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1: 陸    秀    夫 投稿日:2006/10/24(火) 18:55:37 ID:Fz3Ksz2Y0
陸    秀    夫









62: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/03(水) 16:24:20 ID:N5AfSxer0.net
陸秀夫(りくしゅうふ、1236年 - 1279年)は、南宋末期の重臣で、文天祥や張世傑らと共に南宋における三忠臣(亡宋の三傑)の一人として数えられる人物。
1260年、科挙に及第し、進士となる。
1276年、バヤン率いる元の軍が南宋の首都臨安に迫ると、和睦の交渉をすすめて国難を救おうとしたが失敗。同年1月、臨安は無血開城し、南宋皇帝の恭帝は元に降伏するが、宋王朝の滅亡を潔しとしない陸秀夫は、前皇帝度宗の遺児を連れだして臨安を脱出、南方に逃れ、張世傑と協力して亡命政権を打ち立てた。
しかし、亡命政権は内部が安定しなかったうえ、1278年には皇帝として擁立した端宗が病死してしまうという非常事態まで発生してしまった。このため、陸秀夫は端宗の幼い弟衛王を皇帝として擁立し、自身は宰相となってなおも抵抗運動を続けたが、1279年、南宋残党を追撃する元軍の猛攻の前に遂に南宋の滅亡は決定的となり、崖山の戦いにおいて自身の妻子を殺した後、自分も幼帝と共に海に身を投げて自殺した。
日本の壇ノ浦の合戦にも似た崖山における陸秀夫と幼帝の悲劇的な最期は、現在においても多くの人々に哀惜の念を与えつづけている。古くから伝わった筝曲に「崖山哀」という曲目があるぐらいである。崖山を生き延びた張世傑もまもなく死に、南宋最後の抵抗は儚く潰えることになる。


2: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/24(火) 18:59:02 ID:6IO3YM3P0
崖山の戦いの結末は、悲惨だねえ。
300年に渡って続いた宋朝の最期としては、ある意味相応しいものだったのかも知れないけど。
次々と擁立された幼い皇帝たちが可哀想。
崖山の戦い(がいざんのたたかい)は、1279年3月19日(至元16年2月6日)に中国大陸の広州湾で、元の軍勢が南宋の海軍を破った戦いである。この戦いで南宋は敗北、最後の皇帝趙昺は宰相陸秀夫ととも入水し、名実ともに南宋は滅亡した。

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/24(火) 20:38:31 ID:6IO3YM3P0
崖山の光景は凄まじかっただろうな。
何万人もが海に身を投げたんだから。
平家の壇ノ浦の百倍の規模だし。

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/24(火) 22:28:55 ID:ojqiXP3T0
陸秀夫、文天祥、張世傑どれも格好いいな

文 天祥

文 天祥(ぶん てんしょう、端平3年(1236年) - 至元19年12月8日(1283年1月9日))は、中国南宋末期の軍人、政治家である。

滅亡へと向かう宋の臣下として戦い、宋が滅びた後は元に捕らえられ何度も元に仕えるようにと勧誘されたが忠節を守るために断って刑死した。張世傑、陸秀夫と並ぶ南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人。


張世傑

張世傑(ちょうせいけつ、?-1279年)は、南宋末期の軍人。文天祥や陸秀夫と共に南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人。

涿州范陽(現在の河北省涿州市)の人で、最初はモンゴルの武将である張柔の家臣だったが、罪を得て南宋に逃亡し、呂文徳にその優秀な軍事的才能を見出されて将軍となった。
南宋の将軍として失地回復を図ったが果たせず、かつての上司の張柔の9男である元の武将張弘範は張世傑の甥を派遣して、元に帰順させようと試みたが失敗に終わった。

1279年に元軍の猛攻の前に帝昺と陸秀夫が自殺して南宋が滅亡するとベトナムに向かって再起を果たそうとしたが、逃走中に嵐で船が沈没して死亡した。


9: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/25(水) 03:25:46 ID:AyWkIViO0
日本に逃げようとは考えなかったのかねえ。
文永の役で元軍と交戦した事とか、度重なる服属要求を拒否し続けてることとかは伝わってたと思うんだが。

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/25(水) 08:50:21 ID:ldm+WpPM0
日本ではなく、ベトナムのほうに逃げようとしていたでしょ。
陳宜中が使者に行ったのに、姿くらましたもんだから、進退窮まって崖山で悲壮な戦い…
文天祥は華南の山岳地帯でゲリラもどきの転戦を…
降伏ではなく全滅を選んだこの人たちの胸中、どのようであったのか。 他の時代でもなかなか例をみないな。
普通、皇帝とかそのアホとりまきはさっさと逃げ出し、途中で捕らえられるとか、皇帝殺して首を差し出すとかするのにね。

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/26(木) 02:13:08 ID:91P56rFS0
>>10
だから何故日本じゃなくベトナムに行こうとしたのかと小一時間(ry
日本に来ていればあんな事にならずに済んだだろうに。
鎌倉幕府も朝廷も無下には扱わなかっただろうし。

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/27(金) 00:51:03 ID:X6f4Dp+60
>>17
日本に宋朝の子孫が来ていたら、どうなっただろう?
公家の立場を与えられるか、あるいは亡命政権の樹立を認められるか?
亡命政権なんか認めたら、元朝と全面対決になりそう。
まあ、元朝がどう頑張っても、海に囲まれた日本を占領することはできないだろうけど。

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/27(金) 09:35:25 ID:TavDgbbI0
>>20 
そんな交通に難儀する辺境の小島を制圧しても旨みがないだけ。
しかも上陸を試みて二回とも撃退されてる。
逆に言えば、海上封鎖するだけで、日本を干上がらせることができるのだけどね。
それは現在のほうにこそ有効か。
当時は日本国内も結構裕福だったようだし。

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/29(日) 02:15:56 ID:VbHo0P3E0
>>21
フビライは海上封鎖どころか日本との交易禁止すらしてないな。
その辺は割とおおらかな性格だったんだろう。
文天祥にしても破格の扱いだし。

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/29(日) 11:56:49 ID:26deI4230
>>23
フビライは、モンゴル帝国諸国とその周辺が一体化した、ユーラシア大陸全域を巻き込んだ巨大な交易圏の構築を企図していたんだと思うよ。
内陸部の遊牧民出身なのに、海上交易にも関心が強かったようだし。

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/26(木) 09:22:46 ID:e12cwApx0
日本への制海権がすでに手中になかったからだろうよ。
あの時代、いかに宋の操船技術と造船技術が優れていても、南シナ海から延々と日本を目指すのは危険が大きすぎ、二の足踏むのも仕方ないとおもうがなぁ。
それより、似たように無下に扱わないであろう、大越陳朝の方が近い上に気安い感覚もあったと思う。
ただ、思ったほど色よい反応もなく、使者も姿を晦ましてしまった不幸。

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/26(木) 16:00:48 ID:w0u6UrQP0
陳朝にしても、下手に亡命政権を受け入れたら、元朝と全面戦争だからなあ。
厄介ごとは抱え込みたくなかったのだろう。

結局、侵攻は受けたけど。

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/25(水) 16:11:30 ID:+Orvf47M0
宋朝って情けなく言われることも多いけど、あれだけ殉じた人がいたんだから、なんだかんだで偉大な王朝だったんだなと思う。

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/25(水) 19:52:33 ID:rSQ3JPYr0
張世傑でもなく文天祥でもなく陸秀夫か……。
この人、最期の話しか知らないんだけど、それ以外になんかやったの?

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/25(水) 22:43:53 ID:iFfaNNET0
まあ、臨安陥落以前は、元朝との和睦交渉に当たって失敗したというぐらいしか、特筆することはない。

でも、悲劇的な最期は、今でも多くの人々に哀惜の念を与えている。

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/26(木) 00:38:51 ID:e12cwApx0
蒙古の侵略はどっからどうみても「外圧」だからね。屈したくなかったのだろう…
これまでの興亡は、とにかくも中国の内乱という捉え方をしていいと思う。
それゆえの征服王朝時代なわけだが…

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/02(木) 08:08:24 ID:NG54xtO4O
住人諸賢は何を見て(読んで)陸秀夫を知りましたか?自分は田中芳樹の『海ショー』なんですが…。
陸秀夫について深く書かれた本などを御存知であれば御教示願いたい。

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/02(木) 10:35:46 ID:A/kIBOdD0
陳先生の小説十八史略だな。
俺の中国歴史の基本。

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/02(木) 20:15:42 ID:+gXRPHPY0
十八史略だったか何だか忘れたが、なぜ宋朝の遺臣たちはあれほど忠節を尽くしたのかというと、歴代の王朝と比べて官僚の給料が高かったから、と書いてあった。

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/02(木) 23:54:33 ID:gKo4z4RJ0
逆に明朝は、薄給だったらしいね。

31: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/03(金) 00:08:47 ID:tel6/8ib0
宋朝は官僚(士大夫)を最も優遇した王朝として有名だからね。
高官が引退しても名誉職で恩給形式で貰えたし。

>>30
顧炎武が「俸薄の害」と呼んでいたな。
薄給なので副収入(いわゆる賄賂)が無きゃ家族を養えなかった官僚が大半。

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/03(金) 07:51:23 ID:Eo9waEPS0
北宋にしろ南宋にしろ、内乱ではなく外圧で滅んでいる。
これは中国の王朝で稀有な例じゃないの?

宋は中国の王朝の中では一番まともだと思う。

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/07(火) 23:47:13 ID:rrWZGC8Y0
王朝のまともな終わり方って何だろう?

39: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/08(水) 00:36:14 ID:T+oa+sGj0
>>35
内部を有力者に食い尽くされて平和裏に禅譲。

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/08(水) 00:00:50 ID:PvDOsAsP0
それは、マトモというより、内乱・腐敗と外圧で滅びる王朝が、古今東西「よくある例」だということでしょ。
小国でも、外圧「のみ」で滅びる王朝は数が少ないと、そういうこと。
王朝の終焉は、根本的に内部腐敗からだから、実際南宋朝とて例外ではないのだ。
ただ、腐り始めたばかりのところを、強力な外圧によって押しつぶされたものだから、中の人が他国の支配を享受できないかったのだろう。
南北宋の稀有なところは、暴虐や漁色の皇帝が出なかったことにつきる。

40: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/08(水) 00:45:28 ID:VjNt340rO
>>36
>ただ、腐り始めたばかりのところを、強力な外圧によって押しつぶされたものだから、

いやー、宋朝の内部腐敗もかなり根が深かったと思うがなぁ…
徽宗の治世は党争の嵐だったし、南宋でも秦檜、史弥遠、カ似道なんかは国を傾けてんだろ。

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/08(水) 00:27:06 ID:RFVgHAsY0
南宋はともかく、北宋はかなりやばかったと思うが。
結果的に外圧で滅んだが、実質すでに王朝末期の様相を呈していたと思うよ徽宗の代ですでに。

徽宗は個人の性格は温和だったが、その代の統治は暴政といってさしつかえない。個人的に、
この人の統治は明の万暦帝と被る。もし精康の変がなかったら、徽宗と蔡京の統治がさらに続いた。

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/08(水) 00:35:09 ID:xqfmvLdI0
だが、文化的に宣和年間は盛況だったわけで。
王朝末期に漂う黒々としたものが、顕在化する前に拉致られたような状態。
むろん、徽宗の治世がまともと言っているわけじゃなく、どうしようもなくなる前に無理やりリタイヤさせられたことを言っている。
続いており、蔡京ら六奸臣がのさばったままだと、王朝末期の内乱に大突入したことは、想像に難くないわな…

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/08(水) 23:11:50 ID:zQnM1BiL0
徽宗の代でも別に全国的な統治力を失っていたわけではないから、それ程末期的な症状ではなかったのでは?
北方政策さえ間違わなければ、北宋はもっと続いたと思う。

47: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/09(木) 21:59:26 ID:wqAQB29c0
>>44
で、徽宗や蔡京や童貫がそのまま続いて花石鋼やらなにやらがそのまま続行されると。
第二、第三の方ロウの乱が続発するだけだと思うが。
よく「繁栄の絶頂から~」などといわれるが、実際に繁栄していたのは東京やその他 一部であって、他の大部分では搾取であえいでいた。
さらに国家システムも以前から相当のガタがきていた。それを解消しようとしたのが王安石の新法だが、これも結局は失敗に終わっている。

正直、不安材料しか見当たらないのだが。

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/10(金) 00:10:46 ID:9qknhmrB0
>>47 
不安材料があって、現在はともかく未来はやばそう、というのは皆一致していると思う。
おれが言いたいのは、それでも隋末のようなどうしようもない状態になる手前で、他勢力に潰されたから、それを享受できない、あるいはしたくないと感じた人民が比較的多かったのじゃないかな、と。
と、いっても南方に逃れて亡命政権打ち立てるのは、前例もあることだし、それだけが反金の原動力になったとは言えないかもだけど。
東晋期にも、北からおもいっきり圧力受けていたら、海にまでしぶとく逃げたかもしれないなぁ…

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/10(金) 00:25:13 ID:rKhExsxg0
やっぱり宋代それまでの単なる大貴族代表みたいな皇帝と違って皇帝権力が確立されてるし、国家自体も強固になってるんじゃないかな。
だからちょっとやそっとの反乱じゃ滅びないし、権臣による簒奪も発生しにくい。

結果、(決め手としては)強大な武力を持った外国によって侵略されて滅びるしかない。

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/10(金) 22:27:57 ID:o6uoxPH50
北宋は徽宗以外には暗君は出てないから、徽宗一代さえ乗り切ればもう少し何とかなったのでは?

54: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/10(金) 23:07:25 ID:9qknhmrB0
>>52 
一般には、真宗も暗君とされる。
だけど、真宗のときは、あの寇準がいたために、大事に至らなかった。
それだけじゃないけど、徽宗期と比べれば官僚の質がはるかによかったのは間違いないだろう…

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/16(木) 15:05:52 ID:ITguuZLR0
高宗は名君と暗君のどちらに近いだろうか?
高宗(こうそう)は、南宋の初代皇帝(在位:1127年6月12日 - 1162年7月24日)。北宋の第8代皇帝であった徽宗の九男。太宗の血統では最後の皇帝となった。

金軍の侵攻により、父である徽宗と長兄の欽宗、そして生母の韋賢妃、妻の邢氏らが金軍により北方に連れ去られる靖康の変が発生した際に、南京(現在の河南省商丘市)へ逃れた。その地で、哲宗の皇后であった元祐皇后(廃立されており、当時たまたま実家にいたため、金に捕らえられず無事であった)を利用し、その指名を得て皇帝に即位した。これが南宋の起源である。

即位の正統性に問題があった高宗の地位は安定せず、国内では即位反対派による反乱、国外では金の南下など、内憂外患の時代であった。そのため国内各地の移動が続き、1132年にようやく首都を臨安に定め、南宋の統治体制を確立するに至った。高宗は金軍の南下を恐れ、和平派に傾いていた。1138年、和平派を代表する秦檜を宰相に任用し、同年には金と和睦条約を締結することになった。
このため、主戦派である岳飛と秦檜の対立を生み、1141年には岳飛が秦檜によって処刑されている。統治後半には金と再度和睦条約を締結し、外敵の侵入を防ぐ一方で、江南の開発が進められた。

56: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/21(火) 08:17:14 ID:CmHHV0oq0
凡君

57: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/11/21(火) 14:14:54 ID:6vfwS4ri0
南宋の建国は高宗の力とは言い難いからな。

58: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/01(金) 14:10:57 ID:8ctQj7yK0
金軍に人質に出されてラッキーだったね。
でも、親族が全部金に捕らえられているってどんな心境だったんだろう。

59: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/04(月) 23:56:59 ID:Sr3Y8M9J0
元に降伏した南宋の一般の皇族はどうなったんだろうか?

61: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/12/13(水) 12:21:21 ID:EOThTMeo0
靖康の変よりはましだと思う。

靖康の変

靖康の変(せいこうのへん)は、1126年、宋(北宋)が、女真族(後世の満州族の前身)を支配層に戴く金に敗れて、中国史上において政治的中心地であった華北を失った事件。

金は徽宗・欽宗以下の皇族と官僚など、数千人を捕らえて満州へ連行した。
彼らはそこで悲惨な自活の虜囚生活を送り、異郷の地に骨を埋めることとなったのである。

また、同じくこの事件で宋室の皇女達(4歳~28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族らの妾にされるか(入宮)、官設妓楼「洗衣院」に入れられて娼婦となった。


63: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/01/22(月) 20:37:48 ID:4iYX7Aso0
徽宗のときに外圧がなくて次代以降の皇帝がなんとか乗り切れば玄宗以降の唐ぐらいには生き残れたかもしれない

66: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/24(土) 22:42:00 ID:AnTNcKKc0
>>63
その場合、金との間が上手くいって、遼の位置に金が収まり、かつ金は宋を侵略する意思がないと言うこと?

最低でも歳幇はやらんといかんだろうなあ。

67: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/02/24(土) 23:21:41 ID:AWJv6rRn0
万暦帝の頃に明は滅びなかったが、海賊や後金の圧迫も受けていたし、結局その後に財政が厳しくなって崩壊した。
強大な敵が間近にいる北京にいてすら、財政改革は出来なかった訳だ。
いずれ宋も同じことになっていただろう。

68: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/03/10(土) 15:51:04 ID:YRiHeE1N0
徽宗の後の欽宗の皇帝としての能力はどんなものだったんだろう。
歴史上では、父親の尻拭いをさせられる格好で、もうどうしようもない状態になってから即位させられたけど。

69: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/03/28(水) 14:53:12 ID:XISqMzd40
長子の欽宗趙桓はわりと真面目だったらしい。
三子の鄆王趙楷の性格が父親の徽宗趙佶に似ていて、一番気に入られていたらしい。

70: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/05/02(水) 22:36:31 ID:P4E6hWHY0
趙楷を跡継ぎに擁立しようとした謀反まがいの騒動も起こっているしね。

74: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/06/10(日) 05:30:21 ID:CfPLqFgF0
開封にいた宋の皇族は全員連れ去られたわけだけど、後で南宋が太祖系の皇族を迎え入れているところを見ると、太祖系の皇族は地方に住んでいた者が結構いたんだろうか?

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/02(月) 00:07:40 ID:M6aXLGJN0
あまり優遇されてはなかったみたい
だから地方に飛ばされてたのかもしれん

77: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/22(日) 17:27:48 ID:QpW2uasd0
チンギス・ハーン4での彼の能力はイマイチだったが…。

78: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/23(木) 06:48:00 ID:Sf1+MamR0
別に華々しい活躍をしそうなタイプではないし。

79: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/28(金) 06:06:31 ID:Xn1IIbWH0
陸秀夫はゲーム向きじゃないよなw

85: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2010/12/15(水) 17:18:06 ID:iFKxcYKWO
幼帝を背負って入水する死に様が
平家滅亡と似てる


引用元: ・陸    秀    夫





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