたわけだし。

323: 世界@名無史さん 2005/12/06(火) 13:23:58 0
孝成王の趙括起用さえなけりゃ平原君の助言は素晴らしいもんだろ
あれで上党を手に入れてれば趙は韓の北半分を手に入れ元々軍事強国だったのに領土でも大国になるんだからな
問題は廉頗の更迭と後任の趙括の方針変更
遠征軍に対して持久戦を取らないってどんな天才なんだかな
まあ打って出ない前任者が更迭されたんだから自分は打って出ようと思うのは普通かも知れんが天才はそれじゃダメだろう
結局のところ趙括は天才じゃなくて秀才だったってこったな

325: 世界@名無史さん 2005/12/06(火) 16:48:59 0
にしても、病床の藺相如も趙奢の遺言でも趙括の母親もやめろといったのに趙括起用する孝成王はすさまじいな…。

326: 世界@名無史さん 2005/12/06(火) 20:27:16 0
>>325
孝成王も趙括も、先代が有能だった分、自分はそれより上であることを示したいという焦りがあったんじゃないかな。
だから積極的な政策、目立った戦果を求めてしまったんだろう。
楚の共王とか、日本史なら武田勝頼みたいに。

白起を倒すのが至難である以上、あのまま持久戦を続けて停戦に持ち込み、上党を半分なりとも獲得するというのがベターだと頭ではわかっていたのかもしれないが
だとしても、そのようにはできなかったんだろう

330: 世界@名無史さん 2005/12/07(水) 17:22:56 0
>>326
>白起を倒すのが至難である以上、あのまま持久戦を続けて停戦に持ち込み

秦では白起の投入を極秘裏にすすめ、情報を漏洩した者を死罪としていたところからみて、趙括は秦の司令官が王コツのままだと思っていた様に思うのだが。

331: 田単 ◆gm1aR3Q.f2 2005/12/08(木) 08:13:14 0
白起と信陵君が直接ぶつかっていたら、どちらの軍が強かったでしょうね。

332: 世界@名無史さん 2005/12/08(木) 14:31:03 0
>>331
白起じゃないの?戦績からしてケタが違う。
信陵君が強かったのは、六国連合軍を纏めうる人物だったからで、歴戦の名将であったわけではない。

333: 世界@名無史さん 2005/12/08(木) 16:45:52 0
戦法や陣形なども異なる六国を纏めるのも充分すごいと思うけどな。奇襲とはいえ趙を救ったこともあるし白起も信陵君も名将だから、直接戦いを挑むと言うことはなかったと思う。
小競り合いをして終わるだろうね。
名将同士だと君主の器が戦争に左右されるから、流言流布で秦の勝ちだと思うけどな。

334: 世界@名無史さん 2005/12/08(木) 16:46:59 0
秦の十八番ですな>流言流布

335: 世界@名無史さん 2005/12/08(木) 17:15:41 0
秦の流言流布がよっぽど上手かったのか、他の国がよっぽど鈍感なのか分からんがひっかかりすぎたよなぁ

336: 世界@名無史さん 2005/12/08(木) 17:20:49 0
秦以外に流言使ったのって、田単くらいしか思いだせん・・・

337: 世界@名無史さん 2005/12/08(木) 22:19:17 0
流言とかはともかく、楽毅は情報戦は得意そうだけどね。
あれだけの電撃作戦を成功させるには十分な下調べと刻一刻での情報収集が欠かせないだろうから。

340: 世界@名無史さん 2005/12/13(火) 00:50:15 0
呉越の争いって、もともとは子供のケンカからはじまったんでしょ?

341: 世界@名無史さん 2005/12/13(火) 09:21:30 0
>>340
子供のケンカから始まったと言われているのは、呉と楚の戦争だよ

342: 世界@名無史さん 2005/12/13(火) 14:19:31 O
まあ元々呉は晋が楚と戦わすためにつくられた国みたいなもんだからね

344: 世界@名無史さん 2005/12/13(火) 14:28:18 0
>>342
巫臣の話?
あの話をそのまま信じるのもどうかと思うが。
それに、当時既に強国となる兆候があったはずの国を作られた国なんて言い切っちゃうのもねぇ。

348: 世界@名無史さん 2005/12/13(火) 18:27:14 O
遠交近攻のさきがけだとはおもうけどね
楚も越と結んでいたとかいう話もきいたことがあるし

349: 世界@名無史さん 2005/12/13(火) 18:45:23 0
>>348
越っていつの間にか消えてしまったなぁ。
というか、脚光が当たったのが呉を滅ぼす前後のほんの一時期といったほうが正しいのか。

350: 世界@名無史さん 2005/12/14(水) 01:27:19 0
>>349
あやまれ、允常にあやまれっ!

351: 世界@名無史さん 2005/12/14(水) 01:35:03 0
>>350
死んだのがBC.496で、越が呉を滅ぼすたったの20年前だよ。
立派に呉を滅ぼす前後の時代に入っているだけど。

352: 世界@名無史さん 2005/12/14(水) 01:42:47 0
>>349
一応越の滅亡に関しては記事になっているけどね。
最後の王無彊が殺された後、琅邪に移って斉の庇護を受けつつ楚と対抗した一派もいたそうだ。
後の閩越、東甌も無彊の子孫ということになっている。

で、疑問が出てきたんだけど呉が滅亡あたりから越や楚が盛んに陳、蔡、莒、郯、滕、杞、魯などの国を滅ぼしながら山東地方に進出していくのはなぜ?
何らかの利点でもあったのだろうか?

354: 世界@名無史さん 2005/12/14(水) 11:16:58 0
>>352
逆に言えば、呉や越が猛威を振るうようになったから淮水下流域が注目されるようになったんじゃないの?
楚が漢水沿岸の諸侯を滅ぼしながら強大化していったようにさ。北方進出への通り道兼緩衝地帯になるし、強敵の存在しない地域は先に押さえた者勝ちだから。

353: 世界@名無史さん 2005/12/14(水) 09:44:51 0
小国乱立で草刈場になったんじゃなかろうか。

にしても、戦国中盤以降の魯はホントに影が薄いよなぁ。
東遷してきた楚にさくっと滅ぼされたくらいしか印象がない。
諸侯相手に暴れまわった宋はともかくとしても、周や衛でももう少し見せ場があるのに。

359: 世界@名無史さん 2005/12/20(火) 03:15:19 O
そういえば、いつのまに越って覇権を失ったんだ?

360: 世界@名無史さん 2005/12/22(木) 12:10:21 O
最初から掴んでないだろ

361: 世界@名無史さん 2005/12/22(木) 16:38:27 O
あれ?句銭って覇者になってなかったの?

365: 世界@名無史さん 2005/12/23(金) 15:32:23 0
春秋五覇は世界七不思議みたく複数の説があるが、斉桓晋文だけは絶対に入ってるからな。しかもその2人は実際に会ったことがある。

367: 世界@名無史さん 2005/12/24(土) 00:00:38 0
正式にというのは、春秋時代の覇者の明確な定義に合致するか否かと、周王の認定をうけたか否か、のふたつ。
このふたつを満たしているのが斉桓晋文のみってこと。

複数説というのは、主に孟子説と荀子説のふたつ。

368: 世界@名無史さん 2005/12/24(土) 14:41:38 0
趙の武霊王は、中山制圧に時間かかったけど、長生きしても秦に勝てるか疑問だ。

369: 世界@名無史さん 2005/12/25(日) 13:22:18 0
武霊王の形振り構わなさがあれば長平の趙括器用なんぞ無かっただろう
それだけで歴史は大きく変わるぞ

370: 世界@名無史さん 2005/12/25(日) 19:17:59 0
ただ武霊王の治世が長く続いていたら、藺相如や廉頗や趙奢の様な人物が史実の様に高官に抜擢される可能性が怪しくなってくる。

377: 世界@名無史さん 2005/12/29(木) 19:51:37 0
白起は、実質的に楚と趙を滅ぼしたと言っていいのに中国人は足の引っ張り合いとか、縦横家の屁理屈で途中で中断するんだよね。

414: 世界@名無史さん 2006/01/05(木) 20:20:38 0
呉起は、あれだけ勝ちまくったのに、1つも敵を滅ぼしてない。
白起にもいえる事。

415: 世界@名無史さん 2006/01/05(木) 20:24:45 0
春秋戦国は途中で攻め勝っても、論客がしゃしゃり出て中途半端な和議結ぶからな。

416: 世界@名無史さん 2006/01/05(木) 20:41:16 0
始皇帝はなんで論客に負けなかったの?

417: 世界@名無史さん 2006/01/05(木) 20:45:27 0
始皇帝も一度、ろうあいの乱で母親を処罰しようとして論客に反対されて取りやめている。

419: 世界@名無史さん 2006/01/05(木) 22:18:08 0
>>417
論客に説得されて一番ほっとしたのは始皇帝本人だと思う。

453: 世界@名無史さん 2006/01/28(土) 19:01:27 0
東周の頃は日本の幕府と諸国(諸藩)のような関係だったと理解しています。
(厳密には違うかもしれませんが、ざっくりと捉えると。)

で、春秋期ですが、自称であっても諸侯が王を唱えているということと、カタチだけであっても周王朝を立てていると関係がどうもイマイチ理解できないです。
今でいうとアメリカやドイツなどのいわゆる連邦制よりもイギリス連邦が近いんですかね?

454: 世界@名無史さん 2006/01/28(土) 21:42:59 0
>>453
諸侯が王号を称する様になったのは戦国期からです。
春秋期に王号を称したのは楚・呉・越といった江南に割拠する諸侯のみです。
当時の江南は周王朝の威令が届かない蛮夷とみなされており、中原の概念に照らしてみれば晋や斉などの諸侯と(凡そ)同じ扱いです。

458: 世界@名無史さん 2006/01/29(日) 12:11:06 0
>>454
ありがとうございます。
ごめんなさい。
「春秋期」ではなく、「春秋戦国期」と書きたかったのです。
でも、それも一緒にできないってことですよね。
あらためて、「戦国期」はどんな感じだったのでしょう?

459: 世界@名無史さん 2006/01/29(日) 14:21:50 0
>>458
戦国期は王号を称する諸侯がわんさか出始めたし、周王室は周王室で内紛騒動を起こしたりしてるから、名実共に権威を失墜させた。
それでも滅ぼされなかったのは一応数百年に渡る歴史を誇っていたからで、潰そうと思えば潰せたけど、それを口実に敵国に大義名分を与えるのも馬鹿らしいのでどの国も滅ぼさなかっただけ。
やがて、他の諸侯を国力で圧倒した秦が潰したけど、その頃には反秦復周を唱えたところでどうにもならなかったとさ。

457: 世界@名無史さん 2006/01/29(日) 10:05:19 0
日本の戦国時代には、武田信玄が天皇から信濃守護職を貰って信濃侵略の大義名分を得たり、織田信長が朝倉・浅井との停戦に詔勅を利用したりしていたけど、弱体化した周にそんな利用価値はあったのかな?

461: 世界@名無史さん 2006/01/29(日) 23:16:50 0
>>457
周王室が本格的に力を失うのは結構後
戦国時代前までは諸侯としてはそれなりに大きな国だったよ

463: 田単 ◆gm1aR3Q.f2 2006/02/01(水) 12:58:45 0
武霊王の「胡服騎射」は有名ですが、この時期、馬具はどの程度そろって(完成されて)いたんでしょう。
手綱、鞍、鐙とかがないと、フツーに乗れないですよね?

466: 世界@名無史さん 2006/02/02(木) 02:08:33 0
>>463
鐙が使われ始めたのは五胡十六国時代あたり

467: 世界@名無史さん 2006/02/02(木) 10:43:13 0
>>466
遺跡から出土したのがその頃
ただし、副葬品になるほどに鐙の社会的地位が上がるまでは発明から結構かかっていると考える方が自然じゃない?
西晋代には原型があるかも知れないし早ければ三国時代にもあったかも知れない

468: 田単 ◆gm1aR3Q.f2 2006/02/02(木) 18:21:29 0
>>466>>467
それまでは乗馬するときはどのようにしてたんでしょうね。
匈奴なんかは裸馬に直接跨って、ってスタイルだったんでしょうか。

470: 世界@名無史さん 2006/02/03(金) 02:23:38 0
>>468
最初鐙は片方にしかついておらず、足場として馬に乗る時のみの道具だった模様
少し時代が下るまで鐙を乗っている最中も使う両足用は無かったとの事

騎馬民族は小さい頃から馬に慣れ親しんでいるので当時の彼らは鐙無しでも乗れたらしい
硬い鞍の発明も鐙が出てきた時期と同じ頃にされたらしいので裸馬に直か柔らかい緩衝材を尻の下に置いたかだと思うが鐙もない状況だと後者は滑り落ちて危険なので裸馬に乗っていたと考える方がいいんではないだろうかね

469: 世界@名無史さん 2006/02/02(木) 23:52:06 0
鐙の原型は三国時代ぐらいから出てたぜ。
でも基本太股で思いっきり馬の背を挟んで乗るスタイルだったぽ?
だから時代ズレるけど馬に乗らなくなった劉備が内股に肉付いたウワアンと嘆いたわけで

なんかの銅鏡の図柄だと馬の背に正座してたけどな

472: 世界@名無史さん 2006/02/07(火) 20:26:35 0
河口慧海のチベット旅行記に裸馬に乗る描写があるんだけど腰だかに馬の背骨がガンガン当たって、皮は擦りむけるし打ち身になるしで相当大変らしい。

473: 世界@名無史さん 2006/02/07(火) 21:48:32 O
そんなだからこそ秦や前漢の騎兵部隊は貴重なんだよ

474: 世界@名無史さん 2006/02/07(火) 22:52:17 0
流石に何か敷くだろ
騎馬民族ならまだしも馬に乗り慣れてない中華の奴らが
裸馬に乗ったらそれこそ>>472の状態になって矢を放つどころじゃない
タマが潰れるぞ

475: 世界@名無史さん 2006/02/07(火) 22:58:54 O
だから馬に乗り慣れてない騎兵なんてありえなかったわけで

476: 世界@名無史さん 2006/02/08(水) 14:08:07 0
戦車も騎兵も生まれた時からとは言わないまでもかなり長期間の訓練が必要だしな

引用元: ・<<<春秋戦国検討委員会4>>>



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