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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/12(火) 20:44:42 ID:PThl0Gj6
切腹の原因はなんでしょうか?








6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/07(土) 01:53:09 ID:iqGj2ixL
私見。唐入りについて利休が強行の反対したからだと思っている。
当時の商人たちは明・朝鮮から高品質の織物や茶や生糸などを輸入して、国内の大名や南蛮人に売るという中継貿易が盛んだった。つまり、商人たちは明や朝鮮に多大な利権を持っていたことになる。
この利権を守るために商人を代表して秀吉と対立したのだと思われる。

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/07(土) 02:44:30 ID:DzUbIQ7+
利休の家に、一面の朝顔が咲いていると聞きつけた秀吉がその朝顔を見ようと、利休の家に訪れたんだよな
けど、利休はその前に朝顔を全部切っちゃったんだよね
で、唖然とする秀吉を茶室に呼び、その室内に置いてある花瓶に一輪だけ朝顔をさして秀吉をもてなしたという逸話がある
利休は、その一輪の朝顔に美の侘び寂びを込めたつもりなんだけど、秀吉にしてみれば満開の朝顔が見たかっただけなのに・・って感じで

そもそも、二人は感性も考え方も合わないんだよね
秀吉の黄金の茶室も利休から見れば、俗物以外の何物でもないし
多分、利休は秀吉をバカにした態度が出てたんだと思うよ

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/07(土) 03:23:23 ID:aQ0IcGLz
>>7
結局は単なる文化人特有の傲慢奇異の態度が気に入らなかったのかな。
利休十哲にも奇人は多い。

忠興
いわずと知れた基地外。妻ガラシャとの逸話が多々ある。

有楽斎
面の皮の厚さは戦国期No1

織部
利休同様、時の権力者である家康に逆らい切腹。

道勲
荒木村重。意味不明な謀反を起こすわ、妻子を捨てて城から一人逃げ出すわ、自分を「どうくそ」自嘲するわ、まさに奇人。個人的には一番好き。

右近
高山重友。戦国1のキリシタン大名。キリスト教の理念に従って高槻城を無血開城するなど、骨の髄までキリスト教に傾倒していた。最後は徳川政権下で国外退去をくらう

まともな俗世間の感覚をもっていたのは氏郷ぐらいなのかな。

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/07(土) 03:12:25 ID:TcQjqFg9
どっちの価値観が良い悪いじゃなくて、性格的に合わなそうだよな。

13: 狸伍長 2006/10/07(土) 07:58:01 ID:ADFlwclO
利休の切腹には、いくつも側面があるけど、三成との対立もその一つ。
利休は茶頭としてだけでなく、堺町衆の利権代表であると共に、内政・外交執行者として秀吉の幕僚に加わっていた。
しかし、三成は博多奉行にして、幕僚制を更に進めた奉行制の推進者。
堺町衆が独占していた南蛮(東南アジア)貿易を拡大するため南進策を推した利休。
それに対して、秀吉の中央集権体制の強化を図るため、復興させた博多商人と共に、まだ利権が確定していなかった朝鮮を北伐で、一気に奪おうとした三成。
この権力闘争の果て、利休が切腹に追い込まれたのではないか?

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/07(土) 15:34:04 ID:riL6eRHf
北進、南進って近代ではないのだから…。
けど、実際利休は商人的考えとして、沖縄・台湾・華南の一部(今でいう福建省)あたりをおさえ、交易の利権を莫大なものにしたくて、秀吉に外征を具申したと思われる。

しかし、派手好きかつ勲功としての領土が必要だった秀吉側は大規模な外征をする以上、大陸自体を攻めるほうがよいと考えたのだろう。明や朝鮮を支配または従属することなど不可能と考えた利休とは激しい対立になったのかな。

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/25(水) 18:00:19 ID:kpFmIpjB
死罪の理由は定かではない。考えられる理由としては...

大徳寺楼門(金毛閣)改修に当たって増上慢があったため(自身の雪駄履きの木像を楼門の二階に設置し、その下を秀吉に通らせた).
安価の茶器類を高額で売り渡した(売僧(まいす)の行い).
秀吉と茶道に対する考え方で対立した.
秀吉が利休の娘を妻にと願ったが、利休は「娘のおかげで出世していると思われたくない。」と拒否し、秀吉はその事を深く恨んでいた.

高麗文化を敬愛するあまり秀吉の朝鮮出征に反対した.

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%88%A9%E4%BC%91


22: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/02/07(水) 12:34:46 ID:r1thndwz
周囲の助命嘆願を全く聞き入れずに切腹を受け入れてる事からしてやはり利休自身が許されるはずもないと思うほどのことをしたんだろう。
家康のスパイ説、秀吉の茶に毒投入未遂説あたりが有力だと思う。

関白の権威を利用する統治者として、天皇朝廷軽視の利休を生かしておくわけにはいかないと判断した可能性もあり、朝鮮出兵反対をその名目としたのかもしれないが、天皇朝廷がそもそも朝鮮出兵に反対していたことを考えると、その可能性は低い。

側室の誘いを断った、茶道に対する考えで対立、大徳寺の木造建設などの説は最近の戦後史観による晩年の秀吉のイメージを悪くする印象操作の気がしてならない。

61: 人間七七四年 2009/05/16(土) 11:28:53 ID:Kl8sV3td
秀吉が利休の娘を差し出せと言っているのに拒んだから。あとは、大徳寺の山門に建てられた利休像とか。いろいろあるだろうけど、三成がそういう状況を利用して利休排除に動いた。
もうろくした秀吉も朝鮮出兵の反対とかもあって決断した。密かに利休が謝ってくると思ってた。

63: 人間七七四年 2009/05/16(土) 20:33:19 ID:71/iElsL
利休による豊臣政権転覆説

67: 人間七七四年 2009/05/27(水) 02:46:27 ID:fxXfam8x
要は、秀吉は貧乏人上がり成金
利休は甘ちゃんお坊ちゃん文化人
秀吉が権力振りかざしてなめてたからじゃん?

71: 人間七七四年 2009/07/02(木) 07:57:03 ID:t5t0Ymcj
>>67
釣りっぽいけどよく考えてみるとありうるかもな。利休って京都人だったし。

三好の料理人が(普段肉体労働してる)信長に薄味の料理を出して
信長が不味いって怒ったら、やっぱり田舎者にはわからんかwとかやったりしてたじゃん。
やっぱり当時から京都人はその他に人間を見下してたりしたんじゃないの。山科さんとかの例外も居たけど。
でそれが積もり積もって秀吉の堪忍袋の緒が切れたとか。
だいたいいくら秀吉の勘気を蒙ったとはいえ、あれだけの付き合いがあったのに切腹の時に見送りにきたのが同じ京都人の細川忠興とへそ曲がりの織部だけっておかしいでしょ。
やっぱり利休にも何か性格に問題があったのでは。

75: 人間七七四年 2009/07/22(水) 22:18:24 ID:LGyRNDkN
>>71
利休は堺の魚屋の息子
当時の商人というと、むしろ卑しい身分だった
どんなに儲けようと、商人は卑しい物売りでしかなかったし
侍に「出せ」と言われたら黙って出すもの出すばかりだった

そこへ現れた天才・利休は、お金儲けに関してはかなりの野心家だった
戦国時代というと、兵力に伴う物量が必要なわけで、豪商の力を借りる武将も出てきた
最初に商人に目をつけたのは信長、楽市楽座の政策からもわかる
信長は超合理主義で、必要なモノには必要なだけ対価を支払い、戦や政治に大いに役立てた
従来の武士のように、商人に対して身分にモノを言わせた強引な態度をとらなかったんだな

そんなわけで、信長の家臣だった奴らも商人の価値を知ってたわけ
利休たちのおかげで江戸以降の商人の地位も向上したと言っていい

125: 人間七七四年 2013/09/29(日) 00:03:50.81 ID:GQF4Zspv
>>75
逆だよ。むしろ、江戸時代に商人の地位は低下した。

戦国時代は兵農分離してなかったが、当然商人と武士も分離してなかった。
そして、農民が足軽とか下級武士の肉体労働系で採用されたのに対し、商人については、官僚とか奉行とか高い地位で採用されてた。
(堺の奉行に採用された松井友閑とかも商人だろ)

そもそも日本で商人というものの発生は戦国末期の堺と博多が初。
それまでは武力を持つ武家や寺社が兼業していた。
だから利休の時代に商人の地位は確定していない。

考えても見ればわかるけど、金だけもってて武力がないと、その金は盗賊や武士に強盗されて終わりなんだよ。品物並べてても、金など支払うことなく武力で奪えば良い話だろ?
戦国時代まではそういう時代。武力なしの商売などありえない。

堺は会合衆などが共同で傭兵3000人を雇って武力で堺を武士から防衛していた。
信長に対しても武力で抵抗しようとしたが、今井宗久や千利休の説得で信長の下に下った。
(海賊に支払っていた船団の護衛料金を信長に支払って代わりに護衛させることにした)

74: 人間七七四年 2009/07/06(月) 01:22:20 ID:514jgxy6
弟子の山上宗次が惨殺されちゃったし、秀吉には相当反感を持ってたんじゃないかな。
黒茶碗で死を賭して抵抗し、茶聖となり、後世に千家が広まった。
これが宗教家だったとしたら、最高の死に様だったと思う。

79: 人間七七四年 2009/07/24(金) 19:50:57 ID:8Oqx+EL/
利休切腹の理由

それは利休が天下人秀吉を見下していたからだよ
昔は秀吉も利休より立場が下だったからそんな利休の態度を感じとっていたんだよ

96: 人間七七四年 2010/12/31(金) 13:21:28 ID:cnE7LCE+
理由の一つに
>安価の茶器類を高額で売り私腹を肥やした(売僧(まいす)の行い)疑いを持たれた。

これは可哀想
こじつけもいいとこやな

110: 人間七七四年 2012/01/14(土) 14:10:08.46 ID:3EmhEQon
>>96
正しいだろ。
「安いもの」と「茶道で高く評価されるもの」は違う。

利休は安物を高い値段で売って利益を得たんだよ。
それは、「利休の鑑定眼」による利益で、茶道的には正しくても、世間的には正しく見えない。

104: 人間七七四年 2011/08/18(木) 13:18:47.40 ID:VxNJ2zD2
利休って宇治の上林って茶師と組んでのし上がったよね
けっこうえげつなかったみたいだけど、400年を経たいまでも上林は営業しとるな

107: 人間七七四年 2011/11/15(火) 02:51:51.07 ID:YAGnxBSk
秀吉が利休に切腹を命じたのは、何が決定打になったと考えられているわけ?
利休の権勢を恐れたとか三成を始めとした奉行派の陰謀だとかいろいろ言われてるけど、どれも考え過ぎじゃないかと思うのだが。

単純に秀吉が、利休の自身に対しての無礼を感じたから、程度のことじゃないのかね?

118: 人間七七四年 2012/11/07(水) 03:21:33.98 ID:/cqAsKIk
>>107
三成を蛇蝎の如く嫌ってた忠興の書いた細川三斎茶書ですら利休事件に関する記述で三成の「み」の字も出ないんだから少なくとも利休事件に関しては三成はシロと見ていいんじゃない?
そもそも三成と利休が対立してた証拠自体が無いし

108: 人間七七四年 2011/11/20(日) 02:45:36.07 ID:UkfHgU6U
はっきりとした原因は不明。
よく言われていることだけど、利休死後に秀吉が利休好みの茶室を建てたり
子の千道安を利休の死後三年で復帰させたり、利休切腹後に堺衆の津田宗及、今井宗久が没落していることから、秀吉との個人的不和や茶道の芸術性云々より利休庇護の秀長が死に豊臣家内の派閥争いの結果というのが自然だと思う。

124: 人間七七四年 2013/09/10(火) 23:17:24.75 ID:iyITSLJk
弟子の無残な死ではじけちゃった( 秀吉ゆるせねぇ もしくは 宗二私もすぐ行くからな) だけじゃない ?
わびの追及ぶりから見ても白黒はっきりした性格だろうし、どうしたって態度にでちゃうでしょ
態度に出さなくても秀吉には気持ちがバレちゃうだろうけど切腹まで言わないだろうし

引用元: ・天下一の茶匠 千利休