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1: 世界@名無史さん 投稿日:2015/03/31(火) 20:20:03.32
ともに、ヨーロッパ大陸の中軸を占める。

峻嶮なアルプス山脈をはさんで南北に対峙する、宿命のライバルの歴史








2: 世界@名無史さん 投稿日:2015/03/31(火) 20:24:07.83
イタリア半島に発し、地中海沿岸を統一した、大ローマ帝国。
バルト海沿岸から大移動を開始し、ローマ帝国の北に集結したゲルマン民族。
ここから、ドイツとイタリアの宿命の歴史は始まった。

(つづく)

3: 世界@名無史さん 投稿日:2015/03/31(火) 20:31:08.13
ベルリンは、ローマの真北にある。逆に、ローマはベルリンの真南にある。
ゆえに、ベルリンとローマを縦断する線は、「ベルリン・ローマ枢軸」と呼ばれる。
ちなみに、この2つの都市がどれくらい離れているかというと、ざっと1500km。
ローマは北緯40度で、だいたい仙台と同じくらい。
ベルリンは北緯50度。「北緯50度~、カムチャッカ沖~だ~」という細川たかしの歌の文句を思い出す・・・。

4: 世界@名無史さん 投稿日:2015/03/31(火) 21:02:59.25
この2国による抗争の歴史は、カエサルのガリア遠征から始まった。
カエサルは、ガリア遠征の障害となる、ゲルマニア人の勢力を排除することに成功した。

5: 世界@名無史さん 投稿日:2015/03/31(火) 21:12:02.75
しかし、初代ローマ皇帝アウグストゥスは、ゲルマニアの奥深く侵攻して、大失敗した。
ローマ軍が迷い込んだトイトブルクの森には、英雄アルミニウスが率いる、ゲルマン人のゲリラ部隊が潜んでいた。
2万のローマ兵が壊滅し、司令官ヴァルスは責任を持って自決した。
アウグストゥスは思わず、「ヴァルスよ、我が軍団を返せ!」と叫んだ。

偉大なる初代皇帝の治績に、とんだケチがついてしまった。

6: 世界@名無史さん 投稿日:2015/03/31(火) 21:27:44.98
結局、西ローマ帝国を滅ぼしたのは、ゲルマン人の傭兵隊長、オドアケルだった。
オドアケルは、初代イタリア王になった。
一方、時代は飛んで9世紀。
偉大なる皇帝シャルルマーニュの死後、フランク王国は分裂し、東フランク王国ができた。

ドイツとイタリアの関係史は、ここから始まる

8: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/01(水) 05:07:56.72
ドイツは天気が悪くて、いつも暗い。
初めてイタリアに行ったドイツ人は、明るさにビックリする。

9: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/01(水) 06:41:42.80
10世紀の中頃、イタリア王が死んで、王妃が王位継承権を得た。
この王妃を巡って、東フランク王オットーは、イタリア人のベレンガーリオと戦った。
ベレンガーリオは敗れ、オットーがイタリア王になった。
ドイツ人がイタリア王になるというのも変な話だが、それはモンゴル人が中国の皇帝になるのと一緒。

962年、苦労にめげず、ついにオットー1世はローマ皇帝の戴冠を受ける。

ここから先、ドイツ人がイタリア王になり、ローマ皇帝になるというのが当たり前になる。

11: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/01(水) 22:53:43.59
サッカーでもドイツはイタリアに勝てないよね。戦力でいえばドイツの方が強いのに

12: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/02(木) 05:34:48.71
そう、なぜかドイツは、イタリアを苦手としている。
サッカー界の七不思議の一つ。

歴史的にも、結局はイタリアを征服できなかった。

14: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/03(金) 06:26:51.45
中世ヨーロッパの歴史を見ると、「ドイツがイタリアを侵略し続けた歴史」に見える。
実際、「ドイツが産業革命でイギリス・フランスに遅れを取ったのは、歴代の皇帝がイタリア侵略に没頭して、国内の統一をおろそかにしたせい」というのが、昔から言われている。
でも、現代の世界地図を見ればそう思えても、当時の人々がそう思っていたかどうかは疑わしい。

ドイツとイタリアは、両方とも、日本でいえば明治維新の前後に成立した、新しい国家なのだ
中世に、そんな国があったわけではない。

19世紀前半の政治家、オーストリアのメッテルニヒだって、「イタリアは地理的概念にすぎない」とコメントした。

それに、イタリアといっても、南と北に長く広がっている。
現代でも、南と北は別モノだとされる。
統一されたのは1860年代で、それ以前には統一された試しがない。

中世の前期の北イタリア・ロンバルディア地方には、ゲルマン系のランゴバルド族がいた。
ドイツ人と同じ系統の民族だ。

15: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/04(土) 11:08:08.52
オットー1世の後を継いだオットー2世は、またしてもイタリア遠征を敢行した。
北イタリアをほぼ平定し、南イタリアに攻め込んだが、シチリア島から上陸してきたイスラム軍に歯が立たず、マラリアで死亡。
その後を継いだオットー3世は、古代ローマ帝国の再建を唱え、パラティーノの丘にローマ風の宮殿を造営したが、反乱を鎮圧できず、あえなく病死。

2人とも、若死にして在位が短かったせいもあるが、治世の大半をイタリアで過ごした。

17: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/04(土) 21:24:31.42
ドイツ人にとってイタリアは、永遠の憧れ

18: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/08(水) 20:20:47.37
ドイツとイタリアは、隣同士ではない。
間にオーストリアをはさんでいる。

24: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/10(金) 20:49:30.14
>>18
ドイツ→オーストリア→イタリアの位置関係は、どうなっているのか。
奇しくも、日本にちょうど似たような例があるので、分かりやすい。
それは、富山→岐阜→名古屋だ。
距離も、途中の地形も、とてもよく似ている。

名古屋から富山まで、高山線か国道41号線で行ってみれば、この3か国の位置関係を体感できるというものだ(笑)。

19: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/10(金) 17:41:57.66
18世紀までのドイツにとってイタリアは上方、ローマは京都のような存在なのだろうか。

21: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/10(金) 20:34:47.76
>>19
18世紀ともなると、フランスの文化的な優位が歴然としている時代だねえ。
しかも、宗教改革からだいぶ経っており、カトリックの総本山としてのローマの権威も薄れて久しい。
おそらく、18世紀のドイツ人にとっては、オーストリアの都・ウィーンが、日本人にとっての京都みたいな存在であり、ハプスブルク皇帝が京都の天皇みたいに思えたんじゃないか。 
でも、中世においては、イタリアが圧倒的な存在だっただろう。
もともと文明の先進地である上に、地中海貿易で栄えていた。
しかも、カトリックの聖地でもある。
気候もいいし、軍事力を除けば、あらゆる面でイタリアが上回っていた。

22: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/10(金) 20:42:35.20
オーストリアは、音楽の都であり、芸術の都だった。
特に、音楽に関しては、世界の他の国々の追随を許さない絶大な権威を誇っている。
なんで、オーストリアで、そんなに芸術が栄えたのか。
それは、ドイツの南にあるからではなく、イタリアの北にあるからであるのは明白だ。
モーツァルトも、大半のオペラをイタリア語の脚本で書いていた。
最後の「魔笛」は、ドイツ語だったが。
それまでの「フィガロの結婚」とか「ドン・ジョバンニ」とかは、みんなイタリア語。

23: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/10(金) 20:44:21.25
(とあるブログからの引用)

モーツァルトのオペラが何語で書かれているかをちょっと調べてみました。
長くなりますが、完成した全17曲は次の通りです。

アポロとヒアチントゥス    K38   ラテン語   1767年
ラ・フィンタ・センプリーチェ  K46a   イタリア語  1768年
バスティアンとバスティエンヌ K46b  ドイツ語   1767年
ポントの王ミトリダーテ K87 イタリア語 1770年
シピオーネの夢 K126 イタリア語 1771年
アルバのアスカニオ K111 イタリア語 1771年
ルチオ・シッラ K135 イタリア語 1772年
恋ゆえの女庭師 K196 イタリア語 1775年
羊飼いの王様 K208 イタリア語 1775年
クレタの王イドメネオ K366 イタリア語 1780年
後宮からの誘拐 K416a ドイツ語 1782年
劇場支配人 K486 ドイツ語 1786年
フィガロの結婚 K492 イタリア語 1785年
ドン・ジョヴァンニ K527 イタリア語 1787年
コジ・ファン・トゥッテ K588 イタリア語 1789年
魔笛 K620 ドイツ語 1791年
皇帝ティトの慈悲 K621 イタリア語 1791年

ザルツブルグ生まれのモーツァルトの母国語はドイツ語ですが、なんと17曲中12曲までがイタリア語の台本を使っています。
ドイツ語のオペラはたった4曲です。

27: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/10(金) 21:08:42.96
歴史上、オーストリアからイタリアに、何度の侵攻が行われたか。
「それは、誰にも分からない。数え切れないから」ということだ。
アルプス山脈を下って南に入れば、そこはイタリアの地。
ヨーロッパでも最も肥沃で農業生産力の高い大平原、ポー川の流域がそこにある。
その中心に位置する、ローマ帝国以来の古都にして大都会、ミラノ。
兵家必争の地となったのは、当然と言わざるを得ない・・・。

32: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/11(土) 06:44:47.47
オーストリアにとっての北イタリアも、加賀藩にとっての富山平野みたいなもんだった。
北イタリアのポー川流域は、欧州で最も肥沃な平原。
中国でいえば、「蘇湖実れば天下足る」というような最良の地だ。
18世紀から19世紀にかけて、オーストリアはミラノとヴェネチアを支配していた。

トーマスマンの小説、「ベニスに死す」でもオナジミだ。

33: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/11(土) 19:11:49.85
19世紀、ドイツとイタリアはともに統一に向かっていた。
今までは、そのどちらも、地理的な概念にすぎなかった。
「ドイツ」、「イタリア」という国家は、まだ存在しなかった。
どちらにとっても、オーストリアが巨大な壁となって立ちはだかっていた。
南ドイツと北イタリアにまたがるオーストリアの勢力を、いかにして排除するか。
それが、悲願の統一へのカギを握っていた。

46: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/15(水) 18:39:55.37
ドイツ人はジャガイモと内臓しか食えない貧しい人たちで裕福なイタリア人を妬んでる。

47: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/15(水) 19:17:22.19
キャベツも食うし、麦ジュースも飲むよ

48: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/15(水) 19:29:50.47
川口ロマーン恵美によると、ドイツはとにかく暗いらしい。
日本で言えば、樺太かカムチャツカ半島くらいの緯度だから、太陽の光が弱い。お天気の問題ではない。

アルプス山脈を越えてイタリアに入ると、太陽の光の強さと明るさに、凄まじい衝撃を受けるという。

49: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/15(水) 19:33:30.03
ニーチェがイタリアの気候をドイツと比べて賛美しまくってたな

50: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/15(水) 19:41:55.24
ゲーテもそうだな。
トーマス・マンも。

ていうか、ドイツ人はみんなイタリア賛美だ。

51: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/17(金) 06:43:30.43
プロイセンの鉄血宰相ビスマルクは、武力でドイツを統一した。
ドイツ統一に立ち塞がる最大の壁は、神聖ローマ帝国のなれの果て、オーストリア帝国だ。
そのオーストリアを普墺戦争で撃破したビスマルクは、さらに「ウィーンへの道はパリを経由する」と、普仏戦争に乗り出す。

大国フランスをも屈服させたプロイセンは、オーストリアを除くドイツを統一した。

52: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/17(金) 06:50:24.66
北のドイツがオーストリアを排除してドイツ統一する少し前、南のイタリアもまた、統一を目指して動いていた。
ここでもまた、立ち塞がる最大の壁はオーストリア帝国だった。
当時のオーストリアは、ミラノとヴェネチアを領有し、北イタリアに君臨していた。神聖ローマ帝国の名残りだ。
しかし、最強の陸軍を持つプロイセンとは異なり、サルデーニャには、独力でオーストリアと戦う力など無かった。

北と南では、たいてい、北の国の軍事力が強い。
これは洋の東西を問わず、世界史の基本法則だ。

ドイツ・イタリアはその最たる例で、
ドイツ>>>オーストリア>>>(越えられない壁)>>>イタリア、
という力関係は歴然としていた。

53: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/17(金) 06:53:31.18
ついでにいえば、そのドイツとイタリアの国内にも、それぞれ先鋭な南北関係がある。
ドイツ統一は、北のプロイセン王国が南の諸国を併合することで実現した。
イタリア統一も、北のサルデーニャ王国が南の諸国を併合して実現した。

そこには、
北ドイツ>>>南ドイツ>>>(越えられない壁)>>>北イタリア>>>(問題外)>>>南イタリア
という力関係が、歴然と存在していた。

57: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/18(土) 00:29:29.31
19世紀のイタリアはすごいよな
戦闘では負けまくりなのに戦争では勝ち組について統一に近づいていく

59: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/18(土) 09:25:50.88
側近 「閣下、イタリアが参戦しました」
総統 「うむ、だだちに二個師団を派遣しイタリアを撃滅せよ」
側近 「いえ閣下、イタリアはわが方の側に立って参戦したのであります」
総統 「それでは五個師団を送ってイタリアを守ってやらなければならないではないか・・」

61: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/22(水) 10:13:28.66
本来なら、独伊同盟は、欧州の中央を縦に貫く脅威の勢力なんだがな。
いかんせん、イタリアが弱すぎた・・・。

62: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/22(水) 13:14:44.14
イタリアも、1960年代くらいまでは欧州経済の優等生で、今のドイツみたいな感じだったのになあ。
今じゃ、潰れそうな銀行の大半がイタリア系だ。

64: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/22(水) 14:43:41.47
イタリアと一言で言っても、ミラノやトリノがある大陸部と、ローマやナポリがある半島部、そしてシチリア島を始めとする島嶼部の3つに分かれる。

イタリアと言えば「半島国家」というイメージだが、実際には大陸部が政治経済を主導する勢力だ。

その点では、千葉県と似ている。
千葉県も、反射的に「房総半島」をイメージするが、経済の大半を担っているのは、半島ではない地区だ。

65: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/22(水) 14:48:56.01
古代ローマ帝国の時代から、大陸部イタリアには、ケルト人・ガリア人が住んでおり、ローマ人からは「化外の民」と見なされていた。
中世には、ゲルマン系のランゴバルド族やフランク王国がこの地を支配し、ラテン系のローマ人からはますます離れた。

ほんの何十年か前までは、大陸部と半島部では言葉も大きく異なり、同じイタリア人という民族意識はなかなか持てなかった。

大陸部のイタリア人は、いわゆる「ラテン系」というようなイメージとは大きく異なり、文化や国民性がドイツ・オーストリアに似ていると言われる。

66: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/22(水) 14:53:52.26
ドイツとイタリアの関係は、フランスと南フランスの関係に似ている。
違うのは、ドイツとイタリアの間には、峻険なアルプス山脈があって、地理的に分断されているというところ。
もしもアルプス山脈がなかったら、北イタリアの大陸部までが「ドイツ」の範囲に入っていたのは、まず間違いない。
実際、中世ヨーロッパでは、ドイツから北イタリアまでが「神聖ローマ帝国」という一つの国で、南イタリアが別の国だった。

69: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/22(水) 17:28:50.58
北イタリア=ドイツ

南イタリア=ギリシャ

70: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/22(水) 18:28:06.30
実は世界に影響力を持ってるのは南イタリアで北イタリアはチンカス。

71: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/22(水) 21:13:41.43
有名ブランドや高級自動車メーカーの本社って北イタリアに多くないか?
ジョジョの影響でナポリは大好きだが、南イタリアというとマフィアとかカモッラとかアウトローのイメージ強い

72: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/23(木) 07:09:23.69
アメリカ大陸への移民は圧倒的に南イタリアが多いし言われたようにマフィアは一時期世界レベルの影響力を持ってた。
北イタリアは一見派手なものが多いけど力を持ってるわけじゃない。
自動車産業も産業と呼べるレベルなのはフィアットだけで、フェラーリ等は無くて困るもんじゃないし。

73: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/23(木) 08:18:40.26
昔はオリベッティのタイプライターが先端産業だったけど、今のIT時代に北イタリアの存在感はないな。

75: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/24(金) 08:14:00.19
北イタリアは、本当は味気ない工業地域なんだが、南イタリアのイメージが強いおかげで、明るく楽しいところと思われている。

76: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/25(土) 09:55:04.27
1848年、ヨーロッパには共産主義という妖怪が徘徊していた。
各地で民族感情が高揚し、中世からの偉大なる歴史と伝統を誇るオーストリア帝国は、大きく揺らいだ。
一時は反乱軍にミラノを占領されたほど、北イタリアでもその支配は揺らいだ。
ここから、イタリア版・「維新の三傑」が登場する。
イタリア統一に大きな役割を果たした、マッツィーニ、カヴール、ガリバルディだ。

77: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/25(土) 09:56:51.60
プロイセンの鉄血宰相・ビスマルクが、オーストリアを排除してドイツ統一を目指したように、サルデーニャの宰相・カヴールも、オーストリアを排除してイタリア統一することを目指した。
だが、欧州最強の陸軍国・プロイセンとは違って、サルデーニャにオーストリアと戦う国力などありはしない。
そこで、サルデーニャは西の大国の力を借りることにした。
ナポレオン三世が統治するフランス帝国だ。

78: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/26(日) 11:16:07.02
サルデーニャ王国(トリノ)のカヴールとナポレオン3世は、オーストリアと共同で戦争をすることに合意した。
この協定で、トリノは、南仏のサヴォアやニースをフランスに割譲。
その代り、オーストリアに支配されているミラノやヴェネチア、パルマとモデナの両公国その他を、トリノがもらえることになった。

79: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/26(日) 11:32:02.81
1859年、フランス皇帝ナポレオン三世と、オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフは、ロンバルディア地方のソルフェリーノで会戦した。
しかし、双方ともに指揮官が戦下手だったため、やたら戦闘が長引いて犠牲者ばかりが増えていった。
この戦闘で連合軍は約17,000人を失い、オーストリア軍は約22,000人を失った。
この凄惨な戦場がもたらしたショックが、赤十字運動のキッカケになったことでも有名だ。

81: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/26(日) 11:45:00.25
その後もナポレオン三世が日和ってみたり、紆余曲折があったものの、トリノはなんとかミラノやヴェネチア・パルマ・モデナその他を併合し、北イタリアを統一できた。
ついでに、ゲリラ戦の英雄・ガリバルディが南イタリアを併合して、献上してくれた。
めでたく、1861年にイタリア統一。

83: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/26(日) 12:18:38.61
1861年、イタリア統一。
1868年、日本・明治維新。
1871年、ドイツ統一。

後に軍事同盟を結ぶ後発帝国主義三ヶ国が、ここに出揃った。

85: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/26(日) 19:59:20.97
体格が良くて凶暴で金髪碧眼のドイツ軍が攻めてくるのは、イタリア人にとっては脅威だっただろう。

86: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/26(日) 20:01:47.25
もっとも、ドイツ軍がイタリアにしょっちゅう攻め込んでいたのは、中世の話だが。
近現代のドイツ軍にとって、敵はイタリアではなく、フランスやロシアだった。

96: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/27(月) 18:33:34.84
1870年、スエズ運河が開通した年。
イギリスは、海上交通の要となったエジプトをどうしても領有したい。
そのため、交換のような形で、隣のエリトリアをイタリアに取らせてくれた。
ここから、イタリアのアフリカ侵略が始まる。

97: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/27(月) 18:38:52.76
しかし、イタリアはアドワの戦いで、エチオピアに敗れた。
西欧の帝国主義国が、アフリカの国と戦争して負けるなど、考えられなかった時代。西欧は、初黒星を喫した。



1896年3月1日に発生したアドワの戦いで1万5000名前後のイタリア陸軍4個旅団は若干のエリトリア兵を増援に加えて、10万を越すエチオピア軍とアドワ北方で対峙した。

エチオピア軍の内、少なくとも8万人はライフル銃と軍服を装備した近代歩兵であった。

戦闘は数と火力の両面で上回ったエチオピア軍の猛攻によってイタリア陸軍とエリトリア民兵隊は多大な損害を受け、最終的にイタリア陸軍の9500人から1万2000人が戦死・負傷し、エリトリア民兵隊も2000人が死ぬか捕らえられた。

エチオピア側も死者・負傷者合わせて1万名前後の損害を出した。
 

98: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/27(月) 18:42:42.99
イタリアだけではない。ドイツも遅ればせながら、アフリカの分割競争に参戦した。



ドイツは統一国家の建設が他の西欧諸国に比べ遅れをとったため、18世紀のプロイセンによるグロース・フリードリヒスブルク(今日のガーナ)などがあったものの、本格的な海外植民地の建設も遅い時期になった。

統一ドイツ帝国の成立後、アフリカ、太平洋などに海外植民地を建設し、ヴィルヘルム2世のもと積極的な海外進出を行った。

第一次世界大戦においては、東アフリカを除くドイツ領植民地は英海軍による海上封鎖などにより補給が行えずほどなく連合国軍に占領されているが東アフリカだけはパウル・フォン・レットウ=フォルベック将軍率いる現地人を中心としたゲリラ部隊が終戦まで抵抗を続けた。

第一次世界大戦敗戦の結果、ドイツ領植民地は英仏日その他に分割され消滅した。

99: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/27(月) 18:48:10.44
イタリアは、イメージ的にスペインやギリシャといった南欧諸国とかぶるし、料理やブランド産業で有名という点ではフランスとイメージがかぶる。
でも、ドイツとは「正反対の国」みたいに思われている。
しかし、ドイツ・オーストリアこそ、イタリアにとって最も歴史的な関係が深い隣国だ。
歴史の歩みがよく似ているし、非常に多くのものを共有している。

100: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/27(月) 18:49:58.23
というより、ドイツ・オーストリア・イタリアは、昔は「神聖ローマ帝国」という、ひとつの国だったのだ。
そこから、3つに分裂した。明確に分裂したのは、1860年代。
ちょうど、日本が幕末維新をやってた頃だ。

101: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/27(月) 18:51:33.16
>>100
その当時の国語はドイツ語だったのかオーストリア語だったのかイタリア語だったのか

102: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/27(月) 18:52:51.86
国語と言う概念はない

公式文書に使う言語は基本ラテン語だし
日常生活に使う言語は地域ごとにまちまち

103: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/27(月) 18:52:57.08
実際のところ、北イタリアをよく知る人ほど、「ドイツに似ている」と言う。
今でも、スペインやギリシャより、ドイツに似ているということだ。

104: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/27(月) 18:53:27.56
ちなみに自国領内での行政文書にアラビア語使ってる神聖ローマ皇帝とかもいたからな

105: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/27(月) 18:55:25.85
ただし、イタリア語が国語とされ、言語統一が進んだ現代においては、北イタリアと南イタリアは、言葉では区別しにくくなってきている。

107: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/27(月) 20:23:38.03
ドイツとイタリアは、地理的にはすごく近くて、歴史的にもすごく関係が深いのに、イメージがほぼ正反対なのが不思議。

116: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/28(火) 17:18:42.97
中世の前期においては、ドイツ人の皇帝がイタリアに君臨していた。
そして、フランス人の国王が、イギリスに君臨していた。

つまり、独伊と英仏は、それぞれにまだ分離してなかったのだ。
それは独伊帝国であり、英仏王国だった。

ドイツとイタリアが分かれ始めたのは、いろいろ異論はあるけど、やはり、13世紀の「大空位時代」だろう。この時期に、ドイツ人の皇帝の力がひどく弱体化し、イタリアに対する影響力がガクンと落ちた。

では、イギリスとフランスが分かれ始めたのがいつかというと、これは衆目が一致するところ。14世紀の「英仏百年戦争」のときだ。

120: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/28(火) 17:45:47.95
「ドイツとイタリアの関係史」というスレタイには無理がある。

「間にあるオーストリアを語らずして、ドイツとイタリアの歴史を語るのは無理」
ということに気づいた。

121: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/28(火) 17:48:55.39
ていうか、「ドイツとイタリアの関係史」は、ほとんどそのまんま、「オーストリアの歴史」じゃないか。

122: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/28(火) 18:10:09.04
>>121
いや神聖ローマのハプスブルク朝成立以前は全然んなこたぁない
オーストリアから皇帝が続け様に出るようになってやっとドイツイタリア関係史はオーストリアの歴史とリンクする

124: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/28(火) 19:26:45.46
オーストリア史とかドイツ史のど真ん中じゃねえか
ドイツと分けて考える発想が理解不能

125: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/28(火) 20:09:55.61
>>124
中世初期のドイツ史ど真ん中にいたのはオーストリアじゃなくてバーベンベルク家
バーベンベルク家は辺境伯時代からオーストリアを持ってるけど別に「オーストリア」という形でドイツ史のど真ん中にいたわけじゃあないしバーベンベルク家がシュタウフェン朝時代に取り潰されて以降ドイツ史ど真ん中というわけにはいかない状態になる

「オーストリア」として主体的な判断をする存在と我々が認識をするようになるのはハプスブルク家初の皇帝ルドルフ1世時代のオーストリア奪取
そしてアルブレヒト2世のスイス喪失からだろ
とは言えそれでもラインラントにハプスブルク領フォアランデは保有してるから単純に領土がオーストリアのみになったわけじゃあないんだけど

126: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/29(水) 08:18:26.38
後にドイツを統一することになるプロイセンは、中世には「ブランデンブルグ辺境伯」だったな。

中世には断然、南ドイツ>>>北ドイツ だった。

127: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/29(水) 10:07:29.98
中世ドイツはラインラント>他だが

128: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/29(水) 11:28:09.39
ラインラントなら、南ドイツというより、西ドイツだな

130: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/29(水) 12:03:04.58
ローマ帝国の支配が及んだ地域が、中世ヨーロッパの先進地

ケルンなんか、「古代ローマ帝国の植民都市(コロニー)が、ケルンという名の由来です」と、由緒正しさを自慢してるくらいだ

131: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/29(水) 12:17:39.45
植民地だったことを自慢するとは凄いな

133: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/29(水) 16:41:18.80
>>131
全く珍しく無い
未だに欧州の潜在的なヒエラルキーには、ローマ域内だったか否か、が大きく横たわっている

コローニア(植民都市)が語源のケルンとかもある

132: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/29(水) 12:45:14.54
「プロヴァンス」だってローマ帝国の「プロヴィンキア」(属州)から来てる

ローマ帝国の支配は中世は自慢だったんだよ
蛮族だったヨーロッパ人にとってローマの文明はまるで天上の智慧のようなものだったんだから

135: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/29(水) 19:29:52.84
ローマ帝国は、西洋にとって輝かしい栄光

ドイツの皇帝も、ギリシャの皇帝も、ロシアの皇帝も、オスマン・トルコのスルタンでさえも、みんな、自称・「ローマ帝国の後継者」だ

136: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/29(水) 19:38:27.73
イタリア「俺らこそ清く正しいローマ帝国の後継者」

137: 世界@名無史さん 投稿日:2015/04/29(水) 19:56:52.15
真っ先に後継者でなくなった連中だろwww

オドアケルのイタリアを忘れんなよ

156: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/03(日) 09:27:56.33
イタリア統一に大きく貢献したトリノの宰相カブールは、北イタリアしか念頭になかった。
南のことには少しも関心がなく、生涯に一度も訪れなかったという。
そんな人が「イタリア統一の三傑」と言われてるというのが、歴史の皮肉。

157: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/03(日) 09:31:43.86
統一後は、イタリアの首都をどこに置くかが問題だったが、ミラノやトリノでは北に偏りすぎなので、ローマにすぐ決まった。
言語は、フィレンツェあたりのトスカーナ方言が共通語選ばれた。
ミラノやトリノあたりの北部は、ドイツ・オーストリアの影響が濃く、言語も大きく異なっていた。
もしも、北部の言語が共通語になっていたら、イタリアという国のイメージもかなり違っただろう。

158: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/03(日) 09:36:52.70
ロンバルディアは北イタリアのポー川流域の一帯を指し、かつてランゴバルド王国が支配した地域を言う。この地には11世紀ごろからミラノをはじめとする自治都市(コムーネ)が形成されていたが、12世紀には神聖ローマ皇帝(ドイツ)のイタリア政策による干渉が激しくなり、特にフリードリヒ1世(赤髯王、バルバロッサ)は1158~78年にかけて4回イタリア遠征を行い、1162年にはミラノを破壊した。

ロンバルディア同盟はこのような神聖ローマ皇帝の攻撃から防衛するために結成された北イタリアの都市同盟である。

それは2度結成されており、最初はフリードリヒ1世に対抗して、1167年クレモナ市が提唱し、ペルガモ、ブレシア、マントヴァ、フェラーラなどが加わり、20年間継続した。

同盟軍は1176年のレニャーノの戦いでフリードリヒ1世のドイツ軍を破り、1183年のコンスタンツの和議で皇帝に自治を認めさせた。

2度目は、13世紀前半、南イタリアを足場に、北イタリアの支配を目指した皇帝フリードリヒ2世(シチリア王フェデリーコ2世)に対抗し、ローマ教皇の支援を受け、ミラノ、ボローニャなどが結成した。

159: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/03(日) 09:41:50.97
1176年、レニャーノの戦い。
これこそ、ドイツとイタリアの関係史における、最大の山場だ。

大英雄の皇帝フリードリヒ一世・バルバロッサは、なかなかコントロールできないミラノを攻撃して破壊したが、逆に北イタリアの諸都市が結束してバルバロッサに対抗する事態を招いた。
これは、現代人が見ると、「ドイツがイタリアを侵略した」と映るのだが、当時としては、そうではない。
当時の皇帝は、ドイツ王とイタリア王をも兼ねる、独伊帝国の皇帝だ。
ドイツやイタリアというのは、地理的概念にすぎず、そんな民族国家が独立して存在したわけではない。

160: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/03(日) 09:58:49.50
どういうわけか、バルバロッサは敗れた。
ミラノは平原の真ん中で、防御力が高いとも思えないんだが、北イタリアの壁は厚かた・・・。

161: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/03(日) 10:03:00.11
だが、そこであきらめる神聖ローマ帝国ではない。
バルバロッサの死後、婚姻政策により、帝国はシチリアを手に入れた。
今でこそシチリア島はヨーロッパの田舎の南イタリアの中でもさらにド田舎の島なのだが、当時は違った。
皇帝フリードリヒ二世は、シチリアに生まれ育ち、シチリア王から皇帝になった。
神聖ローマ帝国の歴史上、南欧が中心になったのは珍しい。

162: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/03(日) 10:12:46.99
フリードリヒ二世・フェデリーコは大賢人で、「世界の驚異」と呼ばれるほどの知性と教養を誇った。

これは、本人が英明だったのもさることながら、シチリアおよび、その近くにあるアラブの文化が、当時の西欧人からは隔絶した高度なレベルにあったからだ。
でも、そんなに賢いフェデリーコ皇帝なのに、どういうわけか、「北イタリア政策に関しては、祖父のバルバロッサと同じくらいバカだった」と評される。

北イタリアの諸都市が結束したロンバルディア同盟に、真正面から攻撃をしかけては、撃退されることの連続だった。

164: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/06(水) 14:22:38.70
宗教改革以前のドイツはカトリック国だったから、当然、ローマ教皇の精神的な影響力が大きかった。
イギリス国教会の成立が、「イギリスが宗教的にローマから離れ、自力した」とされるように、ドイツの宗教改革にも、「ローマからの宗教独立」という意味合いが多分にあった。

165: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/06(水) 14:33:48.82
15世紀の後半から、「ドイツ国民のローマ帝国」という言葉が公文書に登場する。
それは、もはや、帝国の権力がイタリアに及ばなくなり、事実上の「ドイツ帝国」と化したことを意味していた。
それと同時に、「俺たちはドイツ国民だ」という、ドイツ人の民族意識が確立されたことも意味する。

ここにきて、ドイツとイタリアはついに分離した。

166: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/06(水) 14:35:38.48
でも、ドイツはローマ教皇に搾取され続けた。
免罪符販売部隊は、フランスでは相手にされず、ドイツが主力マーケットになった。
ドイツは、「ローマの乳牛」と呼ばれるほど搾られた。ドイツ国民の不満は高まっていった。

167: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/06(水) 14:40:17.38
そんな中で、ルターはドイツ語訳の聖書を発刊し、ドイツ人のためのキリスト教を始めた。
ドイツ騎士団の末裔たる領邦君主たちは、こぞってルターを支持した。
当時は、皇帝をたまたまスペイン王がやっていた。
皇帝ってのは、普通はドイツ王がやるもんなんだが、このときは、成り行きでたまたまスペイン王が皇帝になっていた。

皇帝カール5世ことスペイン王カルロスは、カトリックの守護者として、ドイツの宗教改革勢力と戦うことを決意した。

168: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/06(水) 17:33:43.12
>>168
カール5世はシュマルカルデン戦争で敗戦して失敗して以降もう宗教改革は黙認状態になるよな

元々個人の性質としては非常に穏健的で妥協的だったけどスペイン王にして皇帝という立場が対決を決意させたし

169: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/06(水) 20:03:27.68
カール5世はベルギー育ちでフランス語が母語
ドイツ語もできたそうだが

170: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/06(水) 20:10:00.46
ワロン語の方じゃねーの?

172: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/06(水) 21:47:26.17
>>170
フランドル貴族の事実上の公用語だからフランス語(オイル語)であってる

171: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/06(水) 21:43:49.56
カールをスペイン王が皇帝を兼ねていたと見るのは酷く偏ってると思うがな
むしろ、皇帝家にスペイン王位が転がり込んできたって方が実態だ

175: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/07(木) 08:26:47.86
カール5世は、どこが本拠地なのかも分からないほど欧州各地を走り回っていたが、どこにいたのが一番長かったかといえば、やっぱりスペインが本拠

176: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/07(木) 13:16:51.36
退位式の場所から考えても本人の心底では低地地方がホームランドっぽいけど
それはともかく、公的な立場としてやはりスペイン王としての地位を重視してたようで
退位式では自分の人生は旅の連続、としてイタリアやドイツ、フランスなど各地の地名を挙げてるがスペインの地名はないんだよな
旅先じゃなくて自宅だから行き先として名前が出ない

178: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/07(木) 15:41:01.68
カール五世は、自他ともに認める「カトリックの守護者」でありながら、ローマ略奪を引き起こし、聖なる都を破壊してしまった。

もちろんカールの本意ではなく、軍隊が勝手に暴走したわけだが、それから後、ローマがかつての栄光を取り戻すことはなかった・・・。

184: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/07(木) 20:51:04.75
ぶっちゃけドイツってヨーロッパで暴れたから悪者扱いされてるけど、アジア人には大して迷惑かけてないよな

185: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/07(木) 20:54:24.77
>>184
清の分割には参加してるし、そもそも三国干渉で日本に圧力かけてアジア人に大迷惑かけてるだろ

186: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/07(木) 21:04:24.77
ドイツは、昔から中国に妙に執着している。
今も、先進国で、中国進出に一番熱心だ。

187: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/07(木) 21:32:18.54
昔は植民地獲得競争最後の稼ぎ場が清だったからな
今の中国に対してはドイツ経済が中国相手に限らずとにかく貿易依存度がクソ高いのと地政学的にロシアの牽制に中国が欲しい

中ロは同盟結んでるけどなんだかんだで滅茶苦茶仲は悪いからドイツとしてはロシア抑えるにはどうしても中国というカードは抑えといてヨーロッパに向かうロシアの背後から襲える中国を何時でも維持したい

194: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/09(土) 06:56:24.01
>>187
ドイツが遅く出てきた帝国主義国家だったのでオスマン帝国も清朝も英仏露への対抗上、ドイツへは好意的だったからね
富国強兵によって中央集権化を成し遂げたことも近代化の手本として受け止められた
三国協商締結後は打開策として独米清の三国連携を外務省は持ってたし伝統的にドイツ外務省と陸軍は対アジア政策で親中が主流となっていた
ナチの親日政策への傾斜は、陸軍傍流だったカナリスとヒトラーとの個人的関係だけが後ろ盾だったリッベントロップの主流派潰しの手段だった

199: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/09(土) 19:05:45.14
ドイツとイタリアの同盟は、神聖ローマ帝国の名残りだから仕方ない。
関係ない日本が参加する意味はなかった。

201: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/09(土) 20:44:19.21
>>199
というよりムッソリーニ信者だったヒトラーの独断だろ
イタリアは敵味方以前にそもそも視野にすらなかったろ
同じファシスト国家ならむしろ大西洋に面したフランコ率いるスペインの関心を買うほうがよほど戦略上の旨みがあった

205: 世界@名無史さん 投稿日:2015/05/12(火) 02:13:26.36
昔も今もドイツ人によってイタリアは憧れの地
今でも多くのドイツ人がバカンスでイタリアに行くし


引用元: ・ドイツとイタリアの関係史




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