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1: 義帝 投稿日:2007/07/19(木) 00:17:17 ID:S+qaPKgS0
・神話の時代
黄帝-昌意-帝センギョク-称-巻章-重黎-呉回-陸終-季連(芋姓の祖)
・楚公室()
[季連の末裔鬻熊、周の文王の師となり、商を滅ぼす]
鬻熊-熊麗-熊狂-
[熊繹、成王により楚子に封じられる]
熊繹-熊艾-熊タン-熊勝-熊楊-
[熊渠、一度は王号を称するも周の厲王を恐れ、王号を称するのをやめる]
熊渠--熊摯紅-熊延-熊勇-熊厳-熊霜-熊徇-熊咢-若敖(熊儀)-霄敖(熊坎)-フン冒(熊ジュン)-
[熊通、隋を討ち、隋をつてに爵位をあげてもらおうとするが断られ、腹いせに王号を称する]
-武王(熊通)-文王(熊貲)-荘敖(熊艱)-成王(熊惲)-穆王(商臣)-
[楚の荘王、晋をヒツの戦いで破り、覇者となるも共王、エン陵の戦いで破れ、覇権を失う]
-荘王(侶)-共王(審)-康王(招)-コウ敖(員)-霊王(囲)-新王(比)-
[平王、伍子胥を追放し、伍子胥の補佐を受けた呉王闔閭に首都を陥落させられる]
-平王(熊居)-昭王(珍)-恵王(章)-簡王(中)-声王(当)-
[悼王、呉起を信任し改革を行い君主権を強めるも悼王没後、旧弊に戻る]
-悼王(熊疑)-肅王(臧)-宣王(熊良夫)-威王(熊商)-
[懐王、秦に騙され秦に赴き秦で没す。負芻、秦の虜となり、楚は秦の郡となる]
-懐王(熊槐)-頃襄王(横)-考烈王(熊元)-幽王(悍)-哀王(猶)-負芻







7: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/19(木) 04:04:29 ID:cFdSv4JuO
戦国になってからの没落はひどいな
ほとんどが負け戦の感じがする

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/19(木) 14:46:32 ID:ECsUHuO20
>>7
春秋時代は他の国が束になって楚に対抗してたもんね。
十分に天下を狙える位置だったな。

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/19(木) 23:39:05 ID:qMMbUhaX0
晋分裂の時にここぞ!ってわけにはいかんかったんかな

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/19(木) 23:53:10 ID:qMMbUhaX0
ってその前に呉にぼっこにされてましたねごめんなさい

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/20(金) 03:37:16 ID:gotVbxD90
wikipediaだと、クマーが「氏」ということになってるけど、あれは「氏」なのか?

16: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2007/07/20(金) 23:52:04 ID:JI15D9G40
>>14
クマーは首長を意味してるんじゃなかろか。

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/21(土) 21:09:13 ID:pn199EXt0
霊王と平王あたりから良いとこないね、同時期の呉の季札や闔閭あたりとくらべると公子の差が・・・、
共王あたりまで中原の国々に取って変わろうという野心が良い意味で見られたのだが、宋の盟によって平和になった事で楚も晋も活力がなくなった気がする。
霊王

霊王(れいおう、? - 紀元前529年、在位:紀元前540年 - 紀元前529年)は、中国の春秋時代の楚の第27代君主、第10代の王。

父共王の死後、王位は長兄の康王が継いでいた。康王の死後はその息子の郟敖が継いでおり、熊囲はその令尹となって補佐していたが、紀元前541年に郟敖を殺害して自ら王として即位した。主に勢力拡大に従事し、諸侯と会盟して呉を討った。紀元前533年に陳を、紀元前531年に蔡を討った。その後も徐、次いでまた呉を討つなどして楚の勢力を拡大した。

死後、王位はクーデターで中心的な役割を果たした熊比こと訾敖が継いだが、弟の熊弃疾が再度クーデターを起こして兄たちを排除し、彼が平王として即位した。


20: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/22(日) 00:13:11 ID:5zrejG2NO
その後の昭王、恵王は結構名君なんだけどね

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/24(火) 06:26:46 ID:VGJsCpEwO
重臣が一門である比率が魯並みに高そう

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/24(火) 08:56:52 ID:d+7+XujJ0
春秋時代のうちに、形になっただけの周を遠慮なしに滅ぼしておけばよかったのかも

23: 草中の豎子 投稿日:2007/07/24(火) 17:17:56 ID:gj/ZhRKU0
>>22
周も一応日本の戦国時代の朝廷同様、形だけでも神聖不可侵の存在だったはず。
もし周王朝に矛先を向けるような事があれば他の国から言いがかりをつけられて攻撃される。

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/25(水) 13:22:38 ID:ijjM9MXt0
>>22
荘王は戦争をかなり行ってるはずだが、決して無理な事はしなかった、国力を消耗させる事がなかったから名君だったのだろう。

27: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2007/07/26(木) 00:01:56 ID:sbrM2zBA0
成王も名君の部類だと思うんだがなあ。

成王

成王(せいおう、? - 紀元前626年10月20日)は、中国春秋時代の楚の君主(在位:紀元前671年 - 紀元前626年)。

楚に放浪中の晋の公子重耳(のちの文公)がやってくると、その大器を一目で見抜き、自分と対等の諸侯の礼を持ってもてなすよう家臣に命じて饗応した。
徳をしき、恵みを施し、諸侯と旧交を結び、人をつかわして周王に朝貢した。それにより周王から「南方を鎮定せよ」という言葉を賜り、それ以降積極的に周辺諸国を併呑して千里を拓いた。

楚が急速に力をつけるのを危ぶんだ斉の宰相管仲は桓公に進言してこれを討つことにした。さすがの成王も覇者・桓公の軍には敵わず、和睦して斉の主宰する会盟に加わった。




28: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/26(木) 00:46:53 ID:6sgl5HRH0
桓公、穆公、文公と時期がかぶってるからな

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/26(木) 03:16:26 ID:B4W/heTSO
正直子玉の言うとおり文公殺しとけば成王の天下だよな

成王

楚に放浪中の晋の公子重耳(のちの文公)がやってくると、その大器を一目で見抜き、自分と対等の諸侯の礼を持ってもてなすよう家臣に命じて饗応した。

饗宴の席で成王は重耳に「もし貴方が国に戻って後を継ぐことになったら何をしてくれますか」と尋ねると、重耳は「大王はあらゆるものをお持ちで、何をお礼にすることが出来ましょうか」と言ったが成王が「それでもたってお聞きしたい」と言うと「もしもわたしが晋に帰ることが出来て、その後に晋楚両軍が中原で出会いましたら、我が軍に三舎(1舎は一日分の行軍の距離)を退かせましょう。それでもお許し頂けなければ一戦いたしましょう」と応えた。

子玉はこれを聞いて顔色を変え「晋の公子は無礼です。殺しましょう」と言ったが、成王は「ならぬ。公子は礼を守り、賢臣に囲まれているのは天が公子をたすけているからだ。天は晋を興そうとしている。だれがそれを止められよう。天意に従わなければ禍は免れられない」と応えた。なおも子玉が「それでは狐偃を人質となされませ」と言うと、「それでは礼に背くことになる」と言った。




30: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2007/07/29(日) 01:54:08 ID:PKIuvpn+O
群臣のほとんどが王族だったのがまず問題だと思うんだ。

31: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2007/07/29(日) 04:54:09 ID:jEbkEAhNO
晋みたいにほとんど外様なのも困るけどな

32: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 投稿日:2007/07/29(日) 15:42:06 ID:4e0PGdsB0
そう考えると極端な国家が二強だったんだな
春秋時代は

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/31(火) 10:55:49 ID:kujNNGBPO
天子以外に三軍を持てたのは晋と楚だけだしな。

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/31(火) 14:46:18 ID:STpdBrBxO
>>33
斉も三軍じゃね
一軍一万人と少なめだけど

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/07/31(火) 20:47:23 ID:e2qogar30
後年の魯も三軍を設けているはず。

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/01(水) 22:40:04 ID:yGwydJfHO
覇権成立後の三軍は卿の私兵みたいなものだよね
魯でも成立できるならなおさら。

国力の比率なら
晋6:楚6:秦4:斉3:鄭2.5:魯2:宋2:衛1.5:陳1
これくらいかな

38: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2007/08/04(土) 21:56:46 ID:PemUM7sN0
【暫定数値】
晋12:楚12:秦8:斉6:鄭5:魯4:宋4:衛3:陳2

ほんまかいな。

40: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/04(土) 23:23:47 ID:1Pk6U5Cb0
晋10 楚12 秦6 斉7 鄭・宋・魯・衛は3~4 と見た

斉はやはり人口多いから秦よりは上だろうし
楚は国土の広さや国制からして国力の効率的な運用は下手そう

41: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2007/08/05(日) 22:03:32 ID:bxravLvH0
地理的に見て、晋秦楚に挟まれている鄭は滅びていないだけでも評価すべき。

42: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/07(火) 10:38:35 ID:F8Hr64Al0
楚>晋>斉・秦>鄭>衛・宋・魯>陳・蔡・曹
番外:燕(評価できず)
なのは異論はない、かな?

戦国初期の秦の弱体っぷりを見ると斉>秦でもいい気がするけれど

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/08(水) 03:11:35 ID:Hp/+XNHiO
周と呉と越は?

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/08(水) 07:32:49 ID:A0HCIky30
>>43
周……日本で言う朝廷みたいなものだから評価外
呉・越は
斉・秦>越>呉>鄭でどうかな?

場合によっては覇者に認定されるくらいだから鄭の方が上ってことはないと思うけれど
鄭は初期の勢いがありまくる時期と二面外交ながらうまく渡り歩いた時期があるから評価が難しいww

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/09(木) 00:40:54 ID:Lt+OJrMt0
楚って攻め込まれたことはほとんどゼロだよな。
つまり単純な力関係は楚>晋で中原同盟を組んでようやく互角だったと思われる。

47: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/13(月) 23:13:11 ID:KIP3uXw/0
春秋時代の時、燕は中原の争いよりも北方の民族と戦っていたんすかね~

48: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 投稿日:2007/08/13(月) 23:15:46 ID:YIB7QAjO0
燕は春秋期に国といえるような規模だったのだろうか。って楚のスレでやらんでも。

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/14(火) 12:14:40 ID:WiTGDGzJO
燕って沢山あるよね

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/16(木) 11:09:02 ID:htOwWKlA0
北燕と南燕?
そういえば武王伐紂王平話には、黄飛虎は南燕王になってるよね

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/16(木) 19:52:51 ID:xYCMorHA0
戦国期の燕になぞらえて、幽州に割拠した勢力は燕を名乗るなぁ。
安禄山もだし劉守光もそうだ。
地域名でいえば、春秋戦国のころの地区割りみたいなのはずっと残ってる。

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/16(木) 20:00:09 ID:SGi/bnEK0
しかし燕の歴史がほとんどわからないというのは、あの辺りは当時秦や楚よりも辺境だったということなのかな
それとも燕が積極的に係わりを持たなかったから歴史に顕れないのか
三国時代にも公孫氏政権がかなり後まで存在したし

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/08/16(木) 20:57:50 ID:d03ZZ38P0
春秋時代末期に趙氏が晋陽・代を手に入れてやっと中原からつながった感じかな、逆に燕から代へ攻めたという事はありそうだけど、代にも勝てない程度の国力ですかね。

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/01(土) 15:03:03 ID:Q77VhOAQ0
燕も背後に遊牧民のような敵がいなければ、中原志向が強まったかな。

56: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/01(土) 23:02:10 ID:O4GbGLaE0
史記の世家読むと建国と昭王以外に記事がないから燕って春秋時代に本当にあったのか?って思えてくる
戦国初期あたりに、中山みたいに建国したんじゃないかって
君主の系譜は南燕と混じってるらしいし燕が出てくる春秋時代の話って何かある?

62: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/02(日) 03:17:15 ID:UowdvgkD0
>>56
斉の桓公に助けてもらう話。
あと、春秋事語にちょっとだけあるらしい。

57: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/01(土) 23:37:15 ID:nRxV66/60
燕って何だか本当は異民族系の王朝のような気がするな。
文化面でも中原とかなり違いがあったんじゃないだろうか。

58: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/01(土) 23:45:38 ID:1fb7V8jUO
楚のスレなのに燕に乗っ取られましたな

60: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/02(日) 02:01:27 ID:/1oLmMJx0
楚というとどうしても項羽のイメージが

61: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/02(日) 03:04:09 ID:auq5UafjO
俺としては荘王のイメージがあるね

65: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/02(日) 19:35:34 ID:eAt0nQ3d0
項羽は項羽であって、あんまり国家としての楚とは結びつかない

66: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/23(日) 08:40:04 ID:j1BfU3DX0
戦国時代以降は、他の中原諸国と同様に、天下の一員って感じだろう。

67: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/09/28(金) 18:55:13 ID:wm7jSjmwO
楚の武王、文王んときはまだ地方で暴れている蛮族程度にしか思われてなかったけど
成王のときに中原に進出し天下の一部だと認識されたんじゃないかな

68: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/02(火) 23:27:35 ID:THKwxFsD0
結局、全国政権の楚が登場することはなかったな。

69: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/10/05(金) 13:52:09 ID:N3K5NfWdO
項羽、陳勝、桓玄
どれも短命だったな

70: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/06(木) 00:14:56 ID:7214XgO/0
張邦昌もね

72: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/06(木) 11:00:20 ID:7214XgO/0
隋末の群雄割拠時にも楚を建てた者はいるし、五代十国の一つにも楚がある。

意外と楚は多い。

71: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日:2007/12/06(木) 00:30:31 ID:1H6eKlnT0
楚出身の劉邦は見事に天下を取ったんだけどね。

73: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/06(木) 22:16:12 ID:w3IIGrFN0
>>71
劉邦の出身地って、元々は楚の領域じゃないよね。

74: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/06(木) 22:18:19 ID:YD+1Fmjr0
戦国末期に斉が衰えて、楚の領域になったってところか。

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2007/12/17(月) 00:19:29 ID:cSweJlGy0
沛は項羽と劉邦が抗争してる時は完全に楚の版図だったのによく無事に切り抜けられたなぁ。
項羽なら腹いせに住人皆殺しとかやりかねんし。

76: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/01/17(木) 08:35:44 ID:vxKuvAZgO
宮城谷氏が荘王が楚の累代の君主で最高の君主と誉めていたな
だいたいの人がそう評価するだろうね

荘王

荘王(そうおう、? - 紀元前591年 在位:紀元前614年 - 紀元前591年)は中国春秋時代の楚の第6代の王。楚の歴代君主の中でも最高の名君とされ、春秋五覇の一人に数えられる。

国政を整備した荘王は、庸を攻略したのを皮切りに周辺諸国を圧迫し、領土を広げて、覇者としての頭角を顕わしはじめた。
荘王はさらに陳の内乱に乗じて一時併合し、鄭を攻めて陳と共に属国化した。紀元前597年、鄭の援軍に来た晋軍を邲で撃破した(邲の戦い)。この時の晋軍では逃げる船に乗る時に、転覆する事を恐れた兵士が船にしがみついている兵士の手を切り落としたので、船の中には指が手で掬(すく)えるほど溜まったという。

晋を退けて覇業を成した荘王は、その総仕上げとして、今なお晋に従う宋を標的に定めた。その初段階として紀元前595年、かつて父穆王の命で宋の昭公の御者に鞭打って、宋人の恨みの的になっていた申舟を斉への使いに指名し、「宋を通る際は挨拶無用」と命じた。これは申舟が宋への無礼で殺される事で、宋への出兵の口実とする為で、荘王は申舟が殺されたと聞くや、電光石火の如く宋に攻め込み、首都の商丘(河南省商丘市)を包囲した。

この間、魯も楚の盟下に入るなど、着実に荘王の覇業は完成に近づきつつあった。しかし、右師の華元を初めとする宋軍の必至の抵抗により、翌紀元前594年5月になっても商丘を攻め落とす事が出来ず、荘王は遂に撤退を命じた。だが、申舟を犠牲にされた息子の申犀がその不実を責め、荘王は進退窮する状態に陥ってしまったが、荘王の御者を勤めていた申叔時の献策で、荘王は商丘郊外に屯田を設営して、持久戦の構えを見せた。これには華元達も戦意を失い、子反の仲介の元、宋は楚の盟下に入り、荘王の覇業は完成した。

紀元前591年、死去した。



77: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/01/17(木) 11:37:07 ID:7GULv64U0
成王の最期がああじゃなかったら結構意見分かれたんだろうけどな
成王 最期

成王は暴虐な公子の商臣を廃して庶子である公子の職を立てようとしたが、逆に公子商臣の兵に取り囲まれて自殺させられた。死ぬ前に熊掌を食べたいと願ったが聞き入れられなかったという。商臣は穆王となり、成王に霊と諡すると成王の遺体の目が閉じなかったので、成と諡すると閉じたという。


96: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/09/09(火) 15:58:33 ID:bjwf3Po9O
共王の諡号を遺言に逆らって変更したエピソードがかっこよすぎる

共王

共王/恭王(きょうおう、紀元前600年 - 紀元前560年、在位:紀元前591年 - 紀元前560年)は中国春秋時代の楚の第24代君主、第7代の王。

紀元前560年、死去。死するに際して「先君の覇業を損ない、(鄢陵で)軍を失ったのはわしの責任である。わしの謚は霊か厲にせよ。」と言い残した。霊・厲は謚の中でも最悪の物であり、共王のことを慕っていた臣下達はこれを躊躇したという。

そこで令尹の子嚢(公子貞)が「王は栄光がありながら自分の過失を知っておられた。恭(謙虚)というしかありません」と言って、同じ意味を表す共の謚号を贈った



97: 焼肉ぷらす 投稿日:2008/09/25(木) 13:38:09 ID:PBbb4EDSO
対して成王はまさに往生際が悪すぎるな

98: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/01/29(木) 12:29:34 ID:ti/wPJ7P0
そうか?
どっちも「諡号はその人の人生を正当に評価したモノでなくてはならぬ」つーいい例だと思うが。諡号の話をするときは必ずこの二人のことを話すよ。

86: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/29(金) 21:40:17 ID:iS4dW8xq0
呉と楚の戦争は伍子胥、孫武といった呉の人物にスポットが当たることが多いが楚にも昭王、沈尹ジュツ、子西、申包胥といったなかなか面白い人物がいる。
なかでも子西は物語になりそうな人物だ。
昭王の兄でありながら、王の座を弟に譲った謙虚な人。呉の反攻に尽力をつくし、呉から解放された後の楚を立て直した手腕は名宰相と言ってもいい。
最後は多くの人に反対されながらも兄太子建の遺児白公勝を迎え入れ、白公勝に殺されてしまう。
もっと評価されるべき人物。

87: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/02/29(金) 22:46:32 ID:v8FO/enZ0
確かに、呉に叩きのめされた後の「楚の復興話」は小説としても面白そうだな

88: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/03/03(月) 13:45:51 ID:yVxwHhqn0
戦国時代後半、楚がもっと国家として活性化していたら、秦と覇権を争って面白くなっただろうにな。

89: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/03/03(月) 15:04:17 ID:8Hr408wOO
呉起の改革が楚に根付くことがあったなら、楚は簡単に首都を奪われることはなかっただろうね

91: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/04/06(日) 21:17:26 ID:wCGooFQO0
楚は時々滅亡させられそうになってその都度復活してる感が

92: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/04/17(木) 23:28:24 ID:h9+ccPgY0
項羽の楚が別の楚であると考えると、楚が滅亡の危機に陥り、復活できたのは呉が首都を落としたときと、白起が首都を落としたときか
呉のときは首都を奪還できた(後で、別の場所に遷都したが)が、白起のときはできてないのは興味深い

93: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2008/04/18(金) 11:00:29 ID:HTxwGQhGO
スレタイのセンスが秀逸だな

100: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/02/15(日) 00:40:07 ID:L/696Lq70
韓非子・説疑篇に楚の芋尹申亥(ういんしんがい)ってのが出てきますね。
ただ芋尹は姓じゃなく官名だそうですが。芋がつくのはこの方しか知らない。

114: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/06/17(金) 05:19:49.42 ID:fm02H6XC0
>>100
明治書院の『国語』読んでたら楚語上に出てきたんだが、その語釈がとても興味深かった

>芋尹申亥(ういん・しんがい)は霊王の欲に従いて、以て乾溪に隕(おと)せり。

>語釈
>申亥の父の無宇が芋尹となっており、申亥は、霊王が父の罪を再度許したことに感謝して、餓死しそうな王を家に迎え入れ、王が首をつって自殺すると、二女を殉死させて、一緒に葬ったという。
芋尹は、官名、芋は地名ではない。イモのことであり、陳にも芋尹があるから、植物と関係のある官らしい。


陳の芋尹は、『左伝』哀公十五年に登場する芋尹蓋がいます

102: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/04(土) 01:49:48 ID:2Bz073yi0
一応最大領域を実現した懐王の先代の威王ってどんな王なんだろ。

項羽の故郷の辺りって前は越のように見えるけど項羽にとっては越とかどんな存在だったんだろ。越系の国は色々生き残ってるけど。

103: 102 投稿日:2009/04/06(月) 02:19:52 ID:x5f3puIs0
歴史地図よく見ると越とはすこしずれてるようだ。というかこの辺は入り組んでて分かりづらいな。
劉邦と項羽の出身地、わりと近いように見えるけど徐州(彭城)はさんで150kmぐらいは離れてるねんな。

104: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/19(日) 03:05:46 ID:gv6Nff1+O
ところでてめ~らはこの時代の人物で誰が好きなんだ??
俺は伍子胥
呉越モノのドラマみると悲しくなってくるぜ

伍 子胥

伍 子胥(ご ししょ、? - 紀元前484年)は、春秋時代・呉の政治家、軍人である。

伍子胥は激情の人である。その何人も恐れぬ激情さゆえに多大な功績を上げた。しかしその激情ゆえに最後は主君と対立し疎まれ、自殺に追い込まれた。一方、范蠡は冷静に時流を読むや越を去り、最後は斉で富豪になったといわれる。


105: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/19(日) 17:23:19 ID:WwTJoEo30
范蠡だな。
大功立てながら事が成ったらあっさり見切りをつけて越を去り、名前も変えて商売始めて二度も巨万の富を築いたってカッコよすぎ。

107: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/04/21(火) 13:47:42 ID:r8ZoY+y/0
楚スレだからってわけではないが、孫叔敖

孫叔敖

孫叔敖(そんしゅくごう、生没年不詳)は、中国春秋時代の楚の令尹。
荘王に仕えて楚の富国強兵を成し遂げ、荘王に天下の覇権を握らせた。 楚屈指の賢相の一人。

孫叔敖は民を教化してよく導いたので、楚では上下が和合し、政治は緩やかながらも禁じられた事は守られ、役人に奸邪な者はなく、物を盗む者はいなかった。
同時代の晋の士会は敵ながら孫叔敖の治世を指して「徳・刑・政・事・典・礼の六つが正しく行われている」と絶賛した。


108: 奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 投稿日:2009/04/24(金) 07:07:30 ID:qfQ2VOP90
成王の酷薄さとお大尽ぶりの両極端さ。
申包胥の泣き落としと白公勝の健気さ。

何にせよ楚人はアツいよな。

113: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/05/08(日) 17:26:41.30 ID:idmf2mk70
>>108
普段のジャイアンと映画ジャイアンみたいな感じだわな
襄公を辱めまくった成王と重耳を尊重した成王の二面性は面白い

110: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2009/09/28(月) 07:20:11 ID:Mh6RPte8O
楚でいったら狼に育てられた名宰相子文が結構好きだな

鬬穀於菟

鬬穀於菟(とう こくおと/とう こうおと、生没年不詳)は中国春秋時代の楚の宰相(令尹)。字は子文。清廉で知られ、楚屈指の賢相といわれる。

闘伯比が鄖公の娘と密通して、子文が生まれた。娘は子文を雲夢沢の中に捨てたが、狩りに出た鄖公が虎に育てられた子文を見つけ、娘が育てることを許したとされる。

紀元前664年、令尹に抜擢されると、私財を投じて楚の財政を救った。成王は、貧乏で食いつなげなくなった子文のために何度か俸禄を増やそうとしたが、そのたびに子文が下野し、取り消すと戻ってきたので、遂には諦めたという。代わりに、子文が登朝するたびに肉の干物一束と朝飯一籠が贈られ、この習慣はのちに楚の令尹に受け継がれていくようになった。



112: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2011/04/03(日) 16:27:24.48 ID:fS1vvr2Y0
負芻
李氏から楚の正統を取り戻した英傑

121: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/01/30(月) 03:36:50.87 ID:n9yK7T5V0
呉によって滅亡寸前に陥った楚を立て直した令尹子西はもっと評価されていいと思う
孫叔敖に匹敵するぐらいの名宰相だと思うんだけどなあ

132: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/14(火) 02:40:34.76 ID:lhe83MT50
>>121
子西と孫叔敖の比較はなんだかなあ。子西は終わりが良くなくてな。。しかも被害にあってるのが自分だけじゃないし。有能だったのは確かだけど。(これより昔の楚の子西も横死してたっけ)

123: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/13(月) 02:25:56.03 ID:kz2a7YVSO
霊王ってクーデター起こされたけど偉大だよね
次の王が古代中国的な政治観に基づいて無に帰しちゃったけど


霊王

霊王(れいおう、? - 紀元前529年、在位:紀元前540年 - 紀元前529年)は、中国の春秋時代の楚の第27代君主、第10代の王。

父共王の死後、王位は長兄の康王が継いでいた。康王の死後はその息子の郟敖が継いでおり、熊囲はその令尹となって補佐していたが、紀元前541年に郟敖を殺害して自ら王として即位した。主に勢力拡大に従事し、諸侯と会盟して呉を討った。紀元前533年に陳を、紀元前531年に蔡を討った。その後も徐、次いでまた呉を討つなどして楚の勢力を拡大した。

だが連年の戦役は臣民に多大な負担を強いた。このため臣民の心は霊王のもとから離れ、公子の熊比・熊黒肱(子晳)、熊弃疾ら(3人とも霊王の弟)は反対派を結成し、紀元前529年に霊王が軍を率いて都の郢を留守にするとクーデターを決行。留守を預かっていた霊王の太子である熊禄を殺害した。このクーデターを知って霊王の楚軍は一気に崩壊し、霊王は1人で山中をさまよいながら死んだ。



124: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/13(月) 02:55:15.39 ID:jXr8szvT0
霊王のどこが偉大なんだ
ただの暴君にしか見えないけど

127: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/13(月) 17:03:12.31 ID:kz2a7YVSO
>>124
勢いを失った晋の隙を突いて陳・蔡といった比較的大きく国を滅ぼし晋一辺倒だった魯を楚に近づけ叔向のような人間にさえ「暴虐だが人を用いることを忌まない」と一面肯定的に評価されている
クーデターのときも国王が帰ってきたという噂が流れると、国人は霊王につこうとしたようだ

125: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/13(月) 14:34:19.52 ID:XIc4LiIJ0
友好と婚儀のため訪問した使者に向かって 霊王、「1人は宮刑、もう1人は足きりだ」
2人とも、無事帰国できてホントよかったよ

126: 名無しさん@お腹いっぱい 投稿日:2012/02/13(月) 14:40:49.69 ID:SAr6VTZW0
>>125
その二人と言うのが、晋きっての賢人叔向や正卿・中軍の将の韓起だから、霊王は晋とマジで戦争したいのかと思ったよ。

132: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/14(火) 02:40:34.76 ID:lhe83MT50
>>126
暴虐さを隠し切れてないのか、それとも挑発なのか。それが問題だ・・

128: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/13(月) 18:35:01.20 ID:k9jaGXHb0
王が危篤と聞くなり任務放棄して帰ってきて王を絞殺した人が偉大ですかそうですか

129: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/13(月) 21:56:20.89 ID:kz2a7YVSO
>>128
有能が人間が権力を得るのは罪ではない
霊王の後を継いだ平王と比較してみろ
霊王の公子を皆殺しにするのは権力基盤を固めるために仕方ないとしても、陳蔡どころかそれまで楚が滅ぼしてきた六つの小国まで復興させる
そして連合し、いざ呉に攻め入ったら諸国足並みが揃わぬとバレて敗北
おまけに費無窮なんて姦臣を重用して、その讒言を信じ、伍奢を殺して伍子胥という復讐鬼を生む
そのまま何も為さぬまま死亡
やがて死体に鞭打たれるのは有名な話

この無能王こそが霊と諡されるべきだ

131: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/02/14(火) 00:16:58.34 ID:zyMUCwNlO
楚は王権が強いから、諡号に嗣王の感情や立場がストレートに出るね。
暗君でも父王なわけだから平王や懐王みたいにまともな諡号もらえるたりするし。

六卿が実質支配してる晋は、弑された二人以外は客観的。名君と言われる悼公も悪諡だよね。

138: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/03/20(火) 01:29:39.08 ID:WpQ9Gbal0
>>131
懐王がまともな諡号??
悼公は、単に長く生きなかったからそうなったのかと思った。

ところで、「懿」ってなぜか悪諡だね。

139: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/03/24(土) 21:19:34.08 ID:9aySY2qM0
懿は美諡だろ

140: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/03/25(日) 10:13:30.52 ID:v5lGzEXs0
魯の懿公:アホな周王のせいで太子にさせられ挙句に殺される
衛の懿公:鶴狂いで国を滅ぼして殺される
斉の懿公:偽善者にして弑奪者、型どおり最期は臣下に殺される
燕の懿公:不明
韓の懿侯:魏に負けまくり

たしかに美諡なんだけど、諡された君主は揃いも揃ってろくなのがいない

141: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/03/25(日) 10:30:40.43 ID:Spu/aAXg0
懐も諡号一覧では美諡に入ってるのを見たことがある。
霊は、美諡と平諡を兼ねていたような。

なんとなく、「霊」は「幽」よりはいい、ってイメージがあるなあ。

142: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/03/25(日) 18:52:37.98 ID:t3fUuqsz0
>>141
懐は美諡ではないけど必ずしも悪諡ではないね
霊は平諡で、平・悪諡のいずれかに相当する幽とはかなり違うよ
厲に至っては完全な悪諡なんで、これを諡されたら救いようがないけど

153: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/07(土) 10:38:54.97 ID:G0IDE92w0
>>142
霊諡は「世の中が乱れたが地位を失わずに済んだ」って意味だから悪諡に近い

146: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/03/27(火) 20:29:46.19 ID:GBIzGih80
共王は自分を霊王にしろと遺言したけど
それは悪すぎるから共王になったんじゃなかったっけ

147: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/03/27(火) 21:02:13.08 ID:fxGQVIdd0
厲か霊にしろと遺言したけど、そういう恭しさをもって共と諡されてるね

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/09(月) 17:06:44.23 ID:CVWwfUGL0
末期になると武霊王とか二文字のがあるけど、あれは諡的にはどういう事なの?

155: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/15(日) 13:39:35.95 ID:UWdnlgRu0
>>154
楚にも、2文字の人が頃襄王と考烈王が出てくるね。
秦にも、厲共公というのがいたような。

武霊王は、活躍もしたけど、駄目にもなったってことで、武と霊の両方を使って、武霊王とか?

156: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2012/04/18(水) 00:11:36.86 ID:7L8fK5IMO
二文字が流行りだったか
一文字じゃさすがにネタが尽きてきたかのどっちかだろ

176: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/11/03(月) 23:04:06.08 ID:fSBLI5Mf0
項羽の祖父の項燕ってなんか有名な逸話って残ってるの?

179: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/11/22(土) 02:20:32.30 ID:l9L4+IqR0
>>176
楚の最後の名将ってことになってるけど、最後に戦死しちゃってるし、そのあとの時代に項羽が出てきたおかげで、項燕が伝説的な人物に格上げされたという可能性も排除できないな。

177: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2014/11/04(火) 09:23:47.71 ID:+Gd7mw9e0
残念ながら項燕メインの逸話は無いに等しい。。。
昌平君を楚王に擁立し秦と戦うも敗れ死んだと断片的に伝わるのみ

180: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/21(水) 15:24:20.57 ID:7FNVGUMG0
項燕の近親が秦統一期にのうのうと世間で暮らせていたのが驚き

181: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2015/01/21(水) 16:48:26.65 ID:pmUCSG7Z0
遠い親戚じゃないからねぇ…
始皇帝も甘いな


引用元: ・【芋?】春秋戦国:楚総合スレ【クマー】



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