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1: 人間七七四年 2007/06/06(水) 00:02:30 ID:K3h7u34p
大内家を守り立てようと頑張った陶尾張守。
もしも毛利右馬頭によって討たれなければ大内家は完全に中国地方、北九州をその掌中に入れ、幕政にも参与していたことだろう。
もっとも、その時の大内家当主が大内義長なのか隆房なのか、それとも大内輝弘なのかはわからないが。

隆房は大内家を乗っ取ろうとしたのかどうか、改めて考えてみようではないか。







陶 晴賢

陶 晴賢 / 陶 隆房(すえ はるかた / すえ たかふさ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。

晴賢と名乗ったのは、天文20年(1551年)に主君・大内義隆を討ち大友晴英(後の大内義長)を当主に据えてから厳島の戦い前に出家するまでの数年間だけであり、それまでは初名の隆房を名乗っていた

天文9年(1540年)、出雲国の尼子晴久が吉田郡山城を攻めたとき、毛利元就の援軍として大内義隆から総大将の権限を与えられ、天文10年(1541年)1月に尼子軍を撃退するという功績を挙げた(第1次吉田郡山城の戦い)。

天文11年(1542年)には逆に尼子領に侵攻するが、この出雲遠征における月山富田城攻め(第一次月山富田城の戦い)には失敗し、大内晴持をはじめとする多数の死傷者を出して大敗した。以後、義隆は軍事面に興味を示さなくなり文化に傾倒、文治派の相良武任の台頭を招く。この事態に武断派の隆房は影響力を失ってゆき、さらに武任を重用する義隆とも不仲になってゆく。

天文14年(1545年)、義隆に実子・大内義尊が生まれたことを契機に、隆房は相良武任を強制的に隠居に追い込み、大内家の主導権を奪還する。天文17年(1548年)に義隆が従二位に叙位されると、従五位上に昇叙された。また義隆の命令で、備後国へ出陣し、毛利元就らとともに神辺城を攻撃している(神辺合戦)。しかし同年、義隆によって相良武任が評定衆として復帰すると、文治派の巻き返しを受けて再び大内家中枢から排除される。このため天文19年(1550年)、内藤興盛らと手を結んで相良武任を暗殺しようとするが、事前に察知されて義隆の詰問を受けることとなり、事実上、大内家での立場を失った。

天文20年(1551年)1月、相良武任は自らも隆房との対立による責任を義隆に追及されることを恐れて、「相良武任申状」を義隆に差し出し、この書状で「陶隆房と内藤興盛が謀反を企てている。さらに対立の責任は杉重矩にある」と讒訴する。これを契機として文治派を擁護する義隆と武断派の隆房の対立は決定的なものとなり、8月10日(9月10日)には身の危険を感じた相良武任が周防から出奔するに至り、両者の仲は破局に至った。

8月28日(9月28日)、隆房は挙兵して山口を攻撃し、9月1日(9月30日)には長門大寧寺において義隆を自害に追い込んだ。さらに義隆の嫡男・義尊も殺害した(義尊については殺さずに新しい当主に擁立するつもりだったともいう説もある)。そして野上房忠に命じて筑前国を攻め、相良武任や杉興連らも殺害したのである。さらに謀反が終わった後には杉重矩も殺害した。義尊の弟で義隆の次男である問田亀鶴丸は、母方の祖父が内藤興盛であることもあり助命している。





14: 人間七七四年 2007/06/08(金) 22:32:01 ID:xlht08ZN
陶晴賢って名前超かっこいい。
てかこのスレタイも一般に名の通ってる晴賢のほうがよかったのでは?

19: 人間七七四年 2007/06/13(水) 12:17:08 ID:G1mCwpJs
>>1
尾張守が「終わり」に通じて縁起が悪いな。

28: 人間七七四年 2008/02/13(水) 14:07:56 ID:7/VnFOK3
>>19
陶=末だから、最高に縁起が悪い。

26: 人間七七四年 2007/11/19(月) 10:39:58 ID:aTegSNxi
隆房の「隆」は、大内義隆の偏諱。
晴賢の「晴」は、大内晴英の偏諱。

謀反後は主の下の字じゃなくて、上の字(しかも将軍家由来)を貰ってるとは生意気だなw

22: 人間七七四年 2007/10/09(火) 00:02:39 ID:0frBxFbw
北九州は掌中に出来ないよ。
大内義長を養子に迎え入れる条件として、大友側に譲渡してしまったからね。
代わりに瀬戸内海交通の利権を直接支配しようとしたんじゃない。
あと、陶晴賢と相良武任の対立は、相良の政策が、大内氏当主に権力を集中するものだったからという説があるみたいだな。

25: 人間七七四年 2007/11/19(月) 10:08:33 ID:eE2slCiK
陶だけじゃなく内藤・杉・弘中まで謀反したのは痛すぎたな

31: 人間七七四年 2008/04/18(金) 04:50:46 ID:V9/iKiKy
陶晴賢は宗像家に内紛の原因を持ち込み本家派、山口派と一門と家臣団を分裂させ結果宗像一門の男子は絶え宗像氏断絶させた
ちょっかい出したのなら宗像氏の家督争い最後まで面倒見ればいいのに途中で戦死しやがって
宗像 氏貞

宗像 氏貞(むなかた うじさだ)は、戦国時代の大名。宗像大社第79代大宮司。

天文14年(1545年)、筑前国の宗像大社第78代大宮司・宗像正氏の庶子として生まれる。

父・正氏は大内氏に属し天文16年(1547年)に死去すると、その家督は父の猶子・宗像氏男が継ぐことになった。ところが天文20年(1551年)、陶晴賢の謀反により大内義隆が討たれた大寧寺の変において、氏男は義隆を守り奮戦するが討死した。

そのため、宗像氏内部で家督争いが起こる。鍋寿丸の相続を支持する一派が白山城に、宗像千代松(氏男の弟)を支持する一派が蔦ヶ岳城に立て籠もって、家督を巡って争ったのである。しかし陶晴賢は鍋寿丸の家督相続を支持したため、鍋寿丸がこの争いに勝利して、1551年9月12日、鍋寿丸は宗像に入り、翌年宗像大宮司に補任され、宗像総領を継いだ。1552年、山田事件が起き、宗像氏男の父である宗像氏続は英彦山に逃亡するも、その年の暮れに土橋氏康によって殺害された。氏貞は山口派の領主として活動し、吉見正頼が打倒陶の兵を挙げた1554年の石見三本松城にも参加している。

また、1555年の厳島の戦いで陶晴賢は自刃するが、この戦いに宗像勢も参加したという説があるが実際は不明。小早川隆景は宗像を騙り、厳島の陶軍の陣に兵を紛れ込ませたともいわれている(宗像氏の有した水軍衆は諸国に知れ渡っていたため)。


36: 人間七七四年 2008/06/15(日) 10:49:12 ID:Pg57t0XR
この時代どこにでもある、戦国初期の守護代の行動なんだけどな。主君を打ち滅ぼすなんて。

37: 人間七七四年 2008/06/15(日) 13:09:28 ID:QJbgrGJ1
>この時代どこにでもある、戦国初期の守護代の行動なんだけどな。主君を打ち滅ぼすなんて。

でも自分も滅んじゃったらな
下克上は出来ても家を存続させる事が如何に難しい事か

40: 人間七七四年 2008/06/18(水) 17:17:15 ID:Aggs1DPf
キーパーソンの相良武任って結局のところどうなの?
相良 武任

相良 武任(さがら たけとう)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。

明応7年(1498年)、相良正任の子として生まれる。相良氏の本姓は藤原氏。家系は藤原南家のひとつで、肥後の国人・相良氏の一門であるとされている。正任は、室町時代の相良氏の家督争いにおいて下相良氏の相良長続に敗れた上相良氏の相良頼観の子である「鬼太郎」のことではないかという説がある。
天文10年(1541年)、陶隆房(後の陶晴賢)が出雲遠征を提言したことに対して反対し、これを契機に隆房と対立する。そして出雲遠征(月山富田城の戦い)が失敗に終わると大内家で主導的立場に立つこととなり、義隆の信任を受けて文治派を形成し、武断派の陶隆房・内藤興盛らと対立する。


41: 人間七七四年 2008/06/19(木) 10:30:31 ID:uSgiFN/H
>>40
出自もよく分かってない人だね。
肥後の相良氏の一族だったりするんだろうか?

43: 人間七七四年 2008/06/20(金) 01:31:07 ID:RY65kJy1
>>41
父親の相良正任は相良の内訌で滅んだ上相良氏の遺子って伝承。根拠があるかは知らん。

44: 人間七七四年 2008/06/20(金) 01:56:19 ID:yPXNICM9
正任は最初は隆房の祖父に仕えてたみたいだね
面白いはずなかろうて

45: 人間七七四年 2008/06/20(金) 02:16:08 ID:9BvFxUZQ
>隆房の祖父

陶弘護さまか


47: 人間七七四年 2008/06/21(土) 14:17:41 ID:Tq3rJuwL
祖父が陶氏の子孫を自称してるんだが
陶氏は滅んだんだよな?

48: 人間七七四年 2008/06/21(土) 14:21:55 ID:umLd/UVg
>>47
大族だから滅んでないよ

49: 人間七七四年 2008/06/21(土) 17:44:15 ID:3gPiSN7v
普通に毛利の家臣になってたりするな。
でまかせで子孫を名乗ってメリットのあるような一族じゃないし、案外本当かも知れんよ

51: 人間七七四年 2008/06/21(土) 18:32:47 ID:BlV6jlw3
自称レベルでは晴賢とか長房の落胤はけっこういるんじゃなかったっけ

62: 人間七七四年 2008/06/28(土) 13:00:52 ID:cjuo1fS6
陶家の大内家中での地位は、どんなものだったのか。
大内家に次ぐ家格だったの?

63: 人間七七四年 2008/06/28(土) 18:35:31 ID:vA83d6jo
>>62
陶家は山口がある周防国の守護代
大内の分家に当たる
大内家当主から大軍を与えられ、指揮することも多かった

64: 人間七七四年 2008/06/29(日) 21:46:48 ID:Tg8erJJX
陶が毛利に敗れなかったら、いずれ大内家を乗っ取っていたんだろうか?

65: 人間七七四年 2008/06/29(日) 21:52:28 ID:KNZvB1x3
>>64
まあ、軍の指揮権はほぼ掌握していたから、実質のっとってたようなものではあるがな。

66: 人間七七四年 2008/06/30(月) 18:38:25 ID:PMimYyNf
>>64
大友からつれてきた当主をその後どうするつもりだったのかは興味がある。
傀儡当主と実権者の関係を代々続けるとも考えにくいが、正常化後に大内の一家臣に戻る、というのも信じがたい。

長房あたりを大内義長の養子に捻じ込むつもりだったのかな?

67: 人間七七四年 2008/06/30(月) 19:06:36 ID:sxz05gKM
大友家との関係を考えると、義長を粗末にはできんだろ。

68: 人間七七四年 2008/06/30(月) 19:14:09 ID:yk0qKf5P
越後の長尾氏における上杉氏のように棚上げする感じかな?

69: 人間七七四年 2008/07/02(水) 01:02:49 ID:SdFXpHSL
一応、「偽大内を討つ」という大義名分の下、毛利は動いていたわけだから、戦後の処理がややこしいことになるな。

72: 人間七七四年 2008/09/30(火) 13:17:44 ID:1ZEOGcPm
厳島の戦いで勝ってたらどうなってたの
そのまま毛利領呑み込んで尼子攻め?

73: 人間七七四年 2008/10/03(金) 23:05:25 ID:pFcz+0GQ
>>72
勝ち方にもよる

74: 人間七七四年 2008/10/05(日) 01:52:44 ID:Ja1aPa/r
勝ち方っても毛利方は勝負掛けてるし、普通に考えたら元就、隆元、元春、隆景は全員討ち死にかな
特に隆景は史実でもちょっとやばい場面なかったっけ?

75: 人間七七四年 2008/10/05(日) 12:30:56 ID:Joj86gKf
厳島合戦はあくまで安芸の国人一揆の中心的存在だった毛利家を打倒もしくは屈服させるのが目的
当時の毛利は大内家の指示(と言っても陶の指示なのだが)で備後平定をタダ働きさせられ、それを不満にもった安芸国衆に担がれ大内家と敵対断絶

石見の吉見家をようやく屈服させた陶隆房(この時は既に晴隆だっけ?)は安芸衆が敵対化する事で、出雲の尼子の南下、石見銀山や本領の周防が脅かされるのを防ぐ為、毛利討伐の為に出陣

なので、どんな圧勝したとしても、そのまま尼子攻めはないよ
毛利滅ぼしたなら安芸の支配体系の確立、毛利を屈服させたのなら、直参を何名か安芸に置く、そんな処理して大内領と国政の安定化を図るでしょ

82: 人間七七四年 2008/12/08(月) 13:11:48 ID:X315X3Z8
〇晴賢
×晴隆

85: 人間七七四年 2008/12/09(火) 05:37:50 ID:IUHjWtxD
隆房が晴英から一字もらったら普通は晴房だよね。なんで晴賢?
確かに過去には陶弘賢とか陶房賢とかいるみたいなんだけど、なぜあえてそれ?
95: 人間七七四年 2008/12/12(金) 12:37:50 ID:xkgLK7mI
>>85
陶家の初代、弘賢にならったと聞いたよ。

86: たられば君 2008/12/09(火) 09:36:23 ID:8yzJtnt9
>>85
> 隆房が晴英から一字もらったら普通は晴房だよね。なんで晴賢?

あなたの考えがなぜそうなるかはわからないけど、晴英から一文字もらうなら英房(ふさふさ)になってしまうから下の字も変えたんでしょ。

87: 人間七七四年 2008/12/09(火) 11:02:06 ID:sI6p2GvW
むしろ陶英賢でいいじゃないの、とは思う。
晴英自体が足利義晴からの偏諱だろうから、晴だと又貸しになっちゃう。

95: 人間七七四年 2008/12/12(金) 12:37:50 ID:xkgLK7mI
晴英というよりは足利義晴からの偏諱という感じなのかなあ…。 →晴賢

大寧寺の変の翌年、晴賢は幕府に使者を送って「謀反は正当なものだった」というお墨付きを貰ったと聞いたことがある。
その際、自分は「晴英」経由で「晴」の字を貰い、晴英(義長)からの偏諱は息子に受けさせて(長房)、それによって将軍家にも主家にも叛意のないことを示そうとしたとか。
足利義晴は既に死んでいたし、晴英は名前を変えることになっていたしで、そこにあまり問題はなかったのではと想像。

90: 人間七七四年 2008/12/10(水) 02:49:06 ID:nPkBF07r
地元では愛されてるみたいだな
若山城跡はなんというかすごかった

91: 人間七七四年 2008/12/10(水) 06:53:44 ID:hTgUHTb5
地元の戦国武将はみんな持ち上げるのが普通
晴賢ほどの知名度ならなおさらだろ

92: 人間七七四年 2008/12/10(水) 07:15:51 ID:zeTBILKr
地元でも宇喜多直家だけはなんとも言えない扱われ方だなw

108: 人間七七四年 2009/01/14(水) 20:26:41 ID:kSFGy/PQ
陶って謀叛後に義隆の首と対面した?

109: 人間七七四年 2009/01/14(水) 22:01:19 ID:EVBerQEk
火つけて燃やしたんだからそれはないんじゃないかな
義尊とか隆豊とか公家連中の首はみたんだろうけど

111: 人間七七四年 2009/02/08(日) 20:38:04 ID:mRkWSg7c
質問です
陶晴賢は次男らしいのですが、ある本やサイトでは兄の名は興昌で戦死、また別の本やサイトでは兄の名は義清で父の興房によって毒殺、というように名前も死因も全く違うのです
ここまで違うと同じ人物とは考えにくいし、かといって晴賢が三男だったという記述も見当たらず、どっちが正しいのか気になっています
----
名前の諱(興→大内義興からの偏諱)を考えたら興昌の方が信憑性があるよね?
まさか将軍家由来の義の字もらえるはずがないし

113: 人間七七四年 2009/02/09(月) 21:32:34 ID:F2D5fox5
>>111
興昌=義清
で正しいと思います。

死因に関しては、父興房によって毒殺というのは、陰徳太平記に載っている話のようです。
大内研究で有名な福尾猛市郎氏の本には安芸で戦死したとあり、こちらの方が信憑性は高いように思われます。

名前については、私の想像なのですが、大内晴持(義隆の最初の養子)が死んだ時、その死を悲しんだ義隆が、将軍家より「義」の字を貰い、義房という名をつけて葬ったと聞いたことがあります。
「義清」という名も同様に、興房が、夭折した息子の供養のために、将軍家由来の諱をつけてあげたということではないでしょうか。

114: 人間七七四年 2009/02/09(月) 22:00:39 ID:Icc7sLRC
>>113
ありがとう、同一人物の可能性が高いのか
いやーでも義隆レベルならともかく
陶家ぐらいの家格で果たして義をもらえるのだろうか

115: 人間七七四年 2009/02/09(月) 22:27:03 ID:un88EcEQ
隆房の兄はなんか賢すぎて将来を心配されて殺されたとか
「義隆は暗愚だ」とか言い放ったから殺されたとか
いろいろあるな
ちなみにこのお兄さんも義隆の寵愛を受けていたとか

116: 人間七七四年 2009/02/10(火) 06:40:29 ID:GJ91mmxp
それも陰徳太平記だな
陰徳太平記の流れは隆房が興房の実子ではなく義清毒殺後、興房の養子になったんだっけ?
正直信憑性薄いよな…
陰徳太平記は毛利マンセーの軍記物語だし、大内方の歴史は大内義隆記の方がまだ参考になるかもな

123: 人間七七四年 2009/02/11(水) 21:07:41 ID:h78LcGWx
陶さんは残ってる逸話やらから考えると味方には優しいけど敵対する者にはどこまでも残酷だなあと思う

128: 人間七七四年 2009/03/30(月) 20:19:13 ID:TEjWh4xi
義隆討った後の動きが何だか怖い
杉を討つ必要はあったのかね

135: 人間七七四年 2009/04/15(水) 20:17:11 ID:GjU3qKYQ
大内や毛利関連の小説を読むと陶は若いころは美童で成長してからは(義隆を討った後からは)デブっていう描写があるんだけど、デブの方のソースって何の本に書いてあるんでしょう
美童のソースは見つけたんだけどデブの方がどうしても見つからない

141: 人間七七四年 2009/04/18(土) 10:32:27 ID:IsGc0NLy
>>135
元ネタは軍記物系かも。
松本清張の「私説・日本合戦譚」(これは随筆)に、晴賢=肥満の話が出て来るんだけど、(「元来、大兵肥満で、二十二、三貫もあるうえに、重い鎧を着ていることだし、長く歩くことができない云々」)文末に、厳島合戦は正確な資料がないので「吉田物語」「陰徳太平記」「芸侯三家誌」などの俗書に拠った、と但し書きしてあるから。
でも、正八幡宮(宇部市の?)所蔵の晴賢像(板に描いてある)は、太ってないのが不思議。
墨がかすれてよくは見えないけど、頬の線などはむしろ少し細め。
板描きで神社に残っているということは、絵馬みたいなものと思われるし、絵馬ならば後世のものとは考えづらいんだけど、どうなのかなあ。
地元の方とか、詳しい人の話が聞きたい。

136: 人間七七四年 2009/04/16(木) 01:06:24 ID:tcW89AhH
太めだったのは隆房の祖父の陶弘護じゃないかな
こっちは雪舟が描いたはっきりした肖像画が残ってるから祖父似ってことにして小説ではデブ設定なのかなあと

137: 人間七七四年 2009/04/16(木) 07:20:41 ID:E6X2Gili
>>136
なるほど、ありがとう
どの小説読んでもガチムチだったりぶよぶよだったりと差はあれど長じた後は一様にピザってるから何か有名なエピソードがあるのかと思った

148: 人間七七四年 2009/05/14(木) 10:28:16 ID:0U7SrU10
陶って名字の由来はどこ?

149: 人間七七四年 2009/05/14(木) 11:12:28 ID:/H+/y9JI
>>148
大内氏に従って山口に来たときに住み着いた地名(陶村)から元々は多々良氏

150: 人間七七四年 2009/05/14(木) 21:24:10 ID:0U7SrU10
>>149
ありがと。
多々良は筑前の地名だと思うけど、一族の出もそっちなのかな?

151: 人間七七四年 2009/05/14(木) 21:30:32 ID:VmXMlgnF
陶のルーツ=大内のルーツだから根っこを辿れば渡来系になるんじゃないのけ

181: 人間七七四年 2009/10/02(金) 20:31:34 ID:Gh36JUCZ
だれか陶晴堅はなんで大内義隆を暗殺して乗っ取ろうとしたのか理由を教えて下さい

182: 人間七七四年 2009/10/02(金) 20:59:11 ID:H4kxu7Xk
>>181
乗っ取ってはいない、つか暗殺じゃねー
形だけでも大内の血を引いた義長を当主に据えている

謀叛人の例に漏れず色んな説があるけど、
・暗愚化した義隆を討って大内家を立て直したい
・政局から遠ざけられて領地没収されそうになったりしてその事に危機感を覚えた

よくあるのはこんな所かね

201: 月孔雀 2010/03/05(金) 09:36:49 ID:blYJ6f2u
山口県民の意見を聞きたい。

203: 人間七七四年 2010/03/06(土) 01:13:13 ID:6kZCc9E4
>>201
山口県民の英雄は維新志士ばかりなので、大内とか陶とかどうでもいいような存在。
毛利は地元の殿様なので少しは別だが。

212: 人間七七四年 2010/06/12(土) 15:05:48 ID:YEHyjD+L
>>201
朝日が若山城から昇るのを毎日見てる者ですが、地元の教育や市政でもあまり注目された存在では無いです。
ぶっちゃけると逆臣だし最後は大敗してるからかも知れませんが?
実際に城の規模などの調査もあまり行われていません。
例えば毛利に勝っていれば英雄扱いになったかもしれませんね。
陶については地元でも詳細をあまり知らない人が多いので毛利を地元の殿様として認知している人が多いです。
防府市には毛利庭園などもありますから(^-^)

私としては毛利氏よりも大内氏の方がすきですね・・・多分山口では少数派でしょう?

地元でもあまり知っている人が少ないのですが昭和初期までは若山城の近くに埋蔵金があると噂があり多くのトレジャーハンター(素人?)が沢山訪れたみたいですが(^-^;

210: 人間七七四年 2010/03/16(火) 07:37:55 ID:u12nS6OY
謀叛人なのに小説なんかでもあまり逆臣っぽく書かれる事がないな

211: 人間七七四年 2010/03/16(火) 10:08:43 ID:pTiGeOCP
まあ、主家の存在自体をつぶそうとしていたわけじゃないし。

それなりの実績があってやや自信過剰気味になってる若手が無為無策の主君に業を煮やして、才覚溢れる自分がカリスマ性を発揮して沈み行く船を立て直そう!と思ったら
逆にトドメさす結果になってしまったでござる、

って流れは、自身と重ね合わせて共感してしまう人が多いんじゃないかな。

214: 人間七七四年 2010/06/12(土) 17:24:28 ID:H+CAAXJN
小倉史によると元就が厳島合戦をする前に小倉城を攻撃したと特記しております。
これは陶の指令に従って小倉を強襲したと想像できます。
陶は当時、北九州で宗像事件などを引き起こしており、元就は義隆殺害の共犯者でした。
ここらへんは毛利史料からは隠蔽されたのか記述はないので存在自体が黙殺されてきました。
しかし小倉市は毛利にも大友にも肩入れせずに中立的に記述してる点で好感が持てます。
厳島合戦を前に元就が陶の指令で渡海し小倉を襲うとなればなかなか興味深い話です。

215: 人間七七四年 2010/06/12(土) 17:37:57 ID:7nJ+4VhW
その頃の小倉城って今のと同じ場所にあったの?

216: 人間七七四年 2010/06/12(土) 18:00:04 ID:H+CAAXJN
すまん、小倉じゃなくて門司城だった・・・すまん

222: 人間七七四年 2010/06/17(木) 18:37:31 ID:VWsieBrQ
若山城行ってみたい

223: 人間七七四年 2010/06/17(木) 18:48:00 ID:nhMrdyrQ
城として残ってんの?

224: 人間七七四年 2010/06/17(木) 20:11:27 ID:t88SCpwe
城としての意味による

225: 人間七七四年 2010/06/17(木) 20:17:53 ID:hfbfl6WS
形が残ってて中を見学できるのかという意味
若山城跡という石碑が立ってるだけとかならつまんねえし

227: 貴方は何色がお好き? 2010/06/20(日) 08:07:18 ID:7uxduqAz
石碑と石垣くらいしかない。
基本的に周南市は史跡にお金かける気がないので放置状態。
空想城フアンの人なら現地で雰囲気が楽しめる。

240: 人間七七四年 2010/07/06(火) 06:28:44 ID:IwBWBHBq
陶隆房が謀反起こす経緯について、よく相良武任の名は挙がるけど、武断派と文治派でもめてたというのなら、他の文治派の人間はどうしてたんだろう?
他の文治派は「陶は武断派だけど、義隆様の贅沢三昧はヤバ過ぎだろ」って陶に同調して、義隆にべったりな相良だけ取り残されたんだろうか?

241: 人間七七四年 2010/07/06(火) 07:07:52 ID:UTs1vOr0
冷泉隆豊がいるじょない
この人は文治派だとか武断派だとかで分けることが出来ない気骨の人だけど

243: 人間七七四年 2010/07/06(火) 21:47:03 ID:vILtIsYI
隆房と武任がはっきりと性格が違うから、武断派・文治派って言われてるけど実際は違うよな。
正直義隆についていってる奴も義隆・武任のやる政治に諸手挙げて賛同していたとは思えない。
隆豊の隆房を討ちとろうなんていう進言は本来なら武断派のやり方だし。

244: 人間七七四年 2010/07/06(火) 22:11:38 ID:BeDRqk1w
隆房・武任のは政策論争じゃなくて単なる対立にしか見えない

245: 人間七七四年 2010/07/08(木) 20:46:56 ID:Qz+bw5Ux
だな。内藤興盛とか弘中隆兼とか、武断派か文治派かってきかれたら真ん中なんじゃねと思うし。

246: 人間七七四年 2010/07/08(木) 22:04:23 ID:axrY2O5u
武任が歩み寄りを見せているのに全く乗らないところを見ると、どうやら隆房は政争関係なしに本気で武任を嫌っていたようだな
もう少し器用だったら違う付き合い方もあっただろうに

247: 人間七七四年 2010/07/08(木) 23:22:25 ID:c1+bXgyW
杉なんかは陶晴賢と元来対立してたくらいだし、武断派VS文治派という構図には必ずしも当てはまらないんじゃないか?
守護代なんかを勤めてきたような連中と、義隆が重用した側近層の対立じゃないかな

255: 人間七七四年 2010/12/29(水) 20:36:05 ID:P4IIy0NW
陶ラーのおいらは陶氏居館跡に旅行中。
もう十回以上も来てるのに、今回、初めてわかったことがひとつ。
陶氏の本宅敷地ってめちゃくちゃ広い!
碑が建ってる小学校跡地って、ほんの一部だったんだ!
陶氏って勢力あったんだなって、改めて実感。

引用元: 【忠臣?】陶隆房を大いに語る会【逆臣?】






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