1: 世界@名無史さん 2011/08/20(土) 14:43:59.32 0
イギリス人はノルマン・コンクエスト以前の歴史についてはどう思っているのか?
ケルトの文化については蛮族の歴史と考えているのか?
ローマ帝国領の歴史は肯定的にとらえているのか?
スコットランド、ウェールズ、アイルランド、イングランドの対立の原点は?
ケルトの文化については蛮族の歴史と考えているのか?
ローマ帝国領の歴史は肯定的にとらえているのか?
スコットランド、ウェールズ、アイルランド、イングランドの対立の原点は?
2: 世界@名無史さん 2011/08/21(日) 01:13:17.78 0
イングランド人に限定すると
・ブリトン人は先祖の一角という認識
・ローマ人は一時的支配をしたよそ者(文化的には啓蒙されたと肯定的)
・アングロサクソン人は直接的先祖との意識が強い
・その後の来襲したデーン人も認識においてはアングロサクソンに近い
(屈折語尾、発音を除けば意識疎通が可能なレベル、古英語の文献をみれば分かる)
主観に過ぎるか?
>スコットランド、ウェールズ、アイルランド、イングランドの対立の原点は?
言語、文化が異なる(=民族)だからだろう
・ブリトン人は先祖の一角という認識
・ローマ人は一時的支配をしたよそ者(文化的には啓蒙されたと肯定的)
・アングロサクソン人は直接的先祖との意識が強い
・その後の来襲したデーン人も認識においてはアングロサクソンに近い
(屈折語尾、発音を除けば意識疎通が可能なレベル、古英語の文献をみれば分かる)
主観に過ぎるか?
>スコットランド、ウェールズ、アイルランド、イングランドの対立の原点は?
言語、文化が異なる(=民族)だからだろう
3: 世界@名無史さん 2011/08/21(日) 09:00:52.33 0
「アーリア神話」って本によると、イングランドで民衆が貴族に反抗するときには
「ノルマン人はこの国から出て行け」と言ったりしたそうだw
「ノルマン人はこの国から出て行け」と言ったりしたそうだw
4: 世界@名無史さん 2011/08/21(日) 10:43:17.53 O
言語はケルトからゲルマンに変わったが、血統じたいはケルト(もしかしたらそれ以前)から大して変わってないという意見も。
7: 世界@名無史さん 2011/08/22(月) 03:01:52.58 0
アングロ・サクソンはケルト人を大量虐待したらしい。
あまりにも酷いのでブルトン人はフランスのブルターニュに逃げたんだろ。
それでケルト語は地名程度で英語には影響ないとか。
アイルランドでバスク人と同じく-Rh が多いのは、ケルト以前のイベリア人
ようするに、インドヨーロッパ語族が来る前のクロマニヨン系という説がある。
あまりにも酷いのでブルトン人はフランスのブルターニュに逃げたんだろ。
それでケルト語は地名程度で英語には影響ないとか。
アイルランドでバスク人と同じく-Rh が多いのは、ケルト以前のイベリア人
ようするに、インドヨーロッパ語族が来る前のクロマニヨン系という説がある。
8: 世界@名無史さん 2011/08/22(月) 04:31:06.36 0
ブリテン島が大陸と陸続きだったころに、クロマニヨン人系含むおそらく膠着語系のヨーロッパ先住民族がわたる。ストーン文化のこす。
インドヨーロッパ語族のケルト人がブリテン島に渡る。ローマが進駐する。
ローマが撤退後にアングロ・サクソンが侵入してケルトを駆逐する。
英語のベースが出来る。
ノルマン人のデーン人が侵入して領土を割譲する。デーン語の語彙が入るがアングロ・サクソン語もデーン語も近いので文法はあまり変らず。
つまり、ノルマン以前は、ドイツザクセンのサクソン語、アングロ語、デンマークのユート語とデーン語という近縁関係にある言葉が島でまとまった。
インドヨーロッパ語族のケルト人がブリテン島に渡る。ローマが進駐する。
ローマが撤退後にアングロ・サクソンが侵入してケルトを駆逐する。
英語のベースが出来る。
ノルマン人のデーン人が侵入して領土を割譲する。デーン語の語彙が入るがアングロ・サクソン語もデーン語も近いので文法はあまり変らず。
つまり、ノルマン以前は、ドイツザクセンのサクソン語、アングロ語、デンマークのユート語とデーン語という近縁関係にある言葉が島でまとまった。
36: 世界@名無史さん 2011/08/25(木) 13:37:10.41 0
>>8
カエサルのブリタニア遠征時に、後世のイングランドに相当する地域が、大陸から移住したベルガエ人の居住地となっていたとされる。
ベルガエ人はケルト系であると説とゲルマン系であるという説があるが、ベルガエ人がゲルマン系ならば、ローマ征服以前にイングランドの基盤が成立していた事になる。
カエサルのブリタニア遠征時に、後世のイングランドに相当する地域が、大陸から移住したベルガエ人の居住地となっていたとされる。
ベルガエ人はケルト系であると説とゲルマン系であるという説があるが、ベルガエ人がゲルマン系ならば、ローマ征服以前にイングランドの基盤が成立していた事になる。
39: 世界@名無史さん 2011/08/25(木) 20:49:51.77 0
>>36
ベルギー人だろ
ベルギー人だろ
43: 世界@名無史さん 2011/08/26(金) 13:22:07.43 0
>>39
アングロ・サクソンの征服以前に、既にゲルマン系の部族がブリタニアに根付いていた可能性がある。
アングロ・サクソンの征服以前に、既にゲルマン系の部族がブリタニアに根付いていた可能性がある。
148: 世界@名無史さん 2011/09/10(土) 10:27:19.72 0
ローマンブリテンがロマンがあるなあ
ハドリアヌス城壁とか、ローマン風呂とか
ローマぶろはローマ時代から温泉観光地だったってすげー
いまだローマ建築物が残ってるとか
ハドリアヌス城壁とか、ローマン風呂とか
ローマぶろはローマ時代から温泉観光地だったってすげー
いまだローマ建築物が残ってるとか
151: 世界@名無史さん 2011/09/11(日) 05:39:05.18 0
アングロサクソンがブリテン島に継続的に襲来し、だんだん圧迫しブリトン人は最終的には今のウェールズやコンウォールに駆逐された
残ったブリトン人は文化言語でもアングロサクソンに同化された
その後紆余曲折はあるが七王国が成立
その後の抗争をへてウェセッ〇ス王エグバートが覇権を確立(イギリスの教科書では最初のイングランド王)
実態は単なる盟主でその後も婚姻政策などで王国間の力関係は複雑
ただこの秩序はデーン人侵入後も強固に維持された・・・
これからエグバートの孫のアルフレッド大王に至る
残ったブリトン人は文化言語でもアングロサクソンに同化された
その後紆余曲折はあるが七王国が成立
その後の抗争をへてウェセッ〇ス王エグバートが覇権を確立(イギリスの教科書では最初のイングランド王)
実態は単なる盟主でその後も婚姻政策などで王国間の力関係は複雑
ただこの秩序はデーン人侵入後も強固に維持された・・・
これからエグバートの孫のアルフレッド大王に至る
152: 世界@名無史さん 2011/09/11(日) 09:32:44.68 0
なんとなく
チェルディッチ=神武
エグバード=崇神
アルフレッド=天智
ウィリアム=桓武
のような気がする。
チェルディッチ=神武
エグバード=崇神
アルフレッド=天智
ウィリアム=桓武
のような気がする。
155: 世界@名無史さん 2011/09/13(火) 10:34:42.57 0
アルフレッド → 神武天皇 相当だろ
156: 世界@名無史さん 2011/09/13(火) 10:40:06.42 0
余所から来た建国者だからチェルディッチが神武でいいだろ。
チェルディッチ(Cerdic、? - 534年)はウェセックス王国の王。イングランドに上陸したアングロサクソン人の王であり、ウェセックス王室の始祖として考えられているが、年代記自体の表記が考古学的な証拠と矛盾が多く、実在性がはっきりしない。
158: 世界@名無史さん 2011/09/13(火) 12:09:21.24 0
よそから来た?
大体、七王国時代の初めの方なんて統一とは程遠いし、ウェセッ〇スは最大の政権ではないし、最大の政権であるマーシアにしたってローマ時代のブリタニア属州の1割にも満たないし、
大体、七王国時代の初めの方なんて統一とは程遠いし、ウェセッ〇スは最大の政権ではないし、最大の政権であるマーシアにしたってローマ時代のブリタニア属州の1割にも満たないし、
アングロサクソン七王国(しちおうこく、英語: Heptarchy、ヘプターキー)とは、中世初期にグレートブリテン島に侵入したアングロ・サクソン人が同島南部から中部にかけての地域に建国した7つの王国のこと。
この時代をまた「七王国時代」とも呼ぶ。これらの王国が覇を競った時代は、ホノリウス帝がブリタンニアを放棄してから(409年、End of Roman rule in Britain)、ウェセックスのエグバート王がカレドニアを除くブリテン島を統一するまで(825年、エランダンの戦い)であると考えられている。
この時代をまた「七王国時代」とも呼ぶ。これらの王国が覇を競った時代は、ホノリウス帝がブリタンニアを放棄してから(409年、End of Roman rule in Britain)、ウェセックスのエグバート王がカレドニアを除くブリテン島を統一するまで(825年、エランダンの戦い)であると考えられている。
159: 世界@名無史さん 2011/09/13(火) 14:00:39.71 0
>>158
>よそから来た?
『アングロサクソン年代記によると、495年にチェルディッチは、息子キュンリッチとともにハンプシャーへ3艘の船で上陸した。』(海を渡って来たって事だろ?)
神武も九州から来たと神話は伝えている。
ウェセッ〇スが小さくたって後にイングランドの中心勢力となった事に違いはあるまい。大きい小さいを言うのはナンセンス。神武のクニだって多分大和地方程度でしかない。
>よそから来た?
『アングロサクソン年代記によると、495年にチェルディッチは、息子キュンリッチとともにハンプシャーへ3艘の船で上陸した。』(海を渡って来たって事だろ?)
神武も九州から来たと神話は伝えている。
ウェセッ〇スが小さくたって後にイングランドの中心勢力となった事に違いはあるまい。大きい小さいを言うのはナンセンス。神武のクニだって多分大和地方程度でしかない。
329: 世界@名無史さん 2011/12/12(月) 09:54:08.58 0
>>158
ヘプターキ(七王国)って誤解を招く呼び名だよな
七世紀初めのブリテン島には、七王国のほかにもミドルセッ〇ス、フウィッケ、マゴンサエタ、リンジ、サリなどの小王国が存在していた
さらにブリテン島の西部にはケルト系諸王国(ドゥムノニア、グウェント、ダヴェッド、ポウィス、グウィネッズ、エルメット、リージッド、ストラスクライド、ダルリアダ)があったし
ヘプターキ(七王国)って誤解を招く呼び名だよな
七世紀初めのブリテン島には、七王国のほかにもミドルセッ〇ス、フウィッケ、マゴンサエタ、リンジ、サリなどの小王国が存在していた
さらにブリテン島の西部にはケルト系諸王国(ドゥムノニア、グウェント、ダヴェッド、ポウィス、グウィネッズ、エルメット、リージッド、ストラスクライド、ダルリアダ)があったし
160: 世界@名無史さん 2011/09/13(火) 14:35:47.46 0
スチュアート朝が、安定しなかったのも、イングランド(アングル人の国)の政権なのにケルト系王朝だった事も要因の一つらしい。スコットランドは、旧教だし。
ジェームス2世が、常備軍と官僚組織を構築し始めたのをイングランドの大諸侯達が反発していたところにジェームス2世に直系男子が誕生したので、一気に名誉革命(実際は、ホイッグ急進派と大諸侯によるクーデター)勃発となった。
ジェームス2世のイングランドでの旧教強制は、ウソと言うかホイッグ急進派によるプロパガンダらしい。
オレンジ公ウィリアムが、数万人のオランダ軍をイングランドに上陸させた。
そこでジェームス2世が軍を動員して迎撃しようとしたが、この時点ではイングランド軍の常備軍化をはほとんど出来ておらず、地方民兵の集合体だった為に大諸侯のサボタージュでイングランド軍は戦いもせず見事に崩壊。
ジェームス2世の側には近衛隊数百人しか居なかったらしい、そこでジェームス2世は、逃走を図るが、オランダ軍に捕まる。
処刑の声も有ったが、中小貴族の大部分と特権的大商人(しかも商売敵で反オランダ派が多い)で構成される王党派のシンボルになる事を恐れてジェームス2世をフランスに追放する事になる。
ホイッグ急進派と大諸侯が、オランダの実質的な王様を迎え入れる事には、経済的に競合するイングランドの貿易商人から反対の声が大きかった。
また、スチュアート朝に寄生し宮廷貴族化する事で生き残りを図っていた中小貴族は、スチュアート朝の絶対王政化の失敗で自ら大貴族との経済的競争に打ち勝つ必要が出て来た為に互いに結束しトーリーの党派性を著しく強めた。
中小貴族は、大諸侯を牽制・制圧する為に中央政権であるスチュアート朝の権力強化を必要としていた。
イングランド議会では、ホイッグ急進派が、オランダ軍の兵力を後にしてジェームス2世退位後の王位をオレンジ公ウィリアムが単独で引き継ぐ事を主張したが、中小貴族と特権的大商人で構成されるトーリーが反発し、オレンジ公ウィリアムの夫人でジェームス2世の娘と共同で王位を継承する事になる。
ジェームス2世が、常備軍と官僚組織を構築し始めたのをイングランドの大諸侯達が反発していたところにジェームス2世に直系男子が誕生したので、一気に名誉革命(実際は、ホイッグ急進派と大諸侯によるクーデター)勃発となった。
ジェームス2世のイングランドでの旧教強制は、ウソと言うかホイッグ急進派によるプロパガンダらしい。
オレンジ公ウィリアムが、数万人のオランダ軍をイングランドに上陸させた。
そこでジェームス2世が軍を動員して迎撃しようとしたが、この時点ではイングランド軍の常備軍化をはほとんど出来ておらず、地方民兵の集合体だった為に大諸侯のサボタージュでイングランド軍は戦いもせず見事に崩壊。
ジェームス2世の側には近衛隊数百人しか居なかったらしい、そこでジェームス2世は、逃走を図るが、オランダ軍に捕まる。
処刑の声も有ったが、中小貴族の大部分と特権的大商人(しかも商売敵で反オランダ派が多い)で構成される王党派のシンボルになる事を恐れてジェームス2世をフランスに追放する事になる。
ホイッグ急進派と大諸侯が、オランダの実質的な王様を迎え入れる事には、経済的に競合するイングランドの貿易商人から反対の声が大きかった。
また、スチュアート朝に寄生し宮廷貴族化する事で生き残りを図っていた中小貴族は、スチュアート朝の絶対王政化の失敗で自ら大貴族との経済的競争に打ち勝つ必要が出て来た為に互いに結束しトーリーの党派性を著しく強めた。
中小貴族は、大諸侯を牽制・制圧する為に中央政権であるスチュアート朝の権力強化を必要としていた。
イングランド議会では、ホイッグ急進派が、オランダ軍の兵力を後にしてジェームス2世退位後の王位をオレンジ公ウィリアムが単独で引き継ぐ事を主張したが、中小貴族と特権的大商人で構成されるトーリーが反発し、オレンジ公ウィリアムの夫人でジェームス2世の娘と共同で王位を継承する事になる。
164: 世界@名無史さん 2011/09/13(火) 16:55:55.06 0
>>160
何言ってるの?
スコットランドは、エスノスでなくて、ネイションの方だ。
5世紀頃のアングロ・サクソンの流入は始まっていて、アイルランドから侵入してきたゲール人との抗争はあっても8世紀にはアングロ・サクソン側が優勢で、13世紀には既に人口でもアングロ人が多数派、支配層の使用言語も古英語。
スチュアート朝同君連合の頃にはスコットランドの人口の8割がアングロ人で、使用言語も英語になっている。
何言ってるの?
スコットランドは、エスノスでなくて、ネイションの方だ。
5世紀頃のアングロ・サクソンの流入は始まっていて、アイルランドから侵入してきたゲール人との抗争はあっても8世紀にはアングロ・サクソン側が優勢で、13世紀には既に人口でもアングロ人が多数派、支配層の使用言語も古英語。
スチュアート朝同君連合の頃にはスコットランドの人口の8割がアングロ人で、使用言語も英語になっている。
175: 世界@名無史さん 2011/09/15(木) 00:43:45.07 0
>>164
>スチュアート朝同君連合の頃にはスコットランドの人口の8割がアングロ人で、使用言語も英語になっている。
使用言語はともかく人口の8割がASって事は無い。多くて半分か、実際は3割程度。
それにスチュワート家は、血統的には、完全にケルト人だ。
元々フランスのブルターニュ地方のブリトン人小貴族フラールド(? - 1099年)が家祖で、孫のフラールド2世がヘンリー1世に従ってイングランドに移住した。その孫のウォルター・フィッツアラン(? - 1177年)は、イングランドの無政府時代に女帝モードを支持し、その叔父であるアサル家のスコットランド王デイヴィッド1世に仕えてアサル王朝の王室執事長(Lord High Steward)に任命された。
この地位は世襲された事から、フラールド姓からステュアート姓に改名し家名となる。
第6代執事長のウォルター・ステュアートがブルース家のロバート1世の娘マージョリーと結婚した事によって、スコットランド王室に連なった。
1371年、デイヴィッド2世が没してブルース家が断絶すると、ウォルターとマージョリーの息子ロバートがロバート2世として即位し、スコットランドでステュアート朝が始まった。
スチュアート家はスコットランドの執権北条家や管領細川家みたいな家筋だ。
イングランドからテューダー家のヘンリー7世の娘マーガレットがジェームズ4世に嫁してジェームズ5世が生まれ、ステュアート家はイングランドの王位継承権を得た。嫡子のいなかったエリザベス1世の死後、メアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王位にも就いた。
この様な経緯からスチュアート家(元フラールド家)は、完全にケルト人として認識されており、婚姻関係でアングロサクソンの血が入っていても、欧州では父系男子血統が優先される為にスチュアート家(元フラールド家)は、ブリトン人小貴族フラールドの血統として見られている。
ちなみにブリトンとは、ブリトンとは、前ローマ時代にブリテン島に定住していたケルト系の土着民族、および彼らの文化・言語を指す。
>スチュアート朝同君連合の頃にはスコットランドの人口の8割がアングロ人で、使用言語も英語になっている。
使用言語はともかく人口の8割がASって事は無い。多くて半分か、実際は3割程度。
それにスチュワート家は、血統的には、完全にケルト人だ。
元々フランスのブルターニュ地方のブリトン人小貴族フラールド(? - 1099年)が家祖で、孫のフラールド2世がヘンリー1世に従ってイングランドに移住した。その孫のウォルター・フィッツアラン(? - 1177年)は、イングランドの無政府時代に女帝モードを支持し、その叔父であるアサル家のスコットランド王デイヴィッド1世に仕えてアサル王朝の王室執事長(Lord High Steward)に任命された。
この地位は世襲された事から、フラールド姓からステュアート姓に改名し家名となる。
第6代執事長のウォルター・ステュアートがブルース家のロバート1世の娘マージョリーと結婚した事によって、スコットランド王室に連なった。
1371年、デイヴィッド2世が没してブルース家が断絶すると、ウォルターとマージョリーの息子ロバートがロバート2世として即位し、スコットランドでステュアート朝が始まった。
スチュアート家はスコットランドの執権北条家や管領細川家みたいな家筋だ。
イングランドからテューダー家のヘンリー7世の娘マーガレットがジェームズ4世に嫁してジェームズ5世が生まれ、ステュアート家はイングランドの王位継承権を得た。嫡子のいなかったエリザベス1世の死後、メアリーの息子であるスコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世としてイングランド王位にも就いた。
この様な経緯からスチュアート家(元フラールド家)は、完全にケルト人として認識されており、婚姻関係でアングロサクソンの血が入っていても、欧州では父系男子血統が優先される為にスチュアート家(元フラールド家)は、ブリトン人小貴族フラールドの血統として見られている。
ちなみにブリトンとは、ブリトンとは、前ローマ時代にブリテン島に定住していたケルト系の土着民族、および彼らの文化・言語を指す。
176: 世界@名無史さん 2011/09/15(木) 08:38:59.20 0
>>175
何を以てケルトと言うのか。
ケルト人の血が一滴でも入っていたらケルトの家系というなら、キスアルピナ属州のローマ本国編入で決定的になってヨーロッパ人というか地中海一周回って全部そうだろ。
それによ、11世紀のブルターニュの土侯を起源としていたって、別系統だろ。ブルターニュ語はPケルトのブリソン諸語、スコットランド・ゲール語はQケルトのゲーリック諸語で、結構離れてるぞ。
ヘンリー一世につき従って渡った、そのヘンリー一世からして、アングロ人のアルフレッド王の血が少なくとも二度入ってる。
そもそも、ヨーロッパの王侯貴族の人種民族を問うのは無為。近いランクの家格での政略的な婚姻あり、家督相続によってヨソの国の領主を借りてきて王様に据えたりして、土着の習俗に縁遠く、庶民と言葉が通じないなんてザラ。
忠臣二君に見えずとかいう制約もないから、貴族に国が求心力となっていないから、他国の家格の近いところとの婚姻が多い。
何を以てケルトと言うのか。
ケルト人の血が一滴でも入っていたらケルトの家系というなら、キスアルピナ属州のローマ本国編入で決定的になってヨーロッパ人というか地中海一周回って全部そうだろ。
それによ、11世紀のブルターニュの土侯を起源としていたって、別系統だろ。ブルターニュ語はPケルトのブリソン諸語、スコットランド・ゲール語はQケルトのゲーリック諸語で、結構離れてるぞ。
ヘンリー一世につき従って渡った、そのヘンリー一世からして、アングロ人のアルフレッド王の血が少なくとも二度入ってる。
そもそも、ヨーロッパの王侯貴族の人種民族を問うのは無為。近いランクの家格での政略的な婚姻あり、家督相続によってヨソの国の領主を借りてきて王様に据えたりして、土着の習俗に縁遠く、庶民と言葉が通じないなんてザラ。
忠臣二君に見えずとかいう制約もないから、貴族に国が求心力となっていないから、他国の家格の近いところとの婚姻が多い。
178: 世界@名無史さん 2011/09/15(木) 10:54:40.38 0
>>176
>何を以てケルトと言うのか。
家祖が、ブリトン人貴族ならルーツとしてはケルト人だよ。
>ヨーロッパの王侯貴族の人種民族を問うのは無為。
近代になり、ナショナリズムが盛んになるとそうも言っていられない。
フランス革命の最中にマリー・アントワネットがあそこまで嫌われるのは、贅沢をしたからではなく、オーストリア人だったから。
プロイセンのホーエンツオレルン家の様にナショナリズムに乗っかって国家統一戦争に邁進する貴族も出始める。
スチュアート家もスコットランドとイングランド双方の王様に成ってしまったから、双方からつまはじきされる結果となっている。スチュアート朝も代を重ねるごとにイングランド人化している事は認める。アン女王もスコットランドが独自に民兵を組織する法案に拒否権を投じてしまう。
>何を以てケルトと言うのか。
家祖が、ブリトン人貴族ならルーツとしてはケルト人だよ。
>ヨーロッパの王侯貴族の人種民族を問うのは無為。
近代になり、ナショナリズムが盛んになるとそうも言っていられない。
フランス革命の最中にマリー・アントワネットがあそこまで嫌われるのは、贅沢をしたからではなく、オーストリア人だったから。
プロイセンのホーエンツオレルン家の様にナショナリズムに乗っかって国家統一戦争に邁進する貴族も出始める。
スチュアート家もスコットランドとイングランド双方の王様に成ってしまったから、双方からつまはじきされる結果となっている。スチュアート朝も代を重ねるごとにイングランド人化している事は認める。アン女王もスコットランドが独自に民兵を組織する法案に拒否権を投じてしまう。
179: 世界@名無史さん 2011/09/15(木) 15:21:13.70 0
>>178
じゃあなんでフランス生まれフランス育ちのルイ十六世も、その嫌われてるオーストリア王室出のお妃といっしょくたに、断頭台で斬首されたのさ?
王室やら上級貴族やらが次々と殺されている革命の時期のこと言っても詮無いでよ。
そもそも、ヨーロッパの王様なんてみんな縁続きだろ。中世からこのフランス加盟やらの時期までの間、国内の出のお妃なんて探す方が難しいわな。
じゃあなんでフランス生まれフランス育ちのルイ十六世も、その嫌われてるオーストリア王室出のお妃といっしょくたに、断頭台で斬首されたのさ?
王室やら上級貴族やらが次々と殺されている革命の時期のこと言っても詮無いでよ。
そもそも、ヨーロッパの王様なんてみんな縁続きだろ。中世からこのフランス加盟やらの時期までの間、国内の出のお妃なんて探す方が難しいわな。
180: 世界@名無史さん 2011/09/16(金) 00:54:14.80 0
国王なんだから仕方ない、チャールズ一世と同じ事。
ただ処刑当時から国王処刑を非難する声は大きく、ジロンド派は国王の命だけは助けたかった。
また、王党派貴族たちは、ルイ16世や17世の脱出計画を企んでいた。
マリーアントワネットは、今でも嫌われている。
ただ処刑当時から国王処刑を非難する声は大きく、ジロンド派は国王の命だけは助けたかった。
また、王党派貴族たちは、ルイ16世や17世の脱出計画を企んでいた。
マリーアントワネットは、今でも嫌われている。
181: 世界@名無史さん 2011/09/16(金) 10:50:41.77 0
>>180
革命ったって、白旗と赤旗とが争うのは常だわ。
ルイ16世の亡命の手引をして逃げる先に選んだのは、それこそ、オーストリアだったわな。
革命ったって、白旗と赤旗とが争うのは常だわ。
ルイ16世の亡命の手引をして逃げる先に選んだのは、それこそ、オーストリアだったわな。
199: 世界@名無史さん 2011/10/04(火) 22:09:03.15 0
3~10世紀あたりのブリタニア、ヒベルニアを扱った書籍ってないですか
小説でもいいです
小説でもいいです
200: 世界@名無史さん 2011/10/05(水) 01:48:39.23 0
P. サルウェイ編/鶴島博和・南川高志『オックスフォード・ブリテン諸島の歴史1:ローマ帝国時代のブリテン島』(慶應義塾大学出版会,2011年).
T. チャールズ・エドワーズ編/鶴島博和・常見信代監訳『オックスフォード・ブリテン諸島の歴史2:ポスト・ローマ』(慶應義塾大学出版会,2010年).
上のシリーズ物が一番無難。
最近吉川弘文館から出た『イングランド王国前史:アングロサクソン七王国物語』は、まじめな本ではなく読み物と割り切れば許せるかもしれない。
小説はアーサー王物まで入れれば数はそれなり。
サトクリフは知ってるものとして除外すると、B.コーンウェルの『小説アーサー王物語』三部作(原書房)が個人的には一押し。
当時の文学作品だと『ベーオウルフ』(忍足欣四郎訳,岩波文庫)が有名。
T. チャールズ・エドワーズ編/鶴島博和・常見信代監訳『オックスフォード・ブリテン諸島の歴史2:ポスト・ローマ』(慶應義塾大学出版会,2010年).
上のシリーズ物が一番無難。
最近吉川弘文館から出た『イングランド王国前史:アングロサクソン七王国物語』は、まじめな本ではなく読み物と割り切れば許せるかもしれない。
小説はアーサー王物まで入れれば数はそれなり。
サトクリフは知ってるものとして除外すると、B.コーンウェルの『小説アーサー王物語』三部作(原書房)が個人的には一押し。
当時の文学作品だと『ベーオウルフ』(忍足欣四郎訳,岩波文庫)が有名。
220: 世界@名無史さん 2011/10/19(水) 08:16:40.81 0
イギリスにはキリスト教がガリアからではなく、イタリアから直接伝わったんだよね
のちにカンタベリの大司教となったアウグスティヌスは、神学と並んでギリシア・ローマの
学問を無視しないという方針をとった
7世紀になるとテオドルスやハドリアヌスなどがやってきて、キリスト教とともにギリシア・ローマの文化を熱心に移植した
かくしてアイルランドやノーサンブリアの修道院では早くから神学と並んでギリシア・ローマの学術が積極的に取り入れられ、研究されていた
その中からやがてアルドヘルムやベーダのような人物が出現してくる
のちにカンタベリの大司教となったアウグスティヌスは、神学と並んでギリシア・ローマの
学問を無視しないという方針をとった
7世紀になるとテオドルスやハドリアヌスなどがやってきて、キリスト教とともにギリシア・ローマの文化を熱心に移植した
かくしてアイルランドやノーサンブリアの修道院では早くから神学と並んでギリシア・ローマの学術が積極的に取り入れられ、研究されていた
その中からやがてアルドヘルムやベーダのような人物が出現してくる
221: 世界@名無史さん 2011/10/19(水) 08:33:50.26 O
なぜそんなに辺境の島国に熱心に布教したんだ?
227: 世界@名無史さん 2011/10/20(木) 00:49:47.07 0
>>221
古い通説だと時の教皇グレゴリウス1世が宣教重視の姿勢に態度を変えたからとされるが、最近はローマ的な儀礼や威信を自らの権威付けに利用しようとする受容者としての南イングランドの支配者側の態度をより重視する見解も有力、らしい。
#ローマ軍が撤退する5世紀初頭までに既にキリスト教はブリタニアにも知られていたわけだし、全くの未開地への布教という訳でもない。
あと、初代大司教オーガスティンの活動のサポート(通訳とか)に南イングランドの支配者と婚姻等を介してつながっていたメロヴィング朝ネウストリア分王国宮廷の関与も疑われている。
古い通説だと時の教皇グレゴリウス1世が宣教重視の姿勢に態度を変えたからとされるが、最近はローマ的な儀礼や威信を自らの権威付けに利用しようとする受容者としての南イングランドの支配者側の態度をより重視する見解も有力、らしい。
#ローマ軍が撤退する5世紀初頭までに既にキリスト教はブリタニアにも知られていたわけだし、全くの未開地への布教という訳でもない。
あと、初代大司教オーガスティンの活動のサポート(通訳とか)に南イングランドの支配者と婚姻等を介してつながっていたメロヴィング朝ネウストリア分王国宮廷の関与も疑われている。
230: 世界@名無史さん 2011/10/20(木) 01:44:57.90 0
>>227
むしろ逆。アングロ=サクソン系の統治者。
軍事的支配層としての彼らがブリトン人やアイルランド系(「ローマン・ケルト」)を介してキリスト教を受容した場合、政治的には押されている後者の文化的ヘゲモニーを受け入れたこととなるので、直接ローマからキリスト教宣教団を招聘し、「自分たちの(ローマ直輸入の)キリスト教」の「土着・ブリトン人のキリスト教」に対する優位を正当化しようとした。
あくまでもベーダの『教会史』における記述なので、実際にはブリトン系からの導入を含めより複雑な話になっていると思うけど。
イースターの暦をはじめとする典礼を島内で7世紀に統一する動きが出てきたのも、基本的にはサクソン系統治者が自分たちに都合が良いキリスト教を島内に広めようとする思惑と連動している(ちょっと単純化しすぎているきらいはあるが)。
むしろ逆。アングロ=サクソン系の統治者。
軍事的支配層としての彼らがブリトン人やアイルランド系(「ローマン・ケルト」)を介してキリスト教を受容した場合、政治的には押されている後者の文化的ヘゲモニーを受け入れたこととなるので、直接ローマからキリスト教宣教団を招聘し、「自分たちの(ローマ直輸入の)キリスト教」の「土着・ブリトン人のキリスト教」に対する優位を正当化しようとした。
あくまでもベーダの『教会史』における記述なので、実際にはブリトン系からの導入を含めより複雑な話になっていると思うけど。
イースターの暦をはじめとする典礼を島内で7世紀に統一する動きが出てきたのも、基本的にはサクソン系統治者が自分たちに都合が良いキリスト教を島内に広めようとする思惑と連動している(ちょっと単純化しすぎているきらいはあるが)。
231: 227=230 2011/10/20(木) 01:51:11.36 0
失礼。
逆として否定してしまったが、アングロ=サクソン系の有力者が「ローマ式」
キリスト教を導入してブリトン人の「土着キリスト教徒」に対して優位に立とうとしていたという話なので、後者を(二次的な)布教対象とみなすのは間違ってない。
逆として否定してしまったが、アングロ=サクソン系の有力者が「ローマ式」
キリスト教を導入してブリトン人の「土着キリスト教徒」に対して優位に立とうとしていたという話なので、後者を(二次的な)布教対象とみなすのは間違ってない。
225: 世界@名無史さん 2011/10/19(水) 21:42:40.31 0
バガウダエ(ばがうだえ Bagaudae)
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%90%E3%AC%E3%A6%E3%80%E3%A8/
ケルト語で「闘争者」「戦闘的なもの」を意味し、ローマ帝国末期にガリア、イスパニアで起こった民衆運動を総称する。
その名は、283年、北ガリアの、原住民の共同体が残っていたアルモリカ地方で、ローマ支配下で没落させられていた農民や牧人が蜂起(ほうき)し、アマンダスとアエリアヌスを指導者として独立政権をつくり、自ら「バガウダエ」と名のったことに基づく。
このとき、皇帝ディオクレティアヌスは、共同統治者マクシミアヌスを派遣して、4年後にようやく蜂起を鎮圧した。
ドミナトゥス体制下の徴税強化のなかで、5世紀には運動が激化し持続的になった。
407年のアルモリカ地方を中心とする独立政権の10年間の抵抗、435年のティバトを首領とする独立政権の成立など、運動は断続的に451年まで続いた。この運動には小農民、コロヌス、奴隷のほかに、南ガリアからも重税からの自由を求めて貧困化した民衆が参加した。
動きは、さらにイスパニアのタラコネンシス地方にも広がった。
ローマは、これらの運動を鎮圧するため、進入したゲルマン人に土地を与えて援助を求めたが、かえって属州での支配力を弱め、その没落を早めた。
バガウダエの伝承は、北ガリアの農民の間で7世紀まで保持された。
ケルト語で「闘争者」「戦闘的なもの」を意味し、ローマ帝国末期にガリア、イスパニアで起こった民衆運動を総称する。
その名は、283年、北ガリアの、原住民の共同体が残っていたアルモリカ地方で、ローマ支配下で没落させられていた農民や牧人が蜂起(ほうき)し、アマンダスとアエリアヌスを指導者として独立政権をつくり、自ら「バガウダエ」と名のったことに基づく。
このとき、皇帝ディオクレティアヌスは、共同統治者マクシミアヌスを派遣して、4年後にようやく蜂起を鎮圧した。
ドミナトゥス体制下の徴税強化のなかで、5世紀には運動が激化し持続的になった。
407年のアルモリカ地方を中心とする独立政権の10年間の抵抗、435年のティバトを首領とする独立政権の成立など、運動は断続的に451年まで続いた。この運動には小農民、コロヌス、奴隷のほかに、南ガリアからも重税からの自由を求めて貧困化した民衆が参加した。
動きは、さらにイスパニアのタラコネンシス地方にも広がった。
ローマは、これらの運動を鎮圧するため、進入したゲルマン人に土地を与えて援助を求めたが、かえって属州での支配力を弱め、その没落を早めた。
バガウダエの伝承は、北ガリアの農民の間で7世紀まで保持された。
232: 世界@名無史さん 2011/10/20(木) 02:16:50.68 0
>>225
>この運動には小農民、コロヌス、奴隷のほかに、南ガリアからも重税からの自由を求めて貧困化した民衆が参加した。
貧困層が、バガウダエ参加していたのは最初だけ。
後には、ローマ化したガリアの富農・地主層が参加している。
ペルシャとの戦いの為にローマ軍団が東方に移動すると、ガリア駐屯のローマ軍が減少し兵員が減るとそのスキを突いてバガウダエ運動が拡大しガリアの富裕層までもが参加するようになる。
ローマのガリア支配の弛緩を見たガリアの旧ケルト部族の支配層が、バガウダエ運動に参加したとも考えられる。
>この運動には小農民、コロヌス、奴隷のほかに、南ガリアからも重税からの自由を求めて貧困化した民衆が参加した。
貧困層が、バガウダエ参加していたのは最初だけ。
後には、ローマ化したガリアの富農・地主層が参加している。
ペルシャとの戦いの為にローマ軍団が東方に移動すると、ガリア駐屯のローマ軍が減少し兵員が減るとそのスキを突いてバガウダエ運動が拡大しガリアの富裕層までもが参加するようになる。
ローマのガリア支配の弛緩を見たガリアの旧ケルト部族の支配層が、バガウダエ運動に参加したとも考えられる。
238: 世界@名無史さん 2011/10/20(木) 21:13:53.86 0
>>232
>ローマのガリア支配の弛緩を見たガリアの旧ケルト部族の支配層が、バガウダエ運動に参加したとも考えられる。
ちょうど同じ頃にブリタニアからケルト人が、ブリュターニュ半島を含む北ガリアに移住し始めている。
ローマ帝国後期の出来事で理由は不明で帝国政府の方針なのか、テラトルキアの影響なのか、人口増加やスコットランドやアイルランドからの侵入の激化が原因と言う説もあるのだが?
この頃はまだゲルマン人がブリタニアには来ていない時期なので、無関係だと思われる。
>ローマのガリア支配の弛緩を見たガリアの旧ケルト部族の支配層が、バガウダエ運動に参加したとも考えられる。
ちょうど同じ頃にブリタニアからケルト人が、ブリュターニュ半島を含む北ガリアに移住し始めている。
ローマ帝国後期の出来事で理由は不明で帝国政府の方針なのか、テラトルキアの影響なのか、人口増加やスコットランドやアイルランドからの侵入の激化が原因と言う説もあるのだが?
この頃はまだゲルマン人がブリタニアには来ていない時期なので、無関係だと思われる。
239: 世界@名無史さん 2011/10/20(木) 22:53:10.27 0
>>238
近年は単純な移民というよりは、むしろローマ軍が撤退した5世紀以降、英仏海峡をまたぐ形で大陸側にブリトン人が政治勢力を拡大したとする見方も出ているようだ。
その仮説を受け入れるならば、ウェールズ南西のディフェドからコーンウォール、そして大陸北西のブルターニュまでが海を介してひとつの政治世界を形作っていたことになる。
ブリテン島側が大陸に売れそうな産物が奴隷以外だと錫(コーンウォール産)くらいしか思いつかないので、当時の海上ルートでの相互交流がどのくらい密接だったかは自信がないが……。
近年は単純な移民というよりは、むしろローマ軍が撤退した5世紀以降、英仏海峡をまたぐ形で大陸側にブリトン人が政治勢力を拡大したとする見方も出ているようだ。
その仮説を受け入れるならば、ウェールズ南西のディフェドからコーンウォール、そして大陸北西のブルターニュまでが海を介してひとつの政治世界を形作っていたことになる。
ブリテン島側が大陸に売れそうな産物が奴隷以外だと錫(コーンウォール産)くらいしか思いつかないので、当時の海上ルートでの相互交流がどのくらい密接だったかは自信がないが……。
243: 世界@名無史さん 2011/10/21(金) 03:07:32.92 0
>>239
ただ最近の研究では、ブリタニアからのケルト人の北ガリア流入は、3世紀の危機の頃にはすでに始まっており、ローマ軍が撤退した5世紀以降に起きた事象では無いらしい。
特に遺跡や遺骨、当時の資料の再精査でこれらの事実が浮かんで来ているとか。
で、下手すると移動のピークは、テラトルキア時代かもよ?って論者も居る。
ブリタニアからのケルト人の北ガリア流入開始時期が、200年位繰り上がると、時系列的にバガウダエ運動とかち合うんだよねw
バガウダエ運動も当初は、貧民の暴動や一揆の手合いで、簡単に鎮圧されたけど、結局5世紀まで断続的に続いて、しかも後半になるにつれてガリア社会のエリートが参加している訳でしょう。3世紀の危機の最中にはやはりガリア地域における民心の離反と動揺、ローマ帝国の支配力喪失が著しかったんだろうと思う。
当然ゲルマン人の脅威も続いていて、そもそもガリアのケルト人エリートがローマに下ったのは、ゲルマン人への恐怖も大きかった。
ガリア帝国の失敗で懲りたローマ化したケルト人エリート層だけど、ローマ帝国のオリエント化と弱体化は、3世紀の危機の最中にも進んでおり、結局ディオクレティアヌス帝のテラトルキアで何とかなった。そもそも西方副帝領地は、ガリア帝国とほぼ同じ領域でしかも首都は同じ都市であり、(支配層はともかく)ある意味ガリア帝国が公然化したともいえる。
またブリタニアについて言えば、43年のクラウディウス帝のブリタニア遠征や女王ブーディカの反乱等の混乱を乗り越えてイングランド地方は200年近く安定的にローマに統治され、人口が増えてきた。
その時に寒冷化が始まりアイルランドからスコット族が、スコットランドからピクト人がブリタニアに侵入し始め、食糧難も始まり、北ガリアへの移住が始まったのではないだろうか。
ただ最近の研究では、ブリタニアからのケルト人の北ガリア流入は、3世紀の危機の頃にはすでに始まっており、ローマ軍が撤退した5世紀以降に起きた事象では無いらしい。
特に遺跡や遺骨、当時の資料の再精査でこれらの事実が浮かんで来ているとか。
で、下手すると移動のピークは、テラトルキア時代かもよ?って論者も居る。
ブリタニアからのケルト人の北ガリア流入開始時期が、200年位繰り上がると、時系列的にバガウダエ運動とかち合うんだよねw
バガウダエ運動も当初は、貧民の暴動や一揆の手合いで、簡単に鎮圧されたけど、結局5世紀まで断続的に続いて、しかも後半になるにつれてガリア社会のエリートが参加している訳でしょう。3世紀の危機の最中にはやはりガリア地域における民心の離反と動揺、ローマ帝国の支配力喪失が著しかったんだろうと思う。
当然ゲルマン人の脅威も続いていて、そもそもガリアのケルト人エリートがローマに下ったのは、ゲルマン人への恐怖も大きかった。
ガリア帝国の失敗で懲りたローマ化したケルト人エリート層だけど、ローマ帝国のオリエント化と弱体化は、3世紀の危機の最中にも進んでおり、結局ディオクレティアヌス帝のテラトルキアで何とかなった。そもそも西方副帝領地は、ガリア帝国とほぼ同じ領域でしかも首都は同じ都市であり、(支配層はともかく)ある意味ガリア帝国が公然化したともいえる。
またブリタニアについて言えば、43年のクラウディウス帝のブリタニア遠征や女王ブーディカの反乱等の混乱を乗り越えてイングランド地方は200年近く安定的にローマに統治され、人口が増えてきた。
その時に寒冷化が始まりアイルランドからスコット族が、スコットランドからピクト人がブリタニアに侵入し始め、食糧難も始まり、北ガリアへの移住が始まったのではないだろうか。
254: 世界@名無史さん 2011/10/21(金) 20:21:32.82 0
>>243
テトラルキアを強調しているが、ブリタニアと中央との関係を考える上では、ヨークで即位したコンスタンティヌス帝以降の4世紀コンスタンティヌス朝時代についてより考察の対象を深める必要があるかと思うがいかがか?
辺境部長城の防衛秩序の再編(というか軍隊規模の縮小)もコンスタンティヌス帝自体に意図的に行われた形跡があるようだし、最近ではアイルランド出身の集団を新たにを傭兵(フェデラーティ)としてブリタニア西部~大陸西北の防備に投入した可能性も指摘されている(これは4世紀後半の話だし、異論もある)。
社会経済的な話で言えばユリアヌスはブリタニアからガリアに穀物を輸送させていたはずだし、3世紀からの直線的な連続性上として独立傾向を読み取るのは私見ではちょっと躊躇いが残る。
テトラルキアを強調しているが、ブリタニアと中央との関係を考える上では、ヨークで即位したコンスタンティヌス帝以降の4世紀コンスタンティヌス朝時代についてより考察の対象を深める必要があるかと思うがいかがか?
辺境部長城の防衛秩序の再編(というか軍隊規模の縮小)もコンスタンティヌス帝自体に意図的に行われた形跡があるようだし、最近ではアイルランド出身の集団を新たにを傭兵(フェデラーティ)としてブリタニア西部~大陸西北の防備に投入した可能性も指摘されている(これは4世紀後半の話だし、異論もある)。
社会経済的な話で言えばユリアヌスはブリタニアからガリアに穀物を輸送させていたはずだし、3世紀からの直線的な連続性上として独立傾向を読み取るのは私見ではちょっと躊躇いが残る。
256: 世界@名無史さん 2011/10/21(金) 22:41:51.39 0
3世紀の危機の時は、ガリアとブリタニアだけでなく、ローマ帝国外延部の属州の多くがある意味分離傾向を見せた時期だと思っている。
ゼノビアのパルミア王国なども中東版(アラブ版)のバガウエダともいえるし、ガリア帝国とほぼ同じ時期にパルミア王国がエジプトやアナトリアに拡大した意味を良く考えるべきだと思う。北アフリカもヌミディア人(ベルベル人?)がの侵攻があり、これも西方副帝のマクシミアヌスが対処しなければ、分離していたと思う。
軍人皇帝時代にはローマ帝国は、本当に弱体化し政治的混乱もそれを助長し領地の縮小があったと思う。
アウレリアヌスの再統一やテラトルキアが無ければ、ローマ帝国は、この時点で三つに分裂していたと思う。
経済面でもイタリア半島の農業空洞化が進み、属州の安い農産物が殺到し農地の放棄が続出している。
この事を見ると経済的にもローマの中心性がなくなり始め、帝国が東方化していると思う。
テラトルキアは、帝国の4分割と言う事だけでなく、ローマ帝国が次第にローマ人の帝国からギリシャ人の帝国に成り始めた現象をも表していると思う。
ギリシャ文化圏のイリリア人系の皇帝(コンスタンティヌス帝も含め)が増え始めた事もそれを促進した。
ガリアのローマ化したケルト人エリートが、ローマ帝国に参加する意義を見出せなくなったのも、こういう背景があったからでは?
もっともローマ帝国の分裂と同様は、ディオクレティアヌスの一連の施策で何とか収まった。
しかしローマ帝国は、一種の国家社会主義的な政府になってしまう。
たた、イタリア半島の農業空洞化を見ると経済的には、ガリア帝国やパルミア王国の分離を認めるのは悪くは無いかも。
(同じ理屈で当然TPPを締結したら外国の安い農作物が日本に入って来ますなw)
ゼノビアのパルミア王国なども中東版(アラブ版)のバガウエダともいえるし、ガリア帝国とほぼ同じ時期にパルミア王国がエジプトやアナトリアに拡大した意味を良く考えるべきだと思う。北アフリカもヌミディア人(ベルベル人?)がの侵攻があり、これも西方副帝のマクシミアヌスが対処しなければ、分離していたと思う。
軍人皇帝時代にはローマ帝国は、本当に弱体化し政治的混乱もそれを助長し領地の縮小があったと思う。
アウレリアヌスの再統一やテラトルキアが無ければ、ローマ帝国は、この時点で三つに分裂していたと思う。
経済面でもイタリア半島の農業空洞化が進み、属州の安い農産物が殺到し農地の放棄が続出している。
この事を見ると経済的にもローマの中心性がなくなり始め、帝国が東方化していると思う。
テラトルキアは、帝国の4分割と言う事だけでなく、ローマ帝国が次第にローマ人の帝国からギリシャ人の帝国に成り始めた現象をも表していると思う。
ギリシャ文化圏のイリリア人系の皇帝(コンスタンティヌス帝も含め)が増え始めた事もそれを促進した。
ガリアのローマ化したケルト人エリートが、ローマ帝国に参加する意義を見出せなくなったのも、こういう背景があったからでは?
もっともローマ帝国の分裂と同様は、ディオクレティアヌスの一連の施策で何とか収まった。
しかしローマ帝国は、一種の国家社会主義的な政府になってしまう。
たた、イタリア半島の農業空洞化を見ると経済的には、ガリア帝国やパルミア王国の分離を認めるのは悪くは無いかも。
(同じ理屈で当然TPPを締結したら外国の安い農作物が日本に入って来ますなw)
245: 世界@名無史さん 2011/10/21(金) 13:21:33.64 0
>>225には、バガウダエ運動の鎮圧の為にローマ当局がゲルマン人を投入した様に記載してあるが、塩婆に言わせると、コレだけはローマ人もやっていない。バガウダエ運動とゲルマン人が結合したらローマのガリア支配も一巻の終わりである。
またガリア人は以前からゲルマン人に対しての警戒感があり、ゲルマン人からガリアを防衛しないのでは、というガリア人エリートの不安感が「ガリア帝国」や後期バガウダエ運動の継続的拡大やガリア人エリートのバガウダエ運動への参加を促している事からゲルマン人のバガウダエ運動鎮圧投入はしていないと思われる。
またガリア人は以前からゲルマン人に対しての警戒感があり、ゲルマン人からガリアを防衛しないのでは、というガリア人エリートの不安感が「ガリア帝国」や後期バガウダエ運動の継続的拡大やガリア人エリートのバガウダエ運動への参加を促している事からゲルマン人のバガウダエ運動鎮圧投入はしていないと思われる。
254: 世界@名無史さん 2011/10/21(金) 20:21:32.82 0
>>245
ブルターニュのローマ時代のキウィタースは現在のナント、レンヌ、ヴァンヌ、カルエクスCarhaix、北東部のコルCorseulといったところ。
退役兵に起源をもつコロニア(植民地)は発達してない。
ただしブリタニアのブリトン人集団は少なくとも5世紀に移住する段階ではキリスト教は受け入れていたはず。
クローヴィスとの同盟成立の背景として、彼のキリスト教への改宗と司教との友好関係の重要性を指摘する論者もいる。
ちなみにルアン司教ウィクトリキウス(407年死去)は当時のガリア教会では一番ではないにせよかなり名は知られた人物で、イタリアの司教同様都市にイタリアから聖遺物の移葬を行っていたりしたことをヒエロニムスが言及している。
ブルターニュのローマ時代のキウィタースは現在のナント、レンヌ、ヴァンヌ、カルエクスCarhaix、北東部のコルCorseulといったところ。
退役兵に起源をもつコロニア(植民地)は発達してない。
ただしブリタニアのブリトン人集団は少なくとも5世紀に移住する段階ではキリスト教は受け入れていたはず。
クローヴィスとの同盟成立の背景として、彼のキリスト教への改宗と司教との友好関係の重要性を指摘する論者もいる。
ちなみにルアン司教ウィクトリキウス(407年死去)は当時のガリア教会では一番ではないにせよかなり名は知られた人物で、イタリアの司教同様都市にイタリアから聖遺物の移葬を行っていたりしたことをヒエロニムスが言及している。
244: 世界@名無史さん 2011/10/21(金) 09:24:11.55 0
ローマ時代、アルモリカはケルティカの一部を成したが、州都ルグドゥヌム(現リヨン)から遠く隔たり、ローマ化はほとんど進行しなかったらしい
ローマ軍の野営地は存在したが、ガリア南部のナルボネンシス、中部のルグドネンシスと異なり、ローマからの移住者たちのコロニーが形成されることはほとんどなかったようだ
ローマ軍の野営地は存在したが、ガリア南部のナルボネンシス、中部のルグドネンシスと異なり、ローマからの移住者たちのコロニーが形成されることはほとんどなかったようだ
245: 世界@名無史さん 2011/10/21(金) 13:21:33.64 0
>>244
そういう事ならバガウダエ運動も北ガリアで発生しやすいな。
一種のパックスロマーナの空白地帯だったのだろう。
ローマ人の植民都市が無ければ、ガリア人はローマ化され難いし、反乱も起こし易いし、ブリタニアから過剰になった同胞ケルト人を受け入れやすい。
ローマ化が進まなかったと言う事は、都市化が進まなかったと言う意味も有りそうだから北ガリアのケルト人は、農村部に散在的に居住し半農半猟(漁)の生活だったかも知れない。
当然キリスト教の布教もあまり進まず、ケルト神話がかなり遅い時期まで残っていただろう。
そろそろハロウィーンだが、もともとハロウィーンは、ケルト神話の新年の祝いだった。
北仏のルーアン、ブレストなどの市は、この時期には形成されていないのだろうか?
パリ市は、既にあり、ケルト時代から部族の所在地だったり、要塞があったようだ。
4~5世紀になるとバガウダエ運動もガリア全土に広がり、参加者もローマ化したガリア人エリートにまで広がり始める。ケルト系の富農や地主が農奴や小作人を引き連れて参加し、運動に参加する脱走兵まで居たらしい。スペイン北部までバガウダエ運動が広がり、ローマ軍補助兵が主に鎮圧に当ったらしいが、逆にブリタニアに逃げ込むバガウダエも多かった。
北ガリアの漁師たちもバガウダエ運動に参加・支援していたのだろう。
そういう事ならバガウダエ運動も北ガリアで発生しやすいな。
一種のパックスロマーナの空白地帯だったのだろう。
ローマ人の植民都市が無ければ、ガリア人はローマ化され難いし、反乱も起こし易いし、ブリタニアから過剰になった同胞ケルト人を受け入れやすい。
ローマ化が進まなかったと言う事は、都市化が進まなかったと言う意味も有りそうだから北ガリアのケルト人は、農村部に散在的に居住し半農半猟(漁)の生活だったかも知れない。
当然キリスト教の布教もあまり進まず、ケルト神話がかなり遅い時期まで残っていただろう。
そろそろハロウィーンだが、もともとハロウィーンは、ケルト神話の新年の祝いだった。
北仏のルーアン、ブレストなどの市は、この時期には形成されていないのだろうか?
パリ市は、既にあり、ケルト時代から部族の所在地だったり、要塞があったようだ。
4~5世紀になるとバガウダエ運動もガリア全土に広がり、参加者もローマ化したガリア人エリートにまで広がり始める。ケルト系の富農や地主が農奴や小作人を引き連れて参加し、運動に参加する脱走兵まで居たらしい。スペイン北部までバガウダエ運動が広がり、ローマ軍補助兵が主に鎮圧に当ったらしいが、逆にブリタニアに逃げ込むバガウダエも多かった。
北ガリアの漁師たちもバガウダエ運動に参加・支援していたのだろう。
254: 世界@名無史さん 2011/10/21(金) 20:21:32.82 0
>>245
ブルターニュのローマ時代のキウィタースは現在のナント、レンヌ、ヴァンヌ、カルエクスCarhaix、北東部のコルCorseulといったところ。
退役兵に起源をもつコロニア(植民地)は発達してない。
ただしブリタニアのブリトン人集団は少なくとも5世紀に移住する段階ではキリスト教は受け入れていたはず。
クローヴィスとの同盟成立の背景として、彼のキリスト教への改宗と司教との友好関係の重要性を指摘する論者もいる。
ちなみにルアン司教ウィクトリキウス(407年死去)は当時のガリア教会では一番ではないにせよかなり名は知られた人物で、イタリアの司教同様都市にイタリアから聖遺物の移葬を行っていたりしたことをヒエロニムスが言及している。
ブルターニュのローマ時代のキウィタースは現在のナント、レンヌ、ヴァンヌ、カルエクスCarhaix、北東部のコルCorseulといったところ。
退役兵に起源をもつコロニア(植民地)は発達してない。
ただしブリタニアのブリトン人集団は少なくとも5世紀に移住する段階ではキリスト教は受け入れていたはず。
クローヴィスとの同盟成立の背景として、彼のキリスト教への改宗と司教との友好関係の重要性を指摘する論者もいる。
ちなみにルアン司教ウィクトリキウス(407年死去)は当時のガリア教会では一番ではないにせよかなり名は知られた人物で、イタリアの司教同様都市にイタリアから聖遺物の移葬を行っていたりしたことをヒエロニムスが言及している。
249: 世界@名無史さん 2011/10/21(金) 15:49:35.87 0
属州ガリアでの農業だが、南部のナルボネンシスでは大規模な農場で奴隷労働により、葡萄やオリーブ、穀物の生産が行われていた
これに対し北部のガリア・コマタではヴィラ(農場邸宅)はむしろ従来の村落と結合し、労働力も奴隷ではなかったそうだ
これに対し北部のガリア・コマタではヴィラ(農場邸宅)はむしろ従来の村落と結合し、労働力も奴隷ではなかったそうだ
251: 世界@名無史さん 2011/10/21(金) 17:13:02.40 0
>これに対し北部のガリア・コマタではヴィラ(農場邸宅)はむしろ従来の村落と結合し、労働力も奴隷ではなかったそうだ
この状況を見ると北ガリアへのローマ人の入植は、あまり多くなかったのかも知れない。
クラウディウス帝のブリタニア遠征や女王ブーディカの反乱の後処理等の理由でむしろブリタニアへの入植の方が多かった感じがする。大して広くない今のイングランド地域にローマ軍4個軍団約4万人が駐屯している事からローマ人にとってはブリタニアの方が治安が良かった可能性があるし、女王ブーディカの反乱鎮圧以降は、ローマの軍事力による制圧と都市化の進展で地元ブリタニア部族民も都市住民化して部族の縛りが弱まり大人しくなっていた可能性がある。
もっとも410年にブリタニアからローマ軍団が完全に撤退するとローマ属州化以前の部族支配が復活してくるが、これもバガウダエ運動がガリアで広まった事と似た現象であろう。
西方副帝のマクシミアヌスは、バガウダエ運動鎮圧に本格的に乗り出すが、ゲルマン人撃退よりも時間がかかっている。ゲルマン人は、部族単位で纏まって進入してくるので、国境付近での野戦で撃破するか、最終手段として部族ごと虐殺してしまえば終わりである。しかしバガウダエ運動の場合(ケルト系が大部分だとしても)地元住民と渾然一体となったゲリラ的反乱であり、鎮圧が難しい。
南ベトナムでの米軍のサーチ&デストロイ計画でもベトコンの完全鎮圧が難しかった事と似ている。
この状況を見ると北ガリアへのローマ人の入植は、あまり多くなかったのかも知れない。
クラウディウス帝のブリタニア遠征や女王ブーディカの反乱の後処理等の理由でむしろブリタニアへの入植の方が多かった感じがする。大して広くない今のイングランド地域にローマ軍4個軍団約4万人が駐屯している事からローマ人にとってはブリタニアの方が治安が良かった可能性があるし、女王ブーディカの反乱鎮圧以降は、ローマの軍事力による制圧と都市化の進展で地元ブリタニア部族民も都市住民化して部族の縛りが弱まり大人しくなっていた可能性がある。
もっとも410年にブリタニアからローマ軍団が完全に撤退するとローマ属州化以前の部族支配が復活してくるが、これもバガウダエ運動がガリアで広まった事と似た現象であろう。
西方副帝のマクシミアヌスは、バガウダエ運動鎮圧に本格的に乗り出すが、ゲルマン人撃退よりも時間がかかっている。ゲルマン人は、部族単位で纏まって進入してくるので、国境付近での野戦で撃破するか、最終手段として部族ごと虐殺してしまえば終わりである。しかしバガウダエ運動の場合(ケルト系が大部分だとしても)地元住民と渾然一体となったゲリラ的反乱であり、鎮圧が難しい。
南ベトナムでの米軍のサーチ&デストロイ計画でもベトコンの完全鎮圧が難しかった事と似ている。
252: 世界@名無史さん 2011/10/21(金) 17:13:53.53 0
(>>251の続き)
また、ローマ軍が、バガウダエ運動鎮圧に時間がかかったのは、バガウダエの叛徒の構成員が、地元住民や北ガリアの漁師の支援でドーバー海峡を渡りブリタニアに逃げ込んでいる事もある。
しかしブリタニア南部にもローマ軍は駐屯し各港には、関税事務所共に分遣隊や百人隊が駐屯している。
バガウダエ運動鎮圧行動時には、ガリアのローマ軍からの要請でブリタニアの海岸ぐらいは定期的に見回っていただろうし、住民からの通報も呼びかけていただろう。
しかし、バガウダエの叛徒がブリタニアで大規模に逮捕された記録が無い事を見ると、どうもブリタニアではなく直接ウェールズやアイルランドに逃げ込んでいた可能性が大きい。
三世紀の危機の頃は、属州ブリタニアの領地は縮小傾向にあった、スコットランド南部やウェールズ地方は放棄され、アイルランド(ヒベルニア)の族長とブリタニア総督は同盟部族関係は、消滅していた可能性がある。
同じ時期アイルランドから属州ブリタニアに対してスコット族の侵入が始まるが、この事もガリアのバガウダエ運動の継続的拡大と関係しているかも知れない。
また、ローマ軍が、バガウダエ運動鎮圧に時間がかかったのは、バガウダエの叛徒の構成員が、地元住民や北ガリアの漁師の支援でドーバー海峡を渡りブリタニアに逃げ込んでいる事もある。
しかしブリタニア南部にもローマ軍は駐屯し各港には、関税事務所共に分遣隊や百人隊が駐屯している。
バガウダエ運動鎮圧行動時には、ガリアのローマ軍からの要請でブリタニアの海岸ぐらいは定期的に見回っていただろうし、住民からの通報も呼びかけていただろう。
しかし、バガウダエの叛徒がブリタニアで大規模に逮捕された記録が無い事を見ると、どうもブリタニアではなく直接ウェールズやアイルランドに逃げ込んでいた可能性が大きい。
三世紀の危機の頃は、属州ブリタニアの領地は縮小傾向にあった、スコットランド南部やウェールズ地方は放棄され、アイルランド(ヒベルニア)の族長とブリタニア総督は同盟部族関係は、消滅していた可能性がある。
同じ時期アイルランドから属州ブリタニアに対してスコット族の侵入が始まるが、この事もガリアのバガウダエ運動の継続的拡大と関係しているかも知れない。
253: 世界@名無史さん 2011/10/21(金) 20:06:42.37 0
>>251
>ローマ人にとってはブリタニアの方が治安が良かった可能性があるし
ローマのガリア支配に陰りが見えだすのは3世紀に、フランク族やアラマンニ族が勢力を拡大し、ローマ軍を圧迫していったとき、とくに3世紀後半に、サーサーン朝に対抗するために東方に軍勢が引き抜かれると、 防備が手薄になったガリアは、ゲルマン人の襲撃に悩まされることになったそれに比べると、ブリタニアは4世紀まではかなり治安がよかったのかも
>ローマ人にとってはブリタニアの方が治安が良かった可能性があるし
ローマのガリア支配に陰りが見えだすのは3世紀に、フランク族やアラマンニ族が勢力を拡大し、ローマ軍を圧迫していったとき、とくに3世紀後半に、サーサーン朝に対抗するために東方に軍勢が引き抜かれると、 防備が手薄になったガリアは、ゲルマン人の襲撃に悩まされることになったそれに比べると、ブリタニアは4世紀まではかなり治安がよかったのかも
引用元: ・ノルマン・コンクエスト以前のイギリス