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1: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 12:15:43
幸いにも我が国そしてインド、東南アジア、アラビア半島、西欧、シベリア?
これらの地域についてジックリ話そうか








2: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 12:22:50
別にユーラシア大陸限定とは言わんけどさ、ただこれらの地域にとってモンゴルはまさに畏怖の対象だろうね
実際支配されたことないから知らんから余計恐怖心とかあるよな
そう考えると漢民族てタフだよな、あんな恐ろしい連中と何世紀もわたって抗争繰り広げてたからな・・・

3: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 12:48:13
>>1
アラビア半島はイル汗国の支配下でなかったの

4: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 13:09:32
>>3
結局マルムーク朝倒せなくて半島内部までは進出できなかった
メッカやアデンは支配されてないだろ?

5: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 13:11:51
元史にはメッカまで征服したとか書いてる

6: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 19:18:58
>>5
郭寶玉伝でしょ。
マムルーク朝が押さえていたエジプトも征服したとか書いてあるよw

伝統的にエジプトを支配した政権がメッカ、メディナの「両聖都の守護者」となってるけど
マムルーク朝がそれを宣言したのはたしかバイバルスの時代だったか。

7: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 20:53:10
初心者だけど同じ騎兵のコサックとはやり合わなかったの?

10: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 21:58:44
>>7
ロシア史料でコサックについて初めて言及されるのはモンゴル帝国衰退期でしかも名前を見る限り初期のコサックはタタール人っぽいとか。

それ以前のキエフ・ルーシの時代にもチョールヌイ・クロブキ(黒頭巾族)というキリスト教に改宗した遊牧民の辺境守備隊がいたけど。
モンゴルによってヴォルガ川流域に強制移住させられたらしいけど後のコサックと関係あるのかないのかよく分からんだろうね。

8: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 21:43:43
忘れちゃいけない北アフリカ。モロッコはスペインにもモンゴルにもオスマンにも屈しなかった

9: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/23(金) 21:49:24
>>8
スペインにセウタとか沿岸の都市奪われてなかったっけ?>モロッコ

14: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/24(土) 04:10:21
個人的にはアフリカ大陸には進出して欲しかったなー
モンゴル騎馬民族VS黒人部隊の壮絶な戦い・・・・・ところで黒人傭兵てマムルークで使われてたか? 
ちょっとその辺気になる
まぁーいずれにしてもモンゴル帝国関連は夢が広がる

17: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/24(土) 09:43:17
>ところで黒人傭兵てマムルークで使われてたか?

マムルークは弓矢と刀槍での騎馬戦闘を誇りにしていたので火器を嫌って鉄砲隊や砲兵隊は黒人奴隷にやらせてたとか

19: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/24(土) 12:19:49
意外にも北欧て攻められそうで攻められない位置にあるよな
と言うよりスカンディナビア自体誰も気づかないか

20: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/24(土) 13:00:37
13世紀頃って、地元民のバイキングだって、スカンジナビアのことを島と思ってたくらいだよ。
トナカイを狩っていたラップランド人は往来していただろうけれど、判っているのは自分らが季節移動をする範囲のことだけで、大きな陸塊のどういう位置とか地形だとかは意識してなかっただろうし。

21: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/24(土) 14:02:20
でも当時バルト海のゴトランド島あたりでタタール人襲来の噂が広まって
それでなぜかニシンの値段が暴落したらしい

22: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/24(土) 15:21:43
タタール人が来ると、東の方に傭兵が駆り出されるだろ。兵糧としての塩蔵ニシンの需要が無くなる、もしくは、東の方まで輸送費がかさむから持っていっても割に合わないから、獲らない作らない作らない。

モール人との戦闘ならば、得意の船でがしがし運んでいけるし、戦場は今のスペイン・ポルトガル・フランス・イタリア辺なので陸路でも運び易い。
タタール人との戦争になったりすると、ヨーロッパでの小競り合いもやむだろうから、兵糧の需要が減ってしまうし。

23: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/29(木) 12:56:50
>>22
でも教皇ウルバヌス4世は対モンゴルの十字軍を集めていたが
ドイツ騎士団領でプロイセン人の反乱が起きてそっちに回したそうだ

24: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/30(金) 13:40:08
ヒマラヤ山脈がなかったらインドも危なかったな

25: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/01(日) 10:19:55
デリー・スルタン朝はむしろチャガタイ家とフレグ家が牽制しあってたせいで本格的な侵略を免れたのでは?
トランスオクシアナからアゼルバイジャンまで平定したティムールには負けて劫略されてるね。

26: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/01(日) 21:16:26
ヒマラヤ山脈は常に中華文明とインド文明の衝突を防いできた壁だからな
あれがなかったら歴史は大きく変わってたな
ただインドて北西はガラ空きだからそこからの侵入には弱いよね

29: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/02(月) 08:44:56
インドは意外と攻め難いらしい。
場所は忘れたけどインド内深く進入できる道は1つしかないとか聞いたことある。
どこだったっけなあ

まああれだ。滅亡した方も凄まじい抵抗しとるよな。

30: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/02(月) 16:36:19
>>29
インパール作戦を見れば納得する

31: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/03(火) 03:58:34
南から攻めたイギリスはやはり正しかったのか

35: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/03(火) 12:59:35
>>31
予め軍事拠点をもち民族対立を理由しながら一民族つづ何十年もかけて制圧していったイギリスと闇雲に攻撃するモンゴルは全くの別物だろ

32: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/03(火) 06:19:36
そういえばティムールの孫がインドを攻めて大敗してたような
やっぱり攻めるのは難しいのかね?

34: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/03(火) 12:23:50
海から攻めてきたイギリスにはあっさりと敗れてしまったと<インド

37: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/03(火) 16:24:06
ヒマラヤ山脈、アラカン山脈、タール砂漠、インド洋で護られたインドは天然の要塞だ。

41: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/04(水) 05:40:54
その割にはインドって他地域からの征服王朝が多いじゃん。 
インド亜大陸の統一は難しくても侵入・定着自体はそんな難しくないんじゃないの?

42: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/04(水) 09:06:04
北半分はね。 
デカン高原やその先まで行こうとするとハルジーやアウラングゼーブのようなことに・・・

43: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/04(水) 20:28:10
東側からの侵攻は山脈に囲まれてて難しいだろうな。 
北西にルートがあるので、そこからだったらまだ侵攻は容易だろ。 
アレクサンドロス大王もカイバル峠を越えてインドに攻め入ったしな。 
これも北西ルート。

33: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/03(火) 12:20:35
面積ではるかに中国より劣る高麗を征服しきれず、服属させるのに何十年もかかっている所を見ると、平原でない所では極端に弱そう。

44: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/05(木) 19:41:33
>>33
モンゴル軍が朝鮮半島の地形に苦労した印象は無いな。
引き篭もりの高麗王朝無視して、30年間半島全土で好き放題暴れまわりました、って感じ。
たぶん獲得した奴隷や略奪品で、収支決算は大幅黒字だったんじゃないのかな。

392: 世界@名無史さん 投稿日:2010/02/26(金) 22:20:22
>>33
総大将のサルタクを討ち取られたり、苦戦してるね。
実際、高麗が降伏した後のモンゴルとの講和内容は極めて融和的だし。

45: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/06(金) 15:32:51
東南アジア方面が一番苦戦してるよな各地で負けまくってる
やっぱりあの多湿高温の地域は苦手なんだろうな
53: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/07(土) 17:47:06
弘安の役で江南艦隊10万が全滅するなんて事態にならなかったら、その後の東南アジア諸国は問題なく征服できていたはず。

54: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/07(土) 17:51:25
バグダートでやった殺戮をベトナムでも実行してれば支配できたんじゃね?

56: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/07(土) 23:19:16
>バグダートでやった殺戮をベトナムでも実行してれば支配できたんじゃね? 

バグダッドとベトナムでは湿気が違う。バグダッドのモンゴル兵はピンピンしているだろうが、雲南遠征ですらモンゴル軍は暑さと湿気で苦戦し敵を殺戮どころか自らの健康すらままならなかった。

57: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/07(土) 23:20:26
ベトナムでもビルマでもジャワでも、元軍は野戦だと普通に圧倒的な強さだったよ。

58: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/08(日) 00:49:47
そもそもビルマとかジャワの武器や装備てどんなのだったのかな 
映画に出てくる未開人のように素っ裸の状態で丸木弓とか竹で作った槍とかで戦ってたのか? 
ホームとは言えよくそんな状態でモンゴルと戦えたな

61: パオさん ◆mEq.Fp/iL. 投稿日:2009/02/08(日) 01:37:06
モンゴル軍の構成は基本的に攻める国の隣国の兵を大動員していることを忘れてはならない。 
指揮官クラスのみがモンゴル人で、後はその国に詳しい隣国の将兵が務める。 
東欧を攻めた時はキエフ公国などのスラブ人部隊を動員したし、日本に侵攻した時は朝鮮人や南宋人がメイン構成だった。 
だから、イギリスだろうとアフリカだろうと、同じやり方を通せば、世界征服が可能だっただろう。 
問題はその後の統治であって、如何にその国をモンゴルに服従させるかが重要だった。 
手っ取り早いのはモンゴルの皇族とその国の王族を姻戚関係にすること。 
また、宗教や言語はそのまま使い続けることを許し、有能な人材は中央政府の官僚として採り立てる事。 
それが崩壊した時(モンゴル人優越主義化)、モンゴルの終焉は始まった。

62: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/08(日) 01:50:50
>>61 
そこまで独自色を許したら世界征服する意味が半減だろ。 
世界を自分色に染めるのが男の本懐なのに。 
経済的な利益だけではそこまでの大事業をするモチベーションが上がらない。

64: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/08(日) 03:31:35
>>62 
相手を自分色に染めようなんて考えたら、激しい抵抗を招くだけじゃん。 
モンゴル帝国はそういう無意味なことにこだわらなかったから、あれだけ巨大化できた。

68: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/08(日) 07:52:58
>>61 
>問題はその後の統治であって、如何にその国をモンゴルに服従させるかが重要だった。 

モンゴル帝国の場合、服従してる側にもメリットがあるんだよ。 
常勝軍の一員として征服戦争に参加し、略奪品や奴隷、領土なんかのおこぼれに与れるんだから。 
だから、帝国が膨張し続けているかぎりは、求心力の維持も簡単なの。 
高麗とかも、モンゴル帝国に対してしつこく日本侵略を促してるでしょ。 
ある種ネズミ講みたいなシステムね。
116: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/11(水) 00:52:32
ベトナムの南、観光でボート乗った 
濁った川は迷路のように伸び、深いジャングルが川べりまであって 
こんなところでパトロールなんて大変だったろうな

138: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/12(木) 06:22:46
ベトナムは密林と気候、日本は海、シリアは局地戦、でインドの勝因はなんなんだ?

190: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 13:16:51
>>138 
ベトナムはゲリラ戦が得意だったのもあるな。しかも結構一致団結してさ。 
モンゴルきたときも住民は食い物かくしてさっさと山へ逃げてる。 

まあベトナム戦争みりゃわかるが元々強いんだろな。連中。


88: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/09(月) 01:02:36
モンゴルは圧倒的な強さだった。しかし、なぜあの時期だったんだろうね。
匈奴は強大だったけど、そこまでではなかったし。
モンゴル族の戦闘能力ならもっと早い時期にユーラシアを圧巻する時期があっても良かったと思う。

90: パオさん ◆mEq.Fp/iL. 投稿日:2009/02/09(月) 01:28:51
>>88
やっぱ、テムジンの類稀なる才覚の賜物だろうね。
民族や宗教の違いを超えて、有能な者を採り立てたり、モンゴル文化に固執せず、優れた技術や文化はどんどん吸収した。
騎馬遊牧民でありながら、経済というものを重視し、東西を行き交う隊商を保護した。
帝国というよりも「緩やかなユーラシアネットワーク」を構築できたことがモンゴルの成功を促したんだよ。
アレキサンダーやティムールも大帝国を創出したけど、モンゴルのような内面的なシステムを作らなかったので崩壊した。

89: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/09(月) 01:23:02
圧倒的な戦闘能力で内輪もめしてたからじゃね?
チンギス・ハーンという偉大な指導者の出現が不可欠だったのだろう。


141: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/12(木) 20:33:08
象って遊牧民には効果があったみたいだけど、動きも馬より遅いだろうし不思議だな。
ティムールもデリー攻略のとき、象にかなりてこずったみたいだし。

142: パオさん ◆mEq.Fp/iL. 投稿日:2009/02/13(金) 00:13:22
>>141
牙に槍付けた象さん数百頭が凄まじい地響きとともに真っ黒な津波となって突進してくるんだよ!
小型の蒙古馬なんて、ビビッて動かなくなるさ。
しかも象さんの上に櫓のような巨大な見張台が乗ってて数人のインド兵がモンゴル兵の直上から矢を射掛けてくるんだよ!


そんなインド様に勝てるワケねーだろ。常考。

154: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/14(土) 04:28:31
>>142
ただの掠奪遠征を撃退するだけならそこそこ効果があったけど、重武装の騎馬隊を用いた本格的な侵攻にはあんまり効果がなかったらしい。>ラージプート政権の象兵

1192年の第二次タラーインの戦いでゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマドは、チャウハーン朝のプリトヴィラージャ三世の象兵部隊数百頭に対して四万騎からなる完全重武装の騎馬部隊を使い、四方八方から弓矢と投槍で袋叩きにして壊滅させたそうなんだけど、騎乗している象兵に対して雨のように弓矢を、象に対しては象の口の中にありったけの投槍を叩き込んで片っ端から倒したとかゴール朝系の歴史書に出て来る。
(プリトヴィラージャ三世は象から降りて馬に乗り換えてなんとか逃げたそうだ)

インド北辺にいたモンゴル軍は、カシミール方面にずっと駐留していたようだけど、アフガニスタンやカシミールにいた遊牧民系の政権は古代のサカ系にしろ千年後のガズナ朝にしろモンゴルにしろ、インドの富を狙っての掠奪遠征はするけど、やっぱり夏の酷暑を嫌ってなかなかインド方面で腰を下ろさない場合が多い。(サカ系は一応インドに定住したか)

ただし、クシャーン朝やゴール朝系の奴隷王朝、ムガル朝みたいに一旦もう面倒だからインドで政権を建てる!と決心すると、インド側の政権の軍隊は殆どの場合歯が立たなくて、遊牧系の連中がなんとか暑さを耐えられる北インド一帯まで征服される、ということが多かったようだ。
(やはり機動性の高い騎馬部隊の絶対数の寡多が勝因を決している感じ)

143: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/13(金) 00:36:58
バーブルやアクバルの頃の「モゴール」たちは馬を後肢で立たせて高くなったところで槍でホウダーの上の敵兵を突くということまでやるようになってたがね。

144: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/13(金) 02:31:35
結局モンゴルって馬さえ潰せばそこまで強くないんじゃね?

145: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/13(金) 09:00:44
>>144
カラコルムまで行ったカルピニ修道士の報告書(ほとんどスパイのレポート)によると
「戦闘中に乗馬を失ったモンゴル人はその場で死ぬまで弓矢で敵を射殺し続けるので非常に危険」
とか書いてるよ。

146: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/13(金) 12:09:26
モンゴル軍は密林で象部隊を撃破し、ビルマのパガン朝を征服しているが

157: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/14(土) 18:54:02
シベリアには興味なかったんだろうか?
明確な国家が存在しないから「ここから北は俺たちの領土みたいなもんだろ」とかそんな感じで無視してたとか?
だけどヤクート人やエヴェンキ人の存在は知っていた?とは思うんだけど戦争らしき事も起こってないし、謎だなぁー
でもあんな広大な大地は統治しようと気が失せる気持ちも分かるけどね
その点ロシアの欲は凄いな

158: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/14(土) 22:01:31
好んでシベリア送りになりたい奴はおらんよ。
ロシアが欲かいたのは、毛皮が取れてそれが高い金で売れたから。

でも地味にモンゴルは樺太まで渡ってるんだけどね。樺太に元軍が築いた砦の遺跡がある。

159: パオさん ◆mEq.Fp/iL. 投稿日:2009/02/14(土) 22:31:23
>>158
元が樺太に侵攻した理由として、日本を北辺から侵攻しようとした可能性がある。
アイヌ諸侯国を支配下に置き、背後から日本の中枢を突く戦略パターン。
蝦夷島と奥州を騎馬の速力を利して一気に南下し、鎌倉政庁を瞬時に撃滅、そのまま東海道&中仙道を西進。
合わせて北九州からも攻め込んで、京の都付近で江南軍と北辺軍が残存日本軍を挟撃するというシナリオ。

162: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/15(日) 01:01:57
>>158
一応、いわゆる「北の元寇」についての専論が既にあるけど、主要典拠である『元史』や『高麗史』の書き方では、アムール川周辺の現地住民が間宮海峡を渡って樺太からやって来る「骨巍」の掠奪を受けているため、現地の女直や水達達など救援要請に応える形で対処療法的に部隊を派遣しているに過ぎないような印象だ。

クビライの治世末期くらいに騒擾や掠奪を繰り返す樺太の「骨巍」に対して女直人部隊一万人を狗橇で海峡を横断させて制圧しているけど、その後の情勢についても資料では飽くまでも「骨巍」の鎮撫にのみに重点が置かれていて、日本のにの字も出て来ない。
部隊の派遣も日本遠征とかカイドゥやカダアンの乱なんかが下火になったか暇が出来た時に出しているため、他の作戦と連動したものとかではなく、一連の派遣の目的は「骨巍」鎮圧以上の意味はなかっただろう、というような説明だったと思う。

168: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/15(日) 08:27:12
>>162
時代はまさにアイヌ人の膨張期でしょう。
時代的にはちょうど北海道の擦文文化が終わる頃ですね。一方、樺太はオホーツク文化時代。
考古学の時代区分とも何となく符号するし。文献資料からは北海道からアイヌ人が北方へ盛んに侵攻していった様子がうかがえますね。しかも、沿海州にまでその侵攻はおよんだらしい。
これは考古学だけでは分からんですね。

後のアイヌ人のイメージからはあまり想像できない状況ですが、実はアイヌ人は独自の鎧も持っていました
>http://sv06.wadax.ne.jp/~gunsight-jp/c/k-ainu.htm

ainu-03
桂甲をまとった樺太アイヌ
資料: 北海道大学北方資料データベース
 
古墳時代の桂甲に似てるそうですが。

185: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 03:37:42
>>168
> 樺太から沿海州へ

なるほど。北東アジアの考古学関係については全然専門外だけど、十三世紀後半頃の発掘資料と文献上での情報がちゃんと符合しているというのは興味深い。

そういえば『中世十三湊の世界―よみがえる北の港湾都市』という本で、12世紀末から13世紀にかけて沿海州から北海道一帯にかけて交易物品の出土状況が大きく様変わりしているとかで、モンゴル帝国の出現で北東アジアの交易ルートが変わり、大陸の物産が樺太以東へあまり流入しなくなったんじゃないか的な議論がされていたと記憶しているけど、案外「骨巍」の侵攻もそこら辺も絡んでいるんじゃないかと思わせるような内容だった。

> 古墳時代の桂甲に似てる

鋼性の小片を短冊状に束ねる鎧は既に紀元前後くらいの匈奴関係(らしい)の文物の中にも描かれているそうで、拓跋や突厥などの遊牧勢力もだいたい同じような鎧を用いて居たらしい。
第三代モンゴル皇帝グユクの即位式を訪れたローマ教皇使節団のひとりプラノカルピニのジョヴァンニもその報告書で「鋼性の小片を短冊状に束ねる鎧」がモンゴルの兵士が着用していることを述べているから、この種の鎧は(中国方面からの逆輸入的な影響もあるかもだろうけど)遊牧勢力の伝統的な鎧なのかもしれない。
古墳時代は拓跋や突厥、高句麗など遊牧系政権が興隆していた時期で、古墳時代の文物はそういった当時流行していた大陸の遊牧系の文化スタイルの影響下にあったことは良く言われている通りだと思う。(例の騎馬民族征服説は置くとしても)
↓は十四世紀頃の絵で、モンゴル兵をモデルにしたもの。

○『集史』預言者伝のバドルの戦い部分。預言者ムハンマドの事蹟だから、本当は七世紀のアラビア半島
の話だが、絵の鎧や風俗は十四世紀あたりのモンゴル兵が着用したものをもとにした、所謂「当世風」。
no title


チベットの寺院に残されている(多分北元以降のモンゴル王侯に)奉納された鎧を何処かのサイトで見たことがあるが、胴回りから脚部までの裾の感じのアイヌの鎧と良く似ていた。
もしかしたらこのアイヌの鎧は清朝あたり経由で北方からもたらされたものが現地化したものなのかも。

365: 世界@名無史さん 投稿日:2009/08/20(木) 22:29:25
>>185
シナ人は打ちものが不得意で、胴体を半周包むような大きな鍛造品を作れなかった。
だから、仕方なく、小片を革紐でつなぎ合わせる形での甲冑しか作ることができなかった。
まぁ、それはそれで、一人一人あわせて作る必要が無く便利で、その形式の伝わった日本も古墳時代から明治維新まで二千年くらいその形式の甲冑だったが。
もし、仮に、製造技術が伝わらず、体躯の半周を覆う形の甲冑が伝わったとしたら、銅鐸でやったように他ではできないような薄い鋳物を作ったり、刀剣のようにシナ圏とは全く別の技術の起源で鍛造を始めたかもしれない。

160: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/15(日) 00:18:18
あの時代に樺太を南下したら日本に着くと知っていた大陸の人はいないでしょ。
地図の空白部だよ。
原因は元に朝貢していたニヴフ(旧名ギリヤーク)が樺太アイヌ(エンチュウ)に攻められてると元に泣きついたこと。樺太アイヌとニヴフは仲が悪く、間宮林蔵の北方探検の時代でも、アイヌの案内人がニヴフ(山丹人と記述される)の集落に行くのを怖れていたりする描写がある。長年の交易相手でもあったんだけどさ。

しかし、モンゴルはロシアを攻めたり、樺太に渡ったり、寒さには何か強い感じだね。
ナポレオンはロシアで冬将軍に出会ったのに。江戸時代の日本でも樺太を攻めるのはきつそうだ。

161: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/15(日) 00:45:50
雲南遠征の際にはトゥルイは体調を崩してそのまま死去、ベトナム遠征は惨憺たる失敗と、モンゴルは寒さには強いが暑さには弱い。

163: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/15(日) 01:02:43
ロシア遠征も冬に沼沢地が凍って馬が通れるようになった時を見計らって一気に攻めたんだっけ。

178: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/15(日) 19:30:04
チンギスハンはムスリム商人や漢族豪族、キリスト教の宣教師など多様な文化と接触出来たし、ケレイトのような有力なバックもあったが、アイヌやインディアンはそのような多様な文化と接触出来なかったし、発展させる母体となる集団も無かったので、多種多様な民族や宗教を取りまとめて一つの国家にさせようという発想自体が生まれなっかったのではないのか。
シャクシャインが和人、漢人、イスラム学者、キリスト教宣教師に囲まれて成長していったのならチンギスハンのような首長にもなり得たかもしれないが。

183: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 00:33:31
実は野心ありまくりのフビライも既に遊牧騎馬民族の支配領域の限界を悟っていたんじゃないか?

184: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 00:53:02
フビライはむしろモンゴル帝国史上一人だけその限界を突破しちゃった人。
他の諸汗国ではまともな海軍を作ろうとか考えもしなかったからね。

186: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 04:41:01
>>184
それまでのモンゴル軍は基本的に陸上での戦闘のみを考え、凍結していない河川は進路の障壁くらいの認識だったみたいだが、これはクビライ時代までの主要な戦場が、大きな河川が稀な大陸の乾燥地域だったせいも大きいだろう。
>川底が浅ければ騎乗で渡河、深ければ船橋でおkみたいな認識。

南宋作戦の場合、オゴデイの時代から江南の入り組んだ河川流域の諸都市を攻略するのに従来の陸伝いでの進軍のみで対処していたようだけど、経路が限られるため毎回苦戦を強いられていた。
クビライが海軍、というよりも「水軍」を使うようになったのは攻城戦や渡河作戦が他の地域よりも遥かに多くなる南宋作戦に対して、ムカリ国王家の華北経営の延長で醸成された、華北一帯のモンゴル系と契丹・女直などの混成軍(蒙古・漢軍)を投入しようとしたのがベースになっているそうだ。

ただ、クビライが水軍に力点を置いたもう一つの大きな理由が、モンゴル高原や興安嶺方面の従来のモンゴル騎馬軍を主体とする軍団が、カイドゥなど中央アジアでの紛争に投入せざるを得ないため、モンケの頃のようにモンゴル帝国東部の軍を南方へありったけ投入するというような作戦がクビライの場合不可能だったという切実な事情もあった。

他には北宋時代に曽公亮らが編纂した『武経総要』のような軍事書に軍船などを用いた水上戦闘についても論じられているため、それらの漢籍から得られる水上戦闘に関する研究を混成軍に活用出来た、というのも大きいかも知れない。

187: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 04:54:11
>>186の続き。

> 他の諸汗国ではまともな海軍を作ろうとか考えもしなかったからね。
モンゴル帝国の領土で大洋に面しているのはクビライの元朝の他はイラン高原のイルハン朝くらいだが、もともとイラン方面も含め歴代のイスラーム政権は政治的な権力を海上へ及ぼすという指向が極めて希薄だった。

勿論、13~14世紀のイラン南部やエジプト方面の商人や富豪たち(イスラム教徒だけでなくキリスト教徒やユダヤ教徒等色々いた)は海上交易で莫大な利益を得ていたが、イスラーム政権は彼らの資本力の源泉であった農園からの税収や船舶から卸した後の売上税から徴集していたが、海上での活動そのものに干渉することは殆どなく、そのため海上の諸々は全く「民間の世界」だった。

>そのため近現代になるまで西欧諸国によるインド洋や東南アジアへの進出に対してイラン高原やインド、エジプトやアラビア半島の諸政権はほとんど何らタッチ出来なかった。

イスラーム政権で海上へ軍事行動を起こしたのは、アラブ征服時代に地中海上の島々への征服とかコンスタンティノープルへの遠征、あるいは精々対十字軍戦争で船舶に攻城兵器を搭載して海上から攻撃するという程度で、常備的な海上戦力を保有するという場合は殆ど無かった。
(八世紀のイベリア半島征服も西ゴート王国周辺の諸侯が船舶を便宜したためで、北アフリカにいたアラブやベルベル軍が固有の海上戦力を保有していた訳ではなかった)
オスマン朝が強力な海軍力を保有していたのはイスラーム政権としては大変に珍しい現象。

なので、元朝以外のモンゴル諸王家が海上戦力を持たなかったとしても、これは当時のインド洋から東南アジア方面のユーラシアの海上世界の事情からすると流石に仕方がないと思う。

188: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 10:46:32
>>187
サラディンのアイユーブ朝は1179年の段階で80隻のエジプト艦隊を保有していたし、さらに増強もおこなっている。
実際、1183年には紅海の制海権を巡って十字軍の艦隊と戦ってるし。
その後をついだマムルーク朝だってディウ沖の海戦でポルトガルと戦っているわけで、西欧諸国のインド洋進出にノータッチだったわけじゃない。
紅海と地中海を結ぶ交易で賑わったエジプトに海軍があるのは当たり前なわけで、もしもイルハン朝がエジプトを征服していたら、当然海軍も引き継いでいただろ。

191: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/16(月) 13:19:14
東南アジアはベトナムがふんばってくれたお陰が強いだろうな。
あとモンゴルはやっぱ船にゃ弱いよw

日本も神風とかいうが、二回目の時はかなり頑張ってた。

194: 世界@名無史さん 2009/02/16(月) 17:55:57 O
地の利があった日本よりモンゴルに平原での騎馬戦仕掛けて完勝したバイバルスのが凄いだろ。

195: 世界@名無史さん 2009/02/16(月) 19:02:11 i
>>194 
地の利ならホームの中東で戦ったバイバルスにもあったから同じ。 
アイン•ジャールートで1万ちょっとのモンゴル軍に勝っただけのバイバルスより、福岡平野で4万のモンゴル軍に騎馬戦で勝った鎌倉武士武士の方が凄い。

196: 世界@名無史さん 2009/02/16(月) 19:06:44 0
俺が疑問に思うのは、鎌倉幕府の異常な動員能力なんだけど 
あれは何でなんだろう?

197: 世界@名無史さん 2009/02/16(月) 19:10:49 0
ポーランド王がワールシュタットで3万人を動員してた時代に鎌倉幕府は奥州戦や弘安では20万以上を動員してたわけだからね。 

3万なんて日本ではせいぜい奥州藤原氏レベル。 
なんか農業とか産業で世界と隔絶した部分があったのかな?

202: 世界@名無史さん 2009/02/16(月) 23:34:56 0
19世紀まで国力はアジア>ヨーロッパ、 
植民地補正で逆転しだすのもここら辺から戦力だけなら17世紀ぐらいには逆転してるだろうが。

203: 世界@名無史さん 2009/02/17(火) 00:35:21 0
キエフルーシは8万の軍勢を動員していたという。 
この時はモンゴルは3万程度で軍勢の数ではキエフの方が多かった。 

222: 世界@名無史さん 2009/02/18(水) 03:24:50 0
>>203 
チンギス・カンの時代にキエフ・ルーシと戦った部隊は、ホラズム・シャー朝のスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドの追撃のため派遣されたジェベとスベエデイが率いた二万騎。 

今のイラクとイランの北西国境付近での会戦でムハンマドを補足しそこない、右往左往した挙げ句カスピ海西岸を北上。アゼルバイジャン高原のイルデニズ朝を叩き、アルメニア王国、グルジア王国の軍を破って臣従の確約を取り付け、カスピ海を西回りでチンギス本軍のまだ居るマーワラーアンナフルへ帰還するルートだったらしい。そこでアスと交戦し、さらにキプチャクの一派と遭遇してこれとも交戦。 

ロシアの年代記、『ガリーチ=ヴォルイニ年代記』によると、このキプチャク(年代記では「ポロヴィッツ」)側がキエフなどのルーシ諸侯たちに、自分達はけちょんけちょんにやられたが、放っておけばいずれルーシ側にも甚大な被害を及ぼすゆえ、今駐営中のタタールとかいう連中を襲撃して撃退すべきだ、というようなことを主張してルーシ側と連合して攻撃した、ということらしい。>いわゆるカルカ河畔の戦い 

ルーシ側は普段苦戦を強いられているポロヴィッツ勢が大負けして助けを求めて来るような連中だからとこの作戦に協力したらしいが、逆に包囲迎撃されて返討ちにされてしまう。 

ジェベとスベエデイが率いた戦力が二万騎だったことは、『世界征服者史』や『集史』などのモンゴル側のペルシア語年代記にはっきり書かれ、モンゴル帝国の境域地域に派遣・駐留する鎮守軍もだいたい二万戸(騎)なので(有名なカシュミール鎮守軍も2万騎)、多分実際そのくらいの戦力を派遣したのだろう。 

邦訳の『ガリーチ=ヴォルイニ年代記』にはルーシ・ポロヴィッツ連合軍の規模について特に書かれていなかったように記憶しているんだが、「8万」という数字は別の年代記に出て来るんだろうか。

228: 世界@名無史さん 2009/02/18(水) 18:40:09 0
>>222 
モンゴル強。 
てか、ヨーロッパ勢は全部、偽装撤退~包囲射撃戦法にまたかと思うぐらい引っかかってる
印象がある。リーグニッツ、モヒ、カルカと全部このワンパターン戦法に実にワンパターンなひっかかり方してるよね。

282: 世界@名無史さん 2009/02/20(金) 00:41:16 0
ドイツの川は凍らない。ロシアの川は凍る。 
案外河の凍結の有無がモンゴルの勝利の要因として大きいのかもしれない。 

284: 世界@名無史さん 2009/02/20(金) 00:47:47 0
>>282 
つ長江 

まぁ長江を初めて渡河した時、色々苦労したらしいけど 
みんな長江に脅えて、護符を貼ったりしたとか(だっけ?)

205: 世界@名無史さん 2009/02/17(火) 07:19:39 0
ヘロトドスのペルシャ軍百万人とか、源平の20万騎とかはみな物語的誇張であり、ありえない数字なのだそうだね。

206: 世界@名無史さん 2009/02/17(火) 08:11:50 i
今も昔も人間の営みは基本点に同じ。何時代の文献だろうが、その性質によって数字が信頼できる場合もあれば、信頼できない場合もある。 
そんなこと、歴史を語る上ではイロハのイだぞ。

226: 世界@名無史さん 2009/02/18(水) 12:10:41 O
ベトナムは日本がなす術なく完敗したアメリカに勝ってるぞ

227: 世界@名無史さん 2009/02/18(水) 12:32:02 0
>>226 
ベトナム戦争の結果、狂喜した左寄り連中が700年も前のモンゴルとの戦いまで、資料無視してマンセーするようになったんだよな。。。 
わずか3000人のモンゴル軍に首都破壊され、ベトナムがモンゴル帝国の属国と化した第一次侵攻まで、何故かベトナムが勝利したことになってるし。 
あと、時系列無視して日本が助かったのはベトナムのお陰だとか言ってみたり。 
実際には全く逆で、ベトナムが助かったのが日本のお陰なのに。

231: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 02:11:27 0
>あと、時系列無視して日本が助かったのはベトナムのお陰だとか言ってみたり。 
>実際には全く逆で、ベトナムが助かったのが日本のお陰なのに。 

どっちも違うと思うが。あんま関係ないんじゃないか? 
聞いたこと無い話だな。

233: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 02:14:28 0
東方三王家の反乱の方が元寇への影響大きいような 
ま、反乱自体元寇、その準備が一因な気もするが

235: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 02:21:04 0
南宋がふんばってた影響がもしかしたらあるかもしれんかなあ? 
ベトナムのおかげとか、逆に日本のおかげでベトナムは~~なんてのはは初耳だな。

236: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 07:01:13 0
いや、ベトナムは大いに日本の恩恵受けてる。 
第三次ベトナム侵攻の際、元軍は大軍を投入するにあたり、その兵站を海上からの船舶を使った輸送で賄おうとしたんだよ。 
でも、元寇で3500隻もの江南艦隊が全滅しちゃったから、元軍が用意できたのは結局数百隻単位の小艦隊だけだった。 
で、ベトナム軍は野戦ではまったく歯が立たず、元軍は連戦連勝であっさり国都とか占領したんだけど、海軍が相次いで兵糧輸送に失敗したため、食糧不足が理由で撤退に追い込まれた。元寇で日本が江南艦隊を壊滅させてなかったら、ベトナムは元軍に簡単に征服されていたよ。

237: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 10:48:59 0
>>236 
そんな話はにわかに信用できん。 

大体当時の軍なんて現地調達が基本だろう? 
ロジスティックスみたいな考えあんまない。 
あと陸で運べばいいじゃん。地続きなんだし。

251: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 18:24:52 0
>>237 
> 大体当時の軍なんて現地調達が基本だろう? 

いや、文永の役だったか弘安の役だったか忘れたけど、日本に派遣する前に慶州のどこそこは糧秣をこれぐらいを負担すべし、鳳州のなんとかはこのくらい負担すべしみたいに、派遣前に兵站部門への配給割当てが各々課されていて、合浦の司令部がこの配給を管理していたようだ。 

事前に派遣地域に近い地域などが兵站の負担を事前に命じられるのが普通だったみたいだが、負担が過剰だったりして準備不足なまま軍が到着すると司令官が無理矢理強制的に徴発する場合もあって、現地の担当者と衝突することも良くあったらしい。 

基本的にモンゴルの遠征では軍が展開する前線の後方に「アウルク」 Aγuruq と呼ばれる兵站基地が置かれ、ここに戦利品の集積や後背地から供給される糧秣の配給などを管理していたそうだ。漢籍ではこれを「奥魯」などと音写している。軍ととも連れて来られた各戸や部隊の家畜群の管理もここで行われていたようで、穀物以外の食品などもここで生産するなどしていたらしい。 

『高麗史』でも高麗領南部を中心に文永・弘安の役の時の兵站への課田として色々な地域が「奥魯」として設定されたことが出て来る。 

戦利品は理念上、モンゴル皇帝の獲得物でそれを軍や兵士に公平に分配し褒美(Qubi)として下賜される、という建て前があった。そのため、決算前に横領すると反逆扱いされて部隊ごとに連帯責任をとらされ死刑になったそうだ。 

戦利品獲得→そのまま食糧に
という展開は、モンゴル帝国の政治的軍事的理念としてアウトなので、普通、大規模な遠征の時はこういうことは無かったようだ。

(モンゴル軍が良く占領した地域の住民を数えさせて捕虜として売り捌いたとか、男女を別けて一部を戦闘要員として転戦させたとか、商人と一般住民を別けて残りを農耕地へ回した、あるいは虐殺した、とかいう話が出てくるが、基本的には上のモンゴル皇帝の名のもとで行われる戦利品の分配と同じ現象) 

252: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 20:46:45 0
>>251 
なんか鋤鍬がみつかってるとかね。 
殖民するつもりだったんかねーと俺は理解しとったが。 

ロジスティックスの仕組みがどの程度だかしらんがあんま高いものとはおもわないんだが、どうだろうね。とりあえず興味深いレスありがとう。

244: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 13:30:28 0
>>236 
永楽帝の時代の明軍は元寇の江南艦隊ほどの規模の海軍は使わなかったけど20年もヴェトナムに居座ってるよ。 
この当時の明は、洪武帝の定めた開中法によって軍糧の輸送に民間の商人を利用していた。
商人が国境まで食糧を持ってくると政府専売品である塩の販売許可証と交換され、商人は官営の産塩所で入手した塩を売って利益をあげる。 
食糧は内地から運んでくるばかりでなく、広西とかに商屯をどんどん作って輸送のコストを削減、それが地方の開発にもつながって一石二鳥だったわけだ。

302: 世界@名無史さん 2009/02/20(金) 14:44:29 0
>>244 
まず、ベトナムへ侵攻した明軍が、20年間本国からの軍糧輸送で維持されていたわけではないということ。 
明軍がベトナム入りしたのは1406年10月だけど、翌1407年6月には胡氏を滅亡させて統治体制に移行し、1408年6月には駐屯する兵力を大幅に削減させている。 
胡氏滅亡以後、統治体制に入った明軍を支えていたのは、基本的に現地で得られる軍糧でしょ。それまでは広東から海路輸送される軍糧に多くを依っていたわけで、元軍の場合とそれほど違わない。 

あと、1418年と1421年に施行された開中法は、基本的に現地調達で不足しがちな分を補うためのものだし、あんまり問題解決につながったようにも見えないから、ベトナムへの軍糧輸送という問題では過大評価するべきではないだろ。 

255: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 21:22:31 0
鍬鍬っていっても必ずしも耕筰に限定されて使用されるわけでもなし、野営地建設に使用する目的もあったかもわからんね。

256: 世界@名無史さん 2009/02/19(木) 22:07:55 0
>>255 
南宋兵メインだから殖民という名を借りてモンゴルは反抗的な南宋人を追い出したかったんじゃねーかなと思ってたわ。 
とはいうもののその線もありえるべ。


289: 世界@名無史さん 2009/02/20(金) 01:07:43 0
ベトナムへの遠征自体、唐代後半以降の江南と南海貿易発展のお陰なんだろうな 
元朝や明朝の遠征共に

294: 244 2009/02/20(金) 01:39:04 0
>>289 
うーん、ヴェトナムを征服することによるメリットといった話かな? 
軍事侵攻自体はそれこそ漢の時代からやってるけど

300: 世界@名無史さん 2009/02/20(金) 04:08:04 0
>>294 
ウリヤンカダイが最初にベトナムの陳朝を征服した時は、モンケの南宋遠征の一環で南宋の勢力が南方へ逃亡ないし南回りで反撃するのを警戒して、その押さえとして征服した、って感じ。 
バトゥの遠征軍がハンガリー王国征服時にチャガタイ家のバイダル(らしい人物)がハンガリーに北隣するポーランド王国に侵攻したのと大体同じような展開だと思う。この時陳朝はモンゴル帝国に臣従し、その後に起きたクビライとアリクブケの後継戦争ではクビライ側についたため陳朝は貢納義務を課される代わりに従来の諸領を安堵されている。(ダルガチの常駐と課税がまた負担が大きかったようだ) 

一方、1285年1月、クビライの時代に陳朝が反抗したのはクビライの庶流の皇子、鎮南王トガンがチャンパーへ遠征した時、その南方への経路に陳朝を通過せねばならなかったことに始まる。 
雲南から下って来たトガンは陳朝側に遠征軍に必要な物資を供給するよう命じ、軍が陳朝に入国すると、そこでかなり無理に膨大な物資を徴発したためこれに陳朝の君主仁宗らが反発。トガンはこの態度を反逆と看做して攻撃したため戦争になった、ということらしい。 

トガンが南方へ派遣される数年前、弘安の役の翌年である1282年に大都でクビライの世継ぎであった皇子チンキムが宮廷内クーデターを起こして実質国政を掌握しているんだが、トガンの南方遠征もそこら辺の「チンキム政権」のゴタゴタが色々絡んでいるような気がする。(クビライの隠居状態にさせられたらしい) 

1288年に陳朝と元朝軍の双方散々な消耗戦の末、仁宗が再度元朝側に臣従を貢ぎ物を献じて懇願しているが、クビライ側はこの先方の降伏条件をほぼ飲んでいるようで、仁宗は1293年までそのまま在位している。 
当時クビライは1287年に東方三王家を率いるテムゲ・オッチギン家の当主ナヤンの叛乱を鎮圧するため遼寧へ老骨を押して親征するという大事件の直中で、現在の中国東北部から高麗はその戦後処理とカチウン家のカダアンの抵抗がまだ終わっていない時期だった。 

元朝の南方政策はクビライの構想の他に多分大都中央の政争なんかも色々影響しているとは思うんだが、今一つ自分としては全体像が掴めない。

301: 世界@名無史さん 2009/02/20(金) 09:20:23 0
フビライの代がモンゴル帝国最大版図だが同時に帝国の分裂が決定的にもなったな 
五つのハン国でもやっぱり本家の元朝は群を抜いて国力があり好戦的だな、そのあたり東アジア方面は運が悪いな 
西のハン国はみな急速に力が衰えて侵攻も緩やかになったからな

304: 222=251=300 2009/02/20(金) 21:32:51 0
>>301 
好戦的というか・・・  
1266年に統一クリルタイを開催するはずが、肝心のフレグ、アルグ、ベルケの西方王家の3当主が立続けに逝去した影響で流会。『集史』でそこら辺明確に主張されてるけど、南宋作戦はモンケの遺業を受け継ぐ、という名目で是が非でも完遂させる目標だったし、統一クリルタイ流会の挫折をなんとか糊塗するために同年ともかくもう力ずくで言うことを聞かることにした中央アジアのカイドゥへの遠征では、特命を受けたチャガタイ家のバラクが、クビライに協力することになってたチャガタイ家当主のムバーラク・シャーや母妃のオルクナ・ハトンから勝手に当主位を簒奪してカイドゥどころかジョチ家の新当主モンケ・テムルやフレグ家のアバカを巻き込んでカイドゥ以上に中央アジアを混乱させる始末。 

さらに1276年にはバラクに代わって嫡子ノムガンらを総大将にした遠征軍は、今度は遠征軍に従軍していたモンケの遺児シリギが首班となってアリクブケの子ヨブクルとメリク・テムル、庶弟トクテムルが軍中で叛乱を起こしノムガンは拘束されて遠征軍は崩壊。シリギらはカイドゥと共同しようとしたけど、先方から拒絶され、行き場を失い迷走したあげく新たに南宋作戦から転戦を命じられたバヤン丞相に鎮圧される。 


305: 222=251=300 2009/02/20(金) 21:33:31 0
>>304の続き。 

しまいに後継者チンキムには宮廷内クーデターを起こされるし、晩年には頼みの綱でもあった東方三王家のナヤンにも叛乱を起こされるしで、クビライは南宋作戦の完了で経済的領土的にはモンゴル帝国の諸王家では随一の勢力を築き上げたが、モンゴル帝国全体からすると、本来クリルタイによる「帝国の全体の王侯君臣の総意によって選抜されるモンゴル皇帝」という建て前のはずが、モンケ没後にクーデターによって、「力ずくで獲得し勝手に名乗っているモンゴル皇帝位」というアキレス腱を抱え、その危うい支配正統性を巡って常に綱渡りな政策をクビライは晩年まで強いられている。 
(グユクでさえ建前上ジョチ家も含むクリルタイの総意で選抜されたことになっている) 

幸い、ジョチ家とフレグ家とは「トルイ家とジョチ家の親密なるよしみ」が保たれていたのでカイドゥと足下で「何時反抗するか分からない反クビライ勢力」と対峙するだけで済んだが(それでも危機的)、クビライの即位から晩年までの争乱や政策を見回すと、自分には「クーデター政権としての脆弱さを糊塗する『モンゴル皇帝』」としてのある種の『必死さ』が見隠れしてならない。 
(ここら辺はまあ某杉山先生あたりの受け売りだけど)

309: 世界@名無史さん 2009/02/22(日) 11:57:56 0
>>1 
スレの趣旨とはズレるが支配はされなかったが攻撃された地域も含めればやっぱりモンゴルの行動範囲は尋常じゃない 
逆に攻撃すらされなかった地域ってどこ?

311: 世界@名無史さん 2009/02/22(日) 13:15:57 P
>>309 
オーストラリア大陸 
南極大陸 
マダガスカル島 
シチリア 
マグリブ 


ただイル・カン国の使節がシチリア経由で欧州とか行っているけど 

316: 世界@名無史さん 2009/02/23(月) 05:04:40 0
>>309 
アラビア半島西南のイエメンのラスール朝(1229-1454)なんかもモンゴルの侵攻とは基本、無縁だった政権。ただ、このラスール朝、第6代君主のアル=アフダル・アル=アッバースal-Afdal al-Abbas の時代(在位1363-1377)に君命によってアラビア文字で書かれたアラビア語-ペルシャ語-テュルク語-ギリシア語-アルメニア語-モンゴル語の6言語対照辞書が編纂されていて、モンゴル時代史的にも歴史言語学的にも非常~~~に重要な資料を残している。 
(明代初期から編纂された『華夷訳語』にも匹敵というか甲乙つけ難い重要な資料) 

数十年前に発見された時は、ともかく各方面の研究者たちの度胆を抜いた代物だった。

318: 世界@名無史さん 2009/03/08(日) 19:30:28 0
モンゴルの支配から免れた地域て本当幸せだよな

320: 世界@名無史さん 2009/03/21(土) 04:28:55 0
>>318 
ドイツ以西のヨーロッパ、そして日本。当時まだ外部からの侵入が無かったアメリカも含めて近代以降の世界の主要国は奇しくもロシアを除けば全部モンゴルの支配を免れてるんだよね。 

323: 世界@名無史さん 2009/03/22(日) 00:42:22 0
ロシアの領土ってシベリア除けばほとんど旧モンゴル帝国領土だよな

328: 世界@名無史さん 2009/03/24(火) 18:39:54 0
馬がいないモンゴル軍なんか鎌倉武士団以下ってことだ 
大陸限定の軍団

331: 世界@名無史さん 2009/03/25(水) 14:32:31 O
>>328 
ある意味ではそういうことだな。>大陸限定 
まあモンゴルは城攻めのやり方など征服した土地の戦術や兵器を取り入れてるわけだから、単純に馬がいなかったら云々はナンセンス極まりないがそれでも日本、ベトナム、インドの征服に失敗したのは草原で暮らす遊牧民の限界と言うべきかもしれんな。 
日本もベトナムもインドも当時の軍人層が、よく奮戦した結果モンゴルを撃退したがそれ以上にモンゴルがあれ以上版図を拡大するのには無理があったんだ。

332: 世界@名無史さん 2009/03/26(木) 00:38:52 0
インドのデリー・スルタン朝あたりは充分騎馬民族の行動範囲だと思うが

333: 世界@名無史さん 2009/03/26(木) 19:46:53 O
日本は海と台風、ベトナムは密林と暑さが武士やベトナム人達に有利に作用し、マムルークはフラグ死後にバイバルスがまだ引き上げてなかったモンゴルの駐屯軍を袋叩きにしたわけだが、インドだけはマジでわからんな。やっぱ象さんかな?

335: 世界@名無史さん 2009/03/27(金) 00:14:38 0
>>333 
アイン・ジャールートの戦いは1260年にモンゴル皇帝モンケの訃報によってフレグがアゼルバイジャン高原に北還したしばらく後に起きた戦闘で、マムルーク朝のスルタン・クトゥズとその旗下の諸軍がシリアに「侵攻」してガリラヤ湖南西のアイン・ジャールートで会戦した。ただ、マムルーク朝側とイルハン朝側では開戦に至る経緯についての記録で内容にかなり違いがある。 
(1260年以前、シリア・パレスチナの大部分はまだアイユーブ朝の王族たちが領有していてアイユーブ朝の王族たちは基本的にマムルーク政権のエジプト支配を認めておらず、この戦い以前にはシリア・パレスチナのほとんどはまだエジプトの支配下には無かった) 

アイン・ジャールートの戦いではバイバルスが前衛指揮官として奮戦しているが、戦闘後にスルタン・クトゥズと不和になって軍中でクーデターを起こし、反クトゥズの将軍たちとともにクトゥズを謀殺している。その直ぐ後にバイバルスはこれらの将軍たちの推戴を受けて自らスルタンに即位し、カイロに凱旋している。(この時までに、手薄になっていたシリア北部までマムルーク朝軍は接収している) 

フレグはこの後ジョチ家のベルケとアゼルバイジャン北部で熾烈な戦闘を続けることになり、もう五年程存命している。バイバルスは幾度かシリア北部のキリキア・アルメニア王国などイルハン朝の南西境域を侵攻しているが、フレグの没後、(バイバルスの晩年になるが)アバカの時代に再び大規模な侵攻を行っている。

338: 世界@名無史さん 2009/03/27(金) 23:27:14 0
ベトナムは歴代中国王朝も支配しにくかったし 
元でも難しいだろうね

340: 世界@名無史さん 2009/03/28(土) 02:08:31 0
チベット地域は支配されたのか? 
なんか勢力図によってはモンゴル帝国の領域に入ってなかったり入ってたり・・・ 
半独立状態だったのかな

344: 世界@名無史さん 2009/03/28(土) 09:43:44 0
しかしチベットと元や清の間で見られた「施主と帰依処」の関係って実質上は属国化じゃないか? 宗派間のもめごとに軍事介入されてたり・・・ 

あとどこかで交戦もあったような気がするが

346: 世界@名無史さん 2009/03/30(月) 05:20:13 0
チベットて山岳地帯という地の利もあって結構攻めるのに苦労しそうだな 
それにチベット族て今と違って嘗ては好戦的な遊牧民族というイメージがある、歴代中国王朝もなかなか手を出せなかったしね 
吐蕃のような大帝国築き上げた実績もあるしな

349: 世界@名無史さん 2009/03/31(火) 12:17:47 0
チベット仏教のせいでモンゴルは弱体化した

354: 世界@名無史さん 2009/03/31(火) 22:40:14 0
>>349 
いや、順番が逆。 
クビライがチンギス・カン家というかクビライ家によるモンゴル皇帝位の支配正統性の強化のため、宗教サイドからの支援として利用したはずのチベット仏教に、皇太后ダギの時代なんかが特にそうらしいけど、成宗テムル没後の皇位継承をめぐる内紛でボロボロになった大元朝の内実を取り繕うため、ダギはじめ大都のモンゴル宮廷が耽溺した、というのが実態らしい。(例の杉山センセの説明だと) 

352: 世界@名無史さん 2009/03/31(火) 20:39:14 0
なぜかチベットの西の方から一度モンゴル系の軍隊が侵入してきたという記録があるとか

353: 世界@名無史さん 2009/03/31(火) 22:00:35 0
カギュ派を支持していたイル=ハン国かな? 
1285年に、カギュ派の一つディクン派が主流のサキャ派に対して反乱を起こしている

354: 世界@名無史さん 2009/03/31(火) 22:40:14 0
>>353 
1280年代でイルハン朝支配下のの軍がチベットに侵攻したという話は少なくとも『集史』では出て来ないのでチベットの西部からとなると、アフガニスタン~カシュミール方面の駐留軍(カラウナス万戸隊のあたり)か中央アジアのチャガタイ家、ないしオゴデイ家の誰かじゃないだろうか。

381: 世界@名無史さん 2010/01/12(火) 22:23:48 0
外興安嶺以北には一度も攻めなかったのだろうか。 
明代には毛皮貢納民が往来していたようだけど。

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386: 世界@名無史さん 2010/02/14(日) 02:10:48 0
シベリア方面からロシアに攻め入るという経路は進行ルートになかったんですかね。 

毛皮の道の交易ルートを抑えて、強敵もいないし。やはり気象条件ですか。 
もしくは早い段階からシベリア勢力がモンゴルに服属していたんですかね。
引用元: ・モンゴル帝国に支配されなかった地域


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