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1: 世界@名無史さん 2008/05/06(火) 05:20:11 0
古今数々の戦争が行われ同時に数々の英雄が誕生した









11: 世界@名無史さん 2008/05/06(火) 18:04:00 0
ネヴァ川の戦い
そしてネフスキー

しかし
スウェーデン側には記録がない
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ネヴァ川の戦い
は、1240年7月15日、ロシアのネヴァ川河畔(現在のウスチ・イジョラ付近) において、ノヴゴロド公国(共和国)と第二次スウェーデン十字軍(スウェーデン人、ノルウェー人、フィンランド人(スオミ、タヴァスティア))の間で行われたスウェーデン・ノヴゴロド戦争における戦闘。
ロシア史上ではアレクサンドル・ネフスキーによる民族的勝利として位置づけられているが、その他の国では記録がなく、その規模や存在そのものを疑問視する説もある。


20: 世界@名無史さん 2008/05/09(金) 00:31:07 0
項羽の鉅鹿の戦いはもっと評価されていいと思う

21: 世界@名無史さん 2008/05/12(月) 21:30:48 0
ヴァルミーの戦い

唄われるラマルセイエーズ
そして「ここから世界史の新しい時代がはじまる」
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ヴァルミーの戦い
は、1792年9月20日に起きたフランス軍とプロイセン軍との会戦。フランス軍が勝利した。次の日、9月22日、立法議会が王政廃止宣言を発した。

フランス革命後最初の軍事的勝利であることで、「革命精神の勝利」と称えられた。ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公カール・アウグストの元で従軍、プロイセン側でこの戦闘を目撃したゲーテが

ここから、そしてこの日から、世界史の新たな時代が始まる。

と言ったことで知られ、新しい国民軍が従来の傭兵軍を破ったことが、近代国民国家が絶対君主制国家に勝った証として評価されることが多い。


24: 世界@名無史さん 2008/05/13(火) 22:22:41 0
モンスの戦い

第一次世界大戦、フランドル地方での戦い
血で血を洗う塹壕戦の中、兵士達は天使を見た!

27: 世界@名無史さん 2008/05/14(水) 23:45:26 0
カトワーンの戦い

その情報を得たシリアのある司祭は曲解し
「東方のネストリウス派の王がムスリムと戦い勝利した。我々と連係する為進軍している」と
カトワーンの戦いは、1141年9月9日に起きた、西遼とセルジューク朝・西カラハン朝連合軍の戦闘である。この戦いでセルジューク朝は大敗を喫し、この時からセルジューク朝の衰退が始まる。
また、この戦闘の情報がシリアの十字軍を通してヨーロッパに誤りを含んだ形で伝えられ、キリスト教国の君主プレスター・ジョンの伝説を生むことになったとも言われる。


28: 世界@名無史さん 2008/05/15(木) 23:24:19 0
ロンスヴォーの戦い

シャルルマーニュのイスパニア遠征を基にローランが活躍した事に…
しかも実際は対ウマイヤ朝で無く、バスクとの戦いだったとか

29: 世界@名無史さん 2008/05/15(木) 23:50:26 0
アレシアの戦い

カエサルかっこいい

50: Ryuju ◆RlujhF6VrA 2008/05/24(土) 14:07:38 0
個人的にはアレシアよりファルサロスを推す。

カエサルの指揮のみならず、兵士たちの判断が素晴らしい。
自分たちで止まって呼吸整えて再び突っ込むって、さすが歴戦の強者揃いって感じで好き。

31: 世界@名無史さん 2008/05/17(土) 16:17:34 0
タラーインの戦い

インドの叙事詩、プリトヴィラージャラソーに詠われるムスリムとの戦い
勝利の栄光、味方の裏切り、そして死…
タラーインの戦いは、北インドに侵入したイスラーム系のゴール朝とラージプート諸王の連合軍との間で戦われた戦闘。1191年と1192年の2度にわたって行われ、イスラム勢力の北インド侵入の大きな転機となった。

ゴール朝の君主ギヤースッディーン・ムハンマドの弟シハーブッディーンの指揮下にインドへ侵入を始めたゴール軍は、ガズナ朝と違い北インドの永続的支配を目的としていた。
ラージプートの諸王朝はかろうじてチャーハマーナ朝のプリトヴィーラージ3世のもとに結集し、1191年にデリーの近くタラーインで激突し、このときはなんとかラージプート連合軍が勝利した。しかし翌年再び侵入してきたゴール軍に対して連合軍は団結して抵抗できず、プリトヴィーラージ3世はゴール軍に囚われ殺された。この戦闘で勝利を収めたゴール軍はデリーを陥し、最終的にはベンガル湾にまで兵を進め、北インド統一を成し遂げた。


33: 世界@名無史さん 2008/05/17(土) 21:16:04 0
旧約聖書に出てくるイェリコでの戦い
大声だけで城壁を崩したという
まさに伝説

34: 世界@名無史さん 2008/05/18(日) 19:12:19 0
レキシントンコンコードの戦い

アメリカ独立戦争の魁初となった戦い
うん、規模の大きさはどうでもいいじゃぁないか

38: 世界@名無史さん 2008/05/19(月) 21:38:44 0
ハ陽湖の戦い

世界史板住人ならば言わずもがなの三国志演義赤壁大戦の原形
ところで周瑜のモデルになっているのは誰なんでしょう?
鄱陽湖の戦い(はようこのたたかい)は、1363年の中国で起こった朱元璋と陳友諒の間の湖上戦。この戦いで陳友諒は戦死し、朱元璋は西方の憂いを無くした。

朱元璋が南東から攻めてきた張士誠への応戦のために留守をしていた 1363年、陳友諒は形勢逆転を狙って、巨艦数百艘、兵員60万と号する大船団を南昌に向ける。巨艦は「丹漆」により赤く塗られていたという。南昌を守る朱文正と鄧愈は火力を駆使し、85日間これを守った。この間に朱元璋は応天府に戻り、白色に塗られた船団と兵員20万を動員して決戦に向かった。

陳友諒の船団は、巨艦を集めて艦と艦を鎖で繋いで陣としていた。一方、朱元璋の船団は、小型船が中心であり、火力を重視していた。さらには、朱元璋は決戦の4日前、ひそかに伏兵を湖口に伏せていた。朱元璋の軍は小型船が多く、陳友諒の巨艦に恐れをなして戦いは不利であり、陳友諒の配下の勇将張定辺が一時朱元璋の旗艦に肉薄するほどの苦戦となった。しかし陳友諒側は長期包囲戦の後の疲労もあり、兪通海率いる火砲船団が鈍重な陳友諒の船舶を次々を火だるまに変えていき、戦いの主導権は徐々に移りつつあった。

戦いの3日目、にわかに東北の風が吹くと、朱元璋は決死隊による火船七艘を陳友諒に突っ込ませたため、折からの強風により密集した巨艦は炎上し「煙焔天にみなぎり、湖水ことごとく赤なり」という地獄絵図と化した。陳友諒軍は斬首された者2000余、溺死・焼死した者は数え切れずという壊滅的敗北を喫することとなった。


42: 世界@名無史さん 2008/05/20(火) 15:01:05 0
カンネの戦い

欧州だと関ヶ原の合戦並みの知名度らしい。

43: 世界@名無史さん 2008/05/20(火) 23:07:02 0
ヒュダスペス川の戦い

偉大なアレキサンドロス、インドへ侵入して象部隊と戦闘
勇敢なギリシア人達は象の足下に取り付いて象の足を切り裂いたとか

44: 世界@名無史さん 2008/05/22(木) 01:01:21 0
ミルウィウス橋の戦い

コンスタンティヌスとジャンヌダルクの違いは政治家として「神意を得た」と宣伝したと言うところだろうか?
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ミルウィウス橋の戦い
は、312年10月28日に2人のローマ皇帝コンスタンティヌス1世とマクセンティウスがそれぞれ率いる軍の間で行われた戦いである。戦いに勝利したコンスタンティヌスはテトラルキアにより分裂状態にあったローマ帝国の統一へ前進することとなった。

ミルウィウス橋の戦いの前にコンスタンティヌスにキリスト教の神より勝利の導きがあったと伝えられる。一説には、ミルウィウス橋に向かう行軍中に、太陽の前に逆十字とギリシア文字 X と P の二文字が見えて、コンスタンティヌスが、ギリシア語で「この印を以て征服するだろう」と聞いたと信じられている。

3世紀から4世紀にかけて活動したキリスト教著述家のラクタンティウスは、戦いの前夜(10月27日の晩)にコンスタンティヌスが夢で「コンスタンティヌス軍の頭上に大きな印が示される」(de mort. pers. 44,5)と命令されたと述べ、コンスタンティヌスが「ラバルム」を盾に貼り付けたとしている。ただし、エウセビオスがそれ以前にコンスタンティヌスへ「ラバルム」の印を付けるように指導していたとも伝えられ、ミルウィウス橋の戦い以前よりその紋章を付けていた可能性もある。

48: 世界@名無史さん 2008/05/22(木) 22:08:21 0
スターリングラード攻防の戦い

「映像の世紀」にて紹介されたとあるドイツ兵の手記が心を打つ
「どんなに硬い意思でも、いつまでも我慢していられない。人間だけが耐えるのだ。神よ、なぜ我等を見捨てたもうたのか。」

49: 世界@名無史さん 2008/05/24(土) 10:23:49 0
ダランバルジュドの戦い

オンハン、テムジンのモンゴル覇権に対してジャムカが十三部族を糾合して襲い掛かる
ところで、結局どちらが勝ったんだ?
十三翼の戦い(じゅうさんよくのたたかい)は、1189年頃、ダラン・バルジュドの地にて、後にモンゴル帝国の祖(チンギス・カン)となるキヤト氏族のテムジンと、その盟友でジャダラン氏族のジャムカとの間で行われた戦い。

モンゴル部キヤト氏族の若き首領・テムジン(後のチンギス・カン)は、旧交のあったモンゴル部ジャダラン氏族のジャムカの勢力と同盟関係にあった。しかし、ジャムカの弟タイチャルが、テムジンの傘下にあったジャライル部ドランギト氏族のジョチ・ダルマラの馬群を盗み、ジョチ・ダルマラに射殺される事件が起こる。これによってジャムカはテムジンらキヤト氏族に侵攻し、テムジンはダラン・バルジュトの地でジャムカを迎え撃った。

この時ジャムカの勢力には「十三の異部族」が集まり、その内訳はジャダラン氏族をはじめ、タイチウト氏族、イキレス氏族、ウルウト氏族、ノヤキン氏族、ニチュグト・バアリン氏族らであり、3万の兵力であった。一方、テムジンの勢力は「十三の団営」があり、1万3千(『集史』では1万3千であるが、『元朝秘史』では3万である)の兵力であった。テムジンの勢力はたちまち敗れ、オナン河のジェレネ狭間に逃げ去った。

『集史』ではテムジン側が勝利したとしているが、これは誤りである。



54: 世界@名無史さん 2008/05/27(火) 00:09:58 0
パヴィアの戦い

スパニッシュテルシオの威力爆発!
16世紀は戦い方の変化の時期、日本の戦国時代だけで無く…
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パヴィアの戦い
は、イタリアの覇権を巡ってハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)が15世紀末から半世紀以上に渡って争ったイタリア戦争における戦いの一つ。

4時間30分の戦いで、皇帝軍は小銃とパイクを組み合わせて効果的に戦い、フランス軍は分断され総崩れとなった。フランス側は、有力貴族のそれぞれの長を含む多数の犠牲者を出した。フランソワ1世自身もスペイン軍の捕虜となり、カール5世によって投獄され、重要な領域をカールに引き渡すという内容の屈辱的なマドリード条約に署名させられた。


56: 世界@名無史さん 2008/05/27(火) 23:54:34 0
チャルディラーンの戦い

イニチェリの威力爆発!
16世紀は戦い方の変化の時期、日本の戦国時代だけで無く…
チャルディラーンの戦いとは、1514年8月23日に、アナトリア高原東部のチャルディラーン (Chaldiran) で行われたオスマン帝国と新興のサファヴィー朝ペルシャとの戦い。鉄砲と大砲が騎馬軍団を撃破した軍事史上大きな意義を持つ戦いである。

サファヴィー朝軍4万に対して、オスマン帝国軍は6万から20万の大軍を擁し、軍の質も高かった。戦いはオスマン帝国軍の勝利で終わり、大将のイスマーイール1世自身も捕らえられる寸前で退却した。彼の妻たちもセリム1世に捕獲され、そのうちの一人がセリムの側近と婚約させられると[、イスマーイールは政治への興味をなくし、帝国の統治に関与しなくなった。

この戦いは、サファヴィー朝軍のクズルバシュの最強神話を打ち崩しただけでなく、両帝国間の勢力範囲を画定させ、クルド人の帰属をサファヴィー朝からオスマン帝国へと切り替えた点でも、歴史的な重要性をもつ。


57: 世界@名無史さん 2008/05/28(水) 21:49:25 0
カタラウヌムの戦い

ローマの擾乱、乱立するゲルマン諸王、西から迫るフン族、そして古代世界の終焉は、キリスト教的な終末よりはラグナロクを連想させる
ニーベルングの歌のエッツェルやディエートリヒのモデルである連中もいるしな

62: 二行戦士 ◆nUhbMxutSo 2008/05/30(金) 22:28:22 0
ブライテンフェルトの戦い

グスタフアドルフとスウェーデン軍の火力と機動力の勝利
お陰で30年戦争はより過激に、混沌としたものへ変化していくが、ね
ブライテンフェルトの戦いは、三十年戦争中の1631年9月17日(旧暦9月7日)に、ドイツのライプツィヒ北方のブライテンフェルト郊外でおきた戦い。グスタフ2世アドルフ率いるスウェーデン軍およびドイツ・プロテスタント諸侯の連合軍と、ティリー伯率いる神聖ローマ帝国軍が交戦し、スウェーデン軍が勝利した。

この戦いは、プロテスタントにとって初めての勝利であった。心理的にもその影響は多大であった。ザクセン公国の首都ドレスデンでは、9月17日を感謝祭に指定し、長らく祝日とされたのである。グスタフ2世アドルフは、プロテスタント勢力の英雄となったのである。



67: 世界@名無史さん 2008/05/31(土) 22:45:54 0
ワーテルロー

良くも悪くも知名度は抜群
世界史に対する影響もまあ大きいと言っていいと思う
世間で言われているほどとは思わないけど
69: 世界@名無史さん 2008/06/01(日) 23:50:47 0
カンナエの戦い

包囲殲滅戦の戦略を立てる時には必ずモデルにされる。

76: 世界@名無史さん 2008/06/03(火) 22:44:07 0
既出すぎるけどカンネ(カンナエ)会戦が、やっぱり一回の戦闘としては人類の生み出した戦争芸術の最高傑作なんだろうなぁ。

自軍のおよそ2倍の敵勢力を、画期的な新戦術(騎馬による両翼突破と厚くした中央の後退戦による包囲網の完成)で全滅させるというのは軍事的なロマンチシズムの極地にあると思う。

結局勝利したカルタゴとハンニバル将軍が悲運の運命を辿ったというところも含めて、未だにこの会戦の信者の数は世界でも圧倒的だ。
世界中の軍事教本の基礎にも載ってるしね。

73: 二行戦士 ◆nUhbMxutSo 2008/06/03(火) 00:06:10 0
マレンゴの戦い

ナポレオンとフランス国民軍の高い士気と行軍の勝利
「不可能は無い」とか言う割には辛勝だ、それにモローだって頑張ってたわけで…

75: 二行戦士 ◆nUhbMxutSo 2008/06/03(火) 21:57:51 0
セダンの戦い

大モルトケとドイツ参謀本部の緻密な用兵の勝利
無惨にも捕虜となったナポレオン3世、奥さんからも酷評されてしまうくだりは哀れ
セダンの戦いは、普仏戦争における戦いの1つ。この戦いに参加したフランス軍の主力は全面降伏した上、最高司令官たるナポレオン3世が捕虜となったため、戦争の趨勢を定めた戦いとなった。

メス攻囲戦でフランス陸軍主力がドイツ第1軍及び第2軍に包囲されていたため、これを救援すべくシャロンでは陸軍を編成した。これに気付いた大モルトケ率いるドイツ軍は第3軍をもってフランス軍を急襲し、打撃を被ったフランス軍は一時撤退して弾薬の補給と兵士の休息を行った。間もなく第3軍はセダン(スダン)に到着し、フランス軍はこれを確認するも、消耗のために直ちに撤退することはできなかった。
そのため、包囲されたままセダンで戦うこととなった。フランス陸軍は包囲を突破する努力を続けたが、火砲を駆使するプロイセン軍により、司令官のマクマオン将軍が負傷し、兵員も多数負傷したため、降伏するに至った。

78: 二行戦士 ◆nUhbMxutSo 2008/06/04(水) 21:26:38 0
アドワの戦い

ラスマコネンとエチオピア軍の…何だ、何が勝因なんだ?相手がイタリアだからか?
まっヘタリアを象徴する戦いではあるが、エチオピアにも軍はあり、未開の地ってわけでもないし
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アドワの戦いは、1896年3月1日にエチオピア軍とイタリア軍がエチオピアのティグレ州アドワ近郊で戦った会戦。この戦いの敗北が、第一次エチオピア戦争におけるイタリアの敗北を決定付けた。

19世紀にアフリカの大部分はヨーロッパの国々により植民地化され、リベリアを除くと独立国はアフリカの角に隣接するエチオピア帝国だけであった。

1896年2月に入ると、両軍とも補給に困るようになった。イタリア本国政府の圧力に負け、オレステ・バラティエリ将軍は2月29日の夜に進軍を命じた。しかし、イタリア軍は複雑な地形に手間取り、相互の連絡にも支障をきたした。エチオピア軍を指揮していたラス・マコネンは、イタリア軍の状況を詳細に観察しており、即座に軍に全面攻撃を命じた。朝にはエチオピア皇帝メネリク2世と皇后タイトゥの軍も戦闘に参加した。

イタリア軍はわずか14,527人であったのに対し、エチオピア軍は12万人を越えていたと推測されている。エチオピア軍はイタリア軍を各所で包囲し、撤退するイタリア軍を追撃し続けた。イタリア軍は約11,000人を失い、エチオピア軍は約10,000人を失った。主力を失ったイタリアは、アディスアベバ条約を締結し、エチオピアの承認を余儀なくされた。

この決戦における勝利により、エチオピアは欧州列強による植民地化を回避することができたと評価されている。

88: 世界@名無史さん 2008/06/07(土) 22:17:22 0
>>78
敵地で1万4千人vs12万人じゃドイツ軍でも負けるわ。
そもそもそんな兵力差で決戦を強要したイタリア政府も間抜けだが。

89: 世界@名無史さん 2008/06/07(土) 22:39:52 0
>>88
700人の突撃を大攻勢と誤認して屈服したオランダのバンドン要塞守備隊50000の例もある。
相手は情報収集力に秀でていると言い難い前近代のエチオピア軍。イタリア軍14000を140000と錯覚させる用兵なら勝てた。
それくらいの知恵ならイタリア以外の大抵の列強国には備わっていた。

86: 世界@名無史さん 2008/06/07(土) 01:05:21 0
アインジャールトの戦い

常勝モンゴル軍に始めて土をつけた戦い、とは言われるが
ジャラールウッディーンや完顔陳和尚、あるいはヨーロッパでの一部の局地戦とどこが違うのかと…

91: 二行戦士 ◆nUhbMxutSo 2008/06/07(土) 23:25:51 0
レウクトラの戦い

エパミノンダス、そしてクルッセ=ファランクス、そして「アッー」な神聖隊で有名な一戦
矛と盾の原理は古代より、相手を研究し対策を練り実施する、そんな一つの斜線陣
レウクトラの戦いは、紀元前371年にエパメイノンダスに率いられたテーバイを中心とするボイオティア軍が、当時ギリシア最強を謳われたスパルタを中核とするペロポネソス同盟の軍勢を破って、テーバイが古代ギリシアの覇権を握る契機となった戦いである。

この戦いによってスパルタの覇権は大いに揺らぐことになり、ボイオティア同盟軍はペロポネソス半島へと侵攻した。そこで、今まで侵攻されたことが一度もなかったスパルタの地ラコニアへと足を踏み入れ、スパルタの隷属地であるメッセニアを解放し、スパルタの経済に大打撃を与えた。
ペロポネソス同盟は解体されたが、テーバイがペロポネソス半島を支配することはできず、スパルタはアテーナイと対テーバイ同盟を結び、再び立ちはだかった。そして、マンティネイアの戦いが勃発することとなった。

94: 世界@名無史さん 2008/06/08(日) 15:05:42 0
>>91
神聖隊の最後は泣けますね。

98: 世界@名無史さん 2008/06/09(月) 07:46:16 O
映画化されたテルモピレーの戦いが
戦力差としては最大じゃね?レオニダス王軍300人vs100万人って奴。
最終的には全滅したけど遅滞戦術の成功でヨーロッパを救ったといわれてるよね。
まあ紀元前の話だから数は誇張だろうけどさ。

127: 二行戦士 ◆nUhbMxutSo 2008/06/12(木) 23:59:20 0
ヤッファの戦い

リチャード対サラディン、両雄の激突
こういうのは絵になるよねぇ

130: 世界@名無史さん 2008/06/13(金) 14:41:39 0
アンカラの戦い

オスマン帝国が一時壊滅。
でも、ティムール帝国対明のほうが実現してたら伝説的だったかもしれない。
アンカラの戦いは、1402年7月20日にアンカラ近郊において、バヤズィト1世率いるオスマン朝軍とティムール率いるティムール朝軍の間で行われた戦闘。象を使った巧みな戦いによりティムール朝が勝利し、バヤズィト1世は捕らえられた。バヤズィトは戦闘中に落馬、翌年に捕虜のまま病死し、息子らの間で帝位を巡り争われるなど、オスマン帝国は皇帝空位の状態となった。



168: 世界@名無史さん 2008/06/18(水) 02:45:14 0
ベリサリウスとかエルシドとか伝説的な戦を成功させてもその後すぐ死んだり追放されたりで本人にとっては良くない結果で終わる事って多いよな

182: 世界@名無史さん 2008/06/22(日) 15:11:04 0
>>168
西洋のみならず東洋でも似たようなことあるよな
義経しかり李瞬臣しかり

169: 二行戦士 ◆nUhbMxutSo 2008/06/18(水) 23:45:22 0
英雄は死ななければならないのさー
エルシドは弁慶みたいな死に様がカッコイイですね
まぁ活躍するのはサグラーハスの戦いのあとだけどね
なんとかイスラムの北上を食い止めた、と

170: 世界@名無史さん 2008/06/18(水) 23:53:23 0
狡兎死して走狗烹らる
生かしておいても邪魔なだけだからな

引用元: ・伝説的な戦