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1: 日本@名無史さん 2012/06/24(日) 14:00:46.25
当時の日本最大の国難であった元寇に対応した北条時宗と鎌倉幕府について語ろう!!
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北条時宗と元寇について考えよう 









133: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 01:39:43.72
日本が元に対して警戒態勢を取り出したのはいつ頃でしょうか?

wikiで修禅寺の項目に

>建長年間(1249年 - 1255年)に元の密偵と疑われていた蘭渓道隆が避難のために来住し、それに伴って臨済宗に改宗された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E7%A6%85%E5%AF%BA

ってあるけど、このソース、原史料は何なんだろう?

134: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 01:50:30.70
本格的に警戒令を出したのは1271年だろ

138: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 03:07:36.82
>>134
正嘉年間にも九州御家人に軍令を布告してるようだけどね、まだモンケの時代

139: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 04:12:10.66
軍令を出す前はどうだったのでしょうか?
建長年間(1249~55)に密偵の取締をしたり、また

>北条時頼の廻国伝説が信濃に多いところから、蒙古襲来を予想した時頼がひそかに牧場の視察に出かけたのではないかと推定する郷土史家もある。

との説もあるところから、かなり長い年月をかけて対蒙古の準備をしていたとは考えられませんか?

140: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 10:40:56.61
土地台帳である大田文の調査命令、寺社本所領の非御家人への動員、異国警固番役や長門探題の設置は時宗政権からだよ

154: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 23:52:01.61
>>140
異国警固番役も正嘉年間に軍令出てる

「新御式目」 
一、警固詰番事、
為諸人煩労基之由、有其聞、仍同前、

正嘉三年二月九日

156: 日本@名無史さん 2012/07/07(土) 00:18:26.45
>>154
その頃から倭寇が始まって高麗軍との武力衝突がしばしばあった
それは高麗の報復を恐れての警戒軍令だよ

157: 日本@名無史さん 2012/07/07(土) 00:31:16.74
>>156
その頃の高麗はモンゴルの侵略で虫の息だよ
鎌倉幕府が恐れるような状態じゃない
当時鎌倉幕府が日本への攻撃を恐れるような存在はモンゴルだけしかない

164: 日本@名無史さん 2012/07/08(日) 00:41:37.42
しかし、元も無謀な戦争をふっかけたもんだな
一時勝っても長期にわたって戦線維持するのは不可能だろ

上陸して拠点を築けないぐらいの戦力だったからそれ以前の話だが

167: 日本@名無史さん 2012/07/08(日) 17:22:40.55
でも50万ぐらいの大軍だったら危なかったかも

168: 日本@名無史さん 2012/07/08(日) 17:29:05.06
50万も派兵したら元が傾いてるよ

169: 日本@名無史さん 2012/07/08(日) 21:06:25.49
そもそも、どうやって50万も揃えるの?
50万もかき集めるなんて難しいし、莫大な兵糧に大量の軍船も用意しなければならない。

弘安の役の後、第三次遠征計画で何時までたっても10万も集められなかったのに50万なんてできないと思うけど。

170: 日本@名無史さん 2012/07/08(日) 21:13:05.71
金とかパガン朝とかマムルーク朝、キエフ、ポーランド、ドイツ相手の戦いではモンゴルの兵数は数万程度
マムルーク朝は同数程度の兵数でかろうじて撃退してる
アッバース朝の首都を攻略してカリフを処刑した時のモンゴルの兵数も十数万だし
陳朝ベトナムだけが兵数30万以上になってベトナムが勝利しているが数は胡散臭い
十数万は遠征では殆ど最大動員兵力なんだろう

172: 日本@名無史さん 2012/07/08(日) 21:39:17.45
>>170
元側史料によるベトナム侵攻の兵数

第一次ベトナム侵攻 3000名
チャンパ侵攻 2万5000名
第二次ベトナム侵攻 2万名 + チャンパ侵攻軍
第三次ベトナム侵攻 9万3700余名

174: 日本@名無史さん 2012/07/08(日) 23:10:46.48
農具も積んでいたと言うし、とりあえず九州占領くらいして屯田させるつもりだったんだろう。

177: 日本@名無史さん 2012/07/09(月) 12:16:39.49
>>174
農具を積んでいたなんて信頼できる史料には書いてない。
せっかく九州を征服したのに、元軍がわざわざ農作業なんてするわけないだろ。
当然、農作業なんて日本人にやらせて元軍はそれを搾取するつもり。

弘安の役の際にクビライが遠征軍に与えた訓示
「朕、聞く、漢人の言に『人の家国を取るには、百姓・土地を得んことを欲す』と。もし尽く百姓を殺さば、徒らに地を得るとも何の用かあらん」


178: 日本@名無史さん 2012/07/09(月) 12:28:38.15
ただ、日本軍を倒した後にどうやって十数万もの軍勢を養うつもりだったのかは気になるな。

いきなり、人口が十万以上も増えれば食糧の確保も大変だろうし。
長期的に見て、勝った暁には屯田させようとしてもおかしくはないと思うんだよね。

180: 日本@名無史さん 2012/07/09(月) 13:01:01.65
>>178
征服する時の兵数がそのまま統治する時の兵数ってことはないだろ。
元だって10万もの精鋭部隊は当然他の東南アジアや中央アジアの戦線にも転用したいだろうし。

182: 日本@名無史さん 2012/07/09(月) 17:41:59.78
そういえば、北海道と沖縄でも元冦があったんだっけ?

183: 日本@名無史さん 2012/07/09(月) 18:37:48.85
樺太と沖縄だね

184: 日本@名無史さん 2012/07/09(月) 18:52:10.81
しかし、モンゴルって世界征服が趣味なんだと思うわ。沖縄とか樺太とか、どうでもいいやんとおもう。

185: 日本@名無史さん 2012/07/09(月) 18:57:45.33
樺太には兵1万で瑠求には兵200人を派兵したみたいだけど樺太ごときに兵1万ってすげえな。

なんもないだろ。あんなところ。

186: 日本@名無史さん 2012/07/09(月) 19:37:21.30
樺太は元に朝貢してたニヴフがアイヌに攻め立てられたから援軍として兵を出したわけだけど琉球やジャワを攻めたのはなんでなんだぜ?

189: 日本@名無史さん 2012/07/10(火) 00:14:16.85
琉球は海上拠点の目的とか?

190: 日本@名無史さん 2012/07/10(火) 11:45:17.00
元軍は沖縄なんて攻めてないよ
元史に記述があるのは琉球じゃなくて瑠求
この瑠求って台湾のことだから

198: 日本@名無史さん 2012/07/10(火) 22:06:51.76
時宗は病弱?
元寇が終わってすぐに死んだし(´・ω・‘)

199: 日本@名無史さん 2012/07/10(火) 22:25:34.41
北条得宗家って病弱が続いてるよな

200: 日本@名無史さん 2012/07/10(火) 22:53:04.35
血の近い者どうし結婚が多かったからだろ

203: 日本@名無史さん 2012/07/10(火) 23:59:59.02
時宗に限らず北条氏は時氏辺りから早死する人ばっかりだね。

204: 日本@名無史さん 2012/07/11(水) 00:39:38.87
暗殺でもされてたんじゃないか?

207: 日本@名無史さん 2012/07/12(木) 00:47:55.76
>>204
短命は得宗だけじゃないのだ
分家の連中も赤橋を筆頭に若死にしてるし
得宗家の男子も女子もばたばたしんでる
泰時なんて息子も娘も全員若死にされたからな

あんな短期間で近親婚がどーのなんてないと思う
体質だろう

208: 日本@名無史さん 2012/07/12(木) 01:04:50.08
その割に政村~泰時は普通に60くらいまで生きてるし
時村は70近くまで生きてるし、北条実時や実政親子も50ちょいと
まあ当時としては割と標準的な年齢で死んでるな。

確かに中世の他の有力武士の一族と比べたらやたら早死してる人が多いが。

213: 日本@名無史さん 2012/07/12(木) 12:20:40.92
生き延びてるやつみてるから長生きにみえるが
時政の両親も兄弟も出てこないのは死んでる可能性あるぞ
甥?の時定は顔をだすけどさ
政子や義時や泰時の母親も早世してるんでないかな
得宗家でも政範は若死にだしさ

214: 日本@名無史さん 2012/07/12(木) 13:03:27.55
>>213
北条時政は政治の舞台に出てきたときすでにいい年だったんだから
その両親が死んでいても不思議はないんだが

それに政子・義時の母も泰時の母も北条氏ではないだろう
この時代は出産で死ぬ女性が多いため女性の早世は一概に遺伝のためとは言えないし
(源頼朝の同母妹坊門姫や、頼朝・政子の孫娘竹御所はいずれも難産で死亡)

216: 日本@名無史さん 2012/07/12(木) 21:48:50.60
時政の兄弟姉妹が出てこないのは、父親が早くしんでそもそも少なかったのかもな

217: 日本@名無史さん 2012/07/13(金) 23:38:45.39
北条時政の弟なら北条時定がいるだろ
義経に協力していた源行家や源有綱を討ち取った武将だぞ

227: 日本@名無史さん 2012/07/16(月) 00:16:50.06
>>217
源行家や源有綱を討ち取った北条時定は、北条時政の弟ではなく、甥もしくは従兄弟。
家系図によって甥か従兄弟かで移動があるみたいだが、弟ではないよ。

218: 日本@名無史さん 2012/07/14(土) 10:35:34.10
大河には出て来ないが北条時頼の弟にも時定いるよな
元寇のときは肥後に下向して時宗死後まで生きてた

219: 日本@名無史さん 2012/07/15(日) 00:57:57.64
そもそも時政の父親は誰なんや?

220: 日本@名無史さん 2012/07/15(日) 01:05:50.82
その辺りはわかってない
どっかの一次史料にないもんかねえ

223: 日本@名無史さん 2012/07/15(日) 17:43:31.59
八幡蒙古記以外でも一代要記では日本が文永の役で負けたことになってる

224: 日本@名無史さん 2012/07/15(日) 22:48:33.88
ていうか公家や神社の記録ではまるで武家政権への当てつけのように武士敗北と神風を強調してやがるなw
当の元軍や武士達の記録が無ければマジで騙されてたな。

331: 日本@名無史さん 2012/08/13(月) 16:00:28.87
>>224
背景には朝廷勢力と武家勢力の対立か?
神社とかも祈祷で勝ったという形にしたいのか。

それと
三別抄を助けなかったのは、中立を維持したからって言ってみる(´・ω・`)

226: 日本@名無史さん 2012/07/16(月) 00:11:29.68
むしろ武士が勝ったとはとても言い難い戦況だったからこそ都を中心にそういう噂が立ったのを利用したってのが真相だろ。

229: 日本@名無史さん 2012/07/16(月) 01:50:40.86
>>226
元寇以上に楽勝だった応永の外寇ですら、京都に最初の情報が来たときは割と焦り気味だったし実際に九州上陸されたらそんなもんじゃね

228: 日本@名無史さん 2012/07/16(月) 00:42:41.63
九州の寺社なら祈祷だけではない
石塁作りの人夫、異国警固番役のための兵や食糧も出してる

271: 日本@名無史さん 2012/08/04(土) 00:32:00.67
一日で作戦継続を断念し、夜間に兵を回収して夜のうちに出港というのが正しいなら「元軍は大敗して逃亡した」がほぼ動かないところだろう。

1 相当数の事故死者を覚悟の夜間乗船をやるのは、全滅を避ける手段がそれしかないから。
2 昼間より遙かに困難で時間が掛かる夜間撤退できたということは、昼間降ろした時に比べ乗せるべき兵士が大幅に減っているから時間が掛からなかった」事を示唆している。

274: 日本@名無史さん 2012/08/04(土) 08:58:33.57
>>271
>一日で作戦継続を断念し、夜間に兵を回収して夜のうちに出港というのが正しいなら「元軍は大敗して逃亡した」がほぼ動かないところだろう。

もうひとつ、「日本軍が元軍撤退の現場にいなかった」もほぼ動かない。

275: 日本@名無史さん 2012/08/04(土) 09:08:10.15
>>274
そこなんだが、日本軍だって物見くらい出す。明かりに困らないほど街が燃えている(そんなに燃え続ける物なのか?)なら、元軍の乗船は日本の察知するところとなろう。
そうなっていないと言うことは、元軍は闇夜に紛れて逃げた。つまり箱崎宮は燃えていないか、あるいは乗船地点はかなり離れた場所となるのでは?

273: 日本@名無史さん 2012/08/04(土) 07:01:19.14
今日上陸したばかりの未知の土地、昨日来たばかりの未知の湾で灯火管制したまま3万の兵を乗船させ、900艘の船を出航させる。
何時間かかるだろう。

274: 日本@名無史さん 2012/08/04(土) 08:58:33.57
>>273
>灯火管制したまま3万の兵を乗船させ、

灯火管制はやらなかったと思う。
箱崎宮などの燃え上がる火で海が照らされていたとすれば灯火管制は意味ないだろう。

276: 日本@名無史さん 2012/08/04(土) 09:43:12.07
概算してみよう。

元軍陸上兵力およそ3万、上陸用舟艇が900隻の1/3で300隻として一隻あたり100人を輸送する必要がある。
元軍の全兵士が現代の海兵隊もびっくりの練度に鍛え上げられていたと想定して上陸用舟艇に乗り込むのに一人5秒、上陸用舟艇から大型艦の甲板までよじ登るのに30秒と仮定する。
海岸から大型艦までの移動は、余裕を持って片道1時間としよう。
海岸にきっちり整列して「撤退する、乗船せよ」の号令が掛かってから大型艦に乗船終了するまでの所要時間は(5秒×100人)+(1時間)+(30秒×100人)だから
2時間ほどだ。移動に1時間、整列して船を割り当てるのに1時間かけても3時間あれば収容と撤退は終わる。
なお上陸用舟艇が100人を一度に運べない場合は、輸送回数が1回増えるごとに2時間プラス。
さらに撤退を決定するまでの会議の時間が追加される。
この季節の北九州なら、日の入りから日の出までおよそ14時間。単純計算では一夜で3万人の収容はできそうだが、これに暗闇という問題がどのくらい影響するかと、日本側に察知されるリスクについては、識者のご見解が欲しい所。

278: 日本@名無史さん 2012/08/04(土) 10:22:13.17
>>276
もうひとつの問題は馬だ。
3万のうち実戦兵力が2万(あとは補助人員)、そのうち10%が騎兵だとしても2000頭の馬がいる。本船1隻あたりでも7頭だ。
これをどうやって積んだのか。

私の考えを言えば、馬は上陸用舟艇につないで泳がせたのではないか? 
でないと上陸用舟艇が転覆する。
そして本船まで来たらデリックのようなもので吊り上げたのではないか?

上陸するときはこの逆。浅瀬まで来るとつながれて泳いでいる馬が先に足が立つから飛び乗ればたちまち騎兵ができあがる。

ともかく、撤退の際は馬の吊り上げ作業がある。上陸用舟艇の往復とは別に本船側の作業としてできただろうけどね。

286: 日本@名無史さん 2012/08/05(日) 08:45:12.04
>>278
本来の運用法はそんな感じなのかな。
ただ、この撤退に限っては馬を捨てて逃げたかも知れない。

287: 日本@名無史さん 2012/08/05(日) 15:54:04.00
>>286
>ただ、この撤退に限っては馬を捨てて逃げたかも知れない。

それも考えたけど、2000頭の馬がうろうろしていたらなにか話が残りそうなものだ。
大宰府の戦利品になったとか。

288: 日本@名無史さん 2012/08/05(日) 17:08:01.10
最初から2000頭も連れてこなかったとか、大敗したら馬も大半が失われるとかもあり得るな

289: 日本@名無史さん 2012/08/05(日) 18:23:16.53
>>288
>最初から2000頭も連れてこなかったとか、

少なくとも2000頭はいる。
蒙古襲来絵詞にもかなりの数の騎兵が描いてある。試みに歩兵との割合を数えてみると、騎兵が15%ぐらいだったと思う。
また、八幡ノ蒙古記で少弐が劉に追いかけられる場面で歩兵と騎兵の数を書いているが、これもそのくらいの割合だったと思う。
だから10%といいうのは控えめだ。

297: 重要無名文化財 2012/08/08(水) 11:11:48.36
文永の役は、元にとっては大規模な威力偵察に過ぎなかった。
本気で日本侵攻を目標としたものではない。実質一日の戦闘で、撤退したのは既定の作戦行動。
当時、元の主攻撃方面は南宋で、後代のどこかの軍人のようにやたらと戦域を拡大するようなことはしなかった。
今でも、神風説を信じているのは愚の骨頂。博多湾では風はふいてはいない。
船団に帰路、晩秋の大陸からの季節風に遭遇した可能性はある。

299: 日本@名無史さん 2012/08/08(水) 21:22:47.85
文永の役における元の意図が議論の対象となるのは、動員兵力があまりにも少ない事が主因であろう。
わずか4万、船員などを除いた実兵力では3万前後の兵力で日本を征服することは、いかに世界最強のモンゴル帝国軍でも到底不可能であることに、異論はないだろう。

では日本征服には到底足りない軍を送ってきた理由は何か。解釈は大きく2つに分かれる
解釈1
元は日本を著しく過小評価し、4万で征服可能と考えていた
解釈2
元軍には日本征服以外の目的があった(真の目的は何か、それは達成されたかで、この解釈はさらに細分化される)

軍板の元寇スレでは、他の遠征軍との規模比較から解釈1が多数意見のようである。
一方>>297氏の唱える威力偵察説は、解釈2の代表例である。しかし、威力偵察説は次の進行までの期間が長すぎること
弘安の役で威力偵察の成果が活かされている形跡が(空前の規模以外)見つからないのが難点である。

303: 日本@名無史さん 2012/08/09(木) 08:25:37.14
>>299
次の侵攻までの期間が長かったのは、南宋を先に落としてから日本侵攻という大枠の計画があって、南宋を落とすのに予想外に時間がかかったからではないだろうか

威力偵察の成果が活かされなかったのは、元朝の組織が大きくなりすぎて引き継ぎができなくなっていたからではないか大枠の計画だけが残ってひとり歩きしてしまった

304: 日本@名無史さん 2012/08/09(木) 09:04:19.72
威力偵察なんて定義しだいだ。
現代の軍事学に照らして厳しく定義すれば威力偵察説を否定する根拠にことかかない。

しかし昔の戦争に現代の定義をあてはめることがそもそもの間違い。

「国書を送っているが奴らは返事をよこさないな。けしからん。一つ、脅しを兼ねて小当たりに当たって見るか」
これでも十分に威力偵察である。

そして、威力偵察の成果は十分に生かされた。つまり、元は日本軍を容易な弱敵と見て、次は屯田の準備までして来た。
ただ、その「成果」が誤りであっただけだ。

305: 日本@名無史さん 2012/08/09(木) 11:45:15.95
>>304
その理屈だと、文永の役で元軍は戦略目標を達成できたことになるよね
ならなんで元史には「日本軍は破った。それなのに軍の編成は乱れ矢も尽きてしまったので、ただ四境を略奪して帰った」
とか言い訳染みたことが書いてあるの?
なんで高麗史には「征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」とか書いてあるの?
出兵目的が「威力偵察」で、しかもそれが大成功だったならこんな精彩を欠く記述はせず、戦略目標を達成した、大成功だったと書くだろ、普通w

308: 日本@名無史さん 2012/08/09(木) 14:56:36.50
>>305
>「・・ただ四境を略奪して帰った」 とか言い訳染みたことが書いてあるの?

軍を引くとき言い訳を書くのは元史のお約束。大汗の命に背いて南宋攻めの軍を一週間で帰した言い訳は「長雨が続いたから」。

>なんで高麗史には「征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人」とか書いてあるの?

それは年表だから最大限省略した文章。恐らく省略の結果文章の続きが悪くなったので敗れたことにしてしまった。

省略する前の文章は元宗世家(元宗の一代記)にある。
「冬十月・・・金方慶・・・與元元帥忽敦・・洪茶丘・・征日本、至一岐島、撃殺千餘級、分道以進、倭却走、伏屍如麻、及暮乃解、會夜大風雨、戰艦觸巖崖、多敗・・・軍不還者無慮萬三千五百餘人」

省略する前は倭却走、伏屍如麻だから高麗軍が戦い敗れたとは正反対。

引用元: ・北条時宗と元寇について考えよう



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