41ouqohPndL



1: 投稿日:2015/08/11(火) 15:54:33.93
最近資料読んであっとおどろいたんだが、後鳥羽上皇が流された時、道中で「いつ死んでもいいように」僧侶がつけられてるんだね。
義時は、後鳥羽を、京を出たあたりで斬ってしまうことも考えたんだろうね。
今から考えれば、その決断は是非とも必要だった。
後鳥羽を斬っていれば、後醍醐だって斬られただろし、何よりも自分勝手なゴダイゴはびびって倒幕なんてできなかっただろう。
義時は卑しい出だから将軍になれないなんて言われてるがそんなのは結果論。
彼は生前からて竹内宿禰の生まれ変わりと崇められた。竹内は人臣最高の地位なのだから、義時でも望めば関白太政大臣も有り得たと思う。








4: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/12(水) 00:47:12.11
・北条義時は武内宿禰の生まれ変わりと流布された
・武内は人臣最高
・ゆえに、北条義時は望めば関白になれた

この3段論法で本当に大丈夫なのか?

6: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/12(水) 02:20:04.30
当時は家職の意識が非常に強かったから、仮に「俺を関白にしろ」みたいに言われたら、それは言語道断の要求でしかなかったと思う。
殺されても応じなかったろうね。

7: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/12(水) 06:46:13.44
全ては結果論。
家格の劣る平頼綱は現に息子を将軍にしようとしている。
家格を言うなら北条は本来受領にもなれない家だが、現実にはなっている。
承久の乱以降は、北条氏は当時の史料にも「鎌倉御一門」とよばれ、立派な貴紳あつかい。

8: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/12(水) 08:40:28.93
>家格の劣る平頼綱は現に息子を将軍にしようとしている
誰からも相手されずに失脚

>「鎌倉御一門」とよばれ、立派な貴紳あつかい
足利・山名・斯波・吉見も関白になれそうだww

全ては妄想。

9: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/12(水) 22:10:05.21
>>8
ところがどっこいw
豊臣秀吉が大友氏と島津氏との戦いに介入し、島津氏に「和平しなければおまえを討伐する」と、通告されたとき、島津の家臣の一人は
「秀吉はわが島津氏とちがって、確かな先祖すらわからない下賎な人間なのに、こともあろうに関白になってしまった。こんな男に、相手を関白と扱う返事をだすのはもってのほかだ。また、こんな血筋の卑しい男を関白にした、天皇のご命令のなんと軽いことよ。」

言い放った、有名な史実がある
でも現実に秀吉は関白なんだよな

11: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/13(木) 08:29:33.66
>>9
ところがどっこいww
秀吉が関白に就任できたのは摂関家内の争いと近衛家の思惑があったんだんだよね。

参考:「関白相論」ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E7%99%BD%E7%9B%B8%E8%AB%96

10: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/12(水) 23:49:02.60
まず、摂家の一員という立場を得なければ無理

12: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/13(木) 09:52:07.36
承久の乱後の北条義時なら摂関家の養子になれた!
とか言い出しそうな予感。

20: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/13(木) 22:56:30.93
なれたにゃなれたろうが、義時は官位には興味なかったんだろ。
そういうのに興味が無いのが北条だし。

21: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/13(木) 23:27:40.16
得宗より位階が上の北条一門や御家人がいたぐらいだから、得宗家当主は右近衛大将程度で六波羅探題を関白や大臣にしそうだ

22: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/14(金) 09:12:34.50
北条が官位に執着しなかった理由は平家一門を反面教師にしたため。
平家は武士たちの信頼を失って滅亡した。
北条が身の程をわきまえず高い官位を得れば御家人の信頼を失う。

23: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/14(金) 13:47:04.40
源氏一門や坂東平氏から見れば自分たちより出自の低い北条を鎌倉殿や関白に推戴するなど
考えられない。執権職までが許容範囲。
だから承久の乱後も北条を鎌倉殿にしようという動きは御家人内部では全くの皆無だった。

33: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/16(日) 15:18:14.49
義時は、泰時に、後鳥羽上皇自らが出馬して前線に出てきたら素直に負けて来い、と命令している

義時は、関白なんか、恐れ多くて望まないよ
鎌倉武士団に担がれて仕方なく承久の乱に巻き込まれただけだ
御輿になれなければ、命が危なかった
だから、将軍をわざわざ京都から迎えている

51: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/19(水) 20:30:17.25
>>33
いやあの話は、皇国史観的観点でもったいぶって語られることが多いけど、実際は臆病者の後鳥羽上皇ごときが前線になど出てくるはずがないという確信のもとに語ってるに過ぎないと思うよ。

34: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/16(日) 16:35:30.04
>>1
なれただろ。
朝廷の軍は壊滅してんだから物理的に止める手立てはない。
ただ、それが政治的に正しい決断かどうかは話は別で、義時は関白なんて望まなかっただけのこと。

35: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/16(日) 19:32:13.64
「関白になれた」とか「将軍になれた」という議論は意味がないと思う。
北条義時は「御家人たちの主君になれなかった」「主君になどなれるとも思わなかった」という現実から考えるべきだ。

主君(鎌倉殿)にならない以上、主君がなるような官位(公卿に相当する官位+征夷大将軍)になるわけにもいかない。
御家人である以上、国司クラスの官位につくのが妥当と考えただろう。
その上で、鎌倉政権にとって現実に役立つ政策を、義時・泰時たちは実行していたと考えられる。

37: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/16(日) 21:30:58.04
中先代の乱で再び鎌倉幕府をつくったら、北条家は将軍にでもなれただろうな

39: 投稿日:2015/08/16(日) 23:05:09.02
家柄の低い北条時行には武士が集まらず、中先代の乱は鎮圧された。
家柄の高い足利尊氏には武士が集まって、延元の乱は成功した。

49: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/17(月) 18:20:08.08
>>39
北条氏は幕府内で代々にわたって執権を独占していた家柄だろう
家格が低いわけないだろう
足利は幕府の御家人で源氏の傍流だろう
時宗あたりの時代は完全に北条の家格の方が足利の家格よりも高いと見られていた

54: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/22(土) 17:05:10.79
ま、北条義時は関白にならなかったけれど、彼自身それまで前例に全くないことをやっているよね。
たとえば、天皇になったことのない守貞親王を太上天皇に立てたり。
これなんかも本来はありえないことだった。

55: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/22(土) 18:11:44.99
日本のトップを皇室の血を引いてない人間が武力で倒した最初の例だからね。
しかも後の南北朝の時みたいに皇室の血を引いてる人間を全く担いでないし。
事実上皇室が滅んだ瞬間だった。
この瞬間は義時より偉い存在は政子くらいのもんだからまあ何でもできたわな。
関白になれたとかそもそも設定がおかしいw

結局彼は皇室を存続させて坂東に戻って行ったから日本史が外国の歴史と違う独自の歩みを始めた分岐点でもあるね。

57: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/22(土) 23:05:17.07
>>55
北条義時は桓武天皇の末裔だから皇室の血を引いてないわけではない

56: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/22(土) 22:14:50.21
普通だったら・・・というか自分だったら新王朝を築いているわな。
そうじゃなくても、朝廷は廃するはずだ。

58: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/22(土) 23:23:08.71
>>56
下手なことしたら御家人に裏切られるという感覚があったんじゃないの?

60: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/22(土) 23:34:03.37
>>58
新王朝はともかく、普通は幕府に一元化するだろう。
後世の歴史から見ると、これが鎌倉幕府の滅亡に繋がってるし。
まぁ下手に公武合体政権になって公家化したくなかったのかもしれないが。

59: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/22(土) 23:28:23.49
義時はリアリストだったんだろうな。
想定してなかった西日本統治なんてまっぴらごめんだったんだろう。
坂東の鎌倉体制の確立が出来たんだから面倒な事は朝廷存続させてやらせれば良いと。
逆らわないように監視はしっかりつけておくと。

61: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/23(日) 02:19:17.93
公武合体政権は平家(平氏)がやって失敗したから、自分はその轍を踏むまいと思った可能性はあるね。

63: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/23(日) 12:01:08.52
承久の乱の捷報を得て、義時が直ちに手紙で指示を出しているのが、後鳥羽・順徳・後鳥羽の主要王子の配流、仲恭天皇の廃位、守貞親王を新院とし、その王子を天皇に立てること
よく考えてみると、これだけ前例のないことを、朝廷の詔勅の助けを借りず、一切自分の意思だけでやってのけたことは大したものだ。
たとえばあの江戸幕府でさえ、これほどのことをやろうとしたらそれをいかに合法化するかで大騒ぎとなり、そのうち足を引っ張るやからも必ず出てきたことだろう。

66: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/23(日) 14:58:11.52
>>63
平清盛が後白河法皇を幽閉して、安徳天皇即位、高倉院政開始という先例っぽいことをやってのけていたけどね。

73: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/24(月) 08:50:29.25
承久の乱で北条義時は勝ったので武内宿禰の生まれ変わりと喧伝されたが、負けていたら藤原仲麻呂の生まれ変わりと書かれていただろうなw

94: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/29(土) 12:06:48.02
北条氏が摂関になるというのは、摂家将軍や宮将軍を擁立するのではなく、鎌倉政権が天皇を擁立するという事態を前提とするだろう。

天皇大権を代行し、補佐する北条氏が摂関に就任して公卿議定を仕切るというのなら筋は通る。
三浦氏・安達氏などの有力御家人、大江氏・二階堂氏のような実務官僚も公卿に昇り、北条氏とともに国政に参与するというのなら、御家人に対しても筋は通る。
また、北条氏をはじめとする有力御家人が公卿として天皇を輔弼するとなると、政権を京都へ移さざるを得ないだろう。

だが、そうなると、平家と何が違うのかということだ。
今度は東国に新たな源頼朝、北条時政が現れ、京都の北条政権打倒を目指して挙兵するのではないか?

たとえ可能であったとしても、摂関・公卿に昇って位人臣を極めることは、そもそも何のために鎌倉政権を作ったのかという原点が問われないだろうか?

95: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/29(土) 12:28:26.03
北条氏や御家人たちに摂関や公卿の地位を独占されると、藤原氏をはじめとする旧来の貴族や皇族たちは不満を抱き、「あの成り上がりの北条め!」といった反感を抱くようになるだろう。そこで、「鹿ケ谷の陰謀」のような北条氏打倒計画が持ち上がるだろう。

一方、大仏・金沢・名越といった北条氏の分家筋の家まで高い官位に登り、一門の貴族化が進むに違いない。
北条氏の公達と女官との恋、恋心を綴った和歌など、絢爛豪華な都文化の中で北条氏は文化的にも磨き抜かれ、甘美な日々を送ることだろう。
だが、その栄華はどれくらいの期間続くものだろうか?

98: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/29(土) 21:03:10.98
~95の続き

そこで、京都に移るのではなく、天皇に鎌倉へ下向いただき、鎌倉にて天皇を擁して北条氏が摂関となるという選択肢である。
これは事実上の遷都を意味する。天皇はもちろんのこと、都にまつわるあらゆる機能を鎌倉に移さなければならない。新都にふさわしい整備を鎌倉にて行わなければならない。

遷都の最も近い先例としては、平家による福原遷都がある。この遷都は短期間で失敗に終わった。福原は京都と近く、往来するのも可能な距離であったが、多くの負担をもたらした。鎌倉遷都がうまくいくだろうか?
天皇を鎌倉へお連れしたとしても、事実上、平家の覆轍を踏むのではないか?

関東への遷都が実際に行われたのは、明治維新による東京への遷都が最初である。
そのとき、すでに江戸幕府による長期の統治経験、手厚いインフラ、大規模な経済、高度な文化、多くの人口があった。
当時の鎌倉にわが国の首都機能をこなせるだけの蓄積があっただろうか?

99: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/29(土) 22:27:49.57
鎌倉は朝廷から遷都したいって話があったらしいよ。
幕府が断ったらしいが、そもそも鎌倉は城塞都市なんだから遷都は無理っしょ。
内裏とか作るスペースが無いし。
ローマとかイスラムの軍営都市みたいなもんだ。
どうしても関東に遷都したいなら、それこそ八百年早く江戸を作らなきゃね。

100: 100 投稿日:2015/08/29(土) 22:38:28.86
>鎌倉は朝廷から遷都したいって話があったらしいよ

ソース希望

102: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/30(日) 19:10:09.84
河内祥輔の学説に「皇子を実朝の猶子とする条件として、鎌倉政権が京都に移転するよう後鳥羽院が求めた。だが、鎌倉側が拒絶した」というのがあるらしい。
確かに、これはあったかも知れない。もし実現すれば鎌倉政権を朝廷が取り込むことに成功したかも知れない。
だが、都を鎌倉に遷都するという計画は、まさかなかっただろう。

103: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/30(日) 22:14:04.46
後鳥羽院の承久の乱勝利後の戦後構想では、京都に鎌倉将軍家を移して、院政の下で、武家を束ねる家職として残すつもりだったとかいう説を何かで読んだ。
建武政権下の護良親王や鎌倉将軍府に近いものかな。院に近侍する京都幕府を作るつもりだと。
その際は三浦や大内が主軸になるのか。
後醍醐天皇は理想に走って、現実があまり見えていない人物だったが、後鳥羽はもう少し現実味のある政権構想を抱いていたと思うね。ちょっと贔屓目かなw
後鳥羽は幕府をぶっ潰すのが目的ではなく、自分の言うことを聞いてくれる幕府に再編することを目的としていたとする見方が最近多い。

106: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/30(日) 23:17:22.30
>>103
承久の乱での院宣は、「北条義時追討」だった。鎌倉殿やその御家人たちを敵視するのではなく、義時を除こうとするものだ。
もともと後鳥羽院と源実朝の関係は悪くなくて、実朝に高い官位を授け、和歌を通じた交流もある。

後鳥羽院は鎌倉殿を軍事貴族として処遇しようとしていたのだろう。
畿内や西国を拠点とする御家人は、京武者として近侍することが期待されたに違いない。

この後鳥羽院の構想は、御家人たちにとってどうだったのだろうか?
その後の北条氏の支配する鎌倉政権と後鳥羽院の構想では、どちらのほうが御家人たちは幸福だったのだろうか?

113: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/31(月) 21:26:08.09
>>106
義時追討だから「幕府」を敵視したものではないって言うけどどうかな。
追討先は個人名しか書きようがないのだからしょうがないと思う。
後醍醐だって高時追討だろ?

115: 日本@名無史さん 投稿日:2015/08/31(月) 23:23:23.56
>>113
自分も最初は義時追討=鎌倉幕府打倒だと思っていた。
だが、この時代、義時=鎌倉幕府という理解でいいのだろうか?
高時の時代では、すでに得宗の権力が大きく、高時追討=討幕といってもおかしくはない。

122: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/03(木) 11:05:05.74
>>115
事実上、承久の乱のときに北条義時が追討されれば鎌倉幕府は確実に崩壊してただろ?
引き取られたばかりの三寅(後の九条頼経)はまだ幼かったのだし

逆に鎌倉幕府は北条高時が追放されても将軍守邦親王は成人していて担ぎ出す残党が残れば維持される恐れがあった
実際に次代得宗ともいうべき高時の男子は鎌倉を落ち、うち一人はのちに中先代の乱を起こしている

123: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/03(木) 23:53:50.74
>>122
承久の乱の前の北条義時は確かに鎌倉政権の実力者だが、そこまで突出した存在とは言えないと思う。
政権の幹部(後の評定衆など)に占める北条氏の割合もまだ少なく、御家人の連合政権という性格がまだ強い。
京都への先制攻撃も、大江広元、三善康信などの文官の提言によって行われ、義時や泰時の反応には狼狽が感じられる。

「承久の乱の前」「承久の乱の後」では、北条氏の位置づけは大きく違うように見える。
また、得宗の専制が確立した北条貞時以降は、さらに違うと思う。
承久の乱以前の義時を過大評価するのは、歴史をうしろから見た錯覚ではないだろうか?

源実朝時代とは違って、上皇側の所領における地頭任免問題などで強硬な態度を見せるようになった北条氏を標的として、上皇は義時を追討しようとしたのではないか?

124: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/04(金) 00:10:22.14
ただし、この義時追討の院宣を鎌倉政権がどうとらえたかは考えてみる必要があると思う。
大江広元、三浦義村、安達景盛などをはじめ幹部たちは、この院宣を鎌倉政権に対する重大な挑戦ととらえたと思う。
決して義時の首を差し出して危機を回避すべきものとは考えなかった。
「日本国総追捕使」の恩賞を提示された三浦義村が、義時を守って上皇と戦う決意をしたのは、そのような分別によるものであった。

その一方、この院宣を義時だけに向けられたものではなく、源頼朝以来築き上げてきたすべての成果に対する上皇の挑戦であり、これは御家人すべての死活に関わる問題である旨、御家人たちに強くプロパガンダを行い、上皇の分断工作を絶たなければならないと考えたであろう。

北条政子が御家人たちに対して行った演説は、決してその場での思いつきではなく、安倍談話と同様、政権幹部やブレーンたちの間で深く考えて練り上げられた労作であり、御家人たちに対して行われた渾身のプロパガンダであったと思う。

125: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/04(金) 00:22:50.22
>>123には言い過ぎの箇所があったので訂正する。
「上皇の挑戦」ではなく、上皇に讒言した近臣や武士たちによる挑戦である旨、プロパガンダを行う必要があると考えたということだ。

130: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/04(金) 23:04:40.42
三浦善村の判断が大きかったね。後鳥羽院の密使が善村の元へ来たときに速攻でとらえて幕府へ突き出した。
今は北条を見放してはならない、と即断したんだな。後日、宝治合戦で滅ぼされる云々は別にして、三浦善村のこの判断は武家全体の発展にとって、適切な判断だった。

134: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/05(土) 16:37:32.39
>>130
義村さんは、生前周りにどう思われてたかは疑問だが、後から考えると義時の忠実な同盟者なんだよね。
権謀術数の大家でありながら単なる政争家では無い点が義村のポイントかな。

132: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/05(土) 12:41:13.42
後鳥羽院の戦後構想を想像してみる。

・鎌倉殿(藤原頼経)の京都移住。官位を授けて優遇し、若くして公卿に昇る。
・大江親広・大内惟信など上皇に近い御家人が鎌倉殿の補佐役となる。
・大内惟信の系統が清和源氏嫡流の扱いとなり、都の治安、謀反人の征討などで活躍。
・三浦義村が鎌倉殿の目代として鎌倉に常駐。
・幕府の文官に院近臣が多く加わるようになり、所領の訴訟に影響を与えるようになる。
・鎌倉殿は摂家・親王などに与えられるポストとなり、任免権を治天の君が持つ。

135: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/05(土) 20:06:33.18
>>132
三浦義村は日本国総追捕使になったろうね。守護人(惣追捕使)はそのまま温存される。
北条抜きの幕府となる。院政が朝廷と幕府の両方に君臨する。後鳥羽院は後世の足利義満に近い立場になるが、義満と大きく異なるのは幕府の立場は弱く、院の下部機関というもの。
数十年後んは第二の保元の乱、新型延元の乱が起こり、結局は史実と似たような歴史発展となる。

136: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/05(土) 22:20:09.86
大内惟義 (ウィキぺディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%83%9F%E7%BE%A9

大内氏(清和源氏)はあまり注目を集めることはないが当時としてはかなりの存在だね。
こういう隠れた実力者にスポットを当てて再検証することは歴史を学ぶ醍醐味でもある。

歴史は常に勝者が書きかえる。足利氏の清和源氏嫡流伝説はその典型だ。
大内氏の主導する幻の「京都幕府」は『もしも平氏政権が永く続いたら?』と同様に、想像力を掻き立てられる。 勝手に俺だけがワクテカしてるだけかもしれんがw

137: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/05(土) 22:59:08.95
平氏政権も室町幕府もそうだが、京都の武家政権は基本長続きしないと思うぞ。
あまりに公家と距離が近すぎ、容易に武士の人心を失ってしまうからな。
それに西国は武士の独立性も高すぎる。
幕府を開くには基盤が脆すぎる場所なのだろう。

138: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/06(日) 08:40:27.10
自分も大内氏(+平賀氏)には心を惹かれる何かがある。
源頼朝の係累において、範頼・義経などが注目されがちだが、大内+平賀にも注目するようにしたい。
頼朝からの信頼、御門葉としての格、鎌倉政権における家格において、かなり大きな存在であったと思う。

また、院・朝廷との近さがこの人たちの高貴さでもあるのかなと感じる。
鎌倉と院・朝廷が融和的であり続ければ、大内(平賀)は高貴な存在として鎌倉政権内で独特の地位を築いたであろうと思う。
だが、史実のように、両者が破局的な対決になったとき、その渦中の存在として真っ先に没落する運命にあったのだろうか?

源義経は早期の段階で源頼朝から敵視され、没落せざるを得なかったが、頼朝から信頼されて繁栄した大内(平賀)もこの結末であった。
軍事貴族としての源氏門葉は、結局のところ生存を許されなかったのであろうか?

141: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/06(日) 22:13:29.56
御門葉筆頭である平賀氏(大内氏)の滅亡と新田本宗家の没落によって、義国流の庶家である足利氏が実朝亡き後の「清和源氏嫡流」を僭称できた。
御また、北条氏にとっては御家人筆頭の格式を名実共に得ることができた。
北条・足利両氏(この両家は閨閥で固く結ばれている)にとって、承久の乱の最大の収穫は、幕府が朝廷の上に立ったなどという、“試験の模範解答”ではなく、この平賀氏(大内氏)を抹殺できたことではなかったか?

なんちて。

151: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/08(火) 19:15:09.53
この承久の時に限らないけど、天皇と武士が主従関係を発達させて、律令国家的国王とインフォーマルな「武家の棟梁」が一致する、つまり西欧的封建制が日本で発達する可能性はなかったのかな?

護良親王なんかは京武者と主従関係を結んでたし、彼の出した文書も武家様の鎌倉殿執達状を模倣している。彼は国王と武家の棟梁を兼ねることを目指していたのか。
或いは後鳥羽院と北面や西面との関係は主従関係とは質的に異なるものだったのだろうか。

155: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/09(水) 03:10:13.20
>>151
>つまり西欧的封建制が日本で発達する可能性はなかったのかな?

「西欧的封建制」と「日本的封建制」の違いを教えてください。
それと建武の親政の後醍醐天皇が>>151のモデルケースだと思うのだけど?
護良親王は征夷大将軍ではあったが全武家の棟梁ではなかったと考えている。

156: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/09(水) 11:02:11.20
>>151
それって、君主が最高主権者であるっていう意味の「普通の国」でしょ。
もちろんそれは可能だし、後醍醐天皇はそれを目指したと言える。
しかしその場合、万世一系は保てないだろう。
北畠親房は、天命が改まる中国と違い、日本は万世一系なので、政治的実権が天皇から離れていくのは仕方がないと論じている。
だから、仮に後醍醐天皇の建武の新政が成功して、天皇が政治的最高権力者を持つべきという価値観が日本に定着すれば、当然その後の日本は足利天皇→織田天皇→豊臣天皇→徳川天皇→明治共和革命となっただろう。

154: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/09(水) 00:27:02.78
平安後期~鎌倉初期について考えてみると、天皇や治天の君自身が武家の棟梁になるという意思があったであろうか?
武道を家芸とする軍事貴族に対して、必要に応じて「外注」するスタイルのほうがパフォーマンスがよかったのではなかろうか?
一定数の京武者を配下に置くのがせいぜいではなかったか?

武家の棟梁になるということは、源頼朝が家人たちに対して味わった気苦労やトラブル、その息子の頼家・実朝が遭遇した苦難を抱え込むことだ。
家人たちの権力闘争や所領争いに巻き込まれ、解決の責任を負うということだ。
これはとてもじゃないが、付き合いきれないと思う。

162: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/12(土) 22:58:32.12
鎌倉時代の鎌倉は最後までドタバタしていたね。逆に京都が安定していたのが不思議。
江戸時代前までで 平安京が穏やかだったのは承久~正中の100年ぐらいjyないか。
キチ外帝王ゴダイゴが出てくるまで、「北条の平和」を享受していたのは鎌倉ではなく京都だったという歴史のパラドクス。

163: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/13(日) 19:29:54.61
>>162
承久の乱で朝廷が事実上滅んだので、その期間は完全に政治の中枢じゃなくなっていたのが大きいのでは?
ある程度大きな政変が発生するのはそれなりのパワーが必要なんだろう。
江戸期も幕末まで京都は平穏の極みだし。

164: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/13(日) 22:18:01.50
それを考えると、いわゆる「権門体制」ってものは京都の上級貴族にとってはけっこう居心地が良かったんだろうなあ
いろいろ坂東の野蛮人から干渉されるとしても、荘園からの上りはそれなりに届くし、京都の治安は良いしで

196: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/14(月) 21:02:29.81
公家の大半が挙兵に反対し、比叡山も協力しなかったが義時が関白になろうとしたり、朝廷を滅ぼそうとしたら、どうなってたかとは思う  
承久の乱が泥沼化したんだろうか

197: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/14(月) 21:40:21.14
早めの南北朝化かな。
幕府の擁立した北朝と後鳥羽の南朝で泥沼の戦争だろうね。

203: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/14(月) 23:24:38.69
でもさ、北条義時が望めばどんな地位にだってなれたの最初の言いだしっぺは北畠親房なんだよなw
すくなくとも「そんなことありえない」とか言っているおまいらよりも伝統の空気にどっぷり使っているはずの親房がそう言っているのは大きい。

210: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/15(火) 10:26:57.10
北畠親房が具体的に何をどういったのかよく知らないが、神皇正統記は、頼朝や義時父子を
肯定的に評価し、後鳥羽院や建武の親政を批判的に見ている。
神皇正統記が書かれた時代は承久から120年も後、しかも、その時代は高師直が「天皇は木や金属で良い。生きている天皇は面倒だから島流しにしてろ。」とか公言している時代だ。
おまけに 院と犬を間違えて光厳上皇の牛車に矢を射かけるDQN野郎も出てくる時代だ。
親房の義時評は南北朝時代の空気の中で書かれた “後知恵”とみる。

211: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/15(火) 10:32:06.18
>>210
それにはおおむね同意だが、100年後の後知恵で書かれたものであるから
承久の乱当時の実情を表したものとは言えないよな

214: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/15(火) 10:51:10.54
>>210
北斗の拳の中世版に生きていた親房から見れば、承久後の「北条の平和」はベル・エポックに思えたmmではないかな。
これは俺の創造だけどね。北条父子をリスペクトしていたことは理解できる。

219: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/15(火) 16:45:44.05
神皇正統記のこの部分の事かな?

「義時などはいか程もあがるべくやありけん。されど正四位下右京権大夫にてやみぬ。」

220: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/15(火) 18:10:03.47
北条義時・泰時を徳治主義の理想と崇める親房なれではだな。
丁度同じ頃
土岐頼遠「なにぃ、院?犬だと?  犬なら射掛けてしまえ!」
光厳上皇「ちょ、ちょ、ちょ、何すんだよおまいは!」

221: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/15(火) 18:56:20.68
義時は将軍にはなるべきだったと思うね

鎌倉殿(のちの四代将軍)の九条三寅は承久の乱時には幼少だったが、いつまでも幼少ではない
三寅が成長すれば、承久の乱を鎮圧して事実上の最高権力を手にした北条得宗家と衝突するのは必然だ
現に衝突して宮騒動や宝治合戦につながった

北条得宗家が勝ったからよかったものの、もし宮騒動で得宗家が負けていたら、義時が承久の乱のときに将軍にならなかったのは愚策だったと後世から指摘をされたであろう

222: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/15(火) 20:41:51.08
中世は家格の秩序が確立していたので北条氏が将軍だの関白だのありえないっていうけど、一方で、所領を失い山賊レベルまで身分を落とした朝原為頼、血筋的にも甲斐源氏の傍系の傍系、ありていにいえばそこらにいる「源太、平六」と変わらないレベルの人間すら太政大臣源為頼って署名してるもんなw
太政大臣を望んだし、なれると思っていたわけだ。

248: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/18(金) 22:52:15.85
平貞盛とかその親や叔父の世代は鎮守府将軍とかなってるやつ何人もいるだろ
それ考えると全盛期の義時も血の薄さを権力の強大さでカバーして征夷大将軍ってのはありえなくもない
それができなかったのは北条には「権威」がなかったから関東武者たちは北条を同僚としか思ってない

250: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/19(土) 07:57:20.99
>>248
承久時には、連署も評定衆も引付衆もない
政所と侍所の別当を兼ねる執権の権力が強大だった

254: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/19(土) 14:46:58.28
時宗の終わり頃から得宗家の権威が上昇しだした。
しかし、そのころには貴種のハードルが上がって皇族か摂関家でなくては貴種とは見做されていない。

北条レベルでは鎌倉殿になる家格ではない。鎌倉殿の執事の筆頭家門。

255: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/19(土) 17:18:11.65
蒙古襲来の撃退に大手柄をあげた時宗で、その大手柄で、征夷大将軍やら右近衛大将ならなれたと思うが、時宗の官位は1281年に従五位上(1265年任官)から正五位下にわずかに昇進しただけ
朝廷の官位に頼って幕府を治めようという考えが時宗にはなかったのだろう

むしろ時宗は、亀山上皇に、兄の後深草の息子を皇太子にするように圧力をかけるなど、南北朝の発端を作って、朝廷の弱体化を図ったと言える

259: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/20(日) 18:06:20.00
>>254 >>255
摂家や親王を鎌倉殿としていただく体制である限り、得宗や執権が公卿レベルの官位に登るという選択肢はないように見える。
鎌倉殿が公卿であるから、執権は国司クラスの官位に就くのだろう。

得宗は早くに出家して、公職を辞した後、官位や幕府機構から超越した権威を持つように見える。
歴代の得宗が病弱で、早く出家する(そして、早く病没する)傾向にあったことが影響していた面もあるだろうか。

262: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/22(火) 15:11:09.98
高時が将軍家が行ってきた寺社参詣を代わりに行った様子を見ていると、後醍醐天皇を退位させて隠岐の島に流して全てが平穏になったら、長崎父子の主導で、高時の嫡子の邦時が征夷大将軍になったんじゃないかとも思う

263: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/22(火) 16:12:23.25
北条邦時の代から得宗が鎌倉殿になる可能性があったということだろうか?

得宗が鎌倉殿になるというのは、すべての御家人が御内人になることを意味すると思う。高時の時代になると、かつての御家人が御内人になることもあったようだから、その方向に収斂しつつあると言えるのかも知れない。

だが、せっかく確立した得宗体制があるのに、わざわざ親王将軍を廃して自分が鎌倉殿になるというリスクを冒すだろうか?

それとも、討幕が実現せず、高時、邦時・・・と、得宗が存続した場合、いずれは得宗が鎌倉殿になる日が訪れたのだろうか?
これは興味深いところなので、皆さんのご意見を伺いたい。

264: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/22(火) 21:03:36.48
>>263
長く続けば続くほど、伝統の重みが増してきて変更しにくくなるんじゃないの?
従って「歴史上のあるタイミング」を逃したら鎌倉殿には永久になれないと思う

266: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/23(水) 14:15:24.03
御内人や、御家人+御内人である武士は、得宗が鎌倉殿になることを受け入れるかも知れない。だが、一般の御家人にしてみれば、得宗が鎌倉殿になることは、自分の主従関係を否定されることだ。これは大きな反発を呼ぶのではないか?

また、御家人+御内人である武士であっても、親王将軍との主従関係も大切にする人もいるかも知れない。摂関家の被官であっても、天皇への忠義を大切にする公家や武士がいるのと同様にだ。
だとするならば、得宗が鎌倉殿になるということは、御内人の間でも反発を呼ぶ可能性があるのではないか?
得宗は反発する御家人や御内人をどのように説得するのだろうか?

267: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/23(水) 16:47:46.99
確かに御内人は陪臣でなかったとしても、得宗の権力掌握によって御家人身分を得た成りあがり者だよね
そういう御内人に対する頼朝以来の代々の御家人層からの反発あっても不思議ではないと思うのだが

270: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/23(水) 18:01:33.37
高時の頃だったら、最早御家人なんかよりも御内人にでもなった方が美味しいだろう。
北条を鎌倉殿にする動きがあったのなら、結構な支持が集まったような気もするけどなぁ・・・

271: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/23(水) 18:29:20.13
得宗のまま権力を掌握し続ける方が都合がよかったのかもね
御家人ポジションだからこそ中枢国の守護を兼ねられるし、場合によっては執権になることで政所と侍所を直轄できるし鎌倉殿が守護や政所別当を兼ねるわけにはいかないからな

272: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/23(水) 19:50:39.72
イメージとしては江戸末期に徳川が幕藩体制から県郡制に移行して将軍から首相的なものを目指したような政治機構そのものを作り直すような作業があれば得宗が鎌倉殿になる可能性もあったかも

274: 日本@名無史さん 投稿日:2015/09/23(水) 21:06:58.18
御内人は得宗家の被官という立場だったから、政治権力・経済的利益を独占できたんだね。
彼らにとっては得宗家は鎌倉殿にならない方が好都合だったのではないか。また、幕府と朝廷が一元化することも迷惑な話だったろう。
中小の外様御家人が没落していく中で一人勝ちしている御内人たちには得宗家を鎌倉殿にするなどという発想は生まれなかっただろう。
御内人は幕府を支配し、その養分を吸い取る寄生虫なのだ。鎌倉末期の幕府は「御内人政権」であって、足利や新田のしたことはこの体制を破壊することだった。

引用元: 北条義時は望めば関白になれた!


北条義時 (人物叢書)
北条義時 (人物叢書)
posted with amazlet at 16.05.10
安田 元久
吉川弘文館
売り上げランキング: 437,007