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1: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/19(日) 10:52:17.56
正確に言うと「北条氏はなぜ鎌倉殿になれなかったのか?」

執権政治草創期ならともかく、得宗専制時代では鎌倉殿になれそうだったのにならなかった。
これは「なれなかった」又は「鎌倉将軍家を廃止できなかった」ためで、その理由は「貴種性」にあると一般では説明されている。
このスレでは自由な発想で、中世東国社会での「貴種性」観を軸に「足利氏はなぜ将軍になれたのか?」「室町殿はなぜ天皇にならなかったのか?」までじっくり、またーり論じていきたい。










2: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/19(日) 11:06:41.33
このスレの隠れたテーマとして「天皇家はなぜ永く続いたか?」も最初に申しあげておきたい。
スレタイは「徳川氏はなぜ天皇にならなかったのか?」でも「パリは燃えているか?」
でもよかったのだが、やはり順番として北条氏から始めるのがよろしかろうと思う。
北条氏が越えられなかった壁を、自称・清和源氏嫡流足利が越えられたのはなぜか?
自称桓武平氏の北条氏の限界についても諸兄の意見を伺いたい。

4: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/19(日) 12:44:20.77
将軍になるには幕府を倒す必要がある
実際にやろうとすると統幕に賛成しない者も多く出てくるでしょう
それよりは現体制を維持したまま操った方が得策と考えたのでしょう
得宗家ゆえに得策を採用したと。。。

5: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/19(日) 20:09:41.87
北条氏は桓武平氏と言っても時政以前は正直不明だ。伊豆の小豪族から突然急成長した成り上がりだ。
頼朝時代の御門葉のような家柄だったら、源氏亡き後の将軍後継者になりえたが、当時の東国社会ではあまりに低い家格というのが当時の一般認識だったんじゃないか?
足利 新田 山名 吉見から見れば源氏本家の家来筋という感覚が抜けなかっただろう。

6: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/19(日) 20:33:12.09
武家の棟梁つーのは最低でも源氏や平氏の本宗家でないと人心がついていかない。
それ以下の家格の者が棟梁では座りが悪い。
北条は自分が資格要件に欠けていることを認識できていたんだろうね。
得宗専制というのは、鎌倉将軍家(皇族)と得宗家の一体不可分のシステムだった。

7: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/20(月) 03:53:01.45
初代摂家将軍 九条頼経は当初全くの傀儡として鎌倉に迎え入れられたが、成人するとそれなりの権威を持つようになり、名越や三浦などの反得宗とつるんで政治的脅威となった。
この頼経以降、鎌倉将軍は成人したら京都へ送還というのが幕府滅亡まで慣例化するのだが、こんな厄介な存在を最初から廃止すりゃいいのに、それができなかったのが、北条政権のジレンマだったんだね。

8: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/20(月) 07:28:53.98
仮に将軍になるとすると全員を屈服&納得させる武力&経済力が要るな

9: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/20(月) 10:34:19.57
>>8
承久の乱の時に京方の所領(荘園3000余箇所)を没収したが、あれはどう分配したんだろうかねえ。
徳川家康みたいに外様にはけち臭く分配したのか足利尊氏みたいに大盤振舞したのか、どっちだろう。
北条義時・泰時親子はその後も御家人の支持を得ているから自分は少なく他人には多くを分配した気もするし、一門の数がやたら増えたことを考えると北条氏優先に論功行賞したんだろうか。


>全員を屈服&納得させる武力&経済力が要るな

北条が圧倒的武力をもつのは霜月騒動後じゃね? 甘く見ても宝治合戦後だな。
将軍になれるとしたら、貞時の頃がチャンスだったな。

10: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/20(月) 15:09:58.82
執権北条氏の歴史は戦いの歴史。得宗家に生まれたからと言って、権力者の座が約束されているわけではない。
後の足利将軍家もそうだが自分で戦い、勝ち抜けなければならない。大体、家督相続の折に一波乱起きている。

義時没・泰時相続時: 伊賀氏の変
泰時没・経時相続時: 将軍職を頼経から頼嗣へ強制譲位
経時没・時頼相続時: 宮騒動・宝治合戦
時頼没・時宗相続時: 二月騒動
時宗没・貞時相続時: 霜月騒動

あと貞時在世中に平禅門の乱と嘉元の乱がある。
幕府内部の権力争いをひとつひとつクリアして得宗家に権力が集中していった。
こうして観てみると、得宗専制ってのは成立まで100年掛かっていることがわかる。
北条貞時は若い頃は祖父時頼を尊敬し、政務に熱心だったが、晩年はやる気を失い、内管領に任せっきりで酒色に溺れて行った。もう疲れちゃったんだろうね。

13: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/20(月) 22:29:04.37
いくら力があっても在庁官人あがりの北条丸が将軍なんて無理だろ。
孫正義やユニクロ柳井が経団連の会長になれないのと同じ。

16: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 05:16:26.57
一旦、幕府の組織ができて鎌倉殿の御家人という立場を崩せなかったからだろう
足利が将軍になれたのは鎌倉幕府が滅亡した後で新秩序を構築するという状況だったから
中先代に成功して後醍醐らを駆逐できたら北条時行は将軍になっていただろう

18: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 07:00:06.02
>>16
あの時代は親王将軍が一般的だった
足利尊氏は新秩序を構築したから征夷大将軍になったわけじゃない

後醍醐のせいで退位に追い込まれた光厳上皇に私を征夷大将軍にしたら北朝の天皇を立てて院政を執らせてあげますよと言ってなっただけ

19: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 08:25:09.56
>>18
親王将軍が一般的な時世に光厳様を誑し込んで征夷大将軍になる自体、尋常じゃないんだが

20: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 08:51:31.45
>>19
足利は頼朝の親戚だったから
鎌倉時代を通してずっと将軍になりたかったんだろ

21: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 09:59:02.89
>>18
どちらかというと俺も16・19氏の意見に近いね。持明院統を引っ張り出せたこと自体が、建武政権への反逆の成果だし、尊氏の将軍宣下は建武政権打倒の2年後 光明天皇の御世だ。足利の将軍補任はやっぱり、力技・荒療治だよ。 

22: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 10:06:21.55
>>21
そうかな?
尊氏の征夷大将軍就任は尊氏の力技による横暴などではなく光厳上皇本人の強い野望・願望でもあった

光厳上皇は自分を担いでくれるなら誰だって征夷大将軍にしただろう
新田義貞でも良かった
光厳は上皇とはいえまだ24歳とかで政界を完全引退するには若すぎたし
後醍醐のせいで持明院統は当時皇統を完全に断たれていた
治天の君として復活したい野望もあった

だから北条時行が後醍醐を駆逐して京都に常駐し光厳上皇の院政を保証すれば征夷大将軍もありえただろう
関東に幕府開きたいと言うのならばダメ(後醍醐がまた戻ってくるから)

あと、尊氏が征夷大将軍になったのは離反の2年後というだけで建武政権打倒の2年後ではない
尊氏は離反した当初は負け戦で九州まで逃亡し建武政権打倒どころではなかった
2年後に光厳上皇と結んで錦の御旗を持ってようやく京都制圧をし光明天皇を立てて征夷大将軍になった

23: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 10:36:22.23
力によりごり押しなら、後醍醐様がよっぽどあからさまなような
尊氏が表舞台に出たのって案外短いし

24: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 10:45:09.17
尊氏だって鎌倉幕府を滅ぼすためなら後醍醐を利用したわけだし尊氏よりも後醍醐のほうがごり押しだと言われても

25: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/21(火) 11:13:10.77
>>24
後醍醐を利用して鎌倉幕府を倒し、建武政権が不祥事続きで崩壊寸前になって北条の残党狩りを名目に蜂起 武士や北朝の支持を取り付けて征夷大将軍って
ごり押しどころか、かなりの手法だが

34: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/22(水) 00:10:54.72
もし源家が断絶した時に足利義氏が将軍職を狙おうとしたら、平賀朝雅や阿野時元のように抹殺されていただろう
門葉といえど一旦鎌倉殿の臣下になった以上、幕府御家人としてそれを乗り越えることはできない
もし北条が将軍になろうとするのなら一旦幕府を解体して、自身を頭にした新幕府に作り直すしかない
すでに鎌倉殿の御家人の中で絶対的地位を手中にして、将軍改廃すらできるまでになったのに
あえて危険を冒してまで体制変革を図るのはあまりにもリスクが高すぎた

35: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/22(水) 00:26:25.99
天皇に自分を将軍に任命させるとかじゃダメなの?
北条ならできるだろ

38: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/22(水) 04:44:21.44
>>35
足利や徳川の例を知っているから誰でも征夷大将軍になれるという認識だけど当時は親王将軍や摂家将軍が一般的だったんだよ
頼朝に始まる源家将軍すら血筋的には劣悪で実朝には甥がいたにもかかわらず実朝の後には都から親王将軍を迎えることで北条政子らが一致していた

尊氏は都に常駐して北朝天皇の補佐をする名目で征夷大将軍になったんだよ
親王将軍よりも更に高貴な天皇を手中にいただいたわけ
関東に幕府を開くのならばやはり天皇の代わりの宮将軍が必要だというのが当時の認識だっただろう

41: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/22(水) 13:12:16.15
>>38
非常に面白い考察だ。
本来、征夷大将軍というのは従四位上あたりが相当官位のそれほど高い職ではなかった。
それを頼朝がどーんと付加価値をつけ、従二位権大納言や右近衛大将に釣りあう職位にした。
つまり、将軍家の家格はこの辺のクラスじゃないとダメですよ、という相場感が生まれたのかもしれない。
そうすると本来別物であった鎌倉殿も将軍職とドッキングしたことによって、鎌倉開府時とは異なりはるかに値を釣り上げたものとなっていく。
これが源氏将軍家滅亡後となると、摂家将軍・宮将軍と市場公定価格(家格と掛けてみたw)がさらに吊り上る。
鎌倉末期になると、「将軍家と言えば親王ですぜ旦那。この近辺では常識ですぜ。」
という風潮があったのかもしれないね。清和源氏の門葉、桓武平氏の傍流ぐらいでは市場の相場には

40: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/22(水) 11:50:36.09
北条が将軍になる大義名分があったのは
①承久の乱の戦後処理
②元寇の時
この2つだと思う

42: 足利革命 論 ① 投稿日:2014/10/22(水) 15:35:39.22
源氏将軍家亡き後の足利氏をよく「清和源氏嫡流と目されていた」などと記述する著書が多い。
以前からここに疑問を感じている。後世の歴史家の後付けの知識ではないのか? 
あるいは室町以降の足利プロパガンダに引きずられた都市伝説ではないのかと考えている。
 
鎌倉開府時の足利氏は将軍家の御門葉とされ、北条家累代と縁戚関係を結んで幕府内での高い家格を維持してきたのは事実だ。また、家格に見合う経済力を持つ大豪族でもある。ただ、だからといって当時の人々が、足利氏を源氏将軍亡き後の清和源氏嫡流と見ていたのか、まして鎌倉殿・征夷大将軍を襲封できる有資格者と見做していたかは別の話であろう。
足利氏は決して江戸時代の御三家ではない、と僕は見ている。
 
仮に明治維新で島津久光が将軍になったとしよう、現代の歴史本は
『島津家は頼朝の末裔惟任氏の血筋を引き、江戸時代には幕府に次ぐ軍事力と御三家を上回る石高を誇り、将軍家や摂関家とも縁戚関係を結ぶ名門家系だった。』
と書き囃したことだろう。間違いではないが、江戸時代の人が島津氏を徳川の後の天下人候補とみていたとは思えない。筆の走り過ぎだな。
足利氏の「清和源氏嫡流」説はこういう類のものではないのかな。

②へと続きます。

43: 足利革命 論 ② 投稿日:2014/10/22(水) 15:49:33.35
足利氏が全国の武家の棟梁(征夷大将軍)になれたのは、やはり建武政権をぶっこわして北朝を建てるという、スクラップアンドビルドを成したからであろう。
承久の乱の類似性を指摘する人もいるが、承久の乱が朝廷側からの売られた喧嘩であるのに対し、尊氏の謀反は初めから天下取りをを狙った行動である。そしてその結果、承久の乱においても北条氏は「貴種」性を得ることはできなかったが、足利氏はこの荒療治で「貴種」のハードル越えに成功した。
鎌倉期を通して存在した「血統主義」を実力主義・結果オーライで乗り越えた感じがどうしても消えない。

名称はどうでもいいのだが、わかりやすくこれを仮に「足利“革命”」と呼ぶ事にする。
この革命性は平安時代的「貴種」理論の転換であると考える。
革命という語句に過剰反応する向きもあるが、この「革命」というワードは、体制転換という意味よりも
「この商品は従来のテレビに革命をもたらした!」というニュアンスだな。
西洋史でいう「科学革命」や「産業革命」という意味合い。

③に続きます。お楽しみはこれからだ。

44: 足利革命 論 ③ 投稿日:2014/10/22(水) 15:59:18.19
では、その「革命」理論に従えば、中先代の乱の北条時行だって、将軍になれたんじゃないか?
という指摘も可能であろう。もちろんイエスだ。力が全てだ。
しかし、ここで留意しておきたいのは北条氏の貴種としてのブランド力である。
足利氏は鎌倉時代全般を通して、「源氏将軍家亡き後の(なんちゃって)清和源氏嫡流」の演出というか、「家柄の粉飾」をシコシコやってきたんじゃないかと考えている。これに対して北条はそういう都市伝説作りをせず、政務遂行のための権力強化の方向に実直に進んだ。結果として鎌倉殿継承資格者の免許皆伝を得る作業を怠った。
 
ここで頭の体操として、東国武家社会で通用する貴種性を表す物差しとして、「キシュ」という単位を勝手に作ってみる。摂家将軍・宮将軍、つまり将軍職有資格者の家を100キシュとする。足利氏は70キシュ、北条氏は50キシュである。
(ここまで来ると妄想過ぎてダメかww ついてこれる人だけでいいやw)
 
足利はこの不足分の30キシュを建武政権打倒で埋め合わせることが出来た。
50キシュの北条氏はそれでも20キシュ足りない、と考えている。
北条時行が革命を起こしてもブランド力がチト足りないので足利とは違う、と。
僕の「時行未熟説」はこういうことである。(ちょっと無理筋か。屁理屈か)


④に続きます。もうちょとの辛抱だ。

45: 足利革命 論 ④ 投稿日:2014/10/22(水) 16:14:35.05
北条時行のブランドと足利革命の問題で大きな示唆として、徳川家康を取り上げてみる。
  
鎌倉末期、史上最高値をつけた将軍職の株価は、足利尊氏の強引な敵対的株式取得でいくばくか値を下げた。
それでも頼朝時代の家格だ。現実味はともかく、吉良や渋川、石橋というマイナー芸人までもが「清和源氏嫡流候補」になっていく。挙句の果ては戦国時代。足利将軍家の分家の分家の今川氏まで、「家柄は足利・吉良・今川の順。」などと与太話を平気で吹聴しだす。もう何でもアリですよ。
言うたモン勝ちだな。
「足利“革命”」とは時間をかけて家系の付加価値を高め、足りない分はどどーんと実力主義・成果主義で「血統主義」のハードルをクリアする。
この荒っぽい手法で結果オーライに持ち込む「なんちゃって清和源氏嫡流理論」を理解し実践したのが徳川家康といえる。鎌倉末期には高嶺の花だった将軍株の実勢価格が戦国時代に下がった。家康は吉良氏の系図を借りて自らの家系を粉飾して新田氏嫡流になりすました。
戦国期の朝廷は貧乏なので金を積んで申請すれば簡単に認可が下りる。
(実際はそうではなかったのだがね>戦国大名の官位取得。まあスレ盛り上げのためフカしてみる。) 
 
中先代の乱の頃の北条時行では、家康流の長年の下準備もなく、将軍株も最高値だったので、実力があっても将軍職ゲットは叶わなかったかもしれない。
「足利革命」は足利尊氏の成功によって初めて実現し、承久の乱の頃の北条氏では到底無理な相談だったと思う。
北条氏が将軍になれなかったのは、こういったところかな。

終わり

46: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/22(水) 19:20:08.26
大筋では理解できますが
尊氏は建武政権末期に正三位参議
この時点で貴種性はクリアしてるのでは?

48: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/23(木) 04:21:01.92
>>46
幕府時代の尊氏の官位は従五位上止まりで建武政権下では公卿の末席にまで上がった。
まあ、位としては将軍職候補としての貴種要件はクリアできたのだろうが、肝心の後醍醐天皇が足利を武家の棟梁にする気がさらさらなかった。足利だけではなく、新田や北畠でも同じことで、皇族以外は認めなかった。南朝時代が典型。
「貴種」論とはズレるが、尊氏が武家の棟梁になるにはこの「皇族将軍制」を実力で突き崩すしか手はなかっただろう。

51: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/23(木) 21:13:28.12
>>46
六波羅陥落の後に従四位下に昇叙しているのは理解できるけど、その後の建武政権期になにもないのに正三位まで昇叙してるのは不思議。
この時代の武家にとって四位と三位の間の壁って結構厚いものだと思うけど、あっさり破ってるんだよね。

49: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/23(木) 17:33:18.46
「なんちゃって清和源氏嫡流」の元祖は実は頼朝なんだよね。
清和源氏の2代満仲の本拠地摂津多田荘は嫡子頼光の系統摂津源氏が継承しているから、
嫡流を言うならこっちの方だろう。頼光の弟頼信の子孫河内源氏がその後武勇で名をはせたのでこちらが武家源氏の主流に躍り出た。
しかもこちらの嫡流も義家の4男義忠で一旦途絶え、義忠の甥 為義【頼朝の祖父】が河内源氏の棟梁を称するがこの人と河内の関係を示す史料はなく、
河内源氏の嫡流を自称する他の一族も居るのでかなりグレーだ。頼光ー頼義ー義家―義忠-為義―義朝―頼朝のラインを本流とする思想は実は鎌倉時代以降の思想で、頼朝の「家系の粉飾」とみる学者も多い。

52: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/23(木) 21:44:00.81
>>49
そもそも源氏嫡流という概念がいつ生まれたのか?
桓武平氏にしろ坂東に集住してても全く統制取れてなかったし。

55: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/23(木) 22:48:53.51
源氏長者
http://ja.wikipedia.org/wiki/源氏長者

>>52
清和源氏が源氏長者になるのは足利義満から。それまでは頼朝も尊氏も、『嫡流証明書』のない状態。為義や今川義元と同じく言うたもん勝ちだ。
後世の人間は頼朝・尊氏が天下を取ったから検証なしに「嫡流」神話を鵜呑みにしてしまっている。

67: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 10:01:49.51
まあ、こういう独自解釈もある。

19 :日本@名無史さん:2014/10/13
>>717
アウグストゥスが皇帝になった際の長ったらしい肩書知ってるでしょ。
皇帝なんだけど絶対に皇帝と言いたくないからあんな長ったらしい肩書になってる。
承久の乱以後の得宗家が名を求めなかったのはあれと極めて類似する政治判断だと思う。
皇帝や将軍になれなかったのとならなかったのとはやはり違うことだと思う。
アウグストゥスも義時も政治の熟達者なんだよ。
まあ、ローマの場合、長ったらしい称号から後に皇帝という単語が出来てしまったから結構見落とされがちだけどね。


727 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 19:10:55.23
>>726
なれないこととならないこととは違うだろ。似て非なるものだよ。
義時は承久の乱に勝った時点で、関白にすらなろうと思えば簡単になれたんだ。
しかし政治的判断を優先してならなかった。
なれるのにならなかったのと、なれないのとは違うよ。
前者には選択権があるが後者にはないんだ。
オクタビアヌスだって君主になろうと思えばなれたのに、シーザーの件も念頭にその道を選ばなかった。
これも選択だよ。

68: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 10:08:35.24
同じ人のレス。「将軍にならなかった」説の根拠らしい。

121 :日本@名無史さん:2014/07/20(日) 06:55:49.12
北條得宗家に真の政治的権威が発生したのは承久の変で朝廷を倒したからだよ。
この時、将軍という存在が事実上空白だったのにも関わらず朝廷を妥当したので、義時自身に頼朝並の権威が発生した。
だから義時の後継者にはあの義時の後継者であるという権威が継承されて行ったんだ。
義時の後継者であるという事自体に幕府統率者としての政治的権威があるのだから、もはや得宗自身の官位や幕府における地位の上下にほとんど意味がなくなったんだよ。
時頼以後、得宗が執権じゃなくなっても全く政治的権力にに変わりがなかったのはそういうこと。
そしてその北条家は、幕府において執権以上の地位に執着しなかったから将軍にならなかっただけのことだよ。
当時の公家の記録に、朝廷では北条家の望む官位を与えようとしてたが、北条家では相模守あたり以上の官位を望まなかったとある。
幕府内の地位に関しても全く同じ姿勢だったんだろう。

69: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 10:15:56.43
で、この人の頭の中の「承久革命」 朝廷は滅亡したらしい。

714 :日本@名無史さん:2014/10/13(月) 17:08:55.32
 >>712
承久の乱の過小評価だ、あんたは。
承久の乱は朝廷が武力で滅ぼされたというのが客観的事象だ。
武力で圧倒されて上皇や天皇が全員配流されたというのは朝廷の滅亡と評価するしかない事象だ。
その後幕府が朝廷の仕組みそのものを弄らなかったのは、これがもともと幕府の側が企図した戦いではないため、朝廷を倒した後の仕組みのグランドデザインが何にもなかった結果に過ぎない。
それをよくあらわしてるのが、当時の処分されなかった公家が、北条から言って来た官位ならどんな官位でもあげるつもりだったというエピだ。
将軍家の家人に過ぎない北条家が関白でも希望したらあげるつもりだって事なんだからもはやそこには朝廷の秩序なんて全く崩壊していることを意味している。

70: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 10:27:13.08
67~69の画期的独創性は、北条氏が将軍(鎌倉殿)にならなかったのは、歴代 得宗家当主は北条義時の後継者という血筋だけで 十分な政治的権威であり、鎌倉殿になる必要性が無い、将軍になろうと思えばいつでもなれたが、そもそも必要性が無いのでならなかった。
その北条義時の権威とは「朝廷を滅ぼした」ことに由来し、武家社会に絶対的権威を確立した、というもの。

自由で素敵な発想力ではある。

71: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 10:50:29.16
正直元寇が無かったら、朝廷の存在すら忘れられたままだったろうね

73: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 20:00:41.61
そもそも、征夷大将軍という地位を過大評価している
後世、足利家、徳川家と天下人が、この官に任命されたからまるで武家の棟梁にとって絶対的な官職に思われるけど本来は蝦夷討伐のための臨時の職に過ぎない。
朝廷に朝敵とみなされないまま、東国政権を作るのに便利だったからこの官職を利用しただけだろう。
本来の武家の最高位は近衛大将だけど、この官職だと天皇の近くで使えないと駄目だから最終的には、遠隔地で臨時の政権つくりやすい征夷大将軍や鎮守府将軍が便利で大将軍がつく征夷大将軍を所望しただけ。

74: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 20:05:31.70
この目的を達成するためには、別に北条氏自身がその官位を受ける必要もなく、より天皇に近い皇族や摂家の一員に征夷大将軍になってもらって自身が裏でコントロールしたほうが楽だった。

また、同じ皇族氏族でも、平氏と源氏では差があったんだろう。
源氏というのは、源定省こと宇多天皇の即位でも分かるようにいずれ皇族に戻る意味も含まれていたらしいからきわめて皇族に近い貴族なんだよ。
一方、それよりも前に分かれ、平将門という謀反人を生み出した平氏の北条氏では権威が弱すぎる。
伊勢平氏(平家)の場合も、当初は、朝廷では成り上がりという見られ方が強くて源氏が高い官位を受けるよりも反発があったけど平家の場合は、遠隔地に政権を作るのではなく、あくまでも、天皇の近くで政権を握っただけだからな。

それが平氏が遠隔地で政権作るってのは、もろ平将門を連想させるし、かなり遠くなって皇族から離れてきた平氏ってのは、マズイ。

77: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 20:27:40.00
鎌倉殿がもう少し続いていたら、得宗家はどうなっていたかな。
案外、征夷大将軍には興味ないままだったと思うけどね。

78: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 20:50:47.38
>>77
北条得宗家体制が出来たのって北条時頼の頃だっけ?
執権と得宗は別でない

80: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 21:13:10.96
>>78
どこのサイトだったか忘れたけど北条氏嫡流は自身を武家の棟梁というふうに認識しだしたのは、北条時頼からだって、書いてあったね。
北条時頼から、かつて鎌倉源氏が行っていた儀式なんかを自らが継承するようになっていった。
北条時頼は、息子の時宗を武家の棟梁として育成するようになったらしい。
ちょうど、このころから、執権≠北条氏嫡流になり、北条氏嫡流は必ずしも執権職に在位しつづけなくなった。

北条氏ってのは、関東の武家の棟梁としては、やはり権威が弱いのよ。
関東の武家にとっては、源頼義、源義家の存在が絶大。
平貞盛ってのは、あくまでも、京都朝廷側にあって、将門の乱を鎮圧した人物だし、平直方も、あくまでも、河内源氏の外戚であり、脇役なんだよ。
平忠常も、一族の平直方には従わず、源頼信が出てきたら、従ったわけだから。

よって、北条氏が自身が平貞盛、平直方の子孫だからといって、平良文や平忠常の子孫たちである坂東平氏にとっては、嫌な奴らの子孫なわけで、自分たちの主君にはなりえない。
平良文は甥の将門びいきだったみたいで、彼の子孫の忠常の行動にも出ている。

81: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 21:21:15.20
>>80
国司上がりの武家なんかが多い状況でそたあつらが北条に従わなきゃならない理由ってなにかな?

83: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 21:25:31.65
そりゃ時政以来積み上げてきた既成事実でしょ

86: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 22:04:26.66
坂東平氏 秀郷流藤原氏 河内源氏の御家人からみれば、北条の家人になるなど、考えられない話だ、つーことだな。北条も自分の家柄の低さを自覚していた。
だから、自らが鎌倉殿になれない代わりに傀儡を立てて実権を握る方法しか選択はなかった。
現実的な政治判断だな。それをぶっ壊して自ら棟梁の座に就いたのが信長。

実は後北条氏も信長と同じようなことやってる。古河公方を廃止した。

88: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 22:39:20.27
いや、というか
国司上がりの氏族って土着制が強いからなかなか他国のやつらの言うことって聞かないもんなんだよね
鎌倉幕府の中だって他の他国衆からみたら北条は上司ってよりライバルだろ
北条だって一貫して評定衆って体裁をとってきたはず
官位が意味をもつのはなんらかの正当性を持つのに有効な場合だけ

89: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 22:45:19.00
ましてや
源氏ってのは義家や頼朝の話あってのものでしょ
まあどっちも最後は不審?な落ちぶれ方したり死に方なんだけどね
北条より古い国司からの氏族っての多いからな

90: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 22:55:24.72
結構、頼朝ー北条ラインではえげつないこともやってんだけどね

まず、源氏一門の分割
自分に従ってきたのを取り立てる一方で多くの同族の源氏を粛清

犠牲者
甲斐武田一族(生存者、石和系武田氏のみ)
常陸佐竹氏
木曽義仲
源義経、範頼など

91: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 23:04:57.09
多田満仲依頼の摂津源氏なんてのもこの時代に解体されてたはず
源氏姓を名乗ってた氏族なんかが源氏を名乗ることを禁じるお触れも出してるはず
在地名の名字の名乗りが進んだのはこれが原因

同じことは足利姓を名乗ることを禁じられた斯波氏の例もある

92: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 23:19:43.09
源氏とか平氏とか藤原氏などの姓は
天皇によって認められた名前で

一方、足利氏、新田氏、平賀氏、北條氏などの苗字は鎌倉殿によって認めらた名前。

この区別を知らないといけない。

よって、鎌倉殿の直接の御家人ではない場合は、相変わらず姓のほうを重視した場合もある。

河内源氏の本来の嫡流だった源義忠の家系は、室町時代位までつぢていて、源姓のままだったhず。

93: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/26(日) 23:23:01.95
源頼義、義家の末裔たちはそうではない御家人(平氏、藤原秀郷の末裔たち)に対して俺たちの家臣の出なんだという優越感はあったはず。
鎌倉時代も、足利家と結城家がそれで喧嘩になったという記述が残っている。
ということは、足利家をはじめ、河内源氏の名門たちは北條氏、三浦氏、千葉氏などんことを、どのように考えていたのかおのずと推測できるはず。

94: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/27(月) 02:57:44.63
義時・泰時の頃ならいざしらず、得宗専制時代になっても、北条はこの家格意識を乗り越えられなかったわけだね。
まあ、無理に強行突破すればできんことはないのだが、人心の離反が進みカオスが到来しただろう。
得宗専制時代というのは、得宗家への権力集中が進んだ時期ではあるが、元寇時の温床の不満・徳政令の失敗など、幕府への不満が溜っていった時期でもある。
ましてと北条一門への守護職独占化も進み、反感が持たれた時期でもある。
 
得宗専制時代は、北条家の権威が上がり、自らの鎌倉殿就任のチャンス到来の時期かと考えていたが、実は逆で権威が下がっていた時代だったのかもしれない。
時頼の「鉢の木」の話は、古き良き時代のレトロ話であって、大不景気時代の御家人にとっては、「在庁官人上りが調子こいてんじゃねーよ。俺らの生活何とかしろ、つーの。」
という目で得宗家を見ていたのかもしれない。

95: 日本@名無史さん 投稿日:2014/10/27(月) 12:10:03.93
>>94
そもそも時頼の「鉢の木」が能の演目になったのは足利義満と世阿弥の頃だったくらいだしね
112: 日本@名無史さん 2014/11/03(月) 08:46:39.25
当時の鎌倉殿の御家人の顔ぶれ見て、北条氏は棟梁としては権威不足だろう? 
坂東八平氏などから見たら、北条氏は自分たちと対等の氏族で、そんなのを主君と仰ぎづらかっただろうし。 
源氏門葉からみたら、北条氏は家臣に近いだろう? 

よって、武家の中から実朝の後継者を選ぶのなら、源氏門葉から選ぶべきなんだけど。 
実際に、北条時政は平賀朝雅を将軍にしようとしたし。 
でも、これは結局、失敗して、平賀も滅ぼされただろう? 
頼朝の弟たちも次々、滅ぼされていたし。 
そんな中で、源氏門葉では厳しかった。やはり、頼朝の直系でないと。 

だったら、頼朝の直系以上の権威として皇族を将軍に担いだほうが良いという結論に達したと思われる。至極、真っ当な判断だった。 
でも、朝廷から断れたので、仕方なしに摂家の中から、頼朝とも親戚筋の人物を選ぶ頼朝の子孫の女子と結婚させることで決着付けようとした。

113: 日本@名無史さん 2014/11/03(月) 09:44:26.74
>>112 

霜月騒動の頃までは、源氏将軍の影が残るね。九条頼経の源氏改性問題や安達宗景の頼朝御落胤説、惟康王の源氏賜姓など、東国の武家社会では“源氏崇拝”が根強かった. 

114: 日本@名無史さん 2014/11/03(月) 09:49:34.71
千葉宇治とか三浦氏とか少しずつ滅ぼして行ったからねえ 
将軍にならずとも、実質天下人で満足してたんじゃないの

117: 日本@名無史さん 2014/11/03(月) 10:54:59.10
元来、鎌倉幕府を設立した目的は、「東国武士が朝廷や公家の支配から独立すること」ではなかったか? 

それなのに、北条氏をはじめ、自分たちの家格が低いからという理由で、主君は朝廷や高級公家から迎えるというのが、非常に奇妙に見える。 

大江氏や三善氏のような実務官僚を協力者として迎えるのはわかる。 
だが、「主君を迎える」というのが、実に倒錯した状態に見えるのだ。 
東国武士たちは、「これって奇妙だなあ」とは思わなかったのだろうか?

119: 日本@名無史さん 2014/11/03(月) 14:25:46.75
>>117 
良い指摘だねえ。デリシャスだ。鎌倉幕府の分岐点は実は寿永の宣旨なんだねえ。 
広常ら東国独立派はやがて粛清されていくことになる。 
鎌倉政権はここで独立を放棄して「日本はひとつ」路線を選んだことによって、政権の正統性を常に朝廷に求める羽目になった。 
承久の乱においても、結局天皇制を超克できなかったのもここに起因すかもしれない。 

寿永の宣旨 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%8D%81%E6%9C%88%E5%AE%A3%E6%97%A8

120: 日本@名無史さん 2014/11/03(月) 14:32:01.70
頼朝は心情的には朝廷寄りだったのは間違いないが、頼朝死後も全員馬鹿正直にそれをなぞったのが不思議

123: 日本@名無史さん 2014/11/03(月) 21:53:44.10
朝鮮半島の場合、新羅がその末期に地方豪族が朝廷に反逆し、地方王朝を打ち立てた。 
頼朝の東国政権も将門同様、最初はこのパターンだった。 
地方王朝高麗はやがて新羅や後百済を滅ぼして半島を再統一した。 
頼朝もあるいはこういったコースを歩む可能性があった。 
しかし、諸般の事情で頼朝は東国独立路線から朝廷との妥協で折り合いをつける方式を選んだ。 
その結果、日本は世界史的にも稀有な二重政権の国となった。 
朝廷から正統性を担保してもらうことが至上命題ととなると、結局は古い身分制・家格意識をもそのまま引き継いでいくことになる。 
源氏や皇族を貴種とする意識は鎌倉政権発足後もずーっと引きずることになる。 
こういう価値観が温存されたままで政権運営をせざるを得なかったのが、北条政権の限界だった。 武家社会の家格意識という制約に対して、北条氏は敢えて無理をせず、現実的なアプローチで政治支配を行うことを志向した。

124: 日本@名無史さん 2014/11/03(月) 22:16:16.81
>>123続き 

北条氏がこの武家社会の家格意識を打ち破る可能性があったとすれば、たぶんそれは承久の乱であっただろう。 
あそこで無理をせず、有力御家人による合議政治という政治スタイルを守ったことが、その後100年以上も政権を握り続けることになり、北条氏には賢明な政治選択だったと言えるが、これは、将軍あるいは天皇に「なろうと思えばなれた」のではなく「なりたくともなれたかった。」ことをしっかり留意しておかなければならない。 
 
ざっくりとその理由を挙げれば、 
① 承久の乱の首謀者が旧勢力全体ではなく、後鳥羽上皇の周辺に限られていた。 
② 三浦 安達 足利など有力御家人の力が強く、幕府内でも北条氏の勢力は絶対的なものではなかった。 

こういう非北条勢力が内外にゴマンと存在する限りにおいて、強引な政治手法を北条がとることなどできるはずもない。

132: 日本@名無史さん 2014/11/05(水) 01:31:13.44
とある政権を創業した時に自ら総責任者になってないと無理なんじゃない? 

家来筋が主家を実力で圧倒しても主家に成り代わるコンセンサスが他のあらゆる階層から得られないって感じで 

天皇家→神武天皇が創業した 家来の大伴・物部・中臣などはずっと連・臣などのまま藤原家→朝廷に巣食う蘇我氏を追い出し摂政関白になった 自ら天皇になることはなかった
源氏→朝廷に巣食う平家を追い出し征夷大将軍になった 執事だった北条家は執権のまま 
足利家→関東に巣食う北条家を追い出し征夷大将軍になった 執事や家臣だった斯波・細川・山名などは管領のまま

139: 日本@名無史さん 2014/11/05(水) 22:44:33.46
>>132 
でも中国の南北朝時代とか下克上の連続

133: 日本@名無史さん 2014/11/05(水) 05:50:24.01
力で主君になりかわったケースと実権を掌握しながら名目上別の主君を戴いたケース 
北条が傀儡将軍を立てた例に留まらず、この違いはどこから発生するのだろうか 
戦国時代でも尼子は京極を追放して名実ともに国主になったけど、それより半世紀後の陶は大内家の実権を握ったものの傀儡として大内義長を迎えている

134: 日本@名無史さん 2014/11/05(水) 06:38:00.02
尼子氏は京極氏から室町時代中期に分かれた家であり、京極尼子家とも呼ばれる。 
京極氏中興の祖であり、南北朝期に京極氏を大大名にし、京極氏を最初になのった京極高氏(佐々木道誉)の子孫。 
かなり、京極宗家に近い家だったんじゃね? 
感覚的に、徳川家における御三家、足利家における堀越公方家くらいの感覚。 

でも、陶が大内氏から分家したのは、古い。 
平安時代後期に大内盛長が右田氏となり、子孫の弘賢が吉敷郡陶村(現・山口市)に居住して陶氏を称した。 

あとは、尼子の場合、他のライバルになる守護代いなかったけど陶の場合、宗家の大内氏の領国が多くて、同僚の守護代も他に多くいたので自分が宗家を継承する地位にいなかった。
そういう意味で、鎌倉の北条に近い。

140: 日本@名無史さん 2014/11/06(木) 00:30:12.58
藤原頼経を鎌倉に迎えたとき、竹御所と結婚するのが前提であった。 
ということは、この時点では、頼朝の血筋を母系でつないだ鎌倉殿の家系を継続していこうという意思が北条義時にも御家人たちにもあったということか? 

もし、竹御所が男子を生んで、鎌倉殿の地位を継いでいれば、その子孫も継続的に鎌倉殿となり、「成人すれば、京都へ送還し、また別の人を迎えて」というパターンにはならなかっただろう、と考えてよいのだろうか? 
もしそうなら、ある程度、実力のある鎌倉殿も出現し、北条氏の地位も違ってきたような気がする。

145: 日本@名無史さん 2014/11/06(木) 12:37:36.66
適当な傀儡が次々に見つかるんだから、北条が無理して将軍になる必要もなかったんだろ 

147: 日本@名無史さん 2014/11/06(木) 13:10:41.48
>>145 
ムリしてまで将軍いなる必要はなかったが、無理してもなれなかっただろう。 
そもそも傀儡というのは自分がなれないから、代わりに設けるものであるし。 
九条頼経や宗尊親王でも年数がたつと、本当に権威を持ち始め邪魔な存在になった。 
じゃあ、初めから北条が将軍になっちゃえよ、と言いたいところだが、それができないから執権政治・得宗政治があるわけだ。 
戦国時代の京兆専制も同じ理屈。

148: 日本@名無史さん 2014/11/06(木) 13:16:54.18
>>145氏がいい指摘してくれたので話を続ける。 
北条氏は無理してまで将軍にならなかった。まあ、なりたくてもなれなかっただろう。 
と考えると、足利氏の将軍就任は 相当な「無理筋」であったと指摘してよかろうと思う。
鎌倉幕府と建武政権をぶっつぶし、半世紀以上も全国的な内乱を引き起こした。 

少しオツムが閃いてきたので、また長文連投してみる。

149: 北条氏の戦争経験値① 2014/11/06(木) 13:28:25.37
北条氏が、将軍はもとより、もっとぶっ飛んで天皇になる機会があったとすればそれは承久の乱だったろうが、それを言い出すと元弘の乱の方がより可能性が高いのかもしれない。 
承久の乱当時ではまだ幕府内の地位が圧倒的ではなかった北条氏は100年を経て、有力氏族を討滅して得宗専制体制になっていたからね。 
 
しかし、それでも無理な話だった。乱の首謀者後醍醐天皇を配流にしたのは承久と同じだが、軍事的には微力な楠木さえ殲滅できず、挙句には赤松にも攻め込まれてしまう。 
幕府の軍事的威信が崩れだしていた。政治的にも、朝廷の本体ともいうべき持明院統一派には全く手が付けられなかった。 
北条氏自身の勢力は承久より格段に上がっていたにも関わらず、軍事的政治的成果について、元弘の乱は承久の乱より下回っていた。 

続く

150: 北条氏の戦争経験値② 2014/11/06(木) 13:46:48.46
北条氏の勢力拡大過程で行われた、鎌倉時代の合戦・騒動は対朝廷(上皇)戦争である承久の乱を除いて、大体が1~2日程度の短期間の、しかも場所が鎌倉内外という限定的なものだった。戦国期の合戦と比べて非常にショぼい。夜討ち・だまし討ちに毛の生えたレベルの戦である。 
北条氏は武力で天下を取ったが、合戦のスケールの小ささは、コスパが良いと言えばそのとおりだが、反北条勢力を本当に根絶やしにするには消化不良感がぬぐえない。全国的規模での反北条勢力の決起の折には、小規模な市街戦の経験しかない北条氏がどこまでやり切れるのか、元々疑問符が付くところであった。(大規模合戦であった承久の乱は幕府側の圧倒的兵力差で、勝負が最初からついていた戦争だった。) 
 
元弘の乱において楠木や赤松・名和といった弱小豪族がホームグランドでゲリラ戦を始めた折には、たちまち軍事的無能さを露呈するところなどをみると、北条氏の過去の軍事的実績の低さ(ショぼい合戦しか経験していない)が関係しているのかもしれない。 

続く

151: 北条氏の戦争経験値③ 2014/11/06(木) 14:00:15.22
北条氏の戦いの軌跡と比べて南北朝の動乱を眺めてみると、そのグダグダ感はさておき、この動乱は長期にわたる反足利勢力の掃討戦であることがわかる。 
武家にとって皇統が持明院統であろうが大覚寺統であろうがどうでもよく,足利氏(尊氏―義詮ライン)の全国制覇に賛成か反対かを争う戦いである。 
 
北条氏の天下取りが反則技でトーナメント戦を勝ち上がっていく手法を取ったのに対し足利か反足利か」を掲げて不満分子を圧伏せしめる戦いを全国規模で推し進めたのが南北朝の内乱である。 
足利政権は北条政権・徳川政権と比べて軍事力の低さが指摘されるが、その本性は徹底した殲滅戦の中から生まれた政権であることに留意しておきたい。 

足利氏がなぜ将軍になれたのか? 北条氏との違いはこういった軍事行動の有無と無縁ではなかろう。元弘の乱時の北条政権を見ると得宗の高時は暗愚で実権は長崎氏に移って得宗自身が傀儡化しかけていたという内情を抜きに考えても、北条氏が朝廷を「滅ぼして」名実ともに天下人になることなど全く不可能な話だったろう。 
 
北条氏が将軍になれなかった最大の理由は、その家格の低さもさることながら、無理筋を押し通す軍事力が伴わなかったことかもしれない。六波羅探題や建武政権を破壊し、50年以上に渡る反足利殲滅戦争をやりぬいた足利氏と北条氏の間には相当な差を感じる。 

終わり

158: 日本@名無史さん 2014/11/08(土) 14:04:13.78
室町幕府は最後のほうは衰えていたから、織田信長に倒されてしまったのもわかるが、北条氏は、得宗専制体制が強まっていた中、唐突に滅亡してしまった印象がある。 
これは、149~151で述べておられるように、「北条氏の軍事力が弱かったから」 
なのか? 

滅亡期においても、北条氏はそれなりの動員力を持っていたように見える。 
むしろ、北条氏だけが東国武士の中で孤立し、大多数の御家人の離反を招いたことが致命傷となったように見える。

159: 日本@名無史さん 2014/11/08(土) 16:26:59.20
>>158 
しかも室町幕府は毛利一族の庇護で備後鞆の浦にて再建を成し遂げたが北条時行の場合はそんな風には見られてないな

169: 日本@名無史さん 2014/11/09(日) 21:54:49.36
>>159 
足利義昭は豊臣秀吉からも貴人として処遇されているね。 
関東では小弓公方家が江戸時代まで存続し、高い家格として尊重された。 

だが、鎌倉幕府滅亡後の北条氏が丁重に処遇されたり、家格の高い地方領主として存続することもなかった。 
社会的地位の高い人物として残ったのは赤橋登子くらいか。 
北条氏は足利氏と違って、一挙に姿を消してしまったように見える。

160: 日本@名無史さん 2014/11/08(土) 17:45:08.06
>>158 
あれは畿内制圧にあまりにも多くの軍勢を割きすぎたために本拠の守りが手薄になってしまった 
そこを奇襲的に攻められたからあっけなく滅んでしまったんだろう 
戦力配分さえ間違えなければまだまだ鎌倉幕府は続いてたよ 
それと畿内制圧軍の指揮官に足利高氏を選ばず北条一門だけにしておけばね

176: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 02:41:09.54
北条が鎌倉殿になった瞬間、鎌倉殿自体の価値は低下するだろう 
反乱起きまくってすぐに幕府は消滅じゃないのか 
家格がまずあってこそ、将軍の価値が保たれてたんだろう

177: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 05:02:07.35
家格といっても鎌倉殿になりうる存在は幕府御家人の中には存在しない 
北条は家格が駄目というより一旦鎌倉殿の御家人になったものが、序列を踏み越えて主君の鎌倉殿になるなんて許されないだろう 
北条だけでなく源氏の足利でも家格が低すぎる 
源家は幕府創設一族だったからこそ例外的に御家人の主たりえた 
その源家が断絶したらもうより高位から連れてくるしかなかった

181: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 13:48:42.45
>>177 

このあたりが事実だと思う 
要するに東国における似非天皇なんだよ。権威は持たせても実験は他が握る 
まさに、摂関時代の藤原氏の位置づけを北条は狙っていたんだ。 
自らが天皇(将軍)になるよりも何かと具合がよい。

183: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 14:16:41.40
>>181 
武家の棟梁になれない北条氏にとってはそういう垂廉政治しか選択肢が無かった。

180: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 10:36:19.76
まあ実際のところ、得宗専制確立後の得宗は執権はおろか源家時代の将軍よりはるかに強大な権力を持っていた 
幕府の役職なんか関係なく得宗という完全に私的地位で幕府を支配したのは異常な政治形態だな 
北条は将軍にならずにあえて得宗になったんだろう

186: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 16:05:27.39
家格って言えば頼朝の家も義朝以前は意外と高いものではない。 
義家以前はせいぜい国守レベル。義朝で左馬頭、国司最上級の播磨守。 

頼朝以降が公卿になって家格を思いっきり上げたけど 
頼朝挙兵当時は御家人よりは家格ははるかに上だけど 
頼朝が鎌倉殿になった以降の御門葉や実朝以降の北条は 
義家以前の河内源氏とさほど家格は変わんないよな。

187: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 17:32:37.58
鎌倉開府以降 武家の官位が全体的に底上げされたんだろう。 
清和源氏が従二位になったから、その一族・郎党も繰り上がった。 
 猿が関白太政大臣になったら、徳川・前田・上杉・毛利まで従三位以上にんっちまった。

188: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 18:58:46.04
家格というより坂東の棟梁の血筋かあるいは中央の貴種じゃなきゃ治まらないってことでしょ。 
鎌倉なんて有力御家人連合で将軍は旗印なんだから。 
旗印が同格の御家人では他の有力御家人は納得できんわな。

190: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 20:47:05.31
武力に勝る者が支配してもよさそうなものなのに、家格やら官位やらがモノを言う、不思議な日本

214: 日本@名無史さん 2014/11/12(水) 22:35:00.41
>>190 
宝治合戦でライバルの三浦氏を滅ぼした後、摂家将軍を廃立して北条氏自ら将軍に就任か?
と思いきや、摂家将軍よりさらにグレードを上げて後嵯峨天皇の皇子を将軍宝に迎えた。 
これは一体何を意味するのか? 第一義的には公武の関係を良好で安定的なものにするためだが、朝廷の権威、天皇制との深い結びつきを持つことによって幕府の安定を図る目的があったことは容易に推察できる。 
源氏将軍・摂家将軍よりさらに格の高い皇族将軍を求めたことは、承久の乱以前と同じく、というか引き続き、皇統により近い権威者が幕府存続に必要不可欠であったことがわかる。武家社旗における家格意識は承久の乱以前と状況は全く変わっていないということである。
 
承久の乱は公武の力関係の逆転をもたらした大変革ではあったが、天皇制ヒエラレルヒーという日本人が逃れられない身分の格付けはそのまま維持された。 
執権北条氏は権力基盤を強化させたにも拘らず、他の有力御家人との調和を優先させるために自らの家格上昇を行わなかったため、得宗専制開始後においても、承久の乱以前の北条政権のウィークポイントをそのまま引きずってしまうことになった。

194: 日本@名無史さん 2014/11/10(月) 23:31:19.53
考えてみれば、せっかく自分たちの幕府を作ったのだから、旧来の家格なんか関係なかったはずだ。「そういう旧態依然としたものを否定して、自分たちの政権を作ったんだろ? しっかりしろよ」と言いたくなる。 

もし何等かの格付けが必要なら、幕府創立への貢献度に基づいて新しい格付けを考えればよかった。承久の乱の勝利は北条氏の挙げたポイントが大きかったのだから、ここで新しい格付けが行われても不思議ではない。 

だが、まだ摂関・公卿を頂点とする物差しによって自分たちの格付けを行っている。 
この精神構造は何なのか、掘り下げて考えてみたい。

216: 日本@名無史さん 2014/11/12(水) 22:59:22.84
>>194 
畿内の朝廷をマネして東国版の朝廷を作るならわかるんだがなあ

199: 日本@名無史さん 2014/11/11(火) 08:57:53.15
武家社会において、「武家の棟梁」の資格要件は、こういう【格付け】つまり、天皇家との距離である、と正しく認識していたのが足利氏であった。源義家の置き文伝説の捏造に見て取れるように自らを清和源氏の嫡流とする神格化を行った。 
この作業は鎌倉期から行われていたが政策としてはっきりでてくるのが,室町期になってからである。 
 
北条高時・後醍醐天皇という2人の主君に謀反を起こすという、禁じ手で天下を掌中にした足利政権の正統性はひとえに光厳上皇の院宣にのみ担保されていたが、これとは別に武家の棟梁たる貴種性を武家に納得させる必要があった。 
 
足利氏は清和天皇―源経基―源義家―足利尊氏という武家社会における“第二皇統”を創作することによって、日本固有の身分制に自らを格付けさせた。 

続く

200: 日本@名無史さん 2014/11/11(火) 09:03:05.84
北条氏が、この身分制を打破するには天皇制を否定して新たな身分秩序を創出するか、さもなくば徳川のような系図捏造あるいは秀吉のように名家へ養子に行って、天皇制ヒエラルヒーの上部に食い込むしか手はない。 
 北
条はいずれの策もとらず、建前上は鎌倉殿の一御家人の立場を通した。 
そのリアルな政治感覚が北条氏の妙味であるわけだが、北条氏がなぜ長く政権を維持し、権力を世襲できた理由は、一番はそのライバルを武力で追い落としたことが挙げられるが、東国武士の政治ニーズを汲み取りその期待に応えることを本分としたことが大きい。

202: 日本@名無史さん 2014/11/11(火) 09:13:22.15
>>200 
北条泰時が尼御台政子の養子になるという形ではだめなのか 

鎌倉殿と征夷大将軍を切り離して、征夷大将軍にだけなるはありえるんじゃね 
元寇の時なら異国の侵略から日の本を守るためには名ばかり将軍じゃだめだ、力のある者が将軍になる必要があるとかいえばゴリ押しできた気がするが

208: 日本@名無史さん 2014/11/11(火) 21:08:47.27
>>202 
北条得宗の権威が高まったのは北条時宗が元寇を撃退し 
北条貞時が外戚の安達を討って独走態勢に入ってからじゃないか 

北条政子の頃にはいくら北条義時が承久の乱に勝利して御家人たちの中で突出した地位を築いたとはいってもまだまだ同じくらいの御家人が大勢いた気がする 
御家人みんなで北条泰時を将軍に戴こうという機運がなかったというか

209: 日本@名無史さん 2014/11/11(火) 22:06:01.77
泰時が将軍になるとすれば血統とか無視して承久の乱の勝者として朝廷に征夷大将軍の宣旨を出させること自体は可能だったと思う。 
おそらく東国の御家人はそれを認めず反乱や暗殺は頻発しただろうけど実力で苦難を排除できれば名実ともに将軍になっただろ。 

本人の性格はそういう荒事に向いていないように思うしそこまでやっても弱体化した東国政権が残るだけで利はないと思うけど。

220: 日本@名無史さん 2014/11/13(木) 09:35:35.01
>>209 
承久の乱の時点では政子らが「鎌倉殿(頼朝)の御恩」を強調するばかりで御家人たちは北条義時のために戦ったというわけでもないからな 
まだ将軍宣下は受けていなかったものの都の摂関家から三寅(九条頼経)を次期将軍として貰い受けていてこれを廃止して北条が将軍になるというものでもなかった

221: 日本@名無史さん 2014/11/13(木) 10:51:19.44
>>209>>210 
北条泰時が父の死後執権職を引き継いだのは承久の乱の3年後であった。 
彼がまず行ったのは、叔父時房を副執権(連署)に据え、有力御家人・吏僚からなる評定衆を創設した。執権の独裁ではなく合議政治を確立したことである。 
これは北条一門・有力御家人との間にいまだ絶対的権力を確立できていない証であって 、進んで合議政治体制を構築することで幕府内の求心力を高める措置であったのだろう。 
頼朝的な独裁政治や、義時/政子の外戚政治を執れる状況ではなかったのだろう。 
また、その一方で泰時は同時期に北条宗家の家政機関の設置や家令の制定を行っている。 
のちに得宗家と呼ばれる北条宗家の基盤強化を図ったわけだが、泰時の時代にまだまだ他の一門や有力御家人の力が強く、泰時の努力が実るのは孫の時頼以降である。

217: 日本@名無史さん 2014/11/12(水) 23:11:41.85
鎌倉幕府が摂家や皇族から鎌倉殿を迎える奇妙さは、植民地が独立戦争の結果、独立を果たしたのに、独立政府の元首を宗主国から「総督」として迎えるような奇妙さに近いものがある。 

だが、鎌倉幕府の成立を東国の「独立」とか武士による「革命」といった見方をするから、このような錯覚が起きるのかも知れない。 

東国武士たちも、中央貴族たちと同じ「支配層」であり、東国武士たちが朝廷に対して「革命」を起こしたのではない。北条氏や東国武士たちも中央貴族たちと同様、天皇との距離によって格付けをするという物差しを持っていたに過ぎない、と考えればよいのか。

218: 日本@名無史さん 2014/11/12(水) 23:23:41.51
アメリカが独立したとき、イギリスから貴族・王族を迎えて、「総督」とし、ジョージ・ワシントンは「家格が低いので、大統領にはなれなかった。 
総督の補佐官となった。だが、実権はワシントン一族が握ることになった」「100年後、アメリカはワシントン一族もろとも、イギリスに滅ぼされた」としたら、「何それ?」と思うだろう。 

だが、このようなイメージで鎌倉幕府をとらえるから、錯覚を起こすのではないか? 
あれは独立でも革命でもなかったのだ。

219: 日本@名無史さん 2014/11/12(水) 23:35:15.83
平広常は独立だとおもっていたんじゃないの?

234: 日本@名無史さん 2014/11/16(日) 20:07:10.92
>>219 
上総介広常や志太先生義広は「東国の独立」「中央貴族の干渉拒絶」を考えていたように見える。だが、ふたりとも源頼朝によって粛清されてしまった。 
独立派というのは、頼朝に対しても必ずしも従順ではない。「独立自尊」の姿勢が強く、鎌倉殿の家人という立場に甘んじるつもりもなかったのではないか。 
頼朝政権が確立した時点で、東国の独立はなくなったように見える。

235: 日本@名無史さん 2014/11/17(月) 09:42:21.43
大河ドラマ「草燃える」で広常(演 小松方正)の頼朝に対する尊大な態度が描かれていた。他の御家人が頼朝(石坂浩二)を「御所様」と呼ぶのに対し、「なあ、武衛!」とか呼び、頼朝が嫌な顔してたw 
このドラマでは、東国武家が頼朝を自分たちが担いだ感がよく出ていた。

257: 日本@名無史さん 2014/11/20(木) 21:07:41.22
東国独立説もあるが、最近では奥州藤原氏が鎌倉幕府のお手本になった説があるね。 
もし奥州藤原氏がお手本だったとしたらの話。 
奥州藤原氏は奥州での実力者だが、都から鎮守府将軍や陸奥守が来ることを拒まず、むしろ良好な関係を築いていたんだよね。 
もし頼朝以前に坂東独立を狙う人物がいたとしても似たような路線を築いたと思う。

274: 日本@名無史さん 2014/11/22(土) 12:24:02.13
中央と強調しながらも一応は独立していた奥州藤原氏、独立志向の強い平広常・源義広、安田義定などの門葉は源頼朝に滅ぼされてしまった。 
独立を求める武士たちにとって、鎌倉政権は本当にプラスだったのか? 
これまでどおり、摂関家・平家・上皇などが中央権力となり、このような中央権力と適当に協調しながら自由にやっているほうが、うまくいったのではないのか?

275: 日本@名無史さん 2014/11/22(土) 12:34:41.81
>>274 
北条の泣きどころはそこだな 

中央集権を目指そうにも 鎌倉と京都 
どっちが【中央】なのか遂に答えが出なかったし

276: 日本@名無史さん 2014/11/22(土) 16:16:24.08
>>274 
上総介広常はとにかく源義広は野木山合戦で堂々と頼朝に反旗を翻したから頼朝にとってまぎれもなっく討つべき敵だし 
安田義定は、義仲と一緒に上洛して遠江守になって治承寿永の乱後期まで独立勢力でそれなりにカリスマがあったから頼朝からみれば危険人物。 
独立志向うんぬんとは関係なく義広、義定は殺害されるべき運命。 
広常とてあの時期に頼朝が軍を上洛させなかったら平家が義仲を追い出して、後白河法皇の身柄を確保し頼朝の正統性がうばわれかねないじょうきょうだったから頼朝にしてみれば殺害やむなしという状況だっただろう。

277: 日本@名無史さん 2014/11/22(土) 16:20:27.78
それに坂東の武士にとっての最大の願望は 
「自分が管理する土地を管理する権利を恒常的に保障してほしい」 
ということだから 
荘園管理者や国衙が御家人の管理権を没収しようとしても「幕府経由」でないともう管理権を没収できなくなった。 
このメリットは「独立」云々よりも大きいと思う。 

もし「独立志向」なるものがあったとしたらその背後には「自分たちの土地を管理する権利を確実に保障してほしい」という願望の裏があってのこと。 

自分たちの土地を管理する権利(一所懸命)が守られれば独立しようが中央と協調しようが幕府が介在しようがそれはあくまでも「手段」でしかないのだからどちらでもよかったと思う。

278: 日本@名無史さん 2014/11/22(土) 16:25:22.26
それと奥州藤原氏と鎌倉幕府の違いの一つに自分が支配する地域の「国守」に自分の息のかかったものをおけるかというところがあると思う。 
奥州藤原氏は最後の方は秀衡が陸奥守になったが長期間都からきた陸奥守や鎮守府将軍を受け入れた。 

鎌倉幕府の場合は 
「鎌倉殿」が「東海道東山道の支配権」を保有しなおかつ、坂東の主要な国の守(特に武蔵相模)は門葉や御家人を推薦する権利を得ていた。 
このあたりが奥州藤原氏よりも一歩踏み込んでいたと思う。

280: 日本@名無史さん 2014/11/22(土) 22:14:08.31
>>278 
けど、将門みたいに朝廷と全く無関係に守を任命してるわけじゃないのね

281: 日本@名無史さん 2014/11/22(土) 23:08:49.06
>>280 
けど鎌倉幕府の場合実効性があって、国司問題では朝廷とは無用な軋轢を起こさず幕府内部も安定して長期政権になったよね。 
将門の独自任命?より現実的手法だったんじゃね?

282: 日本@名無史さん 2014/11/22(土) 23:15:23.78
実際には承久の乱以降は、なろうと思えばなれたけどあえてならなかったのだろうな 
ならないほうが実質的権力保持には良いと考えたのだろう

291: 日本@名無史さん 2014/11/24(月) 13:54:42.35
承久の乱の時になろうと思えばなれた 
だが、ならなかった、その後の子孫がそれを覆すのは難しい 
基本は先例主義で子孫が先祖の格を超えるのは難しいから 
戦乱の時には先例打破して上昇するのが可能 

義時は頼朝の寵臣で、彼自身は頼朝時代を理想としてたから 
はなから幕府を変える気はまったくなかった 
乱後は官職をどんどん返上してのんびりと遊んでるw

292: 日本@名無史さん 2014/11/24(月) 14:42:12.67
承久の乱後、朝廷側は北条義時に「好きな官位を何でもあげる」と言った。 
だから、官位を得るだけなら、義時は征夷大将軍でも右大臣でも太政大臣でもなれたはずだ。 
義時ができなかったのは、「東国武士たちの主君になること」ではなかったのか? 
義時を誰も主君とは思わなかっただろうし、義時自身も自分が主君になれるとは思わなかった。だから、主君筋がなる官位(征夷大将軍・右近衛大将など)にはならず、相模守にとどまったということではないだろうか?

293: 日本@名無史さん 2014/11/24(月) 15:44:42.46
そも主君になりたいとか何かになりたい気があるなら、他の飾りをつけてくるさ 
昇任どころか官職を退いてくわけだから、はなからその気がなかったと考えるのが妥当 
自分が築いた幕府体制が完成したーやれやれ、てなとこさ 
秀吉なんかと明らかに違う 

ちなみに相模守でなくて陸奥守な

297: 日本@名無史さん 2014/11/24(月) 22:37:20.54
太平記なんかをみてもあえて位四位にとどまった、てな書き方してるから 
あの当時でも望めばいくらでも上にいけるのに、という認識があったんだろう 
天の下の後後見といってたから、すなわち天下人だが、それをあらわす役職がない感じはする

301: 日本@名無史さん 2014/11/24(月) 23:34:45.37
>>297 
太平記読んだことないから質問するが、太平記に北条義時の話が出てくるの? 
太平記って、足利義満の頃の作だよね?

304: 日本@名無史さん 2014/11/26(水) 11:20:33.22
>>297 
太平記の序章に書かれてある鎌倉幕府の概略で北条氏について書かれてあるこの部分だと思うけど 

「武蔵守泰時・修理亮時氏・武蔵守経時・相摸守時頼・左馬権頭時宗・相摸守貞時 
相続で七代、政武家より出で、徳窮民を撫するに足り、威万人の上に被といへ共、 
位四品の際を不越、謙に居て仁恩を施し、己を責て礼義を正す(太平記より引用)」 

泰時から貞時までの7代の徳を述べた部分で、これらの執権が朝廷に対する礼儀を守り 
四位を越えなかったことを太平記作者が褒めているんだが 
(これと対比しているのが北条高時の横暴。政道の不正を行い民の疲弊を思わなかったので、後醍醐天皇による鎌倉幕府征討の対象になったとしている) 
別にもっと上が狙えたのにという意味もなさそうなんだが

305: 日本@名無史さん 2014/11/26(水) 12:54:02.48
北条氏はなろうと思えばもっと高い位を望めたというのは、291氏が他スレでも書きこんでいる空想だよ。 
御家人に対する義時の下知状は承久の乱後も形式は変わらず、泰時は合議政治へとスタイルを転換させた。 
基本的に太平記は後醍醐天皇と北条高時をsageて、南北朝の内乱の遠因にしているところがあると思う。 


大体 従四位というのは、そもそも低い位ではない。 
足利など有力御家人でも従五位なんだから、得宗家が一段高いポジションにいることは間違いない。そういう意味で得宗と御家人は同格ではない。 
室町時代の管領、江戸時代の大老も従四位・正四位だ。 
鎌倉幕府というのは右大将家の家政機関がその本質であり、その執事職である得宗が、そもそも大納言や大臣になるはずがない。結局そこが北条氏の限界といえる。 
朝廷の高位を望めるなら、とっくに鎌倉殿になっていただろう。

308: 日本@名無史さん 2014/11/26(水) 20:00:20.71
>>305 
いや征夷大将軍になろうとすればなれたってことでしょ。 
それには同意するよ。 
承久の乱の勝者の総大将が希望する官職を得られないわけがない。 
朝廷には抵抗する能力は欠片も残ってないし。 
ただそれは坂東の有力御家人が反乱を起こしたり暗殺を企てたり 
大きな冒険になるから政権の安定のために執権に留まった。

313: 日本@名無史さん 2014/11/26(水) 21:50:04.76
>>308 
>承久の乱の勝者の総大将が希望する官職を得られないわけがない 

もう、この時点で歴史学からファンタジーに移行している。 
元弘の乱後、北条高時は天皇になろうと思えばなれた、だが、なる必要が無かったのでならなかった。 
という妄想と同じロジックだなw

315: 日本@名無史さん 2014/11/26(水) 22:08:48.16
>>313 
戦後処理として上皇を流罪にして天皇を廃位したのにたかが官職程度が問題なるの? 
まあ確かに摂関は希望すりゃどうだか知らんけど普通はないだろうなw 
あれば御堂流の独占という暗黙の了解があるし。 
征夷大将軍については武家の官職だし朝廷の側からは出すのに全く躊躇しないと思うが。

318: 日本@名無史さん 2014/11/26(水) 22:40:07.73
>>315 
>征夷大将軍については武家の官職だし朝廷の側からは出すのに全く躊躇しないと思うが。
だから、ここがファンやジーなんだよ。武家側から奏請が無いのに朝廷がわざわざ将軍宣下するわけがない。 
つまり、幕府側に北条氏を将軍宣下を奏請 する素地が当時あったかどうかがポイント。 
このスレッドの大命題なわけだ。 
 
承久の乱の幕府軍が北条氏一門だけの軍勢で、且つ、足利や徳川のように武家内部の反対勢力を一掃している状態なら、北条への将軍宣下の奏請とその勅許は可能であったろうが、史実はそういう状況ではない。 
 
承久の乱は義時追討に賛成する御家人(在京御家人)と反対する御家人(東国御家人)の東西対決だったわけだが、義時に味方した東国御家人は、自分たちの主君に義時を推戴することに同意していたわけではない。 
北条が将軍になるには まず、鎌倉殿になることを東国武士に認められなければならない。 

北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?とは東国武士たちはなぜ北条氏を武家の棟梁と認めなかったのか? という質問と同じなのだよ。 
引用元: ・北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?




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