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1: 日本@名無史さん 2016/05/23(月) 20:31:57.27
1183年11月、木曽義仲は後白河法皇が招集した朝廷軍を急襲し、これを撃滅した。(法住寺殿合戦)
義仲は法皇を幽閉、反義仲派の公卿を一掃する人事を行い、翌1184年1月に征夷大将軍に任ぜられて京都に幕府を開いた。
だが、歴史家は何故か、義仲の政権を幕府と呼ぶことは無い。これは一体どういうわけだろうか?
京都幕府の存在を認めたがらない闇の勢力でもいるのだろうか?







4: 日本@名無史さん 2016/05/23(月) 23:47:04.28
幕府っても影響力のある地域が少なすぎるし、体制も何も出来ていない。まあ単なる占領軍だね。義仲はあくまでも武人で政治力はサッパリだから。配下にも政治的な駆け引きに長けた者がいなかった

8: 日本@名無史さん 2016/05/24(火) 10:12:14.92
頼朝も当初は関東一帯に過ぎない 
最大領域で見ても関東東海東北くらいじゃないだろうか

9: 日本@名無史さん 2016/05/24(火) 11:59:37.83
そもそも平家政権自体、六波羅幕府と見なす人もいるからな、どうなんだろう

48: 日本@名無史さん 2016/05/31(火) 20:37:37.56
>>9 
軍権だと清盛の畿内惣官職も幕府とみなしてよいかも

10: 日本@名無史さん 2016/05/24(火) 19:14:18.38
平家は征夷大将軍の位じゃなく公家の位について政治したからなぁ 
天皇と縁戚結んで行ったからどっちかというと藤原氏と同じ政治 
武家政権とは言えないような

14: 日本@名無史さん 2016/05/26(木) 06:02:38.34
木曽義仲って教養がない脳筋だったん? 
源氏の武士ならそれなりの教育受けてるもんじゃ無いの?ど田舎育ちでも

21: 日本@名無史さん 2016/05/29(日) 19:05:11.48
>>14 
親父の義賢が甥の義平に殺されて木曽の山奥に匿われて育ったからろくな教育は受けてない。 
義賢は父為義の命で、為義と不仲で関東を勢力圏としつつあった兄義朝を牽制するために関東に下った。 
これを邪魔と見た義朝は長男義平に邪魔ができないように軽く締めてこいと言いつけたら討ち取ってしまった。 
義平はさらに義賢の遺児駒王丸(2歳)も殺そうと手配したがあまりに可哀そうと思った斎藤実盛によって信州に逃がされた。

16: 日本@名無史さん 2016/05/26(木) 16:08:48.78
武家政権を幕府と呼ぶようになったのは江戸時代後半から。征夷大将軍に就いていないからといって平氏や豊臣政権を幕府と呼ばないのは日本史学界の無知蒙昧ぶりを表している。 
安土・桃山時代という用語もかなりおかしい。 豊臣政権の本拠地は大坂なのだから「安土・大坂時代」とするべきだろう。「大阪」を忌避する理由はなんなのか?

25: 日本@名無史さん 2016/05/30(月) 19:05:10.19
幕府ってのは統治能力を持った政権を言うんじゃなかったか。 
頼朝は守護地頭を使って実質的に統治権力を収奪したから幕府と呼ばれるんじゃないか。

26: 日本@名無史さん 2016/05/30(月) 19:11:28.94
遠征した将軍が占領地統治のために開く臨時政府じゃなかったっけ

27: 日本@名無史さん 2016/05/30(月) 19:35:53.21
将軍の陣所 → 将軍の居館 → 将軍の政権 

円喜、これでよろしいか?

28: 日本@名無史さん 2016/05/30(月) 19:43:43.61
木曽義仲は将軍だったけど、政権とは認められていないということかな。 
統治機構がなかったから幕府と呼ばれないということか。

35: 日本@名無史さん 2016/05/31(火) 08:03:33.50
鎮守府将軍でも幕府開けたんじゃなかったっけ

36: 日本@名無史さん 2016/05/31(火) 09:32:14.61
そもそも、幕府って、「開く」ものなのか? 
んぢゃあ、 
『1333年 後醍醐天皇が鎌倉幕府を閉じる』という表現も誤りではないはずだ。

59: 日本@名無史さん 2016/06/03(金) 18:23:27.44
有り得ない{もしも}だが、義仲が頼朝を倒して幕府を置くとしたら、やはり京都だろうか? 木曽ということはいくらなんでもないわな。

61: 日本@名無史さん 2016/06/07(火) 12:17:46.57
木曽はなさそうだが、近江とか名古屋、金沢とか小松あたりなら有りかな? 
そういう歴史も見てみたい。

63: 日本@名無史さん 2016/06/07(火) 15:16:47.99
さすがに金沢小松はないだろう 
北陸へ行くにはどの道を通っても他の地域と行き来するのに厳しい峠がある 
閉鎖的だったので文化的にもかなり特殊だしな

64: 日本@名無史さん 2016/06/07(火) 21:24:01.07
加賀藩こそ雪深く敵寄せ付けぬ越し幕府の成功例 
木曽氏も北陸にいればいまごろ侯爵だ

67: 日本@名無史さん 2016/06/08(水) 22:56:20.55
鎌倉から全国の統治は出来たけど、金沢じゃどうしても地方政権で終わりそうだな。 
狭ずぎだし冬は寒いしマイナス要素が多すぎる。

69: 日本@名無史さん 2016/06/09(木) 01:10:15.04
もともとそこにいた人達を追い払って新政府を作ると後後まで抵抗されて面倒くさいという事を平安京で学んでいるから辺鄙な関東の方が都合が良いのではないだろうか

72: 日本@名無史さん 2016/06/10(金) 21:51:15.18
義仲ルート義経ルートで幕府開くとか考えると頼朝が如何に奇跡的なことを成し遂げたか分かる

76: 日本@名無史さん 2016/06/11(土) 21:46:02.50
義経は政治音痴だから無理だろう 
あくまでも戦術家だから 
頼朝は石橋山の窮地を生還した類稀な強運もある

83: 日本@名無史さん 2016/06/14(火) 22:35:05.99
源氏が身内で争うのはなんでかね。 
平氏も将門のころは身内で争ってたけど、平家の仲が良いのはなんでかね。 
清盛の人徳かね。 
北条も身内争いあまりないね。

85: 日本@名無史さん 2016/06/14(火) 23:18:09.52
>>83 
北条時政は、政子らと争い伊豆に隠居 
時輔は、時宗に謀られた。 
他の御家人つぶしで忙しかった。

89: 日本@名無史さん 2016/06/15(水) 22:25:14.79
>>83 
源氏将軍と足利将軍は身内で争ってるイメージ 
平氏や北条氏は一門で争っても敗者の一族をある程度の役職で登用しているイメージ

86: 日本@名無史さん 2016/06/15(水) 08:02:02.28
名越家も幾度も得宗家と反目しているとはいえ、二月騒動以降は大人しいからな

96: 日本@名無史さん 2016/06/19(日) 13:10:06.40
室町幕府の方向性は平家に近いかもな

98: 日本@名無史さん 2016/06/19(日) 15:27:12.47
地方政権としてスタートしたけど承久の乱や元寇などの有事を契機に全国政権となったというかならざるを得なかったんだよな

99: 日本@名無史さん 2016/06/20(月) 13:48:06.92
頼朝が幕府を鎌倉に置いたのは関東から離れられなかったためで、尊氏が京都から離れられなかったのと同じ構造なんだね。別に好きで関東に骨を埋めたいと思っていたわけではなかったと思う。 
「北条氏はなぜ将軍になれなかったのか?」スレでも書いたのだが、寿永の宣旨で東国独立路線を放棄したのがターニングポイントだった。頼朝はやはり軍事貴族だったんだね。院政の下での軍事・警察を司る家職を世襲し、王家と源氏将軍家が手を取り合って日の本を統治する姿こそが頼朝の本願だったのではないか?娘を入内させようとしたり、土御門通親と組んでみたり、頼朝の本質は軍事貴族ではなかったのか?北条義時やのちの足利尊氏とは明らかに違うニオイを感じてならない。 
「京都幕府」は東国武士団にとっては絶対に容認できない代物だが、頼朝にとっては案外受け入れやすいものではなかったのか? 

我々は頼朝の政権を平氏政権と全く違った武士政権と解釈してきたが、少し先入観を外した方がいいのかもしれない。

100: 日本@名無史さん 2016/06/20(月) 23:37:42.14
東国武士も以外と都との繋がりが深かった連中もいるらしいし、義時に至っては娘の多くは都に嫁いでる。

101: 日本@名無史さん 2016/06/21(火) 10:05:52.85
三浦などの旗揚げ以前からの重鎮もいることだし少なくとも頼朝にとっては軍事的にも政治的にも関東が基盤だからな

103: 日本@名無史さん 2016/06/21(火) 17:54:05.72
義仲も気の毒だが、頼朝義仲と並ぶ勢力だった甲斐源氏の無視されっぷりはもっと悲しいぞ。 
最近は注目されつつあるけど。 
そういえば甲斐源氏の中に秋山っていたな。

110: 日本@名無史さん 2016/06/25(土) 18:16:57.40
>>103 
もともと協調路線で戦争に及ぶ前に完全に牽制されたからな 
鎌倉に召集されて神前で起請文を書かされてるし

111: 日本@名無史さん 2016/06/26(日) 19:21:19.13
>>110 
その起請文書かされた時期が実は吾妻鏡の編集の際に操作されたという説もある。 
吾妻鏡の記載順だと 
武田信義の起請文→甲斐信濃侵攻→一条忠頼殺害だが 

延慶本平家物語等の期日に従えば 
一条忠頼武蔵守任官(?)→一条忠頼殺害→甲斐信濃侵攻→武田信義の起請文 
なのではないかともいわれている。 

安田義定なんかは、義仲と一緒に都に上ってその時に任官してるから頼朝としては甲斐源氏はやっかいな連中と思っていただろうな。

107: 日本@名無史さん 2016/06/22(水) 05:36:21.12
甲斐源氏に関しては一条と安田が討たれる一方で加賀美遠光や小笠原長清を与党として厚遇する分断工作があったからな

112: 日本@名無史さん 2016/06/28(火) 02:22:31.31
逆に加賀美遠光は御門葉だからな 
あれだけ分家が有れば両陣営に分かれるのは当然だけど

113: 日本@名無史さん 2016/06/28(火) 11:06:30.95
>>112 
逆にそれだけ一門をまとめるのが大変な時代だったんだろうな。 
分裂の芽をみつけてそこにつけこむ頼朝が上手いってことだろう。

114: 日本@名無史さん 2016/06/28(火) 16:21:56.32
そういえば義仲も上洛するときは結構人数集めたけどその人数減るのも早かったよな。 
坂東の御家人たちを脱落させずに、まとめつづけていた頼朝ってやっぱり凄いのかな?

118: 日本@名無史さん 2016/07/01(金) 10:35:06.05
戦に敗れて弱っている時にたくさんの人が助けにくる頼朝と、戦に負けると人が離れる義仲の違いはなんだろう。 
軍事力あっての政治力という見方もあるけど、軍事力を背景に味方にした軍勢は、負けて旗色が悪くなると離れていくよな。 
頼朝は戦に負けてしょぼんとしているときになぜか仲間が多くできる。 
梶原景時しかり、千葉常胤しかり、上総広常しかり。 
人望なのか、政治力なのか。

123: 日本@名無史さん 2016/07/02(土) 21:08:45.98
>>118 
相模、武蔵、房総武者と信濃、上野、北陸武者の差

120: 日本@名無史さん 2016/07/01(金) 21:47:03.56
永井路子さんの「北条政子」の中の頼朝のセリフに「俺の運はどんずまりになって開くことがある。いや、どうもそこまで来ないと開かないらしい。」 
とあった。 
頼朝の人生を象徴するセリフだなと思った。 
平治然り、石橋山前後然り。

126: 日本@名無史さん 2016/07/09(土) 16:00:09.31
政子が嫁がなかったら三浦あたりが執権になってたんだろうな

128: 日本@名無史さん 2016/07/09(土) 18:41:31.21
政子の前に付き合ってた伊東祐親の娘とは引き離されたけどな。 
間に生まれた娘も祐親に殺されてる。 
祐親次第では伊東が執権だったのに。

129: 日本@名無史さん 2016/07/09(土) 21:11:32.17
しかし頼朝ってほんと等身大の普通の人間だよな 

たいがいはさ弟の義経みたいに超人伝説みたいのあんじゃん 

そういうのがあんまりないつうか 
鮭食って喜んだり普通過ぎるよな

130: 日本@名無史さん 2016/07/09(土) 22:13:52.15
>>129 
最後は馬から落ち死んだからな あまり伝説的に書くわけにも

131: 日本@名無史さん 2016/07/10(日) 00:43:50.90
超絶の人たらしだったんじゃないかな 
表面的には魅力あってカリスマ性もあるけど中身は冷徹な政治家

133: 日本@名無史さん 2016/07/10(日) 04:09:17.22
頼朝は担ぎ易い神輿に見えたんだろう

135: 名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote! 2016/07/10(日) 15:54:12.05
確かに、石橋山の合戦で敗れた頼朝のところに、続々と武士たちが合流してくるというのは不思議な話だ。 
ふつう、あれだけ惨敗してしまえば、政治生命を失うものではないのか? 

義仲が粟津の松原で敗れた後、無事に北陸に落ち延びられたならば、再び武士たちを集めて、再起できたであろうか?

136: 名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote! 2016/07/10(日) 16:53:50.84
頼朝の売りって軍事力ではないから、戦でボコられてもダメージは無いという、ある意味最強の存在だったんじゃないのか

137: 名無しさん@そうだ選挙に行こう! Go to vote! 2016/07/10(日) 18:13:03.06
頼朝の売りは源氏の嫡流(河内源氏の)であるということだよ。 
これが大きいんだろう・・・ 

南北朝でも足利尊氏が源氏の棟梁と認識されてたから味方した勢力も多いだろうしな・・・
じゃあ、新田義貞(源義国の長男系)はどうだったんだ?、って疑問に思うかもだけど、そこはスルーして見逃してくれ!

141: 日本@名無史さん 2016/07/11(月) 18:05:31.23
>>137 
本人が流刑前に獲得した官位と都との人脈、それと父親を通じて南坂東の武士たちがまんざら知らない顔じゃなかったという点が大きいだろう。 
嫡流は勝ったもんが名乗るものだから石橋山時点では頼朝が嫡流と認識されてたわけじゃないだろう。

142: 日本@名無史さん 2016/07/11(月) 21:15:08.05
頼朝は曲がりなりにも令旨を奉じてたってのが大きかった 
義仲もそのあたりは一緒だろう

143: 日本@名無史さん 2016/07/11(月) 23:52:09.20
頼朝は血筋の正当性のわりには誰のツバも付いてないというか、北条という外戚はいたものの、決起時には北条単体では何の力も無いという状態で、つまり頼朝のもとに参陣する武士団は平等にスタートアップの権利を有することになる、というのも頼朝人気の理由の一つではないかな 

木曽義仲などは地元の武士団が創業メンバーで、後から参陣してもどうしたって2番手3番手の扱いだろうし、それではモチベが上がらないよね

144: 日本@名無史さん 2016/07/12(火) 00:51:25.65
千葉と上総が来たのがデカイよね 
流れを作るには三浦じゃ身が小さ過ぎる 
両総に頼朝担ぐメリットがあったってのが最大の要因じゃないかな

146: 日本@名無史さん 2016/07/12(火) 09:39:16.63
上総広常は伊藤忠清との紛争があったからな 
平家と確執が生じていた

147: 日本@名無史さん 2016/07/12(火) 14:10:03.93
千葉も重盛縁戚の千田氏にかなり圧迫されて起死回生の機会を狙ってたし。

149: 日本@名無史さん 2016/07/23(土) 00:45:22.30
頼朝・義経がいなければ義仲は天下統一ができたのだろうか? 
マネジメント 人心収攬術 外交手腕がなさそうな人なので京都幕府は長続きしそうな気がしない。 
あるいは南北朝時代の足利幕府のように四苦八苦しながら存続するか。 
西国は平氏に、奥州は藤原氏に半独立状態を認め、他の源氏と同盟軍の将として京都幕府は存在。 
足利幕府の劣化バージョンだな。

151: 日本@名無史さん 2016/07/23(土) 09:37:25.99
源義仲は政権構想がないし、広範な武士団の支持もないので、「幕府」と言えるような政権は無理だと思う。 
後白河院が平家を牽制するための手段として使われるのが関の山ではないか。 

後白河院を幽閉して全権を掌握し、「京都幕府」のような状態になったのだろうが、その後の構想がなく、人脈やノウハウもない。 
仮に頼朝・義経がいなくても、院宣を受けた別の武士に追討されてしまうのではないか。 
義仲よりまだ平家のほうがはるかに政権運営力があると思う。

155: 日本@名無史さん 2016/07/24(日) 05:19:37.68
牛車の乗り降りの作法を間違えて顰蹙を買ったんだよな 
貴族化した平家とは対照的だが

157: 日本@名無史さん 2016/07/26(火) 23:39:07.92
用事で尋ねて来た貴族に強引に食事を勧め、大盛りのご飯を出して、困らせたこともあった。 
根は善良だが、都の文化を知らない無骨者として描かれている。

161: 日本@名無史さん 2016/07/29(金) 09:05:45.05
20 :日本@名無史さん 2015/09/22(火) 17:54:07.17 

信濃源氏などは義仲に従ったというよりは、やや義仲に主導権のある同盟ってとこかな? 

信濃以外に義仲についてたのは(同盟的立場) 

北陸豪族 → すぐ離れる 
源光長(美濃源氏)→法皇につき敵対 
葦敷義隆(尾張源氏)→距離を置く 
安田義定(甲斐源氏)→離れて頼朝につく 
源行家→ 敵対 

山本義経(近江源氏)→最後まで義仲につく 
志田義広→最後まで義仲につく 

頼朝のような強力な主従関係によって構成された(といっとも後世より拘束力ははるかに弱い)家人をあまりもたない 
同盟者頼みの義仲は同盟者に去られると軍事力はすぐにガタ落ちする

164: 日本@名無史さん 2016/07/30(土) 16:45:53.71
義仲と頼朝の差は政治能力の差であることは論をまたないが、具体的には組織のマネジメント力、人心収攬術の差に顕著に出ている。 
義仲入京時の反平家軍は美濃源氏 甲斐源氏、北陸の豪族などの混成軍で、入京後の狼藉三昧を義仲一人に責任を負わせるのは聊か可哀そうではある。 
しかし、「頼朝だったら・・・」と考えるともう少し上手く処理できただろう。 
対朝廷政策も稚拙であったし、実際史実においても、宇治川の戦い直前には京都幕府は事実上空中分解していた。

165: 日本@名無史さん 2016/07/30(土) 16:57:44.51
義仲は自身の勢力圏が頼朝よりはるかに京都に近かったため、頼朝より先に上洛できた。 
清和源氏の嫡流を自任する頼朝にとっては忸怩たるものがあったろう。寿永の宣旨の要請は、実は頼朝の焦燥から為されたものであることに注目するべきである。 
しかし、義仲は先に「幕府を築いた」ことによって、様々な諸問題を一気に背負いこんでしまい自滅した。 
頼朝はこれを反面教師に、入京前の事前学習が出来た。常にピンチをチャンスに変えてきた
頼朝らしさがここでも発揮された。


167: 日本@名無史さん 2016/08/17(水) 16:10:48.69
木曽義仲は日本人好みの悲劇性 英雄性は十分持ちながら 同時期の義経においしい所を
全部持っていかれて マイナー武将になってしまった。

170: 日本@名無史さん 2016/08/19(金) 21:02:30.57
火牛の計について教えてください。
義仲勢は加賀の百姓武士どもを叩きのめすのは簡単だったのでしょうか?

172: 日本@名無史さん 2016/08/21(日) 09:51:33.75
>>170
火牛の計は『源平盛衰記』の作者が『史記』からパクった創作と言われてるよね。

171: 日本@名無史さん 2016/08/20(土) 18:27:32.22
吉川英治の新平家物語を読んでる。とても面白い。
木曽義仲が京にのぼったところまで読んだ。
名作ですな。

179: 日本@名無史さん 2016/08/28(日) 14:37:50.65
<鎌倉幕府> 源頼朝 -北条政子ー北条時政ー大江広元
<京都幕府> 源義仲 -巴御前 ー中原兼遠ー大夫房覚明

こう見れば相似形で義仲も悪くないんだが、どこで差がついたのか?

180: 日本@名無史さん 2016/08/28(日) 23:27:16.11
ブレーンが手綱を握れていない、という事だな。

181: 日本@名無史さん 2016/08/29(月) 08:32:42.65
>>180
ブレーンというより嫁ハンの手綱の違いではないか

186: 日本@名無史さん 2016/09/11(日) 19:52:27.44
総追撫使に任命されてないからじゃね

182: 日本@名無史さん 2016/08/29(月) 11:30:04.19
巴御前って嫁だったっけ?

209: 日本@名無史さん 2016/12/30(金) 19:59:18.14
>>182
「便女」(びんじょ)

「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女を具せられたり。」平家物語

192: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 14:39:21.01
ちょっと長いけど

1180年、以仁王の令旨が義仲のもとにも届けられました。義仲は木曽周辺の軍勢をまとめ、旗挙げし、平氏に味方する豪族を討ちつつ、新たな本拠地、依田城(長野県丸子町)に移り、軍事的後見役・根々井行親の勢力圏内の武将達を従えました。兼平も根々井行親の領地の近くに館を構えました。そして、義仲に従う軍勢は長野県から群馬県北部に及びました。

横田河原の合戦で勝利の後、越後国府に入った義仲は、北陸を固めるために、兼平を各地に赴かせました。兼平は新潟県糸魚川市、新潟県中魚沼郡津南町、福井県丹生郡清水町にそれぞれ「今井城」を築き、義仲の期待に応えました。

1183年、頼朝と対立した義仲のおじ義広と行家が、義仲の元にやってきました。その事をネタに頼朝は義仲に兵を送って「二人のおじか、息子の義高を鎌倉に差し出さなければ、兵を信濃に進める」と脅しました。義仲は家臣達と話し合いましたが、なかなか答えは出ませんでした。

義仲は自分を頼ってきたおじたちを見捨てる事はできず、「ここで鎌倉と戦うのは得策ではない。おじが無理なら義高を鎌倉に送るべきだ」という小室光兼と「どうせいつか頼朝とは決着をつけなくてはならないのだからここで戦うべきだ」という兼平が対立し、義仲は小室の意見を採って、息子の義高を鎌倉に送りました。これにより頼朝は満足し、義仲は鎌倉から脅かされることなく北陸道へ兵を送る事ができました。

義仲軍は、倶利伽羅峠の戦い(五月)の圧倒的な勝利をはじめ、北陸道を義仲軍は連戦連勝で進みました。兼平は木曽四天王の随一として、各地で戦いました。特に倶利伽羅峠の戦いの前哨戦であった般若野(富山県)の戦いでは六〇〇〇騎を率いて平氏側の先鋒部隊をけちらし、倶利伽羅での勝利を導き出しました。(続く)

193: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 14:39:46.72
(続き)
義仲は勝利におぼれることなく慎重に兵を進め、平家の都落ちを見定めてから京都へ入りました。平氏は幼い天皇を連れ西国に逃れ、再起を図ろうとしました。御白河院は義仲に平家追討を命じましたが、義仲はそれに従わず、都の治安を守ろうとしました。しかし、一一八一から二年にかけての飢饉のため、京では食糧不足に直面していました。そこに義仲軍が入るという変則的な出来事が起きたため、都の混乱は続き、義仲軍の名をかたって乱暴狼藉を働く者も現れました。
また御白河院進めていた新天皇の人選についても、義仲が北陸の宮(以仁王の子)を推して介入したため、次第に院は義仲を疎ましく思うようになっていきました。院は「平家追討」を名目に、義仲を遠ざけ、密使を送ってきた頼朝に接近しました。

義仲は山陽道に進軍しましたが、先鋒隊が水島(岡山県)で平家に破れ、また、院が頼朝に関東・中部地方の支配を許可する「十月宣旨」を出した事を知り、急いで京に戻りました。しかし、院の近臣は兵を集め義仲を挑発し、義仲は院に弓を引く事を決意しました。

兼平はそれをとめようとしましたが、義仲の意志がかたい事を知り、兼平は自ら院の御所に火を放ちました。 その結果、義仲は政権を握り、征夷大将軍にまでなりましたが、頼朝が送った義経らの軍に追われる身となりました。

兼平は義経の軍に立ち向かうべく義仲と別行動をしていましたが、死を前にして、二人は奇跡的にめぐり合い、そして、共に粟津で果てたのでした。

http://kyaro.nikita.jp/jinbutu/siten/imai.htm

194: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 14:43:04.99
兼平は
「どうせいつかは頼朝と戦わなければならないのだから」
って思っていたんだね。
いつから、どうしてそう思ったんだろう。

195: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 15:11:31.20
後白河法皇ってやつが歴史を引っ掻き回しているな。
どんな顔してたんだろ。

197: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 20:47:54.69
>>195
>後白河法皇ってやつが歴史を引っ掻き回しているな。

俺も昔はそう思ってたけどね。朝廷は自前の武力を持ってないから身を守るために使える者を常に求めているのだ。平家は大きくなりすぎて言うことを聞かなくなったから源氏に声をかけた。義仲も言うことを聞かない暴れん坊だから義経に目をつけた。

198: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 23:26:46.55
それを引っ掻き回すって言うんだろ。
民はいい迷惑だな。

199: 日本@名無史さん 2016/09/18(日) 23:46:02.23
しかし武士の武力無しには京の治安も守れないんだぞ。
武士がちゃんとやれば民のためにもなる筈だ。

200: 日本@名無史さん 2016/09/19(月) 00:10:27.45
自分は動かない麻呂の為にちゃんと働くわけは無いだろう。
まぁだからこその承久の乱なんだが。

202: 日本@名無史さん 2016/09/24(土) 07:20:38.30
軍事貴族連合盟主としての河内源氏とそれを下支えの暴力装置とした摂関権力を破壊するため白河上皇は、軍事奴隷階級を自らの直卒として掌握し全国の国衙郡衙を軍事管制した。
その総司令部が法勝寺の北面であり総指揮官が平家である。この革命的権力を継承したのが後白河であり武装皇権というべきもの。

皇家がやんちゃなので他家もならい
勝手に外交していたのが平家
勝手に幕府を建てたのが源氏

204: 日本@名無史さん 2016/09/27(火) 02:11:28.90
>>202
院政期が中世の始まりだから
単に武士対貴族という階級闘争的な史観ではなくて、貴族社会に中世の発祥を求めるのが最近の考え方だからね

205: 日本@名無史さん 2016/09/27(火) 09:52:34.44
しかしその貴族社会は社会のてっぺんから程なくドロップアウトしてしまう。
だから中世=武士って感覚なんだろ。
それに貴族は封建制を敷いてないからな。
半中世?的な感じか。

206: 日本@名無史さん 2016/09/27(火) 10:39:25.82
一応、鎌倉末までは公家は膨大な所領を有する支配階級の最上層部だろ。
中世も南北朝の真ん中あたりで二分化されるんjyないかな。応安の半済令あたりで。
前期中世・後期中世みたいな。

207: 日本@名無史さん 2016/09/28(水) 05:16:05.22
摂家や宮家から将軍を迎えたり協調しつつも、京と鎌倉は隔離してたから
ジレンマを完全に克服したのが室町で単純に権限自体は守護領国制の方が大きいからな

208: 日本@名無史さん 2016/12/30(金) 14:27:16.67
> 義仲は、オオカミ数頭相手に一人で立ち向かい斬殺

> 人形劇『平家物語』vol.5 - 22~24話
http://kiratemari.exblog.jp/4627472/
> 駒ヶ根の牧が狼の群れに襲われ、愛馬が餌食にされたことに腹を立てた義仲が、

> たった一人で狼数頭に立ち向かい斬殺する光景を目の当たりにして、
> 将来天下にはばたく武将の相を見て取り、その教育係を引き受けた…

木曾義仲の興亡と越中国の伝説
http://ettyuukyoudoshi.seesaa.net/pages/user/m/article?article_id=299381386
> ・平治二(永暦元年、1160)年 7歳 狼退治

えっ・・・義仲が「7歳で」オオカミ退治って、ものすごい武人では?

210: 日本@名無史さん 2017/01/02(月) 02:35:14.70
狼は人を襲わないから無抵抗の狼を惨殺しただけやで

211: 日本@名無史さん 2017/01/02(月) 16:58:29.20
「狼数頭に立ち向かい」てあるが
それに狼が逃げる気なら人間の脚じゃ追いつけないだろ

212: 日本@名無史さん 2017/01/02(月) 17:59:20.42
大勢の先頭に立って相対したくらいの話じゃないのかね

213: 日本@名無史さん 2017/01/04(水) 22:06:39.17
江戸時代には人食いも多くて駆除用の落とし穴「狼落とし」の遺構も残ってるが義仲の時代にはどうだったのだろうか

【長野】オオカミ被害防ぐ江戸時代の遺構「狼落とし」発見 富士見町内2例目[11/12]
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1447944512
>江戸時代、乙事などの村々では畑仕事や草刈り中などに大人や子ども、馬がオオカミに襲われて命を落とした記録が古文書に残っている。

被害に悩んだ村々が藩に駆除を願い出たほか、1822(文政5)年には藩の指導を受けて村々で狼落としが造られたという。

248: 日本@名無史さん 2018/01/21(日) 23:21:20.38
朝廷 vs 武家 というと大抵は承久の乱や延元の乱を想起するが、その嚆矢は法住寺合戦である。義仲は数倍の法皇軍を破り、政局の主導権を手にした。

義仲は法皇派の公卿を朝廷から一掃し、親義仲派の松殿師家を関白にし、事実上の義仲政権を築いた。やがて、征東大将軍に任ぜられ京都幕府を開いた。
鎌倉軍の上洛、攻撃によって京都幕府は短命に終わったが、 この政権は鎌倉幕府のような緩やかな封建制度ではなく、非常にドラスティックな転換を志向していたかもしれない。清盛 頼朝 北条氏が出来なかった王家・公家・大寺社などの旧支配勢力の一掃である。
義仲は「未完の革命家」と考えてよい。

249: 日本@名無史さん 2018/01/22(月) 09:17:22.63
たしかに日本史上初を達成する行動は勇気がいるよな。

256: 日本@名無史さん 2018/02/02(金) 10:55:54.14
頼朝より先に幕府を開いた義仲は過小評価だよな。
教科書では扱い小さいし。

260: 日本@名無史さん 2018/05/03(木) 12:54:35.63
>>256
将軍イコール幕府じゃねえぞ

264: 日本@名無史さん 2018/05/13(日) 11:23:07.09
清盛の「脱・京都」志向と頼朝の「親・京都」志向も考える必要がある。
京都を離れたかったが完全には離れられなかった清盛
京都に還りたかったが鎌倉を捨てるわけにはいかない頼朝
それぞれ政権の成立過程と権力構造が違うので優劣を論ずるのは無意味。
ただ、この「六波羅モデル」と「鎌倉モデル」の内 長期政権として成功したのが後者であり、後世このモデルを採用した徳川幕府も成功したもんだから、頼朝>清盛に見られてしまうのは清盛の不幸ではあるな。
承久の乱で鎌倉方が負けておれば頼朝も北条も一発屋扱いであったろうし、石橋山の合戦後、梶原景時が「頼朝、ハケーン!!」と叫んでいたら頼朝は源三位頼政以下の扱いであったろう。

266: 日本@名無史さん 2018/05/13(日) 16:03:14.65
義仲と義経が目指したのは京での軍事貴族だったけど、頼朝だけは完全に違ったな
平家の畿内惣官職を幕府とする見方もある

267: 日本@名無史さん 2018/05/13(日) 16:42:41.43
頼朝はかなりの強運の持ち主だが、北条時政も運が良い。娘の結婚も政子にせがまれて仕方なく許したらしいからな

268: 日本@名無史さん 2018/05/16(水) 21:32:31.43
「武士の世の中」を作ったのは、実は以仁王だということを忘れてはいけない。

269: 日本@名無史さん 2018/05/17(木) 20:56:14.89
以仁王の存在が鎌倉の政権のきっかけになったのは認めよう。
しかし以仁王が作ったと言うのは語弊があるぞ。

270: 日本@名無史さん 2018/05/17(木) 21:14:21.61
令旨がなかったら頼朝は動かなかっただろうからな
流人生活自体は平穏無事だったらしいが

273: 日本@名無史さん 2018/05/18(金) 09:44:30.03
行家さんのことも忘れないでくれw

274: 日本@名無史さん 2018/05/18(金) 12:17:57.98
行家は源氏一族のお荷物だということは憶えている

275: 日本@名無史さん 2018/05/19(土) 05:54:54.83
行家は兵法のオタク的な知識は豊富にあったが、実践となると百戦百敗という
ダメダメっぷりだった

今の世のオタクにも通じるものがある

276: 日本@名無史さん 2018/05/19(土) 12:00:58.00
一勝九十九敗なら天下取れたのに・・・

277: 日本@名無史さん 2018/05/19(土) 13:31:46.34
行家は行動自体に小物感を感じてしまう

278: 日本@名無史さん 2018/05/21(月) 00:57:49.29
山伏に変装して苦労して各地を廻り、源氏の決起に貢献したのにね・・・悲

282: 日本@名無史さん 2018/05/21(月) 19:44:55.87
>>278
甥っ子どもも、行家おじさんには冷たかったな

285: 日本@名無史さん 2018/05/22(火) 09:32:51.91
叔父といっても義朝の末弟の行家は頼朝とあまり年は違わず、義平より年下だったな
昔の武将は子だくさんだったから、まだ父が種付け終わらないうちに長男が長子を設けることも珍しくなかった
平家でも忠度(清盛の末弟)も重盛より年下だった

279: 日本@名無史さん 2018/05/21(月) 03:04:55.17
烏合の衆というか、源氏は各々が目指す方向が全く異なっていたからな

280: 日本@名無史さん 2018/05/21(月) 09:56:23.33
武田兄弟や新田義重は何を目指していたのだろうか?
少なくとも頼朝の配下というのは本意ではないだろう、

281: 日本@名無史さん 2018/05/21(月) 12:59:22.83
武田は複数の分家で親鎌倉派と反鎌倉派で分かれていたからな

引用元: ・木曽義仲と京都幕府の謎




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