フリードリヒ大王―啓蒙君主のペンと剣 (中公新書)


1: 世界@名無史さん 2012/03/13(火) 09:37:20.85 0
今年で生誕300周年を迎えるフリードリヒ大王。
18世紀を代表する卓越した君主である大王を語り尽くそう。
また大王に関する伝記・書籍についても情報あればお願いします。
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フリードリヒ2世

フ リードリヒ2世(1712年1月24日 - 1786年8月17日)は、第3代プロイセン王(在位:1740年5月31日 - 1786年8月17日)。優れた軍事的才能と合理的な国家経営でプロイセンの強大化に努め、啓蒙専制君主の典型とされる。また、フルート演奏をはじめとす る芸術的才能の持ち主でもあり、ロココ的な宮廷人らしい万能ぶりを発揮した。

学問と芸術に明るく、哲学者のヴォルテールと親密に交際し、自ら書を著し哲人王とも呼ばれ、功績を称えてフリードリヒ大王と尊称されている。ドイツにジャガイモ栽培を広げたことでも知られる。


845: 世界@名無史さん 2018/09/18(火) 23:30:03.83 0
フリードリッヒ2世の功績としてはオーストリア継承戦争とシュレージエン領有は確かに評価される。
しかし7年戦争の窮地に嵌まったのは明かなフリードリッヒ2世の外交的失策つーか、外交以前の自身の舌禍が原因だ。
戦術的勝利で戦略上の窮地を7年凌いだのは立派だが、最終的に勝てたのはたまたまの幸運だ。
大王と呼ばれる程の王ではない、明かに過大評価だろ。

むしろ抑止力としての軍事力育成に徹した父の兵隊王こそ評価されるべき。
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フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
(1688年8月14日 - 1740年5月31日)は、第2代の「プロイセンにおける王」。粗暴で無教養だったが、財政・軍制の改革によってブランデンブルク=プロイセンの強大化に努め、兵隊王(または軍人王)とあだ名された。

848: 世界@名無史さん 2018/09/25(火) 20:55:51.83 0
>>845
確かに総合的には兵隊王の方が君主として評価に値すると思うが
後継者の教育には成功したと言い難いのでそこが減点

850: 世界@名無史さん 2018/09/26(水) 00:06:33.53 0
>>848
ハァ?
兵隊王の後継者が他ならね大王だろ
兵隊王の「あの教育」が無ければフリードリヒ2世は唯の芸術好きな文人王に終わってたかもな
父との確執

父王はフリードリヒの教育係に「オペラや喜劇などのくだらぬ愉しみには絶対に近づかせぬこと」と言い渡し一切の芸術に親しむことを禁じた。その軍人嗜好を表す逸話として、太鼓の逸話がある。太鼓で遊ぶフリードリヒの騒がしさに怒った姉ヴィルヘルミーネが「そんなうるさいものはやめて、お花で遊んだらどうなの」と言うとフリードリヒが「花なんかで遊ぶより、太鼓を習ったほうが役に立つもん」と言ったのを聞いた父王は、さっそく太鼓を持つ王子の肖像画を描かせたという。

しかし本来のフリードリヒは、むしろ母親似で生来芸術家気質であり、特に音楽を好み、クヴァンツにフルートの手ほどきを受けて習熟、演奏会を開くこともあった。父王はそのようなことを耳にすると怒り狂って、杖でフリードリヒを打ちすえたという。暴力、食事を与えない、蔵書を取り上げるなど、虐待に等しい境遇にフリードリヒはひたすら耐えて成長していった。


852: 世界@名無史さん 2018/09/30(日) 17:09:37.79 0
>>850
兵隊王は最晩年、ユーリヒ=ベルク公国の継承を巡ってハプスブルク家と決裂し、王太子に自らの言葉で外交に関する遺訓を残してたりするんだよね。かなり大雑把に言うと、諸外国に決して気を許すなというもの。

日本だとフリードリヒが恩あるオーストリアにいきなり牙を剥いたかのように言われることもあるが、兵隊王の最晩年にも神聖ローマ帝国に対する遺恨があった点に注目する人はあんまり居ない気がする。

(「にも」と言うのは兵隊王に限らず、大選帝侯もフリードリヒ1世も神聖ローマ帝国に煮え湯を飲まされてきたから)

846: 世界@名無史さん 2018/09/19(水) 13:42:24.09 0
七年戦争勝ち抜いた後の内政面に大王の手腕って父親よろしく盛大に発揮されてる

というかむしろそっちのが後のプロイセン雄飛の礎と言ってもいいくらいに成功してたりする
単純に勝ったから大王というわけじゃないってことはちょっと抑えとくべきだな
七年戦争は、1754年から1763年まで(主な戦闘は1756年から1763年まで)行われた戦争である。
ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因だが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。

この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組んだ(外交革命)。

しかし、戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡と化し、イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因だが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。

847: 世界@名無史さん 2018/09/23(日) 06:17:12.78 0
7年戦争時の状況を作ってしまった反省を戦後に生かしてるよね

853: 世界@名無史さん 2018/10/12(金) 17:38:17.20 0
シュレジェンの領有確定については現地が新教人口が多くプロイセンの統治を歓迎していた面も大きい

858: 世界@名無史さん 2019/01/19(土) 08:33:20.90 0
>>853
だからと言って侵略が正当化されるわけでもない。

859: 世界@名無史さん 2019/01/19(土) 12:36:52.73 0
今の価値観で言われても

860: 世界@名無史さん 2019/01/20(日) 18:15:42.73 0
>>859
当時もフリⅡさんは非難されていましたが・・・

863: 世界@名無史さん 2019/01/21(月) 11:10:06.13 0
>>860
その3代前、大選帝侯に皇帝レオポルト1世が与えたシュヴィーブス(シフィエボジン)一帯をフリードリヒ1世(ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世)から再び召し上げた
経緯も非難されてるがね。
大選帝侯はシュヴィーブスを代償として、父祖がレグニツァ公と結んだ相続契約の放棄に同意したのにレオポルト1世は、侯世子だったフリードリヒ3世が納得できない形で同地を取り戻した。
これが巡り巡って、フリードリヒ大王の宣戦理由になってる。

864: 世界@名無史さん 2019/01/21(月) 23:41:40.17 0
フリードリヒ大王のような人はプロイセンの政治風土の中では異端なんだよな
彼のような人が彼の地にもっと多くいれば、ドイツが軍国主義に染まることもなかっただろうし、その夢と熱から醒めるのに二回も頭を激しくぶつけて出血多量になる必要もなかっただろうに

876: 世界@名無史さん 2019/01/25(金) 13:37:52.40 0
>>864
第一次世界大戦が終わるまでは、どこもかしこも軍国ばかりだった件

879: 世界@名無史さん 2019/01/25(金) 22:47:40.50 0
>>876
軍事作戦上の都合のためにかねてから中立国の侵犯すら織り込んでいたような戦争馬鹿と一緒にされたら、他の国も堪りませんわ

881: 世界@名無史さん 2019/01/26(土) 23:05:47.74 0
>>879
「おう、イギリスの悪口はもっと言ったれ」ってアイスランドとノルウェーが
言ってたぜ

865: 世界@名無史さん 2019/01/23(水) 06:55:31.24 0
彼のような人が居たから、ドイツは軍国主義に染まって二回も頭を激しくぶつけることになったのではないかな

866: 世界@名無史さん 2019/01/23(水) 10:43:03.30 0
ビスマルクがどれくらいフリードリヒ大王を参考にしていたか知らないけど、ビスマルクであれば「外交的に孤立したらドイツは詰む」って教訓を引き出していたと思う。自身も外交畑だしな。

一方ヴィルヘルム2世やヒトラーは、この点を甚だしく軽視していたとしか思えない。政治は結果責任だから、大選帝侯からフリードリヒ・ヴィルヘルム2世までの歴代君主の功績は否定しようがないが、あの二人は「ブランデンブルク家の奇跡」があくまでも「奇跡」であることを重く見てなかったのではないかな。

867: 世界@名無史さん 2019/01/23(水) 22:35:57.62 0
僥倖で戦争に勝つと、将来の戦争でそのツケを払うことになる。
日本も身に覚えがある話だ。

868: 世界@名無史さん 2019/01/23(水) 22:55:05.82 0
フリードリヒ大王については、なぜかオーストリア継承戦争とバイエルン継承戦争は無視される。

また、七年戦争でもイギリスからの経済援助の影響は大きかったし、ハノーファーの兵力もあったのだが、なぜか単独で戦ったかのように言われる。

869: 世界@名無史さん 2019/01/24(木) 06:34:20.72 0
史実でもギリギリで勝った(生き残った)のだからイギリスが早々に援助を切り上げてたらプロイセンは自分でしかけた戦争で自滅した可能性が高いね。
イギリス様様だよ。

870: 世界@名無史さん 2019/01/24(木) 12:48:50.99 0
イギリスは金さえ出しておけば、フランスの力を大陸に引き付けられるのでプロイセンを利用しただけだし、大王はそれを承知で、ザクセンを兵站基地化することで長期戦に耐えられるようにする目的で、自分から敢えて戦端を切った

872: 世界@名無史さん 2019/01/24(木) 14:06:48.76 0
>>870
イギリスにはハノーバー朝の故郷をフランスから守りたかったという重要な理由があるぞ。そこには金だけじゃなくて兵も出してる。

871: 世界@名無史さん 2019/01/24(木) 13:15:39.44 0
イギリスはイギリスで、途中で単独講和したからプロイセンからは裏切ったと思われ、他の国からは皆が大陸で戦っている間に上手いことをして勢力を広げたと思われ、実利は大きかったが他国からは警戒されるようになった

904: 世界@名無史さん 2019/06/15(土) 13:47:09.86 0
大王の本当に偉大なところは一時的に優勢になっても本来の戦略目標を見失わなかった事

906: 世界@名無史さん 2019/06/16(日) 16:33:09.91 0
大王様は、ヨーゼフ2世やピョートル3世など、敵国の皇帝さえファンになってしまうほどの人気者

907: 世界@名無史さん 2019/06/16(日) 17:00:41.18 0
同時代に生きてたらそりゃファンになるよな
とベタ褒めすると鋭いツッコミが入りそう(期待の目)

909: 世界@名無史さん 2019/06/17(月) 10:34:44.08 0
政治家や軍人はファンになるだろうけど
音楽家や詩人はクソ味噌にけなすであろう

911: 世界@名無史さん 2019/06/17(月) 11:53:39.15 0
>>909
フリードリヒの宮廷から去ったC.P.E.バッハのような音楽家がいる一方で、クヴァンツやベンダ、グラウンなどその宮廷こそが活躍の場だった音楽家も少なからずいる

てかフリードリヒ2世の宮廷って、その庇護下でギャラント様式が開花した舞台だしね
音楽史の観点から見ると、どちらかと言えば高評価だよ

913: 世界@名無史さん 2019/06/18(火) 00:50:39.77 0
>>911
えーと
大王がへぼ詩人だったことをおちょくるネタやでw

914: 世界@名無史さん 2019/06/18(火) 01:33:21.22 0
>>913
中にはわざわざ元のフランス語からドイツ語に訳された上で、本にまとめられるくらい評価の高い詩を人生のどの段階でも詠んでるぞ

ttps://www.schoeningh.de/katalog/titel/978-3-506-77307-4.html

音楽家としての評価も決して低くなく、多くの演奏者が大王の曲を再演してる

915: 世界@名無史さん 2019/06/18(火) 01:43:41.70 0
音楽に関しては低い評価なんてありえんわな

フルートの名手だったし、作曲した曲はCDにもなってて、俺も持ってる

916: 世界@名無史さん 2019/06/18(火) 08:03:00.79 0
大王へぼ詩人説ってどっから出たんだろうな

反君主論辺りの論評由来な気もするがよくわからんな

919: 世界@名無史さん 2019/06/30(日) 13:37:30.52 0
>>916
プロイセンの君主がプロイセン語を蔑ろにして、敵国フランスの言葉で詩作などにふけっていればとうぜんカチンとくる臣下の方々がいらっしゃるだろう。

917: 世界@名無史さん 2019/06/18(火) 08:22:25.52 0
ボルテールじゃろ

918: 世界@名無史さん 2019/06/18(火) 10:42:25.35 0
大王にとっての詩作は極々個人的な趣味であって、人に見せるものではなかった。
ただし心から信頼している相手には詩を贈ることもあり、相手への信頼が失われた時には贈った詩の返却を求めていた。
大王の詩を悪く言ってるのはヴォルテールが大本だろう。彼は大王のフランス語の添削を任されていた。詩のように繊細に言葉を扱う芸術で、そもそも文法に間違いがあったとしたら、そりゃ評価も高くはなるまい。
ただ、大王にもセンスはあったんだろうな。でなければ後世の人も、わざわざドイツ語に訳そうとはしないし、現代に至るまで賛辞とともに出版しようとはしないだろう。
無論、どの詩も名作ってわけじゃないが。例えばエリザヴェータ女帝の没後に捧げた哀悼詩とか、故人への辛辣な悪口でしかない。大王が女帝をどのように思っていたのか伺い知ることはできるけど。

921: 世界@名無史さん 2019/06/30(日) 16:13:00.57 0
プロイセン語って何だよ
大体当時の王侯貴族はフランス語で生活するのが当然
不定詞王なんて、ドイツ語がまともに話せなかったし

927: 世界@名無史さん 2019/07/01(月) 08:40:05.38 0
>>921
不定冠詞王は話し方が特徴的(不定冠詞の連発ってぇと軍隊的と言えるな)だっただけで、文法的におかしかったわけではないよ

931: 世界@名無史さん 2019/07/01(月) 21:41:06.54 0
>>927
不定詞王は、動詞が人称変化してない原型の不定詞を使って話していたのであって、文法的に目茶苦茶だぞ

例えば、私はプロイセン王であるというのは、正しくは Ich bin koenich von Preussen.だが、一人称単数のbinではなく、原型のseinを使って Ihc sein koenich von Preussen.と言っていたんだぞ

934: 世界@名無史さん 2019/07/01(月) 22:35:51.65 0
>>927
正確には主語をつけないので、sein koenich von Preussenだな。

例えば、読むという単語は辞書には不定詞で載っているからlesenだが、一人称単数の人称変化をするとleseなので、Ich lese das Buchとか普通なら言うが、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、lesen das Buchと言っていた。


923: 世界@名無史さん 2019/06/30(日) 17:23:48.03 0
プロイセン王がプロイセン王を名乗ったのは、プロイセンが神聖ローマ帝国外で王号を名乗るのに問題なかったからで、本質的にはブランデンブルク王。

ユンカーもほぼブランデンブルクかポーランド系で、プロイセンの主流だった自由農民もドイツ人 プルーセン語なんて誰も知らない

928: 世界@名無史さん 2019/07/01(月) 09:00:04.88 0
>>923
>本質的にはブランデンブルク王。

いや、ブランデンブルクにおいては神聖ローマ皇帝の臣下である選帝侯。
なお1772年、ポーランド王領プロイセンを併合し、プロイセン全土を領有して
以降は名実ともに「プロイセン王」になる。
余談だが神聖ローマ帝国が滅んだ後も、同帝国が滅ぶ前から認められていた
ブランデンブルク辺境伯その他の称号は歴代プロイセン国王に継承された。

932: 世界@名無史さん 2019/07/01(月) 22:24:52.38 0
>>928
そんな話をしているのではなく、フリードリヒ3世(プロイセン王としてはフリードリヒ1世)は王号が欲しかったが、帝国法ではベーメン王以外の神聖ローマ帝国内での王号を禁じられているため、すでにポーランド王の宗主権から離れていたプロイセンの王として、プロイセン王と名乗った。

ただ、配下のユンカーの領土や農奴の大半が存在するのはブランデンブルク領内であり、逆にプロイセン領内は土地を持った自作農である自由農民が多く、プロイセン王に対して必ずしも従順ではなかった。

実質的といったのは、家臣を含めた王国の本体はブランデンブルクだったという意味だ

925: 世界@名無史さん 2019/06/30(日) 17:51:47.75 0
フリードリヒ2世にとってはドイツ語なんて田舎言葉もいいとこで、とうていボクの文化的素養を生かせる言語じゃないねフン、って態度。
まあ実際に文化レベルはフランスに及ばないがw

927: 世界@名無史さん 2019/07/01(月) 08:40:05.38 0
>>925
フリードリヒ2世は身分を問わず、兵士や平民と当たり前のように話したり、市民からの訴状を自ら受け付けたりする人だったからドイツ語を軽視してたわけじゃないぞ

929: 世界@名無史さん 2019/07/01(月) 19:45:52.26 0
フリ2は日常生活でドイツ語をつかわずフランス語を使っていたというが、まあ天皇が日常生活で中国語や韓国語を使うようなもので、周りにはイラっとくる人も結構いたろうな。

934: 世界@名無史さん 2019/07/01(月) 22:35:51.65 0
>>929
18世紀に、それまでのラテン語に代わってフランス語が各国の宮廷で使われるようになり、どこの国の宮廷でも君主も貴族もフランス語で話すのが当たり前

936: 世界@名無史さん 2019/07/02(火) 06:06:15.69 0
>>934
どの国の宮廷でもフランス語とまで言うと言い過ぎ。
マリア・テレジアは主にドイツ語だったというから皮肉。

937: 世界@名無史さん 2019/07/02(火) 07:54:56.41 0
>>936
いや、テレジアもフランス語を好み、宮廷でよく話していた。
それどころか、子供たちへの手紙までフランス語で書いてる。

933: 世界@名無史さん 2019/07/01(月) 22:31:49.00 0
プロイセンって元々ドイツ騎士団領だったんだろ
どういう経緯でブランデンブルク選帝侯のホーエンツォレルン家がそんなものを手に入れたんだったっけ?

935: 世界@名無史さん 2019/07/01(月) 22:41:29.55 0
>>933
宗教改革で当時の騎士団長のホーエンツォレルン家のアルブレヒトが配下の騎士ごとルター派になったとき、ドイツ騎士団領は世俗のプロイセン公国になった。
アルブレヒトは、ブランデンブルク選帝侯であるホーエンツォレルン家の分家出身だったが、アルブレヒトの子孫が絶えたので、本家のブランデンブルク選帝侯家が相続した

939: 世界@名無史さん 2019/07/02(火) 11:00:10.72 0
フリードリヒ2世はマリア・テレジアと結婚して、
ハプスブルク=ホーエンツォレルン家の祖になれば良かった。

940: 世界@名無史さん 2019/07/02(火) 20:31:50.15 0
>>939
ハプスブルク=ホーエンツォレルン家
名前からして恐ろしい…

943: 世界@名無史さん 2019/07/03(水) 10:54:40.28 0
>>940
ハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒト3世はホーエンツォレルン家出身のニュルンベルク城伯、フリードリヒ5世の娘であるベアトリクスと結婚して次代のオーストリア公、アルブレヒト4世を儲けてる。
その子、神聖ローマ皇帝アルブレヒト2世の娘エリーザベトはヤギェウォ家に嫁ぎ、そのヤギェウォ家のアンナはオーストリア系ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝、フェルディナント1世に嫁いでいる。
つまり、ホーエンツォレルン家とハプスブルク家はアルブレヒト3世とベアトリクスが結婚した1375年以降は姻戚関係にある。

946: 世界@名無史さん 2019/07/03(水) 18:30:01.15 0
>>943
姻戚とかじゃなくて結婚によってハプスブルク=ロートリンゲン家のように王家が合同した場合のことを言ったんじゃないの?

947: 世界@名無史さん 2019/07/03(水) 18:52:11.97 0
>>946
トップ同士で合同なんてしなくても、ハプスブルク家は代々ホーエンツォレルン家の軍事力を利用し尽くして来てたんだよなあ。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の治世最末期に決裂し、息子のフリードリヒ2世に離反されるくらいならもっと臣下を大事に遇してやれば良かったのに。

944: 世界@名無史さん 2019/07/03(水) 14:46:30.00 0
ハプスブルク家にとって、ホーエンツォレルン家の支配するドイツ(第二)帝国は、かつて臣下だったニュルンベルクの城伯一家に簒奪された国とうつるのかな?
ドイツ国内でもバイエルンのヴィッテルスバッハやザクセンのヴェルフェン(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)といった王家はホーエンツォレルンより古くからある名門だからこんなのに支配されるのは苦々しく思っていただろうな

945: 世界@名無史さん 2019/07/03(水) 16:38:43.55 0
>>944
どうだろうね。1806年に神聖ローマ皇帝位を退位した時点で、ハプスブルク家はホーエンツォレルン家の主君ではなくなったから。
そしてホーエンツォレルン家の主君たる地位を失わせた責めは、プロイセンじゃなくてライン同盟を結成させたフランスが負うべきものでしょ。
あとブラウンシュヴァイク=リューネブルク家も、ヴィッテルスバッハ家もホーエンツォレルン家とは姻戚よ。
特に前者は、プロイセン軍の将官となった者を幾人か輩出してる。

955: 世界@名無史さん 2019/07/10(水) 19:23:28.83 0
しかし大王の青年時代のなよっとした感じのエピに比べ
君主になってからの繊細さは残しつつもぐう畜生っぷりはなんだろう
トラウマでサイコパスにでもなったんだろうか

956: 世界@名無史さん 2019/07/10(水) 22:15:10.47 0
受けから責めに変わったんじゃないですかね

957: 世界@名無史さん 2019/07/10(水) 22:27:00.57 0
ナヨっとした印象を受ける人もいるかも知れんが、俺らと違って帝王学を学び、軍人としての英才教育も受けてるからね?
それはさておき、父親からさんざん虐待されてきたんだ。
シニカルな性格にもなるってもんでしょ。

958: 世界@名無史さん 2019/07/12(金) 19:41:55.48 0
ホーエンツォレルン家は子供を自分達で育て上げてたんだな
欧州には家臣を守役にして子供を育てさせる風習は無かったんのか

959: 世界@名無史さん 2019/07/14(日) 13:13:55.02 0
>>958
傅役はいないが貴族にも教師は付く。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が定めた王太子の教育に関する指示書に、たびたび名前が挙がるのはジャック・エジード・デュアンという人物。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Jacques_Duhan_de_Jandun

他にも教育役は色々居るんだろうけどね。デュアンの担当は非軍事系の教育だな。

960: 世界@名無史さん 2019/07/15(月) 14:10:03.53 0
とにかく絶望的な状況にも堪え抜いた不屈の精神力には驚かされる

引用元: ・【プロイセン】フリードリヒ大王【啓蒙専制君主】



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