410C5Xk9tJL



1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/08(日) 15:09:41 ID:KW5filkU0
荀彧(163年 - 212年)は中国東漢末期に曹操に仕えた政治家。字は文若で、諡は敬。
曹操の下で数々の献策を行い、曹操の覇業の基を作った。 







451: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/06(火) 19:56:01 ID:8uZlHXKH0
荀攸とのスタンスの違いでも語ってみるか。

452: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/06(火) 20:09:25 ID:UQAArG840
荀彧→数多くの人材を推挙。
ぶっちゃけ、曹操の政治機構は彼が作ったと言っても良いぐらい。
曹操が遠征する時は本拠地の留守を担当。
皇帝や朝臣の監視も行っていたと思われる。
名実ともに曹操陣営のナンバー2.

荀攸→智略に優れた参謀。
大局的な計画よりは、局面を打開する局地的な策略を得意とする。
政治への関与は荀彧と比べると少なかったと思われる。

453: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/07(水) 08:06:08 ID:A9VtwPVU0
>>452 
荀イクは晩年に曹操と意見対立してる訳だが、荀攸は曹操に九錫を受けろと進言してるよな。魏国の尚書令になったしな。
何というか二人の国家観にも違いがあるような気がするんだがどう思う?
荀粲の批評もその事に関係してるんじゃないかと思うんだが。

455: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/07(水) 20:16:19 ID:blONDOec0
『通典』監軍軍師祭酒・理曹掾屬附
「・・・魏荀攸為軍師,軍国選挙及刑獄法制皆使決焉。」
荀攸は国政のあらゆる分野に参画してるんじゃないの

456: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/09(金) 03:14:37 ID:5l1OY9d10
荀攸は董卓暗殺計画を練ってたり、
捕まって投獄されても動じなかったりとしてけっこうカッコイイ。

459: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/09(金) 19:52:51 ID:HiFdKwto0
>>455-456
そうすると荀攸の方が活躍し過ぎというか、荀イクの出る幕がないというか、ぶっちゃけ荀イク何してたん?みたいな感じになってくるな。
本当は荀イクより荀攸の方がばりばり働いてて役に立ってたんじゃないの?

460: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/09(金) 20:09:40 ID:zDwH7pKR0
>>459
荀彧は多くの人材を推挙し、本拠地の留守を守っている。
これは常に曹操に随行していた荀攸には出来ない仕事だ。

461: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/09(金) 20:39:27 ID:3yLaxJyf0
わが子房と言われてたけど蕭何っぽいよね
荀攸が張良で陳平はいっぱいいるw

462: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/05/09(金) 20:46:48 ID:Sw0Qbmux0
>>461
いや張良で合ってるよ
荀彧がやったのは国家のグランドデザイン、大まかな戦略策定で同じ
荀攸がやったのは現実の目の前にある問題解決で陳平の類

472: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/11(水) 12:14:09 ID:BCSmSaElO
漢皇帝を傀儡にする策を堂々と述べ、皇帝を逐一監視する男が当時の名士からは絶賛されていた、という事実

473: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/11(水) 12:49:31 ID:KEqLPwaBO
まあ、どこの勢力が力をつけたとしても、傀儡よりマシな扱いをされる可能性は無きに等しかっただろう

474: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/11(水) 17:53:21 ID:qUugR+SJ0
儒教的にはどんなに善政を敷いても皇帝をないがしろにすることは許されないのかね?

475: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/11(水) 19:58:43 ID:N2PC3MSr0
端的に言うと儒家が伊尹をどう評価してるかって話になるかな
孟子では「伊尹の志あれば則ち可なるも、伊尹の志なければ則ち簒うなり」となっている
伊尹 (いいん) は、夏末期から殷 (商) 初期にかけての伝説的な政治家。商の成立に大きな役割を果たしたとされる。

伊尹は、商が夏を滅ぼす際にも活躍し (鳴条の戦い) 、商(殷)の成立に大きな役割を果たし、阿衡 (あこう)として天乙を補佐し、数百年続く商の基礎を固め、天乙の死後は、その子に当たる外丙と仲壬の二人の王を補佐したという。

天乙の孫・太甲が即位すると、伊尹は引き続きこれを補佐したが、太甲は放蕩を重ね国政を乱したので伊尹は太甲を桐 (とう)に追放し、自らは摂政としてこれに代わった。3年後、太甲が悔い改めたのを確認すると、再び彼を王に迎え自らは臣下の列に復したと伝えられる。

後世、伊尹は名臣として評価されているが、太甲の追放の一事に関しては、臣下でありながら主君を押し込めたこと、簒奪ではないかということが議論されることになる(孟子・尽心上篇)。


477: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/13(金) 12:21:25 ID:9bbdGTN/O
中国の天子にはちゃんと統治できる実力、実績が要求される
それが出来ない、またはもっと良く出来る者がいるなら禅譲すべきという考えになる
だから儒教的観点から言っても、大乱を止められず治められなかった漢帝より中原の混乱を収めた曹操の方が皇帝にふさわしい、となるのは間違っていない

478: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/13(金) 19:19:18 ID:6TrF1O6Q0
でも簒奪じゃ駄目なのかね。禅譲じゃないと。

479: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/13(金) 19:26:37 ID:yrbM9rgb0
禅譲って結局は手続を踏んだ簒奪だよね

480: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/14(土) 23:23:00 ID:SG3OlPCk0
放伐じゃなきゃ一応禅譲になるからな…
中国史上で本当の意味での禅譲はほとんどないべ

482: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/30(月) 13:00:15 ID:v/eV0eNA0
劉備の「如し其れ不才ならば、君自ら取るべし」は実質禅譲かね。
孔明が帝位に就かないのは劉備にも解っていただろうけど、あの言葉が孔明の権力と政治方針(北伐)にお墨付きを与えている訳だし。

483: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/30(月) 18:38:13 ID:rJB52JrI0
俺はあのエピソードに関して、劉備が孔明の忠心(叛心)を試したと解釈してる。
まあスレ違いなのだが。

485: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/30(月) 22:15:02 ID:aPYWrjhK0
実のところ、
「先君への忠義を貫いてがんがる」
を徹底すればするほど、
「忠誠無私の士こそ血筋だけで上に立っている凡君よりも君主にふさわしい」
という世論が醸成されるというアンビバレント

簒奪者として評判の悪い王莽は前者のポーズを徹底した
また、司馬氏も封建を何度も辞退するなど、周りに「帝位が欲しくてガッついてる」と見られるのをかなり警戒したように感じる

荀彧の考えも、前の王莽、後の司馬氏 と同じように、
「もっと忠誠無私のポーズを示して禅譲待望論が自然に湧き上がるのを待つべし」というスタンスだったのかもしれないな、なんて考えてみる

あと、諸葛亮の「忠誠無私」なポーズも、あとちょっとで王莽や司馬氏と同じ道をたどったかもしれないな、なんて

487: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/30(月) 22:23:35 ID:4VWfOpLW0
皇帝になるようすすめられてそれを何回も断る、という儀式もポーズの一種だったりするわけか
曹操は結局王のまま死んだが

488: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/30(月) 22:26:52 ID:vVnKCNas0
でもそれは曹操の口から言わせれば良い事であって
部下の荀イクの口から言う事じゃないんじゃね。

490: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/30(月) 22:33:05 ID:a5k0ny6z0
天下を欲しがらない者の元に天下が転がってくるかどうかは最後は運任せだし
それこそ一代で潰えた王莽の轍を踏みたくないという曹操なりの計算があってもおかしくないし否定できる物でもない

491: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/30(月) 22:39:06 ID:aPYWrjhK0
>>490
まあ、王莽も司馬氏も所詮は「欲しがらない」スタンスだし、悠長なこと言ってられないとかいった事情があったであろう曹操の判断は誤りとは思わないよ、俺も
ただ、曹操を見てきた司馬氏が「欲しがらない」スタンスを徹底したところを見ると、曹操のスタンスはあまり当時の士大夫的価値観からは歓迎されなかったようには思うし、荀彧の懸念もそういう点にあったんじゃないかと思う

492: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/30(月) 22:56:57 ID:a5k0ny6z0
そこは司馬昭の心は路ゆく人も知っている、だよ
司馬氏は曹氏のやり方を踏襲したと言っていいだろ
対比できるほどの違いはない

494: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/30(月) 23:04:12 ID:4VWfOpLW0
荀彧って死ぬ前の何年かはあんまり記述が無いよね?
このへんからソリがあわなくなってたのかも

495: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/30(月) 23:45:27 ID:aPYWrjhK0
>>494
そうだろうね
俺は曹操が赤壁で大コケしたことが転機だと思ってる

512: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/08/06(水) 11:30:56 ID:EFzCj4FNO
後漢書見てたら166年には唐衡の一族は死滅してた、みたいなことが書いてあったんだが、荀イクの婚姻もちょうどこの頃だよな

一族が衰亡しかけてたからどっかの有名な家と婚姻関係を結ぼうとしたのかね
唐衡(とう こう、生年不詳 - 164年)は、後漢の宦官。唐衡には娘があり、同郡出身の荀彧の妻に迎えられたとされる。

514: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/08(月) 23:46:03 ID:opdODWHL0
ジュンイクの兄貴やその一族はどこ行ったんだろう・・・

524: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/27(木) 06:52:36 ID:lMCg3beX0
荀彧を曹操が「我が子房」と呼んだのってなんか皮肉だよな。
張良の心に韓王信がいたように、荀彧の心にも漢があった訳で。

525: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/28(金) 01:55:46 ID:tf54m2rl0
>>524
一応釣られておくと、張良の心に韓王信がいたか全く定かではないように、荀彧の心にも漢があったかどうかも全く定かではない訳で。

526: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/29(土) 09:44:45 ID:Zcnh2M8j0
>>525
後者は兎も角、史実を踏まえりゃ前者は確実だろう。

527: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/29(土) 11:52:21 ID:fK3n2yNP0
>>526
史実を踏まえたら張良と韓王信の接点って最初に張良が連れてきたってだけに見えるよ
王に立てた時も関与が見えないし(多少はあったかもしれないが)、統一後に代方面に国換えされた時も柴武に討たれた時も特に何かした形跡がない
それに張良は韓王成を殺されて以降は韓を復活させること自体を諦め、執着していない感がある
レキ食其の六国復活策に猛反対してるからね
全然確実には思えないんだよな

529: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/29(土) 19:01:42 ID:ef1PWcu10
張良は割と頭の切り替えが柔軟っぽいよね。
鉄鎚で始皇帝ぬっ殺そうとしてた位だったのに王佐に切り替えて最後は仙人ワナビーだしね。
一方荀彧はそれができなかったと。

530: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 09:13:12 ID:Nty3284kO
荀令君の漢室への忠誠心が高かったら董卓の変の時に逃げないだろう。

石井仁の「曹操―魏の武帝」を読んだら、
「高祖は楚王のための喪服を着けて項羽を討った」として曹操の天子奉迎に賛同した荀イク
(曹操を高祖になぞらえた)は漢の純臣ではない、としてあった。
そして、荀イクの政治目標は天下統一であり、曹操に期待したのは「高祖の業」だったが、天下統一の目がなくなり、さらにその状況での九錫の授与ということで曹操との仲が冷え込んだとしていた。

532: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 11:59:34 ID:2sPR6Hpd0
真の意味での「忠誠心」が有ったかはともかく、後漢名士として持つ必要が有った「忠誠心」に縛られていたって可能性は十分あるのでは無いか。

533: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 13:11:14 ID:Nty3284kO
荀攸はどうだったんだろう?
董卓の専横の際は暗殺企てて死にかけてるが、その後は漢室べったりではないカンジ。

荀イクは漢臣としてのキャリアを進んでいくうちに「取り込まれた」、あるいは漢臣としての体面を保たざるを得なくなり、曹操との間に溝が出来た?

534: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 13:25:15 ID:Iz6CTQAC0
>>533
単純に曹操と主従関係ではなく共生関係だっただけなので
その関係性が主従に変化しそうになり、溝が生まれたと考える方が自然だと思う

535: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 13:35:38 ID:2sPR6Hpd0
そこに「漢」ってものの存在も関係してると考えるのはそう不自然でも無いんじゃないか。少なくとも名士連中は建前としては漢王朝に対する忠誠心を持っていないといけないんだから。

全土を統一した曹操ならともかく、まだ統一もしてない曹操が九錫を得ようとする動きに、社会的な名声という力を背景にしている荀イクが賛同できなかった、という考えは駄目かね。
無論、オールオアナッシングな議論じゃなくて、曹操と荀イクの政治的対立の一因としてそういうのが有ったのではないかと。

537: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 15:05:53 ID:PGeL9faY0
>>535
そもそもあまり「漢」ってことを考えるべきじゃないと思うよ
全くのゼロではないにしろ、ほとんど無視してもいいくらいの影響力だと思う
>>533についても、同じ「漢臣」でも積極的に曹操禅譲を進めた董昭や、曹操ともうまくやって溝を生まなかったカクのような者もいるから

大体、荀氏や荀攸の友人何ギョウなどの「清流派」は漢の皇帝から目の仇にされてきた存在
漢への忠誠を期待するほうがどうかしてるんだよ

538: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 15:11:46 ID:2sPR6Hpd0
>>537
張繍への賈ク 劉ソウへの王粲、カイ越 孫権への張昭
皆、建前としての「漢」という存在を重視した発言で曹操への帰順を薦めてるじゃないか。

名士論で考えるなら、清流派などの名士は儒に則った社会的な名声を自己の基盤にしている。
儒に則ってる以上、漢に忠誠心を持つっていうのは「建前」で有っても名士にとっては必要不可欠。
の復興なんか無理、とか言っちゃう魯粛なんかが異端。

540: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 16:16:42 ID:Iz6CTQAC0
>>538
つまり袁術、袁紹は異端だと?
むしろ清流派はあいつらがメインじゃないか

541: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 17:08:35 ID:2sPR6Hpd0
>>540
袁術なんかもろに名士の支持を取り付けてないし、袁紹が最初に取ったのは劉虞を立てるっていうことだ。漢を否定してはいない。

というか「清流派のメイン」の意味が分からない。

553: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 18:39:16 ID:Iz6CTQAC0
>>541
袁術は支持を取り付けてるよ
結局病死するまで曹操にボコられ劉備にボコられ呂布にボコられ旱魃と飢饉のコンボで大惨事になっても袁術を裏切って他に行く名士なんざ誰もいない
舒仲応みたいなのはいたようだが、こいつが他所に行った形跡はない

袁紹は袁術から漢はもうだめだなって手紙を貰ってその通りと思った、と注釈にある
注釈の魏書だからちょっとアレなんだけど、それでも当時袁紹は漢否定者だという認識はある程度あったからそれを大仰に書きたてられてるんだろう
まあ今上帝を廃して他の人を建てようなんて大逆無道、董卓同様の行いなんだから世間的にそうなっても全然不思議じゃない

542: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 17:36:15 ID:PGeL9faY0
袁氏は勢力拡大の過程などからいって、むしろ曹氏のような濁流に近い
宦官や外戚と着かず離れずして三公を輩出してたんだから

清流派的ステータスが最も高いのはおそらく党錮で処分された連中だろう
董卓以前から高官にあった奴らってのは、党錮を回避し、しかも買官の中にどっぷり漬かっていたってことなんだから
清流派の末席だとしても主流派ではない
この状況においては、清流派が漢は黄巾・董卓を待つまでも無く滅んでしかるべき末期的王朝と考えても不思議ではない

ジュンイクが望んだような漢へのある種の求心力は、この手の清流派ではなく、地方の山賊まがいの連中や異民族、流民といった者たちに向けられていたんじゃないかと思う
ジュンイクやその他当時の大臣高官たちには、漢を滅ぼすことに抵抗感があったにせよ、そのことが大規模な抵抗や政争を生むような問題になったとは思えないんだ

543: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 17:39:41 ID:2sPR6Hpd0
袁紹といえば、陳羣の檄文だって別に「許の天子を取り除いて新しい王朝を始めよう」なんて謡っていない。
袁紹の戦略として漢室軽視ってのが有ったかもしれないが(そこらへんについても議論の余地は有るだろうが)
袁紹自身の言動は別に「異端」ではない。

544: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 17:51:40 ID:PGeL9faY0
>>543
そりゃ、王莽だって自分から新しい王朝を開こうとか言ってないよ
あくまでも現政権の長が「俺の時代は終わった。お前が適任だ」と言ってはじめて禅譲革命になる
放伐革命というには、「皇帝陛下は聡明だが○○の傀儡となり云々」という状況なので、その○○が取り除くことは許されても皇帝に罪は無いので放伐の対象にならない
だから本心に関係なく自分からは言えないよ

546: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/30(日) 17:54:41 ID:2sPR6Hpd0
>>544
だから実際に「言っちゃった」魯粛が異端って言った。
まあ魯粛の発言もどういう場だったのか分からんがさ。

574: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/05/04(月) 22:23:35 ID:J30XXUXiO
荀イクの父親はなんで八竜(龍?)て呼ばれてたの?

575: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/05/04(月) 23:04:12 ID:HNL/NFeD0
>>574
八人兄弟でみんなそれなりに優秀だったからでしょう
兄弟が八人もいて、しかも一人も落伍しなかったというのは珍しいだろうから

あと、時代背景として地方ごと、あるいは兄弟一族で3人とか8人とかの優秀な者をまとめて「八○」「三○」と呼び習わす風潮があった
後漢書党錮列伝に載ってるのはそういう連中

576: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/05/05(火) 00:38:45 ID:TgKeroIG0
当時の役人登用システムの郷挙里選だっけ?
あれは要するにコネ人事だから、そうやって風評を水増ししてたんだよ
実際に優秀だったかもしれないけどまぁ話半分だわな

577: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/05/05(火) 12:57:39 ID:r4aZpKIf0
>>576
ま、荀彧の人材登用ってのも一種のコネ人事だし、求賢令もコネ人事前提での話だからね
九品官人法にしたって官品を付ける上で参考にできるのは風評と家柄だし、その人物を深く知ることになれば今度はコネになってしまう
そういう往々にして実態を伴わない風評が横行する中で的確な登用が出来たと言われるから荀彧は褒められてるんだよな

578: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/05/11(月) 12:55:29 ID:7WINfAhP0
なるほど。参考になりました
ところで以前荀彧について一通り抑える為に三国志と後漢書の荀彧伝を読んだのですが
それ以外にもこれだけはという物があれば教えて頂けると嬉しいです。出来れば邦文で

579: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/05/12(火) 10:16:46 ID:3uYy1Ou2O
>>578
論文の類では美川修一とか丹羽兌子とかがあるけど、どっちもこれだけは、ってほどのものではなかった

荀イクというか、当時の士大夫のあり方について抑えるためには「三国政権の構造と名士」とかがいいかもしれない

引用元: ・【曹操覇業の功臣】荀彧について語る



三國政権の構造と「名士」
渡邉 義浩
汲古書院
売り上げランキング: 1,696,061