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1: 世界@名無史さん 2009/02/26(木) 00:59:33 0
正史に沿った話しならOK








206: 世界@名無史さん 2009/04/17(金) 21:23:51 0
西晋が前趙に滅ぼされたから。
これまでの中華の正統王朝の必要条件の一つとされてきた「中原の保持」を、東晋は失ってしまった。
また江南に遷都したことで孫呉へのシンパシーが生まれ、さらに西晋から東晋へ王朝を受け継ぐ正統性を保障する理論として、後漢-蜀漢-晋の連続を正統とする蜀漢正統論さえ生まれる。
同時に、晋という国体を守るために危難にあってもあくまで一国を受け継ぎ、支えるという倫理が進展する
(ここで諸葛亮の株が急上昇する)

これにより前王朝を乗っ取って成立した魏(更に言えば西晋も)を歴史の見本とする見方が廃れ、その手法が蔑視されるに至る。中国で歴史的に曹操や司馬懿の人気が低いのはここから始まる。
このようにして生まれた風潮は民衆レベルにも深く根付いたようで、はるか千年の醸成期間を経て、明代の三国志演義に結実する。

211: 世界@名無史さん 2009/04/17(金) 23:27:33 0
>>206
元が襄陽記だからアレだけど、張悌の言葉なんかを信じるなら三国時代末期には既に魏=悪の枢軸、司馬氏=善玉とみなす風潮はすでに存在したみたいにも思える
南朝では世説新語での取り上げられ方を見ると、曹操や曹一族は既に狡知に長けた非道な悪党という印象になってるんじゃないだろうか

212: 世界@名無史さん 2009/04/18(土) 00:08:26 0
張悌の言葉で司馬氏が善政を敷いていたというのは、司馬晋が豪族名士を重んじる政策を多く出したことによるのだろう。
この辺り、同じように宮廷で実権を奪い自分の権威で賞罰を出すことから支持を得、王朝交代に至った王莽に通じると思う。
曹氏は軍事力によって出てきて征伐が多かったこともあり、「広く恩徳を施す」に至らなかった。
とはいえ、その司馬晋の非中央集権的な政策の結果西晋の滅亡に繋がるわけだから、「(西晋)司馬氏善玉」の風潮は後代に繋がったとは言えないのではないだろうかな。

225: 世界@名無史さん 2009/04/18(土) 06:18:52 0
趙雲って老将なの?

231: 世界@名無史さん 2009/04/18(土) 12:19:15 0
>>225

関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲の五将は何歳で死んだかがわかっているのは馬超だけだね。
魏の名将張コウなんかも死んだとき年齢は60歳は越えてたかも。趙雲もまあそんな感じじゃないでしょうか。
演義の70歳を越えていたというのはオーバーな感じがします。

226: 世界@名無史さん 2009/04/18(土) 07:03:21 0
趙雲は劉備が放浪生活していた頃から家臣だからねえ、第一次北伐時にはそれなりの年齢だったでしょう。

ただ、『三国志演義』の年齢とかは根拠の無い話し。
黄忠だって、関羽が老兵といっただけで年齢は不明。
関羽の発言は年齢よりも成り上がり者というニュアンス。

劉備と知り合った頃が20代だったすると、亡くなった時は60歳は過ぎていた感じだろう。

推測だが、第一次北伐の作戦には趙雲も深く関与していると思われる。
その為に自ら危険な囮部隊の指揮官になり、馬謖の敗戦の歳には諸葛亮と共に降格処分になったのは、作戦の首謀者の一人だったからだろう。

227: 世界@名無史さん 2009/04/18(土) 07:40:24 0
趙雲が北伐の立案に関与していたかどうかはあんまり関係ないんじゃないかな
趙雲は重要な別軍の指揮官で、北伐全体の副将級だったこと、戦術的に敗北を被ったことを合わせれば、諸葛亮の必罰主義的に十分降格範囲に入る「責任者の一人」だったのだろう。

228: 世界@名無史さん 2009/04/18(土) 08:43:09 0
作戦に関する諮問はあったかもね。
まあ、それは魏延に対してもあったんだろうけど。

それと、北伐には関係がないが諸葛亮と魏延の微妙な関係がうかがえる。趙雲は劉備死後に征南将軍に、間もなくして鎮東将軍に昇進。劉備時代には明らかに魏延よりも冷遇されいた趙雲を短期間に魏延と同等の名位に昇進させている。

王平の台頭も魏延への対抗馬として成長させようという意図を感じられる。
街亭戦の見事な撤退が評価されて以降は、第四次北伐では常に諸葛亮とは別の陣営を守らせている。常に直卒下に置かされた魏延とは対照的だ。魏延が大将だった郭ワイとの合戦も、重鎮の呉懿も参戦しており、魏延にある程度の制約が加わるように配慮してあるように思う。

236: 世界@名無史さん 2009/04/18(土) 16:22:58 0
>>228
魏延を信頼はしてないけど、しっかり昇進させているところは諸葛亮らしい公平さだな。ただ、常に諸葛亮が漢中に駐屯してるから、劉備時代よりも実権は魏延にはなかったかもね。遠征の時は常に諸葛亮の直接の指揮下だし。

諸葛亮が、自分の死後に魏延が命令を聞かなければ放置しろと言ったあたりは、まったく魏延を信頼してない証拠。魏延も期待通り(予想通り)の行動をしたわけだ。同じく能力はあるけど厄介者だった楊儀も軍の帰還後に左遷状態にさせている。自分の死後に国を乱しそうな人物は始末したんだね。

237: 世界@名無史さん 2009/04/18(土) 16:31:30 0
諸葛亮死後、蜀の実権を握るのはヒイら文官系の士大夫だしね。
でも実戦部隊では王平、あるいは投降組の姜維らが相変わらず重んじられており、特に後者は軍部トップにまでなる。
やはり魏延自身にも何か問題があったとしか。

241: 世界@名無史さん 2009/04/18(土) 19:50:06 0
>>237
軍人が暴走して遠征を繰り返すと国家転覆を招くことがあるからね。
こいつは姜維の北伐で実証された。魏延が諸葛亮死去後も自分が代わりに指揮を執り、遠征を続行しようとして意志を述べて事からも危険性が感じられる。魏
延は勇猛であっても、民から怨声を出させなかった諸葛亮のような政治的手腕はない。魏延が軍権を握ったりしたら、自分の功名心で遠征を繰り返す危険性がある。劉備や諸葛亮なら制御できても、その後継者では無理かもしれない。だから始末されたのだろう。

諸葛亮は、劉備の死後は趙雲や呉懿・王平といった忠実な将軍の名位を上げて魏延とのバランスを取ろうしている。また、侍中だった費イを遠征に参加させ、軍の統制のノウハウを学ばせている。費イは期待に応えて魏延・楊儀の不和を仲裁してそれぞれの能力を発揮させた。士大夫層が如何に軍部を掌握するかを常に考えていたのだろう。

238: 世界@名無史さん 2009/04/18(土) 16:58:36 0
蜀だと、大将軍とか車騎将軍とかの一つの軍位を左右二つに分けたりしているけど。
これはなんで?
権力の一極化を防ぐため?

240: 世界@名無史さん 2009/04/18(土) 19:41:27 0
功臣が年を取って前線を退いても与える顕職が無かったからだろう。
蜀漢では驃騎・車騎将軍が分割されている。その上は実権の大きな大将軍になってしまうので行き場が無い。
漢魏晋では三公四輔が老臣の最後の花道として機能した面があるが、蜀漢はそれを置かなかったので車騎驃騎が当てられたのだろう。
左右車騎の廖化・張翼や鎮軍大将軍の宗預はその類で、魏の侵攻までは成都の中軍を統括するような仕事をしていたようにみえる。勿論、時代は大分遡るが実働した呉懿のような車騎もいるだろうけど。

251: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 07:01:30 0
>>240
驃騎将軍は劉備時代は馬超、諸葛亮時代は李厳が任命されたくらいだな。
車騎将軍は劉備時代は張飛、諸葛亮時代は劉エンが就任している。劉エンは完全な役立たずの為の名誉称号だった。李厳は諸葛亮の次官という意味合い。まるっきし名誉職というわけでもない。
呉懿や鄧芝も実働していた車騎将軍だった。費イが宰相だった頃までは、概ね功績がある重鎮が任命されていた。実働の将軍だった。

249: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 00:39:25 0
常設武官の最高位であるはずの車騎将軍さえ分割したのが蜀だからな。実質的最高権力者の大将軍が、ただの武官トップぐらいに格下げされてたのかな?

250: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 02:04:39 0
閻宇の右大将軍は右将軍DXだろう。
魏には名誉職敵な上軍大将軍、中軍大将軍、南中大将軍とかがあった。
蜀は単純に車騎将軍とかを左右に分割しただけだろう。

それと、魏では四征将軍は四鎮将軍や四方将軍より上位だけど、蜀では四鎮将軍は四征将軍より上位で、その上に四方将軍が位置する。
四大鎮・四征大将軍は四方将軍よりも上位。同じ将軍位でも魏と蜀では上下関係が違う。

252: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 07:45:51 0
四方将軍の方が名誉職でないかい?
尚朗とか軍人とは言えないような人も任命されてたし。

劉備が帝位に昇ってからは四方将軍が誰だったのか不明だし、やっと北伐開始の頃に李厳が前将軍、降格で諸葛亮が右将軍になった
のがわかっているくらい。呉懿も左将軍にはなったが・・・・

全般的に活躍して軍事部門で活躍した趙雲、魏延、王平、馬忠、張ギといった伝記がある将軍は四方将軍には就任していない。

253: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 12:30:03 0
劉備が帝位に即位した直後の四方将軍はだれだったんだろ?
趙雲、魏延はちがうし、李厳や呉懿もちがう。馬超と張飛はもっと高位の将軍に就任している。空席のままだったのかな?

東征で戦死した将軍には、そんなに高位の将軍はいなかったみたいだ。
四方将軍は常設じゃないのかな?

254: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 13:49:53 0
元々将軍自体が非常設の号だから、劉備が即位したときの官職の再編成の時点では四方将軍は置かれなかったのかもしれない。

256: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 16:25:23 0
蜀は自分こそ漢王朝の正統、としていたから漢の官位を極力真似しようとしたんだけども。
実際には益州ぐらいしかまとまった支配地がなかったからね。
なんかの本で、人口に比して官吏の数が多い構造だとか見たことがある。

258: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 17:03:48 0
ケイ州とかの失陥地から逃げてきた官吏を免職するわけにもいかなかっただろうしねぇ

259: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 17:38:04 0
そりゃ、益州の地方統治機構と宮廷の中央官府に加え十分な軍備を一州で賄わなければならないのだから人口比では官吏の数が多いのは自然なことだろう
荊州から逃げてきた官吏は比率が変動するほどではなかったと思う。
官吏の大半は郡県に属する現地雇用の下吏なので、よほどの理由が無ければ呉から理由がない。
軍の残余は解体して戸籍に編入すればよい。

260: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 17:40:17 0
王朝の体面保つための、仕事せず俸禄もらうだけの冗員が相当いただろうな。

261: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 18:03:40 0
蜀降伏時で民90余万、甲兵102千、官吏40千ってなってなかったっけ?
兵の何割が屯田してたか分からんけど、人口の1割くらいは公務員だろうね。

263: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 19:08:44 0
姜維の北伐が国家滅亡を招いたのは、諸葛亮のように屯田しなかったからという論者もいるね。

264: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 21:48:51 0
屯田しようにも、土地をそもそも奪えなかったんだからな。諸葛亮でさえ一時期占領が限界だし。
かといって兵力を削減するわけにもいかず。
ケイ州陥落の時点で戦略的には詰みだったかな。

265: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 22:03:50 0
征服した南蛮に入植させたのでは?

266: 世界@名無史さん 2009/04/19(日) 22:05:56 0
魏は北方民族を捕虜にして軍隊に投入。
蜀も南蛮人を軍隊に投入したの?

271: 世界@名無史さん 2009/04/20(月) 10:13:53 0
>>266
思い当たる部分を調べた

蜀では劉焉の時代から既に青羌兵の存在が確認できる様に、軍に編入して戦力の一端を担わせている事が窺える

諸葛亮が北伐を行う時代では、無前、賨、叟、青羌といった異民族によって構成された騎兵の存在が確認でき、少数ではあるもののそれなりの戦力として機能する精鋭だったとされている
これらの養成には長い年月を要したとあるので、この中でも劉焉の時代から存在した青羌兵などは劉備政権に移行後も継承されていたものなのだろうと推測される
上記の賨兵に関していえば、もともと性質は剛猛といわれ、楚漢の抗争時代にも高祖・劉邦の戦力として貢献していた様で、叟からは兵のみならず、耕牛や軍馬や皮革、資金などの供給源であった事が窺える

また、諸葛亮によって無当監を加えられた王平の麾下にも無当と呼ばれる南中から選抜された精鋭が存在したといわれている
姜維の時代でも、汶山太守の王嗣が羌族などの諸民族を帰服させ、牛馬や食料といった軍需物資の供給源としている

一州のみで魏と戦わなければならず、夷陵の敗戦で戦力の中核を大きく減じ、異民族に手を焼いていた蜀にしてみれば、異民族を上手く取り込んで戦力の強化・増強を図る事は必至というか当然の成り行きといっていいんだろう
尤もこれは魏や呉にも共通するものであろうけど

ざっと調べた程度なんでツッコミやら補足が必要なあたりは容赦してほしひ

269: 世界@名無史さん 2009/04/20(月) 00:37:16 0
屯田の多い魏のほうが兵の割合が多かった?

270: 世界@名無史さん 2009/04/20(月) 01:34:33 0
魏の人口は桁違いだからなぁ。詳細不明だが、比率にしたら蜀より小さい悪寒。

276: 世界@名無史さん 2009/04/21(火) 05:29:40 O
長沙大守・韓玄の墓が現存していると聞きました、
何か資料的価値があるものは出土したのですか?

277: 世界@名無史さん 2009/04/21(火) 21:53:41 0
おそらくかなり後代になってから建てられた墓碑。
韓玄は字も本貫もわからない人物だから、その墓からも何か出たわけではないのだろう。
韓玄墓記というのは墓に収められていた墓誌の写しだろうけど、
しかしなぜわざわざ韓玄の墓を立てる気になったのか、という事情は興味深いね。

278: 世界@名無史さん 2009/04/21(火) 23:32:54 0
演義で、黄忠が韓玄を葬っているから、演義由来の史跡の一つと思う。
韓玄の死について言及があるのは演義だけだから、数多くある演義由来の史跡と見るのが自然と思う。

279: 世界@名無史さん 2009/04/22(水) 01:40:04 0
民国「長沙市指南」
韓玄墓在城南三府坪長郡中学校内、墓寛約丈余、長可三丈、墓前有碑鐫曰:漢太守韓玄之墓、墓之東南有韓玄祠
按此墓或為明清時人据「三国演義」故事造作

280: 世界@名無史さん 2009/04/22(水) 02:05:00 0
しかし墓碑では韓玄を名太守として褒め称えてんだよ。
演義由来だったら貶めるはずだろ?そこが不思議なんだよな。

283: 世界@名無史さん 2009/04/22(水) 03:27:19 0
あくまでも「黄忠が韓玄を葬った」
という美事の史跡であって、韓玄のための物じゃないってことじゃね?
黄忠が、韓玄を葬り墓碑銘に美辞を記したっていう。

284: 世界@名無史さん 2009/04/22(水) 03:44:07 0
韓玄祠でググったら名城長沙なるサイトに
『学院衛門後側有漢末韓玄及韓玄祠,韓玄墓、祠因《三國演義》中関羽戦長沙,~』
って、あった。

285: 世界@名無史さん 2009/04/22(水) 16:29:13 0
韓玄の墓について一番詳しいのは多分「韓玄墓記」ってやつで
清の時代に書かれた韓玄墓碑の写しらしい。
それ以前の時代に出てこないので、墓碑自体は結構新しいと思うが、演義の影響にしては褒めすぎなんだよなー。

286: 世界@名無史さん 2009/04/22(水) 21:23:21 0
韓玄墓記でぐぐってみると、これは清の汪應銓の作らしいね。
汪應銓は康煕57年の状元(科挙主席合格者)で、韓玄を評価している理由は、ぐぐって出てくる文章の内容
「「威信智略,足以服人」,「寬厚愛人,玄與三郡倶降,兵不血刃,百姓安堵,可謂知順逆之理,有安全之德。」
(威信智略は以って人を服するに足る。寬厚にして人を愛す、(韓)玄は三郡と倶に降り、兵は刃に血せず、百姓安堵す、順逆の理を知り,安全の德ありというべし。)からみると、「戦争を未然に避けて他の太守とともに降伏した」からみたいだね。
「他の太守と一緒に降伏→人を説得できるだけの知力がある→韓玄すごい」という論理だと思う。科挙主席合格なら正史は読んでるだろうし、正史での記述を膨らませればこうも書けるかも知れないね。

褒めすぎだと思うが、まあこの手の文章は郷土の英雄を顕彰する意図があるもんだからなあ。

288: 世界@名無史さん 2009/04/23(木) 00:06:55 0
汪應銓の作ではなく、韓玄の墓から出土した墓記を汪應銓が取材して記録したものじゃない?

演義で韓玄が黄忠に葬られているから、というのはなるほどと思った。
でも韓玄は演義でも史書でも長沙の出身とは書いていないはずだし…
長沙ご当地では演義から派生した民間伝承が語り継がれていたのかもね。

289: 世界@名無史さん 2009/04/23(木) 02:05:05 0
金石文のほうが、紙の史料よりも絶対に信用できる。

290: 世界@名無史さん 2009/04/23(木) 02:17:23 0
金石文や墓碑の信憑性が高いのは、それが当時に刻まれた一次史料である場合だよ。
必ず二次史料になってしまう史書より必然的に実録に近い。
でも今回の韓玄墓のように、遙か後代になって廟が建てられたりした場合は全然当てにならない。

292: 世界@名無史さん 2009/04/24(金) 06:46:03 0
張遼や徐晃が、盪寇将軍に任命されてるけどこの将軍号は格式としてはどのくらいのものなの?

293: 世界@名無史さん 2009/04/24(金) 14:31:59 0
>>292
雑号将軍。品官でいえば五品。

294: 世界@名無史さん 2009/04/24(金) 15:42:22 0
漢書、史記、後漢書、三国志を検索してみたが、盪寇将軍の初出は後漢の末期も末期だな。周慎、趙稚長、劉祥あたりが最初のメンバー。
あまり高いクラスではないと見た方がよさそう。

295: 世界@名無史さん 2009/04/24(金) 16:08:54 0
五品であんまり高い位ではないのか。
これは、元敵将だからそういう扱いにしたのか、それとも位をおさえてあちこち転戦させまくるため?

張遼が任命されたのが207年ころで40歳手前、曹操配下になって約9年、 破格の昇進とはいえないのかな?

300: 世界@名無史さん 2009/04/25(土) 12:14:28 0
>>295
後漢と魏では官制が違うから一概に言えないんだよね。
そもそも後漢では、黄巾の乱あたりまでは雑号将軍ってかなりの地位だったんだ。
将軍位としては下の方だけど、だいいち将軍位そのものが相当に高貴。
李カクや曹操のころから急速に価値が下がってきて、定員がないから、張遼のような一般の武人にも与えられるようになってくる。それでも高位といえば高位には違いないけどね。
呂布が滅んで中郎将、年功で裨将軍、柳城で大功立てて盪寇将軍だから、まあ順当なところじゃないかな。
破格の昇進というほどでもないけど、停滞でもない。

301: 世界@名無史さん 2009/04/25(土) 12:54:07 0
>>295
張遼(206年~盪寇将軍)と同時期の盪寇は、凌統(214~盪寇中郎将)、関羽(209~盪寇将軍)
ついでに楽進の折衝将軍は同時期に甘寧(214~)

盪寇は敵を滅ぼすという意味(折衝は敵の衝いてくる矛先を折るって意味)らしいから、前線に配置された人物に付けられやすい雑号なのかもしれない

303: 世界@名無史さん 2009/04/25(土) 13:40:32 O
ちょっと前の議論だが、何故軍人が徐々に蔑まれるようになったかについて。

後漢では軍制改革が光武帝・明帝の前二代において行われたんだが、確か私奴婢が軍に志願して自分を買い戻すことを認めてるんだよね。
だからそこから来た蔑視発言じゃないかな>庸奴
後漢末頃、奴婢が階級脱出のために志願するのが常識化しはじめ、奴婢への差別意識と武への蔑視が結び付き出したんじゃないかと。

306: 世界@名無史さん 2009/04/25(土) 19:13:05 0
>>303
遅くとも武帝の時代に儒学統治が固まるまでには、そうでなくとも春秋戦国に諸子百家が持論を構築していた頃には既に中華は文高武低。もっと前には武士社会だったというけどね。劉邦の古参部下達もほとんど下級官吏か在野の商人。
劉秀の二十八将のうちの「叩き上げ」達も殆どそんな感じで、統一後は爵位を与えられて厚遇はされたが朝廷の政治には預かれなかった。

307: 世界@名無史さん 2009/04/25(土) 20:47:21 0
士大夫=何でも出来る
兵子=殺し屋

みたいな感じ
完全に分業化されてた訳じゃないだろう

309: 世界@名無史さん 2009/04/25(土) 21:38:05 0
武人が差別されたのは、兵士だからではなくて、
(官に就いているにも拘らず)教養が無かったから。

310: 世界@名無史さん 2009/04/25(土) 23:24:51 0
武官学校のようなものはなかったのか?

317: 世界@名無史さん 2009/04/26(日) 09:25:24 O
>>310
少なくとも中央の兵士については、光武帝が専門の官をおいて教育を行っていたかと。
確か『舊唐書』かなにかの記述だが。

322: 世界@名無史さん 2009/04/26(日) 17:05:59 0
三国志武将で非漢民族らしいのは馬超だけ?

323: 世界@名無史さん 2009/04/26(日) 17:11:37 0
異民族の血が混じっていると明記されてるのは確かに馬騰の血統くらいかな
ただ辺境で蜂起した豪族達にはそんな感じの人間が結構いたかもしれない

324: 世界@名無史さん 2009/04/26(日) 17:11:50 0
いや、馬家は漢人の系譜だよ。
漢人の定義がわからんが、異民族の血がはいっていると思しき者なら何人もいるし。
あと劉豹とかの匈奴系も出ているじゃん。

327: 世界@名無史さん 2009/04/26(日) 21:33:42 0
杜コ、朴胡が巴夷だな。高定が南蛮人。沙摩柯も蛮夷だったはず。
攴胡赤児もいるし、軻比能とか蘇僕延とか…きりがないな。
322が聞きたいのはそういう意味じゃないと思うんだが。

引用元: ・正史『三国志』 十四巻



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