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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/17(日) 17:12:45 ID:SUGGbYSH
信長の鉄甲船があったとかなかったとか
そんなことについて語ろうぜ








2: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/17(日) 17:15:41 ID:oxmR6Jfu
多門院日記には鉄張りだと

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/17(日) 21:49:06 ID:Cohtvskn
>多門院日記には鉄張りだと

「鉄の船」とあるだけで、鉄張と書かれているわけではない。
「鉄製船」「鉄砲搭載船」と、どうにでも解釈できる。

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/23(土) 05:48:02 ID:Jb0caD7a
>>5
>「鉄製船」「鉄砲搭載船」と、どうにでも解釈できる。


鉄砲搭載ならばちゃんとそう書き記されるんじゃないのか?
素直に鉄板がコーティングされてる箇所がある大船と解釈したほうが納得するけど。

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/23(土) 06:41:12 ID:9PNYuejo
海戦の参加者の記録か、さもなければテレビ映像を見て書いたのであれば正確に書けたかもしれませんね。

しかし、奈良の多聞院日記の人が実物を見ていないのなら、伝言ゲームの末に「鉄の船」と伝わってきたのを書いたのでしょうからそれがどこまで正確なのか書いた人にもわからないでしょう。
下手をすれば記録した当人は海を見たこともなかったかもしれません。

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/29(金) 23:17:39 ID:eMPDL4Qx
鉄甲船がなかったとすれば、どうやって村上水軍を撃破したのか謎になるから
あったことはあったんじゃないかなぁ

16: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/30(土) 21:37:58 ID:sxaoeV8T
>>12
大口径鉄砲による攻撃力

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/03(火) 21:28:36 ID:fWkNMWNM
>>16
それだけじゃ船をデカくした意味が無い。小型~中型の船にも大口径鉄砲は積める。
大きいだけの船は、当時の海戦では動きが鈍いわ的にはなるわ、輸送目的以外ではいいところがないので生粋の海賊らは、機動性のある小型~中型の小早船や関船を好んで使っていた。




小早

小早(こはや)は、中世(戦国時代)から近世(江戸時代)にかけて使われた日本の軍用船の種類のひとつで、大型の安宅船と中型の関船とで三分される内で最も小型の軍船を指す。名称の“小早”は、“小型の早船(関船)”という意味である。

艪(ろ)の数は概ね40挺以下。船体が小さく、安宅船や関船とは異なって船体の全長を覆う甲板状の上部構造物(総矢倉)を持たないため、搭乗できる戦闘員は少なく、矢倉上の高い位置から射撃することも不可能である。
織田家の九鬼水軍などでは戦闘での役割は補助的で、その軽快な機動力を活かして偵察や伝令などの用途に主用された。一方、毛利水軍や村上水軍などは焙烙火矢や投げ焙烙を主要武器として用いていたため、小型・快速の小早が主力艦であった。
関船

関船(せきぶね)は、日本の水軍で中世後半(戦国時代)から近世(江戸時代)にかけて使われた中型の軍用船。大型の安宅船と、小型の小早との間に位置する規模の軍船である。

性能的には安宅船より攻撃力や防御力に劣るが、小回りが利き、また速力が出るため機動力に優る。安宅船を戦艦に喩えるなら、関船は巡洋艦に相当する艦種である。名称の由来も、この種の船が機動性に優れていて、航行する他の船舶に乗りつけて通行料を徴収する水上の関所としての役割に適したことに基づくといわれる。


21: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/03(火) 22:16:42 ID:fXlBKabm
>>20
大型にすればそれだけ火砲の搭載量も増える。
実際、やや時代が下った欧州の軍船は大量の火砲を船体側面に積めるよう大型化している。
また、船縁が高くなれば斬り込みも困難になる。
火矢の的になるのは機動力があっても大して変わらん。
火矢を避けられるスピードで航行できるはずもないのだからな。

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/04(水) 09:36:47 ID:sroDS8Hx
>>21
大船に多数の火器を搭載するのも、小船多数に一艘当たり少量の火器を搭載するのも火力の総和は同じ。
大船と小船の装甲が同程度だとすると作戦展開の面で後者の方が有利となる。
西洋帆船が火力を増強する方向に進化するようになったのは風だけで十分な推進力を得られる純帆船として完成されてからのことであり、手漕ぎのガレー船に相当する和船と同列に論ずる事はできない。
欧州においてガレー船を巨大化させて大火力を搭載しようとした「ガレアス」は、試みとしては明白に失敗作であった。

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/14(土) 16:40:39 ID:531QN0Wq
>>23
>大船と小船の装甲が同程度だとすると作戦展開の面で後者の方が有利となる。

小船による機動戦術が絶対的に有利なら、何故火力に重点を置いた大船に取って代わられたんでしょうか 


>手漕ぎのガレー船に相当する和船と同列に論ずる事はできない。

日本の大安宅船は漕帆両用で、船体構造から言ってもガレーよりガレアスに近いのだが。
ついでにガレーにも帆がついてるものが多い。しかも今の論点は火砲の有用性なんだが。


>欧州においてガレー船を巨大化させて大火力を搭載しようとした「ガレアス」

自分でも気付いてるみたいだけど・・・


>西洋帆船が火力を増強する方向に進化するようになったのは風だけで十分な推進力を得られる純帆船として完成されてからのことであり

完成に至る経緯なんて関係ない。結果として火力に特化して大型になっていったことは歴史的な事実。
仮に火力よりも機動力が絶対的に有利であるのなら小型帆船による集団戦闘が海戦の主流にならなければおかしいが史実にない。
日本の場合は江戸期に入り船体の進化か止まったので欧州の例を参考にした。

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/15(日) 00:08:34 ID:6dp2GOW9
>>30
植民地支配で大西洋、太平洋を行き来する欧州海軍同士の戦術と浅瀬のおおい瀬戸内海の海賊の戦術を一緒くたにして「経緯なんて関係ない」ってずいぶん乱暴だな

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/22(日) 15:11:31 ID:/XuLMb5U
>>35
小船対大船の戦術の話なんだが?
地域による船体構造、造船技術、材質強度の違いはあっても小船と大船は存在するだろ。
あくまで火砲量が増加したという歴史的事実を述べているのであって、帆船が発達したからという経緯はこの場合関係ない。

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/22(日) 18:41:17 ID:h5yOIMJo
>>51
織田は第一次の海戦で火矢や焙烙攻撃で惨敗しているわけだから、リターンマッチにあたって何の対策も施していなかったとは考えにくいと思。別スレで見たんだが、当時の大筒の命中率はそうとう低い。(実験では50mでも的にかするのがやっとだとか)
その実験はアルマダの戦いの再現だったそうだが、砲術の本場のヨーロッパでさえそうだったなら日本ではどうだっただろうか。まして実戦の場では。
ほとんど至近距離でないと当たらなかったのではないか。
村上水軍の弓矢・焙烙のアウトレンジから攻撃をかけたわけでは、たぶんないと思う。

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/15(日) 00:32:16 ID:tGWW4cAs
>>30
>小船による機動戦術が絶対的に有利なら、何故火力に重点を置いた大船に取って代わられたんでしょうかねぇ・・・

本筋に戻りましょう。
だから、「鉄甲船はあった」んです。要するにこれを言いたかった。
「装甲が強化されない限り」小型船の群れのほうが有利。
だから日本では重装甲・重火力の大船の方が、小型船より有利になった。
まあ平和な江戸期になって「安宅丸」を最後に大安宅自体が造られなくなったから、「取って代わった」って表現が本当に正しいかどうかわかりませんがね。

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/22(日) 15:11:31 ID:/XuLMb5U
>>37
>「装甲が強化されない限り」小型船の群れのほうが有利。


何を根拠に断言してるのでしょうか? 個人的なイメージ以外で何かあるのでしょうか・・・
鉄張りではない鈍足のガレアスも機動力のある小型ガレー相手に軍船としての用を立派に成してますが・・・
必ずしも鈍足な大船は小船の群れのカモになるとは限らない。更に火砲の発達でそれまでの戦闘が変化したということもある。
つまり、「鉄甲船が木津川で使われたかどうかは微妙」なんです。要するにこれを言いたかった。
大鉄砲で装甲の薄い関船小早の船体を破砕することは物理的に可能。それに比べ村上水軍は旧態依然とした接舷斬り込みや火矢焙烙玉、油の入った桶壷を投げ込むなどの即効性のない延焼攻撃しか持ち合わせていなかった。
織田方が有効射程ギリギリまで敵船を引き付けて上手くあしらい、大鉄砲の火力で小船群を圧倒したとしてもなんら不思議はない。
この場合村上方の火矢攻撃を受けることは充分考えられるが、それにも況して大鉄砲による攻撃量と即効性が勝った結果だろうと考える。
なにしろ船体を破砕されるような攻撃を大規模に受けたのはこれが初めてだっただろうからな。
ついでに、この戦いで村上水軍は大損害を被ったというより早々に引き上げているという点にも注目したい。

15: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/30(土) 15:19:38 ID:ESnNWoo0
信長の鉄甲船は、ほとんど動かない洋上要塞だと認識していたけど、違うの?
石山への港が特定されている訳だし、そこまで移動出来れば、後は火力で制圧、という事で。

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/09/30(土) 21:44:59 ID:zYFOZLWy
ガレアスみたいのものだったのかね
これも移動なんて考えてない海上要塞だったし

19: 狸伍長 投稿日:2006/10/02(月) 12:46:35 ID:jVm0hE5z
海戦といえば普通は機動戦だけど、この海戦だけは野戦築城に近いんじゃないかな?
信長の戦い方には、割と付け城による包囲戦が多いけど(野戦は決戦となる戦くらい)、その延長で海の付け城、と考えれば鉄甲船が理解しやすいかも。
信長は、自分の得意な戦に持ち込むのが得意だけど、これも海戦に勝つのではなく、自分の得意な状況に持ち込んだのかもしれない。
どういう構造だったのか判らないところが多いけど、当時の船(和船・西洋船・中東・ジャンク)で、薄鉄板を張って、機動戦が行えたはずが無いから。

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/04(水) 00:22:36 ID:Q6H3e42/
大安宅がまともに使えたのは狭い河で戦われた木津川口の合戦くらいで、実用性は殆どなかったのではないか。
朝鮮でも安宅は殆ど兵力にならなかった。
海での戦いはわずかな速度差でも結局は機動力の勝負になるよ。
安宅船

安宅船(あたけぶね)は、室町時代の後期から江戸時代初期にかけて日本で広く用いられた軍船の種別である。

巨体で重厚な武装を施しているため速度は出ないが、戦闘時には数十人の漕ぎ手によって推進されることから小回りがきき、またその巨体には数十人から百数十人の戦闘員が乗り組むことができた。室町時代後期以降の日本の水軍の艦船には、安宅船のほか、小型で快速の関船と関船をさらに軽快にした小早があり、安宅船がその中核を成した。


25: 狸伍長 投稿日:2006/10/05(木) 20:59:46 ID:N1aqCIUX
安宅船は指揮艦でしょう。
九鬼も、九鬼丸は安宅船だけど、主力は関船ですしね。
ガレアスは強火力・遅速力・弱装甲で、ガレオンは中火力・速速力・弱装甲だから、撃たれたらやられるのは同じ。
だから、ガレアスは駄目だったけど、鉄甲船は、機動力不要・大火力・強装甲という必要充分な性能を持っていたから、戦えたんでしょうか。
となると、鉄甲船は、対石山専用船?

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/07(土) 12:22:21 ID:MMB9bUkO
長篠の合戦の馬防柵のような、足止め・待ち受け戦術用の船だったと思う>鉄甲船
陸戦の発想を力技(財力)で海戦に持ち込んだものだったのでは

31: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/14(土) 16:55:27 ID:/uyzOrNv
ガレアスもコンスタンティノープル攻め落としてるから拠点攻略には強いんだろうな。

32: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/14(土) 17:06:26 ID:531QN0Wq
>>31
ガレー最後の晴れ舞台となったレパントでも連合軍の6隻のガレアスは敵のガレーと互角異常に渡り合ってるからね。
しかも味方ガレーの援護があったにせよ1隻も沈んでない。全く使い物にならない代物ということはないな。
失敗作なイメージは漕帆両用火力重視の良いとこ取りで特長がぼやけたことと、その後のガレオンに取って代わられたからだろう。

34: 狸伍長 投稿日:2006/10/14(土) 23:09:50 ID:bZRN7W8t
話は変わるが、瀬戸内海の水軍だが、波がキツくて小型艦しか運用出来なかった可能性もあるね。

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/15(日) 00:13:12 ID:6dp2GOW9
>>34
逆に浅瀬・難所が多くて大型船の航行が難しかったのかも
欧州みたいに植民地支配で大西洋や太平洋を行き来する航続距離も必要もないから大型船の需要がなかったのかと

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/19(木) 23:58:08 ID:uRsFBiFV
なぜ和船では竜骨が発明されなかったんだろうか

47: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/20(金) 16:34:03 ID:hD6yyas4
>>46
家光がサクッと禁止したからじゃない?
発明ってのなら何でだろうね。中国のジャンクも竜骨じゃないし。
でも、箱状に区切られて事実上の竜骨構造みたいだけど。
丸木舟からの継承で人が乗るところに邪魔なモン作るなや!ってことかも。

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日:2006/10/20(金) 19:19:23 ID:24cqwfgF
鎖国直前のころが和船が独自に外洋向けに発展する最後の機会だったね。

69: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/05(火) 23:50:24 ID:ofmfsYA2
九鬼って大名になって海のない地に転封されちゃったけど水軍の将たちはリストラされたのかな?

70: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/06(水) 21:04:11 ID:i7nYdate
>>69
そもそも水軍稼業だけで食ってた「水軍」なんて芸予海峡の村上三島水軍くらい。
だからそいつらの場合は「本業に戻った」だけ。

74: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/10(日) 22:16:20 ID:IfU3RwB8
>>70
”水軍稼業”ってどんなことをするの?

75: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/10(日) 22:55:30 ID:UI3J1ujN
>>74
海路の通せんぼをして通行料を取る。
海関を守ってるから「関」船

77: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/12(火) 00:25:23 ID:j4XJ3Yyg
>>74
>>75に補足だが、
無視して逃げると、それこそどこまでも追いかけてくる。
件の村上水軍を無視して堺に向かった船を、村上水軍は堺まで追いかけて金を徴収している。

71: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/09(土) 18:27:20 ID:dz5MtfzR
以前にNHKでやってた鉄甲船特集では、鉄甲船が巨大だったのは戦闘力を高めるためではなく鉄板を貼っても沈まないだけの浮力を得るためと説明されてた

72: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/09(土) 18:30:19 ID:sMqyWKbT
浮力を得られるか科学的に検証してたね。
ま、それだけ。

79: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/22(金) 12:44:24 ID:9asixpvs
閑山島大捷はどれぐらい大勝利か? 【世界四大海戦?】
http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1799748

ここを見たんですが、当時の日本にはどれぐらいの安宅船や関船があったのでしょうか?
木津川河口海戦の第一次と第二次でも軍船のは数は少なかったではないでしょうか?

82: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 01:28:02 ID:VEgsZLFb
>>79
総数なんてわかるはずもないが、朝鮮出兵の前年に出された造船命令だと
「東常陸より西四国九州に至り、北秋田より中国に至る沿岸諸国は各禄10万石ごとに大船2隻を製すべし。その工費は先の半額を与え、竣工後に完納すべし」
とあるな。目安として五万石あたり安宅船一隻?
この令の後、一年間で700隻の船が新造された。

84: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 07:32:08 ID:nWfbpvuO
>>82
それ輸送船であって戦闘艦じゃないし。

85: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 10:46:34 ID:VEgsZLFb
>>84
輸送船は民間からチャーターされた船がほとんどだったと聞くが?
新造の大船を輸送には使わんでしょ。旗艦の日本丸も新造艦だし。
まあ、安宅船の割合は少ないよね。100隻中、1隻くらいか。

朝鮮出兵で使われた船
馬船
主に軍馬輸送用
戦船
1500石内外のクスノキ造りの装甲船
内櫂船
200石以上の快速船
早船
斥候用の小型船、いわゆる小早船
囲盾船
2000石積前後、二層以上の天守台を持つ、いわゆる大安宅船
井楼船
300石以上、400石以内 前面・両舷を装甲し、高い井楼から火砲で攻撃するための砲艦 
幕盾船
80丁立て以下の関船。天守台は持たない。全部を装甲していない場合は幕をもって盾の代用としたので幕盾船と呼ばれた

80: 名無しさん@洩れ舟 投稿日:2006/12/22(金) 15:48:22 ID:0WsbpLFJ
信長の鉄甲船について、ひとつふたつ疑問点があります。

その①、装甲になるほどの大面積の鉄板を作ることが出来たのでしょうか?
当時は水車動力のハンマーも無く鉄を延ばすには手打ちしかなかっと思うのですが。
(秀吉の時代には鉄張りの大盾があったらしいけど)伸びの良い銅版のほうが現実的とおもう。

その②当時の船を平底と信じている方が多いけれど、家光が竜骨を禁止したのならそれ以前には竜骨を持った船が沢山あったと言うことになり、最先端技術をそなえる軍船に竜骨が取り入れられていなかったというのは、なんだかおかしいような気がする。
皆さんはいかがお考えですか?

83: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/24(日) 01:48:59 ID:VEgsZLFb
>>80
1:銅板はふつうは装飾用に使う高価なものだし、戦時下で使い捨ての軍船に貼り付けるほど信長もゴージャスじゃなかったんじゃないかなあ?
もし実在したとするなら、広い面積の鉄板を貼り付けたのではなく、鎧兜に使う程度の小さい面積の鉄板を小刻みにたくさん貼り付けたものだったと思う。

2:平底の船は竜骨つきの船に一方的に劣るわけではなく、浅い海でも座礁しにくいというメリットがある。
軍船のように日本近海でのみ使うのなら平底のほうが実用的。
今でもヤマハ発動機とかで平底の和船を売ってるよ。

86: 名無しさん@洩れ舟 投稿日:2006/12/25(月) 11:42:33 ID:vmqksBWW
>>83 
装甲板については、なるほどと思いました。
おそらくそのとおりだろうと納得いたしました。
竜骨につきましては日明間の私貿易船と見られる沈没船が引き上げられ、その船が竜骨を備えたジャンクタイプの船だったという記事を読んだ覚えがあります。
結構以前から日本人は竜骨と言うものを知っており内航船は別に考えるとして、外航船には採用していたのではないかと感じています。とはいえ、このあたりは証明の難しい問題ですね。
ところで朝鮮出兵の話題ですが、当時ものすごい金額の金が動いたんでしょうね。
大体1000石の船といえばどのくらいの価値があったんでしょう?
とにかくすごい値段の船が何十隻何百隻と建造されたんですねー!
中には粗製濫造の船を作って大金をせしめるといった、悪徳業者もあったかも知れませんね。

87: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2006/12/25(月) 21:23:17 ID:CLARzXV2
>>86
ウン、ジャンクタイプの船は確かにけっこう前から知られていたし、日本国内でも小数ながら作られてもいた。朱印船がそうだね。
でも、そうした竜骨を持つような本格的な帆船は、戦国時代には戦力にはならないと考えられていたんだな。
慶長14年、西国大名が持つ500石以上の船がすべて没収された際も、外航用の船はその対象から外されている。
なぜか?
日本には大砲がほとんど無かったから。
大砲が無ければ喫水の深い帆船はただの小回りのきかない船でしかない。座礁の危険もあるし。大筒はあるが、火縄銃に毛が生えたような小口径のものばかりで、とても船を沈めてしまうほどの威力は期待できない。
当時の船戦といえば接舷切込みが大半で、火力のみで決するような戦いはまだまだ珍しかった。技術が進歩して、ヨーロッパなみの大砲が国内でもどんどん作られるようになったら、そのうち帆装軍艦が安宅船に取って代わるような事も起こったのかもしれないが、その前に徳川体制のもと平和になってしまったので、帆船の時代はとうとう訪れなかった・・・というわけ。

88: 名無しさん@洩れ舟 投稿日:2006/12/26(火) 08:32:06 ID:dr8UulOF
>87さん
軽快な運動性を必要とした軍船には喫水の浅い船のほうが適しているとのこと。
なるほどと納得いたしました。
昔漕いだことのある伝馬船の軽快さを思い出しました。ありがとうございます。

89: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2007/01/23(火) 16:37:35 ID:/A0PqIT2
琵琶湖は軍船はなかったの?

91: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2007/01/23(火) 17:20:38 ID:Psij+CGy
>>89
100挺櫓、で調べてみるといいことがあるかも

92: 名無し議論スレにて投票方法審議中 投稿日:2007/01/23(火) 20:44:31 ID:krMnXJQm
湖賊だってちゃんと居たしな。

98: 人間七七四年 投稿日:2007/03/13(火) 23:12:35 ID:Lg5u1dNX
この間、佐賀の名護屋城で朝鮮出兵の屏風絵を見たけど朝鮮の船が全部亀甲船ってわけじゃないんだね。
日本の大安宅船と同じで、ごく少数しかない。他のは日本の船と似たり寄ったり。
仮に性能が良かったとしても、戦の趨勢にはそうたいした影響はなかったんじゃないかな?

99: 人間七七四年 投稿日:2007/03/14(水) 18:16:18 ID:piqnnlRZ
政治的に立場が弱かった一指揮官イスンシン考案の船が多数を占めることはないよな
ジャンクや安宅などの和船とをあわせたような船が限界なのかもね
当時の朝鮮に西洋船の技術を入れる余裕なんてないだろうし
ましてやガレオンを購入できるようにも思えない

114: 人間七七四年 投稿日:2007/04/20(金) 22:04:44 ID:Sq9f/BEE
「秀吉と武吉」読んだ。なかなか面白かった。
どこまでホントかわからんが、三島村上水軍って木津川口から関ヶ原までの間は来島以外まったく活動できなかったんだな。
てっきり小田原や朝鮮も武吉の子の元吉らが毛利水軍をまとめたんだとばかり。
ゲームのやりすぎみたいだ。頭冷やしてくる。

115: 人間七七四年 投稿日:2007/04/22(日) 13:11:26 ID:6X14zIAP
>>114
それはほぼ正しい記述だと思います

来島村上通総は1582年織田家に誼を通じ、結果来島を攻められ秀吉の元に逃れ、そこで秀吉の側近となった経緯があります
で本能寺の変に伴う秀吉・毛利の和睦によって来島に復帰した後も秀吉から重用され、四国平定後は伊予に1万石を超える所領を得ています(関ヶ原で西軍につき所領を失うも後に豊後で大名となる)

一方来島の重用とは対照的に因島・能島は非常に冷遇され、最終的には海賊禁止令によって既得権益を奪われたことで水軍衆としての勢力基盤を失っています
その後、因島は毛利(小早川隆景)の家臣団に組み込まれることで所領は維持しますが、能島村上武吉親子に至っては瀬戸内海から追い出されていますから、独立した水軍衆としての行動力は完全になくなったとみてよいでしょう(最終的にはどちらも子孫は毛利氏に仕える)
これが天正末期のころのことですから、小田原・朝鮮攻めの時に能島村上氏の名前が出てこないのも当然といえます

結局のところ、秀吉にかわいがられたかどうかで豊臣政権時の命運が別れたとも言えます

118: 人間七七四年 投稿日:2007/05/16(水) 23:28:09 ID:M2cbMAYZ
戦国時代海戦ってどれくらいあったの?
木津川しか知らないが、北条vs里見とかでもやっていそう。
誰か詳しい人教えてくれ

119: 人間七七四年 投稿日:2007/05/17(木) 00:08:22 ID:gsOvz716
武田vs北条の海戦もあったな、そう言えば

北条vs里見の江戸湾での戦いは半世紀に及ぶからなあ・・・
最終的に江戸湾でのアドバンテージを喪失した里見は陸海から追い詰められて北条に屈服せざるを得なくなった

120: 人間七七四年 投稿日:2007/05/18(金) 00:51:40 ID:QfDBDSFC
>>119
それだけ聞くと、里見は小競り合いを続けて尻貧になり海戦らしい海戦をせずアボーンって印象を受けるが、実際海戦はあったの?

122: 人間七七四年 投稿日:2007/06/02(土) 16:21:42 ID:/bUac4JE
>>120
よくは知らないけれど、
山本水軍(北条の水軍衆)が上方の技術を導入して造った船を導入して、それまで優勢だった里見の水軍を圧倒したらしい。
これが大体里見との講和直前の話。

124: 人間七七四年 投稿日:2007/06/02(土) 19:58:37 ID:rfPrCwqU
当時の鉄船の鉄板はどの程度腐食に耐えられるのであろうか?

129: 人間七七四年 投稿日:2007/06/05(火) 17:59:49 ID:A0+FEt4/
>>124
少し後の時代の徳川の安宅丸が銅板装甲なのは、鉄板装甲の腐食が問題化したからではないかと思うんだけど。

132: 人間七七四年 投稿日:2007/06/09(土) 17:35:29 ID:W5t027OC
何の為の鉄板装甲?
投資に見合う必要性なんかあるのか?

133: 人間七七四年 投稿日:2007/06/09(土) 18:43:46 ID:11+0I3EW
焙烙や火矢で舟を焼かれないための対策
基本的に、本願寺への水路を封鎖するための船だから航海能力とかは度外視したんじゃ?

134: 人間七七四年 投稿日:2007/06/09(土) 19:21:46 ID:Z6RUezho
村上水軍は火矢や焙烙玉での戦闘を得意としており、木造船では炎上してしまうので、防火の為に鉄板を付けた。

135: 人間七七四年 投稿日:2007/06/09(土) 19:52:04 ID:+p3K+VRz
速度が10㎞前後でしょ?海上封鎖には不向きなような希ガス

137: 人間七七四年 投稿日:2007/06/09(土) 21:41:48 ID:bCA+WEoa
>>135
鉄甲船は川口を封鎖する為のものだから、極論すると動けなくてもいいんだよ。

143: 人間七七四年 投稿日:2007/06/12(火) 23:46:09 ID:Pdt0SDCG
鉄張軍船は伊勢で建造されて堺へ回航中に雑賀水軍に迎撃されて、それを打ち破ったという戦果はあるはずだが。

144: 人間七七四年 投稿日:2007/06/13(水) 22:47:34 ID:3Dd2q2G1
>>143
それはボーナス的についてきた戦果。
信長の考え方はアレクサンダー大王と同じく“陸地を全て取ってしまえば海軍なんていらね” だから鉄甲船は本願寺兵糧攻めだけの為のもの。
事実、木津川以降鉄甲船が使われた記録は無い。

無い?
無いでいいんだよね?

147: 人間七七四年 投稿日:2007/06/14(木) 14:19:57 ID:ZJZs2HCn
朝鮮で使ってますが何か?
鉄甲船(てっこうせん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて大型の安宅船に鉄板を張った船。主に織田信長と、豊臣秀吉が建造を命じた鉄甲船が知られる。
信長の鉄甲船はいまだ謎に包まれているが、秀吉が文禄・慶長の役時に鉄の装甲を持った大型船を建造したことは『フロイス日本史』に文禄2年(1594年)のこととして明確に記述されている。


149: 人間七七四年 投稿日:2007/06/14(木) 20:18:47 ID:ZJZs2HCn
この時代の水軍自体が稀な状況でしか使えない代物だからそんなに入れ込む必要はないんだな。
陸と比べたら大身の水軍大名などいないじゃん。

150: 人間七七四年 投稿日:2007/06/15(金) 00:08:19 ID:zcFXCVBv
>>149
それは全てあなたの思い込み。
この時代の海賊衆って村上を除けば水陸両用だから分かりにくいだけ。
この大名の何割が海賊衆っていう統計も無いしな。

151: 人間七七四年 投稿日:2007/06/15(金) 16:46:40 ID:hxzvS2Zo
沿岸地域を制圧するのに水軍がないと制圧しにくいってのもあるんだな。
その典型例が石山本願寺
逆の立場から見ると水軍で制海権を取ってれば沿岸地域を維持しやすい。

153: 人間七七四年 投稿日:2007/06/15(金) 23:39:43 ID:QI//XcxJ
>>152
水軍は捨ててないのだが・・・
まあ、元々あってないような物かも知れないが>向井水軍

向井 正綱

向井 正綱(むかい まさつな、弘治3年(1557年) - 寛永2年3月26日(1625年5月2日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。

本多重次の配下として200俵の扶持を得て、伊豆国攻めや小牧・長久手の戦いなどに従軍。北条水軍の梶原景宗や、織田(羽柴)水軍の九鬼嘉隆ら名だたる水軍の将を破るなど目覚しい活躍をし徳川水軍の中心となっていった。その後、家康の乗る船を預かる御船手奉行に任じられ、小田原征伐においては相模湾での包囲を担当した。徳川氏が江戸へ移封されると、相模国・上総国で2千石を得て、相模国三崎に入った。関ヶ原の戦いでは海路が荒れて遅参するものの、その地位は変わらず江戸湾の警護・発展に貢献した。


154: 人間七七四年 投稿日:2007/06/16(土) 02:09:51 ID:tF9Mw9ev
>“天地丸”は寛永7年(1630)、3代将軍家光の時代に建造され、廃船に至る幕末までの実に

230年以上の間、将軍の御座船の地位にありました。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00200/contents/065.htm
230年以上ってスゲー
これだけ長寿船って世界的にも珍しいんじゃね?

上部構造物がフレーム状になってるけど、戦時にはここに任意の盾板を装着すると思う。

156: 人間七七四年 投稿日:2007/06/16(土) 12:38:01 ID:R3efL1A+
>>154
>寿命230年
ヒント 「御船蔵」

それだけ長寿命の帆船は珍しいが木造建造物と考えればまあ十分あり得るかなと

191: 人間七七四年 投稿日:2007/11/03(土) 20:15:54 ID:xUAmaMBf
>>156
遅レスですが、史料で確認できる天地丸の修理は
正徳元年(1711)
宝暦九年(1759) 
寛政九年(1797)
弘化四年(1847)
の4回です。

正徳(81年)以外は平均して44年ごとに修理が行われていますので、正徳以前にも1回の大修理が行われた可能性は高いそうです。幕末期の天地丸は痛みの少ない屋形関係を除くと、新造時の部分は残っていなかった可能性があります。

ちなみに大名の御召関船(御座船)は21年ごとに作り換えることになっていましたが、江戸中期以降は50年ごとになったそうです。

155: 人間七七四年 投稿日:2007/06/16(土) 10:49:34 ID:Yv/6RXaR
いわゆるひとつのエアフォースワンか。

158: 人間七七四年 投稿日:2007/06/17(日) 12:04:27 ID:ssyPdUn1
水軍大名は最大でも5万石程度でしょ?

159: 人間七七四年 投稿日:2007/06/19(火) 22:47:48 ID:da9f5CXg
〉〉158
江戸時代の来島家しか念頭にないのか?
戦国時代は、ほぼ全てが海賊衆の三島村上、松浦以外に、かなりの率が海賊衆と思われる宗氏、里見氏、安東氏、毛利家、三好氏や、どれだけが海賊衆かサッパリ見当がつかない島津家等がいるのだがな。

160: 人間七七四年 投稿日:2007/06/20(水) 08:44:51 ID:I9g/JiIV
多分、陸兵が都合によって水軍に転じるような大雑把な体制だったんだろうな
舟があればとりあえず海で戦えます、みたいな
実際、朝鮮半島からの撤退戦の時に李舜臣らの明・朝鮮水軍をボコボコにしたのは島津やら立花やらの、どちらかといえば陸戦で名を売ってた西国大名連中

162: 人間七七四年 投稿日:2007/07/12(木) 16:14:13 ID:dcLpJSX8
>>160
ぎゃくに名の売れた来島水軍はぼこぼこにやられて頭首があぼーんしてるしな
まあ九州の猛者の島津と所詮海賊の差かな

163: 人間七七四年 投稿日:2007/07/13(金) 01:19:03 ID:g6YyAdtH
違う。命令系統に馬鹿正直に従ったかどうかの差。
朝鮮出兵時の水軍の指揮権は陸戦経験しかない脇坂等の秀吉子飼いの大名が持っていた。
九鬼は命令を聞いていたら負けちまうと命令不服従で本国召還、馬鹿正直に命令に従った来島は当主討ち死に。
島津等が戦ったのは撤退戦で指揮系統がボロボロになった後。
逆にDQNな縛りが無くなって李舜臣を討ち取る戦果を挙げている。

164: 人間七七四年 投稿日:2007/07/13(金) 11:45:57 ID:/8yIDM1Z
普通に数の差だろう
朝鮮側戦史では戦果が相当水増しされているが来島水軍は船数でかなり劣っていた
逆に日本水軍本隊が北上すると、朝鮮水軍は一戦も交えず逃走して水軍本拠地を捨てている
水上戦でも数の理屈は健在

167: 人間七七四年 投稿日:2007/07/14(土) 18:06:01 ID:IP/W605s
白村江ではむしろ唐水軍より日本水軍のほうが多かったらしいが。

168: 人間七七四年 投稿日:2007/07/14(土) 19:11:44 ID:B9XC0fLI
>>167
当時の場合、船の建造技術がとんでもなく開いていたからな
唐側は外洋航行すらできる大型船
日本・百済連合軍側は小船程度

171: 人間七七四年 投稿日:2007/07/15(日) 22:38:13 ID:YBYAdzKr
>>168
外洋航行が出来ないなら、どうやって日本から朝鮮に行ったの?

175: 人間七七四年 投稿日:2007/07/16(月) 17:49:19 ID:SIdmpAjL
>>171
壱岐、対馬、を中継地にすると、外洋航行が出来なくても朝鮮まで渡れる。


181: 砂岩か耳ね ◆oWrjcNwAas 投稿日:2007/08/19(日) 02:25:15 ID:Z0I79NBI
一年近く前に、瀬戸内海の小豆島へフェリーで渡ったが、本当に小島が多いんだね。
たまたま同船した人に十川という人がいて、「出身は四国ですか、似た名前の武将がいますよね」食いついてきたので、その人も戦国に興味が合ったのだと思う。
その人と、あの陰に水軍の一団が潜んで……とか想像して会話していたら、かなり萌えた。

183: 人間七七四年 2007/09/18(火) 01:46:00 ID:uioVpu7s
大友水軍って名前は聞くけれど、何か実績有る?

184: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/09/18(火) 02:13:32 ID:dkwIwVIE
>>183 
永禄12年(1569)の毛利氏との戦い、 
元亀3年(1572)の伊予西園寺氏攻め(土佐一条氏救援)、 
天正7年(1579)の島津水軍との日振島沖合戦、 
文禄元年(1592)の朝鮮出兵、 

その他かなり、いまいち評価が低いのは何故だろうか。

186: 人間七七四年 2007/09/18(火) 08:27:45 ID:aHG7NovM
>>184 
門司合戦の記録等みると、関門海峡渡海・後方遮断等 
毛利水軍が好き勝手にやっていて大友水軍の痕跡が出てこない気がするんだが、大友水軍何をやっていたんだ?

187: 人間七七四年 2007/09/18(火) 16:39:30 ID:/ViRvuMy
村上水軍一艘を破壊して感情を賜る 
尼子が背後を付いたのを見て、大内輝弘と共に追撃 

詳しくは「若林鎮興」で検索してみてください。 
あと大友水軍なら安東氏についてのホームページもあったはず。

188: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/09/18(火) 22:38:09 ID:dkwIwVIE
>>186 
門司合戦で毛利水軍にいい様にやられたから、水軍の強化を図ったと思ってた。 
それ以前にも、海賊襲来時の感状で分かる様に活動はあったようだが… 

そこら辺は余り詳しくないんで…詳しい人いたらお願いします。

195: 人間七七四年 2007/11/07(水) 21:14:37 ID:v5V008Eo
>>184
朝鮮出兵で大友水軍の誰がどんな活躍をしたの?大友は内陸で戦っていたんでしょ?

197: 人間七七四年 2007/11/08(木) 05:45:31 ID:LF8hEucs
>>195 
村上、九鬼、他に四国の水軍とかも戦ってる

198: 人間七七四年 2007/11/08(木) 22:01:57 ID:k5Aorfk4
>>197 
検索しても朝鮮で若林が活躍したって具体的な情報がヒットしないんだが?

189: 人間七七四年 2007/11/02(金) 21:48:07 ID:nH1NXN8Y
安宅船が初めて作られたのは何時ごろですか?

193: 人間七七四年 2007/11/06(火) 02:08:12 ID:/Wi9ma9t
安宅船て淡路の安宅水軍からきてるのか?

194: 人間七七四年 2007/11/07(水) 16:10:50 ID:ACnrKW/O
暴れまわるという意味の「あたける」から来ているらしい。 
当初は、仮名書きか、阿武と書き、朝鮮征伐の頃から安宅となった。 

ちなみに安宅水軍の安宅は「あたぎ」と読む。 

199: 人間七七四年 2007/11/18(日) 17:11:50 ID:3mFf9oeT
村上水軍の家紋って有名な丸に上の字だけど、海賊(水軍)は字紋を使うことが多かったの? 
ちょっと気になった。なかなか字紋って見かけないから。
kamon_13


200: 人間七七四年 2007/11/18(日) 17:37:05 ID:HW/OuGgv
>>199 
あの家紋はただ単に信濃村上氏だから

201: 人間七七四年 2007/11/18(日) 17:52:27 ID:3mFf9oeT
>>200 
そうなんだ。 
どっかで読んだ資料には名前から取ったという説と、字紋で(上)という字が縁起がいいから使ったという2つの説があるって読んだから気になった。 
後者なら字紋って海賊が使ってたのかなと思ってたッス 
よくわかんねけど

202: 人間七七四年 2007/11/29(木) 16:13:08 ID:R/AICZgp
誰か小田原征伐時の徳川水軍の武将の詳細な参加リストみたいなのわかる方いませんか? 
おそらく本多重次を頂点に何人も武将がいたと思うんですが。

203: 人間七七四年 2007/11/29(木) 21:13:10 ID:ZhjoHiTu
>>202 
その頃の徳川水軍には向井正綱、小浜景隆、間宮信高、千賀重親、伊丹康直がいるね。 
みんな元武田とか今川の水軍。

206: 人間七七四年 2007/12/05(水) 23:41:58 ID:Qj35R6Bj
スレがのびないのであえて鉄甲船論争を蒸し返す 

209: 人間七七四年 2007/12/06(木) 22:44:14 ID:1h8at4XK
九鬼の黒船に較べて外観が白かった滝川家の大安宅船は白船と呼ばれていたそうだがこれは間違いなく装甲板を貼っていない(間に合わなかった?)船だったであろう。 
この白船も木津川の戦闘に参加して無事に帰還していることが全てを物語っている。

211: 人間七七四年 2007/12/06(木) 23:07:21 ID:1h8at4XK
うむ。 
九鬼の黒船は岡山城天守に見られる当時の防水防腐効果を狙った黒漆塗りであったと類推する。

212: 人間七七四年 2007/12/06(木) 23:18:33 ID:1h8at4XK
仮に白塗りにしていたとして、一体何を意図していたものなのだろう。 
漆喰塗りにすることで延焼を防ごうとしていたとか?

214: 人間七七四年 2007/12/07(金) 02:57:48 ID:HgoLIcLL
>>212 
秀吉の日本丸も白漆喰塗りだったようだから、多分そうだろう

213: 人間七七四年 2007/12/06(木) 23:32:34 ID:1h8at4XK
何にしても78年当時は大安宅船に鉄板を貼るという概念が一般的となる朝鮮役までの間の過渡期と考えるべきだろう。 
で、朝鮮役での不備を考慮して江戸幕府の安宅丸には鉄貼りが施されなかったと。

218: 人間七七四年 2007/12/07(金) 20:39:07 ID:HgoLIcLL
個人的には漆塗り説もかなり説得力があると思っている。 
防火・防水効果の高い黒漆塗りは、安土城や大坂城など古い城の下見板張りによく使用されたが、安宅船の建造は船体部分を船大工、櫓部分を屋大工が分業していたことを考えると同時期の城郭によく使用されていた黒漆塗りの技術を軍船に応用したという事も、十分ありうるのではなかろうか。 
鉄甲?船のプロトタイプなのであろう佐和山の大船を建造したのが、安土城と同じ宮大工・岡部又右衛門なので、よけいにそう思う。

232: 人間七七四年 2008/02/05(火) 20:22:12 ID:RyV8NkWw
「テツハウトヲラヌ用意事々敷也」だっけ。軍事に疎いであろう坊さんが伝聞で書いたもんだし、あまりあてにならないんじゃないの。

235: 人間七七四年 2008/02/13(水) 15:03:16 ID:b/W+DI3V
>>232 
>「テツハウトヲラヌ用意事々敷也」だっけ。 

『多聞院日記』では「トヲラヌ用意」なんだから、火縄銃の銃弾も貫通を防ぐための用意っぽい。 
焙烙の延焼防止対策だったら違う表現を用いただろう。 


>軍事に疎いであろう坊さんが伝聞で書いたもんだし、あまりあてにならないんじゃないの。 

僧侶は軍事を含めた当時最高の知識人といえる。 
武将の幼少期の教育係が僧侶の場合は多い。 
今川義元の軍師になった大原雪斎は有名だし戦国武将の中に幼少期から青年期に寺院で学んだ人物も多い。(石田三成とか) 
僧侶にして大名になった安国寺恵瓊もいる。 
本願寺の僧侶たちは強大な信長を苦しめてた。

236: 人間七七四年 2008/02/13(水) 20:33:31 ID:kZdnwNRO
>>235 
そんなもん百も承知だが、又聞きは又聞き。 
多門院日記には 
「人数5千人ばかり乗る。横へ7間、縦へ12,3間もこれあり」なんて記されているがこれは人数といい船の形状といい100%ありえない数字だし、色々差し引いて考えるべき文献なのは確かであるよ。 
そもそも鉄砲の弾だけを防御するんだったら、木製の盾板を分厚くするだけでいい。 
重い上に不安定になる鉄板なんか貼る必要はない。

237: 人間七七四年 2008/02/13(水) 22:27:19 ID:b/W+DI3V
>>236 
同じ防御力を達成のためなら木製の分厚い盾板より鉄板を貼ったほうが軽い。

234: 人間七七四年 2008/02/09(土) 12:27:42 ID:1UnXU4dc
「テツハウ」は火薬兵器全般を指す言葉では? 
元寇で使われた炸裂弾も「てつはう」だろう。

241: 人間七七四年 2008/02/14(木) 12:33:02 ID:QIkHWfCD
>>234 
『多聞院日記』の書かれた時代には「テツハウ」は火薬兵器全般を指す言葉ではなくなっている。 
この時代に「テツハウ(鉄砲)」と言った場合は火縄銃のことで炸裂弾は「焙烙」と呼ばれるようになってもはや「てつはう」とは呼ばれなくなくなっている。

250: 人間七七四年 2008/02/16(土) 16:47:15 ID:o8QU2HXZ
信長鉄船について(『多聞院日記』「鉄の船也、テツハウトヲラヌ用意事々敷也」) 
他に徳川家御座船安宅丸は厚さ一尺の盾板表面を厚さ3ミリの銅板を貼り装甲している。 
この安宅丸について水戸光圀は「鉄砲いかほどあたりても船やぶる事なき也」『西山遺聞』
と評している。 
当時の人達の関心が鉄砲に対する防御に向いていたことがわかるだろう。 

一方、焙烙に対する防御について書かれた史料は見た事がない。

254: 人間七七四年 2008/02/17(日) 17:31:49 ID:nQuDQIpx
多聞院日記の「テツハウ」は銃のことでいいの? 
「トヲラヌ」は貫通、通用しない、どっちの意味で使われてるの? 

255: 人間七七四年 2008/02/18(月) 00:23:50 ID:FRxxeR2Y
>>254 
それに関してはまあ「鉄砲」「通らない(貫通しない)」でいいんじゃないかな。 
投げ焙烙なんてマイナーな武器を、水軍に関わりもない坊様が知ってるとも思えないし。

265: 人間七七四年 2008/03/19(水) 21:38:22 ID:YOD3SoJh
ttp://www.tanken.com/wako.html 
アイデアだけで実際には作られなかったのかもしれないが、村上家の水軍書には書いてあるらしい

266: 人間七七四年 2008/03/20(木) 16:33:54 ID:GUmVgIv7
>>265 
やはり日本水軍は世界に比べオリジナルを進んでるね 
盲船の絵もあるw 
船逆さま重石付けてジャックスパロウの海底散歩見たいな感じかな

288: 人間七七四年 2008/09/20(土) 17:01:02 ID:ahtewfwQ
海部刀カッコヨスなあ 

参考
http://blogs.yahoo.co.jp/dogunta12/29872191.html

特徴 
脇差サイズが多い 
棟がノコギリになっているものも(嵐のときに帆柱を切り倒す) 
銘を刀身に入れる(中子だとすぐ錆びで埋もれるから) 

海の男の装備だね

289: 人間七七四年 2008/10/01(水) 00:00:38 ID:WMXJpkzk
和船も帆柱を切り倒すことなんてあったのか。 
マストが何本もある西洋の船だけかと思ってた

291: 人間七七四年 2008/10/01(水) 17:08:03 ID:ESEpxd7X
西洋船の場合、切り倒してもいいように木材を積んでいた。 
一方何も積んでいない和船は・・・

292: 人間七七四年 2008/10/01(水) 23:52:38 ID:WMXJpkzk
まあ、その場で沈むよりはましだわな

295: 人間七七四年 2008/12/11(木) 02:42:49 ID:Kt+7A8/t
偶々「その時歴史が動いた」の村上武吉の回のビデオがあったから観た 

関ヶ原の時伊勢湾で暴れ回っていたとは知らなかった 
熊野灘は何事もなく通過出来たのかな? 
あと阿波を占領したってのも初耳だ

298: 人間七七四年 2009/01/30(金) 03:41:32 ID:bCutkXgV
>>295 
阿波や毛利吉成領は毛利氏の占領下に入っているし、四国では村上元吉らが死んだ後も、関ヶ原の敗報が届くまで村上水軍・河野衆による加藤嘉明領への侵攻が続いてた模様。 

301: 人間七七四年 2009/02/27(金) 18:38:50 ID:Ey3JlxGC
村上水軍は最強

304: 人間七七四年 2009/03/15(日) 03:55:02 ID:e+MxAobZ
毛利水軍を叩き潰し、石山本願寺への支援ルートを断った九鬼水軍が戦国最強だな 
実際、九鬼嘉隆は関ヶ原の戦いで東軍側については戦功をあげたが、江戸幕府が始まった後に、九鬼水軍の力を恐れた徳川家康によって、海に面していない地に移封されるなど晩年は不遇だった。 
それでも九鬼氏は水軍としての誇りを忘れないために、小さな湖で訓練をし続けた。

353: 人間七七四年 2009/09/11(金) 06:28:28 ID:cIKwkMEA
江戸時代じゃなくて戦国時代の軍船の史料ってあるの?

355: 人間七七四年 2009/09/11(金) 20:12:25 ID:APOiwinw
>>353 
信松院の安宅船や関船の模型とか

357: 人間七七四年 2009/09/12(土) 07:21:52 ID:rqsf6mWM
>>355 
江戸時代の作でしょ?

361: 人間七七四年 2009/09/12(土) 20:37:36 ID:T+ZmlJJh
>>357 
朝鮮の役に参加した人が、実際に使われた船の模型を献上したんじゃなかった?

359: 人間七七四年 2009/09/12(土) 11:00:15 ID:fVjJ7O8Y
絵として戦国時代の船は伝わってないだけ 
文章で表現した史料なら色々とある

360: 人間七七四年 2009/09/12(土) 19:32:28 ID:rqsf6mWM
>>359 
だから例えば?

364: 人間七七四年 2009/09/13(日) 08:43:08 ID:NlrClqCN
そうだなメジャーな物だとフロイスの日本史にもあるぞ

365: 人間七七四年 2009/09/13(日) 16:34:40 ID:MJIKeIGp
マイナー物だと「志州鳥羽船寸法」

366: 人間七七四年 2009/09/14(月) 20:26:51 ID:uLvH98gL
朝鮮出兵の時の軍船の絵なら「肥前名護屋城図屏風」 
精密な絵とはいい難いが一応リアルタイムで描かれたもの

373: 人間七七四年 2009/10/19(月) 15:17:24 ID:RRIjK69M
伊達は水軍持っていたの? 
佐竹は河と湖の警備部隊みたいな小規模な水軍は持っていたらしいが。

378: 仙台藩百姓 2010/02/09(火) 10:43:38 ID:SmupW5w2
>>373 
戦国時代の伊達領には海も大河もないから水軍なんてあるわけないお( ^ω^) 
江戸時代に入って仙台城下や塩釜・石巻が整備されてからは水運が活発になったけど

379: 人間七七四年 2010/02/11(木) 12:40:12 ID:RXxSX17L
>>378 
> 戦国時代の伊達領には海も大河もないから水軍なんてあるわけないお( ^ω^) 

それでも河はあるからパトロール部隊程度はなかったのかな?

381: 仙台藩百姓 2010/02/11(木) 22:43:21 ID:nzKdAUUz
>>379 
渡し舟ぐらいはあったから舟が軍用に全く運用されていなかったとは言い切れないけど 
少なくとも水軍と呼べるようなものはなかったはずだお( ^ω^)

382: 人間七七四年 2010/02/13(土) 13:44:17 ID:5RCxXuBR
大陸の大河じゃないから河をパトロールしてもしょうがないよな 
敵は普通に浅瀬を渡ってくるだけだろうし 
猪苗代湖に湖賊とかいたのかな?

384: 人間七七四年 2010/02/13(土) 14:02:51 ID:+KZmI2vj
>>382 
> 猪苗代湖に湖賊とかいたのかな? 

琵琶湖と霞ヶ浦にはたくさんいたのではなかったか? 
猪苗代湖にも多少はいたのでは?

385: 人間七七四年 2010/02/13(土) 20:02:37 ID:GRlooN5z
俺も琵琶湖と霞ヶ浦は聞いた事あるけど猪苗代とかは聞いた事ないな 
場所的に琵琶湖とか霞ヶ浦はいろんな諸勢力が戦う戦場としての渡河拠点として必然性があったのかもしれないが猪苗代辺りは蘆名がどっかといたから、需要もなかったんじゃなかろうか

386: 人間七七四年 2010/02/20(土) 04:15:36 ID:4IsZiQ45
地味だけど川賊ってのもいるよね 
木曽川の川並衆とか

387: 人間七七四年 2010/02/20(土) 04:19:11 ID:JgfK9EZ7
川並衆はべつに賊なんて連中じゃないぞ。

389: 人間七七四年 2010/02/20(土) 06:46:01 ID:ByCUgDJO
琵琶湖と霞ヶ浦以外で湖賊がいたところある?

390: 人間七七四年 2010/02/20(土) 09:15:53 ID:2pdxd3uH
浜名湖や宍道湖、中海には居たような気がしないでもない。

398: 人間七七四年 2010/03/27(土) 08:51:15 ID:pFFJhk4j
津軽為信ってココでもドコかずれてるんだけどさヘンな武将が多いのよ 
水軍じゃなくて、海賊大将ってのがいたんだよ 
海賊だよ?海賊・・・水軍って呼ばれてる時代に海賊 
略奪とかしてたかどうかは知らないけど、ガンガラ穴の小野茶右衛門とかね 
でも、子分が久六島を見つけて日本海海域を広げることに貢献したからただの海賊よりマシなのかも

400: 人間七七四年 2010/03/27(土) 15:39:45 ID:M4dXsk1y
>>398 
> 津軽為信ってココでもドコかずれてるんだけどさヘンな武将が多いのよ 

他の大名家をなんらかの理由で退散した人や、主家が倒産した人をけっこう雇っているな。
ただ、江戸時代の津軽藩は幕府に遠慮したのか水軍は持っていない。

399: 人間七七四年 2010/03/27(土) 11:12:13 ID:rMfZMBtG
水軍て呼ばれたのは江戸時代からであの時代は村上も九鬼も皆海賊、頭は海賊大将て呼ばれてたよ 
ヘンどころか至って普通

402: 人間七七四年 2010/03/27(土) 20:36:04 ID:ccQuMDoO
>他の大名家をなんらかの理由で退散した人や、主家が倒産した人をけっこう雇っているな。 

服部とか北畠とか石田とかね。 
早くから中央との関係を重視してて、上洛する事も多かったみたいよ 
通行料だけじゃなく、貿易でも儲けてたけどね。 
まあ、それも江戸幕府じゃ幕府が独占する事になったんで水軍の需要は激減したわけだが

401: 人間七七四年 2010/03/27(土) 15:51:17 ID:JNpqLnNb
つーか水軍って言うのは基本海域の通行料を取って活動資金を得るわけで、それが得られない場合、大名家に取って負担ばかりが過大になるんだよね。 
陸上と同じく海も基本的に自由通行の認められた豊臣、徳川期では、水軍がリストラされるのは当然。

403: 人間七七四年 2010/03/27(土) 21:47:36 ID:ukq+vi+j
幕府が諸藩の水軍を警戒したってのもあるだろ。

404: 人間七七四年 2010/03/27(土) 21:57:29 ID:JNpqLnNb
・やたら金がかかる 
・貿易は幕府の統制下 

この状況で大規模な水軍を維持するなんて、幕府への謀反を考えている以外 
理由はないからな。


引用元: ・【海賊】 水軍スレ 【安宅船】




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