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1: 世界@名無史さん 2009/07/12(日) 19:53:29 0
有意義に語りやしょう








292: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 01:41:20 0
色々検討した結果、劉備は中山靖王劉勝の子孫ではないと思うようになった
劉備を持ち上げるために蜀の公式見解として劉勝の子孫設定したんではなかろうか

293: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 01:54:07 0
蜀漢とは別のルートで劉備の出自を知っていた魏(幽州を支配しているので)で書かれた魏書を参照し注を加えた裴松之の史家としての良心を信じる限り、魏もまた劉備を中山王の末裔と認めていたことになる。

魏書は現在でこそ散逸しているが、唐代まで残存しており、裴松之注三国志と引き比べて無数の史家の批判に晒されたものであるので、二書の矛盾を裴松之が無視したのならばどこかの段階で誰かが指摘した記録が残るのが自然。
それが無い限り、少なくとも文献考証上は「劉備は中山靖王劉勝の子孫である」として良い。

294: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 02:46:26 0
>>293
魏は認めとらんぞ?
典略では臨邑侯と言ってるし

295: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 09:38:48 0
>>294
あれが魏の公式見解かどうかはわからんぞ。
典略はあくまでも魚豢の私的な著なわけだし。
直接人づてに聞いた情報を全部乗っけてたせいで、かなり雑多であったという評価もある書なわけで。

まあ、どっちにせよ漢の末流という評価は変わらんけどな。
前漢末で10万人になったらしいからな、宗室。
戦国期の希少さを鑑みるに、劉なんていう姓な時点で99.99%漢の宗室の子孫だろうが。
臨邑侯ならむしろ漢の嫡流により近いし。

296: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 12:42:58 0
>>295
蜀の正式発表である中山靖王劉勝の子孫というのが後付け設定であるってのは君も一理あると思ってくれるわけだ?

297: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 13:27:23 0
>>296
というか、俺は血筋に関しては不可知だと思ってる。
公式見解については不明であるということと、典略自体成立時期の確定されていない本で、その本の記述をもとに後付けかどうか判別することは難しいだろう。

後半は劉姓が事実なら漢室の流れの可能性が極めて高いというだけの話。
というか別の結論持ってる人間が紛れ込んだからややこしくなったんだな。
それはすまんかった。

298: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 14:27:25 0
>>297
漢氏であるかないかは割りとどうでもいいことなのさ

問題なのは「何故劉備が中山靖王の子孫を名乗ったか」ってところなもんで箔が全くない、子沢山王の子孫なんて名乗る価値がどこにあったんだろう、というのが重要な話だと思うんだ

304: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 18:53:58 0
>>295
>あれが魏の公式見解かどうかはわからんぞ。
>典略はあくまでも魚豢の私的な著なわけだし。


ああ、確かにそれはそうだね。
ただ、魏略(の間違いだった)を読んだ裴松之が
本伝「元狩六年封タク縣陸城亭侯.坐酎金失侯,因家焉.」
の後に注して
「典略曰:備本臨邑侯枝屬也.」
と続けたからには、両者を肯定して読めば、
「劉貞の子孫は陸城亭侯を失ったのち何代かして功績を挙げ、臨邑侯に封じられた。劉備の系譜は本はその臨邑侯の(次子以下だったなどしての)分かれである」
ということになる。

タク郡にはそれなりの規模の(何しろ県令を輩出した)劉氏一族が残存していたと考えられるのだから、劉備が嘘を付けば即座にその一族や周辺が否定する。
魏略他、魏系列の各種史書に、絶好の反蜀材料になるそのリアクションが記載されていない──正確には、各史書を読んだ史家がそのような記述の存在を匂わせていないというのは、文献考証上は「劉備は中山靖王劉勝の子孫である」として良い、有力な根拠になる。

残された「リアクション」がたまたま全て散逸した可能性も無いではないけどね。

305: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 19:54:04 0
>>304
いや後漢で名前残ってる臨邑侯って3人くらいしかおらん上に、劉勝の子孫だと言う人はいなかったような
もし功績があってそういう褒美があればちゃんと記録残るだろ

306: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 20:35:29 0
>>305
そりゃそうさ
後漢書みたいな大きな史書では全官爵の封廃を網羅表記なんて出来はしないから
紀伝体はそういう性質の史書の形式ではない。
臨邑侯では部分的に歴史の動きに関わった三人だけが名を残したにすぎない。
真定王楊の弟で謀反してそこで断絶と判っている劉讓は一代限りで確定だろうけど、劉伯升の孫の劉複の子孫がどこまで続いたか、劉トウジョという校書郎がその直系なのか、等何もわからないんだ(どこかに明記があったら御免だけど)。
孔子などの子孫が度々封じ直されているように、この時代の爵位は頻繁に断絶するし、特例を除いて殆どそれは史書に残らない。
劉備が陸城亭侯の裔かつ臨邑侯の分れでも別に不思議では無いだろう。

309: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 21:14:44 0
>>306
劉複の子孫は直系だろうと傍系だろうとそいつらが陸城侯の子孫になる可能性は0だから考慮しなくていいだろうけどな

311: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 22:07:54 0
>>309
そうなのかな?
一度封爵された侯は、何度断絶しても、復興の際は元の血筋の人間が探し出されて封じられる、
と、いうのが漢の慣習として成立していたのなら、「陸城亭侯の末裔が臨邑侯になることは有り得ない」ことになるけど。

そういうのは孔子とか蕭何のような特例なんじゃないだろうか。
まったく違う血筋の人間がたまたま空いている侯家に封じられるということはあるはずじゃないかな。
末期のことだから常例にはし難いが、すぐ思いつく例として王允の空きポストに呂布が温侯に封じられているわけで。

312: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 22:13:58 0
>>306
一応臨邑侯の劉トウジョは北海靖王劉興の子復のさらに子として顔を出しているので直系かどうかはおいといて爵位を継いだというのはまあ、あまり無理はない話しだな
永寧年間に色々やってたようだし120年頃も後漢の臨邑侯ってのは断絶してなかったようだよ

やはり陸城亭侯の末裔が臨邑侯になるってのは無理がある

313: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 22:34:35 0
>>312
確かに明記があった。御免w
でも復が封じられたのは建武30年(西暦54年)、その子が永寧年間(120-121)に活躍するというのはちょっとおかしくない?
生まれて間もなく封じられて晩年の子ならありえるだろうけど…。
まあしかし、少なくとも復の子孫ではあろうから、トウジョの活躍期間と劉備の祖父の活躍期間は被るわけで、劉雄が臨邑侯のごく近い係累ならば流石に蜀志に残らないのはおかしい。
うん。この論は無理があったようだ。御免。

314: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 22:37:50 0
>>313
支族と言われるだけあって結構近いんじゃないかな
ただ、劉備って故地を抑えてた魏と敵対関係だったわけで劉勝の子孫で臨邑侯の一族ではないっていう公式見解は身内に対する決別とともに累を及ぼさないようにする最低限の配慮だったのではなかろうかね

317: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 22:46:16 0
>>314
そういう配慮って当時必要だったのだろうか。
蜀や呉の臣は平気で魏の人間と文通してるし。
夷三族の範疇は逃がさなきゃ、くらいの配慮はあっただろうけど、宗族に累が及ぶということはあったのかどうか。
劉備は皇帝まで名乗ったのだから、他の人間とは扱いが違うというのはありえる話だけど…

315: 世界@名無史さん 2009/08/20(木) 22:39:04 0
光武帝は中山靖王の弟、長沙王の子孫

つまり、劉備は中山靖王の子孫だから血縁では長沙王の子孫と同格以上、ということになる
そういう意味では、劉氏の中でもあえて光武帝より前に遡る家系を選んで名乗った可能性はある

328: 世界@名無史さん 2009/08/25(火) 00:05:41 0
この時代、豪族と庶民の間に明確な壁は無い。財産を失えばあっさり没落する。
劉姓で侯王の子孫となれば豪族として生き残る確率が高くなっただろう。

別に劉姓が数人に一人というほど大増殖したわけではないだろうが、漢以前の劉氏が稀な姓だったことを考えれば、後漢末に劉氏を名乗る官吏や豪族のあらかたは、元をたどれば侯や王に封じられて全国に散らばった劉邦の裔である率が高いとみるのが自然だろう。

勿論、系譜を伝えるどこかの時点で詐称するようなことは大いに有り得る。
逆に、劉備の代でわざわざ詐称するような希少価値のある肩書きでは、もはや無かったと言えるだろう。

329: 世界@名無史さん 2009/08/25(火) 00:08:20 0
ただし、中央政府の宗正府に皇族の戸籍があるから、適当に劉氏を名乗ったところで特権を得られたかというとそういうわけでもない

334: 世界@名無史さん 2009/08/25(火) 14:22:42 0
劉備の父は県令だったから、いちおう公認の宗親。

337: 世界@名無史さん 2009/08/25(火) 20:04:45 0
>>334
宗室でなくても、県令にはなれるんだが。
あと、県令だったのは劉備の父ではなくて祖父な。

353: 世界@名無史さん 2009/08/26(水) 21:41:56 0
県令とか田舎役人だろ
今の日本でも市役所行けば同じ名字のヤツが多いのと同じぐらいの地位

354: 世界@名無史さん 2009/08/26(水) 21:53:01 0
「令」という職は、秩石1000-600。階級では公・卿・大夫・士・庶の三番目大夫に当たり、県令他、尚書令、武庫令、大楽令のような九卿内局の長や丞(次官)、刺史に相当する地位。
断代史書に名が残るほどではないが、かなりの高官だよ。
勅任市長、省庁事務次官、局長クラスといえば判りやすいか。

355: 世界@名無史さん 2009/08/26(水) 22:01:43 0
>>353
勅任官だよ
>>354も言ってるが単なる田舎役人ではない
それは「県長」

358: 世界@名無史さん 2009/08/26(水) 22:39:26 0
>>355
いや県長も奏任官であって、後漢では本籍地忌避の原則が強固に守られており、決して田舎役人ではないが…
県令は1000-600石の大夫、県長は300-400石の士、とはっきり階級が別れているのは面白いけどね。

360: 世界@名無史さん 2009/08/27(木) 03:44:07 0
県長になった時点で本籍・族譜が提出されていたであろうから、宗親の劉姓と記録されていたのであろう。賄賂でニセ系図を公認してもらった可能性もあると思うが。

362: 世界@名無史さん 2009/08/27(木) 15:08:07 0
>>360
任官したら族譜を提出するという慣習はこの時代には無い。
族譜のようにいくらでも捏造できるもんなんか信用できないし。
だから、自称曹参の子孫の曹操、自称張良の子孫の張超や張皓が高官に就くことができた。

318: 世界@名無史さん 2009/08/22(土) 11:06:23 0
蜀の官位の序列はどうなっているのですか?
特に、将軍位は魏の官制に当てはめると昇進だか降格だかわかりません。

あれって、どう解釈すればよいのですか?

324: 世界@名無史さん 2009/08/22(土) 22:42:30 0
>>318
ぶっちゃけ、何も判らない。

漢では、一般の諸将軍・列将軍は皆二千石だったらしい、ということだけ。
逆に言えば普通の将軍位での移動は席次の上昇というだけで、階級の上昇ではないのだろう、と推測は付く。
あとは上奏文の順序や昇進順位で想像するだけ。
一応、

・大将軍
・驃騎、車騎、衛将軍
・諸大将軍(中でも輔漢や四鎮は高いっぽい)
・四方将軍
・諸将軍(中でも四鎮は高いっぽい)

とは言えるだろう。

347: 世界@名無史さん 2009/08/26(水) 10:47:46 0
>>324

姜維の昇進例をみると、
奉義将軍→征南将軍→輔漢将軍→鎮西大将軍→衛将軍→大将軍
どうも蜀では四征将軍より輔漢将軍の方が偉いらしい。

宗預の例も見ると、
後将軍→征西大将軍→鎮軍大将軍。
どうやら、四方将軍より四征大将軍の方が偉く、更に鎮軍大将軍は偉いらしい。どうも四征よりも鎮軍の方が上ということか?

趙雲の例だと、
征南将軍→鎮東将軍→鎮軍将軍(降格)。
四鎮将軍は鎮軍より上、四征将軍は四鎮より下とわかる。
黄忠は征西将軍→後将軍。
もっとも、黄忠が征西将軍になったのは、まだ劉備が漢の左将軍の時。
劉備以上の官位な訳がないから、四方将軍は確実に四征将軍より上だね。
輔匡なんかは、四鎮将軍から四方将軍になっているので、四方将軍は四鎮将軍よりも上。北伐直前で、蜀の№2の李厳が前将軍だったので、趙雲等の官位が李厳より上の訳がない。

雑号<四征<鎮軍<四鎮<四方<四征大<鎮軍大<四鎮大<衛・車騎・票騎<大
こんな序列なのだろうか?

輔国や輔漢がどこに位置するかはよくわからん。

366: 世界@名無史さん 2009/08/29(土) 19:08:42 0
>>347
昇進例だけど、一概に昇進ばかりでもなくて
横滑りもあるんじゃないか?

黄忠の例は、夏侯淵とも関係あると思う
朝廷(曹操)から授かった印綬をそのまま黄忠に与えたとも思われる。
となると、この事例はそのまま蜀の官制には当てはめてしまって良いのかどうか。
あと劉備は劉璋の推薦で行大司馬にもなってたと思う。

368: 世界@名無史さん 2009/08/29(土) 22:42:35 0
>>366
行大司馬だけど、これは官位序列は左将軍のままで大司馬の事を兼領する、という意味だろうからその下に居る将軍は皆雑号格でいいだろう

367: 世界@名無史さん 2009/08/29(土) 22:39:40 0
後漢官と漢中王の官と蜀漢の官は分けないとな
黄忠の征西将軍は由緒正しい漢官だが、後将軍は漢中王劉備に私属する官。
序列では上がったかどうか怪しい。

まあ、蜀漢でも後漢を継いで、四方>四鎮征雑号 なのは前将軍李厳と周囲を比べれば確定的だと思うけど。

369: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2009/08/30(日) 11:38:17 0
>>367
古参とはいえ、趙雲・魏延を№2の李厳より官位を上にするわけにはいかんよな。
法正・劉巴が逝去すると、諸葛亮と№2の李厳とは結構格差があるよ。李厳の官位が上がらないと、武人である趙雲・魏延の官位は上がらない。

趙雲が劉備崩御までは雑号に留まっていたのが、中護軍・征南将軍、鎮東将軍と魏延と同等まで官位を進めている。魏延は劉備即位時の鎮北将軍のまま10年くらいは官位据え置き。同じ古参の将軍でも、劉備と諸葛亮では扱いが違うみたいだな。

371: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2009/08/30(日) 12:30:17 0
王平みたく異例の大出世する人もいるな。
名士と摩擦を起こさない趙雲・王平とかは出生するようになり、魏延みたく、名士の楊義と喧嘩が絶えない人は抑圧気味となる。
それでも、公平な諸葛亮は魏延を厚遇はしている。だが、ほとんど単独で指揮を執らせることはないけどね。

374: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2009/08/30(日) 16:48:42 0
楊儀が名士って・・・
文官は皆名士か?

375: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2009/08/30(日) 17:24:03 O
>>374
半分同意。
ただ楊儀は兄の楊慮や一族の楊ギョウの例もある。
それでも本人は狷介偏狭で仲間がいなかったんだから名士論で片付けるのには違和感があるな。

376: 世界@名無史さん 2009/08/30(日) 21:40:15 0
楊儀は偏狭狷介な性格だったけど、仲間がいないという訳でもなかったと思うよ。
諸葛亮の後継者にはなれなかったというだけ。

五丈原から撤退では、諸葛亮は楊儀に撤退の支持を出しているし、魏延との抗争でも、蒋苑や薫允は楊儀を支持している。
楊儀は低レベルの名士という位置じゃない?

379: 世界@名無史さん 2009/08/31(月) 01:00:38 0
名士と官吏の存在は完全に並立するよ
名士かつ官吏もいるし、官吏だが名士ではない人間もいる。官吏ではない名士も当然いる。
武帝などは皇帝集権のために法を峻厳に行使し大臣・豪族の力を殺ぐ官吏を重んじ、彼らは酷吏の範疇に含まれた。
このような法家の徒の大半は、自己の独立的名声に拠って立つ名士の定義と相反する。

380: 世界@名無史さん 2009/08/31(月) 06:33:26 0
楊儀は一応は学問は積んでいたのでは?
晩節を全うしなかったので、名声はなかったかもしれないけど・・・・
李厳なんかも、在職中から性格的に問題あったけど、一応名士なんだし、法正なんかも、名士というには性格的に問題ありでしょう。
名士の定義なんて、後の研究者がつけたもの。
当時はもっと漠然としたものだったのでは?
だいたい名声なんかも、根拠不明なところもあるし。

381: 世界@名無史さん 2009/08/31(月) 09:43:15 0
そもそも何がどうなったら名士なの?
そこんとこはっきりさせないとな。
郷挙里選の時代、一般に評判の高い人物が選挙された訳だし、そいつらは皆名士か?

383: 世界@名無史さん 2009/08/31(月) 19:04:04 0
>>381
主に周囲からの名声・信望によって自分の政治的社交的地位を確保する者。かな。
名声を得る手段には儒教的な教養・品行が当たることが多いが、結構多彩だったりする。

官吏は、国から与えられた地位職責に拠って自分の政治的社交的地位を確保する。
高位を歴任すれば勿論名声が高まり「名士度」はアップするだろうが、その官吏は、官を辞してもなお、在官時の声望を維持できるだろうか?
出来ないなら彼は「名士」ではない。

勿論これは程度問題で、大抵の官吏は両方の性質を持つだろう。嫌われまくって免職された酷吏だって、自分の里に帰れば人気と政治的影響力があるかもしれない。

漢代では、三公に辟召されたり皇帝に徴召されるような者ほど、官に就いた期間は短かったりすることがある。
40過ぎで仕官したり、理由を付けては帰郷して私塾を開いたり、でもやっぱり呼び戻されて要職に付けられる。
そういうのが本物の「名士」だろうね。後漢末だと盧植がぴったりこれに当たる。

384: 世界@名無史さん 2009/08/31(月) 19:21:54 0
結局、孝廉・茂才とその候補が名士なんだろ。

385: 世界@名無史さん 2009/08/31(月) 19:40:45 0
孝廉は孝行廉潔が評価基準とされているが、段々有名無実化していくとされているし、数が多い。
「エリート官吏登竜門」くらいの価値だろう。
茂才はもっと数が少ないが、主に州の官吏から有望者を推挙したものとされる。
漢の推挙法にはもっと希少な賢良・方正や辟召・徴召というのがあって、
そのくらいの著名人なら一つの基準になるんでないかな。


引用元: ・正史『三国志』 十五巻