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1 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/14(日) 16:58:15

司馬の「義経」を読んでフラストレーションがたまったので建ててみた。
うまくやってたら頼朝と北条氏を倒して義経が天下取れてたと思うんだよね。












2 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/14(日) 17:02:16

平泉が動けば結構簡単に鎌倉は倒せそうだとおもうんだが




3 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/14(日) 18:29:23

仮に義経が天下を取れても、彼に頼朝のような政治手腕はなく、室町幕府のような不安定な政権になったと思います



4 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/14(日) 18:40:47

政治的手腕ないのかな?朝廷から官位もらったりしたのって意外と対鎌倉を考えてたんじゃないかと思うんだが。
まあそれにしても部下に政治のうまい人がいればな。あの時代武士で政治うまいのなんてほとんどいなさそうだが、




7 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/14(日) 22:18:46

朝廷から官位貰う時点で、政治的駆け引きダメダメなような気もするが
それに戦術的天才であってもあのやり方は古参の武士には受けが悪いような気がする
結局は誰もついてこなくなるのがオチなような?




8 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/14(日) 23:59:39

西国での平氏追討は戦術家としては優れていた。
しかし、問題なのは、官職云々もだが、御恩と奉公の関係が分かっていなかったのでは。

義経は頼朝の名代だ。だから手柄を立てるべき立場ではない。
作戦は考えても良いし、実行しても良いし、戦っても良い。実は戦闘そのものはあれでまったく問題なく、勝利した。三種の神器の問題はあるが。
問題は、その戦果を義経の手柄にしてはいけないという事だった。

例え義経のおかげで勝ったとしても「鎌倉の御家人たちの奮闘のおかげで勝つことができた」という風に義経から頼朝に報告するような形があれば、その後の展開は大きく変わっていたことだろう。




10 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/15(月) 12:33:58

有る意味頼朝が化け物すぎる




11 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/15(月) 18:15:06

頼朝は実はたいしたことないと思う。
後の歴史考えると多分北条一族が凄かったんじゃないかな?
頼朝は北条一族の操り人形って感じするわ。




12 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/15(月) 19:26:34

頼朝の頃はまだ頼朝自身の方が際立っていたんじゃ?
頼家・実朝の外戚が北条氏だから、そこで北条氏が際立ってきたような
外戚文化だからねえ、この頃は




15 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/15(月) 23:50:43

>>12

けど北条氏がそれほど力持つまでになるのを止められなかった頼朝ってのはどうなんだろう?
結局、義経やノリヨリだかを遠ざけ、北条氏独占の時代を作ってしまったし。結果実朝で滅んでしまったわけだし。

北条政子が一番の化け物な気がするな。




23 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/16(火) 17:52:45

平家を倒せたのは義経だけだったと思うから。
下手に平家と戦わないで鎌倉と平家が弱ったところに義経が出てったらもっとうまい事やれたんじゃないかな?




24 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/16(火) 19:35:48

頼朝と対立するまでは義経が関東から独立しているわけではないので無理




25 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/16(火) 23:17:10

いや、例えば義経が平泉にいたままで頼朝に会いに行かなければ良かったということでは?
藤原秀衡に大局観がなかった?




27 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/18(木) 23:00:33

木曽と連合組めてたらどうだろう?木曽残党あたりをまとめてたら。
無理かな。

やっぱ平泉が味方について西で勢力伸ばし
関が原で頼朝と決戦とかになってたら面白かったんだが。




26 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/17(水) 20:43:35

義経の戦法は関東の武士にバレバレなんだから頼朝は倒せないだろ




28 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/19(金) 00:38:33

義経は西国ではエグい戦さをしたからな
相手を調略するようなやり方で攻略したら、平氏の残党を味方にできたかもしれないが一の谷、屋島、壇ノ浦って奇襲戦法や船のかじ取りを射殺すなど、相手からしたら卑怯千万のやり方で勝った。
これが後世に至るまで義経の武勇を高めたけれど、反面支持基盤が拡大しないその場限りの戦いという事もできる。

義仲の残党も一緒じゃないかな。
義経に帰順しようなんて残党はまずいないんじゃ?
関東の武士たちは頼朝あっての関東で、義経はその名代くらいにしか思っていないから頼朝と義経が対立したらみんな義経から離れるよな。
この辺り、後世の楠木正成、織田信長、坂本龍馬にも似ている。

反面、徳川家康など、信長と共に滅ぼした武田の残党を抜け目なく配下に組み込んでいるし、後北条氏滅亡後は関東で北条残党も組み込んでいる。遡れば今川の残党も。

敵を滅ぼすか、大将だけ倒して部下は引き込むかで、その後の運命が違うような。
徹底的に倒せばかっこいいけど最終的にはしりすぼみ。
うまく妥協して支持者を増やせば最終的に勝利者、天下人。

でも後世の評価は前者の方が高くなる。
どちらが幸せな生き方なんだろうな・・・・・




29 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/19(金) 00:41:50

>>28
前者は、早死にタイプが多いな




37 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/21(日) 11:55:21

義経なら幕府すら作れていない




38 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/21(日) 11:57:56

>>37
朝廷に贔屓にされてる義経なら征夷大将軍ぐらいもらえるでしょ。
頼朝倒したらだけど。





39 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/21(日) 13:25:37

征夷大将軍だからといって幕府を開いたことにはならない




42 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/21(日) 14:32:03

幕府は武士の支持がないと開けないだろ
安定するか不安定なのかは状況にもよるけど、多くの支持がないと幕府は開けないぞ

むしろ江戸幕府などは戦国の果てにできた例外的安定幕府で、不安定ということはそれだけ下の武士の勢力が強かったわけでこちらの方が普通なのかもしれない




44 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/21(日) 18:04:48

鎌倉武士はともかく朝廷や一般庶民には義経は人気があったと思うけどね
やっぱり、武士の人気がいまいちなのは致命的だよな




45 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/21(日) 19:14:30

>>44
当時の一般人は義経のことなど知る由もない
平家物語以降だよ




46 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/21(日) 21:31:24

>>45
そういうものなのか?
普通、その時代の著名な人物くらいは知っているものでは?
特に都の人なんかは、当然義仲のことぐらいは知っているだろうし、義経のことも「平家を倒した人」くらいには分かっていそうなものだけど。
凱旋もしているんだし、知らないことは余程興味が無い限り、ありえないのでは?




48 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/21(日) 22:53:12

>>46
「一般庶民」という話もいろいろで、地方の人間は源氏だ平氏だが分かるかもしれない。
都に住んでいる人間はやや消息通だろうが、それでも義仲を倒したのも、平氏を追討したのも「源頼朝軍」という認識だろう。
その武将である九郎義経は、よほどの消息通でない限り知らない名前だ。
朝廷から叙任を受けた後は少しは知られるようになっただろうが、その活躍であるとか、こんにちの我々が義経について持っているような情報は、そのほとんどが平曲(平家物語)が琵琶法師などにより広まって以降の話となる。




56 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/22(月) 20:58:38

義経は権力欲は無かっただろうから無理でしょう
腹芸も出来なかったろうし

義仲未満




57 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/22(月) 21:51:55

いや検非違使に任ぜられて狂喜乱舞
腰越状の中でもそのことを偉そうに書いてるから「権力欲」はあったんじゃね?

幼稚なレベルで




60 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/22(月) 23:17:17

欲があったかどうかは微妙なとこだが、政治のことがさっぱり分かってないよな

ただ単に何も考えず検非違使になれるらしいのでなった(ある程度の権力が手に入ると知っても然り)、や兄に喜んでもらうために検非違使になった、はまだ理解できるが
義経自体が検非違使になって後白河上皇と頼朝を対立させようとした、は過大評価しすぎだな





58 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/22(月) 22:34:06

朝廷で出世しようとしてた義経に対して頼朝が対朝廷だったわけでしょ?
頼朝もちゃんと義経に説明してれば良かったと思うんだがな。




64 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/22(月) 23:53:34

藤原秀衡がもっと長生きしていたら義経が頼朝に勝てたかに興味があります




65 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/23(火) 19:34:41

奥州17万騎だっけ?の実力はどんなもんだったんだろう?
小説とかだと。義経がいなくなった後、頼朝対奥州になって奥州はあっけなくやられたみたいな感じになってるけど戦闘行為はあったんだよね?
それこそ壇ノ浦とかレベルの戦だったんじゃないの?




66 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/23(火) 22:23:55

秀衡は66で亡くなったんだろ?
当時では順当な死だよ

それに秀衡死後の奥州はバラバラ
泰衡の急襲で討ち取られるような義経が勝つわけねーよw




68 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/24(水) 14:10:50

政治的に奥州は追い詰められたからな
で、秀衡が生きていたら頼朝に勝ったかもしれないけどそれは秀衡が勝ったのであって義経の勝利ではないね






83 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/25(木) 01:24:23

結局義経は頼朝に勝てないのかよ?
秀衡が100まで生きても頼朝がどれほどドジを踏んでもそうなのかよ?




84 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/25(木) 04:33:47

頼朝ならドジ踏みそうだなw

後白河法皇死後に征夷大将軍となったのはいいが、大姫入内問題で朝廷工作失敗。
長年の同志九条兼実とライバル関係になってしまい、挙句その敵対勢力である源(土御門)通親と丹後局に接近するが、これが目論見はずれ。
結局大姫は入内できないだけでなく、入内したのは通親の娘w
頼朝はいいようにアシラワレテしまった。


義経は、藤原秀衡死後、すぐに平泉から行方をくらませばよかったのではないかな?
完全でなくともよく、例えば国衡や忠衡あたりには相談しておくとか。泰衡だけだろ?
やばそうなのは?


頼朝は奥州討伐の名目を失い、奥州と鎌倉は膠着状態。
法皇の死後、頼朝は大姫入内問題を起こすがうまく行かず、ここで朝廷と鎌倉の蜜月が終わる。
そこで奥州藤原経由で、義経は通親派と結託して、後鳥羽天皇から頼朝追討の宣旨を受ければいい。
承久の乱が前倒しで起きるわけだ。

承久の乱と違うところは、奥州が頼朝の敵対勢力であること。
承久の乱でさえ、圧倒的に鎌倉有利なのに決着がつくまでに1か月もかかっている。
西国の中立勢力や残党を朝廷の権威で糾合し、奥州藤原氏と義経が南下すれば、鎌倉は窮地に陥るだろう。




88 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/25(木) 22:56:33

>>84
どこへ逃げるんだよ、義経




89 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/25(木) 23:00:17

当然、北へ。




90 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/25(木) 23:27:37

北陸道を南下して京に入るという方法も




91 :名無しさん@お腹いっぱい。 2010/03/25(木) 23:43:17

また安宅の関を通るのかよ



安宅の関

安宅の関(あたかのせき)は、石川県小松市の日本海側にある安宅に守護、富樫氏が設けたと言われる関所。
 
如意の渡しでのエピソードを元にした、源義経が武蔵坊弁慶らとともに奥州藤原氏の本拠地平泉を目指して通りかかり弁慶が偽りの勧進帳を読み義経だと見破りはしたものの関守・富樫泰家の同情で通過出来たという、歌舞伎の「勧進帳」でも有名。




218 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/03/26(月) 15:29:41.36

義経が頼朝を倒すって構図はありえなさそうだな。義経に政治、戦略的視野が無さ過ぎる。
藤原秀衡がもうしばらく健在ならなぁ・・・。後白河も奥州側の勢力が固まれば何をするかわからんお人だし。




221 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/02(月) 20:23:41.06

>>218

義経は馬鹿というより若すぎただけ。
31で死んだんだっけ?
清盛や頼朝が31才の時どうだったか考えてみなよ。




227 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/09(月) 08:04:53.47

義経の配下には権力がある奴がいないでしょ。
奥州の人らぐらいか。



228 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/11(水) 15:31:53.24

義経の配下ではないけど異父弟の一条能成は公家として義経に協力している
最終的には参議にまで登ってる人だから有力な政治家ではあったんじゃないかな





229 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/11(水) 20:27:10.64

公家じゃなあ。

兵隊をまとめる家柄とか器のある人物が少ないでしょ。
頼朝は関東の武士まとめてたわけでしょ。
奥州と関東の戦力差がどれくらいあったかわからないけど。
せめて平家の残党とか取り込めてたらなんとかなったのかもしれないが。




230 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/12(木) 12:30:49.12

頼朝が義経討伐の兵を挙げる前に死んでいれば義経にも十分勝ち目あったと思う。




231 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/12(木) 21:08:20.56

>>230
頼朝がいなくても北条政子がいればなんとでもなったような気がする。




233 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/15(日) 18:40:26.26

上策・義経直属の兵で鎌倉を奇襲する。

中策・宇治勢多を固め西国の武士を集める。

下策・九州四国に退く。




234 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/15(日) 19:15:53.95

>>233
義経直属の兵ってどれくらいいたんだろう?
少なそうだな。
朝廷を味方に付けて勢力を増やし奥州と組んで挟み撃ちで関東に攻め込むってのがベストだと思うんだけど。




243 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/22(日) 11:05:09.38

>>233
比叡山に逃げ込むってのはどうだろう?
当時あそこは日本版梁山泊ともいえる存在だったし



245 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/22(日) 16:04:15.01

>>243
本来は西国武士と比叡山の兵力を期待して「中策」の予定だったみたいね。
でも西国武士は義経に味方する義理もないから兵力不足、比叡山も荷担に踏み切れなかった。
やっぱ奇襲が一番だよ。危険だけど。




235 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/15(日) 22:05:00.87

直属はせいぜい二百じゃない?
「中策」に奥州を足した戦略がベストだろうが、下策をとらざるを得なかった理由があったはずだ。




236 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/16(月) 15:17:17.83

義経の手勢じゃ京は守りきれないだろう
かと言って畿内の武士が義経の味方になって頼朝を防ぐとも思えないな

朝廷工作と平家の取り込みを成功させていればまだどうにかなりそうだけどねえ




237 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/16(月) 22:31:12.26

奇襲作戦なら成功させれそうだけどな。鎌倉を裏側から奇襲とかできないものか。




238 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/16(月) 23:09:58.28

干潮時に海側から鎌倉に侵入するとかw




240 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/20(金) 11:39:55.64

修験者とか浮浪者に変装させた直属部隊をバラバラに鎌倉に侵入させて期を見て各方面から奇襲とかどうだろう




241 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/20(金) 12:29:12.72

気づかれたら個別撃破だからリスク高すぎだが面白い。




246 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/22(日) 22:52:47.23

危険って言うか無理だろうね
まとまった兵力が無いんじゃまず鎌倉まで行けないし
全員隠密活動で一城砦都市を落とすってのはちょっと現実離れしてる
もし仮に鎌倉を落とせたとしてもすぐに潰されるのがオチだ




247 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/22(日) 23:30:17.45

船を使えばどうだろう?
鎌倉なんて海岸沿いなんだから船で近くまで寄って上陸すればいいじゃん。
あの時代船は西国の専売特許だったんでしょ?




248 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/04/23(月) 18:28:38.88

それだと上陸後は徒歩で戦わなきゃならなくなる。
騎馬による鎌倉奇襲より可能性が薄いだろうな。




254 :名無しさん@お腹いっぱい。 2012/05/05(土) 11:39:23.34

九州にいけてたらなあ。足利尊氏とか西郷隆盛みたいに反革命ができたかもしれないのに。





引用http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1268553495/