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1: 世界@名無史さん 2006/10/15(日) 02:34:48 0
最大領域を100年以上も維持した3大陸に跨る大帝国(1299年-1922年)。イスラムの盟主。

https://ja.wikipedia.org/wiki/オスマン帝国

 








173: 世界@名無史さん 2007/01/25(木) 16:07:57 0
「オスマン 世界帝国の野望」というようなタイトルの本に書いてあったが、ギリシャ正教はオスマン帝国の保護があったからこそ生き延びたのであって、もしそれがなかったら、今ではギリシャ正教もギリシャ語も無くなっていただろうとのこと。
本当ですか?もしそうだとすれば、ギリシャ人はそんなにトルコを怨めないのでは?

184: 世界@名無史さん 2007/01/27(土) 08:39:50 0
>>173
そんな強引なイスラム化政策したら反乱だらけで世界帝国作れなくなる
世界帝国はだいたい宗教には寛容、民族の自主性をある程度認めないと国は大きくならない
逆に帝国の欠点は近代化には不向きということだ

175: 世界@名無史さん 2007/01/25(木) 16:13:11 0
まあメフメト2世が正教保護しなかったらギリシャ正教は埋没してロシア正教が正統になっただろう。

176: 世界@名無史さん 2007/01/25(木) 21:01:04 0
シャルル・ダンジューまがいのローマ・カトリックの基地外にやられるよりは良かったかもな。

実際「カトリックの帽子見るぐらいならターバン見るほうがマシ」なんてことを宰相が言ってるぐらいだったし。

177: 世界@名無史さん 2007/01/25(木) 21:53:53 0
14世紀のビザンツはセルビアに馬鹿にされベネチアからは借金の督促に追われ挙句にオスマンの属国だものな。
頼りの対トルコ十字軍もバヤジット1世に負かされ・・・

180: 世界@名無史さん 2007/01/26(金) 14:31:47 0
スレイマン後に優秀なスルタンが登場していたら、ギリシャは今でもトルコの領土だったかもしれない。
逆に言うと、スレイマン以降は駄目なスルタンばかりだったのに、いまだにトルコという国が存続していることも驚きだ。

182: 世界@名無史さん 2007/01/26(金) 15:46:17 0
>>180
今トルコが存続しているのはケマル・アタチュルクが世俗政権を樹立し、オスマン朝を倒し列強をアナトリアからたたき出したからだろう。
オスマン朝の子孫は国外追放処分をうけて今ニューヨークで暮らしているんじゃなかったか

181: 世界@名無史さん 2007/01/26(金) 15:00:23 0
歴代宰相がどえらく優秀だったからな。

キョプリュリュ一族は ネ申
キョプリュリュ家はアルバニアに出自を持つオスマン帝国の貴族。オスマン帝国としては珍しく、世襲で大宰相(首相)を務めた。トルコ史において、キョプリュリュ・メフメトからカラ・ムスタファまでの時代をキョプリュリュ時代という。

門閥としてのキョプリュリュ家は、メフメト4世の治世においてキョプリュリュ・メフメト・パシャが大宰相に就いたことに始まる。キョプリュリュ・メフメトは、アナトリアのキョプリュの有力者と姻戚関係を結び、そこを基盤として中央政界の官職を歴任、家臣団を形成した。キョプリュリュ・メフメトが死ぬと、息子のキョプリュリュ・アフメト・パシャが後を継いだ(大宰相の父子世襲としては初)。この両者の時代に、オスマン帝国の版図は史上最大となった。 
その功績によりキョプリュリュ家の世襲は続き、キョプリュリュ・メフメトの娘婿としてキョプリュリュ家に入ったカラ・ムスタファ・パシャがキョプリュリュ・アフメトの後任となったが、カラ・ムスタファは第二次ウィーン包囲で大敗、さらにその責を問われて刑死した。 
カラ・ムスタファの死により、キョプリュリュ家からの大宰相は一時途絶えたが、何人かののち、キョプリュリュ・ムスタファ・パシャが再度キョプリュリュ家から登用された。後にカルロヴィッツ条約が調印されたときの大宰相もキョプリュリュ家出身のキョプリュリュ・ヒュセイン・パシャであった。




197: 世界@名無史さん 2007/02/01(木) 23:36:04 0
ビザンツも時代の流れに沿ってイスラムに改宗すれば良かったのに。
もともとは多神教の国なんだから、それを考えればイスラム改宗はハードル低いでしょう。

199: 世界@名無史さん 2007/02/09(金) 12:43:29 0
>>197
無茶言うな(笑
カトリックとすらあれだけ揉めたのに。

205: 世界@名無史さん 2007/03/05(月) 22:16:18 0
スルタンとしては最初の10人(スレイマンまで)は合格。
その後は全員不合格。
こうもハッキリと出来、不出来が分かれている例も珍しい。

206: 世界@名無史さん 2007/03/06(火) 02:21:56 0
>>205
セリム三世とかマフムート二世とかアブデュルハミト二世とかそれなりに成果を収めたスルタンもいただろ。

207: 世界@名無史さん 2007/03/06(火) 15:26:34 0
>>206
たしかにな。斜陽期の皇帝やスルタンはなかなか評価されないから辛いよな。興隆期にスルタンになっていれば、英雄 として名を残せたかもしれないのに。
これはどの帝国も例外では無いね。傾きかけた帝国を立て直して再び隆盛を築いたって例はあるのかな?

208: 世界@名無史さん 2007/03/06(火) 16:01:18 0
>>207
バヤズィト1世がティムールにぼろ負けし、その後の後継者争いで分裂した帝国をまとめあげたメフメト1世。父メフメト1世の死後内政干渉してきたビザンツを打ち破ったムラト2世なんてどうよ。

あと、ビザンツのマケドニア朝も傾いた帝国を立て直したいい例かな。

211: 世界@名無史さん 2007/03/06(火) 23:14:34 0
>>207
そういえばオスマン帝国と対決したサファヴィー朝も内政が混乱したりオスマン朝とシャイバニ朝に挟撃されてやばいところにアッバース大帝が出て全盛時代になったんじゃった。

そういえばシャイバニ朝も初代アブルハイルが西トルキスタンを支配したがカザフに分離されたりティムールに滅ぼされたりしたがムハンマド・シャイバーニーが再び西トルキスタンを支配したが今度はサファビー朝初代イスマーイールに倒されたがなお存続してアブドゥッラー2世の時にブハラに遷都してブハラ汗国となり西トルキスタンを支配…と波乱万丈。

212: 世界@名無史さん 2007/03/08(木) 17:39:57 0
>>211
>ムハンマド・シャイバーニー

ああ、イスマーイール1世に負けて頭蓋骨を酒杯にされた人ですね。
シャーマニズムと過激シーア派の合成は怖いと思った。

210: 世界@名無史さん 2007/03/06(火) 22:31:08 0
スレイマン大帝より後の時代はサドラザム(直訳すれば「偉大胸心」か)が事実上の最高君主っぽいな。
平安日本における関白に近いかも。「世襲」も有りだし。
サドラザム

オスマン帝国の大宰相職。帝国の主権者であるスルタンの印璽を預かり,世俗・軍事の全権を委任された代理人として,トプカプ宮殿内の御前会議(ディーワーン・ヒュマユーン)を主宰し,すべての文官・武官の任免権を有した。

戦時,スルタン親征以外の場合は,帝国軍総司令官を務めた。ただし,宗教的事がらに関しては,シェイヒュル・イスラム(シャイフ・アルイスラーム)が最終的決定権を有し,裁判官(カーディー)の任免についてはカザスケルkazasker(大法官)が権限を行使した



251: 世界@名無史さん 2007/03/29(木) 16:45:55 0
オスマンの先祖は突厥じゃない?

252: 世界@名無史さん 2007/03/29(木) 18:25:49 0
匈奴とオスマンじゃ時代が離れすぎていて、つながっているかどうかなんてあまり意味を持たない気がするぞ。

260: 世界@名無史さん 2007/03/30(金) 12:01:02 0
>>251-252
セルジューク朝の名祖であるトゥグリル・ベクの祖父セルジュークは、オグズ諸部族の首長家クヌク氏族の出身なんだそうだ。彼自身はサーマーン朝に麾下の諸部族を率いて仕えているが、彼の数代前の先祖はハザル王国にも出仕していたとかいう伝承があるそうだ。時期的な問題から伝承だけで本当じゃあないだろうとは言われているけど。

ハザルは突厥王家である阿史那氏族の系統の家系が築いた政権らしいが、セルジューク家やオスマン朝、カラマン君侯国などのアナトリアに展開していた勢力はオグズ諸部族の系統。
オグズは「タグズグズ」ともいわれるが、これはウイグル帝国を輩出した「九姓オグズ」(トグズ=オグズ、九姓回鶻)集団と関係あるのでは、と言われている。(有力説だが異論も根強い)

そのため、もし「タグズグズ」=「九姓回鶻」説が正しいとするなら、オスマン朝はセルジューク朝経由で、突厥と言うよりもウイグル帝国となら関係していそうだ。

ただ、オスマン朝で広く読まれていた、『集史』あたりのオグズ・ハン伝承に基づく『オグズ・ナーメ』などを見ると、突厥やウイグルなどの史実とは全然関係なさそうなのが問題だが。

268: 世界@名無史さん 2007/04/01(日) 22:43:15 0
オグズ(グズ、グッズ)の歴史ですが
8XX年代初めにシルダリア下流・アラル海沿岸を占領
8XX年代末にハザールと同盟してカスピ海北東沿岸に広がる
9XX年代前半に全盛
9XX年代後半にセルジューク分離
10XX年代に入る頃から残りの勢力は不安定になり、やがて
分裂してキプチャク等テュルク系諸勢力に組み込まれたりした。

で、分離したセルジュークは西アジア、中央アジアに跨る大帝国を形成、
1071年にはマラズギルトの戦い後、小アジアに入りルーム・セルジューク朝を形成。
1299年にオスマン朝開始。

さてアラル海とか居た時以前のオグズですが恐らく7XX年代半ばにモンゴリアだかアルタイだかセミレチエだかその辺から出来たばかりのウイグル帝国かカルルクにでも追われて移動してきたんじゃないかと。

ちなみにオグズはok(矢、種族)に由来する言葉だそうで、それ自体は特定種族を指すとは限らないとか。

オグズ
http://en.wikipedia.org/wiki/Oghuz_Turks
http://www.ozturkler.com/data_english/0001/0001_10.htm

269: 世界@名無史さん 2007/04/01(日) 22:43:33 0
オスマンの源流がモンゴリア、アルタイにあったとしても開始時点で既に500年以上経過。
その間、数多のコーカソイドの居る西方を通過。
ハーレムにカフカズ諸民族とかフランス人とかイタリア人とか居たり、同じくテュルク系のポロベツ(クマン)がルーシと政略結婚したとかそんな話を見るとあんまり混血に抵抗少ないのかも。
支配下の民族からはテュルク化するものも大勢いるだろうし今のトルコ人の大半がまるでコーカソイドに見えるのに不思議は無い。

テュルク化が進んだと言っても第一次世界大戦前のオスマン帝国は1852万人ほどだそうで、戦後分離したアラブ諸国を除いてもクルド人、アルメニア人、ギリシャ人は各々7ケタは居たでしょう。アルメニア人やギリシャ人は虐殺やら住民交換やらなんやらで壊滅 しましたがクルド人は相変わらず大勢。
6889万人ほどの内、8ケタは占めるでしょう。あとチェルケス人やザザ人や7ケタは居るでしょう。テュルク系ですがクリミア起源の人も恐らく7ケタ。

270: 世界@名無史さん 2007/04/01(日) 23:46:59 0
オスマン家はセルジューク家と同じオグズ=トゥルクマーン部族に属する(オスマン家はカユ氏族、セルジューク家はクヌク氏族)といっても、伝承によれば、オスマンの父のエルトゥールルがモンゴルの攻撃から逃れて中央アジアからアナトリアに移住したのは1227年というから、マラーズギルドからは150年も後だし、モンゴル軍がアナトリアに侵入してくるたった15、6年前というタイミング。

歴史上、繰り返されたテュルク系民族のアナトリア流入という視点から見ると、オスマン家のアナトリア移住は、ルーム・セルジューク朝などのもとで進んだマラーズギルド以降の第一波の流入ではなく、モンゴルの急速な拡大によって引き起こされた第二波の流入期に当たるもの。

271: 世界@名無史さん 2007/04/02(月) 00:52:35 0
そういえばルーム・セルジューク朝は住民の大半がギリシャ人というし。
一回や二回の移住ではテュルク化があそこまで進行せんか。

272: 世界@名無史さん 2007/04/02(月) 01:35:12 0
https://ja.wikipedia.org/wiki/エルトゥールル
https://ja.wikipedia.org/wiki/オスマン家
エルトゥールルの記事があった。
中央アジア(アムダリア以北)だかホラーサーンに居ったのは初代オスマン・ベイの爺さんの(スレイマン・シャー)ギュンドゥズ・アルプだそうな。
モンゴル帝国を避けてルーム・セルジューク朝の保護下に入ったとな。
モンゴル帝国侵攻が収まった後、スレイマン・シャーは帰ろうとしたが事故死、一族の一部はホラーサーンに帰還したが、エルトゥールルはアナトリアに残ってルーム・セルジューク朝に仕えてたとな。んで跡を継いだオスマン・ベイが独立。まー伝説なんだけど。

伝説では遊牧してたともあるし、キリスト教徒出身者まで含む軍事集団であるようにも読めるし、なもんでオスマン朝の起源を
・血縁集団のテュルク系遊牧部族
・多様な出自からなるガーズィー(ジハードに従事する戦士)
とする二つの立場で論争になったりしたんだと。

273: 世界@名無史さん 2007/04/02(月) 10:20:33 0
>>272
ときどきそういうものすごい距離の移住をする遊牧部族っているよね

要するに途中で住み着ける土地がなかったんだろうけど

276: 世界@名無史さん 2007/04/03(火) 16:45:44 0
話の流れからはそれるが、チムールがアンカラでオスマン軍を撃退した後に、アナトリアにはたいした興味を示さずに東に帰ってしまったわけだが、あのままアナトリアを制圧していたらオスマン帝国はあそこで終わっていたのか?
コンスタンティノープルもチムールが陥落させたのか?

278: 世界@名無史さん 2007/04/03(火) 20:41:13 0
>>276
ティムールは占領した地域を保持するのにたいした興味はなかったらしいよ。
反乱がおきたらまた軍を率いて出動すればいいぐらいの感覚。

319: 世界@名無史さん 2007/04/12(木) 20:10:04 0
カスティリャの使節クラヴィホの旅行記の中で、オスマン朝がティムールに敗戦した直後の
アナトリアの様子が描かれてるけど、トルコ人の領主の領民がギリシャ人だったりギリシャ人の領主の兵隊がトルコ人だったりとややこしかったようですね。

320: 世界@名無史さん 2007/04/13(金) 10:33:19 0
>>319
そうだよな。アナトリアはローマとビザンチンの領地の時代が長かったわけだからね。
ギリシャ人にしてみれば、自分たちの土地という意識が強いだろうな。

330: 世界@名無史さん 2007/04/16(月) 22:16:44 0
メフメト2世はイタリア侵攻計画前に毒殺されたという俗説があるが本当のところどうかね?

331: 世界@名無史さん 2007/04/17(火) 12:56:56 0
>>330
初めて聞いたんですが・・・詳しく

332: 330じゃないが 2007/04/17(火) 19:10:23 0
>>331
鈴木董『オスマン帝国――イスラム世界の「柔らかい専制」』、講談社現代新書より

中には毒殺説をとなえる者さえいる。
メフメット二世の最後の遠征の真の目的はイタリアであり、それを恐れたヴェネツィア勢力が彼の侍医の一人を利用したというのである。

その当否は、にわかに決定しえない。(115頁)

334: 世界@名無史さん 2007/04/18(水) 15:06:06 0
法王も逃げ出す準備をしていたからな。
イタリア半島までもがトルコの手に落ちていたら、まさに第2のローマ帝国になっていたかもな。

347: 世界@名無史さん 2007/04/24(火) 09:20:01 0
近代のオスマン・トルコ軍は宗教的な理由から制帽に庇をつけなかったそうですが日光を遮るのはイスラム教では何か問題になるんですか?

351: 世界@名無史さん 2007/04/25(水) 13:54:41 0
>>347
「キリスト教徒がツバ付き帽子を被ってるのはやましい性根を隠すためだ」
というような主張を当時のイスラム法学者が言い出したのが原因
元々トルコ帽にはツバなんてついてないし、末期のオスマン帝国は西洋に押されまくった結果
余裕と寛容性が無くなっていたからこの種の異文化批判がトルコ人ムスリムに強く支持されちゃった

ってお向かいの奥さんが言ってた

394: 世界@名無史さん 2007/06/02(土) 21:48:22 0
オスマン帝国って、ヨーロッパや北アフリカにさんざん侵略しているのになんで東南アジアや東アフリカに侵略しなかったのですか?

395: 世界@名無史さん 2007/06/03(日) 01:00:30 0
>>394
遠いから、ってのは駄目?

396: 世界@名無史さん 2007/06/03(日) 01:14:11 0
>>395
スペインやポルトガルのほうが東南アジアから遠いじゃないですか?

397: 世界@名無史さん 2007/06/03(日) 01:21:24 0
>>396
なるほど。じゃ、少しだけ仮説ができた。
「オスマン帝国は交通の要衝を抑えていたから(そんな遠くまで攻めるモチベーションが無かった)」
これでどうだ。

東方とヨーロッパとの貿易、陸路だと、どうやってもオスマン帝国を通る。
スペインやポルトガルは、東南アジアと直接交易をしたかったから、アフリカ周りで東南アジアまで行った。

これでどうだ。

398: 世界@名無史さん 2007/06/03(日) 02:11:50 0
>>396
本当にそう思うのか?地図をよーくみろ、3倍は遠いぞ

あと東アフリカなら今のエリトリアやソマリア北部の沿岸を支配してた時期があるよ

399: 世界@名無史さん 2007/06/03(日) 02:15:24 0
スマソ
東南アジア「から」だったか

ちなみにスペインはフィリピンにアメリカ経由の西回りで到達した
遠いなんてもんじゃないw

400: 世界@名無史さん 2007/06/03(日) 06:58:39 0
オスマン海軍がマレーシアかインドネシアまで行ったことがあったような・・・

401: 世界@名無史さん 2007/06/03(日) 11:45:27 0
インドネシアまで行ったっていうのは、16世紀の半ばにポルトガルの艦隊に海上封鎖されたスマトラ島北端のアチェ王国のスルタンに救援を求められたためにオスマン海軍が派遣されたって話で、交易路の維持が主眼の遠征で領土的に恒久的な支配とかを狙ったものではないな。

オスマン帝国は16世紀半ば以降は東ヨーロッパ方面やクレタ島などで若干の新しい領土の獲得はあるものの、新たな領土の獲得よりも支配下にある領土をきめ細かく統治する方針に転換してるし。
地中海を主戦場とするオスマン海軍は昔ながらのガレー船が主力で、スペインやポルトガルのように外洋船のガレオン船の導入は遅れたため、インド洋や大西洋のような外洋では外洋船のカラベル船に性能の良い大砲を装備したヨーロッパ諸国の船隊には不利だったと思われる。

オスマン海軍がインドやインドネシア方面以外に遠方で一時的に占領したとか襲撃をかけたとかいうのなら、16世紀末には大西洋上のカナリア諸島のランサローテ島、17世紀の初めにはイギリスのブリストル海峡の入り口にあるランディ島、アイスランドのすぐ南のヴェストマンナエイヤ諸島、アイルランドの西南端に近いボルティモアなどを占領し、英国の北のシェトランド諸島、フェロー諸島、さらに大西洋を渡って今のカナダのニューファンドランドまで攻撃したこともあったらしいが。

417: 世界@名無史さん 2007/06/14(木) 00:19:07 0
>>401
アチェ救援には軍旗をつけて数十人ばかりのトルコ兵を遣すというアリバイ的「援軍」

408: 世界@名無史さん 2007/06/08(金) 22:19:42 0
遊牧民の支配層は、船戦に関心が薄いのよ。
たとえば、さ、日本に攻めてきた大モンゴル帝国も、よりもよって高麗なんかに船を作らせるから、侵攻計画大失敗だったろ。

409: 世界@名無史さん 2007/06/08(金) 23:06:53 0
>>408
つ 崖山の戦い
参考 https://ja.wikipedia.org/wiki/崖山の戦い

あと、オスマンが地中海を制覇していたことぐらい知っておいたほうが
恥をかかなくてすむよ

410: 世界@名無史さん 2007/06/09(土) 00:24:37 0
黒海も制覇していた。
これ、結構すごいことだと思うけど、あまり騒がれないよね。

412: 世界@名無史さん 2007/06/09(土) 01:47:35 0
>>410
このページによると
http://www.geocities.com/unavy/aCossack1.html
17世紀初頭にコサックの船団がクリミアやアナトリアの沿岸都市を次々と襲っていて討伐に向かったオスマン朝の艦隊を2度も撃破していたらしい。
1625年にはイスタンブールまで襲撃してスルタンが宮殿から避難する騒ぎになったそうだ。

414: 世界@名無史さん 2007/06/10(日) 07:11:55 0
オスマン朝が帝国になる以前にもアイディン候国のウムル・ベイなんかが大規模な艦隊をもってましたよ。
ハリル・イナルジュクがそれを含めトルコ系君候国の海軍について何か書いてた。

420: 世界@名無史さん 2007/06/15(金) 14:48:18 0
西の方は国家主導じゃなく海賊まがいの連中だと思う

422: 世界@名無史さん 2007/06/21(木) 19:44:10 0
トルコ民族の国家ではしばしば「イスラーム」とうアイデンティティよりも遊牧民としての「チンギス・ハン」の血統を重視する。だからトルコ系の人は酒や豚もオッケーって場合が多い。

423: 世界@名無史さん 2007/06/21(木) 20:43:08 0
酒に関しては他のイスラーム王朝でも大目に見られていたね。
ウマル・ハイヤームやハーフィズも飲酒推奨と取れる詩を多く書いている。
ペルシャ文学を愛好したオスマン朝でも言わずもがな。

424: 世界@名無史さん 2007/06/22(金) 05:43:17 0
日本酒って厳密にはコーランで言うところの「酒」に該当しないんだな。

425: 世界@名無史さん 2007/06/22(金) 06:24:45 O
「ぶどうの精」ですね>クルアーン。そういえばセリム二世の二つ名が「酩酊者」なのは、暗愚だったからなのか実際アル中だったからなのか。

426: 世界@名無史さん 2007/06/23(土) 01:46:47 0
キプロス島を征服したのはワインの名産地だったからとか言われてたらしいな>セリム二世

461: 世界@名無史さん 2007/08/11(土) 21:48:39 0
音楽、料理、人々の容姿・・
ギリシャとトルコは、実は、同じビザンチンの後継者らしいね


462: 世界@名無史さん 2007/08/17(金) 15:18:16 0
>>461
そりゃそうだろ。ビザンチンはギリシャ人の国家だったわけだし、オスマン帝国はビザンチンを受け継いだわけだから。征服という形ではあったにせよね。トルコ人は、自分たちはビザンチンの子孫だと考えているようだよ。

463: 世界@名無史さん 2007/08/21(火) 04:16:15 0
>>462
皇帝からにして「ルーム・カイセリ(ローマ皇帝)」を自称してたわけですし。

引用元: ・オスマン朝・オスマン帝国(02)



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