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1: 世界@名無史さん 04/04/28 21:58
現在の中国人の姓に「姫」という文字は全く見当たらないようですが春秋戦国時代に大勢居たであろう周の国姓「姫」姓は、その後どうなったのですか?
秦漢以後、たえて見ないのはなぜですか?

虐殺されたのでなければ、憚って改姓でもしたのですか?
それも全員が?








3: 怨霊 ◆NRtIkON8C2 04/04/28 22:13
>>1
>秦漢以後、たえて見ないのはなぜですか?

いますよ。周子南君について調べてみて。

6: 世界@名無史さん 04/04/28 23:08
周さん魯さん鄭さん呉さん唐さん蔡さん燕さん衛さん
みんなもとは姫姓だろうな

10: 世界@名無史さん 04/04/29 10:26
姓と氏の問題だよな。上代の姓のほうを称さなくなっちまった。
『三国志』によく出てくる公孫氏も姫姓だったと聞いたことあるんだが。

12: あやめ 04/04/29 18:10
>>10
「公孫氏」は文字どおり公の孫を呼ぶものですから、いろんな出自の公孫某がいるわけです。
例の商鞅は衛の庶孫だったので衛国内にいた当時は公孫鞅と呼ばれていましたが、秦に仕えた時点で秦の人からは出身国を冠して衛鞅と呼ばれることになりました。
彼は秦の改革で成果を挙げたので封邑として商という土地を貰ったことから商鞅と呼ばれるようになったのです。
春秋時代の諸侯の宗族では公の子は「公子某」と名乗り、その子は「公孫某」と名乗り、その子の代には祖父の字(あざな)から取って氏とするのが普通でした。

14: 世界@名無史さん 04/04/29 20:05
NHKスペシャルで農民の「姫」さんが登場しているのを見た記憶があります。たしかオルドスあたりで、村人の多くが「姫」姓だったような。

42: あやめ 04/05/02 15:17
>>14でオルドスのある村で村民が全て姫という苗字だったという報告は関心を引かれます。代(山西省の最北部)の出身とされる姫澹の一族と関係があるかも。

15: 世界@名無史さん 04/04/29 20:29
元々周王室って殷の西の蛮族みたいなもんだったんだし遠い親戚とかなのかもね

16: 世界@名無史さん 04/04/29 21:13
>>15
当時の感覚から言って「中国人」だったかどうかは非常にあやしいですな。

17: あやめ 04/04/29 22:43
「史記」の「周本紀」と「武帝本紀」や「漢書」の「武帝紀」によると漢の武帝が泰山に封禅しようとした折に、河南で周の後裔を探索したところ、孽子(庶子)筋の嘉という人物を発見しました。この血筋は衛君の一族らしく周王の嫡孫ではないと思われます。
そして衛が魏の附庸同然となってからは魏に仕え子南侯に封ぜられ、嘉はその子孫と思われます。武帝は彼を子南君に封じ周の祭祀を奉じさせました。
彼の一族が周の「姓」の姫を氏として称するようになったのは、この元鼎四年から始まったことです。「漢書」の「外戚恩澤侯表」には元封四年には姫置が子南君を嗣ぎ、次いで昭帝の始元四年には姫當が嗣いだのですが、宣帝の地節三年には家丞を殺したことから棄市の刑に処せられました。元康元年には當の弟で嘉の孫となる姫延年が嗣ぎましたが、元帝の初元五年に周の承休侯に進封され位は諸侯王の次とされました。
承休は潁川郡に所在します。建昭三年には姫安が嗣ぎ成帝の陽朔二年に姫世が嗣ぎました。永始二年には姫當が嗣ぎ綏和元年には進爵して承休公となり、平帝の元始四年には鄭公に進みました。王莽の時代には章牟公に封ぜられました。
「漢書」の「王莽傳」には姫當を姫黨に章牟公を章平公に作っています。姫當は既に出ていますので姫黨が正しいのでしょう。天鳳元年には姫常が嗣ぎ後漢の建武二年には光武帝から元どおり周の承休侯に改封されます。
同五年には姫武が嗣ぎ同十三年には承休公に進爵します。これ以後の継襲は不明です。恐らく三國から五胡の乱くらいまでには絶えてしまったのでしょう。

19: 怨霊 ◆NRtIkON8C2 04/05/01 10:57
>>17
その後の事ですが、後漢書光武帝紀と続漢書百官志によれば、光武帝の建武13年2月に周承休公姫武が衛公に改められます。(続漢書では名は常、漢書外戚恩沢侯表によれば武)
その後、衛公は晋の武帝泰始7年(晋書武帝紀)にも名が見え、おそらくその間は継続していたと思われます。
しかし晋書成帝紀、成康2年10月に成帝は衛公・山陽公が戦乱で絶えた事を述べて後継を探せと詔しているので、あやめ氏の言うように西晋末の乱で一度は絶えたようです。

25: あやめ 04/05/01 21:19
怨霊さん有難うございました、「後漢書(+續漢書)」はこれから調べるつもりで、書庫から持ってきてはいたんですが一手間省けました。

さて「晉書」ですが「劉聰載記」と「石勒載記」に姫澹という人物が出てきます。
また彼は「魏書」の「穆帝序紀」や「穆帝長子六脩傳」や「衛操傳」にも見えます。
ところが「晉書」でも「劉琨傳」では箕澹に作っていて、「資治通鑑」もこちらを採用しています。しかし呉士鑑・劉承幹著の「晉書斠注」は敦煌石室本の「晉紀」も姫澹に作っていると指摘していて、強ち箕澹が正しいとも決めかねるようです。
そこで姫澹の経歴ですが上記諸文献を綜合すると、晉の征北將軍の衛瓘(蜀が魏に滅ぼされるところに出てきますね) の牙門將で代郡出身の衛操の同郷かつ同僚で、拓跋氏の宗室の郷親であったそうで、どうも漢の承休公の縁戚ではなさそうです。
彼は衛操と共に代に帰国し拓跋猗他に仕え、勇績を著わして信義將軍を授けられ樓煩侯に封ぜられました。

26: あやめ 04/05/01 21:20
永嘉六年に晉の平北将軍・并州牧の劉琨は漢の劉聰を討とうとして逆に本拠の晉陽を奪われてしまいます。劉琨は代公の猗盧に救援を要請し猗盧は子の六修と兄の子の普根に將軍の衛雄・范班・姫澹を先鋒とし、自らも二十萬の衆を率いて晉陽に向かい漢の中山王の劉曜を汾東と藍谷に破り、劉琨のために晉陽を奪還したうえ馬牛羊を各千餘匹に車百乘を遣り、姫澹と段繁を留めて晉陽を戍もらせ帰国しました。
その数年後に代では六修が猗盧を弑し普根に誅される内乱が起こり、不安を感じた姫澹は劉琨の子で代に人質となっていた劉遵を始めとし、晉人・烏丸三萬家と馬牛羊十萬頭を率いて劉琨の下に投じました。琨は大いに喜び親しく平城に赴いてこれを撫納しました。
建興四年に石勒から攻められた楽平を新附の晉人を率いて救援しようとした劉琨を、姫澹は「この連中は長らく異域に暮らし明公の徳にまだ懐いていません、もう少し時機を待ちましょう」と諫めましたが、琨は聴き入れず澹を先鋒として歩騎二萬を率いて向かわせます。石勒は疑兵を山上に設け軽騎を出して迎撃し偽り敗走して伏中に誘い込み、前後から姫澹を挟撃して大いにこれを破りました。
劉琨は為す術なく幽州に走り段匹テイ(石偏に單)に頼ります。姫澹は石勒の将の孔萇に追われ桑乾で戦死しました。

20: 世界@名無史さん 04/05/01 16:07
夏王朝や殷王朝の姓はなんですか?

22: 世界@名無史さん 04/05/01 16:35
>>20
殷は「子」氏。殷滅亡後も周朝のもとで宋として生き残り、その間「覇者」にもなった。
夏朝の諸侯として勃興し、夏朝滅亡後自らが天子となり、天子の座を追われた後は再び諸侯として生き残り、子氏は1,000年以上繁栄したのか。

23: 世界@名無史さん 04/05/01 16:52
殷の「子」は、「氏」なの「姓」なの?

24: 世界@名無史さん 04/05/01 18:03
>>23
姓だと思う。

27: あやめ 04/05/01 21:26
>>23
子は「姓」です。序に言うと夏の「姓」は姒です。

32: 世界@名無史さん 04/05/01 23:25
斉の場合は、「姜」が姓で、「呂」が氏ですか?

33: あやめ 04/05/02 00:08
そのとおりです。但し実際に使用するシーンはなかったようです。
前すれにも書きましたが國君に対し天子が呼びかける場合は國名を名に冠したもののようです。
また齊の家臣が神様にお祈りする文句の中で主君の靈公を「齊環」と呼んでいる例もあります。しかし呂某などと名乗った事例は見当たりません。田齊や三晉の君主も自分の氏は当然
承知していたと思われますが、田某とか魏某とか呼称していたとする記録は残っていません。
唯一の例外が楚で「史記」の「楚世家」を見れば判るように、熊麗を始め歴代の君主が「熊某」と名乗っていたように記載されています。
金文でも酓章とか酓カン(干の下に心)とか書いています。酓は飲と同じ字ですが恐らく熊と通仮して同音であったと考えられます。なぜ楚だけがこのような風習だったのか不明です。

34: 世界@名無史さん 04/05/02 06:06
近現代はともかくとして、時代的には「姜子牙」よりも「呂尚」の方が正しい使い方なのでしょうか?>あやめ先生

40: あやめ 04/05/02 14:23
>>34
太公望の名というのも結構やっかいな部分があります。
「史記」の「齊太公世家」に「索隱」に引かれた譙周の説では「姓は姜、名は牙、炎帝の裔にして伯夷の後なり、四岳を掌りて功あり、之を呂に封ず、子孫は其の封に從て姓とす、尚は其の後なり」とありますが、「集解」は「文王は之を渭の濱に得て『吾が先君の太公は子を望むこと久しかりし矣』と云へり、故に太公望と號す、蓋し牙は是れ字にして尚は是れ其の名なり、後に武王は號して師尚父と爲せりし也 」とあって、一応は望は号で尚が名で牙が字と理解できますが、普通は太公のような称号の次には名を付けるものだし、師尚父の尚は「尊敬すべき」という形容詞で固有名詞というよりは尊称とも取れます。
また尚父の父は一般に字(あざな)の下に付けるものですので尚は字ではないかとも解釈できます。
概して春秋より前の人の名を呼称の性格によって切り分けるのには往々にして困難が伴う
場合があります。

35: 世界@名無史さん 04/05/02 07:49
田斉の姓って何?

39: あやめ 04/05/02 12:30
>>35
田齊の「姓」は嬀です。「史記」の「陳杞世家」と「田敬仲完世家」に依ると、舜が堯の二女を娶って嬀汭というところに居たので嬀を「姓」と定めたということです。
周の武王が舜の後裔を探し出して陳に封じたのが陳國の初代で、その子孫の厲公の子の完は陳の内紛で身の危険を感じて齊に逃亡したところ、重臣に取り立てられ以後も代々齊の政権中枢に在り遂には齊を乗っ取ってしまったのです。陳完は齊に仕えるようになってから田氏を称するようになりました。陳と田の音が近いからとか田という所に采邑を貰ったからとか説明されてますが、どっちが正しいかは不明です。

36: 世界@名無史さん 04/05/02 07:51
漢以降の王朝には姓はないの?

41: あやめ 04/05/02 15:01
>>36
戦国時代の紛乱で普通以下の家柄の人は正確な「姓」の伝承を失ってしまい、また婚姻制度を支える家族集団の形態も頗る変化を来たしてしまいました。
諸侯や大夫などで春秋以前からの筋目を維持している家系以外は「姓」を意識することは極めて稀だったでしょう。
漢の高祖は堯の後裔だと称していますので「姓」は祁です。そして晉の士會の後裔とする系図がでっちあげられたようです。
当時の人の意識にあった劉氏は恐らく周の王家に仕えた重臣の家系であって、「姓」は姫でした。
これ以後の王朝の始祖もきちんとした先祖からの伝承などなかったので、「姓」は自家の家系に箔を付ける以上の意味はなくなってしまったのです。しかしどんな時代にもルーツ探しの要望は絶えず偉い人との結び付きへの希求も尽きないもので、後世の姓氏関係の書物には大抵「某氏は古代の聖帝誰それの子孫」と書いてあって、「そうか、おいらは黄帝の子孫だったんだー!」と判るようになってます。

49: 世界@名無史さん 04/05/03 00:28
>>41
春秋時代から婚姻規制は崩れていたけどね。特に晋の公室は酷い。

43: 世界@名無史さん 04/05/02 16:04
始皇帝の秦には、「氏」はないの?

44: あやめ 04/05/02 16:43
趙氏ということは「史記」の「秦始皇本紀」に明記されています。

45: あやめ 04/05/02 16:45
たしか「淮南子」にも「趙政」とあったように記憶します。

46: あやめ 04/05/02 16:58
「淮南子」に「人間訓」に「秦王趙政は天下を兼呑して而かも亡ぶ」
「泰族訓」には「趙政は晝は獄を決して夜は書を理む」とあります。
漢初には始皇帝が趙という苗字だったことは常識だったみたいです。

21: 世界@名無史さん 04/05/01 16:24
檀君朝鮮(단군조선) BC2333-BC1122 桓姓(환성)解氏(해씨)
箕子朝鮮(기자조선) BC1122-BC194 子姓(자성)箕氏(기씨)
衞滿朝鮮(위만조선) BC194-BC108 姫姓(희성)衞氏(위씨)
樂浪郡(악랑군) BC108-313
新羅(신라) BC57-935 朴氏(박씨)→昔氏(석씨)→金氏(김씨)
高句麗(고구려)→高麗(고려) BC37-668 高氏(고씨)
百濟(백제) BC18-662 扶餘氏(부여씨)
渤海(발해) 698-926 大氏(대씨)
後百濟(후백제) 892-935 甄氏(견씨)
後高句麗(후고구려)→摩震(마진)→泰封(태봉) 894-918 金氏(김씨)
高麗(고려) 918-1392 王氏(왕씨)
朝鮮(조선) 1392-1897 李氏(이씨)
大韓帝國(대한제국) 1897-1910 李氏(이씨)

52: 世界@名無史さん 04/05/03 19:53
>>21
>檀君朝鮮(단군조선) BC2333-BC1122 桓姓(환성)解氏(해씨)
>箕子朝鮮(기자조선) BC1122-BC194 子姓(자성)箕氏(기씨)
>衞滿朝鮮(위만조선) BC194-BC108 姫姓(희성)衞氏(위씨)

この辺の姓って本当なの?
なんか中国の殷周なんかと同じみたいだけど。

53: 世界@名無史さん 04/05/03 20:39
衛満は中国人だから本当でしょうが…

56: 世界@名無史さん 04/05/04 00:00
>>53
でもなんで姫姓なの?

57: あやめ 04/05/04 00:11
衞滿は苗字から考えて衞國の公族の後裔であろう、そして衞國の先祖は周の武王の同母少弟だから当然に「姓」は姫であろう、という推定からでしょう。

60: 世界@名無史さん 04/05/04 20:32
じゃあ仮に実在したとして、箕子が子姓なのは根拠あるの?

61: あやめ 04/05/04 21:11
箕子が殷の紂王の親戚で周の武王によって朝鮮に封ぜられたことは「史記」の「宋微子世家」に出ています。殷の王族だから「姓」は子なんです。

62: 世界@名無史さん 04/05/04 21:19
殷の姓が「子」だというのは古伝に「子○」という人物が多いことから出た憶測説。
実はこの「子」は王族であることを表わす称号。

・・・という説があったと思うが、如何?

63: あやめ 04/05/04 23:21
殷の「姓」が子というのは従来の古典解釈による説です。近来の甲骨文研究の成果から殷の貴族は王子の子孫たちから構成される「多子」族が中核をなし、彼等は「子某」と称されていたことから、殷は子姓と認識されるようになったと思われます。

66: 世界@名無史さん 04/05/05 14:11
「王」姓の人間は、どっかの王族末裔ということですか?

68: あやめ 04/05/05 23:19
王氏はいろんな系統があってある本には数十の源緒があるとか書いてありました。
家柄がやかましかった六朝の時代に陽夏の謝氏と並んで第一級の名家と称された瑯琊の王氏は、周の靈王の子の子晉が父から廃されて庶人となり山東に移住した後に、土地の人民から周王の家族であるということから王家と尊崇されたので、王を氏としたということです。周王の血統ですから「姓」は姫というわけです。

夏・殷・周・秦・漢と先祖調べをしてきましたので漢を奪った新の王氏についても述べておきましょう。
「漢書」の「元后傳」と「王莽傳」によると王莽は黄帝の後裔と称していたようです。
黄帝の「姓」は姚で八世の子孫が舜ということです。
舜の「姓」が嬀であることは前のレスに既に書きました。
そしてその後裔が周で陳公となり更に田齊の王となった経緯は>>39を参照してください。田齊は王建の代に秦に滅ぼされてしまいました。
建の孫の安は項羽から濟北王に封ぜられ漢の世になって国を失ったのですが、齊の人たちから「王家」と呼ばれたので王氏を称することにしました。
安の孫の遂の子の賀は魏郡の元城に移住します。
賀の子の禁は法律を学んで廷尉の史つまり裁判所書記官となりました。宣帝の本始三年に禁は政君という娘を儲けました。彼女こそ元帝の皇后となり元城の王氏一門に栄華を齎した元后その人です。王莽はこの元后の弟の曼の子というわけなのです。

69: あやめ 04/05/05 23:54
王莽は即位すると姚・嬀・陳・田・王の五氏は同族であるから宗室であるとし、自分の出自の元城の王氏とは相互に嫁つぎも娶とりもしてはならないと命じました。
但し王氏であっても元城を本貫としない者は除外されます。また陳崇という人物を封じ統睦侯として春秋の陳國を継がせ、田豐を世睦侯に封じ田齊を継がせています。

72: 世界@名無史さん 04/05/06 00:36
貴族制は唐滅亡⇒宋の頃、ほぼ消滅して中国は完全科挙社会に?
よって、その頃「姓」は完全消滅?

73: あやめ 04/05/06 09:50
「姓」は漢代で完全消滅といってよいでしょう。「氏」と混同して溶解して終ったのです。
「氏」に寄生して保存されたと言うべきかもしれません。

74: 世界@名無史さん 04/05/06 14:52
日本と中国の、古代における「姓」「氏」の異同はいかなるものでしょうか?

中国の「姓」は氏族もしくは部族の名称。
「氏」はそのサブグループ(領地、官職名などを自称)。?

日本の「姓」は朝廷から地位を認められた豪族に与えられた称号。
「氏」は氏族の名称。
「苗字」は、「氏」のサブグループ(領地、官職名などを自称)。?

ということでしょうか?

77: あやめ 04/05/06 17:34
>>74
大雑把に言えばそんなとこですが、歴史的な形成過程から説かないと誤解を生ずる惧れもありますので、もう少しあとに纏めて書きます。

75: 世界@名無史さん 04/05/06 14:55
高貴な女性のことを「姫」という漢字で表すのは、もともと周王室の公主を指していてためですか?
「周囲」「周辺」という言葉は、周が天下であったためですか?

77: あやめ 04/05/06 17:34
>>75
前段はそう解してよいでしょう。
後段は逆でしょう。たしか宮崎さんの書かれたものに周の国号について論じたものがあったと記憶します。見つかったら報告します。

76: 世界@名無史さん 04/05/06 15:53
耶律という姓の中国人は残っていないの?

77: あやめ 04/05/06 17:34
>>76
いるかもしれませんよ。「趙銭孫李」(上海古籍出版社刊)という漢民族の姓氏文化について書いた本の著者は何と完顔紹元という金王室の後裔かと思われる名の人でした。もちろん現代人です。

78: 世界@名無史さん 04/05/06 17:39
二文字姓は必ず非漢民族末裔

81: あやめ 04/05/06 18:27
>>78
とも限りません。古代には複姓が多く見られます。

196: 世界@名無史さん 04/05/26 11:46
>>78
諸葛や司馬は非漢ミンジョクか?

200: 世界@名無史さん 04/05/27 01:03
>>196
司馬は役職名から姓になった例ですね。

諸葛孔明の諸葛氏は、昔は葛氏だったのですが先祖がある土地に移住したとき、その土地に前からいた葛氏と区別するため諸葛氏に改めたのだったかな。
もともと諸県出身だったので諸葛にしたという話だったと思います。

79: 世界@名無史さん 04/05/06 17:48
安は全員、安息国=パルティアから来た人間の末裔。
馬はマホメットで、全員、渡来したイスラム教徒の末裔。

81: あやめ 04/05/06 18:27
>>79
全員ということはないでしょう。

82: 怨霊 ◆NRtIkON8C2 04/05/06 19:02
前漢に既に馬姓はいますよ。
学生時代に留学生に「淳于」姓の人がいたのを見て少しうれしかった。

84: 世界@名無史さん 04/05/06 19:15
古代中国では、
「士」(=古代都市国家ギリシャ・ローマでいう「市民」に当たる)
でない一般民衆には姓が無かったのですか?

89: あやめ 04/05/06 23:38
>>84
大分昔になりますが「古代の庶民には氏がなかった」「いや有った」という論争がなされたように記憶します。詳細忘却。
南宋の鄭樵が著した「氏族略」に「(夏商周)三代以前には……氏は貴賎を別つ所以なり、貴き者は氏有り、賎しき者は名有りて氏無し」と説明しています。
戦国時代くらいには庶民でも皆な氏を称していたのではないかと考えますが、奴隷は無かったかもしれません。

86: 世界@名無史さん 04/05/06 21:41
そういえば、項羽の項氏って残ってるのかな?
楚だけの珍しい氏なのか?

169: 世界@名無史さん 04/05/18 20:30
>>86 
司馬遼太郎の「街道をいく ミンの道」に当時の福建省省長との会見がでてくるが、項なんとかっていったと思う

87: あやめ 04/05/06 23:22
ちょっと思い浮かんだのは墨林居士と号して書画に巧みだった明の項元忭(たしかこういう字の名だったと記憶)くらいですね。でもたぶん今もいると思いますよ。

91: 世界@名無史さん 04/05/07 14:12
周王室は最後どうなったのですか?
象徴天皇みたいになっていって、最後に廃されたのですか?

92: 世界@名無史さん 04/05/07 23:12
>>91
秦に滅ぼされたんですが。
天皇というより、足利氏みたいな感じかな?

93: 世界@名無史さん 04/05/08 01:04
>>91
戦国時代の紀元前370年頃、後継者争いに三晋が介入したために東西に分裂、(王号は西周のみが保持していたと思う)
その後もなんだかんだと土地を削られ続け、35代顕王のころまでは一応の権威はあったが諸国が王号を名乗るようになるとそれも失われ、周囲の国のご機嫌を伺って細々と生き延びるようになる。
で、37代タン王の時、秦にケンカを売って大敗、王は無条件降伏して土地と人民を全て秦王(昭襄王)に献上する。(人民の多くは東周に逃げたとも言われる)
この時点で王朝としての周は滅亡したと言われる。

いわば亡命政権、あるいは残党とも言える東周はわずかその数年後に秦に滅ぼされる。
ここに周は完全に滅亡。(このときは荘襄王、呂不韋コンビの時代)
公族は皆殺しにはされなかったようだが、秦末の混乱期に周が再建されなかったところをみると、もはや国としての力も命脈も完全に失ったようだ。

98: 世界@名無史さん 04/05/08 07:24
>ここに周は完全に滅亡。(このときは荘襄王、呂不韋コンビの時代)

始皇帝の親父(どちらが親父かはさておき)も結構武断的なんだな。
荘襄王は治世が短くあんまり治績が目立たないけど。

100: よろずこ 04/05/08 08:52
>>98
>始皇帝の親父(どちらが親父かはさておき)
いい表現だな。

116: 世界@名無史さん 04/05/10 23:07
女ヘンの姫が姓と言うとことは、古代中国では女系相続だった?

118: 世界@名無史さん 04/05/11 00:09
>>116
商の始祖の契(だったっけ?)や周の始祖の棄(后稷)の誕生は感精神話だから、その可能性が高いと思われます。

119: 世界@名無史さん 04/05/11 01:59
ある音に「女」をつけて姓を表すことが多いだけでしょ。
嬀、娰、姞、嬴、姜などは姓号にしか使われない字。

女偏だけで女系相続と断定するのは無理だと思うけど。

姫姓は、周の始祖・后稷の名「棄」の音を取って姓号とし、同音の「姫」で表した、とか、稷(きび)を意味する「臣(い)」(実際の字形はちょっと違う)に女偏をくっつけて姓号とした、という説があるがよくわかっていない。

121: 世界@名無史さん 04/05/11 02:12
さらに先祖にされてる黄帝が姫水(どこかわからない)で育ったから「姫姓」を名乗った、というのは戦国時代にできた話。

『大戴禮』の系図上では、
黄帝-少昊-虫喬極-帝嚳-帝摯・帝堯・契・后稷

123: 世界@名無史さん 04/05/12 07:31
中国の姓は、もともと出身地の地域集団・血縁集団だったの?
古代中国の都市国家の城内には、1ないし数個の支配氏族が居て、それが「姓」だったのですか?

124: 世界@名無史さん 04/05/12 14:37
現在も一つの姓だけで構成されてる村は珍しくないですよ。
太古からの伝統的な習慣ですね。妻を娶るときは族外婚になる訳だし。

地域集団=血縁集団が姓になります>古代中国
村の規模が大きくなって、他の地域の部族と連合しながら発展して次第に邑ができます。後世周囲を城壁で囲むようになったのが国。
だから、邑や国は少数の豪族で寡占支配するパターンが多い。日本の場合は地域集団が血縁集団に必ずしも繋がらない。

125: 世界@名無史さん 04/05/14 05:59
疑問

昔は漢字書ける人が少なかったのに、どーして漢字の姓名をつけることができたんでしゅか?

同じ発音だったら、別の漢字の姓名で書き表してしまうこともできたんではないですか?

127: 世界@名無史さん 04/05/14 17:44
>>125
だから秦と趙みたいなのがあると思うんだが

129: 世界@名無史さん 04/05/14 22:27
>>127
でも、小声で言われたらよく判らなかったりでやはり大層不便だったはずです。往時の人にとっても。

そういえば、魯迅は中国の後進性の原因を漢字にあるとし毛沢東は漢字よりもローマ字を中国の常用字にしようとしたそうですけど実現しなかったとのことです。

132: 世界@名無史さん 04/05/14 22:59
>秦と趙みたいなのがあると思うんだが

↑すいません。これってどういう意味ですか?

147: 世界@名無史さん 04/05/16 05:55
>>132
秦と趙は今では発音もちがう別の文字だけど古くは発音が同じだった(先秦上古音)ってことだろ
ちなみに秦氏と趙氏はともに「贏」姓だけど、秦・趙・贏の3文字はすべて古くは発音が同じか少なくとも似ていた可能性が高い。

引用元: ・周王室・姫姓のその後・・・

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