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1: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 01/12/19 01:02
後梁、後唐、後晋、後漢、後周
呉、呉越、南唐、楚、【門虫】(びん。本来は、もんがまえに虫)、南平(荊南)、前蜀、後蜀、南漢、北漢、……。
朱全忠、李克用、柴栄、李煜、馮道などなど。
唐と宋(北宋)のはざまにある五十余年、五代十国時代について、語るスレです。 


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五代十国時代を語ろう 







2: 世界@名無史さん 01/12/19 01:27
馮道萌え。

4: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 01/12/19 23:37
>>2
馮道は私も好きです。
後世では無節操だと叩かれてますが、杜重威のような者とは違うわけで(w
同時代の人からは寛厚の長者と見られていましたし。

3: 世界@名無史さん 01/12/19 01:34
石敬塘はヘタレ

4: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 01/12/19 23:37
>>3
逆にいうと、勃興のただ中にあった契丹がそれだけ脅威だったというわけですね。
もっとも、燕雲十六州割譲だの何だのは、やりすぎの感も否めませんが。

6: 世界@名無史さん 01/12/20 23:34
五代はともかくとして十国の興亡についてわかりやすく教えて下さい。」

7: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 01/12/21 00:11
>>6
一応、地理的な流れとしては以下のような感じです。
<江南>呉(902~937)→南唐(937~975)
徐知誥(呉の権臣徐温の仮子)が呉の皇帝から禅譲(形式的)を受ける。
<浙江>呉越(907~978)
<湖南>楚(907~951)
 内紛の末、南唐に攻め滅ぼされる。
<福建>【門虫】(909~945)
 内紛の末、南唐に攻め滅ぼされる。
<湖北>南平(荊南。907~963)
<四川>前蜀(907~925)→後蜀(934~965)
 前蜀は後唐に滅ぼされる。その後、節度使の孟知祥が自立して後蜀を建てる。
<広東>南漢(909~971)
<山西>北漢(951~979)
要は、地方分権状態ですね。

11: 世界@名無史さん 01/12/21 05:54
後周の世宗って名君とされているけど後に宋の太祖が回想して「近臣のうちで『方面大耳』の者を殺したけど自分は難を逃れた」とか言ってる。

人相だけで近臣を殺したのか?

17: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 01/12/22 00:22
>>11
初耳です。その述懐は『宋史』jから引用したのでしょうか?

33: 11です 01/12/29 23:50
「方面大耳」の話は、清水書院の新書『45 独裁君主の登場 宋の太祖と太宗, 竺沙 雅章 著』に出てきますが、原史料は不詳です。 
おそらく『太祖実録』かと。 

内容は『宋史』とかなり重なるのでしょうが。

187: あやめ 02/07/31 19:45
>>11 
>>17
>>33
で話題になっていた「方面大耳」ですが、「宋史」巻三「太祖本紀」の末段の、加上 尊謚記事の次に下のように出ています。
帝性孝友節儉、質任自然不事矯飾、受禪之初頗好微行、或諫其輕出、曰「帝王之興自有 天命、周世宗見諸將方面大耳者皆殺之、我終日侍側不能害也」 既而微行愈數、有諫輒
語之曰「有天命者任自為之、不汝禁也」
余りに稗史風の話題なので、まさか本紀に明記してあるとは思わず、さすがの潰瘍さんも
見落とされたのでしょう。
太祖が微行を好んだという話は、いろんな筆記・小説・戯劇にも取り上げられていますね。


12: 世界@名無史さん 01/12/21 11:56
五代十国ってそれぞれ民族的には何に属しているのですか?

17: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 01/12/22 00:22
>>12
後唐、後晋、後漢、北漢は西突厥(沙陀)。
南漢はペルシアだか何かの系統(うろ覚えでスマソ)
あとは漢民族だったはずです。

15: 世界@名無史さん 01/12/21 20:50
後唐の李克用、胡人の出で天を祭ったりした。優れた人だったというね。

16: 林彪 01/12/21 21:28
>>15
郊天の儀は誰がやってもいいだろ。
天という概念自体、西戎出身の周が持っていたんだから。
秦も西戎、唐や隋は鮮卑系だし。

18: 世界@名無史さん 01/12/22 23:20
南漢劉氏がアラビア人だったという説は後で反論が出て今の通説は否定的じゃない?
漢族かどうかは疑わしいというレベルだったと。

20: 世界@名無史さん 01/12/22 23:48
>>18
ペルシア系なのはどこだっけ?

22: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 01/12/23 00:24
>>18 >>20
南漢(特に後主劉鋹)はペルシア系の宦官を重用したとはいいますが。。。
う~ん、結局のところどうなんでしょう。

26: 世界@名無史さん 01/12/25 23:48
後周の世宗によって、のちの宋の太祖が殿前都点検に任命されていたと記憶しておりますが、「殿前」と「点検」は意味が分かるのですが、ここでいう「都」とはどういうでしょうか?

27: 世界@名無史さん 01/12/25 23:50
>>26
ここでいう「都」とはどういう意味でしょうか? でした。スマソ。

28: 潰瘍さんじゃないが 01/12/25 23:51
「都」は多分「都て=すべて」

総司令官の「総」くらいの意味じゃないかな。

29: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 01/12/26 00:58
>>26-28
殿前都点検の下には、都指揮使がいます。
で、その下には指揮使がいます。
それを考えると、>>28さんがご指摘された「総司令官の『総』」は鋭いところを衝いていると思います。
漢文調に読むとすれば、「指揮使を都(統)べる」といったところでしょうか。

30: 世界@名無史さん 01/12/29 14:43
十国で一番有力だったのは何ですか?
南唐は唐の貴族文化を継承したことで有名ですが・・・

32: 世界@名無史さん 01/12/29 23:11
>>30
強いて言えば、30余州の版図を誇った南唐でしょうが、中原に大きな出兵をしたことは一度もありません。

31: 世界@名無史さん 01/12/29 17:13
茶の生産で儲けてた国は、どこだっけ?

32: 世界@名無史さん 01/12/29 23:11
>>31
楚が有名ですね。

34: 世界@名無史さん 01/12/30 00:39
「守成は創業より難し」って教訓に満ちた時代。

37: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 01/12/31 16:52
>>34
特に、「五代」の方を見てみると顕著ですよね。
李嗣源とか柴栄あたりはそれなりにうまくやっていったのですが……。

35: 26 01/12/30 02:01
ところで五代とは必ずしも関係ないことで質問なんですが、通常唐より前の時代は皇帝はし号で呼んで唐以降は廟号で呼びますが、これは何故なのでしょうか?

37: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 01/12/31 16:52
>>35
何処かで聞いたような気がするのですが、いまいち覚えがないので短絡的な推測にて。

漢代の謚は「孝文皇帝」(文帝。廟号は太宗)という類ですが、唐代になると、「神堯大聖光孝皇帝」(高祖)というように大仰になります。
あまりにも長ったらしくなるので、廟号で呼ぶようにしたとか……。
もっとも、廟号がない、例えば唐の最後の皇帝(哀帝あるいは済陰王)
とかは謚号などになっていますが。

もっと別の事情がありそうですけどね(^-^;
ご存じの方、ご教示いただけると幸いです。

38: 26 02/01/02 10:50
>>37
少なくとも確実に先帝に廟号(政変とかで贈らない場合は除く)を贈るようになったのはやはり唐以降なんですよね?それも理由のひとつなのかと思ったのですが?

41: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/04 01:08
>>38
自分の拙い私見より、そちらのほうが説明としては妥当かも。
通鑑をざっと眺めてみると、廟号が確実に贈られているのは唐や五代ですよね(唐哀帝や朱友珪らは除外するとして)。

39: 世界@名無史さん 02/01/02 13:00
申し訳ありませんが十国の興亡について教えてくれませんか?
いつ、どこでどういう出自の誰が建国してどういう経過を経て滅んだのかわかる範囲でよいのでどうか宜しくお願いします。

41: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/04 01:08
>>39
結構長くなるので、後日(なるべく早く)細切れで説明します。
すみません(^^;

42: 世界@名無史さん 02/01/04 17:13
五代十国スレッド復活嬉しいです。
個人的には、この時代は三国時代と同じ位好きな時代なので嬉しい。
唐末の”黄巣の乱”から群雄割拠→朱全忠の帝位簒奪何かの流れも似ているし、その後の五代国の興亡何かは、三国鼎立後(孔明死後)の状況より面白いと思います。
孔明に変わる人物としては、馮道の様な魅力的人物も存在。
その後の統一期に入っての郭威・柴栄・趙匡胤等の英傑の登場は、司馬炎等とは比べ物に成らない位の魅力が有ります。

時代期間的にも、黄巾の乱~晋の天下統一 と、黄巣の乱~宋の天下統一までの流れが、同じ時間を要している事から、この時代の通史的小説を、有名処な先生に大作として執筆して頂ければ面白いだろうな?と考えて居ます。

そう言う点でも、>>39さんが仰る通り、中原の興亡に付いては文献が有るのに、江南の十国についての文献が余り見られないのは残念ですね。僕も、十国に関して(建国者のエピソード等)知識がお有りの方がいらっしゃれば御教授頂けると嬉しいです。

48: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/05 00:49
>>42
>この時代は三国時代と同じ位好きな時代

同感なので、この時代のことを勉強していずれ小説でも書いてみたいなあ、なんて思っています(まだまだ修業が足りない身ですが^^;)。
中国では『残唐五代史演義』とかありますが、ものによっては、三分の一を黄巣の乱に割いているのもありますね。
十国の史書では『十国春秋』なるものがありますが、後世(清代)によるものなので注意が必要。

45: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/05 00:36
>>39
あくまでもざっとですが、書いてみます。
基本的に、十国政権の建国過程については、五代王朝から王位を授けられて建国と認められる場合と、五代に従わず独立して国を建てる場合とに分かれます。
>>7も併せてご覧ください。

呉:揚州にて、楊行密が建国。孤児の身から賊鎮圧の兵に志願し、のち江淮の混乱を戦い抜いて唐の昭宗から呉王に任じられる。
行密の死後、部下の徐温が権力を握りだし、四代で徐温の仮子徐知誥へ政権を明け渡すことになる。

呉越:杭州にて、銭鏐が建国。はじめ任侠道にあったが、地元の防衛軍に所属し、頭角を現す。朱全忠が後梁を建国すると呉越王に封ぜられ、五代王朝に従順たる基本政策を採った。五代目が北宋に対して無血降伏する。

46: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/05 00:37
続き。

南唐:金陵にて、徐知誥が建国。孤児であったが、戦乱で楊行密に拾われ、徐温の仮子として育てられる。呉王から禅譲を受けてからは、唐の皇族の末裔と自称し、李【日弁】(べん)と改名。十国中最大の勢力であったが、後周および北宋の南征の前に屈した。全三代。

楚:潭州(長沙)にて、木工あがりの馬殷が建国。もとは秦宗権の反乱軍に属していたが、これを糾合する。子沢山で親族の権勢が強く、内乱で滅んだ。全五代。

【門虫】:福州にて、下吏の兄を継いで戦乱を鎮定した王審知が建国。
審知の死後は骨肉の争い激しく、六代で滅びる。

南平:江陵府にて、高季興が建国。彼はいわゆる奉公人として開封の商人に隷属していたが、その商人が朱全忠の仮子となり、全忠との縁が深くなる。領土は狭小だが、緩衝国として五十余年の命脈を保つ(最後は北宋に降伏)。全五代。

47: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/05 00:37
その3。

前蜀:成都府にて、王建が建国。陳州の無頼漢(「王八」と呼ばれていた)であったが、節度使麾下の将となり、僖宗の蒙塵に従う。朱全忠の即位に反抗して蜀王となる。唐の亡命貴族を受け入れるが、二代目が文弱にて後唐に滅ぼされる。

後蜀:後唐の節度使であった孟知祥が、成都府にて独立。前蜀とほぼ同様。二代目が北宋に降伏。

南漢:南方の下吏の流れを汲む劉陟が、広州にて建国。歴代君主は暴君が多く、宦官が重用された。四代目が北宋に降伏。

北漢:後漢の高祖劉知遠の従弟たる劉崇が、後周の郭威に反し太原府にて建国。契丹の援助を以て後周、次いで北宋にあたるが、国貧しく四代で滅亡。

50: 世界@名無史さん 02/01/05 06:43
>五代潰瘍さん
十国の詳細解説有難う御座います。勉強に成りました(w
『残唐五代史演義』と言う書籍の、翻訳本等有ったら、是非読んでみたいですね。

ちなみにこの時代で、私の好きな人物も、やはりダントツで馮道なのですが、意外と悪役に見られ勝ちな、朱全忠もプチ曹操みたいで好きです。でも、唐室を絶やしてしまった。と言う点では心象は悪く成らざるを得ません。

その点、後周の元皇族を家訓にまでして保護した宋は、良いと思います。
(中国史の中でも、前王朝の皇族を保護したのは、三国魏と、宋だけですよね?)

この時代も、以前関連スレッドが話題に出ていましたが、某歴史ゲーム会社がゲームの題材にしてくれないかな?なんて思います。(三国志とは別に)
そうすれば一気にメジャーに成るでしょうね。

51: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/07 00:53
>>50
かつて、曹操再評価運動ってありましたよね。
朱全忠も再評価の動きはあったようですが、「黄巣政権の裏切り者」ってことでお釈迦になったことが。。。
政権奪取のやり口jも陰惨でしたしね。
(それをいったら西晋の司馬氏も該当しそうだが)

宋の保護政策は好感が持てますね。
おかげで、(創作だけど)水滸伝にも宋王室の末裔が登場してます(小旋風柴進)。
皇族保護政策、戦国時代とか五胡十六国あたりはどうでしょう?
全部は詳しくわからないので(^^;

43: 世界@名無史さん 02/01/04 17:42
しかし、今ヴェトナムが存在出来ているのはこの時期の分裂のお蔭ってのはあるよな。
唐末の混乱期に土着の武将が政権を作ったが、政権基盤が脆弱で目まぐるしく政権が交代しているのに、結局、南漢はヴェトナムを征伐出来なかったものね。

南漢や栄が再度版図に治めていたら、現在のヴェトナムは、

北部ー中国の支配下(ヴェト人は中国南部の小数民族ということに)
中部ーチャム人の国
南部ーカンボジアの版図

だったかもね。

48: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/05 00:49
>>43
南漢は五代王朝を「洛州刺史」と呼んでいて鼻息が荒かったのに、それを外征に生かさなかったのかしらん、と思うこともあります。

54: 世界@名無史さん 02/01/13 17:52

南唐の中主元宗・李璟は「ビン」・「楚」を併呑して、一時期(柴栄の南征前)その勢力図を見ると、当時の五代、後周と同等、またはそれを凌ぐ版図を誇っている。

と言う事は、柴栄の南征は、後周・南唐両国に取って当時の中国では天下分け目の戦いと言う様な認識だったと思うんですが、当時両国で大規模な会戦、有名な戦いは有ったのでしょうか?
また、当時、特に南唐側に名が残る将軍・人物は居たのでしょうか?

一応自分でも調べて見ます。

59: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/16 01:02

>>54
後周・南唐の攻防は、955年(後周の顕徳二年、南唐の保大十三年)11月に柴栄が南征したことが発端です。このあたりの南唐において有名な武将というと劉仁贍ですね。
『新五代史』では、王彦章・裴約と並んで「死節伝」に伝が立っています。
南唐の諸将が柴栄に恐れをなす中で、ひとり奮闘している様が描かれています。
例えば、緒戦の方で後周の李穀が北に兵を退いたとき、南唐の将軍劉彦貞はこれを追撃しようとしました。
劉仁贍は李穀の行動を「偽りの退却」とみなし、深追いすることをやめるよう諫言しましたが、劉彦貞に受け入れられずして敗北を喫しました。

60: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/16 01:05
>>59の続き。)
ところで、後周と南唐の国境は淮水が担っていました。
南唐では、水位が低くなる冬にのみ、淮水に沿って防備の兵を配置していました(これを「把浅」といいます)。寿州の監軍であった呉廷紹は、国境が安泰であるゆえ軍費を無駄にすべきでない、として「把浅」を廃止しようとします。
ここで、劉仁贍は上表して「把浅」の存続を求めるものの、棄却されてしまいました。
これは、柴栄南征の遠因のひとつだと思います。

後周・南唐の全体的な流れについては、こちらでも調査中です。

65: 中華@名無史さん 02/01/17 03:48
>>59>>60にわたっての丁寧なレス。サンクスです。
”劉仁贍”ですか、全く初めて聞く名前だ(汗)

自分でも調べるとか何とか言って、殆どの資料元は似たり寄ったりで全く進展が有りませんでした。
そんな中、お調べに成って居て凄いですね。
”劉仁贍”面白い武将ですね。やはり文化国で武に劣る南唐でも、流石は当時五代最大勢力南唐!やっぱり人材は居たんですね。

ちなみに、この南征を、あの馮道が柴栄に対して諫言していたんですよね。
まぁ馮道の懸念を他所に、戦争は大勝利に終りましたが・・・

67: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/18 00:39
>>65
劉仁贍についてもうちょっと掘り下げてみます、

956年正月、劉仁贍が治めている寿州に柴栄が攻め込んできましたが三ヶ月持ちこたえています(4月に長雨が十日以上も続いて淮水溢れたため、柴栄が撤退しました)。その後、李重進という者が招討使なって寿州を狙っていました。彼の軍中に不和が生じていることを探っ劉仁贍は、李重進を攻撃するよう進言しますが、斉王の李景達か許可を得られませんでした。
957年正月、柴栄がふたたび南征してきました。南唐の諸将がつぎつぎ降伏したり逃げたりする中で、劉仁贍はひとり城を堅守します。しかし病に倒れてしまい、子の劉崇諫が降伏を企みます。父はこれを知り子殺そうとしましたが、監軍の周廷構に泣きすがられて止めます。
同年3月、劉仁贍の病はいよいよ重くなります。ここで副使の呉羽書状を偽造し、寿州は柴栄の手に落ちました。劉仁贍はほどな死亡しました。

>馮道の諫言
馮道としては、柴栄の遠征が危ない(天下がますます乱れる)と思ったかもしれませんね。

55: 世界@名無史さん 02/01/14 01:22
この時代を扱った小説とかって、「馮道」位しか無い気がするけど、(しかも今は手に入れられないし・・・(泣))此処来ている他の人達は、どんな本見て触発されたんでしょうか?

お勧めの小説、またはお勧めの情報源なサイトなんかあったら教えて下さい。

小説は「十八史略」陳瞬臣 で興味持った。
そして意外と使えるのが家に有る「百科事典」

57: 世界@名無史さん 02/01/14 02:32
>>55
田○芳○の短編がありますよ。
相当嘘が多いですけれど。
彼を叩くスレは別にあるので、これ以上は止めましょう。

俺は高校の図書館にあった「アジア歴史事典」で興味を持ったな。
アジ歴って略しているところはうちの大学だけ?

56: 世界@名無史さん 02/01/14 01:47
南唐の楊氏といえば、李氏によって宮殿に一族が長年幽閉されているうちに「匹偶」?になる者が出てきたが最後は火災によって全員が焼死してしまった。
之を時の人は哀れに思った。
というような話を読みました。

これは幽閉中に寂寥と逼迫感から同姓の楊氏の男女で夫婦関係になる者がいたということでしょうか。

61: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/16 01:11
>>56
匹偶というと、つれあい・配偶を意味するので
>同姓の楊氏の男女で夫婦関係になる者がいた
というのは間違っていないと思います。
ここでいう火災とは、人災でしょうか。
李景の息がかかった南唐の将兵に放火されたとか。。。

69: 中華@名無史さん 02/01/19 02:12
陳舜臣著「中国傑物伝」読んだけど、馮道仕官最初の王朝って一般的には後唐と言う事に成って居るけど、実はその前五代十国の中にも入らなかった小国、(格好良く言えば”幻の王朝”「大燕」と言う国が最初です。
でもこの「燕」実際は五代十国に数えられなかった位なので、とっても小さい国(勢力)だった。

と言う事で、ちょっとこの番外編王朝「燕」について書いてみます。

創設者は”劉守光”。その父親”劉仁恭”は、盧竜節度使の配下に有ったがその後、晋陽に割拠する独眼竜”李克用に援助を受けてその勢力を乗っ取ったしかし、以前愛妾と通じてしまい追放した、実子”劉守光”に攻められて幽閉守光は兄”守文”をも殺し、その地位を奪った程の野心家だった。
そしてとうとう「大燕国皇帝」を名乗るのだが、彼が割拠する勢力は後梁の”朱全忠”・晋陽の”李克用”の二大勢力に挟まれた環境。
そこで彼らに抗する勢力に拡大させる為に、易定節度使の”王処直”勢力攻め取ろうと侵攻するも、”王処直”は晋陽の主、当時既に克用は世を去り息子の”存勗”に救援を求め、連合軍に滅ぼされてしまった。

ちなみに、当時の馮道は、例の得意技”諫言”を、主君にしていた為に投獄されて居たので難を逃れている。

70: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/20 00:41
>>69
おお、河北(河朔)三鎮のひとつ、廬龍節度使の流れを汲んでい燕の登場ですね。
個人的には、三国時代の燕と似ているなんて思ったりもしています。
劉仁恭が公孫度・康・恭(二代で半独立を保ち、三代目で追放される)
で、守光が公孫淵というように。
公孫淵もまた、独立する際に諫言した者を殺していましたね。

71: 中華@名無史さん 02/01/22 01:53
最近良いんじゃ無いかなぁ~?と思うのが前蜀の王健。
若い頃は、悪だったけど、成人してその行動力から国情動乱期にその頭角を表し始め次第に周囲に人望を集め、僖宗の成都避難時代には、それに従いその下で黄巣軍討伐にも貢献し、僖宗が長安帰還後は、四川の節度使の地位を奪って蜀に割拠。
その上、王朝開闢後は中央の文化人を迎え入れたりして、なかなか骨の有る人物だったんですよね。

72: 中華@名無史さん 02/01/22 02:04
それともう1つ最近興味が有るのが、黄巣の乱時代の唐王朝内勢力図。
これも三国時代前の後漢の様に、やはり五代十国体勢が整うまでは、かなりの群雄割拠状態だったのでしょうか?
後の五代十国体勢に繋がる以外の節度使等で面白いエピソードを持った人物とかは居るんでしょうか?

例えば、黄巣の乱自体が、足掛け10年も続いている(しかも黄巣は一時期では有っても「斉」王朝を作っている位だし、それなりの体制は出来ていたと思います。
と言う事で、黄巣配下でも朱温以外にも名の有る将軍等も居たのかな?と思います。
特に王健と戦った黄巣配下の将軍とかは記録に残ってたりするんですか?

80: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/23 01:23
>>71
王建は結構したたかな人物ですね。
即位のときは、劉備に倣って独立せよと、蜀人から要請があったようです。
文化人で有名どころというと、詩人でもある韋荘ですかね。

73: 中華@名無史さん 02/01/22 02:13
こちらを見ている皆さんは、この時代(唐末・北宋統一前含む)人物で、一番の豪傑と思われるのは誰がお勧めですか?

ちなみに漏れは”李克用”かな? 塞外民族の族長と言う事も有り多分当時の漢人より腕っ節は強かったんじゃないかな?と
79: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/23 01:07
豪傑……まずは後梁の王彦章から挙げておきます。 
裸足で棘の上を歩いた強者です。「城を三日で落とす」と公言して実際にやってのけました。
75: 中華@名無史さん 02/01/22 02:38
>>72で出した面白い節度使と言う話題でしけど、ちなみに漏れが知っている面白い人物は、劉巨容、それと程宗楚・王処存、前者は黄巣を早期に討伐出来る可能性が有ったが、黄巣を余り早く倒してしまうと、仕事が無く成り、朝廷から恩賞が余り貰えないと考えて手を抜いてしまった。
後者の二人は、一時期黄巣から長安城を奪い返す功を立てたが、その功に奢り民衆の支持が得られず軍規も乱れて反撃されてしまった。

どちらも、余り褒められた人物達では無いが、それが当時の世相だったのかな?
と考えると、黄巣の乱が10年も長引いてしまったのも仕方が無いのかな?
と思います。

82: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/24 00:31
>>75
「一将、功成りて万骨枯る」で有名な詩もこの辺りで成立していたような。。。やはり世相でしょうね。。。

74: 中華@名無史さん 02/01/22 02:22
この時代の”軍師”に当る人でお勧めな方は誰だと思います?
普通に考えると、直ぐに”馮道”と言う名前が出ると思うんですが、でも馮道と言うと、どちらかと言うと、やはり”政治家”だと思うんですよねぇ~


と言う事で、おれはマニアな所(でも無いか?)で、朱全忠配下の策士”李振”を推します。 こいつは何か全忠の悪どい計画の立案を良くした。と言う印象が有り、三国志で例えると童卓派配下の李儒みたいな印象です。

81: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/23 01:37
>>74
李振は激情家ですね。科挙に及第しなかったので、「普段から『清流』と気取っている彼奴らを黄河に投げ入れて『濁流』にしてやりましょう」と朱全忠に進言して、科挙あがりの高官を殺してますし。
その一方で、朱全忠は曹操のように私怨で忠賢の士を殺したりはしない、と説いて青州の王師範を帰順させていますね。

続きはまた後ほどで失礼します。

82: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/24 00:31
>>74の続き
李振と同じ後梁の臣で、敬翔という人がいますね。
常に朱全忠の行軍に扈従し、帷幄に出入して朝から晩まで働き詰め、馬上でのみ暫しの休息を得たといいます。

馮道は私も政治家だと思います。李存勗が帝位につくのを諫めた張承業もまたしかり。

76: 世界@名無史さん 02/01/22 02:58
そういえば「岐」っていう国もあったな。
なんかよくわかんない幕切れだったけど。

83: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/24 00:53
>>76-78
長安の西、鳳翔節度使の李茂貞による政権ですね。<岐
本名を宋文通といい、神策軍(近衛)の一兵卒でしたが、皇帝僖宗から功績を認められて 
李姓を賜り、鳳翔節度使、後に岐王となります。
唐の昭宗が宦官に擁せられて鳳翔へ逃げてきたときにはこれを庇護するも、朱全忠と争って敗れます。後梁が建国されると、王建と組んでこれと対抗しています。後梁滅亡後は、後唐に従います。
李茂貞の死後、その子が後を継ぎますが、任地を移転されたり戻されたりでいまいち安定しません。彼の死後、岐王の位は定かでありません。

84: 中華@名無史さん 02/01/25 20:30
岐って李茂貞閥の事だったんですね。
李茂貞は知っていましたが、彼が岐王と言う地位に成ったと言うのは初めて聞きました。

彼は、朱全忠の勢力が余り強く成り過ぎるのを警戒した唐朝廷が、近衛軍強化を打ち出した時、朱全忠に”朝廷が軍備増強するのは李茂貞討伐の準備だ”と言う情報を流され、それを真に受けて長安へ攻め込んでしまいましたね。

85: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/25 23:21
>>84
朱全忠はこの手の謀略を結構使ってきますね。
李克用もひっかかってますし。
李茂貞の勢力、唐末は盛んでしたが、後梁期に入って下火になってますね。王建と組んでもなお。

86: 中華@名無史さん 02/01/26 04:21
ふと思ったんですが、この時代って分裂期なので、対外的には相当危なかった様な気がするんですが、どうなのだろう?

確かに”遼”はこの時代に介入はして居るけど、本格的に華北地方に進出しようと言う意思は感じられないし(後晋の時は占領しても馮道に説得されて素直に退却して居るし)その他の周辺国では、大理国・吐番等は十国の国々よりも版図は大きかった。
それに東には高麗も居る(まぁ、遼に国境線塞がれては居るが)と言う事で、周辺国が中華に進出するには絶好の機会だと思うのだけれども、実際に進出しようと言う動きとかは有ったのかな?

88: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/01/28 00:23
>>86
党項とか吐谷渾あたりは小競り合いがあったかもしれませんが、他は通交の方が多いかと。
吐蕃はというと、五代では弱体化しているようですし。
102: 中華@名無史さん 02/02/02 03:31
この時代の、更に次代創始者、趙匡胤って、実際には五代十国がメインな活動時期だったと言う事が改めて確認 
調べて見ると色々出て来て面白いね? 
生まれは後唐。と言う事でモロ五代十国! 
若い頃は仕官の先を求めて陝西・甘粛等辺境地帯にまで浪人として渡り歩いた。 
そんな中、後の後周創始者で、当時後漢の軍事実力者 郭威が広く豪勇の者を募っているのを聴きつけ士官。 
此れが彼の立身出世の出発点と成った。

103: 中華@名無史さん 02/02/02 03:32
趙匡胤は、武人の家に生まれたが、小さい頃、儒者の辛文悦に教育されたので、学問を収めるのに熱心な人物に成った。 
成人して、後周世宗柴栄に従い淮南を攻めた時、友軍の者に「趙匡胤は重い荷物を運びながら行軍している。」と密告され、柴栄に略奪した物を私していると疑われるが、その実荷物は全て書物だったと言う。 
本人曰く、「学の足りない自分が陛下に失礼な事をしては成らないと例え軍中で有ろうと、常に学を広める為に書を持参している」 
と答えたエピソードが残っている。

104: 中華@名無史さん 02/02/02 03:33
と、実は趙匡胤の父親も面白い人物だと思ったので書く。 
名を趙弘殷。後唐・後漢・後周に仕えた。 
後漢将軍時代、後蜀と陳倉の戦いで、流れ矢が左目に当りながらも先陣を切って敵陣を突破、敵を大破した猛者だった。 
この時代の隻眼将軍と言うと李克用が有名だが(実際には隻眼では無いが)趙弘殷も、この時代の代表的な隻眼将軍と言えると思います。
108: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/02/04 00:46
>>102-104 
趙父子、調べ甲斐がありますね。 
趙匡胤の仕官はいかにも五代風ですし。 
(郭威自身もまたしかり。彼の場合、はじめの主君は李継韜でしたが) 
李克用は右目が「すがめ」ゆえの「独眼竜」ですが、趙弘殷はまさしく隻眼の将ですね。 

閩はまた後ほど。すみませぬ。 

105: 中華@名無史さん 02/02/02 03:36
最近、この時代で一時期一番盛況を誇った南唐に興味深々なのですが、南唐が、閩・楚に攻め込んで併呑した時の様子に詳しい方が居れば教えて欲しいです。 
と言うか、この2国滅亡時を中心に、十国の国が滅ぼされた様子が全般的に知りたいですね。

106: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/02/03 11:54
>>105 
南唐の創業者たる李昪は外征を好みませんでした。 
楊呉の時代からの宿敵であった呉越が大火に見舞われた頃、これを機に攻め立てよという群臣の意見を退け、逆に弔問の使者を遣わせて厚く援助を施しています。李景には、「隣国とは友好関係を結び、よく社稷を保て」と遺言を残しています。 
ところが、李景はというと、父が築いた富裕なる財産、(自称でありながらも)唐の皇族の末裔という肩書きを背景に外征の野心を持ち出します。 
そして、隣国の情勢不安を衝いていくわけです。 

閩や楚の滅亡過程については後述します。

107: ■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1 02/02/03 22:42
実は今、陳舜臣の『小説十八史略』を読んで知ったのですが北周から宋への禅譲って「無血革命」で、これはすごいことだなあと、イギリスの名誉革命に匹敵する、歴史的な快挙だと思ってたんですけど・・・ 

実は北周の臣の韓通という人一人だけが 
「これは明らかな簒奪だ!」と言って兵を集めて趙匡胤を迎え討とうとしたので急いでこれを斬って捨てたそうです。しかもその一家も皆殺しにしてるし・・・・ 

う~ん、惜しいと言いますか何といいますか、世の中、なかなか「完璧」って訳にはいかないんもんですね。 
それでも「石刻遺訓」が南宋滅亡まで(ほぼ)守られ続けたのは感動的であります。 

あと、朱全忠の開封への遷都は「近世」への道を切り開いた快挙であるという内容の事が『大唐帝国』(宮崎市定著)の最後のほうで書かれてました 
この本は、中世は(唐ですら)暗黒時代という主観に基づいて述べられてます 
長安を軍事都市としての象徴だとすると開封は経済都市としての象徴として、後の宋の時代の繁栄ぶりを見るになるほど、朱全忠の着眼点は鋭かったんだなあ、と思う今日この頃・・・ 

108: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/02/04 00:46
>>107 
韓通は、柴栄時代に趙匡胤と肩を並べていた将軍ですね。 
それだけに、許せないものがあったのかもしれません。 
創業時の暗い話はなかなか避けられないものなのでしょうか。。。 
でも、私も宋王朝は好感持てます。知識は浅いですが(w 

朱全忠は、黄巣軍から官軍へ寝返った際に開封の節度使になったというのも大きいです。 
しかも、それをよく活用したというのは評価してしかるべきですね。

109: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/02/04 22:36
遅ればせながら、閩について以下に記してみます。 

閩の創業者たる王審知の死後から、王一族による骨肉の争いが頻発していました。李景が南唐の主となったときの閩もご多分に漏れず、五代目の王延羲が実弟の王延政(建州で自立し、国号を殷と定めています)と諍いを起こしています。
王延羲は驕慢淫虐の人で、宗族や臣下を多く殺しています。中でも、陳光逸という者は王延羲の五十余にわたる悪事を咎めたところ、王延羲に鞭打たれること百回、それでも死ななかったので。。。 

   || 
 ∧||∧ 
(  ⌒ ヽ 
 ∪  ノ 陳光逸 
  ∪∪ 
↑されてしまいました。

111: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/02/04 23:01
さて、王延羲は閩の将軍たる朱文進と連重遇によって擁立されましたが、死の道もまたこの2人によって導かれました。2人が主から粛正を受けることを恐れたからといいます。 
その後、朱文進が閩王となり、福州にいる王一族を皆殺しにします。これより閩は分裂、李景は朱文進討伐を名目に南下します。緒戦で敗北するものの、保大四年(946)、建州を占拠して王延政の一族を金陵に遷します。
これで閩に対して矛を収めますが、福州節度使に任じていた閩の旧臣・李仁達に背かれます。南唐の臣・陳覚が兵を南に発しますが、呉越の援助を受けた李仁達軍に大敗します。 
結局のところ、閩の旧領のうち、福州のみが呉越の領土となりました。

112: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/02/08 01:23
楚は、三代目の馬希範が豪奢な宮殿等を立て続けてきたあたりから破綻が生じてきます。そして、彼の死後に骨肉の争いが表面化し出します。 
馬希範の後を継いだのは、同母弟の馬希広でした(947年)。その兄である馬希萼はこれに不服を唱え、当時中原を支配していた後漢の隠帝 劉承祐に対して、楚王と同等の地位を自分に賜るよう請いました。 
しかし、拒絶されます。そこで馬希萼は南唐に救援を求め、弟の楚王を攻めます。緒戦こそ敗れるものの、その後巻き返して遂に馬希広を捕らえ、縊死させます(ちなみに、馬希広は後漢に援軍を請いましたが、ことは叶いませんでした)。
かくて五代目の楚王となった馬希萼は、政治や軍事などを弟の馬希崇にことごとく委ね、昼夜を問わず酒浸りの日々を送ります。そのため、馬希崇に背かれ、衡山に幽閉されます。そんなごたごたのうちに南唐が介入、潭州(長沙)へ入城します。
951年、楚の滅亡です。代わって湖南を統治するようになったのは、南唐の将軍で「辺羅漢」或いは「辺菩薩」の名を持つ仁慈なる仏教徒、辺鎬です。しかしながら彼は政治に疎く、湖南には再び戦乱の嵐が吹き荒れます。それが、劉言・王進逵・周行逢といった独立勢力の台頭です。 
結局、南唐は楚の旧領をおさえることができず、南漢の進出も許してしまいます。楚の旧領のうち南は南漢の、北は独立勢力の領土となった次第です。

113: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/02/08 01:30
とりあえず、『新五代史』や『資治通鑑』、『南唐国史』あたりの文献から閩と楚の滅亡について探ってみました。 
この一連の遠征で、南唐も疲弊したようです。 
不足している部分もあるかと思いますが、補足あるいは指摘いただけるとありがたいです。 

115: 世界@名無史さん 02/02/09 00:25
>>112 
劉言等の朗州(武陵)勢力の台頭は南唐の介入以前からですね。 

『全唐文』に馬希広の上奏が載っていますが、南唐・荊南・南漢が連携して馬希萼を支援していることを後漢に訴えていて興味深いものがあります。 
南唐は鄂州(武昌)の税収を荊南経由で朗州に支給していたそうです。

117: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/02/09 00:54
>>115さん 
訂正ありがとうございます。 
馬希広の代あたりから楚はがたがただったわけですね。 

五代十国って、後梁Vs後唐(晋)、呉Vs呉越とかいうような一対一の関係が多いように見受けられますが、こういう連携は確かに興味深いです。 
ほぼ創業以来の荊南の仲介策が、ここでも生かされていますね。 
(もっとも、荊南が長らえるにはそういうことが欠かせなかったのですが)

118: 中華@名無史さん 02/02/09 23:03
では、南唐と言うのは、別に版図的にも当代随一に成った。 
と言う訳では無かったみたいですね? 

119: 中華@名無史さん 02/02/09 23:05
それにしても、南唐初代皇帝が非戦派だと言うのは意外でした。 
3代の中では一番(君主としての)才能は有ると思って居たので、好戦的なのかな?と勝手に想像してました。(呉を簒奪する位だし・・(苦笑)) 
(まぁ才覚が有ったからこその”慎重派”だったのかも知れませんが)

121: 中華@名無史さん 02/02/11 21:44
五代の各王朝と言うのは、基本的には華北統一王朝だと思うのですが、(not後周)後梁の時代は、五代の中でもそれに対抗し得る”李克用”の版図が有った為に、華北統一王朝では無いと思うのですが、自分が持って居る、世界歴史地図帳に拠ると、”李克用”の版図は、後周時代の北漢とほぼ同じ様に書かれています。 
確かに”李克用”の拠点は晋陽なので、場所的には近いと思うのですが、その後、後唐として後梁を倒す勢力としては、少し小さいと思うのですが、実際はどうだったのでしょうかねぇ~?

122: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/02/12 23:21
>>121 
何年頃の勢力地図か、にもよりますね。 
後梁開国当時(907年)であれば、>>121さんご指摘の通り北漢とほぼ同じ様ですが、時代が降ってくるにつれて拡大してきます。 
というのも、李克用の後を継いだ李存勗が、幽州の劉守光や鎮州の王鎔(のち張文礼・処瑾父子)など、河北で半独立あるいは独立していた勢力を討ってきているからです。

123: 中華@名無史さん 02/02/17 15:01
学研のグランド現代百科事典と言う物が有り(と言っても30年前のですが
それで前蜀の”王建”についてちょっと調べて見ました。 

彼は黄巣の乱後に永平節度使に任じられるんですね? 
その後、西川節度使の”陳敬〔王宣〕”を破って成都入りしています。 
その後彼は剣南西川節度使に成って居ます。 

と、此処で疑問なのが、各節度使の位置です。 
永平節度使と言うのは元々四川(蜀)に接した(又は近い場所)に有ったのでしょうか? 
また”陳敬〔王宣〕”の西川節度使と言うのは、成都が本拠だったのでしょうか? 
(続く)

124: 中華@名無史さん 02/02/17 15:01
節度使の名称と言うのはそもそも地名なのでしょうか? 
と言う疑問が湧きました。 
このスレの上の方でも時々これこれは有名な節度使ですね! 
とか言うレスも有った気がしますが、節度使の名称は官職名だと思いましたが、節度使名で地名を特定しているレスも有った気がするので、どうなのかな?と思いました。 
(王建も、(西川節度使と言うのが、成都防衛の節度使だと仮定して) 
成都奪取後は、ちょっと違う名前の節度使名に成って居た。と言うのも有ります) 


それと、単純に”陳敬〔王宣〕”と言う人物にも興味を持ちました。 
彼と王建の戦闘はどの様なものだったのか? 
何方か彼について、何か知っている方居たら教えて下さい。

128: 世界@名無史さん 02/02/20 00:38
>>124 
軍額で呼ぶことが正式でしょうが、軍額がころころ変わる藩鎮もあるので、使府が置かれた州名で呼ばれることもあります。永平節度使の場合、永平軍という軍額を持っているわけです。 
雅州節度使と呼んでも良いわけですが、メジャーな史料で検索したところ、用例は見つかりませんでした。 

雅州は雲南地方にあります。歴史地図が手元にないので、詳しくはわかりません。誰か、補遺・訂正して下さい。お願い。 

『五代十国方鎮年表』を見ながら、これを書きましたが、中華書局の書籍って独特の臭いがしません?

125: 久々の26 02/02/18 01:26
王建と言うと、五代時代の王建もそうですが、高麗の太祖のほうを思い出しますね。こちらは後三国時代から台頭してきたのですが。

131: 五代潰瘍 ◆6thCiL5U 02/02/25 00:42
遅ればせながら、陳敬瑄関連のお話をいたします。 

永平節度使になる前から、陳敬瑄は王建を煙たがっていたようです。 
というのも、王建は壁州(成都の北東およそ160キロメートル)刺史だった頃から、いわゆる蛮夷らを引き連れて周辺都市を陥落させていたからです。 
その後、彼は旧知の間柄であった東川節度使の顧彦朗を頼り、成都へ攻め上がります。そして成都にほど近い漢州を陥落、ついで陳敬瑄の息がかかった眉州(成都の南西およそ40キロメートル)刺史山行章と激戦を繰り広げます。
この一連の戦いで、四十里にわたって屍が横たわっていたとも形容されています。結局は泥沼のため、唐の皇帝昭宗から停戦要求がかかります。西川節度使には宰相の韋昭度が新たに任用され、王建は永平節度使となります。 
面白くないのは西川節度使の位からはずれた陳敬瑄。皇帝の命を受けず、そのために討伐を受けます。このとき、王建は山行章と再戦し、これを撃破して眉州を得ます。それから北東の諸州を下し、成都城にいた田令孜と語らい、入城します。 
この後、陳敬瑄は雅州に遷されますが、任地へ赴く途中で王建が放った者によって殺されました。 
なお、陳敬瑄は『新五代史』によると、当時権勢を振るっていた宦官・田令孜の同母弟のようです。で、王建は田令孜の仮子。何だかややこしいですね。

145: 世界@名無史さん 02/03/30 16:51
ちょっと質問です。 
宋の趙匡胤の「石刻遺訓」ってほんとにあったんでしょうか? 
ネットで調べても、ソースは陳舜臣のものだけです。 
水滸伝には柴氏の末裔の豪傑がでてきますが、鉄牌がどうとかって話がありますけど。 
民間伝承とかじゃなくて、ちゃんと信頼のおける史書にも出てくるんでしょうか?

146: 五代潰瘍 ◆WudaIjQs 02/04/03 00:24
陳氏の著書には、靖康年間に金が開封を陥落したことではじめて明るみに出た、というようなことが言及されていましたね。<石刻遺訓 
これを真とすれば、新旧五代史には記述がない(後世の注ではあるかもしれませんが)ことになります。 
正史で確認できるとすれば宋史か金史ですが、欽宗紀(宋)や太宗紀(金)にはそれらしき文面が見あたりません。。。

148: 世界@名無史さん 02/04/03 10:01
>>146 
そうですかあ・・・正史にはそれらしい記述は見あたらないのですね。 
宋初の場合、兄から弟という帝位継承でしたから、仮に兄が「石刻遺訓」のようなものを残したとしても、弟がそれを守るとはかぎらないんじゃないかなあ、などと想像もしていました。美談が真実であってほしいとは思いますが。

150: 五代潰瘍 ◆WudaIjQs 02/04/05 00:51
唐代における「文苑英華」のような漢籍から 
探し出せれば良いのですけどね。。。<石刻遺訓 

趙光義としても、柴氏の血を絶やさんとするのは反抗勢力を招く結果となり、得策でないと考えたのかもしれません。 
宋の漢籍はほとんど読んでいないので憶測どまりでスマソ

219: あやめ 02/09/04 15:43
宋の太祖の「石刻遺訓」なるものが話題になっていましたね。元ネタは陳舜臣の「小説十八史略」だそうですが、あやめは陳氏の本を読んでいませんので内容がよく判りませんけど、もしかしたら太祖の「誓碑」を指すものかも知れません。 
南宋の葉夢得の「避暑漫抄」という書物に次のような記事が出ています。 
「藝祖(宋の太祖)は受命の三年に密かに一碑を鐫り、太廟の寝殿の夾室に立て之を誓碑と謂ふ、銷金(金箔摺り)の黄幔を用て之を蔽ひ、門鑰にて封閉すること甚だ嚴なり、因りて有司に勅し、自後の時享(定期の宗廟祭祀)及び新天子の即位には、謁廟の禮畢れば奏請して誓詞を恭讀せしむ、獨り小黄門(下級宦官)の字を識らざる者のみ從がひ、餘は皆な遠立す、上は碑前に至り再拝し、跪き瞻て黙誦し訖り、復た再拝して出づ、群臣近侍も皆な誓ふ所の何事なるかを知らず、自後の列聖も相ひ承け皆な故事を踵ぐ、靖康の變に門は皆な洞開し、人は縱いままに觀ることを得たり、碑は高さ七八尺、闊さ四尺餘、誓詞は三行にして、一に云ふ:柴氏の子孫に罪有るも刑を加ふるを得ず、縱へ謀逆を犯すも獄内にて盡(自害)を賜ふに止め、市曹(死刑は首都の盛り場で執行が普通)の刑戮を得ず、亦た支屬を連座することを得ず、一に云ふ:士大夫及び上書して事を言ふ人を殺すを得ず、一に云ふ:子孫の此の誓を渝(か)ふる者有らば、天よ必ず之をキョク(極の木偏を歹に入替)せよ、と、後に建炎の間に曹勛は金より回る、太上(金に抑留されていた徽宗)の寄語あり、祖宗の誓碑の太廟に在るを恐らく今天子は知るに及ばざらん、と云へり、」

220: あやめ 02/09/04 16:08
これによると宋では宗廟の脇にある夾室に「誓碑」というものが立てられていて、幔幕で覆った上に入り口に鍵が掛かっていて、天子が宗廟にお参りに来たときだけ開け、天子が畏まって碑文を読む時には文字の読めない宦官一人の外は、誰も傍に近づけないことになっていて、碑に書かれた内容は厳秘だったというわけです。 
このミステリーが解明されたのが靖康の変で、ベン(三水に卞)京が金軍に囲まれた末に、徽宗・欽宗を始め多くの宋の皇族が北方に連れ去られる大事件の混乱の際で、寝殿の門が開けっ放しになって誰でも勝手に見られる状態になったためであるというわけです。
そして碑文の主たる内容は柴氏の後裔と士大夫の保全を、後嗣の皇帝に誓約させるものであることが判明したとされています。 
このような事実が信用できるものか傍証を求めて「三朝北盟會編」の靖康元年末から同二年の前半の記事をざっと検してみましたが、それらしい記述は発見できませんでした。しかし当時は帑蔵を尽くし民財を括して金の要求に応じ、宮禁も騒然たる状態であったわけで、宗廟の縦観も有りえない事態ではないと想われます。しかしその後この誓碑なるものがどうなったのか、開封の故宮に関する所伝に出てこないばかりでなく、その存在自体が他書には全く言及されておらず疑念を拭えません。 
何より筆者の葉夢得が靖康の変に東都に居合わせなかったことから、彼が本当に「誓碑」の文言を親しく実見しているのか怪しいと言う学者もいるのです。 

223: あやめ 02/09/06 18:20
「石刻遺訓」についての続きです。 
「避暑漫抄」の「誓碑」の記事の末尾にある曹勛が伝えた徽宗の寄語についてですが、「宋史」の「曹勛傳」には「靖康の初に閤門宣贊舍人・勾當龍德宮と爲り、武義大夫に除せらる、徽宗の北遷に從がひ河を過ぐること十餘日にして、(徽宗は)勛に謂ひて曰く『知らず、中原の民は康王(高宗)を推戴せしや否やを』と、翌日には御衣を出だし領(えり)の中に書して曰く『便(すな)はち即眞(帝位に即く)す可くんば來りて父母を救へ』と、韋賢妃・ケイ(刑の立刀を大里に入替)夫人の信を持し、勛に命じ間行して王に詣らしむ、又た勛に『康王に見えなば第(た)だ言へ、中原を清むるの策有らば悉く之を舉行せよ、我を以て念と爲す毋(なか)れと』と諭し、又た言ふ『藝祖に誓約有りて之を太廟に藏せり、大臣及び言事の官を殺さざれ、違ふ者に不祥あらん』と」とあります。 
恐らくこの「誓約」が「誓碑」の存在に発展し、「大臣・言事官の保全」に「柴裔の保全」が付加されてしまったものでしょう。

224: あやめ 02/09/07 20:33
「石刻遺訓」の内容については太祖の仁慈を著わすもので、帝室の有難い思召しを何も隠し立てしなければならない事情は無いのだし、寧ろ天下に公表すべき聖旨で葉夢得の言うところは信じ難いという議論もあります。 
それはともかく誓詞の趣旨は実際に遵守されたのかという問題もあります。大臣の保全について先ず検証すると、少なくとも太祖の場合こんな奇麗事を言える資格はなさそうです。
ある学者が「宋史」と「續資治通鑑長編」を仔細に点検した結果、太祖が殺した臣下は188人にも上るそうです。しかし創業の君主としては已むを得ないとも言えましょう。その後の天子は確かに滅多に大臣を誅殺してはおらず、そればかりか唐のように宰相にまで昇った人物を海南島の下役に左遷するような、酷い人事を強行するようなことも例が少ないようです。 
范仲淹も「祖宗以来、未だ嘗て輕がるしく一臣下をも殺さず、此れ盛德の事なり」と言っており、蔡確・呂大防・曾布などの諸臣も同様に発言しているとのことです。 
これは太祖が五代における武臣の跋扈を嫌って、士大夫を厚遇する方針を採用した結果と言えます。 
「宋史」の「日本傳」に日本僧の奝然が太宗に謁したとき、日本の國王が一姓を傳繼し臣下も皆な世官であると聞いて嘆息し、「此れ島夷のみ、乃はち世祚は遐か久く其の臣も亦た繼襲して絶えず、此れ蓋し古の道なり、中國は唐季の亂より宇縣分裂し、梁周五代は享歴すること尤も促(みじか)し、大臣の世冑も能く嗣續するもの鮮し、朕は德は往聖に慚づと雖も常に夙夜に寅畏し、治本を講求し敢て暇逸せず、無窮の業を建て可久の範を垂れ、亦た以て子孫の計を爲し、大臣の後をして祿位を世襲せしめん、此れ朕の心なり焉」と宰相に語ったと伝えられるのも、宋代天子の本心を吐露したものでしょう。

226: 五代潰瘍 ◆WudaIjQs 02/09/08 12:55
>>219にある「受命の三年」というのが気になりますね。 
『宋史』の「周三臣伝」に列せられている韓通、李イン(たけかんむりに「均」)、李重進の3人がそれ以前に誅されていることを考えると、国内における主立った反対勢力を鎮めてから誓いを立てた、と取れなくもありません

170: 世界@名無史さん 02/06/08 22:13
ちょっとした疑問なのですが、柴栄は郭威の養子なのですから、生前は「郭栄」と名乗っていた筈ですよね?(後唐は養子が継いでもずっと「李」姓で通してましたし) 
恐らく恭帝・郭宗訓→柴宗訓が、宋に「禅譲」してから柴氏に復姓したのでしょうが郭栄として死んだ柴栄を歴史的に「柴栄」と呼んでよいものでしょうか?

171: なな史住人 02/06/08 22:42
後周の世宗(柴栄)は太祖(郭威)の養子になった時点で皇太子と呼ばれたはずですよ。 
即位してからは、天子或いは皇帝ですよね、ですから「郭栄」と呼ばれた事は無いでしょう、歴史的は「後周の世宗」です。 
五代でもっとも優れた皇帝、若死にしなければ、彼の手で中国は統一されていただしょうね。 

俺的に五代十国で好きなの皇帝は後唐の荘宗(武人として)南唐の後主李イク(負け方が可愛い)です。

172: 世界@名無史さん 02/06/11 23:51
>>171 
後周国内ではそうでしょうが、十国の方では周主を「皇帝」と認められていない勢力もいますよね? 北漢とか。それらの国では周帝を氏名で呼び捨てにしても不思議はない筈。 
また「歴史的に」も、中華人民共和国では帝王を基本的に本名で教えているようです。 
それに、後周国内や後周に(形式的にせよ)臣従している国々にとっても今の国姓は何と意識しているか、という問題がある訳で。果たして世宗・恭帝治世の国姓は「郭」だったんでしょうか?「柴」だったんでしょうか? 
また荘宗以後の後唐の場合は?

173: 世界@名無史さん 02/06/12 01:02
>荘宗以後の後唐の場合は? 
国姓を以て、晋王→唐帝と、梁に滅ぼされた唐王朝の後継を称した建前上、誰が養子になろうと国姓は李に変わらない。 
十国南唐も、創業者の姓が同じ李である理由で国号を唐としてますし。 
当時の李姓の持つ重みは、王蒙時代の劉姓と同じに考えても良いかと。 

周においては・・・・どうなんでしょうね? 
周から宋に禅譲が行われた時点で、郭姓→柴姓に戻した可能性もありえるし。

177: 中華@名無史さん 02/07/12 17:47
ふと思ったんですが、この時代の前の唐と、後の宋は、科挙を実施した王朝として有名ですが、その間に有る、五代十国(特に五代)の諸王朝と言うのは科挙を実施して居たんですかねぇ? 
余り聞きませんよねぇ?(多分”後唐”はやってそうだけど)

178: shuon 02/07/12 22:20
>>177 
もちろん実施されてました。『五代会要』巻22「進士」の項には梁・開平三年から周・顕徳五年に至る記事が載ってます。同巻には「制挙」「宏詞抜萃」の項も見えますから、唐制にならった臨時特別科挙や吏部科目選まで行われていたようです。 

179: 中華@名無史さん 02/07/13 00:00
>>178 
早速のレスさんくすです。 
いやぁ、何か戦乱の時代と言うと、庶民とかも受験勉強している暇が有ったのかな? 
と思いました。

引用元: ・五代十国時代を語ろう




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