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1: 世界@名無史さん 2005/05/01 22:11:52
語ってみよう。俺は詳しくない。








3: 世界@名無史さん 2005/05/01 22:18:24

一応、傭兵の二千年史読んだんだけど、売春婦の次くらいに長い歴史持つ。
というわけで、軍事板でなくて世界史板に立てたんだけど。

ランツクネヒトとか世界史板向きと思ったんだけどな・・・

5: 世界@名無史さん 2005/05/01 22:37:09

>>3
アレクサンドロス大王やハンニバルの時代から傭兵は活躍していたわけで。

6: 世界@名無史さん 2005/05/01 22:40:20

>>5
ギリシャ人傭兵は有名だな。歩兵で優秀な民族は少ないような気ガス・・

10: 世界@名無史さん 2005/05/02 06:35:59

>>6
優秀な歩兵か…。
確かに歩兵はいて当然で、騎兵より目立たないからなぁ。
何をもって優秀な歩兵といえば良いかわからんけど、例えば兵制が優れてると歩兵もぐんと強くなる。
体格的に劣るローマ側がゲルマン人と戦えたのもその点が大きいかと。
逆にゲルマン人なんかは個人の力が強いじゃない。
後代にも、スイス人傭兵やランツクネヒトになってヨーロッパで暴れてるし。
両方兼ね備えたのは…うーん、ワカランw

7: 世界@名無史さん 2005/05/01 22:53:16

日本は?
シャムに渡った武士達は象兵相手に無敵だったらしい。
正確にいえば、象の足元を護衛する歩兵に対して圧倒的に強かった。
彼等も傭兵の部類に入るだろう。
山田 長政

山田 長政(やまだ ながまさ)は、江戸時代前期にシャム(現在のタイ)の日本人町を中心に東南アジアで活躍した人物。

出生は駿河国の駿府馬場町とされるが、伊勢や尾張とする説もある。沼津藩主・大久保忠佐に仕え、六尺(駕籠かき)をしていたが、その後1612年に朱印船で長崎から台湾を経てシャムに渡った。後に、津田又左右衛門筆頭の日本人傭兵隊に加わり、頭角を著しアユタヤー郊外の日本人町の頭領となった。その後、アユタヤ国王より高官に任ぜられ王女と結婚したという伝説が生まれたが、シャム側の記録に該当する人物が見られないことから、その歴史的実像は明らかでない部分が多い。



11: 世界@名無史さん 2005/05/03 19:21:27

傭兵稼業は売春とともに古代オリエントから存在したといわれている。
古代オリエント諸国は、一部を除いて常備軍を持たずに有事の際には各地からの強制徴募兵と傭兵で軍を編成していたという。
古代ギリシャのポリスの軍隊は、市民兵が中核ではあったが、補強のために外部の傭兵を雇うのはごくふつうの習慣として行われており、アテネはクレタやバレアレス諸島から多数の傭兵を雇い入れたことが記録されている。
クセノフォンの有名な一万人のギリシャ人部隊も、ペルシャ帝国に雇われた傭兵だった。

12: 世界@名無史さん 2005/05/03 19:24:37

西ローマをあぼーんしたのも、ゲルマン人の傭兵だよね。

13: アクィラ ◆0fUIPC892c 2005/05/03 19:29:29

古代のギリシアも、中世以降のスイスも、豊かとは言えない土地柄ですね。
産物は「人」ということなのかもしれませんね。

15: 世界@名無史さん 2005/05/03 19:34:57

カルタゴ軍がガリア人、スペイン人、混血ギリシャ人、アフリカ人の傭兵を雇っていたことは有名だし、ローマ軍にしても騎手や射手などの専門職には、金で雇われた傭兵が含まれていた。
中世ヨーロッパの騎士たちの中には、封建正規軍に属するかたわらで傭兵騎士としてアルバイトをする者も多かった。
ルネッサンス期のイタリア傭兵部隊、スイスの長槍傭兵部隊、ドイツのランツクネヒトなどはこの流れの延長線上にある。
ランツクネヒト

ランツクネヒトは、1486年にマクシミリアン1世によってスイス傭兵を教師にして編成されたヨーロッパ(主にドイツ)の歩兵の傭兵である。

マクシミリアン1世がブルゴーニュ公国をめぐるフランスとの紛争の中で自分の歩兵部隊の必要性を痛感し組織したとされる。このランツクネヒトの登場によって、まだ決定的なものでないにしてもそれまでの騎士を中心とする中世ヨーロッパの戦争のあり方が徐々に変わっていった。


16: 世界@名無史さん 2005/05/03 19:36:43

武士だって基本は傭兵だろ?それが土地を確保する事で権力者階級になる。やがて実戦は悪党や足軽のような農民崩れが主力になり武士階級は使われる側から使う側になる。
しかし戦国期に家康の先祖や秀吉みたいな人物が出て中世の大名は殆ど壊滅する。
こう考えると歴史って繰り返すな。

18: 世界@名無史さん 2005/05/03 19:43:56

オランダ東インド膾炙は3000隻の船を擁する大会社だったが、傭兵からなる独自の民兵組織を持つことで、その莫大な利権を守っていた。
イギリス東インド会社はイギリス・ドイツ・スイスの傭兵を雇い、1782年の時点で10万人の軍を擁し、それは当時のイギリス軍より巨大な軍隊だった。

19: 世界@名無史さん 2005/05/03 19:57:27

第二次世界大戦で活躍した傭兵としては、ビルマ・インドシナ・タイ・中国の上空で圧倒的な日本軍航空部隊を相手にして戦い、初戦の敗戦で意気消沈していた連合国国民に勇気を与えたクレア・リー・シェンノート率いるアメリカ義勇軍、通称「フライング・タイガース」が有名である。
アメリカ義勇軍は陸軍・海軍・海兵隊などから応募者を募って組織されたが、世紀の軍系統には属さずに直接蒋介石軍を助けて戦ったいわゆる傭兵部隊だった。
シェンノートは戦後、蒋介石を支援し続けるため、国民党の管轄下に民間空輸会社(CAT)という名の会社を立ち上げたが、これは現在のPMC(プライヴェート・ミリタリー・カンパニー)のはしりともいえる。

20: 世界@名無史さん 2005/05/03 20:34:15

傭兵主体の軍って金さえあれば(もちろん勝利も)うまく統制できたの?

21: 世界@名無史さん 2005/05/03 20:37:22

アフリカ内戦の傭兵隊長は報酬を前金でもらっときながら形勢不利と見るとトンズラとかよくあったようだ。

22: 世界@名無史さん 2005/05/03 21:28:58

君主論とか読むといかにマキャヴェリが傭兵嫌いだったかわかる。

24: 世界@名無史さん 2005/05/03 21:53:40

イスラーム世界の傭兵についても語ろう。
ベルベル人、スペイン人、スラヴ人、トルコ人、アフリカ人などの傭兵が使われていた。

26: 若狭 ◆yqXqaUpMzk 2005/05/03 21:58:49

>>24
マムルークのことですか?
奴隷として売られてきて、仲間とともに生活し武芸を学び団結を覚え、君主によって解放されることで忠誠を誓い、俸給をもらって生活する。

簡単に言うとこんな感じですかね?
マムルーク

マムルークは、イスラム世界における奴隷身分出身の軍人のこと。原義は「所有(m-l-k)された者」を意味し、本来はアブド、ジャーリヤなどのアラビア語で奴隷を指す様々な語のうちの男性奴隷を指す語のひとつであるが、特にマムルークの語は9世紀頃から19世紀初頭頃までイスラム世界の各地で広く活躍した白人の奴隷身分出身の軍人たちを指すのが普通である。


25: 世界@名無史さん 2005/05/03 21:56:51

マムルークはそもそも傭兵と呼べるの?

27: 世界@名無史さん 2005/05/03 21:58:50

>>25
「奴隷軍人」だよな。
ところで、ビザンツ帝国のヴァリャーギ親衛隊は傭兵?

31: 世界@名無史さん 2005/05/03 23:37:26

アメリカ独立戦争では、建国の父ジョージ・ワシントンがドイツ傭兵を雇い、彼の軍隊を訓練し、戦闘を指揮させていた。このドイツ傭兵たちは、イギリス軍が雇った別のドイツ傭兵と戦う羽目になった。
1815年のワーテルローの戦いでも、ナポレオンの7万人の軍隊のうち、実に50%以上が外国の傭兵で成り立っていた。対するウェリントン公の軍は、6万人のうち4万人が外国人傭兵だった。

33: 世界@名無史さん 2005/05/04 03:24:34

アナバシスの頃って言えば紀元前400年くらいだけど、そのころにはもう、ギリシャ人は他国に傭兵として使われるまでに没落してたんだな。
アナバシス

『アナバシス』は古代ギリシアの軍人・著述家であるクセノポンの著作。アナバシスとは、ギリシア語で「上り」という意味。クセノポンがペルシア王の子キュロスが雇ったギリシア傭兵に参加した時の顛末を記した書物である。


34: 世界@名無史さん 2005/05/04 09:50:33

>>33
ポリス同士の抗争で疲弊していたのが原因かな?
アレクサンドロス大王がペルシア軍と戦ったときも、ペルシア側には大勢のギリシア人傭兵がいた。

51: 世界@名無史さん 2005/05/05 09:44:25

>>33
ギリシアでは、政治闘争や経済的没落のために多くの市民がポリスから離れていった。
彼らは生計の手段を求めて傭兵になり、アテナイの将軍でさえ、個人的な利得のために外国へ渡る者があらわれた。
スパルタに至っては、前371年にテーバイに敗れてギリシア世界の覇権争いから脱落した後、国家の方針として自国の王と市民兵を海外に派遣し、傭兵の収入で国家財政を補っていた。
当時のギリシア人は、東地中海方面では最強の歩兵であるとの評価を得ており、彼らを雇いたがる支配者は各地にいた。

35: 世界@名無史さん 2005/05/04 11:41:00

前ギリシャ人傭兵は普通。
なにもない荒野に都市があるのは、目の前の海に出て、商人か海賊か傭兵になるため。

45: 世界@名無史さん 2005/05/04 21:39:46

>>35
そもそも古代には「掠奪=悪」という考え方が存在しないし。
53: 世界@名無史さん 2005/05/05 12:11:03

グラニコスの会戦では少なくとも5000、イッソスの会戦では1万数千ものギリシア人傭兵がペルシア側にいた。

37: 世界@名無史さん 2005/05/04 13:29:46

スイス傭兵の稼ぎってどんなもん?

38: 世界@名無史さん 2005/05/04 13:36:31

>>37
王侯貴族から支払われる給料の他に、略奪品(捕獲物)も収入の一部だったのでは?

178: 世界@名無史さん 2005/05/12 15:58:24

>>37
傭兵でなく、スイス諸邦の支配層が、傭兵提供の見返りに受け取る「年金」の金額ならわかっています。

スイスが1587年にスペインと結んだ傭兵契約同盟の年金は6000グルデンで、ルツェルンでは次のように分配されていた。
年金全体の52%にあたる3120グルデンは小市参事会員36名に、2066グルデン(34%)は拡大市参事会員64名に与えられた。さらに16名の役人・従僕に360グルデン、その他の市民62名に400グルデンが与えられている。雑費として使われた額は54グルデンであった。
当時の手工業者の親方の年収がおよそ100~150グルデンであり、市参事会員にとってはかなりの収入であったことがわかる。

179: 世界@名無史さん 2005/05/12 16:10:27

>>178
傭兵自身に入る収入きいてるんじゃないの。
基本的に安い上に未払いが多発。そういう場合、傭兵隊長は略奪を許可した。

39: 世界@名無史さん 2005/05/04 17:28:01

近世の軍隊には、規則的な俸給の支払いが出来なかった。兵士の俸給が決められた給与日に支払われることはまずなく、数ヶ月程度の給与未払いはどの軍隊でも常態化していた。中には、2年近くも支払われなかった事例も存在する。
あまりに長くこの状態が続くと、酒保商人が軍隊から姿を消した。極度の貧窮に追い込まれた兵士たちは、生き延びるために集団暴動や脱走といった挙に出た。
他方。君主の側も兵士の暴動を防いで軍紀を維持するために、あらゆる手立てを尽くした。しかし万策尽きたときには、兵士たちに掠奪を許可する以外に手はなく、実際そうするのが普通であった。

40: 世界@名無史さん 2005/05/04 17:54:09

ていうか、しょっちゅう不作や飢饉になる中世じゃ、領主とその家族とちょこっとの召使の飯を出すのがやっとだもんな。
中世の戦争なんて今の時代からみると愚かしいかぎりだ。

41: 世界@名無史さん 2005/05/04 20:04:59

>>40
中世の戦争は、基本的にみなフェーデ(私戦)の性格を持っていますから。

ところで、『阿呆物語』で有名なグリンメルスハウゼンは、末端兵士の悲惨な食生活を「葡萄酒やビールや肉にありつくことはほとんどなく、リンゴとカビの生えた固いパンが最上のご馳走であった」と書いています。
フランス軍では、1635年から59年までの約25年間におよそ50万人の兵士が病死したといわれています。近世の軍隊における主要な死亡原因は、戦闘による死亡ではなく、その数倍の兵士が飢餓・栄養不足・寒さにより病死しています。

46: 世界@名無史さん 2005/05/04 22:48:52

ヨーロッパ近世の傭兵について、彼らの出自はまっとうな職を持たない「あぶれ者」「根無し草」だったというイメージがつきまとっているが、実態はそれとはかなり異なっている。
傭兵を集める手段は、いうまでもなく募兵である。通常の募兵は、募兵将校が村や町を渡り歩いて行われた。三十年戦争期の資料には、「1200人の兵士を募兵すると告げれば、1500人の男たちが来ると考えておかねばならない」とあり、この時代には兵士の供給が需要を上回っていたのである。
人々が募兵に殺到した原因は、15世紀後半から17世紀前半まで続いた、ヨーロッパにおける急速な人口増加にあった。この結果、大量の貧しい下層民が生み出され、都市では労働市場が絶望的なまでに飽和状態となり、農村では出稼ぎなどの副業をしなければ生活できないほど貧しい農民が大量に現れた。傭兵の供給源となったのは、これらの貧民層だったのである。

48: 世界@名無史さん 2005/05/04 22:58:07

また、貨幣の悪鋳は固定収入を持つ人々の生活を苦しくした。村の学校教師などが比較的募兵に応じたのも、そのためである。
彼らには知識があるため、例えば連隊書記官といった役職にすぐ抜擢された。必要な学費の給付がとだえた遍歴学生たちも、下士官や下級将校の地位を占めることが多かった。
彼らの多くは夏の間従軍し、冬に入ると中隊を離れた。この時代、冬にはふつうの戦闘がなかったので、彼らはこの期間、夏に得た戦利品を学費にして勉学を続けたのである。

50: ぢゅらさん 2005/05/04 23:21:11

>>48
デカルトもオランダ軍の傭兵だったことがあるらしい。
暖炉で手をあぶっていた時に「Cogito ergo sum(我思う、故に我あり)」という命題を思いついたのはあまりに有名だが、夏の間は傭兵稼業で学費を稼いで、冬の間に勉学や思索に耽っていたのだな。

49: 世界@名無史さん 2005/05/04 23:13:47

なるほどね。初めて知った。
そういうのが後の常備兵や外国人部隊になっていくわけね。


56: 世界@名無史さん 2005/05/05 23:30:24

傭兵軍時代の軍隊は、基本的には、傭兵隊長という軍事企業家によってつくられた企業であった。傭兵隊長は自己の才覚で軍隊を編成し、それを君主に供給した。
その動機は当然のことながら、中世騎士のような「主君のため」でもなければ、近代国民軍におけるような「祖国のため」でもなかった。彼の目当てはあくまでも、戦利品をはじめとする利益である。当時の戦争はビジネスだったのであり、軍隊はこのビジネスを追求するための組織、つまり企業にほかならなかったのである。

57: 世界@名無史さん 2005/05/05 23:48:47

傭兵軍の創設は、まずは最高司令官である君主と傭兵隊長との契約から始まる。契約が結ばれると、傭兵隊長は有能な連隊長に連隊編成の特許状を与え、業務をいわば下請けさせた。続いて、今度は特許状を受けた連隊長たちが中隊長を任命し、募兵や給養といった業務に当たった。
それゆえ、当時の軍隊の実質的な基本単位は、孫請けにあたるこの中隊であったということができる。連隊はこのような中隊の集合体であり、さらにその連隊が複数集まることで、当時の傭兵軍は成り立っていたのである。

63: 世界@名無史さん 2005/05/06 21:41:25

中隊はしかも、単なる軍事組織上の単位ではなかった。というのも、近世の軍隊において中隊は、中隊長による経営体という性格を濃厚に持っていたからである。その維持に伴う損得は、すべて中隊長の懐にはね返った。
すなわち、維持費を節減すればそれは彼の儲けになり、必要以上の費用を費やせば、その赤字分を彼自身が補填せねばならなかったのである。このような中隊の運営の仕方は、ふつう中隊経営と呼ばれている。
その一例としては、新兵の査閲に際しての、中隊長による費用の水増し請求があげられるだろう。この時代の軍隊では、募兵の後、君主の代理人による査閲が行われていたのだが、その際に中隊長は兵員数を水増し報告して、幽霊人員の給料を自らの懐に収めていたのである。
最高司令官である君主が中隊経営に介入することはなかった。中隊経営は、中隊が君主権力の直接及ばない自立的な空間であることを示す典型的な事例なのである。

67: 世界@名無史さん 2005/05/06 23:28:41

>>63
Companyでつね。兵語と経済語で翻訳が分かれてるけど、あちらさんの脳内ではどうなってるんだろう。

58: 世界@名無史さん 2005/05/06 16:41:36

戦争企業家として一番儲けた奴って誰だろう?

59: 世界@名無史さん 2005/05/06 17:27:52

>>58
ヴァレンシュタインでは?
アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン

アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン( 1583年9月24日、ボヘミア - 1634年2月25日、ボヘミア・ヘプ)は、三十年戦争期のボヘミアの傭兵隊長である。
神聖ローマ帝国の皇帝フェルディナント2世に仕えて、帝国大元帥・バルト海提督・フリードラント公爵となって位人臣を極めたが、後に皇帝の命令で暗殺された。


60: 世界@名無史さん 2005/05/06 21:07:04

>>59
ヴァレンシュタインはどうやってあんなに兵力集めたの?

62: 若狭 ◆yqXqaUpMzk 2005/05/06 21:39:29

ヴァレンシュタインの異常な兵力については『傭兵の二千年史』に簡潔にですが著述されています。
曰く、戦費に困った神聖ローマ皇帝から占領地の徴税権を授かり、それを担保にヴィッテ等の金融業者から巨額の融資を受け、後は>>46のとおり募兵をようです。

ところで『傭兵の二千年史』の史料の中で『裏切られて、売られて』というなんとも詩的な題のものがあり読みたいのですが、これはまだ邦訳されたものはないのですかね?

83: 世界@名無史さん 2005/05/08 15:21:50

戦争がないときは傭兵隊はどうしてたのですか?

87: 世界@名無史さん 2005/05/08 16:59:41

>>83
たいてい古今東西、泥棒・追い剥ぎ・山賊・海賊等の犯罪者かせいぜい商店の用心棒、あるいは物乞いや吟遊詩人や手品師、不定期肉体労働者のような最下層の職業しかない。あるいは治安を乱すとして国外追放や殺害される場合もある。
 
志願制と傭兵の違いは自国一つに仕えるか金で転ぶかと軍歴が評価されるか差別の原因になるかの違いだと思ったりする。

88: 世界@名無史さん 2005/05/08 18:15:14

戦争と兵員補給の間には、一つの悪循環があった。戦禍によって生活基盤と保護とを失った人々が軍隊に安全を求め、兵士になった彼らが新たな戦禍を招くと、それによって居場所を失った人々がさらに新たな兵士となる、という悲しい循環が、三十年戦争の時代には成立していたのである。
この時期の傭兵は「他人を殺すことによって生活をする」悪党ばかりではない。戦争による悪循環によって、傭兵が繰り返し再生産されていたのである。そのように考えると、三十年戦争の傭兵は、「戦争の実行者であっただけではなく、犠牲者でもあった」といえるかもしれない。

92: 世界@名無史さん 2005/05/08 20:10:31

>>88
現代のアフリカ諸国の少年兵みたいだな。
戦災で孤児になった子供たちが少年兵になって残虐行為をはたらく。
社会復帰がうまくいかず、また少年兵として舞いもどってくる例が多いらしい。

95: 世界@名無史さん 2005/05/08 22:52:03

1620年から1720年までのスウェーデン軍の統計によれば、戦闘中に死亡した兵士が全体の約15%なのに対し、病死者は75%に達している。
給養の問題がこれほどまでに深刻化した背景には、軍隊の急増が考えられる。
中世末に3万人程度だった動員兵力は、一般に、16世紀以降激増したといわれる。
三十年戦争期には軍隊の規模はさらに増大し、最大時の兵力は、両軍ともに10万人を大幅に超えた。短期間でこれほど巨大化した軍隊に対して十分な俸給や食糧を供給することは、どの君主にも不可能であったのである。
そして、この前例のない大規模軍隊の出現が、「戦争が戦争を養う」原則のもとでヴァレンシュタインによる軍税システムを成立させる一方で、ただでさえ不十分な兵站の問題をいちじるしく先鋭化させたのであった。

96: 世界@名無史さん 2005/05/08 23:09:37

大軍の兵站システムの確立は鉄道が出来るまで不可能だったから病死者がこんだけでるのも仕方ないな。
しかし大軍の兵站システムの確立が高性能殺傷兵器の大量使用を実現させ昔では信じられないほどの犠牲が当然のようにでるようになったのは皮肉だな。

102: 世界@名無史さん 2005/05/09 15:52:27

募兵に応じた「渡り人」たちは、入隊して新兵となったわけだが、彼ら新兵と長年軍務を続けてきた古参兵とでは、同じ兵士であっても雲泥の差があった。
一般に戦争が手職と考えられていた近世においては、兵士としての価値はもっぱら経験に求められた。それゆえ、新兵が軍事的に役に立つことはなきに等しかったのである。
これに対して、歴戦の古参兵は、どの軍隊でも渇望されるほど貴重な人材であり、中隊長は彼らの確保に全力を尽くした。戦いの勝敗を左右するのは、彼らと言っても過言でないほどであった。彼らは新兵と同じ兵士身分に属したが、現実には上等兵として彼らをまとめる立場にあった。

103: 世界@名無史さん 2005/05/09 15:57:12

古参兵の軍事的威力は絶大であった。例えば、1640年代のイギリスの内戦では、モントロウズ侯の率いる3000人にも満たない古参兵部隊が、スコットランド軍をあっけなく撃破している。スコットランド軍は、兵力数と装備においてモントロウズ軍をはるかに凌駕していたものの、6 度の戦闘にことごとく敗れ、全軍が粉砕されている。

108: 世界@名無史さん 2005/05/09 17:31:25

古参兵はまた、部隊の維持に当たっても中核的な存在になった。彼らはしばしば新兵の教練係になり、編入された捕虜を自軍に統合し、軍紀を守らせ、新兵と将校とのパイプ役になった。
戦闘に際しても、パニックや逃亡にほとんど動じることなく、新兵の模範となって部隊の秩序を維持した。古参兵はまさしく、部隊の求心力となり、軍事力の質を高める酵素のような役割を果たしたのである。

107: 世界@名無史さん 2005/05/09 17:18:07

>>102
どんな職場でもベテランが強いのはかわらないな。

110: 世界@名無史さん 2005/05/09 17:37:17

なお、三十年戦争を経験した古参兵たちは、ウェストファリア条約の締結された1648年以後になると、ヨーロッパのあらゆる大国で新たに編成される常備軍の中核を形成することになる。一般に、この軍隊の出現によって、あたかもまったく新しいタイプの兵士が出現したかのように思われているが、それは必ずしも正しいとはいえない。
17世紀末のヨーロッパを驚かせたルイ14世の軍隊といえども、その中核はもっぱら、三十年戦争時代の古参兵によって構成されていたからである。傭兵軍の時代と常備軍の時代とでは一見大きく違う印象があるが、連続している部分も多々見出されるのであって、古参兵はそうした連続性の重要な一つなのである。

120: 世界@名無史さん 2005/05/10 00:11:35

兵士たちの生活は常に死と隣り合わせであったため、近世の軍隊では俗信がとりわけ広く流布していた。兵士たちの最大の関心は、やはりなんといっても不死身になることであった。それゆえ彼らは、はるか昔から伝わる言い伝えを守って、不死身の身体を手に入れようと努めていた。
近世になり、鉄砲や大砲といった新しい兵器が重用されるようになると、火薬にまつわる新たな俗信がこれに加わる。その製造は、17世紀の兵士たちにとってみれば神秘のヴェールに包まれた技術であって、いわば魔法だったからである。
それゆえ、火薬を担当する下士官や砲術手は、百発百中するという魔弾の鋳造術に練達していると信じられた。
「弾丸を通さない」と噂された兵士や将校は、悪魔と結託していると考えられた。将帥たちも同様で、スウェーデン王グスタフ・アドルフは魔法の剣を持っていると噂され、ティリー将軍は「不死身」とみなされていた。イタリア人占星術師を側近にしていたヴァレンシュタインは、自身が魔術的世界を信じていた将軍としてきわめて有名である。

121: 世界@名無史さん 2005/05/10 00:24:32

>>120
みんな戦死したか暗殺された人じゃん。w
まあそん位カリスマないと将軍や国王なんてやってられないだろうけどな。科学や国民意識が生まれた近代と中世の端境期の兵士の意識の中で将帥ってこういう風に視られてたんだな。

127: 世界@名無史さん 2005/05/10 06:41:05

>>120
錬金術とかが信じられていた時代だしな。

116: 世界@名無史さん 2005/05/09 22:33:11

ランツクネヒトが歴史から消えたのはいつごろからだろう。(ドイツ傭兵の絶滅と言う訳でなく。)
30年戦争まではいて、フリードリッヒ大王が兵士狩りやってた頃にはいなくなってたらしいから1648~1740年の間に伝統が絶えたって事だろうか、ランツクネヒト最後の戦っていつだろう。誰か資料ください。

117: 世界@名無史さん 2005/05/09 22:50:55

>>116
常備軍ができるとともに消滅したわけだから、1648年のプラハ攻囲戦かなあ?

119: 世界@名無史さん 2005/05/09 23:02:15

>>116
「ランツクネヒト」をどう定義するかにもよるのでは?
16世紀のランツクネヒト全盛期には、衣装はおろか武器や食糧もすべて自弁することが当然だったし、兵士たちは集会を開いて自治を行い、連隊の運営に対して共同決定権すら持っていた。
これに比べると、三十年戦争期の軍隊は往時の強固な兵士共同体とはもはやいえない。
しかし、傭兵の衣装や彼らの集団暴動といった領域では、依然として前世紀の伝統が残っていた。

118: 世界@名無史さん 2005/05/09 22:56:08

常備軍の時代になると、独立の軍事企業家であった傭兵隊長は姿を消し、かわりに君主に直属する将校が登場した。将兵の衣食住は原則的に、国庫によってまかなわれるようになり、兵士は一律に支給された軍服をまとうようになる。
17世紀後半以降には、退役兵士のための廃兵院が各国で建設され、大きな社会問題だった失業兵の狼藉が沈静化した。18世紀半ばのフランスでは兵舎が整備され、兵士に年金すら支給されるようになった。


136: 世界@名無史さん 2005/05/10 21:11:10

17世紀半ばまでの軍隊は、ふつう戦争が終わるとすべて解散された。
傭兵にとってそれは解雇であり、失業を意味したから、ときには彼らが談合して戦争を継続させることすらあった。だが、部隊が解散されて平和が訪れると、次の傭兵仕事を見つけるため、彼らはあちこちの放浪を余儀なくされた。
失業兵たちは土木や収穫の補助作業員として臨時に働くことも多かったが、他方で窃盗やゆすりを繰り返し、農家を掠奪するものも後を絶たなかった。

137: 世界@名無史さん 2005/05/10 21:48:01

フリードリッヒ大王以降の傭兵奴隷・兵士狩りについて語れる人います。
募兵官の没義道ぶりや巨人狩りの実態ってどうだったんでしょう。

巨人連隊


巨人連隊(きょじんれんたい)は、《兵隊王》フリードリヒ・ヴィルヘルム1世によって編成されたプロイセンの歩兵連隊。正式な名称はプロイセン第6歩兵連隊である。

フリードリヒ・ヴィルヘルム時代の近衛連隊であり、ポツダム巨人軍とも呼ばれる。プロイセンの軍事優先主義を象徴するものとして当時から有名だった。



138: 世界@名無史さん 2005/05/10 22:11:42

>>137
いわゆる「強制徴募」ですか?
物理的な暴力のみならず、恐喝や詐欺、姦計を用いた不法な募兵のことを指します。
プロイセンでは、募兵将校が乗合馬車を襲ったり、日曜日のミサの最中に押し入って頑強な若者を拉致したりと、かなり激しい徴募が行われました。募兵将校から逃れるために、村の若者全員が集団逃亡したという話も伝えられています。

199: 世界@名無史さん 2005/05/13 16:46:31

>>137
強制徴募は、それ自体が常備軍時代に特有な現象であったが、同時にそれは、別の構造的特質を軍隊に与えることになった。兵士の脱走がそれである。
三十年戦争期においても、たしかに兵士が脱走することはあった。俸給が未払いで極度に貧窮したときには多くの兵士が脱走した。ただしその原因は、軍隊が彼らに十分な報酬を与えず、まともな労働環境を整えないことにあったから、脱走はいわば、それに対する兵士の抗議表明であったということができる。
それゆえ、この時代の脱走兵は、脱走した後でも別の軍隊へ入って軍務を続けるのがふつうだったのである。また軍の側から見ても、脱走の問題は、兵士を極端な困窮に陥らせさえしなければ、特別憂慮するに値しない問題であった。

217: 世界@名無史さん 2005/05/15 10:46:56

>>199の続き
もとより、常備軍の兵士は、強制徴募の兵士ばかりで構成されていたわけではない。
そもそも、軍のほとんどが不本意入隊者ばかりだとしたら、脱走ばかりで話にならない。常備軍には強制徴募で入隊した兵士もいたが、それ以外の兵士も多数いた。
兵士の社会的出自に関しては、18世紀フランスの研究が比較的くわしいデータを提供している。
それによれば、兵士の供給母体は主として、職人・農業従事者・奉公人といった下層民であったことがわかる。入隊前の職業を見ると、1716年の場合はこの三者で約85%、37年の場合には93%に達している。また兵士の父親の職業についても統計からほぼ同じことがいえる。職人・農業従事者・奉公人の三者は、ここでも18世紀を通じて約80%を占め、しかも時代が下るにつれてその割合は増加している。
兵士の社会的出自は低く、大多数が下層民であった。この特徴は、傭兵軍時代との連続性を想起させる興味深い事実といえよう。

139: 世界@名無史さん 2005/05/10 22:18:27

メルヴィルの遺稿『ビリー・バッド』で描かれる非道な海の人さらい、民間の水夫を拉致して強制的に海軍に入隊させる強制徴募は、海軍の増強が本格化した17世紀末以降激増し、対仏戦争に明け暮れた18世紀を通じて猛威をふるった。
犯罪者が刑を免れるために敢えて入隊することもあり、時には有罪判決を受けた被告人が裁判官に軍艦勤務を命じられることもあったが、一般の民間水夫にとっては、それは不意に頭上に襲いかかる、まさに突然の嵐にも似た理不尽な災厄であった(注1)。
しかも、兵卒の給料は極めて低廉で、あまつさえ満足に支払われないことも多かったため、働き手を突然奪われた家族はたちまち窮乏の淵に立たされ、生きるためには救貧院か犯罪かのどちらか――あるいは、その両方――を選ばねばならぬことも珍しくなかった。すなわち、強制徴募もまた、「死の家」への有能な水先案内人にほかならなかったのである。

140: 世界@名無史さん 2005/05/10 22:19:24

当時のイギリスの兵士供給は基本的に志願兵制度と強制徴募とからなっていたが、給与が1653年以来まったく改善されなかったこともあって兵卒としての軍隊勤務は極めて不評であり、志願兵の数はごく限られていた(注3)。その一方、たとえば七年戦争期全体(1756~63)で13万4千人の船員が逃亡ないし病死(うち逃亡が4万)するというように水夫の不足は深刻で、結果として激しい反発を受けながらも強制徴募に頼る以外に方法はなく、その依存度は全体の7割にも達し、海軍は「浮かぶ強制収容所」と恐れられることになった。
ナポレオン率いるフランス海軍をトラファルガーに撃ち破ったイギリス海軍が、このように国家による組織的な誘拐によって辛うじて維持されていたということは、両国にとってこの上ない不名誉な事実といえよう。

141: 世界@名無史さん 2005/05/10 22:20:07

強制徴募は、まず枢密院が強制徴募の指令を出し、これを受けた海軍省が「徴募命令書(press warrant)」を地方当局に送達、後者が徴募人を指名するという手順で実行された。
徴募隊(press-gang)は、陸上の場合は指揮者一人と副指揮者一人を含め20人ほどで構成され、船員の集まる港町のパブなどを襲った。海上では、港の入り口で帰港船を待ち伏せするという方法がとられた以外にも、全ての軍艦は機会があれば徴募に当たることになっていた。しかし、徴募される側も、国家のために従容と船員を差しだす従順な船ばかりとは限らず、頑強に抵抗する商船との間で本格的な戦闘に発展し、双方に死傷者が出ることも稀ではなかった。

142: 世界@名無史さん 2005/05/10 22:21:30

18世紀末のフランス革命への干渉戦争の時代になるとますます船員不足は深刻となり、強制徴募のターゲットは、『ビリー・バッド』の「人権号」がそうであるように、公海上のアメリカ船にまで及ぶようになった。
アメリカに帰化したイギリス出身者をふくむ大勢の船員をアメリカ船から拉致するという旧宗主国のこの度し難い横暴さが、のちに首都ワシントンを火の海にした米英戦争の引き金の一つとなる
しかし、フランスとの戦争が本格化するにつれ、志願兵と強制徴募に頼る昔ながらのリクルートの方式では宿敵との戦いに必要な海軍力を維持することがもはや不可能であることが誰の目にも明らかとなっていった。
そこで1795年、全国の各州に一定数の水兵の徴募を義務づける割当法(Quota Acts)が制定された。当初は州当局の反発もあって実効性が危ぶまれたが、1797年の海軍大反乱を機に兵卒の処遇改善が実現されたことで同法は徐々に定着し、悪名を馳せた強制徴募も1830年代にようやく廃止された。

143: 若狭 ◆yqXqaUpMzk 2005/05/10 22:23:32

「昨日まで他国の近衛兵だったものが今日はプロイセン軍に強制入隊させられていた」(『傭兵の二千年史』)そうですが、外交問題にはならなかったのですか?

144: 世界@名無史さん 2005/05/10 22:31:35

>>142に書かれてあるように、イギリスとアメリカの間では外交問題になったようです。プロイセンの場合はよくわかりません。
ちなみに、強制徴募といっても、だれかれかまわず徴募したわけではなく、貴族・官吏・家屋敷や農場を持つ者・マニファクチュアや鉱山の労働者といった人々は、統治業務や租税の重要な担い手であったため、募兵の対象からはずされていました。

155: Ryuju ◆RlujhF6VrA 2005/05/11 10:23:08

巨人狩りはフリードリヒ大王の父親の代に主に行われ、彼自身は即位直後に「巨人連隊」を解散していたと思うが。
あとプロイセンには軍管区制度があったから、末端の横暴はともかく全体的には当時としては割と効率的な募兵が可能だった。
(オーストリアでこれが導入されたのは七年戦争後)

ちなみに当時において、外国軍に勤めることはほとんど問題にならなかった。
プリンツ・オイゲンなんてフランス人と言っていい血筋なのに、オーストリア・ハプスブルクに仕えてたし。
確か大王時代のプロイセン軍にはスコットランド出身の将軍もいたはず。

161: 世界@名無史さん 2005/05/11 18:30:27

17世紀後半以降の常備軍を、近代的なイメージだけで見るのは一面的である。
これらの軍隊は19世紀以降のような国民的基盤に立った軍隊ではなく、主力をなしたのはこれまでと変わらず傭兵であるから、むしろこれは「常備傭兵軍」と呼んだほうが適切である。外国人傭兵への依存率も近代軍隊に比べるとはるかに高い。
ルイ15世期のフランス軍は、平時には少なくとも8分の1、戦時には4分の1が外国人傭兵であった。18世紀のプロイセンでは、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の治世において、外国人傭兵の割合は最大時で軍全体の3分の2であった。
フリードリヒ大王期になっても、平時においては実兵力の半分程度を外国人が占めていたといわれている。

162: 世界@名無史さん 2005/05/11 18:34:53

フリードリヒ大王時代のプロイセン軍には、「非番兵」というものがあった。
非番兵とは、ときとして強制的に休暇を与えられた外国人傭兵のことで、中隊長は休暇中の彼らの俸給を自分の儲けにしていた。
非番兵の数が多いほど中隊長の収入は増加したため、非番兵の人数は定められていたものの、定数以上の兵士が非番兵にされていた。
この例からもわかるように、常備軍時代においてもなお、中隊経営という傭兵軍時代の特質はいまだに存続していた。

169: 世界@名無史さん 2005/05/11 21:56:35

三十年戦争では、割当義務制度が存在したスウェーデン軍も含めて、どの軍隊でも兵士の構成は、各地を転戦するうちに大幅に変わっていった。
というのも、この時代の戦争では、敗軍の捕虜が当たり前のように勝利した軍隊に編入されていたからである。捕虜の編入は、部隊を率いる将校たちにとって、消耗した兵力を迅速かつ安価に再生させるための最良の方法であった。
また捕らえられた兵士にとっても、もし捕虜になることを拒めば、それは武器や甲冑といった生活基盤をすべて失うことになったため、敵軍への編入をためらわなかった。傭兵軍が出身地域に関して著しく雑多な構成になったのは、こうした捕虜の編入が広く行われた結果でもあったのである。

170: 世界@名無史さん 2005/05/11 22:10:21

出身地域の違う傭兵たちの共存は、決して容易ではなかった。一例をあげると、シュマルカルデン戦争時の皇帝軍では、ドイツ傭兵とスペイン傭兵との間で流血騒ぎが生じている。
きっかけは、輜重隊のドイツ人少年とスペイン人少年との些細な喧嘩であったが、それはやがて大人もまじえた大乱闘に発展し、鉄砲の撃ち合いにさえなった。
結局この争いでは、18人のドイツ傭兵と70人ものスペイン傭兵が死亡し、その調停には皇帝が乗り出さねばならないほどであった。
この事件は必ずしも例外的なものではない。「国籍」をめぐる傭兵たちの争いは、皇帝軍に限らずどの軍隊でも数多く生じていたからである。しかもそれは、ひとたびはじまると流血騒ぎになるのが常であった。

171: 世界@名無史さん 2005/05/11 22:55:51

>>170
「国籍」と言うより、言葉とか文化や習慣が原因じゃないか。人類皆平等が建前の現在でもこの種の差別なくなってないしな。

187: 世界@名無史さん 2005/05/13 00:24:44

中国やロシアの傭兵史ってどうなの?コサックなんて一種の傭兵なんじゃ
ない?

188: 世界@名無史さん 2005/05/13 01:50:51

>>187
ポーランドはウクライナ・コサックをよく利用していた。

203: 世界@名無史さん 2005/05/13 20:00:22

>>187
ロシアでは、ナポレオン戦争のときにコサック連隊が編成され、さらに1837年に、皇帝ニコライ1世は皇子を「全コサックの首長」と宣言した。
でもここまでくるともはや「傭兵」とはいえないかな…
コサックの場合、農奴とちがって納税や徴兵は免除されていたけどね。

191: 世界@名無史さん 2005/05/13 02:18:35

中国だと、
辺境の防衛に異民族を傭兵として使う→そいつらが軍閥化する→中央のコントロールがきかなくなり、ついには王朝を倒す
というパターンがありそうだな。

ヨーロッパの場合、上級将校職は貴族によって独占されていて、下級将校の各階級は、財産のある都市民によって多く占められていたといわれている。
貴族以外の者が上級将校になることは、ごくわずかの例外を除いて存在しなかった。

引用元: ・傭兵を語るスレ



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