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1: 日本@名無史さん 2008/08/28(木) 23:37:13
いわゆる幕臣について語り合おう








166: 日本@名無史さん 2009/01/31(土) 23:19:38
500石程度の旗本も、わざわざ自前の代官派遣していたの?
費用かさみそうだね

167: 日本@名無史さん 2009/01/31(土) 23:33:38
>>166
自前ではなく御代官だろ

168: 日本@名無史さん 2009/01/31(土) 23:34:24
派遣ではなく地代官だね。

170: 日本@名無史さん 2009/01/31(土) 23:36:54
年貢取り立てて大阪に米運んで金に換えて・・・・
旗本家業も楽じゃ無い?
豊作凶作に関係なく自動的にお金くれる蔵米取りの方が良い?

172: 日本@名無史さん 2009/01/31(土) 23:53:16
知行地はステータスシンボルだね
でも同じ石高なら、蔵米取りのほうがよかったんじゃない?
農民だって「ハイハイ御領主様」と言って素直に年貢を満額納めたわけではないし。
ま、蔵米取りも強制的に借り上げとかされるけどね

175: 日本@名無史さん 2009/02/01(日) 01:27:40
何度も飢饉があったからな
千石以上の一部の上級旗本はなんとかなったかもだが概ね苦しかったのだろう

176: 日本@名無史さん 2009/02/01(日) 01:32:59
飢饉の時は一時金みたいなの、出たでしょ

194: 日本@名無史さん 2009/02/01(日) 19:06:06
長宗我部家遺臣で幕臣になったやつっている?
山内や藤堂とか浅野に仕官したやつはけっこういたみたいだけど

240: 【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 2009/02/07(土) 05:22:44
>>194
斎藤氏の他、多数いたよ。
ただし、沢山はいないね。
山内、藤堂、井伊に仕官したのが多かったから。
徳川直参になった人の次三男で山内忠義にスカウトされたのもいたらしい。
確か直参ではなく譜代大名に仕えていた本山氏もそれ。

198: 日本@名無史さん 2009/02/01(日) 20:15:15
本家が旗本で分家・末家が大名ってのはあるのかな?
本家の威光は絶対な封建社会においてあるとすればどのような関係にあったのでしょうか?

年始や参勤交代時には、分家・末家は本家にあいさつに伺っていただろう。
また、幕府への書き付けにおいても、分家・末家の書状には本家の添え書きが必要であった。

さてさて・・・

200: 日本@名無史さん 2009/02/01(日) 20:25:58
>>198
朽木とか京極。
朽木は本家が交代寄合、京極は本家が高家。

208: 日本@名無史さん 2009/02/02(月) 23:24:08
無役(小普請)の御家人で,抱席っていたの?
小普請の御家人だと役がないから,抱席だと代替わりできないですよね。


209: 日本@名無史さん 2009/02/03(火) 06:58:52
>>208
だと思います。
家禄のある御家人は「譜代席」「二半場」と言われていて「抱席」は確かに家禄のない御家人なんで、小普請(=無役)には抱席の者は存在しないかと間違っていたらごめんなさい。

211: 日本@名無史さん 2009/02/05(木) 08:21:37
御家人は馬に乗ってもよいのだろうか?

212: 日本@名無史さん 2009/02/05(木) 11:50:16
いいんじゃないの?

214: 日本@名無史さん 2009/02/05(木) 13:24:47
御家人は徒じゃないの
旗本でも小十人組は徒だし

215: 日本@名無史さん 2009/02/05(木) 13:27:19
御家人は馬に乗れない。家に玄関も作れない。
与力等の役職についた時だけ、馬が許される程度。

216: 日本@名無史さん 2009/02/05(木) 14:48:17
登城に馬は使えないけど
代官所手付手代からなる関東取締出役は馬に乗るよ
南北中の町奉行所の与力は馬に乗らない

219: 日本@名無史さん 2009/02/05(木) 20:08:01
>>216
関東取締出役は多分乗れなかったと思うよ
与力は登城以外で乗れた

224: 日本@名無史さん 2009/02/05(木) 23:32:48
>>222
ウィキ出典には

関東取締出役は1805年に設置された江戸幕府の勘定奉行配下の役職。
小領主や飛び地などが多く広域的な警察活動が難しかった関八州を私領 (諸大名旗本寺社領等)・御領(天領)の区別なく巡回し、治安の維持や犯罪の取り締まりに当たった。但し御三家である水戸家領などは管轄外とされた。

俗に八州廻りともいう。代官所の吏員である手代手付から任命した。彼らを支援するための現地スタッフとして目明しが主要な町村毎に任命された。

八州廻りはかなりな権勢を誇り身分上は足軽格という比較的下層な身分であるにも関わらず本来は上級武士にしか許されない駕籠を乗り廻し大勢の従者を引き連れて廻村するなど弊害も大きかった。

馬はもちろんのこと、駕籠にも乗っていたらしい。ただし、幕末でもあり公式に認められたことなのかは不明

229: 日本@名無史さん 2009/02/06(金) 00:34:08
>>224
関東取締出役が足軽格?
代官所には手附・手代のずっと下の書役のさらに下に足軽がいるけどそれと同格?

233: 日本@名無史さん 2009/02/06(金) 20:40:20
関東取締出役は200石取り。足軽とはちがうでしょう。

234: 日本@名無史さん 2009/02/06(金) 21:15:46
関東取締出役は200石取りではないよ
足軽でもないけど

235: 日本@名無史さん 2009/02/06(金) 21:38:24
じゃー何石取り?
北大路欣也の時代劇でナレーションは200石取りと言ってたが・・・。
真実が知りたい。

237: 日本@名無史さん 2009/02/06(金) 21:52:19
手附よりもと農民とかの手代から関東取締出役に出役するほうが多いからな

239: 日本@名無史さん 2009/02/07(土) 00:29:33
それでも八州様は足軽2人小者2人率いて廻村する公儀のお役人
しかも重刑でなければ現地で独断で決済できる

241: 日本@名無史さん 2009/02/07(土) 12:16:44
旗本と大名家(特に外様)は中悪いよね。
有名な鍵屋の辻のあだ討ちだって、旗本が脱藩者庇ったりしたから騒ぎが大きくなったんでしょ。
それ以前の逆(旗本の脱走者を池田が庇った)のいきさつもるらしいし。

244: 【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 2009/02/07(土) 14:20:21
>>241
まして江戸時代初期には喧嘩旗本と暴れ大名との喧嘩がw
はたまた徒格、足軽格の御家人は他大名の上士を敵視。

242: 日本@名無史さん 2009/02/07(土) 13:59:34
安部四郎五郎みたいな旗本が外様大名のお家問題に干渉したりすりしな

245: 日本@名無史さん 2009/02/07(土) 14:37:20
旗本は御目見以上で御家人は御目見以下とよくいうけど、徳川禁令考の旗本御家人令条之一では旗本の定義は万石以下の御番衆までで御目見は両者の区分の原則にはならないとしているんだよね

254: 日本@名無史さん 2009/02/07(土) 21:39:54

>>245
幕府のややこしい一面ですね。旗本の定義も難しい。
しかし、旗本とは次の定義が無難でしょう・・

◇家禄万石以下で代々、家として将軍家への御目見を許される家格を持つ家


この定義が無難です。たとえば、家禄の大きさでは定義はできません。家禄30俵以下の御目見以上(旗本)の家は寛政期には20家もあったようです。
また、御目見以下(御家人)の最高では知行200石高の者もいたようでした。
石高の大小では定義できない所以です。

また、属人的に御目見以上(旗本)の役についていても、幕府より『代々御目見以上』の認定を貰わない限り、子孫はまた御目見以下(御家人)に戻ってしまいます。

255: 日本@名無史さん 2009/02/07(土) 22:59:08
代々とは三代でしたっけ?

256: 日本@名無史さん 2009/02/08(日) 00:13:08
>>255
“代々御目見以上の認定”とは,正に文字通りでしょう。
三代続けてお目見えとかの事実の積み重ねではなく,あなたの家はこれからは子々孫々御目見得以上の家格ですよというお許しを頂くのですから。

それと旗本と御家人を石高で区切るのは,難しいでしょう。
交代寄合の岩松新田家なんて120石しかないし,それも当初は20石でしたっけ?

257: 日本@名無史さん 2009/02/08(日) 02:33:45
特殊な例を排除すれば、
おおよそ、の区切りはあるんじゃね?

258: 日本@名無史さん 2009/02/08(日) 07:13:31
>>257
慶安2年の軍役規定には、200石から掲載されているので、あえて言うなら200石以上が凡その基準かと・・

しかし、約5200家ある御目見以上(旗本)の25%にあたる約1300家は200石以下であるので、この定義もすっきりしませんが。

259: 日本@名無史さん 2009/02/08(日) 10:38:04
旗本が将軍家の寄生虫と化して、役立たずの無駄飯食いになったから、幕府は滅んだのでしょう。

271: 日本@名無史さん 2009/02/08(日) 16:27:59
いや、旗本は小なりとはいえど領地をもち、そこを治めないといけない領主でもあったんだよ。
だから幕末に洋式軍隊用に旗本領地から農民出させる、なんてこともあったわけで。
幕府直轄の領地からリン米貰ってる連中がそれじゃないの?
まぁそれも今で言う役職手当みたいな意味もあったから、ただ飯ぐらいとは違うだろうし。

274: 日本@名無史さん 2009/02/08(日) 16:49:06
無駄飯かはともかく、余剰人員ってのはどこの藩も悩まされたことだしな。
実働ポストに対して抱える人数が多すぎる戦国時代の名残。
もっとも人手が欲しくて消耗激しかった軍役はほぼゼロになったし。

283: 日本@名無史さん 2009/02/09(月) 12:43:33
旗本八万騎。実数は軍役で動員する郎党等合わせても四万いかない。

285: 日本@名無史さん 2009/02/09(月) 21:11:57
>>283
旗本とは元は将軍家を守る番衆たちを指していたが、いざ戦さともなれば 万石以下の直参、いわゆる旗本・御家人以外にも、譜代大名や家門大名も将軍家のために馳せ参じたろう。
よって、旗本・御家人の4万に加え、大名家の家臣衆を入れて最大で8万と呼称したのだろう。(それでもまだまだ鯖の読みすぎかな)

294: 日本@名無史さん 2009/02/11(水) 15:30:48
勝海舟の回想だと、幕末での旗本の実数は三万四千程度だったらしい。

295: 日本@名無史さん 2009/02/12(木) 13:21:27
>勝の回想

駿河に徳川宗家が追い払われる時の調査だっけか?
正確には三万四千「家」だから、動員数はその数倍に上っただろうけどね。

296: 日本@名無史さん 2009/02/12(木) 21:05:07
>>1
「横須賀組田辺与力」をご存知でしょうか?

本来なら直参(旗本)になれたにも関わらず倍々臣となってしまった三河以来の武勇の36家。松平(徳川)家の重臣に「大須賀康高」という兵がいたが、徳川家の勢力拡大に軍団組織が追いつかず、結果、家康直参の90名が附属与力として、大須賀に附けられた。
のち安藤直次に附属換えとなり、結果としてその36家(家禄200石)が安藤家の附属与力となってしまう。
しかし、その安藤家も紀州徳川家の附家老として、大名とは認められない陪臣扱いとなり、その又家臣の「横須賀組田辺与力」は陪々臣の身分となってしまう。
そして、幕末の1855年に20家の「横須賀組田辺与力」は紀州徳川家への勤仕替えの騒動を起こし、幕府にもこの騒動がつたわり、結果、家禄半減で松坂城城番士(紀州藩士)となり陪々臣から陪臣への復帰が悲願280年で達成した。

本来は陪臣ではなく直参への復帰が本懐であったろうに・・・

305: 日本@名無史さん 2009/02/13(金) 00:11:51
>>296
田辺与力は陪々臣ではないよ
少なくとも本人たちはそう思っていたからこそ騒動が起きた
身分的には安藤家の支配を受ける紀州藩士だろう
 
それにしても何の仕事もなく250年続いたのはスゴイ

297: 日本@名無史さん 2009/02/12(木) 21:54:35
>>296
田辺与力は,紀州家直臣の威光を笠に着て安藤家家臣に傍若無人の振舞いをして恨みを買っていたと何かで読んだ。
因果応報なんだろうけど,こんな例はいっぱいあったのでは?
徳川譜代に限らず,豊臣恩顧の大名でも,急速に取り立てられていった大名家では,与力衆から家臣団に吸収された例があるのでは・・・


299: 日本@名無史さん 2009/02/12(木) 22:32:13
>>296
大久保彦左衛門忠教も複雑な状況であった。彼も純粋な直参旗本ではなく、兄貴筋の本家であった大久保忠隣の家臣団に附属され、本家より俸禄(3000石)を得ている状況にあった。
幸い?にも、大久保長安事件の連座で本家(忠隣)が改易となり、彦左衛門は将軍家から改めて1000石の拝領を受けて、この時点で正式な直参旗本として確定する。
多くの大名家に存在する一門の家老職にあっても、幕初からの附属の臣が多数含まれているのだろう。

300: 日本@名無史さん 2009/02/12(木) 22:45:04
>>299
幕初では,徳川直臣と,本家家中との境界は曖昧だったのではないでしょうか。
特に当主の庶子の場合は,当主の家臣か,徳川直臣かどうかの?

302: 300 2009/02/12(木) 22:52:54
でも,一門の惣領職はどの程度の権限があって,主君の徳川家はどの程度干渉できたのだろう?

303: 日本@名無史さん 2009/02/12(木) 23:14:24
>>302
封建社会では主従の関係がとりわけ大切
大名の本家・分家の裁定についても、将軍家は強く干渉はできなかったと聞いたことがある。
毛利本家と吉川家、仙台伊達家と宇和島伊達家など将軍家も尾張・紀伊・水戸に分家たる御三家があり、越前松平家は家康の血筋では本家筋といっても間違いではない家もある。
強い干渉はできなかったのだろう。

308: 日本@名無史さん 2009/02/13(金) 11:48:26
曾祖母の実家が、大貫という苗字の旗本・代官だったそうだが、代官って高級な旗本から選ばれるものですか?だったらいいなぁ

310: 日本@名無史さん 2009/02/13(金) 12:28:43
>>308
代官は150俵の身分だから旗本の中では下層。ただし袖の下たんまりだから裕福。

315: 日本@名無史さん 2009/02/14(土) 23:10:07
>>310
現代の国家公務員と比較してみよう
霞ヶ関と出先機関の非現業職には1府11省庁で計30万人が働いている
人口は約12000万人

これに対し江戸期の人口は約2600万人であって、現在の約20%程度
そして、現在の国家公務員に相当する人数を強引に比較してみると
・大名260名
・旗本(御目見以上) 約 5200名
・御家人(御目見以下)約17000名

となり御家人であっても、相当に現在の感覚からでは下級とはいえないと思う。
ましてや、旗本は5200名しかいないので、旗本の下層ではあっても、超エリート(貧乏?)サラリーマンだったかもしれない。

314: 日本@名無史さん 2009/02/14(土) 16:34:39
旗本奴みたいな不良どもが出るぐらいだから、鬱屈していた連中も多かったんだろうな。
ついには町奴と喧嘩になって、家康に連なる名門旗本の水野家が潰れたり。

321: 日本@名無史さん 2009/02/15(日) 12:10:49
役目のない下級武士は行政にかかわらないから自衛隊員だな。
地方公務員は名主とか大家とかがそれにあたりそうだな。

322: 日本@名無史さん 2009/02/15(日) 12:14:38
発動されないだけで軍役は健在だったから、むしろ自衛隊員が一般行政職を兼ねる、みたいな状態だろうなぁ。

326: 日本@名無史さん 2009/02/15(日) 21:49:23
このなかで万石以上の大名も就任があった御役は
2御側衆、4伏見奉行、6大御番頭の3職でよろしいか?

 1高家       1500石高
 2御側衆   5000石高
 3駿府御城代 持高・役知2000石
 4伏見奉行  持高・役料3000俵
 5御留守居  5000石高
 6大御番頭  5000石高
 7御書院番頭  4000石高
 8御小姓組番頭 4000石高
 9林大学頭  3500石高
10田安殿家老  持高・公儀から1000俵、屋形から1000俵
11一橋殿家老 持高・公儀から1000俵、屋形から1000俵
12清水殿家老  持高・公儀から1000俵、屋形から1000俵
13大目付    3000石高
14町奉行    3000石高
15御勘定奉行  3000石高

328: 日本@名無史さん 2009/02/15(日) 22:07:35
駿府城って、城代は大身旗本なのに加番には大名も加わってるんだな。
なんだかちぐはぐだし、老中への出世コースの大坂城代とは随分扱いが違うな。

330: 日本@名無史さん 2009/02/15(日) 22:32:14
>>328
将軍家の「城代」なんだから大名より上だよ

338: 日本@名無史さん 2009/02/16(月) 20:55:16
>>330
将軍家の城代とは、天領地にある城郭の守衛者かとも思われるが
天領のなかで城郭がある地は、「大坂城」「駿府城」「二条城」「甲府城」でしょうか。その長官相当にあたる者は・・

・大坂城は大坂城代(5-6万石以上の譜代大名:四品叙任)
・駿府城は駿府城代(高禄旗本で持高・役知2000石)
・二条城は二条在番(2組の大番頭:5000石)
・甲府勤番支配(高禄旗本で持高・役知1000石)

大概順では、大坂城代は別格として、駿府城代>大番頭(二条在番)>甲府
勤番支配だったかもしれません。

331: 日本@名無史さん 2009/02/15(日) 22:49:21

>>328
駿府加番や中川加番は持高勤めで役料はなかった。
これに対し、大坂加番は1~4万石の小大名の任で役高の一倍物成の合力米が与えられたので藩財政に苦しむ藩は願ってその任を勤めていた。
役料のない駿府加番や中川加番などを勤め一定の評価が得られれば、良い御役に付けることが期待されていたのだろう。

332: 日本@名無史さん 2009/02/15(日) 23:29:32
>>331
中川加番ではなく中川御番ですね。

中川御番は「中川御番所」「中川御関所」などと言われ、小名木川の中川口に設けた川の関所を守衛する御番です。
この御番所の守衛役人には、旗本(寄合)の3~5名が任命され、5日交代で勤めていた。

この御役を上手く勤めれば、非役の寄合から、諸大夫役の重職が期待されたのでしょう。

350: 350 2009/02/18(水) 21:16:35
>>331
旗本寄合(非役)の者が、出役・加番として、「中川御番」「駿府加番」を無事に勤めた際には寄合肝煎を通じて、三番頭や大目付、駿府城代への就任が期待されていた。

「中川御番」「駿府加番」の他にも、「江戸城門番」「火事場見廻」が出役としてあったらしい。

339: 日本@名無史さん 2009/02/17(火) 20:06:02

>>1
将軍家は大名に対し領地を安堵する証として、将軍の代替わり・藩主の代替わり毎に、10万石以上には「領知判物」を、また、それ以下には「領知朱印状」を出していた。

では、旗本にはこのような「領知朱印状」又はこれに代わるものが交付されていたのだろうか。
最低でも、交代寄合クラスだと「領知朱印状」くらいは貰っていただろうけど。

340: 日本@名無史さん 2009/02/17(火) 20:18:13
旗本は代替わりごとの朱印状を出されないとはよく聞くけどね。

341: 日本@名無史さん 2009/02/17(火) 20:57:58
>>340
旗本には朱印状や宛行状はなく家督相続を認めるのみとの情報もあるが、特に功績ある場合は、加増もあったろうが、その場合は何らかの承認書的なものがあったのでは?

345: 日本@名無史さん 2009/02/17(火) 21:22:48
>>341
幕初の安堵状なり加増の通達文書は当然あっただろうね。辞令のようなものか、進物の目録のごときものか、具体的には知らないけど。

引用元: ・江戸時代の旗本、御家人について




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