1: 人間七七四年 2009/11/17(火) 14:34:22 ID:zBXrve37
名高い「五大老」「五奉行」に挟まれた豊臣政権の調整役(小年寄)の三氏一族を語れ。

堀尾吉晴(遠江浜松12万石)
中村一氏(駿河府中14万石)
生駒親正(讃岐高松17万石) 







3: 人間七七四年 2009/11/17(火) 14:39:46 ID:zBXrve37
三家とも幕末まで大名家としては残れなかった(´・ω・`)

5: 人間七七四年 2009/11/17(火) 17:26:02 ID:InWDENGi
実際は中老職ってなかったんでしょ?

6: 人間七七四年 2009/11/17(火) 17:45:56 ID:bw6/qIwr
この3人と福島が豊臣について死ぬ気で抵抗したら家康は困っただろうね

13: 人間七七四年 2009/11/18(水) 16:40:05 ID:K28A7+tl
>>6
駿河はともかく遠江浜松なんかまさしく家康のお膝元だったんだから、蟷螂の斧にもならない気がするがなあ。


9: 人間七七四年 2009/11/17(火) 23:37:47 ID:2qNsO4Y5
堀尾は即家康の犬になりましたとさ

10: 人間七七四年 2009/11/17(火) 23:40:34 ID:2CXzq1MA
つーか、関ヶ原前に既に、家康は豊臣政権の運営者そのものだったんだから、それに付かないほうが異常だろ。

11: 人間七七四年 2009/11/18(水) 01:24:51 ID:YRFR2zFW
3家ともお家騒動を起こしたが堀尾だけは吉晴が生きていたので穏便に収まった

12: 人間七七四年 2009/11/18(水) 16:21:28 ID:RkAeDRhb
伯耆時代の中村家で御家騒動(しかも市街戦有りw)が起きた時、出雲の堀尾吉晴が手勢を率いて助けに来てくれたんだよな(・∀・)イイ!!

15: 人間七七四年 2009/11/18(水) 21:34:52 ID:xNI883ot
堀尾忠晴
忠氏が急死して5歳で家督相続
その際に家督を奪われそうになるが祖父の吉晴が阻止
美少年だったらしく、前田利常(マッチョ)と衆道関係だった
嗣子無し断絶

中村一忠
関ヶ原の直前に一氏が死んで11歳で家督相続
讒言を信じて筆頭家老の横田村詮を誅殺して村詮の家臣と内戦状態にまで発展(米子騒動)
堀尾吉晴の救援で鎮圧したが、その後酒に溺れて20歳で死去
嗣子無し断絶

生駒高俊
11歳で家督相続、母方の祖父にあたる藤堂高虎の後見を受ける
高虎死後の成人した後も政務を顧みず美少年を集めてホモ踊りにはまる
家臣らが諍いを起こし(生駒騒動)、改易される

18: 人間七七四年 2009/11/19(木) 00:09:38 ID:t88inZMP
>>15
>讒言を信じて筆頭家老の横田村詮を誅殺して村詮の家臣と内戦状態にまで発展(米子騒動)

家康が送り込んだに等しい家老だったから、印象が最悪だわな。

52: 人間七七四年 2010/11/19(金) 17:37:02 ID:qdJPrqLT
>>15
無嗣断絶、大杉。
徳川家に泣きついて、どっかから養子もらえなかったもんかね?

53: 人間七七四年 2010/11/19(金) 17:41:32 ID:4a5suRdh
>>52
結局当主が自分の子供が出来ることを諦めなけりゃ、家臣にはどうにも出来ないことだからな。
下手に養子つくるとそれはそれで家中が動揺するし。

そんなんばっかりだったからしょうがなく末期養子の制度が出来たわけだ。

65: 人間七七四年 2013/02/21(木) 16:32:22.51 ID:meCM77GE
>>52
身内の男子を早いうちから養子にしとけば良かったんだけど、自分の実男子生誕を諦め切れなかったんだろうな。
それに当時の大名は豊臣秀次事件の記憶が色濃く残ってるから甥等を早いうちに養子にする事をためらった可能性も高いね。
本当に自分が死にそうになってから養子縁組しようと思ってたがそれをする前に急死したり、幕府に縁組が無効とされたり。

19: 人間七七四年 2009/11/19(木) 00:38:39 ID:yE7qhOa5
中核ができてない新興大名家にある
家中統制の難しさだのう

26: 人間七七四年 2009/11/23(月) 06:58:46 ID:Z5Ti8YGv
堀尾良晴は不運だったな。長男金助は小田原攻めで陣没。後継者となった忠氏も不遇の若死。息子が一人だったのに家が続いた大名はいくらでもあるのに。
全国的にはあまり知られていないが、金助母が、息子の33回忌の菩提を弔うため作った橋の擬宝珠に彫られた銘文は、名古屋地方では有名。興味ある向きはwiki裁断橋で。
裁断橋(さいだんばし)は、愛知県名古屋市熱田区にあった橋である。裁断橋は宮宿の東の外れを流れていた精進川に架けられていた橋だが、擬宝珠に彫られていた銘文でその名を知られていた。なお、永正6年(1509年)の『熱田講式』には既にその名が見られるという。

擬宝珠の銘文には、天正18年(1590年)の小田原征伐で死去した堀尾金助という18歳の男性の菩提を弔うべく、その母親が33回忌に息子を最後に見送った橋の架け替えを行ない、その供養としたことが記されている。


27: 奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2009/11/23(月) 19:39:58 ID:b+Oh6g3O
金助生誕の地碑の横を仕事でよく通るけれど、地元でも誰やねん感が漂いまくりだったり。

28: 人間七七四年 2009/12/05(土) 06:30:50 ID:pvhdhJ85
そもそも、中老職は実際に存在したのかしてないのか。
そこをハッキリさせるべき。

29: 人間七七四年 2009/12/08(火) 22:36:33 ID:UXGzfjnC
「中老」って名前は、やはり明治以降に付けられたのか?

40: 人間七七四年 2010/11/11(木) 22:13:01 ID:G37D+vaF
これだけ出世させてもらったのにみんな徳川になびいてるやん
秀吉は見る目がなさすぎる
1人でも徳川なにするものぞで戦っていたら評価も違うのに

42: 人間七七四年 2010/11/13(土) 08:11:22 ID:b60xM4mI
>>40
秀吉の下にいたからこそ
家康に付くのが前田なんかが通った道で
秀頼に付くのが佐々が通った道に見えたんじゃないの

43: 人間七七四年 2010/11/15(月) 04:58:08 ID:JsAnxxbn
別に秀頼には恩はないしな

44: 人間七七四年 2010/11/15(月) 19:47:18 ID:R1WgEdc8
この3人は秀吉が若いころからの戦友じゃなかったのか?
だから秀吉も三中老という役職を用意してくれたんじゃないの?
徳川と組むとは思いもしなかったのでは?

50: 人間七七四年 2010/11/18(木) 18:49:09 ID:Zg/zfzU9
生駒はともかく堀尾、中村は領地の場所から言って徳川につかざるをえない

51: 人間七七四年 2010/11/18(木) 21:39:51 ID:IHfKRg/B
>>50
豊臣には領土削られた恨みしかないだろう長宗我部や島津が西軍だし
位置取りが重要だったな

63: 人間七七四年 2013/02/21(木) 04:05:00.11 ID:9xq63c3j
>>51
現に長宗我部は徳川方に加担しようとしたけど、関所で止められて西軍へ強制参加
島津は伏見城へ入城しようとするも鳥居に拒否られて西軍参加
だからな

54: 人間七七四年 2011/03/11(金) 21:15:07.60 ID:I/WKhq4F
中村家は一氏の病があったがそれがなくとも東か

61: 人間七七四年 2012/06/13(水) 23:41:21.96 ID:vQpNanRp
生駒親正

自分は西軍として行動
嫡男は東軍として行動
嫡男が東軍に与した経緯から生駒氏の所領は安堵された
69: 人間七七四年 2013/05/01(水) 22:58:45.07 ID:9n2YtLsl
出雲大社の横の博物館で、1609年に吉晴が秀頼の命を受けて片桐且元と本殿造営の奉行をやったと書いてある棟札を見たんだけど、まだこの時点で吉晴は豊臣に臣従しているつもりだったの?

67: 人間七七四年 2013/02/24(日) 20:13:31.12 ID:lAc9dHIo
>>1
>堀尾吉晴(遠江浜松12万石)
>中村一氏(駿河府中14万石)
>生駒親正(讃岐高松17万石)

石高や国の位置からして、生駒氏が三中老筆頭なのか?

68: 人間七七四年 2013/02/24(日) 21:54:36.51 ID:KfCYJF5t
>>67
堀尾と生駒はほぼ同格でいいと思うぞ。中村一氏は一格下がるな

71: 人間七七四年 2013/05/08(水) 20:19:57.10 ID:4D1J6nh/
>>68
堀尾は織田の中老の家格だしな。


70: 人間七七四年 2013/05/02(木) 07:36:58.74 ID:nMhAYc/2
>>1の石高見ると、五奉行の方が大身なケースもあるのか。

浅野長政(筆頭・甲斐甲府22万石)
石田三成(近江佐和山19万石)
増田長盛(大和郡山22万石)
長束正家(近江水口5万石)
前田玄以(丹波亀岡5万石)

三中老や五奉行ってのは、本当に後世付けられた名称であるな。

77: 人間七七四年 2013/05/23(木) 20:32:00.43 ID:EexLbk6k
生駒の子孫は、幕末にも汚いところを見せてくれるよな。
生駒親敬
嘉永2年(1849年)11月7日、旗本・生駒親道の息子として生まれる。幼少期から聡明といわれた。安政2年(1855年)10月22日、家督を相続する。文久2年(1862年)12月1日、将軍徳川家茂に御目見する。慶応2年(1866年)2月、幕府に領地へ帰国する許可を願う。

慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、久保田藩や本荘藩と共に官軍側に与した。同年2月21日、旧幕府に対し、奥羽鎮撫使の指揮下に入るため、矢島に帰国することを願う。同年3月8日、奥羽鎮撫使の指揮下に入り、後に諸侯に加えるとの内諾を得る。
同年7月8日、奥羽鎮撫総督府から庄内藩攻撃の先導役を命じられて出兵する。
同年7月28日、庄内藩の反撃を受けて敗北、矢島陣屋を奪取されて、秋田藩の久保田城下に逃げた。同年9月28日、奥羽鎮撫総督府から見舞金を支給される。同年11月5日、東京に出る。同年11月20日、高直しによって1万5,200石の諸侯となり、従五位下讃岐守に叙任した。
同年12月5日、明治政府から領地へ帰国する許可を得る。

明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官された。明治13年(1880年)9月9日、死去。享年32。なお、子どもは娘だけであったため、夫人の江美子が家督を相続した。明治29年(1896年)5月20日、従四位を追贈された。

82: 人間七七四年 2016/06/16(木) 23:54:06.09 ID:rxzNe5GT
この3家にあって山内、一柳、田中などになかったものはなんだったんだろう
後世3中老言われてるが

84: 人間七七四年 2016/06/24(金) 18:06:45.27 ID:lpJ4pwsn
三中老は実在しない後世に作られた架空の制度。

91: 人間七七四年 2018/05/17(木) 06:40:29.88 ID:ECV1JteR
コイツら三人とも豊臣の臣下として働かなかった奴等だから
三人とも改易して大谷刑部にでも禄やった方が良かったな。

引用元: ・豊臣三中老 堀尾良晴・中村一氏・生駒親正