51820QRDXXL._SL500_


1: 世界@名無史さん 2018/04/01(日) 18:52:49.72 0
中華帝国の歴史、ここに始まる
関連記事
秦漢帝国    








782: 世界@名無史さん 2019/05/23(木) 10:55:22.79 0
秦は暴政か否か? 

Webで中国語ページを見てると、秦代は、「奴隷制」国家というよりも、「刑徒制」国家である気がしてきた。 
全人口の1/5 いや 1/4 以上が、法を犯したために刑徒として劣悪な環境下での強制労働に従事させられていたのでは?という論議がヒットしていた。 
実際はどうなのか、本当のところはわからないが、本当ならば まるでスターリンが数百万人をシベリア送りにして、シベリア開発の労働力を確保したのに似てるな。 

里耶秦簡では、多数の刑徒が洞庭郡遷陵県の公役労働に携わったことや、司寇と称される刑徒は住居や田畑を給付され、戸を形成した者だとわかるそうな。
遷陵県の戸数は150~190戸しかないので、労働力不足を補うため、他地域から刑徒を動員、移住させたのかもしれない。
『里耶秦簡』(りやしんかん)は、中国の里耶古城遺跡から出土した秦代の竹簡群。紀元前222年(始皇25年)から紀元前208年(秦二世2年)にいたる秦代の行政文書が秦隷で記載されている。 


783: ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP 2019/05/23(木) 19:00:33.28 0
>>782 
ほほぅ 

賦役を大量に課した結果として罪人が増えたのかと思っておりましたが 
そもそも逆の経路で賦役を増やした可能性もあるわけですね

784: ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP 2019/05/23(木) 19:55:34.83 0
秦末に編成した罪人軍団は牢獄の中の人を徴用したのかと思っておりましたが強制労働中の方を連れていったのかもしれませんね 

あのへんは大規模工事もいっぱいやってたでしょうから

785: 世界@名無史さん 2019/05/23(木) 23:24:09.14 0
良民を同じ扱いした防人のブラックさ

788: 世界@名無史さん 2019/05/24(金) 06:29:02.60 0
>>785 
防人や衛士は武具や食糧が自弁というのは本当なんだろうか? 
地元の盗賊退治じゃないんだから、無理だろ、それと思う。 
暴政で名高き秦ですら、賦役に従事する者に食事や衣類はもちろん、手当まで支給されてたそうな。そうじゃなきゃ全員死ぬ。 
兵役でも軍服、武具、食糧は官給。 
働きが良いと報奨も手厚い。 
軍功で土地を支給された新興地主が急増。 
もし待遇が悪けりゃ誰が命を張れるものか! 

里耶秦簡の中に「得虎」での功績で6人に賦役免除というのがあるそうで地元の虎退治みたいな公益に貢献と見做されると賦役免除になるらしい。

820: ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP 2019/05/26(日) 00:09:46.62 0
>>788
徴用されてもお小遣いもらえたんでしょうかね、、、

823: 世界@名無史さん 2019/05/26(日) 07:52:07.88 0
>>820 
小遣いあったみたいね。 
秦律 司空の文言の解釈次第だけど1日8銭とか糧食1/3斗とかの提供があったらしい。 
男が月に両石、女が月に1.5石を発糧とかの文言もあるそうな。

824: ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP 2019/05/26(日) 08:21:14.95 0
>>823 
銭納(または物納)による免役とお小遣い制の両輪で望めば社会保障と税負担の公平性の両方を満足できそうではありますが

834: 世界@名無史さん 2019/05/26(日) 19:02:18.20 0
>>824 
行政文書の竹簡の研究が進むにつれ、秦は決して苛政なんかではないんじゃないかというイメージが出てきた気がする。

853: ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP 2019/05/27(月) 03:45:37.99 0
>>834 
超低識字率時代に全国一律の完全法治国家が成立できたのかは気になりますが 

秦代各地の書簡で法律上の地域差(慣習法)的なのってあるんでしょうかね?

865: 世界@名無史さん 2019/05/27(月) 14:51:23.59 0
>>853 
秦律の地域差があるか、どの程度かはなかなかわからないかもね。 
里耶秦簡(紀元前222年紀元前208年)は湖南省で出土。 
睡虎地秦簡(紀元前217年に死去と思われる官吏の墓)は湖北省。 
王家台秦簡も湖北省。 
王家台秦簡の秦律・效律の内容は睡虎地秦簡とほぼ同じ。 

これらはみんな楚の旧領。 
秦が征服した地域ではあるが、文書の決済手順などが厳格に規定されている模様。 
文書行政がしっかり施行されていたと解釈できるんじゃないか?

873: ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP 2019/05/27(月) 22:25:43.66 0
>>865 
そうすると原本みたいなものがあったのかもしれませんね 

秦の文章行政は配達から拝領まで全部記録とってたみたいなのでしっかりというか厳格だったんじゃないかと思います 
おそらく写しが発送元にも残ってるんじゃないでしょうか

878: 世界@名無史さん 2019/05/28(火) 06:30:32.67 0
>>873 
明清に比べると、残ってる史料が圧倒的に少ない秦漢の研究って少ない史料に基づきあれこれ推測を重ねていく感じなんかなぁ? 
明清期は史料が多過ぎて、一生かけても全部に目を通せないかもしれないが。

790: 世界@名無史さん 2019/05/24(金) 09:59:02.93 0
阿房宮と驪山陵の建設に刑徒70万人、
全長900kmの直道建設に30万人、
他に霊渠や長城など始皇帝在位11年の間に、戦争や賦役に合計200万人から250万人を動員という計算がある。

全人口推定2000万人。
負担が大きいか否か?
統一後の秦が短命だった要因か?

794: 世界@名無史さん 2019/05/24(金) 19:48:31.93 0
>>790
食事の供給だけでも大変
戦争みたいに略奪しながら通過というわけにいかない
その数字が本当ならすでに倒産している

795: 世界@名無史さん 2019/05/24(金) 21:40:23.98 0
>>794
いやぁ、戦国時代の動員に比べたらマシという説もある。
アメリカの南北戦争のとき、人口3千万人で戦死者は民間を含めて70万人。非常時はそのぐらいの犠牲や負担が民衆にかかる。
統一後、非常時体制から負担を減らして平常時体制に転換できなかったのが滅亡の原因という話を読んだことがある。
隋とか豊臣政権とか、統一成就しながら短命で終わった例を連想するなぁ。

791: 世界@名無史さん 2019/05/24(金) 10:07:50.91 0
陳勝と呉広、劉邦も徴発業務の破綻がきっかけで蜂起。
高負担だったんだろうな。

803: 世界@名無史さん 2019/05/25(土) 00:19:24.18 0
現代総力戦だから秦代とは比較にならんけど、『日本軍兵士』という本に、1944年の日本の成年男子の10%、1943年ドイツの28%が軍人だったとありました。

が、これは限界を突破していた時期で、1940年の日本は4%だそう
女性子供老人含めた全人口比では1%くらいでしょうか

始皇帝の11年間に200-250万人は1年あたり20万人程度、人口の1%なので、1940年当時の日本の動員割合くらいでしょうか

807: 世界@名無史さん 2019/05/25(土) 07:23:06.67 0
現代の総力戦とは様相は違うけれど、古代の住人って、普段から地元の邑、県の城壁作りとかで駆り出されてたんじゃない?
農民たちは夜になると城壁の内側でないと安心して眠れない。
平和な日本じゃ想像が難しいが、大陸は常時臨戦状態なんだよ。
さもなくば集落を取り囲む城壁作りなんて重労働をやらないだろうに。

810: 世界@名無史さん 2019/05/25(土) 10:03:39.36 0
>>807
日本じゃ、城は軍事拠点に作るもので、都市を囲む城壁という発想が希薄かな?
せいぜい環濠集落を形成するぐらい。
環濠集落跡は日本以外に韓国南部にもあるらしい。
吉野ケ里遺跡には、矢尻が刺さっていたり、頭が切断されてる人骨が見つかってる。
古代日本も結構物騒。
ああ人類はなんでいつも殺し合わねばならぬのか。

836: 世界@名無史さん 2019/05/26(日) 19:14:46.06 0
やっぱり前漢の張騫より後漢の班超の方が大物だよねぇ?
張 騫(ちょう けん、? - 紀元前114年)は、中国前漢の政治家・外交官。字は子文[要出典]。漢中郡城固県の人。武帝の命により匈奴に対する同盟を説くために大月氏へと赴き、漢に西域の情報をもたらした。


班 超(はん ちょう、32年 - 102年(建武9年 - 永元14年)は、中国後漢の武人。字は仲升(ちゅうしょう)。歴史家一家に生まれたが、武人としての成功を望み、西域(現在の新疆ウイグル自治区あたり)から北匈奴やクシャーナ朝を追って後漢の勢力を広げ、その後は西域都護として長く西域を保持した。


852: 世界@名無史さん 2019/05/27(月) 03:42:23.30 0
>>836
比べるなら張騫と甘英、班超と衛青か霍去病じゃない?

856: 世界@名無史さん 2019/05/27(月) 06:25:03.10 0
>>852
張騫は軍事的才能皆無だもんな。

880: 世界@名無史さん 2019/05/28(火) 08:20:42.99 0
班超は、鄯善国(楼蘭)に使者として行った時に、初めは歓迎されたのが次第に雰囲気が悪くなってきた。
その時北匈奴の使者も来ていたのである。

このままでは殺されると考えた班超は怯える部下達に「虎穴に入らずんば虎子を得ず(不入虎穴焉得虎子)」と勇気付けて、北匈奴の一団に切り込んだ。

班超たちは36人しかおらず北匈奴ははるかに多かったが奇襲を受けた北匈奴の使者達は慌てふためき、見事班超たちの大勝に終わった。
これにより鄯善国は漢に降伏した。

881: 世界@名無史さん 2019/05/28(火) 09:52:21.24 0
>>880
班超がいなければ、後漢は弱小国で終わってたな。

882: 世界@名無史さん 2019/05/28(火) 20:33:20.35 0
前漢の衛青は、幼少から匈奴と境を接する北方で羊の放牧の仕事をし、匈奴の生活や文化に詳しかった。だが、奴隷のように扱われ、時には父親などから虐待を受けていたという。
逸話として、人に従い甘泉宮に訪れた際に甘泉宮にいた人から「あなたには貴人の相があり、将来は出世するだろう」と言われたものの、衛青は「鞭で打たれるような生活から脱却できればそれで十分」と答えたという。

・・・匈奴征伐に際して車騎将軍に任命され、匈奴の事情に通じていたことから十数回出陣し、連戦連勝して匈奴の首を数万討ち取り、匈奴の領土(現在の内モンゴル自治区のバヤンノール市)を奪い取るなど、多大な功績を挙げる。

大将軍に出世後、武帝の姉である平陽公主を妻とした。彼女はかつて衛青を使用人として使っており、また曹時(曹参の曾孫)との間に嫡子がありながら病を理由に離縁されていた。

甥の霍去病が台頭すると、人気・軍功ともに譲ることになる。しかし霍去病が24歳で死去したため、軍の第一人者であり続けた。

883: 世界@名無史さん 2019/05/28(火) 20:35:19.58 0
霍去病と衛青は同時代に活躍し、血縁でもある事からよく比較される。

衛青は少年時代に奴隷であった経験から人にへりくだり、常に下級兵士の事を考えていたと言われる。
その一方で、霍去病は物心付いた時には既に一族は外戚であり、叔父が匈奴討伐に大功を上げていた。
その事から叔父とは対照的に傲慢であり、兵士が飢えている時に自分たちは豪華な幕舎の下で宴会を開くような事をしていた。

しかし宮廷でも兵士の間でも、霍去病のほうが人気は上であった。
衛青はへりくだりが度を過ぎて媚を売るような所があったとされ、また、霍去病の傲慢も頼もしい勇壮と見られていた模様だった。
武帝も自身の性格から、積極果敢な霍去病をより好んでいた。

また衛青が李広の末子の李敢に襲撃されたことに憤慨し、その李敢を射殺した逸話によって世間からは義侠の士として人気があったという。

906: 世界@名無史さん 2019/05/30(木) 21:51:20.08 0
先秦時代なんか、あの広大な大陸に人口二千万人だろ
しかも、現代とは違って深い森林に覆われていた

まったくの別世界をイメージする必要がある

907: 世界@名無史さん 2019/05/30(木) 21:55:40.62 0
言語も、もしも現代人がタイムマシンに乗って当時の中国に行き、人々の会話を聞いたとしたら、中国語というより、ベトナム語とかタイ語とか、東南アジアの言語に聞こえるだろうと言われている

909: 世界@名無史さん 2019/05/30(木) 22:45:18.29 0
>>907
甘粛から関中に出てきた秦人だとチベット語に近い言語を話してたんじゃないかな。

910: ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP 2019/05/31(金) 00:04:53.48 0
西域に目を奪われガチだけど秦漢代は中華の南域が大幅に拡張された時期
北は強すぎたので南でヒャッハーしてみました

913: 世界@名無史さん 2019/05/31(金) 13:23:01.81 0
>>910
戦国~秦で大幅に南限が広がったのに漢初の動乱で盛大に喪失してるけどね
前漢はむしろ秦より南限が後退していたりするからなぁ
楚漢戦争期なんて黥布の九江、淮南辺りがほぼ南限になっててその後漢代通じて時間掛けて南方に拡大してる

代わりに、秦代には南海貿易の交易路に点在していた都市の支配だった荊州が南陽は前漢末辺りから、南郡以南の五郡が後漢を通じて開拓されたことで領域的な支配が進んで、ここらが完全に北部と接続された地域に変化してはいる

914: ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP 2019/06/01(土) 21:24:05.66 0
そしたら始皇帝は南海貿易をどのくらいやったんだろうか

915: 世界@名無史さん 2019/06/01(土) 22:14:16.66 0
南海貿易が盛んになったのは、唐の後期くらいからではないか?

それ以前は、シルクロードの陸路が中心でしょ

916: 世界@名無史さん 2019/06/01(土) 22:15:18.43 0
シルクロードの陸路だって、前漢の頃は未開拓だったような?

918: 世界@名無史さん 2019/06/01(土) 23:02:04.04 0
南海交易わ漢代からやってるけど時代と伴に段々大規模に
でも自前でインド越えて西洋まで行くのわ宋代に成ってから

924: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 03:51:44.32 0
>>918
ん?

秦はベトナム遠征で南海貿易を強化したりしてるように南海貿易の始まりは漢代どころの話じゃないよ
始皇帝が統一事業終わった後に速攻でベトナム方面攻め込んだりしてる事から考えても戦国時代にはもう旨味も経路もある程度出来上がってたことが推測できるし

930: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 09:42:49.11 0
>>924
南海交易の始まりわ一般に漢代と看做されてて、それ以前は定期的な交易じゃ無く稀に往来が有った状態

933: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 15:19:55.26 0
>>930
「一般に漢代」というけどざっと検索かけてもコトバンクでブリタニカを出典に秦のベトナム遠征から始まったとか書いてるあるけど
貴方の言う一般とはどこの一般なのでしょうか

940: 世界@名無史さん 2019/06/03(月) 20:14:47.82 0
関于中国古代海上絲調之路最早始発港研究述評
東南亜与海上絲調之路
古代海上絲調之路対南海区域的影響

何れも漢代を南海交易の始まりとして居るね

942: 世界@名無史さん 2019/06/03(月) 23:30:20.85 0
>>940
漢代に定期的になった、安定的なルートとして確立されたという話やんけ
始皇帝がルート整備して南海貿易は既に秦には始まっていたし
秦以前からもある程度行われていたって事は背反しないのだが
「スタート地点」は漢以前だし、漢で持続的になった、って話を勘違いするなよ

南越が始皇帝の遺産ガメて南海貿易していたのもあるしな

920: ウムウル ◆w9gVwCWkR8GP 2019/06/02(日) 00:00:13.50 0
南海交易自体は遅くとも殷代からやってますけどね

後漢時代は領域の進出も合わさったのか
建造船の発達と海洋地理学的な発展がみられます

921: 世界@名無史さん 2019/06/02(日) 00:08:24.74 0
ジャンクはキール(竜骨)を使わない大型帆船だけど
これ、独特の技術発達のおかげで外洋航行可能な上、明代までは西洋帆船より優れた点が多かったという謎技術

アヘン戦争まで現役だったから、性能に関しては推定ではなかったりするところもまた凄い
まあ、未だに現役なイスラムのダウ船には負けるけど

947: 世界@名無史さん 2019/06/04(火) 20:51:23.00 0
ジャンクは宋代に完成を見たって言われてるよね(だから、東南アジア交易が一気に拡大した)
それ以前も技術的には同系列なんだろうけど、唐代や漢代の船は考古学的な発見難しそうだなあ

948: 世界@名無史さん 2019/06/04(火) 21:49:29.66 0
ジャンクを過大評価するのはどうかねえ。「外洋航海」も可能って、沿岸航海に毛の生えたレベルでしょ?

ヨーロッパの外洋船はマゼランの時代にすでに、インドネシアのモルッカ諸島からインド洋を突っ切ってアフリカの喜望峰まで直行するレベル。しかも完全に未知の大洋を。まあ航海術のレベルも大差あったろうけど。

958: 世界@名無史さん 2019/06/05(水) 00:55:47.27 0
>>948
ようやく農耕文化を受容して100年足らずの琉球がジャンク船を得てからの「雄飛」っぷりを見るとねぇ・・
何で中国と古い付き合いであるはずの本土には中国の造船技術がもたらされたなかったのか不思議でならない

960: 世界@名無史さん 2019/06/06(木) 09:22:59.97 0
首都から遠方の地方に旅するだけでも何十日もかかるのに、よくまぁ中央集権的な大帝国を作ろうと考えるものだ。
広大な版図だと、大問題があちこちで同時に生じる。
かなり面倒じゃない?
ローマは東西に分割して対応したけれど、漢は分割を考えなかったんか?

961: 世界@名無史さん 2019/06/06(木) 11:04:53.03 0
>>960
漢の初期に呉楚七国の乱が起きた

これは事実上の東西分裂による東西戦争

962: 世界@名無史さん 2019/06/06(木) 12:28:43.72 0
>>960
中央集権的な大帝国じゃなかった、と考えられるけどな
一応徴税はしてるんだけど商業ネットワーク的な帝国だしね

郡吏の漢代の権限の強さはほぼ実質的な自治だったとして考えると名目的トップの郡守、州刺史等が本籍地が赴任先でない人が中央から派遣されるけどこれって実質的な権限のない監査役的な扱いだったように見受けられる

まあ刺史も時期によっては軍事力持ってたりして長い漢代を一括りに語るのは良くないとは思うけど
一応傾向としてね

964: 世界@名無史さん 2019/06/06(木) 21:10:56.71 0
当時の皇帝権力は、現代のアメリカ合衆国みたいなものだろうな
突出した国力を持ち、世界秩序を維持する盟主
ならず者国家に対しては、制裁したり、ときには成敗することもあるが、絶対権力ではないので、力が及ばないときは放置するしかない

965: 世界@名無史さん 2019/06/06(木) 21:18:30.81 0
現代のアメリカ大統領のように掣肘する議会が法定されてるわけじゃないし
逆に臣下に政治を壟断されても法的にそれを止める手段なんてほぼない

皇帝と臣下の個人的紐帯や力関係、実力行使で物事が進むので制度的な上限も下限も全く担保されてないっていう意味では同じとは言い難いかと

だからこそ後漢で宮廷内の闘争が宦官使って暗殺に走る和帝とか出たり皇帝毒殺して首挿げ替えたりなんて結末になってくわけで

966: 世界@名無史さん 2019/06/06(木) 21:20:59.91 0
漢文での記録は世界の皇帝みたいな顔してるけど漢の皇帝って武帝の登場までは匈奴のパシリだし
以降も北方の騎馬民族にはしょっちゅう搾取されてるから合衆国程に世界で突出してる感はないよね

967: 世界@名無史さん 2019/06/06(木) 22:38:48.63 0
漢や唐の皇帝権力は、明清帝国のそれと比べて明らかに弱く、「盟主」に近い存在
もっとも、その明清帝国にしたって、しょせんは鉄道も自動車も、電話もテレビもインターネットもない時代だ

地方からの情報が届くのに何週間もかかるようじゃ、統制力にも限界がある

968: 世界@名無史さん 2019/06/06(木) 23:06:07.83 0
清代わ広東省からでも急ぎだと10日~2週間くらい
後漢帝国は近世西欧と同じくその場鎬ぎの募兵制だからな

977: 世界@名無史さん 2019/06/09(日) 00:24:12.57 0
少なくとも戦国期には既に弩の登場によって「弩をちゃんと引くだけの筋力持った職業軍人」って存在が求められるようになってるのだよね

蹶張之士だったかな、一般歩兵の中で張力の強い弩を足で引き絞る事に優れた兵の事を指すんだけど
こういう力自慢を古代は特段に求めて職業軍人として組織してたことがわかってる
下級兵の扱いなんだけどたまに蹶張之士から出世して大臣になった人もいた

978: 世界@名無史さん 2019/06/09(日) 00:31:04.36 0
墨守の語源になった墨子さんは女子供老人でも叩ける奴は城壁の上に登って守備戦に参加しろとか書いてるけどな
墨子 十五巻 号令
諸男女有守於城上者,什、六弩、四兵。丁女子、老少,人一矛。

秦では戦って死んだ者は女であっても論功の対象になったという「古史考」の記述は当時の秦の逼迫した状況をよく反映していると思う

986: 世界@名無史さん 2019/06/12(水) 21:29:25.61 0
>>978
秦の伝承上の開祖が女防という悪来の娘あるいは孫娘ってのもあながち伝説でもない?
女性が開祖ってはっきり語ってるのも秦ぐらいでは?

引用元: ・秦漢帝国