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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/20(木) 21:47:20 ID:52Sv0tnY
三管四職








2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/20(木) 21:51:01 ID:lhwTTMVb
三管四職は細川以外没落しちゃったね

3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/20(木) 22:03:49 ID:djycgZPs
赤松は結構もったほうだよ
永禄十二(1569)年迄

没落後関ヶ原も出てるし

4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/21(金) 08:45:49 ID:AjZD3CPN
赤松様の子孫は存在するのかな?いたとしたら姓もやはり赤松だろか・・

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/21(金) 12:32:14 ID:2ZFF2Zar
>>4
旗本石野氏(後に赤松氏)

赤松円心の長男範資の後裔で、氏貞の代に石野を称す
その子氏満は別所氏に仕え、後秀吉、その後前田に仕える
氏満の子氏置は家康に仕え、旗本家康御伽衆 二千百五十石(後、三千十五石)
宝永年間に範恭が、赤松姓に復する

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/22(土) 06:07:24 ID:7zKdeA/e
大名家系が旗本か・・戦国だからしかたないね~。。私は播州在住だが赤松や別所などの姓は見たことない〔いると思うが〕、もしいたらその流れの人と思っていいのかな?っていうか、美作とかって。。勢力大きかったんですね~〔素人〕

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/23(日) 09:20:25 ID:qXBv8ewg
>>4
有馬かと

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/11(金) 16:17:08 ID:nnFNLocG
>>10
久留米藩ね

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/03(木) 22:34:27 ID:G+35z3H6
赤松則英が大名家としては末代?

16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/04(金) 11:31:01 ID:EPr7+mWz
なんか異説もあるようだけど、通説では豊臣期の大名としては(江戸期には存在しないけど)、関ヶ原で敗れ自殺した、阿波国板野郡住吉一万石の則英が最後ですね

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/08/25(金) 15:56:27 ID:n7caQM+F
赤松も政則義村、までは頑張ってるんだけど
晴政は完全に浦上の傀儡だね

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/11(月) 21:40:41 ID:Nt5aAd76
赤松が一番活躍したのはやっぱ太平記のころでっか?

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/11(月) 21:48:15 ID:/nKGfo4+
円心、則祐
あとは良くも悪くも満祐かな

24: 中野区民憲章 ◆ORWyV99u2Y 2006/09/11(月) 22:35:32 ID:zDrdQc1C
やっぱり赤松は将軍暗殺と神器奪還が華でしょう


35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/02(木) 01:49:17 ID:6dppN+ty
赤松則村の先祖で確実なのって、宇野(山田)則景からなのか?

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/02(木) 14:06:07 ID:Xo+nK52Y
系図が上になればなるほど怪しくなる宿命

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/02(木) 16:14:12 ID:ZIBqnL/H
則景の末子家範が赤松をはじめて名乗ったといわれる

山田則景=宇野頼景で赤松は宇野氏の庶流に過ぎないとも
この則景と源季房のつながりはあやしい

紀州の石野はちょっとわかりませんが旗本石野氏と関係あるのかな?

39: 38訂正 2006/11/02(木) 20:08:04 ID:3t7al/hU
>>37
紀州というのは勘違いだった模様。
旗本の石野家でしたね。

石野家の系統は

このソースでは則祐の系統みたいですが

http://www.harimaya.com/o_kamon1/hatamoto/dy_hata.html

この2つのソースでは、則祐の兄(または従兄弟の父?)の範資の系統みたいで

http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/koutai/moto2.htm

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/010/01052b.htm#005

40: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/13(月) 14:49:27 ID:U/t3HkPL
赤松義祐は早くから信長に誼を通じていたと聞くが本当?

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 12:15:34 ID:PFkpjPYK
>>40
1569年の時点では織田軍と戦ってるが

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/21(火) 15:04:04 ID:r5Vn8Gdj
>>40
小寺や浦上の間違いでは?

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 00:49:18 ID:9T5ROkAm
浦上はないだろ?まあ小寺か黒田さんだろうな。

45: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 00:57:18 ID:uMjIWKs1
>>44
浦上宗景はどうだろう?

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/24(金) 04:00:07 ID:VU+4L88u
浦上は1569年に赤松義祐と結んで織田と戦ってる。
1572年に毛利の侵攻に耐えきれず織田を頼って毛利と和睦。
1573年にようやく信長から朱印状をもらってるくらいだから決して早いとは言えない

47: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2006/12/21(木) 14:18:24 ID:C6DVSwIZ
赤松則房が織田に従うのは、天正元年(1573)に浦上が朱印状をもらって以降
浦上が播磨、備前、美作のお墨付きをもらったため、対抗上じゃないかな

49: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/11(木) 19:54:13 ID:uY8aq0X7
晴政-義祐-則房-則英

赤松家代々の諱って何だろ? 最後は「則」の字になってるけど。

78: 人間七七四年 2007/10/06(土) 01:02:29 ID:mxrcYcRU
>>49
赤松家周辺の武将で「範」の字を付けてる奴は、「則」を憚ったのかな?

79: 人間七七四年 2007/10/06(土) 01:29:11 ID:WpHhF5cT
>>78
赤松宗家でも「範」を用いる人はいるので、当人の好みで則と範を使ったのかもね

50: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/01/11(木) 21:17:02 ID:75GaMVin
則でいいだろうよ。系図眺めてても一番多いし。

52: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/02/10(土) 08:14:46 ID:yGbDfRte
家格としては四職筆頭ですかな?

53: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/10(土) 22:58:07 ID:wTAp6ILX
領地の多さでは山名に、家格では京極に敵わないかと。

55: 人間七七四年 2007/02/13(火) 11:59:48 ID:O9ntWpwm
>>53
下には一色のみですか・・・。

56: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/21(水) 21:04:14 ID:d9/BmDZz
一色氏は足利本家に最も近い庶家だもんね。(斯波は準嫡流、石塔・渋川・一色は庶子)

57: 人間七七四年 2007/02/22(木) 15:08:06 ID:zndSepVD
足利一門でもないし、赤松は四職末席だな

58: 人間七七四年 2007/02/22(木) 17:19:45 ID:Vg6RNF5u
元から尊氏についたのではなく南朝方を裏切った論功で四職に数えられるようになった赤松氏

嘉吉の変で決定打

61: 人間七七四年 2007/03/30(金) 11:29:58 ID:nKCR8KAa
>>58
だけど円心は悪党だから
大出世といえば大出世

60: 人間七七四年 2007/02/25(日) 02:15:13 ID:IMJLaJ7G
実父赤松雄之進(後の吉沢政範)の生家は播磨の名族赤松氏の裔にして円尾を姓として代々網干新在家で干鰯問屋を営み廻船業を兼ね、龍野藩の廻米御用を勤め苗字帯刀を許され祖先の赤松姓に復した

ググって見つけたサイトから転載

62: 人間七七四年 2007/04/13(金) 23:53:45 ID:NkCu7a5T
江戸時代、末裔が交代寄合にもなれてないのか・・・。

72: 人間七七四年 2007/09/04(火) 19:39:53 ID:q6dvpkFm
関ヶ原で西軍から東軍に寝返った大名で唯一死んだ(自刃)のが斎村政広(赤松広英)だが、この人が生きていれば近世大名への道もあったろうな。
有馬家も赤松一族だが、宗家との行動があまりに違ったから赤松家の生き残りとはまた感覚が違うしなぁ。


84: 人間七七四年 2007/10/12(金) 21:37:12 ID:PDKBMdsr
別所って赤松さんとこじゃどんな位置づけなんすか?
浦上さんは?

85: 人間七七四年 2007/10/13(土) 00:38:54 ID:r9thNesc
>>84
浦上は重臣筆頭格、別所は新興家臣。
赤松氏を頂点とする構造では、断然、浦上>>>>>>>>>>>別所

86: 人間七七四年 2007/10/13(土) 02:30:27 ID:sB//BwKe
>>84
別所は家系こそ円心の弟から始まってるけど、政則を支えたのは浦上と小寺だった。
別所が東播磨であそこまでの力を持ったのは政則の養子の義村以後じゃないかな。

87: 人間七七四年 2007/10/13(土) 23:17:24 ID:1rQX8Xfg
小寺さんは苦労した割りにあまり報われない。良い人っぽいけど

88: 人間七七四年 2007/10/14(日) 01:20:24 ID:2tKuIs1Y
浦上則宗が傑物だったからなぁ。
それでも姫路、御着に勢力あったし、黒田官兵衛という家臣もいたんだから
信長方に常についてれば、うまく脱皮できたかもなー。
結局小寺家は逆に黒田家の家臣になっちまったんだよな。
ていうか、播磨はそもそも大きく分けて4分裂してたし、これがもっとまとまってたらかなりの勢力になれたろうに。

89: 人間七七四年 2007/10/14(日) 11:18:43 ID:CdAnO96R
赤松家臣の小寺・浦上・別所・松田がそれぞれ豪族化してたからなー。
こいつらが赤松当主を頂点に結束してたらさぞ威勢を張れたろうに……w

90: 人間七七四年 2007/10/15(月) 23:22:13 ID:wpZmci1H
赤松だけで置塩、龍野、上月の3つに割れたのが痛かったな。
置塩と龍野は和解したからともかく、上月はあれだけの力がありながら毛利方についちゃったからな。
ゲームにほとんど出ないから知名度は低いけど、力は龍野以上だったかもな。

97: 人間七七四年 2007/11/26(月) 19:03:48 ID:kWwFLZuN
>>90
西播磨における龍野の衰退と上月の成長は、織田方の龍野・別所対置塩本家・浦上・小寺連合の争いで龍野が官兵衛と浦上宗景に大敗したのが大きく影響したんだろうね。

94: 人間七七四年 2007/11/04(日) 08:34:08 ID:WkBYT9yG
>>90
毛利方に付いた上月城を落とした後に入ったのが、尼子勝久・山中鹿之助の一党だっけ?

97: 人間七七四年 2007/11/26(月) 19:03:48 ID:kWwFLZuN
>>94
上月赤松+宇喜多援軍→尼子勝久→宇喜多家臣(上月氏)→再び尼子→毛利による包囲

96: 人間七七四年 2007/11/26(月) 17:32:10 ID:tq04yEGy
毛利はその後上月城に誰も入れなかったのかな?

97: 人間七七四年 2007/11/26(月) 19:03:48 ID:kWwFLZuN
>>96
近くの利神城に1583年頃には宇喜多家臣(服部勘助)、関ヶ原合戦後は平福藩池田氏が入り上月城に代わって佐用郡一帯を治める立場となった。
上月合戦以降の上月城は、幾度の落城でどれだけの損害があったか分からずそのまま廃城になったのかもしれないけど、支配はおそらく宇喜多家臣の誰か?

98: 人間七七四年 2007/11/26(月) 19:06:12 ID:idmdDhqm
>>96
廃城になったような気がする。

99: 人間七七四年 2007/12/15(土) 17:22:59 ID:PFIifTvU
上月城は対立の最前線じゃなくなったから
宇喜多には不用だったのかもね。

107: 人間七七四年 2008/03/04(火) 19:07:31 ID:nRZWmwvn
知り合いに赤松範忠の曾孫って人がいた。
家紋とかすごいこだわりがあったなぁ。

109: 人間七七四年 2008/03/31(月) 15:50:05 ID:BVnqMwBv
範忠は石野の後裔だね。

110: 人間七七四年 2008/03/31(月) 17:18:50 ID:Nw98Q9um
石野は赤松の庶流から始まってるけど、今や唯一系譜がはっきりしている家系だな。
結局関ヶ原の時点での立場や身の振り方でほとんど決まってるね。
西播磨の斎村も亀井に濡れ衣着せられるという不運はあったが、最初から東軍に属せばよかったわけだしな。一族揃って西軍ってのは利口ではなかった。

111: 人間七七四年 2008/04/21(月) 16:30:15 ID:tGGMeK0u
1987.5.24に男爵に叙せられた赤松則良は 石野だよね。

120: 人間七七四年 2008/07/14(月) 22:18:43 ID:6awfvRt+
嘉吉の変も含めて、節目節目で「何でそこでそう言う行動するの!?」って疑問が抑えきれない一族ではある。

121: 人間七七四年 2008/07/14(月) 23:21:31 ID:5cLLlhZQ
世の中に多い「何故、あの人があんな犯罪を……」って感じだな。
領国も多くなく、四職でも末席みたいな扱いなのに。

122: 人間七七四年 2008/07/14(月) 23:25:16 ID:6awfvRt+
やってる事無茶苦茶なのに、意外と回りから憎まれていないのも不思議だ。

124: 人間七七四年 2008/08/10(日) 16:08:03 ID:pknMCE2d
義教の一件はむしろ「よく殺ってくれた!」と当時は皆が心の中で思ったはず。

133: 人間七七四年 2008/09/12(金) 14:47:42 ID:Q+ZLGu+Q
>>124
一門の一人が首とられて一緒にさらされちゃった山名一族は大怒り

139: 人間七七四年 2008/12/05(金) 20:51:10 ID:SOx9uhom
首が晒されちゃったのは山名熈貴?

127: 人間七七四年 2008/08/14(木) 01:29:18 ID:gFKbwSVF
義教と一緒に殺されたり大怪我されたり、義教に取り入って上手い汁吸ってたのにダメになった奴とか
いろいろ貧乏籤ひかされた奴もいるよ

134: 人間七七四年 2008/09/15(月) 14:15:02 ID:7wQKPRdg
嘉吉の乱の時に赤松の屋敷に居たのに無傷で逃げ仰せた持豊の悪運には言葉も無い。

取り逃がしたのは痛恨だったな

138: 人間七七四年 2008/12/04(木) 23:28:32 ID:/DZikV3y
>>134
もともと将軍以外は殺す気なかったらしいけどね
義教怖がってたのはどの守護もそうだろうっていう読みもあったし
山名の一門の守護の首もとって義教と一緒に晒しちゃったから山名一門大激怒で赤松崩壊

引用元: ・播磨赤松氏について語るスレ